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2006年12月

2006年12月29日 (金)

福沢諭吉の儒教批判その2

 福沢諭吉が正真正銘の漢学者である父のもとで儒教的規範を身につけ、また自ら漢書を学んで儒教的教養を高めていたことは、「福沢諭吉の儒教批判1」で紹介しました。それが洋学を学ぶにつれて、次第に儒教批判を強め、「今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年の脳中にわだかまってはとても西洋の文明は国にいることはできない」と考えるようになりました。

 「人の私徳のみに名を下したる文字にて、その考えのあるところを察するに、古書に温良恭謙譲といい、無為にして治まるといい、聖人に夢なしといい、君子聖徳の士は愚かなるごとしといい、仁者は山のごとしというなど、すべてこれらの趣をもって本旨となし、結局、外にあらわるる働きよりも内に存するものを徳義と名づくるのみにて、西洋の語にていえば「パッシーブ」とて、われより働くにはあらずして物に対して受身の姿となり、ただ私心を放解するの一事をもって要領となすがごとし。・・・ただ堪忍卑屈の旨を勧むるに過ぎず。」(『文明論の概略』「知徳の弁」)

 こうした諭吉の反儒教主義はその後も折に触れて繰り返され、ほとんど彼の生涯のテーマとなった観があります。しかし、こうした儒教批判の根底にあった彼の独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、必ずしも「洋学」によるものとはいえない。また、「いやしくも卑劣なことは絶対しない」とか「から威張りほど見苦しいものはない」といった道徳(儒教)的規範意識も終生変わることはありませんでした。

 また、学者としての誇りや身分制への憤りは漢学者であった父親からうけついだものであったし、また、仏教の信心深かった母親が、身分の低いものにも平等の愛を注いだことや、また中津藩士としての義理を捨て、学問に精進することを決意したとき、無条件に支持した母の強さについても、福沢は、単なる肉親への愛の表現を超えた敬慕の情を繰り返し強調しています。

 つまり、諭吉の儒教に対する批判はその言説の激しさにもかかわらず、決してトータルなものではなく、いわばその「腐敗したる部分」に対する批判だったのではないかと思われます。そこで、以下、その批判の内容を具体的に見てみたいと思います。そうすることによって、徳川幕藩体制から明治立憲君主制へと移行する時代、「恰も一身にして二生世を経るが如き時代」における彼の精神の置きどころが見えてくるのではないかと思います。

1 門閥制度は親の敵(かたき)

 諭吉は19歳で長崎に遊学するまで大分の中津に育ちました。そこは「封建制度でチャンと物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年たってもちょいとも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間にはさまっているものも同様、何年たってもちょいとも変化というものがない。」

 そんな牢固たる門閥制度の中で「父の生涯、45年間のその間、封建制度に束縛されてなにごともできず、むなしく不平をのんで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(諭吉)の行く末をはかり、これを坊主にしても名をなさしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ(当時魚屋の息子が大僧正になったというような話がいくらもあったらしい)、その愛情の深さ、私はこのことを思い出し、封建の門閥制度を憤るとともに、亡父の心事を察してひとり泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵でござる」

 したがって、幕末に至って日本の政府が東西2派、勤王派と佐幕派に分かれ争っているときの彼の基本的態度は次のようなものでした。「第一、私は幕府の門閥圧制鎖国主義がごくごくきらいでこれに力を尽くす気はない。第二、さればとてかの勤王家という一類を見れば幕府よりなおいっそうはなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。」というわけで、慶応33年(1867)大政奉還、翌鳥羽伏見の戦いから江戸城明渡しという時節には、官軍、賊軍どちらに向かっても中立的態度を保持しました。

 それというのも、諭吉は19歳で長崎で蘭学を学びはじめ、20歳で大阪の緒方洪庵の適塾に入門22歳でその塾長となり生理学、医学、物理学、化学などの原書を読み、種々の実験を試み、24歳で蘭学から英学に転向、25歳で咸臨丸に乗って渡米、26歳で遣欧使節翻訳方として渡欧し、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルを経て1862年12月に帰朝、32歳(1867)で再び幕府の軍艦受け取り随員として渡米し東部諸州を回り6月帰朝するといったような体験によって西洋事情に通じていましたから、攘夷論が無謀であることを知り抜いていたのです。

 そういうわけで、徳川幕藩体制下の門閥制度の「圧制空威張り」を憎むと同時に、勤王佐幕派を通じたその攘夷主義に対しても批判的で、特に勤王家の攘夷論についても「こんな不文不明な乱暴者に国を渡せば亡国は眼前に見える、情けないことだという考えが、しじゅう胸にしみこんで」いました。結局、その生来の独立心から「維新前後にもひとり別物になっていたことと、自分で自分のことを推察しています」と述懐しています。

2 数理学と独立心の欠如

 ところが、こんなわけで「今度の明治政府は古風一点張りの攘夷政府と思いこんでいた」ところが、「のちに至ってその政府がだんだん文明開化の道に進んで、今日に及んだというのは実にありがたいめでたい次第であるが」、それが「私には初めから測量でき」なかっために、「身は政府に近づかずに、ただ日本にいてなにか努めてみようと安心決定」していたといっています。

 そこで、このように新政府が文明開化の道に進んでくれるならばありがたいというわけで、諭吉としては「畢竟この私がこの日本に洋学を盛んにして、どうでもして西洋流の文明強国にしたいという熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも東道の主人となり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでもいうような役を勤め」ることにしました。

 そのときの「私の教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ割り出して行きたい。また一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重いやしくも卑劣なことはできない。不品行なことはできない。不仁不義不忠不幸ソンナあさましいことは、だれに頼まれても何事に切迫してもできないと、一身を高等至極にし、いわゆる独立の点に安心するようにしたいものだと、まず土台を定め」ました。

 「ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である。」これなしには「さしむき国を開いて西洋諸強国と肩を並べることはできそうにもない。」というわけで、その私塾においては、数理学と一方においては独立主義を教育方針としたといっています。(以上『福翁自伝』より)

2006年12月19日 (火)

韓国の教育基本法

 私は、教育基本法の基本的性格は、市川昭午先生も言われるように、「理念法」ではなく「施策法」とすべきだと思います。つまり、国民教育に国家が関与する場合の基本原則を定めるものであって、教育理念を高らかに謳いあげるものではない、地味なもので良いと思うのです。

 その点、韓国の教育基本法は、その第1条において次のように規定しています。
第1条 (目的)この法律は,教育に関する国民の権利・義務と国家及び地方自治団体の責任を定め,教育制度及びその運営に関する基本的事項を規定することを目的とする。

 つまり、あれだけ、儒教的道徳規範意識の強い国において、それを教育基本法に明記する必要を感じていないということです。このことに注目すべきです。つまり、その必要がないほど規範意識が国民一般に根付いているということで、逆に言えば、日本の場合は、脱宗教意識が徹底しすぎていて、無規範状態に陥りつつあるということかもしれません。

 しかし、だからといってこれを、法律で決めて、守らなければ罰するぞということで外面的な強制力でもって教え込むことができるでしょうか。また、その弊害はないでしょうか。

 実は、日本人は江戸時代にも似たようなことをやりました。それは、キリシタン弾圧の一方策として徳川幕府は日本人を強制的に仏教信者にし、戸籍登録という形で寺の檀家制度に組み入れたこと、「いわば宗教が政治の下請けをするという関係が生じたのである。太田錦城は(明和2年・1765年生まれ)は、『梧窓漫筆拾遺』という本の中でこの関係を次のように記している。
 天主教は破られて、宗門、宗旨ということ定められてより、仏法盤石の固めをなせり。僧というもの、検死の役人になりたり。・・・・能々考うれば、僧徒には大功ありて真の仏法には大害あり。是よりして、僧徒は無学にても、不徳にても、事すむことになりたれば、これ僧徒には大利ありて、破戒不如法の僧のみ多くして、仏理を弁じ、仏心を得るもの、掃地にして絶え、今時の甚だしきに至れば、仏法は滅却したりとも言うべし。是仏法には大害なり・・・。」(『受容と排除の軌跡』山本七平p149)

 この事態が今日に及んでいることに慄然とするのは私だけでしょうか。

 ところで、私は年来、我が国の教育改革の基本的視点として、「教育をする側と受ける側の権利義務関係を明確にすべき」と主張してきました。というのは、義務教育といえども、児童・生徒、保護者に権利だけがあるのではなく義務もあるのだということを、明確する必要があるのではないかということです。

 この点、韓国の教育基本法は、「施策法」としての性格が明確であると同時に、教育を受ける側(学習者)の義務も次のように明記しています。

第12条 (学習者)学生を含んだ学習者の基本的人権は,学校教育又は社会教育の過程で尊重され,保護される。
 教育内容・教育方法・教材及び教育施設は,学習者の人格を尊重して,個性を重視するとともに,学習者の能力が最大限に発揮されるように講じられなければならない。
 学生は,学校の規則を遵守しなければならず,教員の教育・研究活動を妨害したり,学内の秩序を乱してはならない。
   
第13条 (保護者)父母等の保護者は,その保護する子女又は児童が正しい心を持ち,健康に成長するよう教育する権利と責任を持つ。
 父母等保護者は,その保護する子女又は児童の教育に関して学校に意見を提示することができ,学校はこれを尊重しなければならない。
 
 なんか、俳優だけでなく、教育基本法も韓国に負けそうですね。

2006年12月18日 (月)

教育基本法改正、文科省のねらい

 極東ブログが「教育基本法改正雑感」のエントリーで、この改正の真のねらいがどこにあるのか問題提起しています。そこで、私なりのコメントをしておきましたので、本ブログの記事と併せて参考に供しておきます。http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_2574.html

 文科省は、教育基本法改正によって、全国知事会が要求した教育の分権化(つまり教育行政を知事のもとにおくこと)をブロックしたということです。つまり、「教育は、・・・この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」(教育条件だけでなく教育内容も含めて法律で規定し、その法律は文科省がつくる)とするとともに、「教育に関する施策を総合的に策定し、実施」する権限を確保する。これで、その財政保証措置である国庫負担制度を維持できる、というわけです。

 第2条の教育目標に定められた教育理念は、ほとんど実定法としての内容をもっていないのでどうにでもなる。従って、近年強力な主導性を発揮している政府権力とこの面では妥協し、その「治教一致」的傾向を逆に利用して、文科省の教育行政の総合的施策官庁としての地方に対する主導性を確立した、ということだと思います。

 また、これによって教育委員会制度がどうなるか、ということですが、これは独立行政委員会としての性格から首長の権限を強化する方向に向かわざるをえない。(このとき教育委員会制度の基本理念である「教育の住民統制」は、学校選択制に見るような「市場統制」にシフトしていく)。もちろん義務制の場合は都道府県ではなくて合併後の広域自治体の首長にです。といっても、学校経営のノウハウも金も市町村にはないですから、これを文科省が総合的政策官庁として専門的にあるいは財政的に支えていくという体制になる。従って、現行「地方教育行政法」はこの方向での改正を余儀なくされると思います。

 旧左翼がどうして反対するか。いうまでもなくそれは都道府県単位に組織化された組合組織の解体につながるからです。同時に県教委や校長会を含めた教員閥組織の解体にもつながる恐れがあります。今後の議論の中心は、以上の利害関係をベースに公教育の公共性・共同性を主張する立場と市場統制主義をとる立場のせめぎ合いになると思います。

 改正教育基本法がこの時どんな役割を演ずるか、これが政治との妥協の産物(それもかなり政略的な)であるだけに、しばらくは教育が政治に翻弄される季節が続くのではないでしょうか。改正教育基本法が教育界にとってその傷痕を印す墓標とならなければよろしいですが。

2006年12月14日 (木)

教育基本法改正は時代に逆行する

 新聞報道によると、「教育基本法改正案は14日午後、参院特別委員会で自民、公明の与党の賛成多数で可決される見込み」という。自民党内には「民主党案」の良い部分を容れ修正に応じるべきとする意見もあるそうだが、いずれにしろ、会期内成立をめざす方針には変わりはない。

 私は、このブログのエントリーを「教育基本法改正の疑問」から始め、前回のエントリーでは「福沢諭吉の儒教批判1」として、明治がなぜ、それまでの伝統的教育法をバッサリと切り捨てたかということを、福沢諭吉の論に見ようとした。なぜかというと、今回の教育基本法改正でもっとも注目を集めている、改正法案第2条の「我が国の伝統文化を尊重し」の、その「伝統文化」の意味内容を歴史的に把握しておく必要があると思ったからである。

 だが、本法案成立も間近いようなので、この機会に、私自身の体験もふまえて、改正教育基本法についての私の考えを述べておきたい。

 まず第一に、今回の教育基本法改正法案の内容は、やはり時代に逆行するものではないか、ということである。端的に言って、それは前内閣が推し進めてきた教育改革の基本理念である「教育における地方分権」に逆行し、政治権力による教育内容を含めた中央集権統制に陥る恐れがあるということである。

 というのは、現行教育基本法は「教育理念法」としての性格と「教育行政施策法」としての性格が入り交じったものであるが、前文および第1条(教育の目的)に述べられた「教育理念」は、全体主義に陥った戦前の教育に対する反省から、教育の目的を特に「個人の人格の完成」においた「歴史的文書」と見るべきであり、第2条(教育の方針)以下の条文は、教育行政の基本政策を述べたものであって、その基本的性格は「教育行政施策法」というべきものである。

 これに対して、今回の改正法案は、こうした現行教育基本法の基本的性格を改め、「教育の目的・理念及び具体的な教育目標」を直接法律に定める「教育理念法」としての性格を明確にしている。 それは、第2条に「教育は・・・次の目標を達成するよう行われるものとする」として20項目を超える教育目標を明示した上で、第16条において、「教育は・・・この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」と規定していることで明らかである。

 つまり、教育条件だけでなく教育内容も含めてすべて政府が権限と責任をもつといっているのである。2007年1月号の『文藝春秋』で吉本隆明が、いじめ自殺予告を「文部大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ」(「いじめ自殺あえて親に問う」)といっているが、その通りであって、責任を取れるというのがお門違いなら、権限があるというのは傲慢という他はない。

 つまり、現政府は、江戸時代以来の日本の教育的伝統である「治教一致」=「徳治主義」的伝統の克服という視点を見失っているのである。「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」といいながら、その「伝統」がなにかということもわからず、従って、それを創造的に発展させるにはどうしたらいいか、ということも考えられないのである。

 今回の教育基本法改正論議の中で「愛国心」ということが話題になっているが、自分の生まれた国を愛するということは、自分自身を愛することと同様当然のことである。しかし、政治家が教育に関心を持つことは当然であるとしても、「民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にはタッチしない」というのが原則であり、その原則をふまえて、伝統の創造的発展ということを考えるべきなのである。

 そして、そのためには、従来の文科省による過度の中央集権的教育行政制度は改め、地方自治体の教育行政上の権限を拡大し、学校経営の自主性・自律性を確立してその主体的な改善努力を待つことが、どうしても必要である。地方自治行政においては、教育行政ほど「おもしろくない」行政はないとされてきたが、それは、なにもかも法律で決まっていて裁量の余地がほとんどなかったからである。

 これを地方自治体・教師・親・地域住民が共同して創りあげる生き生きとした仕事にしていかなければならないのである。それが教育改革の正しい方向であって、現場の教育関係者をさらにロボット化するような法律や政策がうまくいくはずがない。名ばかりの地方分権ではなく、名実そろった学校経営主体をどう確立していくか、それが今日の教育改革で問われていることことなのである。(本ブログ[私の教育再建策]参照)

 

2006年12月13日 (水)

福沢諭吉の儒教批判その1

 福沢諭吉の父は漢学者で、伊藤東涯(伊藤仁斎の子)に私淑し「誠心誠意屋漏に愧じず」(人の見ていないところでも自ら身を戒め恥じることのないようにすること)ということを心がける真実正銘の儒者であった。だから、子供たち(諭吉は5人兄弟の末子)を育てるのも全く儒教主義により、そのため世間一般の風俗からは浮いていたが、母子むつまじく兄弟喧嘩などただの一度もしたことがなく、かりそめにも俗なことには心を動かされないという家風の中で育った。

 ただ、漢学の勉強を始めたのは人より遅く14,5歳になってからで、白石という先生についてその後4,5年漢書を学んだ。しかし、天稟、文才もあったらしく、論語、孟子よりはじめ、詩経、書経、左伝、戦国策、老子、荘子、史記、前後漢書、晋書、五代史、元明史略と読み進み、特に左伝は15巻全部を通読およそ11たび読み返しておもしろいところは暗記していたという。

 ある時、何かの漢書に「喜怒色を顕さず」という一句を読んで「これはドウモ金言だ」とはっと悟るものがあり、その後この教えを守って、誰がなんといって賞めてくれても心中は決して喜ばない。またなんと軽蔑されても決して怒らない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたことはただの一度もない。少年の時分から老年の今日に至るまで、怒りに乗じて人の体に触れたことはない、というほど儒教的修養ができていた。

 また、諭吉の母も、社会的地位で人を差別するということはなく、出入りの百姓・町人はむろん乞食でもなんでもさっさと近づけて、軽蔑もしなければいやがりもせず、言葉など至極ていねいだったという。乞食が来ると表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせ、自分は襷がけに身構えをしてシラミ取りをはじめて、諭吉はそれに呼び出され、ひろうように取れるシラミを台石の上に置いて石でつぶしたという。

 また、諭吉は父に対しても愛情深く、封建の門閥制度の中で十分その才能を生かし切れず不遇のうちに一生を終えた父、そうした門閥制度のしがらみからわが子を解放するために諭吉を坊主にしても名をなさしめんと決心した父の心中を思い「私のために門閥制度は親の敵(かたき)でござる」とまでいっている。

 その後、19歳の時、長崎に遊学しオランダ語を学び、20歳で兄の住む大阪に出て緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。生来の酒好きで随分いたずらもしたというが、塾での勉強ぶりはまことにすさまじい。

 「何時でもかまわぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、しきりに書を読んでいる。読書にくたびれ眠くなれば、机の上に突っ伏して寝るか、あるいは床の間の床縁を枕にして寝るか、ついぞ本当に布団を敷いて夜具をかけて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。」といった具合。

 この緒方塾での勉強の内容だが、オランダ舶来の物理書と医書の原書を写す、それをゾーフという写本の字引を引きながら会読したり、先生の講義を聴いたりする。また、原書を頼りに化学の実験をしたり、電気の実験などに魂を奪われ、また医学の知識も身につけたことから、漢方医学の無学無術を罵倒するようになったという。

 しかし、「空威張りほど見苦しいものはない」という徳は身に付いており、「人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を多に移して他人をはずかしめるということはドウしてもできない。できないどころではない、その反対に私は下の方に向かって大変ていねいにしていました」「また、藩にいて功名心というものはさらにない。」「眼中人もなければ藩もなし、さればとて藩の邪魔をしようとも思わない」といった具合で「安心決定」(一種悟りのような心構え)していた。

 その諭吉が、明治元年に慶應義塾を起こしてから後、次第に儒教主義を批判するようになる。「今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年の脳中にわだかまってはとても西洋の文明は国にいることはできないと、あくまで信じて疑わず・・・日本国中の漢学者はみんな来い、おれが一人で相手になってやろうというような決心であった。」(以上『福翁自伝』より)この間の事情をもう少し詳しく見ておく必要がある。

2006年12月 4日 (月)

日本の伝統的教育法とは

(本稿の論旨を明確にするため、H19.1.21に本稿下半分の記述を大幅に削除・修正・加筆しました。ご了解ください。)

 「民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にはタッチしないのが原則である。」といった。それが民主制における思想、信仰の自由ということなのである。つまり、制度としては、各人が内心でどのような規範を持っていようと一切関知しない。ただ、それが、外面的行為として現れたとき初めて、それが法律に違反していないかどうか判断する。それが民主制という制度の基本的な特徴である。

 ところが、このことが私たち日本人には十分解っているとは言えない。というのは、日本人は戦後デモクラシーという言葉を民主主義と訳した。しかし、デモクラシーのクラシーという言葉は、アリストクラシー(貴族制)とかセオクラシー(神政制)というようようにあくまで制度を意味する言葉であって主義ではない、従って、「民主制」と訳すのが正しいのではないかと山本七平はいっている。(『宗教について』所収「日本の伝統と教育」p124)

 つまり、日本人はデモクラシーを民主主義と訳したために、これを制度と考えずに、主義=イズム、つまり、思想あるいは教えと理解した。(マルクシズムはマルクス主義、ブディズムは仏教)そのため、戦後教育においては、民主主義という思想を子供たちに教えられると考えた。教育基本法もその前文で、民主的で文化的な国家の建設は「根本において教育の力に待つべきものである」としているではないかと・・・。

 しかし、実際は、デモクラシーという言葉は、あくまで政治制度のことであって、その属性は、法治主義(権力行使は法律で規定している範囲内でしかできない)、法の下の平等(人種、信条、性別、社会的身分、門地などで差別されない)、基本的人権の保障、多数決原理などである。つまり、国家における政治的意志決定の手続きや社会生活における基本的ルールを定めるだけであって、個人の思想・信条はあくまで個人の自由とするのである。

 しかし、社会の秩序は法律による外面的規制だけでは維持できない。ということは、この民主制という政治制度は、個人の側に自分自身をコントロールする力=内面的規範があることを前提にしているのある。従って、もし何もありませんという人間が出てくると大変困ったことになる。そこで、この個人の内面的規範を子供たちにどう教えるかということが民主制にとっては極めて重要な課題になってくる。

 では、このような個人の内面的規範はどのように教えられるか。実はここに、その民族の歴史や文化伝統との関わりが出てくるのである。日本の場合は、前エントリーで述べたように中国文化の圧倒的影響を受けて自国文化を形成してきたために、その内的規範は教育勅語の中段に書かれたような儒教道徳が基本となった。戦後はこれを封建的と否定し民主主義を教えようとしたが、前述した通り、これはあくまで政治制度であって道徳規範を教えるものではないから、前者に取って代わることはできない。従って無道徳=無規範に陥らざるを得ない。

 つまり、戦後教育の問題点は、このように民主主義を政治制度としてではなく思想と理解したために、教育勅語に見られるような「治教一致」の伝統の克服ということに向かわず、教育勅語中段に述べられたような道徳規範を、民主的政治規範(多数決原理や諸自由など)でもって置き換えることができると考えたところにあったのである。しかし、こうした政治規範で内面的規範教育=道徳教育ができるわけがない。また、こうした内面的規範を人々が共有できなければ、お互いの間に信頼関係は生まれない。

 「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業に習い、以て知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」。これは教育勅語中段に述べられた道徳規範であるが、これ自体は決しておかしなものではない。末尾の「義勇公に奉じ」という徳目は、少し前ならやり玉に挙げられたであろうが、最近では「一旦緩急あれば」という事態も生じているからあえて問題にする人も少ないだろう。

 では、この教育勅語の真の問題点は何かというと、それは、明治新政府は政治制度としては立憲君主制を導入しながら、道徳規範教育は教育勅語に拠ろうとしたことにあるのである。というのは、この教育勅語の前段には、「万世一系」の天皇を首長とする宗族的・家族主義的国家観が述べられ、その体制を支える道徳規範として中段の道徳規範が位置づけられていたために、結果的に、明治新政府が採用した立憲君主制とこの教育勅語にもとづく家族主義的国家観とが矛盾対立することになったのである。

 結局、この家族主義的国家観に基づく「天皇親政」のイメージが、立憲君主制に基づく制限君主のイメージを駆逐することとなって、昭和の超国家主義が生み出されることになった。さらに、それが拡張されて大アジア主義を生み侵略の口実とされた。そして、こうした昭和の悲劇の思想的原因のその一端を担ったものが、実は、教育勅語に見られたような政治権力と道徳教育の癒着という問題、つまり、徳川幕藩体制下の「治教一致」の政治的・教育的伝統にあるのではないか、ということなのである。

 このことは、戦後の教育基本法にもいえることであって、この教育勅語の伝統を引き継ぐ形で、教育理念が教育基本法に明記された。もちろん教育基本法は日本国憲法下に置かれているもので、その民主的政治制度に影響を与えるものではないが、道徳教育問題としては、依然として、先に述べた我が国の「治教一致」の政治的・教育的伝統を受け継ぐものだといえる。そして今回の教育基本法改正は、この伝統を克服するというよりむしろ、これを強化する方向に向かっているのである。

 実は、こうした問題を最初に自覚しその克服に身命を賭した人物が、福沢諭吉であった。彼は、徳川幕藩体制下の封建社会から西欧近代社会へと体制転換をはかる明治期において、それまでの支配的体制イデオロギーであった儒教の批判を通して、独立自尊の個人主義原理にもとづく社会体制のあり方や新しい時代の道徳教育のあり方を説いた。しかし、その論説は社会的無規範をもたらすものとして厳しい批判も受けたという。そこで、以下、福沢諭吉の思想を確かめることにしたい。

2006年12月 2日 (土)

「治教一致」という日本の伝統

 前回述べたように、明治の天皇を中心とする一元的国家体制は、忠孝一本という宗族的・家族主義的国家観に立つことによって、「治教(政治と道徳教育)一致」の国家体制を構築することに成功した。こうして、全日本人が平等に遵守すべき道徳的基準(=教育勅語)が、宗家の家長たる天皇=政治的最高権力者より示されるということに誰も疑問を感じなくなってしまった。

 このため、教育勅語以降の日本人には、「教育が、二国もしくは数国を共通する同一の聖典下にあるという状態は、理解できない状態になってしまった。通常、一つの文化圏は、その文化圏に共通する教育の原理をもち、従ってそれに育てられた者は、共通でないまでも相互に理解可能な道徳的規範及び価値を持ちうる。だが、教育勅語とか一国の基本法とかを教育が依拠すべき基盤とするなら、その民族は一種の自閉症とならざるを得なくなるであろう。」(「『教育勅語』と日本人」イザヤ・ベンダサン『諸君』1975-4)

  ただ、この教育勅語の中段に述べられた道徳律は決しておかしなものではなく、今日の世情を考えれば、こうした伝統的規範を喪失したことがその混乱の原因と考えるひとが出てきても不思議ではない。それは次のようにいっている。「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業に習い、以て知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ・・・」

 したがって、「たとえばこの日本文を消して英文だけにし、文体を少し変え、最初の部分(爾臣民)を「わが同志よ」とでもかえて、毛沢東(でもだれでもよい、そういった人物)の訓示の英訳だと称して何かの雑誌に掲載し、その雑誌が日本の新聞社の手に入って和訳されたとしたら・・・教育の原則として早速にこれを採用する進歩的人士も現れることであろう。」(上掲論文)

 つまり、問題は、その内容にあるのではなく、たとえそこで述べられた理念や徳性が普遍的と思われるものであっても、それが一国の政治的最高権力者が発する勅令や法律に規定されるということになると、それは自己を律する内面的規範ではなくなってしまう、ということなのである。教育勅語自体は法令ではなく「単なる天皇の個人的著作物」のような扱いだったが、それでも、礼拝・奉読が強制されその独善的な国体観念が押しつけられることになった。

 この問題点が象徴的に現れたのが、実は、美濃部達吉の「天皇機関説」問題である。この問題は、基本的には、明治憲法下における天皇の位置づけ方について、それを教育勅語に述べられた宗族的・家族的国家観(=国体観念)に基づくものか、それとも西欧の立憲君主制(=制限君主制)に基づくものかをめぐって争われたものである。結果的には、学界の通説は機関説であったにもかかわらず、前者が後者を圧倒することとなった。

 この時、美濃部達吉は、政治制度(=機関)としての天皇の位置づけ方については、立憲君主制にもとづく明治憲法のもとでは一つの機関(=制度)と見るべしとして揺るがなかった。しかし、教育の基準を示す教育勅語を発布した天皇の位置づけ方については、機関説問題で検察の尋問を受けていたときの応答において、次のような狼狽を見せ自説の訂正をしたとされる。(『天皇と東大』下2005.12立花隆P171)

 美濃部達吉の天皇機関説によると、全て天皇の行為は輔弼者の助言によって行い輔弼者がその責任をとることになっているから、通常の国務批判だけでなく詔勅批判も許されるとなっていた。そこで、美濃部が不敬罪で司法省から告発されていた昭和10年9月14日、検事局で美濃部の取り調べが行われたとき、検事からこの点を指摘され、詔勅批判はできないとする説を紹介されると、「それは俗説だ、そんなばかなことは絶対ありません」と言い張った。

 ところが、午後になって調書を取ろうとして何か午前中の調べで訂正することはないかと問うと、「汗をふきながらなかなかおっしゃらない・・・何を言われるのだろうと思っていますと、『実は午前中申し上げたことに関してちょっと間違ったことをいっているから訂正したい』、『どういうことですか』、『政治、経済、軍事、外交といったようなものに関する詔勅は批判してもいいが、国民の風教、道徳に関する詔勅に対して臣民の分として絶対に批判を許さないのだということにご訂正願いたい』」

 つまり、政治制度の問題としては、天皇であっても立憲君主制にもとづく明治憲法下に置かれるとしたが、教育基準(=教育勅語)の発布権を有する天皇の位置づけ方については、それを憲法ではなく、教育勅語に盛られたような伝統思想に基づかざるを得ないことを認めたのである。しかし、こうして教育勅語を憲法外のものとして認めてしまえば、結果的に、そこに盛られた国家観(=宗族的・家族主義的国家観)も認めたことになる。

 山本七平は、明治が、この二つの国家観の矛盾に思想的な決着をつけることができなかったことが、昭和の悲劇をもたらす思想的原因となったといっている。確かに、明治新政府は、その欧化政策に不満を持つ勢力を西南戦争で政治的に抹殺したが、しかし、思想的には教育勅語に盛られた天皇を宗主とする家族主義的国家観は生き残り、これが、明治維新の不徹底をやり直して天皇親政の国体を顕現しようとする国体明澄運動→昭和維新へとつながっていった。

 こう見てくると、教育勅語の問題点は、そこに盛られた徳目はもっともであるとしても、その権威を政治的最高権力者=天皇に置いたことが、教育と政治の混交を招き昭和の悲劇をもたらしたと言わざるを得ない。それが、暴力による言論の圧殺となり、そのため、先に述べたような二つの国家観を思想的に止揚する思想的営為を不可能にしたのである。

 ここで、明治維新そのものの思想史的意味を明らかにしておかなければならない。というのは、昭和維新のモデルとなった明治維新とは何であったということが判らないと、その後の昭和が判らなくなってしまうからである。   実は、明治維新とは、中国型の皇帝(日本では天皇にあたる)による一元的政治支配体制の構築を目指す一大思想革命だったのである。そこで、その歴史的・思想的経緯を簡単に紹介する。

  これは、徳川幕府成立後、当初は体制の学として導入された朱子学が、山崎闇斉の崎門学(きもんがく)を経て中国の皇帝中心の一元的国家体制を理想とする国家観を生みだしたことに始まる。そしてこれが、幕末の攘夷論の高まりの中で、中国化に対する反動として生まれた国学思想と弁証法的に結びついたことで、朝幕併存の国家体制を批判し天皇親政の国家を打ち立てようとする尊皇攘夷運動へと発展していった、というものである。(『現人神の創作者たち』S58参照)

   といっても、徳川幕府自体は朱子学を、あくまで修身、斉家、治国、平天下という儒教思想に基づく「治教一致」の体制の学として導入・維持しようした。あるいは、それが天皇を権威づけるおそれがあるとしても、幕府の将軍職はその天皇の権威によって任命されるもの(征夷大将軍)としたため、その真の危険性を察知することができなかった。こうして体制の学としての朱子学は水戸学に発展し、その思想が尊皇倒幕運動となりそれが明治維新へとつながっていったわけである。そしてその新しい体制思想が教育勅語に結晶化した。(『受容と排除の軌跡』S53参照)

 今日の教育基本法改正において、我が国の伝統文化の尊重ということが強調されているが、その伝統文化とは、以上のような歴史的・思想的過程を経て形成されてきたものである。従って、今日大切なことは、それに対する漠然たる希望に賭けることではなく、以上述べたような民族の伝統の歴史的形成過程をふまえて、その伝統思想の欠点を克服し長所を生かす工夫をすることである。

 従って、もし、こうした観点から日本の教育的伝統の発展の方向性を探るとすれば、その第一の課題は、明治がその決着を先送りにしてきた、二つの国家観の衝突、その中で露呈した「治教一致」の問題点をいかに克服するかということになるのではないか。このことは戦後の日本国憲法下の民主主義政治体制のもとでは、すでに解決済みとする意見もあるだろうが、今回の教育基本法改正論議を見る限り、この問題はいまだ未解決といわざるを得ない。

  政治家の有する国家統治の手段として、教育の理念や目的さらに具体的な教育目標まで法律に規定することは、再び「治教一致」による思想の閉塞化・独善化をもたらさないとも限らない。民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にタッチしないのが原則である。つまり、ここでは、民族の伝統思想がもつそれ自身の創造力が試されているのである。

   最近の自民党の、郵政民営化をめぐる権力闘争に敗れ除名された議員の党籍回復をめぐるやり取りを見るにつけ、政治家の行動規範は、教育における内的規範の育成にとって決して有益なものではないと確信されるのである。

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