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2007年5月

2007年5月29日 (火)

イザヤ・ベンダサンと山本七平2

 「以前は、『ベンダサンはあなたではないか』といった質問をよく受けた。そういうとき、私は『日本は法治国家で、ちゃんと著作権法がある。著作権法に基づく著者の概念においては私は著者ではない』とまず答える。ペンネームだと断定した雑誌があったが、ペンネームとは著作権を本名の人がもっている場合にしかいえないことで、私が著作権を持っていないのに、そうであると私がいったらウソになる。私は出版屋だから、著作権・出版権の間系は明確にしておきたい。従ってこれをあいまいにするようなことはもちろん言ったことがない。」(『山本七平の知恵』「ベンダサンと山本七平氏」実業の日本)

 「『共著ですか』って聞かれることがあるんですが、もちろん違います。共著ということは著作権の半分をもっているっていう意味なんですから・・・。私は、もっておりませんから『違う』というだけです。著作権というのは言うまでもなく財産権ですから、この点では、この質問は、ある意味では、土地を指して、『これはあなたの土地ですか』という質問と変わらないわけですよ。・・・
 もちろん著作権という言葉は、単に印税の受領権ではなく、その本の内容について最終的な絶対権を持っている人でしょ。その人が改訂するといえば改訂しなければならない。また、こちらがこの点を改訂したいと思っても、その人が否といえばできない。また、こちらが売れるからもっと発行を続けたいと思っても、絶版にせよ、といわれれば絶版にしなければならない・・・。いわばその本の生殺与奪の権を握っている絶対者ですよね。従って、著者=著作権者以外のものが、内容にどれだけ関与したかといった問題は、いわば、”助手がどれだけ任務を果たしたか”という問題にすぎないわけですよ。これは、主任教授の下での共同作業の成果の発表などでもある問題ですが、その著作の成立にあたって最終的決定権を持っている人が、著者=著作権者でしょう。そして著者という言葉は、著作権者よりも強い意味をもつはずです。諸作権の保有者なら、相続でもなれますからね。ただそれは、著者の権利のすべてを受け継いだわけではないでしょう。・・・」(『人生について』p212)

 私自身、かって、イザヤ・ベンダサンは山本七平のペンネームだろうとか、あるいは共著者ではないか、などと考えたことがありましたが、こうした文章を見ると、やはりちがうと考えざるを得ません。といっても、イザヤ・ベンダサン=山本七平ということは、ご家族の証言もあり、氏を支持する人もしない人も含め言論界の一致した見解となっていることも否定できません。で、いまさら何を?と思わないわけでもないのですが、長い愛読者の一人としては、やはり、氏の言葉によってその間の消息を理解するほかないと思うのです。

 「── ただ、山本七平説がしばしば出てくるというのは、ベンダサンの書いたものと、山本さんの書いたものに共通点というか、何か通じ合うものが感じられるからではないでしょうか。
山本 それはあると思いますよ。ただ出版社としては、あのたぐいの本は、こちらとして、見方もしくは考え方に共通点がないと出せるものではないんですよ。こういった例は少しも珍しくないんですよ。また、一時、北森嘉蔵説も随分あったでしょう。
 ── ありましたね。
山本 やっぱり、どこか似通った考え方があるからでしょうねえ。『日本人とユダヤ人』については、まあいろいろな書評が出ましたが、『福音手帖』の北森さんとチースリクさんの対談はおもしろかったですね。また、『月刊キリスト』の新見宏さんとラビ・トケイアさんのも・・・。私としては、ベンダサンがどこにいるとか、誰々説なっていうことにみんなが興味を持つより、内容のある、ああいう書評が、もっと出てくれるといいと思うんですよ。そうすると、そこから新しい問題も出てくると思いますから。」(同書P215)

 この箇所を読んで、この二組の対談を読んでみたいと思い、全国の図書館を検索して、ようやく鹿児島の純心女子短大の図書館で見つけることができ、コピーを送ってもらい読むことができました。とりわけ北森嘉蔵(神学者)とH・チースリク(キリシタン研究家)の対談「日本人の宗教心」─イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』をめぐって─は興味深く、またそれを繰返して読むうち、極めて重要な問題が提起されていることに気がつきました。

 本対談は、司会者の次の言葉から始まっています。
 「チースリク神父様はキリシタン研究家、日本語でご本もお書きになるほどの日本通です。北森先生は、ある意味で日本を代表する神学者。イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』が出版されてから1年以上になりますが、大変な反響を呼びました。とくにクリスチャンにとって、この本はショックを与えたのです、信仰に対して自信を失わしめた、といっている人も多いようです。」

 では、この本のどういうところが、それほどのショックをクリスチャンに与えたのかというと、北森教授は、ベンダサンが「日本教」=「天秤の論理」の世界に神は住みうるか、という問いを発しているところだといっています。それをうけて司会者は「なぜわれわれがショックを受けたかというとを、別の言い方で申しますと─たとえば、われわれは『血も涙もない』ということを非常に嫌うわけです。神に対しても、血がかよい、涙もある神をどうしても日本人は求めるわけですね。(中略)ところが、イザヤ・ベンダサンの出した問題は、・・・何かそういう、血や涙のあるような信仰の持ち方はうそなのではないか。神と人との関係は、血縁関係のような、そんな人間的なものではなくて契約で結ばれた養子関係である。非常にドライなのだ。それに日本人は気がついていないのではないか。─そういうふうにいわれると、こちらは実に不安になってくるわけですよ。」

 ここで、この「天秤の論理」というのはどういうものか説明しておきます。これは、日本人が、他者との関係や社会的問題を処理する際に無意識的に用いる「考え方の型」について述べたものです。日本語には「実体語」=「ホンネ」にあたる言葉と、「空体語」=「タテマエ」にあたる言葉があり、まず、「実体語」が「現実」に対応して生まれると(=天秤の皿の上に乗ると)、それとバランスするように「空体語」が、分銅(重さを量るための尺度)として積み重ねられ、そこで得られる平衡点において、一定の判断を得ようとする日本人独特の「考え方の型」を図式化したものです。

 この「実体語」と「空体語」の関係は、「理想」と「現実」の関係とは違います。「いうまでもなく西欧では、原則として、『現実』という言葉で規定されるものを自分が現在立っているスタートラインとすれば、『理想』は、そのゴールを規定した言葉」です。「従って論議は常に、言葉によって現実をどう規定するか、また言葉によって理想をどう規定するか、まずこの二つを規定してから、この『言葉によって規定された現実』から『言葉によって規定された理想』までをつなぐ道を、また言葉によって規定し、それをどう歩むかを『方法論という言葉』で規定するという形になります。」(『日本教について』p27)

 しかし、「天秤の論理」の世界においては、「実体語」も「空体語」も西欧における「理想」と「現実」のように言葉で厳密に規定されることはなく、大切なのは両者のバランスで、そのため、「現実」を改革するための方向性を示すべき言葉(=思想)が、「現実の重さ」に対応する尺度(従って「実体」ではない)としての「空体語」として語られるということです。

 つまり、「現実の重さ」に対してバランスをとることが「空体語」(=思想)の機能であって、それは「現実」を、「方法論という言葉」によって「理想」までつなごうとするものではないということです。それは、例えば「『自衛隊は必要である』という『実体語』は口にせず、『自衛隊は憲法違反であるといえる状態も必要である』という『空体語』を分銅として口にし、それによって両者のバランスをとる、という形で現れます。そしてこの「空体語」は、たとえ口にしなくとも自衛隊の存在を認めてはじめて言える言葉なのです。

 「将来同じようなことが起きるでしょう。軍備撤廃を主張している政党もありますが、もしこの政党が政権をとったらどうなるか。議論の余地はありません。攘夷論者が政権をとったときと同じ事が起こります。もちろん一時的混乱はあります。(明治維新であれ、第二次大戦の終戦時であれ、それはありましたから)。が、それはすぐにおさまります。『戦力なき軍隊』がすでにあるのですから、『人民の軍隊は軍隊ではない』ぐらいの主張は何でもありません。」(『日本教について』p29)まさに、その通りのことがその後起こりましたね。

 そして、この「天秤の論理」の世界において、その天秤の支点の位置にあるものが、実は、日本人が「人間的」という言葉で言い表すところのアプリオリの概念で、さらにその概念は、日本人が「自然」という言葉で言い表すところの、一種の宇宙論的概念に包摂されています。つまり、この「天秤の論理」の世界における「人間」(というより「自然」というべきか)という概念は、ヘブライ・クリスト的世界における神概念に代わるものであり、従って、この「天秤の論理」の世界には、「人間」は住み得ても、神は住み得ないというわけです。*(というより・・・)は5/30訂正挿入

 こうした指摘が、日本人における神概念が、怒れる神から愛する神=許す神へと不可避的に傾斜する傾向と相まって、日本人キリスト教徒(とりわけプロテスタント系)の人々に、自らのイエス・キリスト像は、あるいは、日本人における天秤の論理における支点としての「人間」像(というより「自然」像というべきか)を仮託しただけのものにすぎないのではないか、「血も涙もあるような信仰の持ち方はうそなのではないか」という疑念を起こさせたというのです。*(というより・・・)は5/30訂正挿入

 結局この対談において、北森氏は、日本に「天秤の論理」の世界が存在することを認めた上で、三位一体を決めたニカイア信条についても言及し、キリスト教会はこの「天秤の論理」とキリスト教の神概念(キリストが父なる神と同質とする)とを結びつけようとしてきたのではないか。そして、「天秤の論理」の世界に神がいないということは、著者は、はじめから神を抜きに考えているということで、それは結局「三位一体」の信仰の中にも神はいないといっていることになるといっています。これは日本のキリスト教会に対する伝道上の誠に大きな課題(挑戦?)といわなければなりません。

 ところで、こうした論争において、山本七平自身はどこに位置していたのでしょうか。
 氏は、「山本七平の不思議4」で紹介したように、関根正雄氏の『日本人とユダヤ人』評─おそらく「人間教」としての日本教と「神が人となった」キリスト教の親近性を認めているものと推測される─を喜びつつ、次のように、この本の出版の動機を語っています。「ベンダサン氏は『日本人は聖書は理解できない』とはっきり断定している。私は聖書図書の専門出版社だから、これを肯定するわけにはいかない。」

 しかし、ここにおいて、山本七平は、「天秤の論理」の世界には神は住み得ない、というイザヤ・ベンダサンの断定について、北森氏のように「三位一体」の考え方に特に固執しているようにも思われません。氏はあくまで、イザヤ・ベンダサンのいう「日本人は聖書は理解できない」という言葉に異を唱えているのであって、聖書の思想(個別者と絶対者との絶対的な関係の中に、しかも背理の中にしか「信仰」は得られないとするもの(『宗教からの呼びかけ』p179)に学ぶことによって、日本の伝統思想である「日本教」を思想として進歩させることができると確信していたように思われます。

 こうして、山本七平は「天秤の論理」について、その、日本人の伝統的思考方法を理解するための社会学的分析用具としての有効性を認めつつも、その「今」のみを絶対とする空間的思考法=空気によって支配される「天秤の論理」の世界の限界性を鋭く指摘しています。日本人は、そうした伝統を生み出した「長い歴史を言葉で体験しなおし」それを思想として再把握することが必要である、と。「個人にとっても民族にとっても・・・進歩とは実はこれ以外には存在しないのである」から。(『宗教について』p199)

 以上、このあたりでイザヤ・ベンダサンに関する詮索はやめて、山本七平によって受け継がれ語られた思想がどのようなものであったか、ということに論を進めたいと思います。思うに、山本七平に対する批判、とりわけwikipediaの解説に見られるような批判の多くは、イザヤ・ベンダサンと山本七平とを同定する結果生まれているように思われます。(誠に惜しい!)ただ一つ、浅見定雄氏のものを除いて。これは心底形容をはばかられるほどの辛辣さに満ちたものですが、私は、これは浅見氏自身の思想ないしイデオロギーによるものであり、このことについては、今後、山本七平の思想と対比しつつ、考えて行きたいと思っています。

2007年5月18日 (金)

イザヤ・ベンダサンと山本七平

 前回のエントリーで、私は、「山本七平は、『日本人とユダヤ人』は彼(山本七平)と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーと彼の友人ミンシャ・ホーレンスキー)の会話からなったものだといい、その後のベンダサン名の著作(『日本教について』ほか)はホーレンスキーとの合作だといっていますので、私はそのまま受け取るべきだと思います。」と書きました。

  では、これらのイザヤ・ベンダサン名の著作において、山本七平はエディターとしてあるいはコンポーザーとしてどのような役割を果たしたのでしょうか。

 おそらく、先のエントリー「山本七平の不思議4・5」で紹介したようなエピソードの出所は、戦時中は対日諜報関係の仕事を、当時は駐留米軍兵士に大学教育を授ける「オーバーシーズ・ユニバーシティー」の教授を委託されていたというメリーランド大学教授のジョン・ジョセフ・ローラーや、彼の友人で、「ユダヤ人のくせにユダヤ人嫌いであり、ユダヤ人のものの考え方や生きざまについて、辛辣な批評をするのが常だった」(『怒りを抑えし者』P399)ミンシャ・ホーレンスキーによるものと思われます。(なお、このローラー教授の属するメリーランド大学のカレッジパーク校マッケルデン図書館東亜図書部には、「プランゲ文庫」というのがあって、これは日本における敗戦後の言論・思想の自由を拘束した、占領軍の検閲の実態を示す膨大な日本雑誌のマル秘検閲資料(1946-49年にかけて出版された約13,000点に及ぶ検閲雑誌及びその検閲の実態が記録された文書)が保管されています。)

 そこで問題は、「日本教」の発見からその理論化、構造化において、山本七平はどのような役割を果たしたのかということですが、小室直樹氏は「山本さんの偉大な業績は、実に『日本教』の発見にある。このことの重要さは強調されすぎることはありません。」(『日本教の社会学』p124)といっています。この『日本教の社会学』は、小室直樹氏と山本七平の共著であり、山本七平自身もそうした見方を否定せず、小室氏の「日本教」の構造神学的体系化に力を貸しています。

 だが、山本七平は、この「日本教」という発想について、次のようにも言っています。
 「『日本教』という言葉は英語で言えばジャパニーズイズムで、別に不思議な概念ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒だ。では日本人は何教徒か。仏教徒か、神道か、いやジャパニーズイズムが一番適当だ、という発想はすぐに出てくる。ところがこれを日本語に訳して『日本教』と言うと、なぜか非常に新鮮になってしまう。」(『VOICE 山本七平追悼記念号』「一出版人の人生論」p30)

 つまり、「日本教」という発想そのものは、ユダヤ人にとっては特別ユニークな発想ではない、ということで、このことは『日本人とユダヤ人』における『日暮硯』についてのエピソードからも窺うことができます。問題はここから、さらに日本人の意識構造に踏み込んで、実体語と空対語のバランス=「天秤の論理」(『日本教について』s47)や、恩の相互債務論にもとづく「施恩・受恩の倫理」(『日本教徒』s51)を発見し理論化したのは誰か、ということです。

 この「日本教」は、イザヤ・ベンダサン名の著書の中心テーマであり、山本七平単独の著書では扱われていませんが、先に紹介した『日本教の社会学』では、山本七平名の著書で論じられた「空気」(『空気の研究』)や、「純粋人間」(『ベンダサン氏の日本歴史』)、さらに「日本資本主義の精神」の基盤としての崎門の学、そして浅見絅斎の革命思想(『現人神の創作者たち』)などが、「日本教」を解明する概念装置として包括的に論じられています。

 しかし、不思議なことに、この本は、その後再販されず(私の持ってるものは第2版)、最近の古本市場では、プレミアムがつく程の希少本となっています。この本の著作権者がそれを望まなかったからではないかと推測しますが、一体、その真の理由はなんでしょうか。私が今まで論じてきたこととの関連で言えば、それは「日本教」の発見に関与したもう一人のイザヤ・ベンダサンの分身が絡んでいるような気がしないでもありません。というのは、この本ではその影が全く消されていますから。

 それはともかく、ではその関与がどの程度であったかということになると、正直言って判りません。①山本七平単独のものか(となると、「作り話」を含むことになる)、②某ユダヤ人が中心で、山本七平が自分の持つ資料を加えて編集・コンポーズしたものか。③山本七平が中心で、発想や論法をユダヤ人のものとして編集・コンポーズしたものか。私自身の推測としては、②から③に推移したのではないかと思います。少なくとも①ではあり得ません。

 というのは、氏(イザヤ・ベンダサン)が「日本教」を論ずる際の、その基本的視点はどこに置かれているかというと、実は「人間は言語を持つが故に人間であり」「言語は相互理解のほとんど唯一の手段であり」「従って虚偽を排したという『相互信頼』と共通の前提に立つという『相互理解』がなければ、「言語を持つが故に人間である」人間にとっては、人間でありえなくなってしまう」(『日本教について』p304)というものであり、「日本教」の言語はいまだ「宗教用語」に止まっていると指摘されているからです。

 ここで、参考とすべき、もう一つの視点を紹介しておきます。これは、『家畜人ヤプー』の「書評」として、イザヤ・ベンダサンが「ヤプーに寄せる一つの印象‐著書と著者」として述べているものです。

 「創作したものが何であれ、作者とは、その作品のみを通して外部から名づけられかつ規定された存在なのである。従って自己規定ではない、ということは、もし小説を書いて読まれれば、それを書いた人は読者にとって小説家なのであり、従って『私は小説家ではない』と自己規定することは許されない。これは、一編の作品もないのに『私は小説家だ』と自称するのと同じように、無意味なことだからである。ということは、あらゆる『作者』とは、いかに規定されまいとしても、結局その作品によって、外部から、一方的に規定されてしまうものだということである。しかし、外部から一方的に規定されるということは、本人の意志が全く無視されて束縛されてしまうことなのである。作品は着実に自分を縛り上げて行き、身動きできなくしてしまう。・・・
 この問題は、実に古くからある問題で、昔はペン・ネームという方法で処理できた。ペン・ネームは偽名でも匿名でもない。別名すなわち別人格を意味する名前である。従って作者すなわち作品により規定されるものはペン・ネーム氏であって規定されるのも束縛されるのも、作者という木札を下げさせられるのもペン・ネーム氏であって本人は『私は関係ない』という立場をとればよかった。」しかし、これはこの「両者を同一視しないという伝統が保持されない限り、意味はない。・・・
 日本にはがんらいこの伝統はない。・・・従って日本では、前述のように『日本人とユダヤ人』『家畜人とヤプーの著者』という木札を首から下げさせられ、都大路を引きまわされて、ジャーナリズムの獄門にさらされる結果となるであろう、もっともそうされるのが好きで、機会さえあればそうされたいと思う人もいるのであろうが『出世』とか『名をあげる』とかいう概念も言葉もないわれわれにとっては、その心情は興味の対象となりえても、模倣の対象とはなりえない。
 もちろん沼正三氏と私の行き方は同じとはいえまい。しかしおそらく氏は、絶対に阻害も束縛も規定されたくない何らかの『自由』をもっておられるはずだ。・・・その『自由』は・・・私の自由とは全く異質のものであろうが、しかしそれを阻害されないためには、あらゆる手段をとる権利をすべての人がもっており、自分ももっていると考えている点では同じであろう。そして、その自由がそのような質の『自由』であれ、それをもつものだけに、何かを書くことが許されていると私は思っている。もちろん、何もせずにこの自由が守れればそれが一番よい。しかしそれを守ることは、己が生命を守ると同様細心の用心が必要なことも事実である。」

 さて、もし、山本七平に、こうした見解に与するものがあったのだとしたら、おそらくそれは「天皇制を論じることにおける『自由』」だったのではないか、と私は思いました。

2007年5月 3日 (木)

山本七平の不思議5

 『日本人とユダヤ人』の書き手の中に、戦時中のアメリカの対日諜報機関による日本研究に関わった人物がいることは、そのテキストとしてつかわれたという『日暮硯』に関する次の記述でも明らかです。

 これは、日本の歴史における「朝廷・幕府併存」という政治体制について、これを統治における祭儀権と行政権を分立した一種の二権分立ととらえ、「日本人が、二権分立というユダヤ人が夢見て果たせなかった制度を、なんの予習もせずいとも簡単にやってのけた」ことを「政治天才」と評価する中で言及しているものです。

 「宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったのか。その特徴をもっともよく表しているのは『日暮硯』であろう。この本は、私にとって実になつかしい思い出がある。戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のため徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが「日本人的政治哲学研究」のもっともよいテキストだと考えている。」(山本書店版p59)

 「私は今でも記念に、昭和十五年の古い本をそのままもっているが、日米開戦の数ヶ月前に本書を多量に購入してアメリカに送った、当時のアメリカの要路の当局者に、ある意味で敬意を払わざるを得ない。」(同上p60)(著者略歴によれば、大正七年に神戸で生まれ、昭和一六年に渡米、移住し、昭和二〇年に再び来日したことになっている。)

 「私は、日本人以上に(?)日本語ができるということで、この翻訳を命ぜられ、できる限り詳細な註と解説をほどこしたテキストを委員会に提出し、委員たちの質問に答えるよう命ぜられた。私は、この日のことを永久に忘れないであろう。驚いた顔、あきれた顔、全く不可解という顔、何をどれから質問してよいのか、みな本当にとまどっていたのである。」(同p71)

 「私は日本に生まれ育ったので、あまり抵抗もなくこの書を訳しただけに、委員たちの質問には、全く、しどろもどろになってしまった。・・・問題の焦点をつき、ある意味で私に助け船を出してくれたのはツィビであった。(恩田)木工をみなが賛嘆するのは、全ての人が支持する「基本的律法」にのっとっているはずだという考え方である。この基本的律法はなんなのか。もちろんモーセ流の神の律法ではない。木工が基本にしているのは「人間相互の信頼関係の回復」ということなのだ。そのためにはまず自分の姿勢を正し(略)相手に対する絶対的信頼を披瀝する(低姿勢で)。この底には、「人間とは、こうすれば、相手も必ずこうするものだ」という確固たる信仰が相互にある。これがなければ一切は成立しない。ということは、「人間教乃至は経済教」ともいうべき一つの宗規が、意識されるにしろ、されないにせよ、「理外の理」として確立していることにほかならない。・・・ここには、日本人が絶えず口にする「人間」「人間的」「人間味あふるる」といった意味の人間という言葉を基準にした一つの律法があるはずで、日本人とはこの宗教を奉ずる一宗団なのだ。(略)義時はすでにその律法を知り、それにより明確に二権を分立した。」(同p73)

 つまり、「日本教」の発見は、こうした戦時中のアメリカにおける対日諜報機関による日本研究の中から生まれたものだといっているのです。

 この点、山本七平がこの「日本教」の発見にどうかかわっていたのかということが問題になりますが、おそらく、氏自身も、その三代目クリスチャンとしての生い立ちや軍隊生活での経験を通して、「『日本人』には、特定の宗教はないって言われているけども、非常に厳格な”受容と排除”の基準がある」という発想をもっていたことは間違いないと思います。(『父と息子の往復書簡』p217)実際、氏はその探求のために、戦後「紙くず同然」となった尊皇思想家の文献を読み漁ったといっています。

 もちろん、戦前のアメリカの対日諜報を目的とした日本研究の視点と、こうした三代目クリスチャン(それも縁戚に大逆事件で処刑された大石誠之助がいる)のその執念ともいうべき日本探求の視点とは異なっており、従って、そこから得られた処方箋に違いがあることは当然で、その点『日本人とユダヤ人』はあくまで前者の視点で書かれたものであること、そのことを山本七平は「私は著作権を持っていない」といういい方で言い表していたのだと思います。

 「私は、『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていないという事実は最初からはっきりいっている。事実だからそういっているだけであって、そのほかのことを何も否定したことはない。」(『特別企画 山本七平の知恵』実業の日本「ベンダサン氏と山本七平氏」)氏は、その後も、幾度となくこの点を問いただされていますが、終生こうした基本的立場を崩すことはありませんでした。

 ただ、一般的に見て、「『百姓嚢(ぶくろ)』や『日暮硯(ひぐらしすずり)』といった、特殊な”文献”を自在に引用する「ユダヤ系日本人」が、それまで全く無名であったなどということは、常識的に考えにくい。」(『戦後日本の論点』高澤秀次p44)わけで、その結果、イザヤ・ベンダサン=山本七平とする意見が大勢を占めることになっているのですが、私は、山本七平は決して偽りをいっているのではないと思います。

 むしろ、ここで注目すべきは、戦時中のアメリカの諜報機関による日本研究が当時どれだけの水準に達していたかということではないでしょうか。
 このことは、一九四六年に出版されたルース・ベネディクトの『菊と刀』を見ても判りますが、この時期、アメリカには、パールハーバーの衝撃を契機にOSS(戦略局)という強大な諜報機関ができており、「専門のスパイだけでなく、心理学、地理学、語学、化学、歴史学、人類学等々の学者や、各大企業や経済団体の専門家、作家、ジャーナリスト、技術者、牧師、しまいにはペテン師ヤスリ師にいたるまで参加していた」ということです。(『イザヤ・ベンダサン その顔に謀略の影が』三田英彬)

 また、三田英彬氏(推理小説家)はこのエッセイで、イザヤ・ベンダサンの正体に関わって次のような興味深い推理を行っています。
 「この暗い谷間の時代(昭和一〇年代)、各大学、旧制高校等のマルキストないしそのシンパサイザー(マルクスの『ユダヤ人問題』がその入門書だった)は、日共そのものが弾圧につぐ弾圧で壊滅状態にあったときだが、それぞれケルンを組織し、非合法下に研究会を続けている。当時、略称SS(社会科学研究会)とは、こうしたケルンの連合体であったが、なんと恩田木工の『日暮硯』をテキストに用いていた事実があった。(中略)
 昭和一〇年夏、第七回世界大会で、コミンテルンが、反ファッショ・人民テーゼ」を呼びかけたとき、労農派どころか、民主主義者、自由主義者まで、これの温床素地をなすと、大量に検挙されている。こうして、逼塞を強いられる状態の強まっていくばかりの日本から、脱出をはかったマルクス主義者の学生も少なくなかった。
 この国外脱出には、イワクロ機関なる組織が一役買い、昭和一六年、この機関の手で脱出した左翼学生が何人もいた。彼らのなかには、今日では、別に国籍も取得、学者として、あるいは評論家として活躍しているものもいる。海外生活の過程で、思想的に転向した例だってむろんある。
 こうした事実を並べた上で、推理するとき、ベンダサン氏は『ユダヤ人問題』で、マルキシズムに強い関心を抱き、参加したSSで、あるいはSSの周辺にいて、恩田木工の『日暮硯』を知った。なぜなら、氏はすでに、戦時中、アメリカにあって、命ぜられて翻訳し、注と解説を付し、質問にも答えていると語っている。(中略)
 以上によって、逆にベ氏を、マルクスによって『ユダヤ人問題』に目を開かされた日本人と見ることも可能である。たとえば、「日本人の口の軽さ」云々以下については、戦時下の、一億総ヒステリー状況を考えれば、碧眼紅毛、いや、ただ肌の色が変わっていただけにしろ、日本人の庶民、大衆が、ガイ人に、そんな調子でものを言うことなどは、ほとんど考えられないだろう。・・・ベイカー氏ともども、日系か日本人かと疑いたくなる。」

 これは、その後、『日本人とユダヤ人』を書いたもう一人のイザヤ・ベンダサンの分身が遂に姿を現さなかった、その背景の事情を窺わせるに足る推理といえると思います。このことについて山本七平は、『日本人とユダヤ人』は山本七平と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーと彼の友人ミンシャ・ホーレンスキー)の会話からなったものだといい、その後のベンダサン名の著作(『日本教について』ほか)はホーレンスキーとの合作だといっていますので、私はそのまま受け取るべきだと思います。

 いずれにしても、わたしたちは、このイザヤ・ベンダサン名の著作を通して、アメリカ人あるいはユダヤ人など欧米人の日本理解の水準がどれだけのものであるか想像してみる必要があると思います。こうした感慨は、敗戦直後ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んだときにも感じたことですが、あらためて、その必要を痛感します。

 山本七平もこのことについて、『日本教養全集18 菊と刀 日本人とユダヤ人 さくらと沈黙』の解説の中で次のようにいっています。
 「まず、何よりも驚かされるのは、この三人の著作における驚くべき量の『資料』とその活用を物語っているその『引用』である。三人の『引用』の仕方にはそれぞれ特色があるが、いずれにしても、これだけの引用を自由自在になしえ、しかもそれぞれがその文脈に実に的確にはめ込まれているの見るとき、われわれは‐否少なくとも私自身は‐彼らの努力と持続力と一種のねばり強さ、というよりわれわれから見れば異常とすら思われる一種の執拗さに、少々驚かされる。(中略)
 それだけしてなお三人とも、・・・現状を断定しかつ未来まで断定するような態度はとっていない。しかし一方、その対象に対して、将来可能なことと不可能なこと、ありうることとありえないことは、この三人が三人とも、はっきりと自信を持って判別し言明しているのである。理解とは、おそらくこういうことを言うのであろう。そしておそらくこれが、われわれが学ぶべき基本的態度であろう。」

   

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