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2007年6月

2007年6月30日 (土)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか5──南京軍事法廷判決と上訴申辨書──

 向井少尉が復員したのは昭和21年4月です。秦郁彦氏の「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実」によると、「中国政府は1946年6月頃、百人斬りの容疑者として向井、野田の捜索と逮捕を東京裁判の事務局であるGHQ法務局(カーペンター局長)に依頼したらしく、復員局と地元警察を通じて6月末に三重県に居住していた向井を召喚」し、7月1日から5日まで数回尋問を行いましたが、5日には向井を不起訴処分とし釈放しています。
 同じ頃、東京日日の浅海、鈴木二記者も法廷事務局に呼び出され取り調べを受けましたが「書類不備」(要するに伝聞証言だけだということ)ということで却下となり「もう二人ともこなくてよい」といわれたと証言しています。

 しかし、中国側がこれで納得したわけではなく、引き続きBC級戦犯の中国法廷への召喚を求めたものと思われます。この間の事情を秦氏は、GHQ法務局は、「二人の引き渡しについては「一事不再理」の原則もあり引き渡しを渋ったもの思われる。しかし、昭和21年8月頃から東京裁判法廷で検事側証人が次々に登場して生々しく南京の惨状を語りはじめ内外の世論を衝動するに及び、向井たちの引き渡し要求を拒みにくくなった」のではないかと推測しています。

 そんなわけで、野田は昭和22年8月15日鹿児島の実家において、向井も同じ頃(9月1日)、妻の実家のある三重県に居住していたところを逮捕され、市ヶ谷の軍事法廷に送られ取り調べを受けました。その後、巣鴨拘置所を経て10月12日に南京に送られ、11月4日に起訴され、11月6日から審理開始、そのわずか一ヶ月半後の12月18日、半年近く前に南京に送られていた田中軍吉とともに「捕虜及び非戦闘員を屠殺した罪」により死刑判決を受けたのです。判決文は次の通りです。

〈判決文〉
 「向井敏明及び野田厳(「野田穀」が正しい─筆者)は,紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し,その結果,野田厳は105名,向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」
 その理由は,以下のとおり記載されている。
 「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は當時南京に在留しありたる外籍記者田伯烈(H.y.Timperley)が其の著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず(谷壽夫戦犯案件参照)即遠東國際軍事法庭中國検察官辯事處が捜獲せる當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。尚被告等が兇刃を振ってその武功を炫耀する為に一緒に撮影せる写真があり。その標題には「百人斬競争両将校」と註しあり。之亦其の証拠たるべきものなり。

  更に南京大屠殺案の既決犯谷壽夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり。之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。更に亦本庭の其の発葬地点に於て屍骸及び頭顱数千具を堀り出したるものなり。

  以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。

  然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。

  所謂殺人競争の如き兇暴'惨忍なる獣行を以て女性の歓心を博し以て花嫁募集の広告となすと云うが如きは現代の人類史上未だ嘗て聞きたることなし。斯る抗辯は一つとして採取するに足らざるものなり。」
(データ参照)http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/hanketsu-3.htm

 この判決を受けた時の印象を、野田は獄中手記(『「南京大虐殺」のまぼろし』p110)の中で次のように述べています。

「二十二日判決文が参りました。相手にとって不足がないぐらい、物凄い判決文でした。われわれは南京大屠殺に関係があり、向井君と私は、残虐なる百人斬りによっての獣行によって日本女性の歓心を買わんとしたことは、現代人類史上聞いたことがないといふのです。思はず笑い出してしましました。」

 そこでただちに、向井と野田は、両者連名で中国側弁護人を通して南京軍事法廷に上訴申辨書を提出しています。その要旨は次の通りです。(番号は筆者による)

1 原判決は、被告等の「百人斬り競争」は田伯列(ティンパーレ)の著作「日本軍暴行 紀実」に記載されていることをもって証拠としているが、この記事は当時の日本の「東京日日新聞」の「百人斬り競争」に関する記事を根拠としたもので、田伯列が南京において目撃したものではない。然るに、原判決に「詳明シ記載アリ」とあるのは如何なる根拠によるものか判知し得ざるところである。

2 いわんや、新聞記事を証拠となし得ざることは、すでに民国最高法院の判例にも明ら かであり、単に事実の参考に供するに足るもので、唯一の証拠とすることはできない。 なお、犯罪事実はすべからく証拠によって認定すべきことは刑事訴訟法に明らかに規定 されている。(この証拠とは積極証拠を指していることはすでに司法院において解釈されている。)()内は8/20追加挿入

3 然るに、貴法廷は、被告等が殺人競争をしたという直接間接の積極的証拠は全くない にもかかわらず、被告等と所属部隊を異にする部隊長たる谷寿夫の罪名認定をもって南 京大虐殺に関する罪行ありと推定判断しているが、かかることの不可能であることは些 かも疑義はない。

4 原判決は、「東京日日新聞」と「日本軍暴行紀実」とは符合すると認定しているが、 後者の書籍の発行期日は前者の発行期日後であって、田伯列が新聞記事を転載したこと は明瞭である。いわんや、新聞記者浅海一男は民国36年(昭和22年)12月10日に記述した証明書に、この記事は記者が直接目撃したものではないことを明言しており、 すなわち、この記事は、被告等が無錫において記者と会合した際の食後の冗談であって 全く事実ではない。この件は東京の盟軍(GHQ法務局)の調査でも不問に付されたものである。〈民告36年(昭和12年)〉を(昭和22年)に修正8/20

5 被告等の所属大隊は、民国26年(昭和12年)12月12日、麒麟門東方において行動を中止し南京に入っていないことは富山大隊長の証明書により明瞭であり、被告野 田が紫金山付近で行動せざることを明白に証明している。また、被告向井は、12月2日、丹陽郊外で負傷し事後の作戦に参加せず紫金山付近に行動せざりしことも富山大隊長の証言で明瞭である。

6 また、この新聞記事の百人斬りは戦闘行動を形容したものであって、住民俘虜等に対 する行為ではない。残虐行為の記事は日本軍検閲当局を通過することはできなかった。 ゆえに、貴法廷が日本軍の検閲を得たことをもって被告の残虐行為と認定したことは妥 当ではない。以上の如くであり新聞記事は全く事実ではない。

7 貴判決書に多数の白骨が埋葬地点より出たことをもって証拠とする記述があるが、被 告等が入っていないところで幾千の白骨が出ても、被告等の行為と断ずる証拠とはなら ない。

8 被告等は全く関知しない南京大虐殺の共犯とされたることを最も遺憾とし、最も不名 誉としている。被告等は断じて俘虜住民を殺害することはしておらず、また断じて南京 大虐殺に関係ないことを全世界に公言してはばからない。被告等の潔白は、当時の上官、 同僚、部下、記者が熟知するとKろであるのみならず、被告等は、今後帰国及び日本国 は恩讐を越えて真心より手を握り、世界は岩の大道を邁進せられんことを祈願している。

  以上陳述したとおり、原判決は被告等に充当することはできないと認めれれるので、 何卒公平なる複審を賜らんことを伏して懇願いたします。            (以上)

 山本七平は、「私にこういうもの(『私の中の日本軍』)をかかしたのも、実はこの中国人弁護士催文元氏の態度であり、また二人が創作記事によって処刑されるのだということを、的確に見抜いた最初の人は、おそらく彼なのである。彼はこういうことを平然とやっている日本人を、内心軽侮したことであろう。心ある一人の人の軽侮は、「殺人ゲーム」で惹起された百万人の集団ヒステリーの嘲罵より、私には恐ろしい。」『私の中の日本軍』p293)といっています。

 また、この申辨書は、「実に問題の核心を突くとともに、それまでの裁判の経過を明らかにし、この軍事法廷で、「無罪か死刑か」が最後まで争われたその争点が何であったかをも明確にしている」として、次のようにいっています。(以下、山本引用文、注1及び浅海、鈴木両氏の尋問調書の一部を追加しました。h19.7.1)

 つまり、彼は、まず原判決が田伯列(ティンパーレ)の記述が東京日日新聞と符合するといっても、ティンパーレが新聞記事を転載したことは明瞭であるとしてこれをしりぞけ、その他の物証も一切ないことを証明し、さらに、新聞記事を証拠となし得ないことは、判例にも明らかであり、それは単に事実の参考に供するに足のみであって、唯一の罪証とすることはできない、と主張しているのである。そしてここが、彼がいかに誠意をもって努力しても、もう彼の力ではどうにもならない限界なのである。

 「すなわち新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。──これが「浅海証言」(注1)が二人を処刑させたのであって、この処刑は軍事法廷の責任ではなく浅海特派員と毎日新聞の責任であると前に書いた理由であり、また私が催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと考えた理由だが──・・・だが少なくとも中国人が誠心誠意弁護しているものを、何も日本人がその足をひっぱる必要はないはずだ。両者の関係は、催弁護人の「申弁書」と「浅海証言」「本多証言」を比較すれば、だれでもおのずと明らかであろう」(同書p294)

注1 「浅海証言」(向井少尉の実弟向井猛氏が、昭和22年10月12日に南京に送られる以前、市ヶ谷の軍事法廷の軍検事局に拘留中の向井少尉を訪ねたとき「とにかく証拠が要る。今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうには、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼むほかはない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったんだということを、是非証言してもらってくれ。それから、戦友たちの証言ももらってくれ」と頼まれた。彼は、まだやけビルの後も生々しい有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ね、次のような証言を得ました。彼はできればあの記事は創作であると書いてほしかった、といっています。

①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。②両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲局をパスすることはできませんでした。③両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でありました。④右の事項は昨年七月、東京における連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります。

 また浅海記者及び鈴木記者は昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室において米国のパーキンソン検事から尋問を受け、次のように証言しています。参照

(問)毎日新聞に掲載されたニュース記事を2本お見せした上で,あなたがその執筆者かどうか,あるいはいずれかの記事の執筆に携わったかどうかをお聞きしたいと思います。
(答)1937年12月5日付けで掲載された記事は自分が書いたものではありません。しかし,12日付けで毎日新聞に掲載された二つ目の記事は私が浅海さんと一緒に書いたものです。
(問)日本語版に掲載された写真は同じようにあなたが送ったものですか。
(答)この写真はサタさんという別の従軍記者が撮影しました。常州で撮影したものです。
(問)この写真は別の人が撮ったということですが,自分の記事の一部としてあなたが送ったものですね。
(答)私はこの写真について知りませんが,浅海さんは知っています。実際は彼が送信したものですから。
(問)しかし,写真は浅海さんが撮ったのではありませんね。
(答)佐藤という名の別の従軍記者が撮ったものです。
(問)それから鈴木さん,あなたが浅海さんと共同で,記事の一部として送ったのですね。
(答)浅海さんが送った,と言った方がいいでしょう。
(問)浅海さんと協力して執筆した記事をあなたが送ったのですか。それとも浅海さんが執筆に加わった記事を彼が送ったのか,またはあなたが参加した記事を彼が送ったのか。
(答)その記事は浅海さんが主に執筆したものです。
(問)しかし,加わったのは…。
(答)鈴木さんが加わりました。
(問)つまり共同執筆ですか。
(答)そうです。
(問)では,12月5日付け東京毎日新聞に掲載された記事を執筆したのは誰ですか。
(答)5日付けに掲載された記事については,私は何も知りません。
(問)浅海さん。鈴木氏に対する質問と答えを聞いていましたね。彼が言ったことが正しいと思いますか。
(答)その通りです。
(問)1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか。
(答)はい。私がこの記事の執筆者です。
(問)では,鈴木さん。あなたは12月12日の記事の執筆に関わりました。あなたはその記事に事実として書かれていることが真実か虚偽か知っていますか。
(答)はい,知っています。
(問)真実ですか,虚偽ですか。
(答)真実です。
(問)浅海さん。たった今,鈴木さんに尋ねた質問をお聞きになりました。あなたもこれらの記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか。
(答)真実です。
(問)では,この新聞発表2本を確認する上で,お二人の共同供述書に署名を頂くことができますか。執筆者であること,そしてその記事が真実であること,つまり,記述内容が真実であることを供述してください。
(答)はい。供述します。

2007年6月22日 (金)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか4──野田少尉の弁明そして遺書──

 ここまで、鈴木明が朝日新聞の連載記事「中国の旅」の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)を読んで以降翌年3月までに発掘した資料を紹介してきました。ほぼこれと平行してイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏との論争が始まっていたのですが、本多氏が『諸君』紙上に「百人斬り競争」に関わる4つの資料を提示したのは『諸君』4月号(4月1発売)ですから、鈴木明は、彼らとは別に、独自の視点で調査を進めていたことになります。(洞富雄氏は「鈴木氏は、〈ベンダサン〉とともにお窮地に追い込まれた『諸君』編集部によって頽勢を一挙に挽回せんものと送り出された」などどいっていますが・・・)『南京大虐殺まぼろし化工作批判』p38

 こうして新しく発掘された資料をもとに書かれたものが「向井少尉はなぜ殺されたか」(『諸君』8月号掲載)でした。ここには、先に紹介した向井少尉に関する資料だけでなく、野田少尉の母親から送られてきた「上訴申辨書」(死刑判決後に、最後に弁護人が裁判所に出したもの)や、東日の「百人斬り競争」の新聞記事をもと書かれたティンパーレの「南京殺人レース」と題する英字新聞記事の概要、南京法廷における向井少尉の無罪を証明す「証言」集めに奔走した実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友の証言、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏の証言、さらに、台湾の台北市に行き、この裁判を担当した五人の裁判官の内の一人(石氏)の証言も得ています。

 この内、石氏の証言次のようなもので、きわめて貴重な証言といえます。

 「南京事件は大きな事件であり、彼らを処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には可応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた。私個人の意見はいえないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まできたのであろう。・・・最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけはいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と──」

 こうした取材のエピローグとして、鈴木明は次のようにいっています。

 「本多勝一氏は『中国の旅』の連載途中で、読者への断わり書きとして、『かりに、この連載が中国側の”一方的な”報告のようにみえても、戦争中の中国で日本がどのように行動し、それを中国人がどう受けとめ、いま、どう感じているかを知ることが、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と書いた。

 いま僕も、全く同じように『かりに、この小文が、”銃殺された側”の”一方的な”報告のようにみえても、終戦後の中国で、二人の戦犯がどのように行動し、それを、関係者や遺族がどう受けとめ、いまどう感じているかを知ることも、相互理解の第一前提ではないでしょうか』と問いたい。

 そして、同じく『百人斬り』を取材しながら、このルポで僕が取材した内容の意識と、朝日新聞の『中国の旅』の一節との間に横たわる距離の長さを思うとき、僕は改めてそこにある問題の深さに暗澹たる気持ちにならないではいられなかった。」と(同書p109)

 その後、鈴木明は、もう一人の戦犯である野田少尉が死の寸前に書いたと思われる獄中手記を入手したとして、その一部を紹介しています。この全文は、向井少尉の遺書と同じ『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)に収録されていますが、ここでは、平成一三年三月に、野田少尉の実妹、野田マサさん(当時七二歳)が保管していた遺品の中から見つかった「新聞記事の真相」と題する手記と、死刑当日(昭和23年1月28日付)の日記に記された「遺書」を紹介しておきます。

 新聞記事ノ真相

 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
 十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
 記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
 向井 「関ノ孫六デス」
 野田 「無名デス」
 記者 「斬レマスカネ」
 向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
 記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
 向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
 記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
 向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
 野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
 記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
 向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
 記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
 シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
 尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
 野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ

 記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
 野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
 記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
 野田 「ソウデスカ」
 記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
 
 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
 右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
 貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

野田毅氏の「遺書」(昭和23年1月28日日記より)

 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々

 死刑に臨みて

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。
 只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴らさんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が、到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

 野田毅

『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p4

2007年6月20日 (水)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか3──向井少尉の弁明そして遺書──

 鈴木明が、向井少尉の申辨書と彼の遺書の一部を読んだのは、昭和47年3月中旬頃のことです。また、向井少尉から彼の母宛の遺書(全文)を読んだのは、成田に住む先妻の次女千恵子さんを訪れた3月24日です。この遺書や申辨書が中国からどのようにして持ち出され遺族の手に渡ったかというと、それは「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活した」人たちの手によるもので、このことは、その中の一人当時島根県江津市に住む小西さんという方が、鈴木氏に次のような手紙を送ったことで判明しました。

 ─「私は当時南京戦犯拘留所で、向井、野田、田中その他の人たちと一緒に生活し、彼らが内地から送られてきたときから、死刑になるまで、ともに語り合ったものです。
 当時拘留所は木造の二階建てで、元陸軍教化隊のあったところとききました。一階が各監房、二階半分が監理室、半分が軍法廷あてられていた関係もあり、耳を澄ませば二階の裁判の模様がききとれるような環境でした。
 谷中将と向井、野田両氏が何時送られてきたかのはっきりした記憶はありませんが、彼らが着いて直後、予審とも記者会見ともわからないようなものをやり、この人たちがはじめから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。『事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である』といっていたそうで、大虐殺の犯人(「南京大虐殺」─筆者)として事件に結末をつける政略的なものであろうと、我我も話をしていました。

 彼らは死刑判決後、柵をへだてた向こうの監房に移されましたが、書籍や煙草を送ることや、会話は許されました。彼らは、この事件は創作、虚報であるとくり返し訴え、浅海記者がそのことを証明してくれるだろうといっていました。

 判決後、その浅海記者の証言を取り寄せるため、航空便を矢つぎ早に出しました。その費用を出すため、私たちも衣類を看守に売ったりして援助しました。やがて待望の証言書が届き、その時は彼は声を上げて泣きましたが、この証言内容は、よく読むと老獪というか、狡猾というか、うまく書いてあるが決して『創作』とは書いてありませんでした。そして、彼らは処刑されました。

 残された我々は当時、皆涙を拭いながら、浅海記者の不実をなじったものです。記者が、どういう思惑があったかは知りませんが、何物にもかえ難い人命がそこにかかっていたということを、知っていたのでしょうか。

 たしかに、裁判もでたらめでした。二回の審議で、つぎは判決だったと思います。証拠も新聞記事が主なものでした。彼らは日記をつけていたので、私たちが遺族にとどけようということになり、私は向井、酒井隆、鶴丸光吉のものを引き受けました。向井の分は上海拘留所に移された時、無罪で三重県に帰る人がいたのでお願いしました。後に、確かに渡したという照会も致しました。

 私はこの手紙を書くに当たって、今更このようなことを書いても、余りに空しいと思いましたが、刑の執行の朝、彼らが、軍事法廷になっていた二階で、”天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇ってくるので、あえてここに筆を執りました。まずは、ご参考までに。」(『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明p121」)

 また、この時、鈴木明の見た「上申書」は、向井少尉の弁護人(『偕行』記事によると薛弁護士)が南京軍事法廷に提出したと推定されるものです。(南京軍事裁判所の検事による二人に対する審問は昭和22年11月6日に始まり、12月18日に死刑判決が下されるまで数回なされていますが、この審問の後二人が裁判所に提出したものが「答辨書」で、起訴事実に対する論駁として提出したものが「申辨書」です。ここで鈴木の見た「上申書」はこのいずれかの草稿と思われますが、日付の記載がないのでわかりません。)また、この本には、この「上申書」(カナ書きで長文のもの)を鈴木明が要約したものが掲載されていますので、ここでは、平成17年8月23日に言渡された本裁判(東京地裁)の判決資料として付された向井少尉の答辨書(s22.11.6)─おそらく最初の審問後に裁判所に提出したもの─を紹介しておきます。

*次のファイル資料は、「読める判決『百人斬り』」のサイトより転載しました。http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/hanketsu-3.htm

(向井少尉の答弁書11.6警察庭における審問後提出)
 「昭和12年11月,無錫郊外において,私は,浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は,浅海記者に向かって,『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから,花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は,笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので,『できない。』と答えた。浅海記者とは,『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。」

 「私は,無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら,砲撃戦の位置は,第一線よりも常にはるかに後方で,肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では,冨山大隊長の指揮から離れて,私は,別個に第十二中隊長の指揮に入り,丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ),その後,第十二中隊とも離別し,看護班に収容された。」

 新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い,かつ,百人斬りを続行したかのような記載があるが,事実においては,句容や常州においては全く戦闘がなく,丹陽以後,私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃,湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は,引き続き砲兵学校に駐留していたが,昭和13年1月8日,北支警備のため移動した。その間,私は,臥床し,治療に専念していた。」

 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」

 「私の戦争参加に関しては,新聞記事に数回連続して報道されたが,私は,中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで,かつ,無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが,記事には数回会合したかのように記載してある。しかも,私は負傷して臥床していたにもかかわらず,壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。」

 「昭和21年7月1日,国際検事団検察官は,私と新聞関係者,1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果,百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと,私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと,私が戦闘に参加したのは,無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること,私が丹陽の戦闘で負傷し,野戦病院に収容され,爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し,本件に関しては再び喚問することがないから,安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて,同月5日,不起訴釈放されたものである。」

 鈴木明はこの「上申書」を読んで、すぐに北岡千重子さんに会いに行きました。(3月19日)そこで、彼女から向井少尉との出会いや、昭和21年の夏に向井少尉が復員して以降約1年間の生活のこと、そして、東京の市ヶ谷の軍事法廷に連れて行かれた時の様子をきくことができました。「ある日、警察が『MPが向井敏明という人を探しているが、お宅の敏明さんは、本人ではないのか』と照会してきた。向井敏明は、彼女の実家である北岡家の養子という形で入っていたので、姓も北岡と変わっており」、警察は「姓も違うし、もし本人でないなら、そういってくれればいい」と暗に逃亡をすすめたといいます。

 しかし、彼は「僕は悪いことをしていないから、出頭します」といい、「珍しいものをのぞいてくるのも経験の一つ。それに、このことで困っている人がいるのかも知れない。大丈夫だよ。連合軍の裁判は公平だから」といったそうです。(*すでに21年7月に国際検事団の審査を受け不起訴となった経験があったからと思われます─筆者注)彼女が、虫の知らせもあって、「もしや、百人斬りのことが問題になるのでは・・・?」と彼にきくと「あんなことは、ホラさ」とこともなげにいい、「何だ、それじゃ、ホラを吹いて、あたしをだましたのね」と彼女がいうと「気にすることはないよ。大本営が真っ先にホラを吹いていたんだから。そんなこといい出したら、国中がホラ吹きでない人は一人もいなくなる─」とまじめな顔をしていったといいます。

 その後、鈴木明は向井少尉の先妻(先の北岡千重子さんは再婚)の次女にあたる向井千恵子さんに合い、彼女の所持していた、向井少尉から祖母(つまり向井少尉の母)宛ての遺書を見ることができました。千恵子さんは祖母のフデさんに(実母は終戦後ほどなく死亡)親代わりの愛情をそそがれて育ちました。フデさんのこうした苦労の支えになったのは、この『孫を頼むといった敏明の遺書』だったそうです。

 その遺書は次のようなものです。(『「南京大虐殺」のまぼろし』にはその一部が紹介されているだけですので、ここでは、その全文を紹介しておきます。)

向井敏明氏の遺書

  辞 世
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の若杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本の敢奮を祈る

 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
 死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明

  遺 書
 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
 野田君が、新聞記者に言ったことが記事になり死の道ずれに大家族の本柱を失わしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。
 猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした、兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明書も猛の手紙も見たです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間がする事ではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねてご不自由の御身老体に加え孫二人の育成の重荷を負せまして不幸これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当に苦労する事は明かですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互に相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生る為に収入の道も拓かねば成りますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です、早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理は申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。
 母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりお姿が浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不幸の連続でたまらないものを感じます、赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮して下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過して下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不幸の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と三名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝え願います。(下線は筆者)

『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)p41─42

2007年6月16日 (土)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか2──「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問──

 まず、「百人斬り競争」といわれる事件の概要を述べます。

 この事件は、1937年7月7日北京郊外で勃発した盧溝橋事件を発端とする日中戦争が、北京、天津陥落後8月に上海に飛び火し激しい市街戦となり、10月からは上海周辺に築かれたゼークトライン(ドイツ軍事顧問団の指導により塹壕要所に機関銃ポスト(トーチカ)を設けたもの)での攻防、そして11月5日、日本軍が杭州湾に上陸(第10軍柳川兵団)して以降、全面潰走となった国民党上海攻囲軍(約50万)を南京城まで追撃する間、二人の日本軍将校が、11月26日頃から12月11日までの約2週間余りの間、無錫‐南京間(約180㎞)において、どちらが早く日本刀で100人を斬るかを競ったとされる事件です。

 この事件は、東京日々新聞(今の毎日新聞)の従軍記者だった浅海一男等により、武勇談として当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞(毎日の支社)に4回にわたり掲載されました。戦後、この記事が東京裁判の国際検事団の注目するところとなり、昭和21年6月、関係者が召喚され尋問を受けましたが、同7月「書類不備」(証拠不十分)ということで不起訴釈放(向井少尉)されました。ところが、昭和22年になって再び戦犯として身柄を拘束され、巣鴨刑務所から南京軍事裁判所に移され、同年11月頃南京軍事裁判所の検察官の尋問を受けました。二人は、この記事は、無錫における記者を交えた「食後の冗談」を浅海記者が戦意高揚のため武勇伝化したものであり事実無根と訴えましたが、二人は12月18日「捕虜および非戦闘員を屠殺」したとして死刑判決を受け、翌年1月28日南京郊外で処刑されたものです。

 この事件は、戦後は特に注目されることはなく、ほとんど忘れ去られていましたが、朝日新聞の本多勝一記者が、昭和46年8月から12月にかけて、朝日新聞紙上に「中国の旅」(日中戦争時における日本軍の残虐行為を紹介)を連載し、同年11月5日この事件を「競う二人の少尉」という見出しで、中国人の姜さんの話として次のように伝えたことから、この話が事実か否かをめぐって大きな論争に発展しました。

 「”これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが”と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。
 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
 二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
 この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さん(日本軍の南京攻撃の際に日本兵に家族が虐殺された経験を持つという人物─筆者注)はみている」

 この記事を見た鈴木明(『南京大虐殺」のまぼろし』(1973.3.10)の著者)は、「ちょっと待てよ、・・・この殺人がもし戦闘中のことならば、少なくとも昭和十二年当時の日本人の心情には『許される』残虐性であろうが、いかに戦時中の日本といえども、戦闘中以外の『殺人ゲーム』を許すという人はいないだろう。では、何故、本多氏はあえてこのような記事の書き方をされたのだろうか?」と疑問に思い、そのモトの話とは、一体どんなものなのだろうか、と当時の新聞をしらみつぶしに調べたところ、すぐに上述の東京日日新聞に該当する記事を見つけることができました。(この本で紹介されているその新聞記事は第1報と第4報のみですが、ここでは第2報、第3報も併せて紹介しておきます。なお、この記事は、東京日々新聞(毎日新聞の東京支社)と大阪毎日新聞だけに掲載され、他紙の後追い報道はありませんでした。また、この両紙に掲載された記事内容には若干の違いがありますが、追って検討したいと思います。)

(以下の新聞記事データは次のサイトより転載しました)http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nichinichi.htm

1937年11月30日付朝刊(第1報)1937年11月30日付朝刊(第1報)
(見出し)百人斬り競争!/両少尉、早くも八十人
(本文)[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

 1937年12月4日付朝刊(第2報)
(見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
(本文)[丹陽にて三日浅海、光本特派員発] 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

1937年12月6日付朝刊(第3報)
(見出し) 89-78/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

1937年12月13日付朝刊(第4報)
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦
(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

 鈴木明は、この記事は、「今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている」として、次のような指摘をしました。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。

 その上で次のような感想を述べています。

 「これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 こうした感想を、氏は昭和47年4月号の『諸君』に「『南京大虐殺』のまぼろし」と題して発表したわけですが、この同じ号の『諸君』には、本多勝一氏のエッセイ「雑音でいじめられる側の目」が掲載されていました。これは、私が前回のエントリーで紹介したように、イザヤ・ベンダサンが同誌に「日本教について」の連載中1月号で「朝日新聞のゴメンナサイ」と題して、日本人の謝罪の不思議について論じたところ、本多勝一氏がこれに「公開質問状」(同2月号)を寄せ、これに対してベンダサンが「本多勝一様への返書」(同3月号)と題して、朝日新聞の「中国の旅」における日本軍の二人の少尉の「殺人競争」の話を伝説だといい、このA、B二少尉の実名を明らかにするよう求めたことに対する反論として掲載されたものです。

 この中で本多勝一氏は、私の原稿では実名を出していると述べた上で、先に紹介した東京日日新聞の第1,4報の外2資料を示し、次のように述べました。

 「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして”伝説”だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年一二月八日、また向井は一九四八年一月二八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。惜しいことをしました。と申しますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもお知らせできたでしょうに」(死刑は二人とも昭和二三年一月二八日─筆者注)

 これを読んで、鈴木明ははじめて二人が南京で二十数年前に銃殺されたことを知り大きな衝撃を受け次のような感想を漏らしました。
  「『美談』が『真実』とうけとられ二人の人間が衆人の前で銃殺され、更にその『真実』は『神話』にまで高められ、『日中国交回復に当たって、まず日本人が中国に土下座して詫びなければならない残虐行為の代表的なもの』にまでなってしまった」と。

 ところが、こうして「百人斬り神話」はそのまま「神話」として、永劫の彼方に消え去るかに見えましたが、ある日、『諸君』編集部に「北岡千重子」さん(向井少尉の未亡人)から手紙が送られてきて、その手紙には向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井敏明付弁護人の上申書が添えられていたのです。そしてこれ以降、先に述べたような鈴木明の疑問を解き明かす新たな事実が次々と明らかにされていくのです。

2007年6月 8日 (金)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか──イザヤ・ベンダサンと山本七平──

 wikipediaの「山本七平」の項目では、山本七平の評価について「山本は、その評価をめぐっては賛否が激しく分かれており、きわめて毀誉褒貶の激しい人物といえよう。」と前置きし、「死後10年以上経った現在でも、著作が復刻されたり、文庫・新書化されたりすることがあらわしているように、山本の著作は今なお読者を惹きつけている。・・・その一方で、山本の著作には記憶にたよった不正確な引用や、出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。・・・」としています。

 そして、その具体的な批判として、朝日新聞の本多勝一記者との、いわゆる「百人斬り競争」をめぐる論争を取り上げ次のように批判しています。
 「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がるものの、この理論がユダヤ人からわざわざ「ヒントをもらった」とは考えにくい。」

 こうした主張は、wikipediaの、この項目の「ノート」を見ていただければ判りますが、「らんで」さん外、山本七平を批判される方が執拗に主張しているものです。しかし、「彼(山本七平)はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、・・・」というのは、以下に述べる通り事実に反していますし、山本七平が「百人斬り競争」の新聞記事を批判した根拠は、「日本刀の性能」だけではなく、また、そこで使われた論理が誤っていたわけでもありません。さらに、「この論理がユダヤ人からわざわざ『ヒントをもらった』とは考えにくい」という批判も意味がわかりません。

 「百人斬り競争」をめぐる論戦におけるイザヤ・ベンダサンの主張は、「朝日新聞のゴメンナサイ」(『諸君』S47.1)で、朝日新聞の「中国の旅」を日本人の謝罪=責任解除の問題として取り上げたことが最初です。これに対して本多勝一氏が「イザヤ・ベンダサン氏への公開質問状」で、私も「日本的な『謝罪』の無意味さ」を指摘してきた。また、私は「南京大虐殺事件」当時幼児であり直接の責任はない。従って、中国に「ゴメンナサイ」とはいわない。そのかわり、その真の責任者である天皇の戦争責任を追及することが真の謝罪になる、と反論しました。

 これに対して、イザヤ・ベンダサンは、「日本人がすぐ『私の責任』という」のは、本多氏のいう「責任回避」の意味ではなく「責任解除」(一種の「懺悔告解」)という意味だ。また、本多氏が、中国民衆への真の謝罪は「天皇の戦争責任」を追求すること、と断言する以上、天皇裕仁個人に公開書簡を送るなど個人責任の追及をすべきではないか。また、そのように天皇の責任追求を主張する方が、「中国の旅」の「百人斬り競争」(=殺人ゲーム)における加害者の名前をなぜ匿名にしたか(といっても「身代わり羊」にしろということではなく、すべての人間には「釈明の権利」があるということ)。また、一体、本多氏はこの「百人斬り競争」報道で、「中国人がかく語った」という事実を示しているのか、それとも「中国人が語ったことは事実だ」といっているのか。おそらく、私は、この物語は「伝説」だと思うが、ルポとは、この「伝説」の中から事実の「核」を取り出す仕事ではあっても「伝説」を事実だと強弁することではありますまい、と反論しました。

 これに対して、本多氏は、「責任回避でなく責任解除だ」というベンダサンの論は理解しない(できない?)まま、あなたのおしえてくれた天皇の『責任の糾弾』の方法は、ばかげた、ムダなことなのでしない。「中国の旅」には加害者個人の名前を全部出したが新聞社の編集権によりA,Bとなった。また、あなたは、この「百人斬り競争」を伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」といったが、ではルポ的な方法でお答えする、といって、『東京日々新聞』(1937.11.30、12.13)の「百人斬り競争」の2本の記事、月刊誌『丸』(1971.11)の鈴木二郎もと特派員の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」の記事、月刊誌『中国』(1971.12)の志々目彰氏の「日中戦争の追憶」の資料を提出し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおもダンコとして『伝説』だと主張いたしますか」と反論しました。

 これに対して、ベンダサンは、「中国の旅」の記者に「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送ったところ、反論とともに「事実である」という多くの証拠が『諸君』に掲載された。しかし、ここで提出された「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は3人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションということになる。一体どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか。というのは、これらの記事はともに「語られた事実」にすぎず、従ってその相互の矛盾から、ぎりぎりの推断によって事実の「核」に迫るべきであるが、この記者は「語られた事実」と「事実」を峻別することができず、いまだ証明されてもいない「語られた事実」を事実と断定して、それと矛盾する資料でも量を集めればそれの証拠となる、と考えているらしい。もし、本多氏があくまでもこの記事が『事実』だと主張するなら、それがフィクションであることを一つ一つ論証する(『日本教について』p271)と反論しました。

 こうしたイザヤ・ベンダサンの主張に対して山本七平は、この時点で提示された「百人斬り競争」関連資料(鈴木明氏の発掘したものを含む)だけで、この事件をフィクションと断定することはできないのではないかと考え、次のような会話を訪れた記者と交わしたといっています。「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫ですかな。事実だったら大変ですな」と。そこで「いかなる論拠でフィクションと断定できるか」という趣旨の手紙をベンダサンに出し、しばらくして返事をもらったとして、その内容を紹介しているのです。(『私の中の日本軍』p240)

 つまり、山本七平は、イザヤ・ベンダサンとは全く別の手法で、自分と、この事件の首謀者とされる向井少尉、野田少尉との共通体験(向井とは同じ幹部候補生出身で砲兵、野田とは同じ副官経験を持ち、また日本刀で手足を切断したというような)を手がかりに、この東京日々新聞の「百人斬り競争」記事は、この記事を書いた新聞記者の創作ではないかと論証していったのです。(この論証の内容は、大変おもしろい、というよりここで紹介された日本人の行動様式は、日本人が、戦争という危機的状況におかれたときどのように行動するか、を考える上で誠に貴重な体験といえるものですから、是非ともこの『私の中の日本軍』をご一読いただきたいと思います。)

 話はもとに戻りますが、wikipediaのノートで「らんで」氏は、このようにイザヤ・ベンダサンと山本七平の主張をごちゃ混ぜにすることによって、山本七平はその著作において虚偽、捏造を行った人間であり信用できないときめつけているのです。(そんなに言うなら「らんで」なんていう匿名も使うべきではないと思いますが。)

 驚くべき事に、この種の「ためにする」批判が、山本七平に対する批判の主要な根拠となっているのです。つまり、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物視することで、「出所のあきらかでないエピソードの披露などが多く、評論家としては信用に値しないと考える人間もまた少なくない。」といった批判が作られているのです。現在では、『日本人とユダヤ人』の著作は山本の外2名のユダヤ人が、それ以降のベンダサン名義の著作は山本の外1名のユダヤ人が関わっていることが明らかとなっているにもかかわらず。

 この件に関して、『日本人とユダヤ人』には英語の原著がなく、日本語で書かれたものであることをもって、イザヤ・ベンダサンと山本七平を同一人物と見なす意見がありますが、この謎について、山本七平は「昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた三人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本になった」と説明しています。(『怒りを抑えし者』P409)ただ、稲垣氏自身は、「それは多分、ローラーとホーレンスキーの語った部分を日本語にしたものを、山本が参照したものにすぎないと思われる。」としていますが。

 私自身は、今まで論じてきたように、この問題は、山本七平の言葉によって理解すべきだと考えているわけですが、たとえ、稲垣氏のいうように『日本人とユダヤ人』のコンセプトは山本七平自身のものであったとしても、イザヤ・ベンダサン名義の著作に出てくるエピソードのうち山本七平自身の体験とは思われないものは、当然、ローラーやホーレンスキーによりもたらされたものと考えるのが筋だと思います。山本七平は自らの名義で、ベンダサン名義のものとは別のコンセプトでこの問題に関する著作をしているのですから。

 そこで次回から、本多勝一氏が1971年に朝日新聞に連載した「中国の旅」においてとりあげた「百人斬り競争」をめぐる論争において、山本七平がどのような主張をしたかを、詳しく見てみたいと思います。この問題は近年裁判でも争われ(2006.12.22最高裁で原告敗訴)、その結果をめぐって誤解も生じているようですが、この問題から私たち日本人が何を学ぶべきかということについては、すでに、イザヤ・ベンダサンと山本七平によって論じ尽されている、と思うからです。

 ネットにおけるこの裁判に関するコメントも見てみましたが、こうした観点からなされたものを見つけることはできませんでした。「天秤の論理」の世界では、ものごとを歴史的に把握する視点がなく、「今」の勝ち負けだけで物事を判断する傾向がある、と山本七平は指摘しています。そこで、次に、この「百人斬り競争」をめぐる論争の経過を、「歴史的」に検証してみたいと思います。

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