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2007年7月

2007年7月16日 (月)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか9─ベンダサンが「中国の旅」を取り上げたワケ─

 ベンダサンが朝日新聞の「中国の旅」を取り上げたのは「昭和47年1月号の『諸君』です。ベンダサンはこの時「日本教について─あるユダヤ人への手紙」と題するエッセイを『諸君』に連載中で、これはその第9回目にあたり論題は『朝日新聞の「ゴメンナサイ」』となっていました。

 ベンダサンのこのエッセイは、その前年に出版されて大評判となった『日本人とユダヤ人』の内容を敷衍するもので、『日本人とユダヤ人』が主として「日本教」の長所と思われる部分(=政治天才など)を論じていたのに対して、ここではその逆に「日本教」の短所と思われる部分を論じていました。

 それは「言葉の踏み絵と条理の世界」に始まり、日本人は言葉を「踏絵」として差し出す。この踏絵は一宗教団体が正統、異端を見分けるためのものである。この踏絵の基礎となる教義を支えている宗教が私のいう日本教である。そして日本語とは、その日本教の宗教用語である。その基礎は教義であって論理ではない。日本語には論理はない。論理がないから、厳密な意味の叙述もない、など、かなり思い切った論述がなされていました。(立花隆氏などはこれに猛反発していましたね)

 では、日本人の論理(論理ではないが、何かそれに似た順序で、結論を追っていく方法)とはどういうものかというと、それは「天秤の論理」とでもいうべきもので、天秤皿の一方には実体語(=本音に近い言葉)が載っており、他方の分銅を乗せる皿には、その尺度としての空体語(=建前に近い言葉)が載っており、この二つの言葉を(日本人の言う)「人間」という支点でバランスをとることによって、提示された問題についての政治的決着がはかられる、というのです。

 また、こうした政治的決着に至るためには、その相手と「お前と、お前のお前(=自分)」という二人称の関係に入ることが必要で、そのためには両者の「話し合い」が極めて重要になると論じています。また、日本人はこのような二人称の関係に入ることを「民主的」と考えている、というのです。

 そしてここから、日本人における「責任」という問題に論及し、夏目漱石の「坊ちゃん」の狸校長の「私の寡徳の致すところ」(=自分の責任)という言葉を引き合いに出して、日本人の謝罪の不思議を指摘しました。いわく、日本人は「自分の責任」ということによって自分の純粋性を証明し、それによって、逆に「自分の責任が免除される」ことを当然としている、と。

 こうした論述の流れの中で、冒頭に述べた朝日新聞の「中国の旅」がとりあげられたのです。つまり、今、朝日新聞が、中国で日本人が行った虐殺事件の数々を報道しているが、不思議なことにこの記事にも、この記事への反響にも、その虐殺事件を起こした個人に対する責任追及が全くない、というのです。

 そしてベンダサンは、「『ソンミ事件』の報道がカリー裁判となったように、この報道が中国における虐殺事件の責任者を日本の法廷に立たせることが起こりうるか、と問われれば、この連載はまだ終わってはいないが、終わった時点においても、日本ではそういうことはもちろんのこと、個人の責任の追求も、絶対に起こらないと断言できます。」

 といっても、「もちろん日本人は一部で誤解されているような『フェアーでない民族』ではありませんから、以上の考え方を自己弁護のため自らにだけ適用しているのではなく、自らが被害者になった場合にも等しく適用しているのです(これは見落とされがちですが)。たとえば『原爆反対』の運動はあっても『ヒロシマに原爆投下を命じたトルーマン元大統領(故人)の責任を追及する』ということは起こらないのです。」

 「では一体『朝日新聞』は何のためにこの虐殺事件を克明に報道しているのでしょうか。これによって『だれ』を告発しているのでしょうか。『だれ』でもないのです。・・・(それは)『戦争殺人』『侵略殺人』『軍国主義殺人』を告発しているのであって、直接手を下した下手人個人および手を出させた責任者個人を告発しているのではないのです。そしてこの虐殺事件を起こしたのは『われわれ日本人』の責任だといっているのです。」

 そこで、こういった日本人の態度について、「坊ちゃん」の狸校長への批判の言葉を適用すると、「われわれ日本人の責任だというなら、そう言っているご本人も日本人なのだろうから、そう言う本人がまずその責任をとって、記事など書くのはやめて、自分が真っ先に絞首台にぶら下がってしまったら、よさそうなもんだ」ということになります。

 「しかしそう言えば、この記者はもちろんのこと、『朝日新聞』も識者も読者も非常に怒り、・・・『そういうことを言うやつがいるから、こういう事件が起こるのだ』と言われて、この言葉を口にした人間が『責任』を追求されますから、これはあくまでも『ひとりごと』に止めねば、大変なことになります。」

 つまり、「日本教=二人称の世界では、『それは私の責任』ということによって『責任=応答の義務』はなくなるのに、この論理は逆に『(私の)責任だと自供したのなら、自供した本人がその責任を追及されるのは当然だ』としているからです。もう一度申し上げますが、これは日本教では絶対に許されません。もしこれを許したら、日本教も天皇制も崩壊してしまうからです。」

 以上のように述べた後、ベンダサンは再び『朝日新聞』の「中国の旅」にもどり次のように言います。
 「私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本には現在『日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ』という強い意見があります。一見、誠に当然かつ正しい意見にみえますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。すなわち『私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係に入りうる』と言う考え方が前提に立っているとしか思えないのです。・・・

 しかし中国側からこれを見れば『日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ』ということになります。これは『債務を認めます』と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いされたと同じような怒りを中国人に起こさせるわけです。」

 今「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関の共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は皆無と言って過言ではありません。・・・理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは『お前のお前』という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。」

 そして「以上のことは、もちろん、別に日本の政府や新聞を批判するために書いたわけではありません。ただこれらのことを絶えず念頭に置いておきませんと、これからのべる『世にも不思議な物語』が、全く理解できないであろうと考えたからです。」といって、「松川事件」における被告の、ほとんど「鸚鵡的供述」ともいうべき「自供」「証言」の「不思議」について論究していくのです。(以上『日本教について』「朝日新聞の『ゴメンナサイ』」)

 これに対して、朝日新聞の「中国の旅」の記者である本多勝一氏は、同年の『諸君』2月号に「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し、次のように反論しました。

 「あの一月号のベンダサン氏の文章を読んだら、最初から『あ、これはアラビア人の目で日本人を見たときと同じだ』(本多氏の「アラビア遊牧民」参照=筆者)そのような共通な視点にある僕に対して、ベンダサン氏は『責任を持って追及すべき相手は〈ゴメンナサイ〉といわなかった者でなく、この行為の下手人と責任者なのだ。それをしないで〈ゴメンナサイ〉といわない者を追求しても、それで〈日本人は責任を果たした〉と考えるのは日本人だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか』とかみついているんだなあ。困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いているんだから。」といって、氏の著作『極限の民族』「秘境日本」(p410)の一節を引用しています。

 〈・・・とにかくだまされたら命がないのだから、人間は絶対に信用してはいけない。また、たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのだ。100円の皿を割って、もし過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれないからだ。だからサラを割ったアラブはいう─『このサラは今日割れる運命にあった。おれの意志と関係ない』

 さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない─『まことにすみません』。ていねいな人は、さらに『私の責任です』などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと『イタリアのサラならもっと丈夫だ』というようなことをいうだろう。

 私自身の体験ではせますぎるので、多くに知人、友人または本から、このような『過失に対する反応』の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。『私の責任です』などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどいない。日本とアラビアとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い〉

 本多氏は、このように、日本人にすぐ「私の責任です」と謝る習性があることについて、それは世界の主な国においてはまことに特殊なことだと、ずっと前に私自身指摘していると述べた上で、次のような内容の、氏が、「中国の旅」の取材に協力してくれた人たちに対して述べたお礼の言葉を紹介しています。

 その要旨は、南京大虐殺が行われていた当時私は幼児だったので、この罪悪に対する直接の責任はない。本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。だから、私自身が皆さんに謝罪しようとは思わない。だが、日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年過ぎた今なお、中国で日本が何をしたかという事実そのものを知らされていない。その事実を日本国民に知らせ、現在進行中の日本における軍国主義の進行を阻止することこそ、真の謝罪になる、というものです。

 そして、その終章で「真の犯罪人は天皇なのだ」として、ベンダサンが発した、朝日新聞の「中国の旅」の記者は「これによって『だれ』を告発しているのでしょうか」という問に答える形で、次のような、氏が『月刊社会党』に書いた一文を紹介しています。

 〈中国人が何千万人も殺された行為が、どのような構造によってなされたかを、素朴に、原点にさかのぼって考えてみよう。・・・天皇制。すべては天皇に象徴される天皇制軍国主義によってなされた。・・・すべては天皇の名において駆り出され、殺されたり、殺させられたり、あるいは本土でも大空襲や原爆で殺された。・・・ところが、そのわかりきった最大の戦争犯罪人を日本の私たちは平然と今でもそのまま保存している・・・

 天皇制などというものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだということは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。少しでも、ましな民族になってほしいと、いたたまれない『愛国』の気持ちで、こんな文章も書いている。・・・

 戦後、天皇は人間になったなどといわれたが、『象徴』という奇妙な存在として、結局は天皇制が残された。この曖昧な存在。こういう思想的甘さが、どれだけ残酷な結果をもたらしてきたことだろうか。天皇が断罪されるかどうか。まさにこれこそ日本人がアニミズムから脱却できるかどうかの「象徴」なのだ。・・・このような天皇制について、一切口をぬぐっている者は、中国やアジア諸国に対して「謝罪」の如きを決して口にしてはならない〉

 そして、最後に、ベンダサンが、「中国の旅」を「謝罪」だと決めつけたことに対して、あれは、とにかくまず素材としての事実を知ることを第一の目的とするルポであるといい、ベンダサンの視点と自分の視点は「ある限界までは同じ」だが、「基本的には同じ」ではないとして、ベンダサンに対して、その名解釈を期待したいとする次のような問題を出しました。

 「『責任者個人』を追求して裁判にかけないのは日本的特徴だと彼は書いているが、またこれには僕自身も大賛成なのだが、それでは、アメリカ人が主体となってやった東京の極東軍事裁判は、どうして天皇を裁判にかけなかったんだろうか。これでは日本人のやり方とアメリカ人のそれと全く一致してしまうじゃないか」と。

 こうして、イザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争が開始されたわけですが、ここにおける本多氏の論を見れば、この論争が「日本人の謝罪」論に止まるものではないことは明らかです。しかし、それにしても、この本多氏の公開状に対するベンダサンの返書は驚くほど挑発的なもので、慇懃無礼というほかないものでした。識者の中にはこれを惜しむ意見もありましたが、その後の、ベンダサン自身の「種明かし」によると、これはなんと、氏が「日本教について」で論じてきた、日本人の証言における「鸚鵡的供述」(=オシャベリ機械)を、本多氏を相手に紙上で再現するためであった、というのです。(『日本教について』p277)
 なにはともあれ、次回以降、その論争の跡をたどってみましょう。ここから「据えもの百人斬り競争」という恐るべき主張が姿を現すことになるのですから。

2007年7月 4日 (水)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか8─ベンダサンのフィクションを見抜く目─

 以下の文章は、前回紹介した山本七平からベンダサンに宛てた質問状に対するベンダサンの回答を山本七平が要約したものです。大変おもしろいので、長くなりますが、そのまま引用させていただきます。

 〈これは競技の記事である。たとえ場所を戦場に設定しようと、競技の対象が殺人という考えられない想定であろうと、これは競技の記事であって、戦争の記事ではない。言うまでもなくすべての競技には「ルール」「審判」「参加者」が必要であり、それを記録するなら「記録者」が必要であり、そしてその全員がルールを熟知していなければ、競技も競技の記述も成立しない。全員が自分たちが何を争っているかわかっていない競技は存在しない。従ってこの二つの記事にも、もちろん最初にまずルールが記述されている。ルールは「本多版」も「浅海版」も同じで、それは「本多版」に次のように明確に記されている通りである。

 「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本人がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。従って、この競技は、「フィールドの範囲を示し、次に数を限定し、時間を争う型」の競技である。従ってその原則は基本的に百メートル競走と差はない。「一人斬り」を「一メートル走り」となおせばそれでよい。すなわち競技者は、どちらが早く百に達するか時間を争っているはずであって、時間を限定して数を争っているのではない。

 通常、競技は、ルールという多くの確定要素の中の一つの不確定要素を争うもので、不確定要素が二つあっては競技は成立しない。またこの不確定要素すなわち争点が絶えず変化する競技も存在しない。

 しかしこれはあくまで原則であって、実際には、不確定要素が二つある場合もある。これがいわば「百人斬り競争」であって、百という数は確定していても、これは百メートルのように予め設定されているわけではなく、現実には、競技の進行と同時に発生していく数である。

 この種の競技に審判が判定を下す方法は原則として二つあるが、通常採用されているのは「ストップ」をかける方式である。一応「ストップ方式」としておく。すなわち、一方が百に達した瞬間にストップをかける。その際、もちろん、相手の数が百を超えることはありえない。この際、相手が九十八ならその差は数で示されるが、この数はあくまでも時間を数で表現しているのであって、争われているのは時間である。

 この方式は、通常、減点方式がとられるはずである。明らかにこの「ストップ方式」を想定しているのが「本多版」である。これについては後述するが、いかにフィクションとはいえ、戦場においてストップ方式を採用させることは出来ない。理論的には別だが、実際問題において、この種の競技はストップ方式しかとれないのが普通だから、「事実」にしようと思うなら、戦場もしくは戦闘行為という想定をはずさなければならない。従って「本多版」は、実質的に戦場ではない。前記のルール通りなら、こうする以外には不可能である。

 ここで「浅海版」を見てみよう。恐るべき論理の混乱ではないか。この点「本多版」から本多氏の加筆を除いた部分は、論理の混乱は全くない。中国人は日本人より論理的なのかも知れぬが、これは恐らく「浅海版」が、基本的には上記と同じ論理を戦場にあてはめようという「不可能」を無理に行ったため生じた混乱であろう。

 「百人斬り競争」という言葉自体が、「数を限定して時間を争う」ことを規定しており、同時に部隊が移動していることは、場所の移動が時間を示している。言うまでもなく、向井少尉の「丹陽までで云々」は丹陽につく時間までには、百というゴールに到達してみせるぞ、という意味であって、この場合の彼の言葉は、あくまでも「百という数を限定して、それを争っているこの競技において、おれは、時間的に相手を切り離したから、俺の勝ちになるぞ」といっているわけである。ここで彼は、はっきりと数を限定して時間を争う競技と意識しており、これへの野田少尉の返事も同じである。ところがいつの間にか、このルールをあやふやにして、時間を限定して数を争う競技でもあったかの如く、次のように変えている。

 野田「おい俺は百五だが貴様は?」向井「俺は百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、改めて百五十はどうぢゃ」

 いかなる競技であれ、本当に競技を行ったのなら、そしてそれが「時間を争う」競技なら、百に達した時間を記憶していないと言うことはない。第一その時に出てくる質問はあくまでもまず相互に「お前は何時何分に(場所にかえて「どこで」でもよい)百に達したか」であっても数ではない。次のそれにつづく「改めて百五十」とは何を意味するのか。数を決めて時間を争うというのか、時間を決めて、百五十を目標に争うと言うのか。

 もし、本当にルールが設定され、競技が行われ、その結果を摘記要約したのなら、いかなる競技の記事であれ、このような混乱は生じえない。たとえばオリンピックの百メートル競走において、百メートルという数を限定してそれに到達する時間を争っている、と書いているものが、途中で、時間を十五秒にきめてその間に何メートル走れるかを争っている、と書きかえていたら、すべての人が、この記述はおかしい。何かの混乱か、誤記か、とまず考えるであろう。私の考えでは、そう考えない人のほうがおかしい。だが、事実を記述した場合の混乱は、記者の認識不足から生ずるのであって、「事実」が混乱を生じているのではない。従って事実を整理すれば、記者の認識不足が浮かび上がる。そしてこの場合は、フィクションではないと考えるのが本当であろう。だがここで、この点で「本多版」の検討に移ろう。

 「本多版」は論理的構成においては破綻を来しておらず、ルールの設定、審判の態度、その他すべて筋が通っており、二人は終始、はっきりとそれを意識して数を限定して時間を争っている。第一回は百に達しなかった。これは百メートル競走において一人が八十九メートル、もう一人が七十八メートルで転倒したに等しい。これでは競技をやりなおすより仕方がない。しかし第二回においては、一方が百に到達した瞬間にストップをかけよと審判に注意すべきものが失念し、二人が共に百を超してしまったときに、はじめて審判がこれに気づいた。いわばゴールにテープをはるのを忘れて、一方が百六メートル、一方が百五メートルまで走ってしまったときにそれに気づいたに等しい。当然審判は不機嫌になり、コースを百五十メートルにのばして、もう一度競技を再開することを命じた。

 この設定を読んだ場合、本多氏のように、「・・・二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」と見ることは少しおかしい。そうでなく姜氏は、三回目には審判もストップ係も緊張して、一方が百五十に達したときにストップをかけ、従って一方は百五十以下にとどまり、競技は成立したであろうと見ているはずである。記者の認識不足により生ずる混乱はこのような形で起こる。従って本多氏がこの話を聞いたという事実は、絶対にフィクションではない。これが、事実を整理すれば記者の無能と理解力の欠如に基づく誤認及びこれに基づく混乱がわかる例である。だが「浅海版」はそうではない。しかし「本多版」をさらに検討しよう。

 なぜ上官が登場したか。これは、審判である。前述のように不確定要素が二つあるに等しいため、ストップをかけて時間を数に還元して勝敗を決めるという方式の競技は、実際には、審判の目の前で行い、審判がストップをかけねば成立しないからである。従って、数に異常な誇張がなければ、「本多版」は、論理的には「ありえなかった」とは断言できない。

 従ってこのように記者の誤認を整理すれば、論理的設定が完全な場合の真偽は、数を単位に還元して調べる以外にない。たとえば長距離競走の記事があり、その論理的構成は完全であっても、逆算すると百メートルを三秒で走ることになっていたら、そういうことはあり得ない。しかしこれは人間の能力測定の問題であって議論の対象ではないから、これを議論の対象にすることはおかしい。

 ではここで「浅海版」へもどろう。戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。

 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。従ってそれによって生じた混乱は、「本多版」の混乱とちがう。

 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。

 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・〉

 高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげています。しかし、このことは35年前に始まったこの論争の認識の出発点だったのです。前回のエントリーで、山本七平が『週刊新潮』の常識的判断に疑問を投げかけたことを紹介しましたが、ベンダサンもこのことを基本認識に据えた上で、この話をフィクションと断定していたのです。(下線部筆者)

 

2007年7月 3日 (火)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか7─山本七平からベンダサンへの質問状─ 

 山本七平が自分の手で「百人斬り競争」に関する資料を集め始めたのは、昭和47年7月29日号の『週刊新潮』の記事や、『諸君』8月号の鈴木明の記事を読み、向井少尉が歩兵砲小隊長、野田少尉が大隊副官であることを知った後の9月頃からだといっています。その後、二人の上訴申辨書を書いた中国側弁護人(山本は催文元、鈴木明は崔培均、洞富雄は薛某としている。以下原文のまま)の公正な態度に感銘を覚えるとともに、その弁論の限界点も知りました。すなわち、催弁護人は両少尉の新聞記事を「唯一の罪証」としてはならないと主張はできても、その「唯一の罪証」である記事が、実はフィクションだと証明する手段が彼にはない。従って、催弁護人のできなかった点は、日本人自らの手でやるべきではないかと、山本七平は考えたのです。

 しかし、山本七平は、こうして「百人斬り」を究明していく内に、何とも解しかねる問題に改めてつき当たらざるを得なくなった、と次のように言っています。

 「これは私にとって余りに不思議であり、不可解なことであった。この記事は、35年間も事実であった。事実だったが故に、二人の処刑が事実になった。「おかしい」と思った人も昔も今もいたであろう。しかし、「おかしい」というのは、事実ともフィクションとも判断がつかないということであっても、「フィクションだ」ということではない。事実という証拠はなくても「フィクションだ」という証拠もなかったはずなのである。従って、資料が出てこない限りあくまでも「おかしい」で終わるはずである。

 ところが、本多・ベンダサン論争で、〈ベンダサンは、この二少尉の百人きり競争は伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」と、またしてもご指導下さいました。たしかに、ご指導されるまでもなく、そのとおりであります。自称ユダヤ人としてのあなたの目には、日本の新聞記者などは、かくもいい加減なものにみえるようですね、こういうひとにたいしては、やっぱりルポ的な手法でお答えすることにしましょう。まず、事実を列挙しますから、じっくりお読み下さい。〉

 という本多氏の前書き付きで、『浅海版』が三十五年ぶりに再登場したとき、ベンダサン氏はすぐに『浅海版』もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。
 ・・・初めはあまり気にもならなかったが、昭和47年7月『週刊新潮』を見、その後、鈴木明氏の『向井少尉はなぜ殺されたか・補遺』(「諸君」十月号)を読んで自分で分析しはじめてから、この疑問は日々に強くなった。というのはこれらの資料を一、二度読んだぐらいでは、このフィクションがどのように組み立てられていったかは、ちょっとやそっとでは解けないはずだからである。これは軍隊の記事だから、軍隊の実情を解明しつつ解かなければ、絶対に「フィクションと断定する証拠」は出てこないはずなのである。日本軍といっても最盛時には七百万もいたそうだから、兵科や境遇が違えば、その人の位置によっては、かえって事実にみえてくることもあるはずなのである。

 偶然としか言えないが、向井・野田そして私という三人が実に似た境遇にいたことが、資料以外の大きな解明のポイントのはずである。何しろ向井少尉は幹候の少尉であり(山本七平も同じ幹候=幹部候補生の少尉のことで士官学校出の本職の将校に対して臨時雇いの将校のこと──筆者)、しかも野田少尉も私も「ブヅキはコジキ」のブヅキ少尉(本部付将校とか指令部付将校の総称で、本部と現場の中間に位置し連絡調整・条件整備をする職で、同じ少尉でも本部付もいれば小隊長もおり、後者が殿様なら前者は乞食ぐらいの待遇の差があったという。──筆者)であり、向井少尉は歩兵砲とはいえ私と同じように「砲測即墓場」の一人であって、「ツッコメー、ワーッ」ではない。このほかにも共通点はあるが、何しろ七百万の中からこれだけの共通点がある三人が会い、私に二人と似たような体験があり、それを基にして資料を分析するから解けるので、そうでなければ、私ではフィクションと証明することは不可能なはずである。第一、もし二人が本当に第一線の歩兵小隊長であったら、もうそれだけで、私には何も論証できない。「おかしいと思うけどネ」が限度である。

 従って少なくとも私にとっては、これは、前記の三要素、すなわち資料・体験・共通性が、どれか一つでも欠けたら絶対に解けないはずなのである。そしてベンダサン氏は、そのどの一つも持っているはずがないのである。たとえ氏が日本軍に関する資料や情報をもっていても、それは、「本多版」「浅海版」という二つの記事だけから、これをフィクションと断定する根拠を提供(ママ)するはずがないからである。

 氏がフィクションと断定された直後、事務所に来られた「諸君!」の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言って笑ったおぼえがあるが、氏がフィクションと断定したので、私も二つを読み比べたのだが、私にさえ、フィクションと断定を下す鍵は見つからないのである。・・・

 私は資料を読んでいるうちに、資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがないという気になった。私がこれを解明していく根拠は、あくまでも資料・体験・同境遇の三つだが、氏はそのいずれももっていない。そして、この三つがない限り、絶対に解けないはずだ。何しろ、今までに何百万人という人が、あらゆる体験者がこれを読んだはずなのに、結局、記事だけでは、誰一人シッポをつかまえることはできなかった。その記事を初めて目にした人間が(ひょっとしたら始めてではなかったかも──筆者)その記事だけを見て、なぜすぐにフィクションだと断言できるのか。それは不可能のはずだ。・・・

 私は、自分の方法で解明を進めていけば行くほど、この疑問は強くなった。そしてついに氏に質問状を送った。要旨は簡単で、「これは確かにフィクションである。しかし二人が、同一指揮系統下の歩兵二小隊長であれば、フィクションと証明することは不可能である。そして記事は、二人が歩兵小隊長ではないという事実を、伏字まで使って消している。そして不可能なゆえに事実とされてきたはずである、あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」ということであった。

 大分かかったが返事が来た。一読して私は驚いた。軍隊経験とか資料とか同一体験とかいったものが全くなくとも、いや軍隊も戦場も中国も何一つ知らなくても、「本多版」「浅海版」の二つだけでこれをフィクションと断定しうる鍵はちゃんとあったのである。まさにコロンブスの卵、といわれればその通りで、今となるとなぜそれに気づかなかったか不思議なくらいである。以下氏の分析を要約しておこう。氏は次のようにいわれる。」(『私の中の日本軍』p240─44)(次回につづく)

 ここで、読者の皆さんも、「本多版」と「浅海版」(「百人斬り競争報道から何を学ぶか2」参照)をごらんになって、分析してみられてはいかがでしょうか。あるいは、読者の中には、この「百人斬り競争」論争は、最高裁で原告敗訴となったことで決着済み、と理解されている方もおられるのではないかと思いますが、私見では、決着したのは、民法上の「名誉毀損」等をめぐる訴訟であって、その敗訴の理由は、結局、この問題は論争としては未だ決着していないということなのです。東京高裁判決4争点に関する裁判所の判断(2)参照 は次のように述べています。

 「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、現在まで肯定、否定の見解が交錯し、様々な著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあると考えられる。以上の諸点に照らすと、・・・本件摘示事実(これが実は曖昧なのですが、ここでは浅海版新聞記事の内容としておきましょう──)が全くの虚偽であると認めることはできないというべきである」

 つまり、「浅海版百人斬り競争の新聞記事の内容が全くの虚偽である」ということは未だ証明されていない、といっているのです。私が、再度、この論争の歴史的経過を再点検してみようと思い立った所以です。

2007年7月 1日 (日)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか6──週刊新潮の常識的判断──

 この上訴申辨書は、鈴木明が昭和47年4月10日、向井少尉の長女恵美子さんをキャンプ・ザマに訪れて話を聞き、それが終わって東京に帰ったとき、もう一人の「犯人」(?)である野田少尉のお母さんから届いていた手紙に同封されていたものです。ただし、これが公開されたのは『諸君』8月号(8月1日発売)ですから、それまで、鈴木明は、実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏、そして、この裁判を担当した裁判長(石美瑜氏)を台北市に訪ねるなど、取材を重ねていたわけです。(石美瑜氏を5人の裁判官の一人としていたのを訂正H19.7.5)

 この間、『週刊新潮』昭和47年7月29日号に、「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事が掲載されました。この記事は、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」(『諸君』s47.4)の内容を紹介した後、この”鈴木レポート”をさらに広げ、深める作業を行う、として「東京日日」の「百人斬り競争」の記事作成に関わった「同僚記者二人の証言」と「浅海記者の華々しき戦後」(毛主席一辺倒、文化大革命礼賛の「日中友好促進派」として「毎日」を代表する記者として活躍)を紹介したものです。

 この中の「同僚二人の証言」では、まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか──を問うことから始めています。『東京日日』の記事は第一報から第四報までありますが、この第四報(「百人斬り”超記録”向井106─105野田 少尉さらに延長戦」浅海、鈴木特派員発)には、城門の前に立つ二人の少尉の写真が、「常州にて佐藤振寿特派員撮影」というキャプション付きで掲載されていました。そこで『新潮』は、記事は創作することもできるが、写真をデッチあげることは難しいとして、この写真を撮った佐藤カメラマン(58歳フリー)を取材し次のような証言を得ています。

 「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」

 「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。―それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」

 この証言によって、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、〔常州にて廿九日〕と日付のある”第一報”取材の時点で撮ったものであることが、判明しました。

 さらに、”第四報”に名前の出て来る「鈴木」特派員(「鈴木二郎」65歳、当時毎日系別会社役員)にも取材し証言を得ています。

 「鈴木氏は抗州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、『そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです』
 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、『今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ』といわれた。
 『そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです』」

 こうした証言を受けて『新潮』は次のように結論づけています。
 「ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると『十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた』という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。

 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。『本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです』

 記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、ニ将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者の方が、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった―と考えるのが妥当なのではあるまいか。」(この結論からすると、この記事のタイトル「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした・・・」は言い過ぎということになりますね──筆者)

 この『週刊新潮』の記事は発行直後山本七平も見ており、その時の感想を次のように述べています。
 「『南京百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事を読んで驚いた。半年ほど前には断固たる『事実』として立派に通用していた物語が、いつのまにか当然のことのように「虚報」とされており、この記事の焦点は、どのようにしてこの虚報が出来上がったかにむけられていることである。昨日の事実が今日の虚報とは、世の中の流れは全く速いものである。

 『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60)

 つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということであり、そのことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事では、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかということです。

 実は、この事実を、山本七平も『週刊新潮』の佐藤振寿氏の証言を読むまで知りませんでした。「従って、・・・何の疑いもなくこれを歩兵小隊長向井少尉と、同じく歩兵小隊長野田少尉と受けとり、当然のことだから(新聞記事では)『歩兵小隊長』を略した」と考えていたのです。「私自身もこの記事を読んだとき、当然のこととしてそう読んでいた。そう読んでしまえば、この記事は全くしっぽが出ないし、さらに何となく『同一指揮系統下』と思いこませれば少しの疑念も湧かないのである。ただ一つ私がひっかかったのは、『僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ』という野田少尉の言葉だった」といっています。(同書p207)

 「ところが鈴木明氏の調査で、驚くなかれ(これが)副官だとわかった。つづいて『週刊新潮』に佐藤振寿カメラマンの驚くべき証言がのった。氏はこの二少尉に会ったのがただ一回なのに、35年後の今日でも、驚くほど正確に証言している。「・・・野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲の小隊長なんですね」そしてその傍らに浅海特派員もいっしょにいたと証言しているのである。従って浅海特派員は、はっきりと二人の正体を知り、一人が歩兵砲の小隊長、一人が大隊副官であって、全く指揮系統も職務も異なることを知りながら、同一指揮下にある第一線の歩兵小隊長として描いているのである。

 関係者は『見たまま聞いたまま』を書いたと証言している。しかしそれは嘘である。といってもこれは『百人斬り競争の現場を見ていないのではないか」という意味ではない。現に目の前に見ている二人、すなわち副官と歩兵砲小隊長を、見たまま書かず歩兵小隊長に書き上げているという意味である。従って二人はすでに、筋書き通りに歩兵小隊長を演じさせられている役者であって、副官でも歩兵砲小隊長でもない。これが創作でなければ、何を創作といえばよいのであろう」(同書p212)

 この二人の職務が、最前線の白兵戦で「百人斬り競争」を行うようなものでないことは南京軍事法廷に提出した答辨書にそれぞれ明快に述べています。
 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」(向井s22.11.6答辨書)
 「当時、私は、・・・昭和12年9月から昭和13年2月まで、冨山大隊副官にして常に冨山大隊長の側近にあって、戦闘の間は作戦命令の作成、上下への連絡下達、上級指揮者への戦闘要報の報告等を、行軍の間は、行軍露営命令の作成下達、露営地の先行偵察、露営地の配宿、警戒警備線の実地踏査、弾薬、糧秣の補充及び指示、次期戦闘の準備等で忙しく、百人斬りのようなばかげた事をなし得るはずがない。」(野田s22.11.15答辨書)「百人斬り」東京地裁判決その3:事実及び理由その2参照

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