フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月

2007年8月23日 (木)

「百人斬り競争」報道の「実像」に迫る1

 私は、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で、本件に関する高裁判決文4争点に対する裁判所の判断(2)では、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。」とする論拠について、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」ことを第一にあげていることを指摘しました。

 しかし、本稿副題─『週刊新潮』の常識的判断─で、すでに指摘した通り、こうした見解は、今回の裁判で初めて明らかにされたものではなく、35年前に行われた論争における出発点でもあったのです。こうした議論をふまえて山本七平は、昭和47年7月29日の『週刊新潮』の「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」の記事内容について、次のように述べています。

 「『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60)

 つまり、山本七平は、ここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実と信じて収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。

 そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということで、このことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いている、と指摘しているのです。

 また、ベンダサンは、本稿副題─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で紹介した通り、氏独特の論理分析によって、東京日日の「百人斬り競争」をフィクションと断定し、結論として、「この記事はまず「百人斬り」という俗受けする表題がまず先にあり、その上で、両少尉と浅海記者の三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した」と述べているます。これも繰り返しになりますが、その結論部分を再掲しておきます。

 「戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。

 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻き尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウオッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施するものはいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技(ある時間または地点に到達するまでに何人殺すかを競う競技=筆者)なら、読者からの質問に、何物かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのでは誰が考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。・・・

 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何物かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。

 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起こりえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後で誰かがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切替えていった。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企画通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起こらないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。・・・」

 このように、山本七平もベンダサンも、二少尉がホラを吹いたことは認めた上で、実は、浅海記者もこれがホラであることを承知の上で、これを「百人斬り競争」という主題にあうように、いわば「三者合同」で戦意高揚記事を創作した、と推断しているのです。ただ、ベンダサンの場合は、本多氏との論争を通じて、日本人には「語られた事実」と「事実」を峻別することができないという、当時の氏の連載(「日本教について」)における所論を、紙上で実証することに関心を寄せていて、浅海氏の責任を追及する、というような方向には向かっておりません。

 これに対して山本七平は、「百人斬り競争」という虚報が、それが意図的に隠蔽した部分を補うという形で必然的に「殺人ゲーム」に変化していくプロセスを明らかにするとともに、さらにその記事の内容を、鈴木二郎特派員や佐藤振寿特派員の証言ともつき合わせて仔細に分析することによって、特に昭和12年12月10日の両少尉の会見の記述について、それを浅海記者の創作と断定し、これが両少尉の非戦闘員殺害の「自白」と見なされたことが、二人を処刑場に送ることになった、と言っています。

 これは相当に思い切った推論で、洞富雄氏が浅海氏を弁護するところともなっているわけですが、この新聞記事が唯一の証拠となって二人が処刑され、今では南京大虐殺を象徴する残虐犯として、両少尉の写真が、その後南京大虐殺記念館の入口に掲示されることにもなったのですから、その無実を確信する限り、この記事の「創作」責任を問う方向に向かわざるを得なかったのだと思います。というより、山本七平は、戦場においてこの二少尉と同様の境遇にあり、また、「戦犯」の怖さを身を以て体験していましたから(かろうじて戦犯を免れた体験を持つ、という表現を訂正8/26)、両氏の「虚報」による刑死を人ごととは思えなかったのです。

 そこで、次に、山本七平の、以上のような結論に至るその論証の過程を詳しく検証してみたいと思います。その上で、「百人斬り競争」の報道内容と、実際の両少尉の動きや会話を、現在までに明らかになっている証拠資料とも突き合わせて、そのより真実に近い「実像」の再現に努めてみたいと思います。

2007年8月12日 (日)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか11─”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結─

 イザヤ・ベンダサンが「朝日新聞のゴメンナサイ」で、本多勝一氏の「中国の旅」の「殺人ゲーム」について指摘したことは、「日本教」における「謝罪の不思議」ということでした。ベンダサンは、それを人間同士の「相互懺悔・相互告解」と理解し、朝日新聞はこの特集を通じて、中国に対し懺悔・告解することによって相互に和解が成立し、中国と「二人称の関係」に入りうると考えているのではないかと指摘したのです。問題はそのように「私の責任です」と言いまわることで「責任は解除された」と中国が考えるかどうかだと。

 また、この記事を契機に始まった本多勝一氏との論争において、ベンダサンは本多氏に対し、「言葉の踏絵」を逆用した誘導術を使って、「殺人ゲーム」は事実だと証言させ、それを証明する数多くの証拠(=信憑性のほとんどない伝聞証拠)を提出させることに成功したといっています。これによって、ベンダサンは、日本教徒がどのようにして「相手に迎合してオシャベリ機械」になってしまうかを紙上で再現し得たとしてこの主題を打ち切っています。また、それに続けて次のような驚くべき見解を述べています。「日本人は世界一謀略に弱い・・・これによって日本人をある方向へ誘導することは、そう難しいことではない・・・とすれば『真珠湾攻撃』の謎も解けるはずです。」と

  なお、この時、本多勝一氏が証拠として提出した「百人斬り競争」の新聞記事についても、ベンダサンはフィクションだと断定し、「もしこの一九三七年の記事の記者も、あくまでもこの記事が『事実』だと主張したら、そのときは前回と同様に『調書』の中の非常に類似したものと対比しつつ、一つ一つ論証いたします。」と述べています。この論証については、本エントリーのサブタイトル──ベンダサンのフィクションを見抜く目──で紹介しましたのでご覧下さい。

 こうしたイザヤ・ベンダサン独自の主題設定とは全く別の観点から「中国の旅」の「殺人ゲーム」に疑問を持ち、その「事実」解明に立ち向かったのが鈴木明でした。
 鈴木明は、「中国の旅」の「殺人ゲーム」の記事について、これを東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事と比較し、次のような感想を述べています。

 「今の時点で読めば(東京日日の「百人斬り競争」の新聞記事は)信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わってゆくプロセスで、いくつかの点でデフォルメされている。
一 戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
二 原文にない「上官命令」が加わっている。
三 百人斬りが三ラウンド繰り返されたようになっている。
 これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中は、そういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃をかまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか?本当にこれを『手柄』と思って一生懸命書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。・・・事の真相はわからないが、かって日本人を湧かせたに違いない『武勇談』は、いつのまにか『人切り競争』の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。・・・ともあれ、現在まで伝えられている『南京大虐殺』と『日本人の残虐性』についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた『大虐殺』というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

 では、こうした鈴木明の疑問が、その後どのように解明されていったかを見てみたいと思います、がその前に、まず、ベンダサンが提出した疑問─「『殺人ゲーム』と『百人斬り』は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし『百人斬り』が事実なら『殺人ゲーム』はフィクションだということになります。・・・どう読めばり『百人斬り』が『殺人ゲーム』の証拠となりうるのか」について、その答えを紹介しておきます。

 この疑問については、洞富雄氏が指摘していることですが、「中国の旅」で中国人の姜さんが本多勝一氏に語ったという「殺人ゲーム」の話は、「これは当時日本で報道された有名な話」だと姜さん自身が断っているように、当時の東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がもとになっているのです。では、なぜ、この二つの話に、場所、時刻、総時間数、周囲の情景描写、登場人物の違いが生じたのでしょうか。

 その理由は、この「殺人ゲーム」のもとになった東京日日新聞の記事は、実際は1937年11月30日の第一報から1937年12月13日の第四報まであり、これが東京で発行されている英字紙『ジャパン・アドバタイザー』に転載されたとき、1937年11月6日の第三報と12月13日の第四報の記事のみが紹介され、第一報及び第二報の記事の紹介が漏れていたのです。これを、当時上海にいたティンパーレー(マンチェスター・ガーディアン特派員、その実国民党中央宣伝部顧問)が『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』の「付録」として掲載したものが、「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この(東日の第一、二報抜きの)話が中国人に知られるようになったのです。

 洞氏は、このように「殺人ゲーム」が東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事をもとにしていることを知りつつ、さらに、「百人斬り競争」の二少尉の職務が、大隊副官(野田)と歩兵砲小隊長(向井)であり、この二人が、歩兵小隊長のごとく第一戦に出て戦えるわけがない、と戦闘行為としての「百人斬り」を否定しつつも、実は、この東日の「”百人斬り競争”はやっぱり虐殺だったのだ。野田少尉もまた、百人以上の中国兵を虐殺しながら、恬として「私は何ともない」といってはばからないような精神状態の持ち主に仕立てられていた、若手将校だったのである」『南京事件』洞富雄P212~3)と述べています。

 それにしても、この二つの話は句容という地名や八九や七八という数字は合っていますが、物語としてはずいぶん異なっています。こうした相違点の分析を通して、どのように「事実」に肉薄するかが、問われていると思うのですが、しかし、洞氏は、「殺人ゲーム」の出所となった「百人斬り競争」の新聞記事の信憑性を自ら否定しながら、「殺人ゲーム」=伝説には向かわず、逆に、「百人斬り競争」を「戦場では不可能であるが・・・捕虜の虐殺なら・・・ありえたと思う」という形で「殺人ゲーム」を「事実」と推断しているのです。(『南京大虐殺』洞富雄P37)

 では、この東京日日新聞の「百人斬り競争」に関する第三、四報の記事が、どのような経路を経て「殺人ゲーム」に変化したのかを見てみましょう。

A1 東京日日新聞の「百人斬り競争」第三報(12月6日朝刊)は次のようになっています。
(見出し) 八十九─七十八/〝百人斬り〟大接戦/勇壮!向井、野田両少尉
(本文) [句容にて五日浅海、光本両特派員発] 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

A2 同第四報(12月13日朝刊)は次の通りです。
(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦       (本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ、と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

 この記事の第三報が、昭和12年12月7日付のジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。(東京高裁判決3資料より転載)
B1「百人斬り競争の両少尉 接戦中
 日本軍が完全に南京を占領する前に,どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか,仲良く競争中の句容の片桐部隊,向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。
「朝日新聞」によれば,句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は,向井少尉89人,野田少尉は78人であった。」

 次いで、第四報が、1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザーに次のように紹介されました。

B2「百人斬り競争 両者目標達成で延長戦
 向井敏明少尉と野田厳少尉の,日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった,と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人,競争相手は105人を斬ったが,どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに,目標を50人増やすことにした。
 向井の刀はわずかに刃こぼれしたが,それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で,二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う,と言った。
 土曜日の早朝,日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると,別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが,砲弾が頭上を飛び過ぎる間,呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は,一発の弾も私には当たりませんよ。"と彼は自信満々に説明した。」

 これを、ティンパーレーが『戦争とは何か─中国における日本軍のテロ行為』に「付録」として掲載しました。(『南京大虐殺のまぼろし』鈴木明より転載)

C1〔南京”殺人レース”
 一九三七年一二月七日「日本新聞(The Japan Advertiser)」という東京にあるアメリカ人経営の英字日刊紙が、次の記事を掲載した。
 陸軍少尉、中国人百人斬りレースで接戦す。
 句容(Kuyung)にあった片桐部隊の向井敏明少尉と野田毅少尉は、日本軍が完全に南京を占領する前に、刀による単独の戦闘(individual sword combat)でどちらが先に中国人百人を切り倒すかという腕くらべ(friendly contest)でギリギリの終盤戦に言っているが、ほとんど五分五分の競り合いを演じている。彼らの部隊が句容郊外で戦っていた日曜日には、『朝日新聞』(原文のまま)によれば、その”スコア”は向井八十九人、野田七十八人であった。

C2 一九三七年一二月一四日、同紙は次の追加記事を掲載した。
 向井少尉と野田少尉とで争われたどちらが先に日本刀で中国人百人を殺すかという競争の勝者は決まっていない、と、『東京日日新聞』が南京郊外紫金山麓から伝えている。向井は百六人を数え、彼のライバルは百五人を片づけたが、二人の競争者はどちらが先に百人の目標を超えたか決められないことがわかった。討論でそれを解決するかわりに、彼らは目標を五十人だけ増やすことにした。
 向井の刀身は競技中少し痛んだ。彼はそれを彼が中国人を鉄カブトもろとも一刀両断にした結果である、と説明した。この競技は、”遊び(fun)”だ、と彼は言明した。そして二人とも相手も百人を超しているとは知らずに百人の目標を超えたことはすばらしいことだ、と彼は考えている。「この刀を肩にかついでいれば、一発も当たらない」と彼は自信たっぷりに説明した。〕

 このティンパーレーの紹介記事をもとにしたと思われる「殺人ゲーム」では
D 「AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう─。
 二人はゲームを開始した。結果はAが八九人、Bが七十八人にとどまった。湯山についた上官は、再び命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人Bが百五人だった。今度は二人とも目標に達したが、上官はいった、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”
 この区間は城壁が近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている」
 となっています。

 そこで、このA,B,C,Dの記事を、①表題、②行為の性質、③対象者及び方法、④場所・時間、⑤結果、の各項目について比較すると次のようになります。

  A ①「百人切り競争」 ②刀による「私的盟約」に基づく戦闘行為。(第一報では向井少尉は、横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたとなっており、個人的戦闘行為か集団的戦闘行為か明確でない) ③中国人兵士 ④無錫から南京まで約180キロの間 ⑤第一報では無錫から常州まで向井59、野田25、第二報では丹陽まで向井86、野田65、第三報では句容まで向井89、野田78、第四報では紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったかは不問、ドロンゲームとし、改めて150人を目標とする。(数字は第一報から四報までそれぞれの到達点における累計を示す。8/20修正)

 B ①「百人斬り競争」 ②刀による個人的戦闘行為。 ③白兵戦で中国兵100人を日本刀でどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、話し合いで決着するかわり目標を50人増やす。

 C ①「南京”殺人レース”」 ②刀による単独の戦闘(individudal sword combat) ③中国人(戦闘員か非戦闘員かはっきりしない)100人をどちらが先に斬るかを競う ④句容から紫金山まで約25キロの間 ⑤紫金山までに向井106、野田105。どちらが先に100人斬ったか決められないので、討論で解決するかわりに目標を50人増やす。

  D ①「殺人ゲーム」 ②上官がけしかけた個人的殺人ゲーム ③中国人(非戦闘員)  100人を先に殺した方に賞を出そう(武器の指定なし) ④句容から湯山まで約10キロの間 ⑤向井89人、野田78人にとどまった。上官は、湯山から紫金山まで約15キロ間にもう一度100人殺せと命令、結果は、向井106人、野田105人。上官は、”どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ”と命令した。
 
 次に、これらの4つの記事を比較すると、次のようなことが明らかになります。
1 Aの、無錫から南京まで約180キロ間における、戦闘行為としての百人斬り競争の 話が、B、Cでは、句容~紫金山まで25キロの間における白兵戦での、百人斬りを競う個人的戦闘行為となっている。 ただし、Cでは対象が「中国人」となっており、戦闘員か非戦闘員かの区別が曖昧になっている。Dでは、句容から南京城までの間に、非戦闘員百人をどちらが先に殺すかという殺人ゲームを、3ラウンド繰り返した話になっている。これは、B、C、DがAの第3,4報の記事によっていることの証拠であるとともに、Cは非戦闘員殺害をほのめかし、Dは、事件の残虐性を明確にするため、はっきりと非戦闘員を対象とし、湯山という地名を新たに設けて、殺人競争を3ラウンド繰り返すなど、もとの記事にはない創作が加えられ、ほとんど”伝説”と化している。

2 Aは、第一報の、数をきめて時間を争う方法の非現実性に気づき、第四報で、その矛 盾を隠蔽する答弁を向井にさせている(野田に対して、何時100人に達したか聞かず に、現在までの到達人数を尋ねさせていること。つまり、数を決めて時間を争う競技を、時間(=場所)をきめて数を争う競技であったかのような表現にしている。どちらとも逃げられる表現で、実際の競技ではあり得ない)さらに、そのルールを曖昧にしたまま、改めて150人を目標としている。しかし、これも、プラス50人という意味か、改めて150人という意味わからない。つまり、競技のルールが明確でないということで、虚報であることの決定的な証拠となる。この点、B、C、Dではルールーの自覚は明確で、B、Cでは、うっかり100人を超えてしまい、どちらが先に100人斬ったか話し合いでは決められなかったので、仕方なく目標を50人増やしたとしている。Dは、数を限定して時間を争う競技を、3ラウンドやり直させたことにしている。ジャパン・ アドバタイザーの記者及びティンパーリー、さらに中国人は、この競技のルールをそのように理解し、それが一貫して適用されたとものと理解しているのである。(ベンダサンの分析)

3 Aは、二少尉による「私的盟約」に基づく戦闘行為としての「百人斬り競争」である。 しかし、徹底的な縦社会であり命令のみで動く軍隊組織では、こうした「私的盟約」に基づく戦闘行為は絶対に許されない。これが、B、Cでは個人的戦闘行為(Iindividual combat)とされている理由であり、Dでは、上官のそそのかし、または命令によったことになっている。これが、Aでは、第一報で、向井少尉が部下と共に敵陣に切り込んだとする記述があり、必ずしも個人的戦闘行為とはいえぬ部分があり、このことは向井少尉が「私的盟約に基づき陛下の兵を動かした」ことになり、そう認定されれば日本軍では「死」以外にない。これが、「百人斬り競争」報道に対する、野田少尉と向井少尉のその後の対応の差になっている、と山本七平は見ている。(『私の中の日本軍』上P203)

4 B、Cは、Aの記述を紹介した記事だから、そのまま、日本刀による「百人斬り競争」 の話になっている。しかし、Bでは、白兵戦での戦闘行為だが、Cでは、相手が戦闘員か非戦闘員かが曖昧になっている。これに対してDでは、平時における非戦闘員の殺人ゲームとなっている。また、「殺人ゲーム」の武器としての刀が明示されていない。非現実的な話ととられることを避けるためであろう。

5 Dでは、競技の勝者に賞を出す話になっている。中国ならではの督戦の方法か。「滅 私奉公」の「天皇の軍隊」には考えられない発想である。。(上掲書P210)日本軍の、いわゆる手柄に対 する報償は、「個人感状」あるいは「勲章」である。

6 Aでは、両少尉は、同一指揮下の歩兵小隊長であるかのような書き方がなされている。野田の場合○官と表示されその職務が故意に隠されている。だが、実際には、野田は大隊副官、向井は歩兵砲小隊長であり、両者とも前線に出て白兵戦を行う職務ではなく、彼らが自らの職務を放擲して「百人斬り競争」を行うことは不可能である。従って、A では両少尉の職務を隠した。これは、この記事を書いた記者がそのことを知っていたことの有力な証拠となる。(このことは『週刊新潮』の佐藤証言でも明らか。8/20挿入)(上掲書P209~214)B、C、Dは当然のことながら、二少尉を同一指揮系統下の歩兵として扱っている。

7 Aには、「鉄兜もろとも唐竹割」などという非現実的な記述がある。「鉄兜」という言葉は恐らく新聞造語であって軍隊にはない。軍隊では「鉄帽」であって、軍人は「鉄兜」などという言葉は口にしないものである。(上掲書下P91)Dでは、こうした表現はなくなっている。

8 (削除─別稿で扱う8/13)

 このようにAの記事の内容をB、C、Dと比較してみると、Aが虚報である故に隠蔽せざるを得なかったと思われる部分が、B、C、Dで必然的に浮かび上がっていることに気づきます。と同時に、戦意高揚のため戦闘中の武勇をたたえるはずの記事が、次第に、非戦闘員の虐殺を目的とした前代未聞の「殺人ゲーム」へと変化していることにも気づかされます。その結果、二少尉が、必死にそうした「残虐行為」はしていないと弁明しても、一切受け入れてもらえず、その新聞記事が「自白」に基づく唯一の証拠とされ、死刑判決が下され、さらに南京大虐殺を象徴する残虐犯人へと祭り上げられていったのです。

 こうした虚報のもつ恐るべきメカニズムの解明に立ち上がり、両少尉の等身大の実像を、南京法廷の裁判記録や両少尉の答辨書や手記や遺書等を発掘して明らかにしたのが鈴木明であり、こうした虚報のもつ罠に陥りやすい日本人の「日本教徒」としての弱点を指摘し、それを克服する視点を提供したのがイザヤ・ベンダサンであり、これらの視点を、日本軍の軍隊経験に照らして検証し、両少尉の無実を論証するとともに、「虚報」が日本を滅ぼしたという「事実」を、渾身の力で証明したのが山本七平であったといえます。

 では、次に、以上のような論証を一切無視して、Aの記事の「真相」について、それを捕虜や非戦闘員に対する「据えもの百人斬り競争」であったとする「恐るべき」主張について、果たしてそうした主張が成り立つものかどうかを、山本七平の論考等を参考に考えてみたいと思います。

2007年8月 2日 (木)

「百人斬り競争」報道から何を学ぶか10─ベンダサンVS本多勝一論争の帰結─

   本多氏は、「中国の旅」のルポの目的を、日中戦争時における日本軍の中国人に対する残虐行為を、被害者である中国人自身に語ってもらうことによって、日本人にその「素材としての事実」を知らせることにあった、といっています。このことは、それまで、こうした報道が日本人自身の手でなされることがほとんどなかったことを考慮すると、「危険」を冒してでも、こうした「事実」に迫ろうとした本多氏のジャーナリストとしての勇気は評価されるべきだと思います。

 一方、ベンダサンは、「日本人の謝罪の不思議」──「ゴメンナサイ」ということによって「責任が解除」され、それによって相手と「二人称の関係」に入りうる、という日本人独特の謝罪観──を指摘する中で、本多氏の『中国の旅』における、特に「競う二人の少尉」について、この両少尉の名を匿名にした(または書かされている)ことは、これは「日本人全部の責任です。ゴメンナサイ」という態度ではないかと指摘したのです。

 これに対して本多氏は、両少尉を匿名にしたのは朝日新聞の編集部であって、自分の原稿は実名になっているとして、ベンダサンに前言撤回を迫りました。ベンダサンは、この記事が無署名であればその通りだが、署名した以上「たとえ実情は本多氏の語る通りであっても、署名者がいわゆる内部的実情を口実に第三者に対抗することはできない(もしそれが出来たらあらゆる契約が破棄できます。)」といい、本多氏にはこうした署名という考え方は皆無だ、と反論しました。(『日本教について』P291)

 ただ、本多氏自身は朝日新聞の「中国の旅」の原稿も氏の著作『中国の旅』も、両少尉の名を実名で書いていましたから、氏に対してはベンダサンの「ゴメンナサイ」の指摘は当たらないと思います。(といっても、ベンダサンは「私が取り上げましたのは『中国の旅』であって本多様ではありません。従ってここに取り上げましたのも、上記の記事(『競う二人の少尉』)と(本多勝一氏の)『公開状』のみであって、本多様個人には私には何の関係もありません」といっていますが。上掲書P206)

 また、ベンダサンは、日本人がすぐ「私の責任だ」というのは、本多氏のいう「お人好し」とは無関係で、元来は「いさぎよい・いさぎよくない」という、日本教の価値判断から出ていることで、「漱石の卓見はこれを『私の責任・イコール・責任解除』と捕らえたことでした。(誤解なきよう『責任回避ではありません』)」と述べています。そして氏は、これを日本教=人間教における「相互懺悔・相互告解」と解しており、それ故に和解が成立する(従って責任解除となる)わけで、こうした日本の鎖国期(=徳川期)に発達した考え方は、今や「地球に鎖国された」状態に近づきつつある人類にとっても貴重な経験といえる、と述べています。(つまり、こうした考え方を否定しているわけではないのです)(上掲書p209)

 また、ベンダサンが本多氏に対して「個人名を出せ」といっているのは、「それは、その個人を『身代り羊』にして、みなで徹底的に叩いて、それを免罪符のかわりにしろ」といっているわけでもありません。「すべての人間には、釈明の権利がある、ということです。欠席裁判では結局何も明らかにされません。私が特にこの問題を感じましたのは、前記引用の文章(「競う二人の少尉」)に強い疑問を感じざるを得ないためです。」といい、続けて次のように述べています。

 「本多様は「とにかく事実そのものを示してみせるのを目的とするルポってものを、彼は知らないんだなあ」と安直に書いておられますが、本多様はこのルポで『中国人はかく語った語った』という事実を示しているのか、また『中国人が語ったことは事実だ』といておられるのか、私には本多様の態度が最後まで不明です。結局その時の都合で、どちらにも逃げられる書き方です。と申しますのは、この物語はおそらく『伝説』だと私は思うからです。事実、恐るべき虐殺に遭遇した人々の中から様々の伝説が生まれたとて、これは少しも不思議なことではありません。むしろ、一つの伝説も生まれなかったらそれこそ不思議でしょう。伝説の中心には『事実の核』があります。しかし伝説自体は事実ではありません。がしかし、それは中国の民衆がいい加減な嘘を言っているという意味ではありません。しかしルポとは元来、この伝説の中から『核』と取り出す仕事であっても、伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい。

 以上のように感じましたのは、『約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・結果はAが八十九人』という記述です。この記述ですと軍隊は行軍しているはずで、一時間四キロとすれば、約十キロは百五十分ということになります。百五十分に八十九人を殺したとすれば、一分三十秒に一人ずつ殺したことになります。これは個人ゲームだと記されておりますから、武器は、軍刀か拳銃か三八式歩兵銃だということになります。軍刀と拳銃は問題外ですから、果たして三八式歩兵銃で、しかも行軍しつつ、一分三十秒に一名ずつ射殺することが物理的に可能かどうかです。この小銃にはスパイナーはなく、従って非常に精度が悪く、弾倉に五発入れられるとはいえ単発式で、一発ごとに槓杆を引いてもどし、その上で銃をかまえて照準して発射するはずです。従って私には、行軍しつつ、動き回る敵に対して、約九十秒に一発のわりで、命中弾を発射しうるとは思えません。・・・

 そして私の見るところで、本多様も、これが伝説であることを見抜いておられるはずです。もし見抜けないなら、新聞記者もルポライターもつとまりますまい。本多様はそれを見抜きながら、何かの理由で見て見ぬふりをされているのだと思います。とすると本多様が実名を出さないのは、もし出せばその人が前記のように反論するかも知れぬことをおそれてでしょうか。・・・

 本多様は『ベンダサン氏は、ちょっと調子にのりすぎて、ルポそのものが『ゴメンナサイ』だと書いちまったわけだ』と書いておられますが、以上のルポそのものが『日本人全部の責任です、ゴメンナサイ』という態度でないと主張されるなら、今からでも遅くありません。『中国の旅』全部にわたって本多様の知っている加害者の名前を明らかにし、かつ本多様が内心これは『伝説』だと思われていることをはっきり『これは伝説に過ぎないことはほぼ明らかだが・・・』とお書き出し下さい。それが出来ないなら、私は、自分の書いたことを撤回いたす必要を感じません。私が書いたのは、まさに、そのことなのですから。」(上掲書P200~203)

 これに対して本多氏は、ベンダサンが「中国の旅」の「殺人ゲーム」を伝説だといったことに対して、『東京日日新聞』の昭和12年11月30日の記事と12月13日の記事(第一記事と第四記事)、雑誌『丸』の昭和41年11月号に載った鈴木二郎氏の「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」からの引用、雑誌『中国』昭和46年12月号に掲載された志々目氏の「日中戦争の追憶─”百人斬り競争”」(「hyakunin.htm」をダウンロード )からの引用の四つの資料を提示し、「ベンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか、と反論しました。

 これに対してベンダサンは、次のようにいっています。
 「『中国の旅』の記者に前回記しました「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を送りましたところ、反論と共に「事実である」という多くの「証拠」が『諸君』に掲載されました。この中には事件の同時代資料である1937年の新聞記事がありました・・・『中国の旅』の記述とこの「1937年の記事」を、一応前者を「殺人ゲーム」後者を「百人斬り」(見出しが「百人斬り競争」となっていますから)としておきます。この場合、『中国の旅』の記者が①「殺人ゲーム」という「語られた事実」を「事実」と断定して、その「事実」を証明するために「百人斬り」を提出したのか、それとも②「殺人ゲーム」も「百人斬り」も、ともに「語られた事実」にすぎず、この記述にはそれぞれ内部に矛盾があり、また相互に大きな矛盾があるから、これは実に喜ぶべきことであり、そこでこの二つの「語られた事実」を同一平面上に置いて、この矛盾を道標として「事実」に肉薄し、広津氏のいう「ぎりぎりの決着の『推認』までもって行って、もうこれ以上『推認』のしようがないところに到達して、『これで満足しなければならない』というところ」に行こうと言っているのか、それとも③これらの証拠で「ぎりぎり決着の『推断』に行き着いたといっているのか、それを判別しようと何度も読んだのですが結局不明なので、私は「ぎりぎり決着の」ところ①と「推断」せざるを得ませんでした。これは、結局この記者に、以上のように①②③と分けて考える、というような考え方が皆無なためでしょう。つまりファクタとファクタ=ディクタの峻別という考え方が全くないということです。

 しかし、①と考えるとさらに不思議になります。というのは「殺人ゲーム」と「百人斬り」は、場所も違い、時刻も違い、総時間数も違い、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じでない(前者は三人、後者は二人)ので、もし「百人斬り」が事実なら「殺人ゲーム」はフィクションだということになります。すると、どうして①でありうるのか、どう読めば「百人斬り」が「殺人ゲーム」の証拠となりうるのか、──といえば『中国の旅』の記者はなんと反論して来るか。実は一番聞きたかったのはこの反論で、①を主張する以上これが含まれているはずなのですが、それがないのです。

 何と想像すべきか理解に苦しみますが、もし今から反論があるとすれば、おそらくそれは「松川事件」を担当した田中最高裁判所長官の「雲の下」論に似た議論を展開してくるはずです。この「雲の下」論というのは、「雲表上に現れた峰にすぎない」ものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・・立証方法としては十分である」、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって「事実」がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない、という議論です。・・・

 (これを)「殺人ゲーム」にあてはめれば、百人斬りの「実行行為という事実」が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り」の間の場所・時刻・時間・登場人物数、周囲の状況等の矛盾した点を、非常にクローズアップし、それが否定されると、犯罪事実の存在自体が架空に帰すかのように主張し、そしてこれに引き込まれてさような錯覚に陥ることは正しくないし、同時に、そういう議論の進め方をする人間は正しくない人間であるということになります。

 そこで共に「雑音」に耳を貸すな、となるわけですが、この場合も同じで、百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ぎりぎり決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、もう何の証拠もいらなくなります。・・・従って①であるとすれば、この記者も「雲の下」論者であるというより「雲の下」論を自明の前提にしていることになりましょう。」(上掲書p271)

 つまり、「殺人ゲーム」も「百人斬り」も百人斬りという犯罪についての「語られた事実」にすぎず、従って、百人斬りの「実行行為という事実」に肉薄するためには、こうした相互に矛盾する「語られた事実」(複数)を分析することによって「ぎりぎり決着の『推断』に到達するほかない。にもかかわらず、本多氏は、ベンダサンの問いかけに対し『これは伝説にすぎないことは、ほぼ明らかだが・・・』などと書き足すような次元の問題ではないとして、その「犯罪事実の存在自体」を、「今更問題にする必要もない歴然たる事実」と結論づけているのです。

 ベンダサンは、なぜそうなるかということについて、それは、本多氏には中国への迎合があるからだ。そのため本多氏にとっては「殺人ゲーム」は一種の「踏絵」になってしまう。従って、少々意地の悪い言い方で「あなたは中国に迎合して、フィクションを事実と強弁しているのだろう」といえば、「冗談いうな。事実だから事実だと言っているのだ」といわざるを得なくなる。迎合していなければ、「君は迎合しているではないか」といわれても平然として、「現地の惨状を目前にすれば、意識しなくても多少は迎合する結果になった点もあるだろう」ということが出来、かつ、こう言った瞬間、その人は完全に迎合していなくなる、といっています。

 また、ベンダサンは、このように本多氏が証言したからといって、それは「殺人ゲームは事実だ」と彼が証言したわけでもない。また、そう証言しなければ氏が不利な立場に立つとも考えられない。これをフィクションだと証言してならない理由は、氏には全くない。にもかかわらずこうした結果になるのは、日本人は言葉を、相手の政治的立場を判別するための踏絵として差し出すからで、そのために「語られた事実」と「事実」との区別がつかなくなり、結果的に、二少尉の犯行のデッチ上げに加担することになった、ともいっています。

 このように、ベンダサンvs本多勝一論争における、ベンダサンの主張の基本的性格は、あくまで『日本人とユダヤ人』の中で取り上げた「日本教」を、「あるユダヤ人(=アメリカの高官)」のために解説・敷衍しようとしたものです。その中で、「日本教」における「言葉の踏絵」、その操作法としての「天秤の論理」、「二人称の世界」における「迎合」という問題を指摘し、その論理を松川事件で検証するとともに、さらに、本多氏との論争を、その「松川事件」の「鸚鵡的供述」を再現するために使った、といっています。

 ベンダサンの、このような「殺人ゲーム」や「百人斬り」を共にフィクションと断定する主張と平行して、それを新資料の発掘によって裏付けようとしたのが鈴木明であり、また体験的に裏付けようとしたのが山本七平であったといえます。しかし、本多氏はこうした論証を全く受け入れることなく、その後、百人斬り競争の「実行行為としての事実」を、それを戦闘行為としては否定しつつ、その核となる「事実」について、それを捕虜や非戦闘員を対象とした「据えもの斬り競争」であった、と主張するに至るのです。

 そこで次に、「百人斬り競争」における「実行行為としての事実」とは一体いかなるものであったかを、鈴木明や山本七平の論証外その後の研究成果等も合わせて考えてみたいと思います。

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

twitter

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック