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2007年9月

2007年9月30日 (日)

「百人斬り競争」裁判、東京高裁の事実認定1

ここまで「『百人斬り競争』報道の実像に迫る」と題して、山本七平の説を振り返りながら、より真実に近いと思われる事実関係を探ってきました。そこで、以上提示した事実関係と、「百人斬り競争」裁判において、東京高裁が認定した事実関係とを対比して見てみたいと思います。〈 〉で囲んだ部分が判決文(斜体部分が地裁判決文のうち高裁判決で修正された部分)、*部分がそれに対する私のコメントです。(下線部分挿入10/1)

 〈(ア) 本件摘示事実について a 原告らは,そもそもいわゆる「百人斬り競争」を報じた本件日日記事自体が,浅海記者ら新聞記者の創作記事であり,虚偽である旨主張する。そこで,検討するに,本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ,南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容,南京攻略戦における新聞報道の過熱状況,軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると,上記一連の記事は,一般論としては,そもそも国民の戦意高揚のため,その内容に,虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして,前記認定のとおり,田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば,冨山大隊は,句容付近までは進軍したものの,句容に入城しなかった可能性もあること,昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は,向井少尉が、百人斬り競争の話が冗談であり,それが記事になった旨を言明した旨陳述していること,さらには,南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の軍隊における任務,一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。

 しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。

前記認定事実によれば,① 本件日日記事第四報に掲載された写真を撮影した佐藤記者は,本件日日記事の執筆自体には関与していないところ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事以来,当法廷における証言に至るまで,両少尉から直接「百人斬り競争」を始める旨の話を聞いたと一貫して供述しており,この供述は,当時の従軍メモを基に記憶喚起されたものである点にかんがみても,直ちにその信用性を否定し難いものであること,② 本件日日記事を発信したとされる浅海・鈴木両記者も,極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来,自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること,③ 両少尉自身も,その遺書等において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べていることなどに照らすと,少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。〉

* 問題は、無錫における「三者談合」の存在である。そもそも近代戦において日本刀で「百人斬り」を競うなどということはあり得ず、また、それを事実と信じて記事を書く新聞記者がいるとも思われない(佐藤カメラマンも信じていない)。要するに戦意高揚のための武勇談を「特ダネ」として報じたい、という記者の思惑に、両少尉(特に向井少尉)が乗せられたということなのである。

 両少尉は、無錫における戦闘終了後の食後の「笑談」を記者相手にした際、記者に軍人の手柄意識や里心をくすぐられ、新聞に掲載してもらう代わりに「百人斬り」という俗受けする表題の物語に名を貸すことになった。こういう場合、そのディレクター役ができるのは記者以外にはいない。両将校を歩兵小隊長にしたのも、佐藤カメラマンを呼んできて写真を撮らせその写真を使ったのも、最後に鈴木記者を仲間に引き込んだのも、この話を「事実」らしく見せるためのカムフラージュである。その証拠に、両記者とも三人の無錫における「三者談合」の存在を知らず、佐藤カメラマンに至っては、「百人斬り競争」は常州から始まるものと思いこんでいた。

 判決は、「少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。」としているが、しかし、問題は誰が「百人斬り競争」をプロデュースしたかであろう。確かに、「両少尉が,浅海記者ら新聞記者に(ほら)話をした」ことは事実であろう。しかし、戦場における「ほらやデマ」のもつ意味については、山本七平が「戦場のほら・デマを生み出すもの」(『私の中の日本軍』)で次のように詳細に論じているところであり、従軍記者にそうした実情が判らぬはずはない。浅海記者が「百人斬り競争」の記事を書くに際して「両少尉から取材した事実に粉飾を加え」たことは明白である。

 この点、本高裁判決で特に重要な部分は,上記②の判決文「浅海・鈴木両記者が,自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。)を一貫して供述していること」における下線を付した部分である。高裁は、ここで初めて、浅海記者がいった「真実である」という言葉の意味について、「両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される。」としたのである。(本パラグラフ追加10/1)

 「苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に半ば意識的に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとするのである。それが軍隊におけるほら・デマ・妄想であって、これは、狂い出さないための安全弁だったといえる。」(『私の中の日本軍』p74)
 「『管理社会』とか『人間を歯車にする』とかいう言葉があるが、これが最も徹底していたのは軍隊であって、その徹底ぶりは戦後社会の比ではない。そしてこれが徹底すればするほど、また現実の苦痛が増大すればするほど、残酷映画やポルノや低俗番組顔負けの、ものすごいほらやデマが飛び始めるのである。──斬り殺した、やり殺した、焼き殺した、人肉を食った、等々々々・・・(そうした)兵士のほらやデマや妄想を、それは現実ではないと言って論破する人間がいたらかえっておかしいのである。しかし一方、そういうほらやデマや妄想を収録して、『これが戦場の現実だ』と主張する人間がいたら、それは『人斬り』動画を現実だと主張することと同じことで、これも少々おかしいと言わねばならない。」(同p76)
 「以上のことは、日本軍に虐殺も強姦も皆無だったという意味ではない。」「毎日の新聞を開けば、強盗殺人、痴情殺人、カッとなったという意味不明の殺人、集団暴行、集団輪姦、強姦殺害、死体寸断等々、こういった記事が載らない日はないと言っても過言ではあるまい。」一昔前なら、そのような事件を起こした人も当然一兵士、一将校であった。「従って、もし歩兵のように警備隊に編成替えされて、さまざまな場所にばらばらに駐屯すれば、多くの事件が起こったと思う。だがそのような事件と、兵士のほらやデマを事実だと強弁することは別である。そしてそのことは、(前記のような)日本の実情を記すということと、低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実だと主張することとは別なのと同じである」(同p79)

 浅海記者のやったことは、戦場における苦痛から逃れるための安全弁としての兵士の「ほら・デマ」を、「ほら・デマ」と知りつつ、それを、あたかも事実であるかのように粉飾して新聞記事を書いたことが明白であるにもかかわらず、戦後それが問題となると、一転して「低俗番組や残酷映画やポルノや『人斬り』動画をそのまま事実」と信じたというが如く、「百人斬り競争」を「そのまま事実だと信じた」と主張しているに等しい、と山本七平はいっているのである。
          
 〈また,前記認定事実によれば,昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,野田少尉から中村碩郎あての手紙のことが記事として取り上げられ,その記事の中で野田少尉が「百人斬り競争」を認めるかのような文章を送ったことが掲載されていること,野田少尉が昭和13年3月に一時帰国した際に,鹿児島の地方紙や全国紙の鹿児島地方版は,野田少尉を「百人斬り競争」の勇士として取り上げ,「百人斬り競争」を認める旨の野田少尉のコメントが掲載され,野田少尉自身が鹿児島で講演会も行っていることなどが認められ,少なくとも野田少尉は,本件日日記事の報道後,「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる。〉

 * 野田少尉本人は「武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」と思いつつも、結果的に「百人斬り競争」の新聞報道により英雄視され、内地に一時帰郷したときなどに新聞記者の取材を受け、また講演等を依頼されたりした。そういう場合、報道内容を完全否定することは困難であって、「お茶を濁すか」「恥にならぬ程度に話を一般化する」こと位しか出来なかったであろう。野田少尉は、「虚報ならばなぜ訂正しなかったか」と問われ、「善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点である」「反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的には虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」と弁明している。(昭和12年12月15日付け申辨書)

 ただし、新聞報道後の向井少尉と野田少尉の態度は逆転している。これは、向井少尉は記事中に自ら口にした「ホラ話」が第一、第二(?)、第四報に収録されており、その内容も砲兵なのに「部下と共に敵陣に斬り込み55名を斬り伏せた」とか、「丹陽中正門一番乗り」をしたとか、「残敵あぶり出し」(=催涙ガスの使用)を漏らすなど、場合によっては軍法会議にかけられてもおかしくない内容を含んでいた。故に「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」というのが向井少尉の正直な気持ちであったと思われる。氏は、この話を話題にされるのを終始いやがったという。

 一方、野田少尉の記事中の言葉は「二人とも逃げる奴は斬らないことにしている」とか「おれは105だが貴様は?」程度で、戦闘描写も個人戦闘の話であり、向井少尉よりはるかに気が楽だったと思われる。また、南京軍事法廷では「自分は中国人7名の生命を救ったことがある」(野田少尉最終発言)とも述べており、遺書を見ても「武人としてのいさぎよさ」は十分持っていたようである。そうであるが故に、「百人斬り競争」を「善事の報道」と割り切るところもあったのではないだろうか。もし、そうした報道の裏で、罪もない住民を虐殺するなどの後ろめたい行為をしていたとすれば、そうした疑いを生じさせるパフォーマンスを生徒たちの前でするはずがなく、逆に、野田少尉に「虚報をてらう」気持ちがあったからこそ、そのパフォーマンスが、志々目証言にあるような誤解を生じさせる結果にもなったのだと思う。(こうした野田少尉と向井少尉の対応の違いは、前者が陸士出の職業軍人将校であり、後者が幹部候補生、いわば民間からの臨時雇将校であったことが起因していると山本七平は指摘している。)

 〈もっとも,原告らは,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されて前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったと主張し,南京軍事裁判における両少尉の弁明書面や南京軍事裁判における冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。しかしながら,前記認定事実によれば,両少尉の弁明書面や冨山大隊長の証明書は,いずれも南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり,この点に関して南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていないこと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,離隊しているのであれば,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然その旨の記載があるはずであるにもかかわらず,そのような記載が見当たらないこと,犬飼総一郎の手記には,向井少尉の負傷の話を聞いた旨の記載がなされているものの,その具体的な内容は定かではないことなどに照らすと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるに足りないというべきである。

また,原告らは,紫金山の攻撃については,歩兵第三十三連隊の地域であり,冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張する。しかしながら,前記認定のとおり,冨山大隊は,草場旅団を中心とする追撃隊に加わり,先発隊として活動していたのであって,その行軍経路には不明なところがあるものの,第九連隊第一大隊の救援のため,少なくとも紫金山南麓において活動を展開していたと認められ,紫金山南麓においては,比較的激しい戦闘も行われていたようであって,本件日日記事第四報が「中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉」と報じている点などをとらえて、本件日日記事を虚偽の創作記事であると言うことはできない。〉

* 各種の証言を総合すると、向井少尉が丹陽の戦闘で負傷したことは事実だが、おそら傷の程度は比較的軽く、救護班で治療を受けた後は部隊に戻り、移動時は馬に乗るなどして部隊と行動を共にできたのではないだろうか。山本七平は、向井少尉が部隊に復帰した日を昭和12年12月10日湯水鎮とし、11日、部隊が霊谷寺(紫金山東方山麓)にあったとき、野田少尉と共に浅海記者及び鈴木記者と会合したのではないかと推測している。また、向井少尉が部隊復帰後紫金山の戦闘にどの程度関わったかについては明らかでないが、第四報の記事から見て、向井少尉は、少なくとも、紫金山の残敵掃討戦で使われた「毒ガス=催涙ガス」を吸引し棒立ちになる経験をしたことは間違いないと見ている。

 ところで、ここにおける裁判所の判断は、原告が、両少尉とも紫金山の戦闘に参加しておらず、第四報の記事は全て記者の創作であると主張していることから出てきたものである。しかし、私は、山本七平の解明した実像の方が、より「事実」に近いのではないかと思っている。また、その事実を認めたからといって、原告が特に不利になるとも思わない。

 〈さらに,原告らは,向井少尉が,昭和21年から22年ころにかけて,東京裁判法廷において,米国パーキンソン検事から尋問を受け,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となった旨主張する。しかしながら,向井少尉の不起訴理由を明示した証拠は何ら提出されておらず,また,パーキンソン検事が向井少尉に対して,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。」と述べたことを裏付ける客観的な証拠も何ら存在しないのであって,その処分内容及び処分理由は不明であるというほかなく,仮に向井少尉が不起訴であったとしても,東京裁判がいわゆるA級戦犯に対する審判を行ったものであることからすると,A級戦犯に相当しないと見られる向井少尉の行為が,東京裁判で取り上げられなかったからといって,当然に事実無根とされたものとまでは認められないというべきである。 〉

* 東京裁判における向井少尉の不起訴理由は、「百人斬り競争」の証拠としては東京日日新聞の記事があるだけで、その記事が記者の「伝聞」に過ぎないものであることが明白だったからである。確かに浅海記者や鈴木記者は、この件で昭和21年6月15日に東京裁判の検察官の尋問を受け、「記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか」と聞かれ、見てもいないのにいずれも「真実です」と答えている。しかし、浅海記者が検事の請求によって陳述台に立ち、宣誓を終えるや否や、判事の一人が「この証人の陳述は伝聞によるものであるから、当裁判の証人、証拠となり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない」と発言したという。すると裁判長はこの発言を取り上げ、浅海記者は直ちに退廷を命じられた。この間1分にも満たない短時間だった、と浅海記者自身が回想している。(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」『ペンの陰謀』所収p351)その後、向井少尉は即刻不起訴処分となったのであるから、これは裁判上「事実無根」と認定されたということにほかならないと思う。なお、東京裁判で南京大虐殺の責任を問われた松井石根はB級裁判で死刑判決を受けたのである

2007年9月21日 (金)

「百人斬り競争」報道の実像に迫る4

 では次に、「百人斬り競争」の実像に迫るため、浅海氏の主張する「事実経過」と両少尉の主張する「事実経過」とを突き合わせて見ましょう。(参照 判決文添付「南京攻略作戦要図」)

 浅海氏は、この「百人斬り競争」の話が両少尉よりもたらされたのは、最初は「無錫の駅前の広場の一角」で、その次は、丹陽をはなれて少し前進したころで一度、その次は、麒麟門の付近で一度か二度、その次は、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度といっています。また、両少尉はあるときは一人で、あるときは二人でやって来、そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていった、と述べています。

 これに対して野田少尉は、「新聞記事ノ真相」(参考)で、浅海記者とは(11月26日頃)無錫において向井少尉とともに「笑談」した。その後、冨山大隊(野田少尉はその副官)は丹陽東方から北方に迂回した(この時、向井少尉の歩兵砲小隊と別れた)。従って、常州(注1)、丹陽、句容には入っていない。その後、12月11,12日頃麒麟門東方付近において戦車に乗った浅海記者と出会った。浅海記者は、その時、最後の記事(第四報)を送ったことと、記事は日本国内で評判になっていることを告げた、と述べています。

 一方向井少尉は、無錫郊外で野田少尉と共に浅海記者に会って「笑談」した。私は無錫戦が初陣で、常州では戦闘はなく、11月末、(本隊を見失ったために第12中隊の指揮下に入り)丹陽の砲撃戦に加わり、左膝頭部及び右手下膊部を負傷し看護班に収容された。また、句容では戦闘はなく、昭和12年12月中旬頃湯水鎮東方砲兵学校において所属部隊である冨山大隊に復帰した、と述べています。

 そこで、新聞記事の方ですが、両少尉は11月25日、無錫入場後「百人斬り競争」を始め、11月29日常州入場まで、向井56人(注2)野田25人、12月2日丹陽まで向井86人野田65人(ここで向井少尉は丹陽城中正門一番乗りを果たす。野田少尉は手首に軽傷を負う)12月5日句容まで向井89人野田78人(両少尉は句容入城にも最前線に立って奮戦)、12月10日紫金山の某所で、両少尉は刃こぼれした日本刀を片手に対面”(野田)おれは105だが貴様は (向井)おれは106だ”。翌12月11日昼紫金山中山陵を見下ろす所で、向井少尉が「百人切りドロンゲーム」の顛末や紫金山残敵あぶり出しの話などを浅海、鈴木記者相手にしたことになっています。

 こうした新聞記事における斬殺数の推移は、両少尉と浅海記者が無錫で「笑談」した際、それぞれの日本刀の話から「百人斬り競争」の話が出た後、浅海記者から”競争してみたら”との慫慂をうけ、向井少尉が「小説として」語ったという数字(無錫から常州まで向井40対野田30、丹陽まで60対50、句溶まで90対80、南京まで向井、野田共に100以上)と、記事の後半部分でほぼ一致しています。しかし、野田少尉は丹陽東方で第3大隊本隊が北方に迂回したため丹陽にも句容にも入っておらず(この事実は、東中野修道氏が近著で論証)、また、向井少尉は12月2日、丹陽の砲撃戦で負傷し,12月中旬部隊復帰するまで戦闘に参加しなかった、といっています。(山本七平は向井少尉の部隊復帰の日を10日と見ています)

 次に、こうした三人の主張から何が判るか、ということですが、まず、三者の無錫における談合の事実は間違いないと思います。三者にはそれぞれにこの談合に加わる動機がありました(前述の通り。ただし、浅海・向井は積極的、野田は消極的)。しかし、この無錫での三者談合は、常州で写真を撮った佐藤カメラマンには隠され、浅海記者はあたかも常州ではじめて両少尉に会い「百人斬り競争」を知ったようなふりをしてこの記事を書いたのです。なお、記事の発信人は、浅海特派員の他光本特派員、安田特派員となっていますが、光本特派員は大阪毎日本社の特派員で浅海記者と同行していなかったことが判明していますし、安田特派員は無電技師で記事とは関係ありません。つまり浅海氏の取材ティームといっても、実際は浅海記者一人なのです。

 また、その後の、第二報における丹陽までの戦闘の描写中、「中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行」という記述は先に述べた通り事実に反していますし、「野田少尉も右の手首に軽傷を負ふ」の記述は、あるいは、向井少尉の負傷のことかも知れません。また、向井少尉の「野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、(この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、)野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふ(ワッハッハッハ)」という台詞ですが、それを、向井少尉が、追撃中の行進の隊列の中からニコニコしながら語ったというのですから、「ふざけている」としか思えません。(ここの( )内の会話は、大阪毎日新聞朝刊に載った第二報の記事にあるもので、それが東京日日でカットされたのは、おそらく、そこに「悪ふざけ」を読み取ったためと思われます。それにしても、ここでの向井少尉の台詞が何時のものか、負傷の前か後か、そもそも負傷の事実がなかったのか、それとも記者の創作か、判然としません。)なお、第三報の記事は、句容入城まで向井が89野田が78という筋書き通りの経過を知らせるためだけのものですが、両少尉とも句容に入城しておらず、談話もとれなかったためではないかと推測されます。*「それにしても」以下加筆9/23)

 最大の問題は、第4報の紫金山における12月10日の両少尉の会見と、12月11日の向井少尉の浅海、鈴木両記者を前にしての怪気炎─”知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ”─ですが、山本七平は、12月11日の会話がなされたことは、その内容から見てほぼ確実だとし、一方、その前日の12月10日の両少尉の会見記事は、イザヤ・ベンダサンが指摘したように、浅海記者が「百人斬り競争」を「時間を争う競技」から「数を争う競技」に切り替えるために行った創作と断定しています。

 そして山本七平は、向井少尉が部隊に復帰したのを12月10日湯水鎮と推定し、12月11日部隊本部は紫金山麓の雲谷寺にいたので、両少尉と浅海記者及び鈴木記者との会合は、この紫金山東麓の霊谷寺付近ではないかと推測しています。これについて野田少尉自身は、浅海記者とは11日か12日に麒麟門東方(霊谷寺東方約5キロ)で行き違ったとのみ答え、向井少尉は12月半ばに湯水鎮東方の砲兵学校(霊谷寺東方約15キロ)で部隊復帰したと答えています。しかし、鈴木記者が12月11日に紫金山麓で両少尉に会ったと証言していますので、この紫金山麓というのは大隊本部がいた霊谷寺付近ではないかと見ているのです。(ただし、12月11日の新聞記事の会話には野田少尉は出てきません)

 ところで、山本七平は、こうした判断を、東京日日新聞の「百人斬り競争」の2回(第一報と第4報)の記事をもとに行っているのです。しかし、実際には「百人斬り競争」の記事は4回あり、山本七平は「私の中の日本軍」執筆当時は、第二,第三報の記事の存在を知りませんでした。また、浅海記者の書いた記事原稿は、実は、大阪毎日新聞に掲載されたものがオリジナルで、東京日日新聞に掲載されたものは、東日の編集部の手が加えられていることも知りませんでした。しかし、もし知っていたなら、両少尉は丹陽東方で別れた後別ルートを進み、丹陽にも句容にも入城していないのに、第二、三報では、両少尉がそこで戦闘をしたかのように書かれているのですから、さらに明確に「百人斬り競争」の創作性を指摘できたと思います。

 ともあれ、この「百人斬り競争」の記事は、無錫における三者談合に始まり、その後、向井少尉にその筋書き通り「百人斬り競争」の戦果を語らせ、それを浅海記者が「取材」するという形で記事が書かれたものと思われます。その際、浅海記者は、この記事が「創作」であることがばれないよう、向井、野田両少尉を、同一指揮系統下にある歩兵小隊長であるかのように描き、佐藤カメラマンや(あるいは)鈴木記者を引き込んで談合の事実をカムフラージュし、また、記事中両少尉の「談話」を組み込むことで、記事の創作性を隠蔽しようとしたのです。

 しかし、丹陽東方で第3大隊にアクシデントが生じて、両少尉は別ルートを進むことになった。また、丹陽の砲撃戦で向井少尉が負傷した。そのため第三報が数あわせのためだけの記事になってしまった。幸い(?)紫金山麓で部隊復帰した向井少尉に会い筋書き通り怪気炎を吐かせ、それを「取材」することができた。だが、野田少尉がいないと話が完結しないので、12月10日の紫金山某所における両少尉の会見記事を創作し付け加えた。おそらく、そんなところではなかろうかと私も思っています。

 さて、この場合、浅海記者の言葉「当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたってことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。」(この言葉は、浅海記者が向井少尉に求められて南京軍事法廷に提出した証言内容と同趣旨)には正当性があるでしょうか。山本七平は、次のように言っています。

 「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからといって、死が重くなるわけでもないのだから。
 しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。たしかに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかもしれぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで『事実』であって、この場合、取材の相手の言ったことを『事実と認定』したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉には反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、『建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ』といっているわけである。それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、『二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない』と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が『二人の語ったことは事実だ』と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。これでは、この処刑は軍事法廷の責任だとはいえない。」(『私の中の日本軍(上)』p262)

(注1)常州は、文章の前後の関係から間違いと思われる。

(注2)東日の第一報では総計56のはずが内訳を合計すると59(55+4)になる。しかし、オリジナルの記事原稿と思われる大阪毎日の第一報では56(52+4)になる。東日の単純ミスと思われる。

2007年9月20日 (木)

「百人斬り競争」報道の実像に迫る3

 ここで、浅海一男氏の記す、向井、野田両少尉との出会いそしてその後の経過と、氏が東京日日新聞に書いた「百人斬り競争」の記事との関係について考えてみます。

 浅海氏がこの間の事情についてはっきり語ったのは、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52.9初版)に収録された氏の文章「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においてですが、氏が戦後はじめてこの事件についての取材を受けたのは、昭和47年4月(20日を過ぎた頃)のことです。それは、鈴木明が、前回紹介した向井少尉の弟向井猛氏を取材した直後に、『諸君』編集部を通じて電話をかけたのが最初でした。鈴木明は、浅海氏にできればお会いしたい旨告げましたが、浅海氏は「向井、野田両少尉に関しても浅海氏は『どこかの戦場で会ったような気がする』という程度の記憶」しかなく面会を断ったそうです。

 それでも鈴木氏は、「当時でも、人間を百人斬るというのは異常なことだったと思うのですが、その信憑性について疑いは持たなかったのでしょうか?」とたずねたところ、浅海氏は「当時どういう風に感じたかについても記憶はありません。唯、責任ある人(将校という意味?)が語ったことだから、そのまま信じて疑わなかったのだろうと思います。あり得ることだと思いました」

「後にこれが問題になるとは想像もされなかった?・・・?」
「戦闘中の話として書きましたから・・・。戦後遺族の方からこういう答弁をしてくれと依頼があり、お気の毒と思って上申書を書きましたが、何しろ本人が言ったことを書いたわけですから、他に証明書の書きようもなかったわけです。その辺のこともよく覚えていません」(中略)

「処刑された二人に対するお考えは?」
「特に亡くなられた方だから、何も言いたくありません──」と答えています。

 その後「週刊新潮」昭和47年7月29日号に掲載された「南京百人斬りの”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という見出しの、氏に対するインタビュー記事では次のように答えています。

 「(前略)当時、二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが、話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ、証人はいたはずだ。また、私の報道が証拠になったかどうか、これも明らかではありませんからね。しかし、私は立派な亡くなり方をなさった死者と、これ以上論争したくないな・・・」

 そして、昭和52年の「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」では次のようにいっています。

 「連日の強行軍から来る疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る若い日本将校に出会ったのです。・・・筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕野営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄ってきたのでした。『お前たち毎日新聞か』といった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、今は記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、彼ら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズ第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗を掲げて戦場の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやってくるさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。」 また、当時は、多くの将兵が新聞記者に声をかけてきて、かれらの部隊が何県何郡出身だとか、元気に戦っているか知ったら、郷里の人々がどんなに喜んでくれるとか、安心してくれるとか、また、さまざまの武勇のさまを話したことを紹介した後、浅海記者は、自分自身の従軍記者としての身分上の制約と、多くの武勇の話の中から、なぜ「百人斬り競争」を選択したかについて次のように説明しています。

 「当時の従軍記者には、これらの(将兵たちの語る)『談話』について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは『陸軍省から認可された』従軍記者だったからです。」もっとも、われわれはこれらの『談話』のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであったことは、前にあげたようなもろもろの『戦果ばなし』がそれ自身かなり現実性をもっていたことと、『陸軍省認可』のわれわれの身分とが規定していたのです。

 事実、「『敵』を無造作に『斬る』ということは、激しい戦闘の時はもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。」そして、その実例として、氏が見聞したいくつかの捕虜処刑の様子や、普通の市民を「東洋鬼」に変えていった南京戦の過酷な実情を紹介した後、次のように「百人斬り競争」のその後の経過を述べています。

 「このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現れてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の付近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。 そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり緊急を要しない記事は二日、三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」

 つまり、浅海氏は、「百人斬り競争」の話は両少尉が浅海記者の取材チームに持ち込んだものであること。その話にはリアリティーがあったから記事にしたこと。しかし、われわれは「陸軍省から認可を受けた」従軍記者であり、また、当時は「敵」を無造作に「斬る」ことは、戦闘中でなくても不道徳な行為とは見なされていなかったので、「百人斬り競争」のような武勇談を戦意高揚記事として書いたこと。また、そうした話に冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だったこと等を述べています。

 要するに、浅海記者は「百人斬り競争」の新聞記事の内容は、両少尉の話を記事にしただけで、自分に責任はない。また、それを戦意高揚のための武勇談として新聞記事を書いたことについても、「陸軍省から認可を受けた」従軍記者としてやったことで、自分に責任はない。また、冷静に事実関係を確かめることなくこの記事を書いたことについても、こうした「手柄ばなし」に「冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能だった」ので、自分に責任はない、といっているのです。

 だが、「両少尉の話を記事にしただけ」という氏の言い分は、その後、鈴木明の調査で両少尉の上申書や手記・遺書が発見されたことにより、三者談合の存在が明らかとなりました。また、山本七平による自らの体験に基づく分析によって、記者は、両少尉が大隊副官と歩兵砲小隊長であることを知っていたのに、「百人斬り競争」を事実らしく見せるため、二人をあたかも第一線の歩兵小隊長であるかのように描いていることが指摘され、さらに、記事は、両少尉に「筋書き通り」に戦果を語らせ、浅海記者がそれを「百人斬り競争」らしく仕立て上げる形で創作されたものであることが解明されました。

 また、山本七平は、冷静に事実関係を確かめることなく、国民の戦意高揚のため、不確かな「手柄ばなし」を特電として報じたことについて、新聞記事というのはあくまで事実に基づいて書かれるものであり─それ故にこそ、それが唯一の証拠となって二人の人間が処刑されようとしているのだから─軍に迎合してこのような記事を書いたことについて、浅海記者の新聞記者としての責任を鋭く追及しました。同時に、毎日新聞もこの記事を再調査をすることなく放置したのだから責任は免れない、まずこれを事実と報道したことを取り消し、遺族に賠償してほしいと訴えたのです。

2007年9月 8日 (土)

「百人斬り競争」報道の実像に迫る2

 この事件の概要については、本エントリー─「殺人ゲーム」と鈴木明の疑問─で紹介しましたが、ここでは、どうして北京郊外の廬溝橋で偶発的に発生した事件が、華中の上海に飛び火し、それが首都南京の攻略戦に発展したのかについて、もう少し詳しく説明しておきたいと思います。(『南京事件』秦郁彦第三章「廬溝橋から南京まで」の記述を引用要約)

 昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけに始まった日中の紛争は、「通常なら現地交渉ですぐに片づく程度の局地紛争」にすぎませんでしたが、「満州事変にひきつづく日本の華北進出をめぐって、悪化しつつあった日中関係は、すでに局地紛争が連鎖的に全面戦争へエスカレートしていくだけの危機的条件を成熟させて」いました。

 「すなわち、『一面抵抗、一面交渉』を標語に日本との衝突を回避しながら、念願の本土統一をほぼ達成した中国は、1936年頃から国共合作を軸とする抗日統一戦線を形成し、これ以上の対日譲歩を許さない姿勢に固まりつつ」あったのです。こうした趨勢を決定づけたものが「西安事件」(1936.12.12)で、これ以降、支那は内戦停止・一致抗日へと結束を固めていきました。

 「しかし、日本政府も軍部も、こうした中国ナショナリズムの新しい潮流を認識せず、武力による威嚇か、悪くても一撃を加えるだけで中国は屈服するだろうと楽観し、マスコミも世論も中国を軽侮し続けてきた固定観念から、安易に『暴支鷹懲』を合唱」していました。つまり、”排日・侮日を続ける支那を懲らしめる”といった程度の認識で、「大戦争になるという予想なしに」安易に華北戦線を拡大していったのです。

 一方、蒋介石(中国国民政府主席)は、廬溝橋事件勃発後の7月17日、「最後の関頭演説」といわれる次のような演説を行っています。「万一、避けられない最後の関頭に至ったならば、我々は当然ただ犠牲あるだけであり、抗戦あるのみである。我々の態度は戦いに応ずるのであって、戦いを求めるのではない。我々は弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せねばならず、祖先から託された歴史上の責任を負わざるを得ない。」

 その蒋介石の日中戦争に臨む戦略は、第一段階が「華北退却戦」、第二段階が「華中への誘引作戦」、第三段階が「奥地引き込み戦略」であったといいます。この作戦通り、蒋介石は、華北戦線ではつねに「決戦を回避して早々に退却する戦術」をとりました。その一方で、「中央軍の主力を上海地区に投入、主戦場を華北から華中に転換」するよう誘引作戦を行いそれに成功しました。(大山中尉事件など)

 こうして、8月11日、「張治中の指揮する中央軍三個師団(約三万)に攻撃が下令され、上海市街を守る兵力四千の日本海軍陸戦隊との間に、十三日から上海における本格的戦闘が始ま」りました。一方、「同日、日本政府は海軍の要請を承認して、陸軍へ威力の増援を決定、その後、中国軍の増勢に応じて華北から兵力を抜き、内地からも増援部隊を次々に投入」していきました。

 しかしながら、日本政府は、「上海に出兵したものの、拡大への不安から兵力を出し惜しみ、苦戦するとそのつど追加投入して、さらに損害を増すという拙劣な対応を重ね」ました。一方、中国は、1936年からドイツ式の近代装備を持つ師団編成に取り組むと共に、ドイツ軍事顧問団の指導により、上海の非武装地帯にトーチカを備えた網の目のような防御陣地を構築しており、その総兵力は30万に達していました。

 そのため、8月23日に応急動員のまま軍艦で上海北方に輸送された第11師団と第3師団は、網の目状に広がるクリークを利用した堅固な防御陣地による中国軍の激しい抵抗に会い、攻撃は停頓し、兵員の損害も急増しました。そこで陸軍中央部は、9月7日に台湾から重藤支隊、10日に内地から第9,第13,第101師団などを送り込み、こうして上海地区の激戦は、10月末まで二ヶ月余にわたってつづいたのです。

 そこで、こうした「正面からの力攻めだけでは戦局は打開しないと判断した参謀本部は、華北から一部の兵力を抜いて、11月5日、新たに第十軍(柳川平助中将)を編成、杭州湾北岸に上陸させ、また、16師団を揚子江上流の白茆口に上陸させ、上海派遣軍の危急を救う」とともに、三方向から上海の中国軍を包囲撃滅しようとしました。しかし、それは主戦場を華北から華中に転換するものでしたが、作戦は、あくまで上海地区に限定する方針に変わりはなく、補給計画もそれに応じるものでしかありませんでした。

 ところが、「それに先だって、上海方面の戦局も急速に動きはじめて」おり、「10月26日大場鎮陥落後は、中国軍の防御態勢は崩れ落ち」、かつ「第十軍の上陸北上を知ると、側面から包囲されることを恐れた中国統帥部は西方への全面退却を下令」しました。「すでに浮き足だっていた中国軍の逃げ足は速く、日本軍の上海西方地区での包囲殲滅は夢に終わりましたが、それが、陸軍中央部が予定していなかった南京追撃を誘発することに」なったのです。

 ところで、この二ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものでした。「戦死9,115名、戦傷31,257名、計約4万という数字は、惨烈無比といわれた日露戦争の旅順攻防戦(死傷者6万人)に迫るもの」となりました。「こうした上海戦の惨烈な体験が、生き残り兵士たちの間に強烈な復讐感情を植えつけ、幹部をふくむ人員交代による団結力の低下もあって、のちに南京アトロシティーを誘発する一因となった」と秦郁彦氏は述べています。

 そこで、本題に戻りますが、「百人斬り競争」の主役となった向井少尉と野田少尉は、先ほど述べた、華北から上海派遣軍に増援された第16師団(11月13日揚子江南岸の白茆江に上陸)の歩兵第9連隊第3大隊(冨山大隊)に属していて、総退却となった中国軍を追って、11月25日無錫(26日を訂正9/14)、11月29日常州、12月2日丹陽、12月5日句容、12月11日紫金山へと急追・進撃したのです。

 無錫、常州、丹陽、句容間はそれぞれ約40キロで、この間をそれぞれ三日程度で走破していますから、一日10キロ以上進んだことになります。この間、向井少尉は「無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加したが、・・・常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では、冨山大隊長の指揮から離れて、別個に第12中隊長の指揮下に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中負傷して看護班に収容された」と南京軍事法廷で証言しています。(s22.11.6の検察審問に対する答辨書)

 一方、野田少尉は、冨山大隊(定員1,091名)の副官であり、その冨山大隊(歩兵一個小隊、歩兵砲小隊を除く)は、丹陽付近から北方に遠く迂回し、本隊(第16師団)に遅れたため、草場部隊の予備隊となり、本隊に追求すべく急行軍を実施した。従って、常州、丹陽、句容に入ることはなく、これらの地では全く戦闘をしていない(同11月15日付答辨書)と同様に証言しています。

 これに対して、東京日日新聞の浅海記者は、11月29日常州発「百人斬り競争」の新聞記事で、「記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。」として、次のような両少尉の会話を記事にし新聞に掲載しています。
 「向井少尉  この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
 野田少尉  僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。」

 つまり、浅海特派員は、常州で、はじめて、両少尉が、「百人斬り競争」をしていることを知ったとして、11月29日発の「百人斬り競争」の第一報を書いているのです。浅海記者はこのことの証人とするため、同僚の佐藤振寿カメラマンを呼び、この取材の様子を写真に撮らせています。この時、佐藤カメラマンは、両少尉に対して、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と質問したといっています。(『週刊新潮』s47.7.29)

 また、浅海氏は、本多氏の「中国の旅」を契機に、この東日の「百人斬り競争」記事に疑問が投げかけられるようになって後、本多勝一編『ペンの陰謀』(s52)に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する小論を寄せています。その中で、両少尉との最初の出会いを「無錫の駅前の広場の一角」(『同書』p340)としていますので、次の野田少尉の「新聞記事の真相」に述べる通り、その発端となった両少尉との出会いは、無錫であったことが明らかとなりました。

 おそらく浅海記者は、この話を、先の小論でも弁解している通り、数日間暖めていて(気後れしたのか?)、11月29日に佐藤振寿カメラマンに両少尉の写真を撮らせた段階で、それを、その日に(はじめて)取材したように記事を書き、本社である大阪毎日に送ったのです。大阪毎日はそれを支社である東京日日に転送し、両者それぞれ、その原稿をもとに新聞記事を作成し、それぞれの新聞に掲載したのですが、興味深いことに、その原稿の取り扱いに違いが生じています、がそれは後ほど。()内は9/14挿入

 そこで問題は、この「百人斬り競争」の話が、どのような経緯で新聞に掲載されることになったのかということなのですが、「百人斬り競争」報道から何を学ぶか4─野田少尉の弁明そして遺書─で紹介したように、野田少尉は、この間の事情について、昭和22年12が18日の死刑判決後に、「新聞記事ノ真相」と題して次のような手記を残しています。再掲になりますが、全文紹介させていただきます。

 被告等ハ死刑判決ニヨリ既ニ死ヲ覚悟シアリ。「人ノ死ナントスルヤ其ノ言ヤ善シ」トノ古語ニアル如ク被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス。依ツテ中国民及日本国民ガ嘲笑スルトモ之ヲ甘受シ虚報ノ武勇伝ナリシコトヲ世界ニ謝ス。
 十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
 記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
 向井 「関ノ孫六デス」
 野田 「無名デス」
 記者 「斬レマスカネ」
 向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
 記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
 向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
 記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
 向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
 野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
 記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
 向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
 記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
 シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ
 尚数字ハ端数ヲツケテ(例句溶ニ於テ向井八九野田七八)事実ラシク見セカケタルモノナリ。
 野田ハ麒麟門東方ニ於テ記者ノ戦車ニ添乗シテ来ルニ再会セリ

 記者 「ヤアヨク会ヒマシタネ」
 野田 「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」
 記者 「今マデ幾回モ打電シマシタガ百人斬競争ハ日本デ大評判ラシイデスヨ。二人トモ百人以上突破シタコトニ(一行不明)
 野田 「ソウデスカ」
 記者 「マア其ノ中新聞記事ヲ楽ミニシテ下サイ、サヨナラ」
 
 瞬時ニシテ記者ハ戦車ニ搭乗セルママ去レリ。当時該記者ハ向井ガ丹陽ニ於テ入院中ニシテ不在ナルヲ知ラザリシ為、無錫ノ対話ヲ基礎トシテ紫金山ニ於イテ向井野田両人ガ談笑セル記事及向井一人ガ壮語シタル記事ヲ創作シテ発表セルモノナリ。
 右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ。
 貴国法廷ヲ煩ハシ世人ヲ騒ガシタル罪ヲ此処ニ衷心ヨリオ詫ビス。

 おそらく、この野田少尉の、自らの死を覚悟して後の「被告等ノ個人的面子ハ一切放擲シテ新聞記事ノ真相ヲ発表ス」としたこの手記の内容が、「百人斬り競争」報道がなされるに至った事実関係を、最も正確に描出しているのではないかと思います。ここで野田氏は、浅海記者に対して、「右述ノ如ク被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と告発する姿勢も見せています。

 これに対して、向井少尉の浅海記者に対する態度は、浅海氏との共犯関係をより強く想起させるもので、一方で浅海氏をかばう姿勢を見せつつも、他方でその”非情”をうらむ屈折した心情を吐露しています。が、その怒りの矛先は、浅海記者に対してより、むしろ、こうした非道な裁判を行い、無実の自分等を処刑しようとする中国に対して向けられているように思われます。その遺書には次のような言葉がつづられています。

 「母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。・・・何れが悪いのでもありません。人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。」

 これからわかることは、この「百人斬り競争」報道に対して、向井少尉は、野田少尉よりはるかに強く責任を感じていて、「人が集まって語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事はないのですが頭からの曲解です。」と自分がやったことに対する自己弁護を試みています。

 また、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とその善意を認めつつ、しかしその一方で、「浅見(ママ)氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となっては未練もありません。」と述べています。

 この一ヶ条(一項)というのは、向井少尉の弟である向井猛氏が、市ヶ谷に拘留中の向井少尉に頼まれて、「今のところ、向こうの決め手は、例の百人斬りの記事だ。この記事がウソだということを証明してもらうのは、これを書いた毎日新聞の浅海さんという人に頼む外はない。浅海さんに頼んで、あの記事は本当ではなかったということを、是非証明してもらってくれ。」といわれ、有楽町の毎日新聞に浅海氏を訪ねて書いてもらった証明書の第一項のことです。そこには、”① 同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。”と書いてありました。

 つまり、向井少尉は、この浅海氏の証明書の第一項について、確かに自分がそうした武勇伝を氏に話したことは事実だが、しかし、それが事実でないことは浅海記者自身も知っていることではないか。なのに、この書き方では、”それが事実でない”ということを浅海記者が知っているというその事実を、浅海記者自身が否定していることになる、そう”誤解をすればとれる”書き方ではないか、それは”人情”にもとるではないかといっているのです。

 確かに、そうした武勇伝が新聞記事で報じられれば、戦場における手柄話であり故郷の名誉となるし、自分が元気でいることの家族への知らせにもなる。また、婚期を逸して出征した自分の花嫁募集の宣伝にもなる(山本七平氏によると、これは、早く内地に帰って平和な生活をしたいという隠されたメッセージだそうです)。一方、記者は、行軍ばかりでおもしろい記事がなく困っているというから、ホラ話の武勇伝を特ダネとして提供したわけで、それで”飛来する弾雨の中で取材する特派員”としての面目も立ったではないか、というわけです。

 こうした、三者合作の申し合わせがあったことを窺わせる記事が、実は、12月1日付大阪毎日新聞(夕刊)に掲載された「百人斬り競争」第一報に残されています。これは、東京日日に掲載された第一報の記事にはないもので、記事の末尾の”僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ”という野田少尉の会話の後に、「記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤らめて照れること照れること」という記述があるのです。

 11月30日付東京日日新聞(朝刊)の第一報では、この部分が削除されていますが、さすがにその「不自然さ」が気になったのでしょう。もちろんこの記事の原稿は、浅海氏が先の小論で証言している通り、まず大阪毎日新聞本社に送られ、それからその支社である東京日日新聞に送られているのです。ということはもとの原稿にこの記述があったということです。両少尉との約束を律儀に守ろうとする、浅海記者の”苦心”の跡が見えるようではありませんか。

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