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2007年11月11日 (日)

「百人斬り競争」その虚報の帰結

 前回まで「百人斬り競争」裁判について見てきました。その判決理由について私が最も注目する点は、東京高裁が、浅海・鈴木両記者が,「極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来,自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事に事実として書かれていることが虚偽ではなく真実である旨」述べていることについて、それを(両少尉から取材した事実に粉飾を加えていないという趣旨であると理解される)としている点です。

 つまり、東京高裁は、両記者の記事は「真実である」という主張を、東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事の内容の全ては、両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり、「取材した事実に粉飾を加えていない」という意味に解する一方、「百人斬り競争」の記事内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」としているのですから、結局、両少尉が,浅海記者ら新聞記者に「ホラ話」をしたことが問題であり、その責任は全て両少尉が負うべきとしている点です。(記者の責任にはほとんど言及していない)

 はたしてそうか。向井少尉はその上申書で〈「記者は、『行軍ばかりで、さっぱりおもしろい記事がない。特派員の面目がない』とこぼしていた。たまたま向井が『花嫁の世話をしてくれないか』と冗談を言ったところ、記者は『あなたが天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる』といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は書かれたのである〉と主張しています。

 また、野田少尉が「上訴申弁書」に付した「新聞記事ノ真相」と題する一文には、次のような会話が再現されています。(再掲)

「十年以前前ノコトナレバ記憶確実ナラザルモ無錫ニ於ケル朝食後ノ冗談笑話ノ一節左ノ如キモノアリタリ。
 記者 「貴殿等ノ剣ノ名ハ何デスカ」
 向井 「関ノ孫六デス」
 野田 「無名デス」
 記者 「斬レマスカネ」
 向井 「サア未ダ斬ツタ経験ハアリマセンガ日本ニハ昔カラ百人斬トカ千人斬トカ云フ武勇伝ガアリマス。真実ニ昔ハ百人モ斬ツタモノカナア。上海方面デハ鉄兜ヲ切ツタトカ云フガ」
 記者 「一体無錫カラ南京マデノ間ニ白兵戦デ何人位斬レルモノデセウカネ」
 向井 「常ニ第一線ニ立チ戦死サヘシナケレバネー」
 記者 「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ 記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」
 向井 「ソウデスネ無錫付近ノ戦斗デ向井二十人野田十人トスルカ、無錫カラ常州マデノ間ノ戦斗デハ向井四十人野田三十人無錫カラ丹陽マデ六十対五十無錫カラ句溶マデ九十対八十無錫カラ南京マデノ間ノ戦斗デハ向井野田共ニ一〇〇人以上ト云フコトニシタラ、オイ野田ドウ考ヘルカ、小説ダガ」
 野田 「ソンナコトハ実行不可能ダ、武人トシテ虚名ヲ売ルコトハ乗気ニナレナイネ」
 記者 「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ ハハハ、写真ヲトリマセウ」
 向井 「チヨツト恥ヅカシイガ記事ノ種ガ無ケレバ気ノ毒デス。二人ノ名前ヲ借シテアゲマセウカ」
 記者 「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」

 其ノ後被告等ハ職務上絶対ニカゝル百人斬競争ノ如キハ為サザリキ又其ノ後新聞記者トハ麒麟門東方マデノ間会合スル機会無カリキ
 シタガツテ常州、丹陽、句溶ノ記事ハ記者ガ無錫ノ対談ヲ基礎トシテ虚構創作シテ発表セルモノナリ」

 これに対して、浅海記者は、「無錫の広場の一角でM少尉、N少尉と出会った。M、N両将校はわれわれが掲げていた新聞社の社旗を見て向こうから立ち寄ってきた。その談話の中で両少尉が計画している「百人斬り競争」の計画を話してくれた。筆者らが、このコンテストの成績結果をどうしたら知ることができるか質問すると、「どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ」といった。その後両少尉は三、四回れわれのところに現れて彼らのコンテストの経過を告げていった。たしか、丹陽をを離れて少し前進したころで一度、麒麟門付近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けた。両少尉はある時は一人で、ある時は二人でやってきて、そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたと彼らの戦線の方へ帰っていった」(『ペンの陰謀』s52.9「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」)と述べています。

 このいずれが真実なのか。いうまでもなく東京高裁は後者の言い分を認めているわけですが、私はこれが東京高裁の判決内容の最もおかしな部分だと思います。すでに「百人斬り競争」報道から何を学ぶか8─ベンダサンのフィクションを見抜く目─で紹介しましたが、イザヤ・ベンダサンはこの新聞記事の論理的矛盾を指摘して、「この事件には『はじめにまず表題があった』のである。『百人斬り』とか『千人斬り』とかいう言葉は、いうまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何者かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその物語にふさわしい物語を創作した」と述べています。

 また、山本七平は、問題の焦点は、浅海記者が二少尉の話を「事実として聞いたのか」それとも「フィクションとして聞いたのか」にあるとして、昭和48年4月号の『文藝春秋』「不安が生みだす『和気あいあい』」)で、次のように浅海記者の責任転嫁と逃げを非難しています。

 「浅海特派員は、あらゆる手段を使って「百人斬り競争」の『話の内容に適合するように』主人公を創作し(向井少尉は歩兵砲小隊長、野田少尉は大隊副官─いずれも「前線」でなく「後方」の職─であることを知っていながら、あたかも前線で白兵戦を演じる歩兵小隊長の如く描いていること─筆者)・・・そう見せるため伏字まで使っている。(第一報における野田少尉の会話「僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ」で副官を○官としていること─筆者)それだけでなく、『表題』が戦場の実情にマッチしないことがわかれば、巧みに記述の内容を転換している。(どちらが先に「百人斬」るかという競争が戦場では不可能だと気づくと、第四報では、この数を決めて時間を争うという競技のルールをあいまいにして、時間を決めて数を争う競技ででもあるかのように巧みに切り替えていること─筆者)これをした以上、・・・「二少尉の話を事実として聞きました」という権利は浅海特派員にはない。フィクションとして聞いたからこうしたはずだ。」だが、氏は「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、・・・全てを二少尉に転嫁して逃げようとしている。」
 
 山本七平は、こうした論拠によって、無錫における三者談合の存在を指摘し、浅海記者は、ここで「百人斬り競争」という俗受けする表題の新聞記事に両少尉の名前を使うことの了解をとったのではないかと推測しています。また、浅海記者はこの「談合」の事実をカムフラージュするため、あたかも、常州ではじめて両少尉を取材して「百人斬り競争」を知ったようなふりをして、佐藤振寿カメラマンを呼び両少尉の写真を撮らせた、つまり、無錫と常州の二度の取材を、常州での一度の取材のようにして第一報の記事を送ったのではないかと推測しています。

 その上で、第一報の記事にある野田少尉の談話「野田少尉=僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせる 」について、こういう言い方は軍隊語ではない(「僕」という一人称代名詞は絶対に使わず、あくまで自分の名前を言う。使う場合は「自分」である)ので当初は創作かと思ったが、創作なら意識的に「軍隊語」らしくするはずだし「○官」という危うい部分が入ってくるはずがないので、逆に、この部分だけは「○」を除いて、おそらく野田少尉が向井少尉をからかってふざけて言った言葉ではないかと推測しています。(記者は後で「副官」を「○官」にしたとも)

 また、第四報にある「野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ!』」という会話については、「軍隊語」の二人称代名詞は俗説では「貴様」だが、これはあくまでも「兵隊語」であって「将校語」ではない。将校が同階級の将校をいきなり「貴様」と呼ぶのは「親しいものの私的な会話」でも異例である。従って、この言い方は、実際の「将校語」ではなく、むしろ当時世間一般で考えられていた「軍隊語」で、従って、この会話は、記者が、将校の会話らしく見せるために創作したものであろうと言っています。また、このことは、この会話が「百人斬り」という数を決めてその達成時間を争うという競技のルールをあやふやにする模範的会話になっていることでも証明されるとしています。

 さらにこの第四報の記事中、浅海記者が本当に本人の談話をメモしたものは12月11日の記事中の向井少尉の長広舌だけだと言っています。というのは「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ」という向井少尉の談話について、ここには戦場の軍人の感情がはっきり出ている、つまり「敵は強かった」という軍人特有の感情がでているので本人の談話に違いないといっています。

 しかし、それが余りに陽気でうきうきしすぎているのが少し不可解であったが、彼が丹陽に向かって前進中に12月2日に迫撃砲弾によって足及び右手を負傷したとい言う事実を知ってその疑問も氷解したと次のように述べています。

 「戦傷は戦死より恐ろしい・・・特に足の負傷は・・・動けなくなることであり、生きたまま死体になることであった。一応その危機を脱すると次に恐ろしいのが「ガス壊そ」であり、普通、負傷の二日後ぐらいに起こり、恐ろしい高熱と苦悶の打ちに死ぬ。その危機が過ぎると、次に来るものは化膿・敗血症・死という恐怖である。」向井少尉は負傷して、この談話記事ノ直前まで担送されて、そして現地に到着した。彼はこの時点で「負傷」の持つあらゆる恐怖から解放されたところだったのではないか。しかし一方、実戦に参加しなかったひけ目、それを裏返した強がり、もう戦争は終わったという安堵感と同時に「手柄タテズニ死ナリョウカ」という軍歌に象徴された「手柄意識」それを強要してくる「世論」・・・おそらく全く支離滅裂ともとれるあの「談話」もそういう状態なら、あり得て少しも不思議ではない」

 このように山本七平は、「百人斬り競争」の記事中両少尉が実際に話したと思われる部分を摘出しようとしたのです。その上で、そのほかの両少尉の指揮系統と職務を隠蔽してあたかも歩兵小隊長による戦闘行為のように記述した部分や「何」を斬ったかがはっきりかかれていない部分は、浅海氏の創作と見たのです。ではなぜその「何」を欠落させたかというと、それは、その「何」=「小銃・手榴弾等で武装した戦闘員」という目的語を挿入すると、日本刀で「小銃・手榴弾等で武装した戦闘員」が守るトーチカや敵陣に突進し、何十人も完全武装の兵士を斬り伏せたということになって、虚報であることがばれてしまうからだと言っています。その上で、次のような虚報のもたらす恐るべき帰結に言及しています。(下線部11/12訂正挿入)

 このような「目的語」を故意に欠落させた記事を中国人が見れば、戦闘行為としてみれば虚報になるが、「戦闘中の行為」と読めば、「戦闘中の」非戦闘員虐殺行為と読める。しかし、この新聞記事は「武勇伝」のはず。武勇伝とは「戦闘行為」においてのみ発生するはずで、「戦闘中の行為」すなわち戦闘行為によって派生した非戦闘員殺害は、武勇伝になるはずがない、とすると、この矛盾を解消する論理はただ一つ。日本人は非常に特異な残虐民族であって戦闘中に派生した非戦闘員殺害も武勇と考え、これをニュースとして大々的に報ずる民族である。こうして、日本人=残虐民族説が成り立つ、と。

 こうしてみれば、なぜ、中国のみでなく、日本人である本多氏、洞氏やその支援者たちが、「日本人=残虐民族説」に陥って行ったか、そのメカニズムがわかるような気がします。さらに、なぜ鵜野晋太郎氏のような恐るべき残虐犯(「中国の撫順市戦犯監獄に収容された千余人のうち、大尉以下の八百人中ただ一人重刑となった陸軍情報将校」(『南京大虐殺否定論13のウソ』p116)が存在したことをもって、「百人斬り競争」=「捕虜据えもの斬り競争」の存在証明としたのか、その謎が解けるような気がします。それにしても、東京高裁判決がそのような陥穽に陥っていなければ幸いですが。

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