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2007年12月

2007年12月23日 (日)

「百人斬り競争」論争の現在1

 ここまで、wikipedia の山本七平評──「本多勝一とのいわゆる百人斬り競争における論議で、彼はイザヤ・ベンダサンの名義のまま、山本七平の持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という誤った論理を中心に本多を批判した」というもの──の紹介からはじめて、山本七平が「百人斬り競争」論争においてどのような主張をしたのかを見てきました。この間、私は「日本刀」に関する山本七平の議論には全く触れませんでしたが、それは、この議論が本論に対していわば傍論に過ぎず、あえて論じる必要を感じなかったからです。

 また、この「百人斬り競争」論争は、ついに裁判でも争われることになり、これは昨年末に最高裁が東京高裁の判決を支持して結審しましたが、私は、その事実認定に疑問を持ちました。というのは、東京高裁判決は「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたと認められる」として、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできない」と認定しているからです。

 つまり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことの原因を、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことにのみ求めている。さらに、東京裁判の検事が浅海記者に記事の信憑性を訪ねたのに対し、記者が「真実です」と答えたことについて、それを、「両少尉の言葉に粉飾を加えていない」という意味に解し、それをそのまま受け入れている。結局、ホラを吹いた両少尉の責任であり、それを「見たまま聞いたまま」記事にした新聞記者には責任はないといっているに等しいのです。

 実は、こうした見方に最初に疑問を投げかけたのが山本七平でした。山本七平は、『週刊新潮』の記事「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」(s47.7.29号)について次のようにいっています。
 「『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60)

 つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。「浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがほらと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なることを、浅海記特派員は知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかと。」(本稿「『週刊新潮』の常識的な判断」参照)

 しかし、そうはいっても、以上のような東京高裁の判断は、こうした山本七平の見解も検討した上で下されたはずです。しかし、そうならば、それを覆すだけの、「記者が、両少尉の言葉に粉飾を加えていない」ことを立証する確たる証拠が示される必要がありますが、それは皆無です。というより、そうした観点からの議論を回避しているとしか思えません。あるいは、それが「その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」という判断につながっているのかも知れませんが・・・。いずれにしても、これが、残された論争におけるの第一の争点だと思います。

 次に問題となるのが、「両少尉が「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたという事実自体は否定することができない」という裁判所の判断です。しかし、これは必然的に、「両少尉が捕虜や非戦闘員を(一人でも二人でも)殺したことがあるか否か」を問うこととなり、もともとの「百人斬り競争」報道をめぐる論争の真の争点──この新聞記事を唯一の証拠として「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として両少尉が処刑された!──からずれてしまいます。従って、この点に十分注意した上で、ではなぜ両少尉は記者にそうした話をしたのかが問題となります。裁判所のいうように、「新聞報道されることに違和感を持たない競争をした」事実が背後にあったからか、それとも、両少尉のいうように単なるホラ話か、これが第二の争点です。

 以上のように、「百人斬り競争」論争の争点を整理した上で、「『百人斬り競争』論争の現在」について、秦郁彦氏やトロント大学のボブ・ワカバヤシ氏の所論等を紹介しながら、私見を申し述べたいと思います。が、その前に、洞富雄氏が、これまでに紹介したイザヤ・ベンダサンや山本七平の見解に対して、逐一詳細な反論を行っていますので、それを概略見ておきます。ネット上では、こうした反論をもって、山本七平や鈴木明の主張が完全に論破されたと見なす向きもあるようですが、本論の冒頭に紹介したwikipediaの山本七平評に見るごとく、見当外れのものが多いようです。

 では、洞富雄氏の山本七平に対する反論を「”南京大虐殺”はまぼろしか」(『ペンの陰謀』1977.9.25所収)に見てみたいと思います。ただ、こうした洞氏の反論に対しては山本七平も鈴木明もほとんど何も答えていません。実際のところ、氏の反論は、あまり生産的なとはいえないものが多いですから、そうしたのだろうと思いますが、それが誤解を招いている部分もあると思いますし、一方、肯首すべき論点がないわけでもありませんから、今後の論争の発展のためにも、ここで概略紹介し、あわせて、それに対する私見を申し添えておきたいと思います。

論点1〈職務が隠された真相〉
(山本)真実は、浅海記者は、両少尉の話をホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、二少尉の職務(向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であり指揮系統も職務も全く異なる)を隠し、「百人斬り競争」の記事で、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないか。

(洞)野田少尉を「○官」として登場させてしまったのは、「百人斬り」が正当な戦闘行為ではなかったこと、(つまり、「捕虜の据えもの斬り」だったということ)を最初から知っていたからではないか。だが、真正面からそうとは書けぬので、向井少尉の職務の方は曖昧にしてしまったのであろう。

論点2〈浅海記者の証言は偽証か〉
 向井少尉の実弟向井猛氏が、向井少尉にたのまれて、「あの記事は本当ではなかったんだということ」を書いてもらおうとしたが、浅海氏は、①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません、等と書いて、「百人斬り競争」の新聞記事が創作記事であることを認めなかったことについて。

(山本)「浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分に関わりなきものにし、すべてを二少尉に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危なかったのなら、それでいい─人間には死刑以上の刑罰はない、人を道ずれにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからと入って、死が重くなるわけでもないのだから。
 しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。たしかに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかもしれぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで『事実』であって、この場合、取材の相手の言ったことを『事実と認定』したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉には反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、『建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ』といっているわけである。それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、『二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない』と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が『二人の語ったことは事実だ』と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。

(洞)この山本の主張は浅海氏の人格を抹殺するようなものである。向井・野田少尉を救うために、「百人斬り」は実は虚報だったと、なぜ偽証してくれなかったのだ、と浅海氏の非情をとがめるのならまだしもだが、浅海氏の証言は「”『百人斬り』は事実だから、早く処刑しなさい”といっているに等しい」(『私の中の日本軍』p257)といっているのは曲解というものだ。だいいち、十分な根拠もなしに、どうして人に向かって”お前は人殺しだ”などといえるのだろう。

論点3〈なぜ、二少尉は「新聞記事」を了解したか〉
(山本)「虚報作成」の談合は、まず浅海特派員と向井少尉の間で成立したはずである。その談合が終わった後か途中かで、野田少尉が、向井少尉の相手役もしくは引立て役として参加を求められた。これは軍隊でいう『オダアゲ』=『報告の義務なき私的放談』の一種で、野田少尉は気楽に加わったものと思う。ではなぜ向井少尉は、そんなホラ話が新聞記事になることに同意したのか。①向井少尉は「幹候将校」(陸士での本職の将校でなくいわば臨時雇いの将校で山本も同じ=筆者)で、彼らには、本職の将校と違って、英雄として社会から喝采されたいと願う手柄意識があった。②そこに浅海記者から「貴方が天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」といわれれば全く無抵抗になって、いわれるままに勇士を演じたとしても無理はない。③また、兵士には、すべての者に潜在する戦場独特のホームシックがあった。浅海記者は、それを逆用し「あなたは、記事の形で内地と連絡できますよ」と誘いかけ二少尉を思うがままにあやつった。④浅海記者は行軍ばかりで特派記者として面目ない、とこぼし、「特ダネ記事」をほしがっていた。また、従軍特派員として、弾雨の中で危険を冒して取材をしていると見栄を張る記者心理が働いていた。

(洞)こうした軍隊経験のない私には、山本氏の戦場心理の分析を理解できないのは残念だが、常識で考えた場合次のようなことがいえる。上官に秘密にして「百人斬り」を創作するのはよいとしても、それが新聞で報道されることに同意する将校がいるとは私には到底考えられない。山本氏のいうように、これは私的盟約のもとづき軍を勝手に動かしたとして、「軍法会議」に回されるほどのことだからである。また、④のような記者の心理が働いていたとしても、そんなすぐにネタ割れするインチキ記事を、四度まで堂々と大新聞に書き続けたとは、到底考えられない。

 以上三点が、洞氏の山本七平の見解に対する主要な反論です。これに対する私の意見は次の通りです。

〈論点1〉について
  これは洞氏が「百人斬り競争」の新聞記事は「捕虜の据えもの斬り競争」であったと、何の証拠もないのに予断を持って決めつけているだけの話です。こうした洞氏の見方は、いいかえれば「本当は『捕虜の据えもの斬り』をしているのに、それを偽って白兵戦における正当な戦闘行為であるかのように粉飾し新聞記事にして報道した」といっているに等しく、氏自身の言葉を借りれば、これは両少尉の「人格を抹殺」するものであり、「十分な根拠もなしに、どうして人に向かって”お前は「捕虜の据えもの斬り」競争をしただけでなく、それを英雄行為と偽って大新聞に載せ宣伝した恐るべき非人格的人間だ”などと、どうしていえるのだろう”ということになります。

〈論点2〉について
 これも、〈論点1〉と同じく、洞氏が「百人斬り競争」の新聞記事は「捕虜の据えもの斬り競争」であったと、何の証拠もないのに予断を持って決めつけているだけの話です。確かに、山本が、浅海氏の証言は「”『百人斬り』は事実だから、早く処刑しなさい”といっているに等しい」というのは、言い過ぎでしょうが、このあたりは、山本七平自身が、実際にフィリピンの戦闘に参加し、戦後は捕虜収容所に収監され戦犯の恐怖に直面した経験と無縁ではありません。(B、C級戦犯で約一千名が処刑。その悲惨な経緯については『世紀の遺書』に記録)それが、創作記事と知っていながら自己保身を図った記者に対する、激しい怒りの感情になって現れているわけです。

〈論点3〉について
 山本七平がいうように、この「百人斬り競争」の新聞記事において、その会話部分の多くを記者に語ったのは向井少尉です。どうして浅海記者の誘いに乗って、そんなホラ話を新聞にのせることに同意したのか、その理由を、山本七平は自らの体験をふまえ、①から③に紹介したように、戦場における兵士の心理を紹介し説明していると思います。それが「理解できない」といえばそれまでですが・・・。

 このことについて、野田少尉自身は、南京法廷で「なぜ新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」と聞かれて次のように答えています。
 「私は、まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず、かつ笑談戯言であるため意に止めずにほとんど忘れていた。」「私は、昭和13年2月、北支でその記事を見たが、余りにも誇大妄想狂的であって、恥ずかしく思った」「『百人斬り競争』の記事は、誇大妄想狂的で日本国民の士気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり、これが事実無根の第一の理由である」(以上昭和22年11月22日付け野田少尉「答辨書」)

 「自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐した頃であるが、その後も各地を転々としたため、訂正の機会を逃がし、かつ軍務繁忙のため忘却してしまったこと、何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが、善事を虚報されれば、そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること、自分の武勇を宣伝され、また賞賛の手紙等を日本国民から受けたため、自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく、積極的に教法を訂正しようとしなかったこと、また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」

 一方、向井少尉は、「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」といっています。というのは、新聞記事には、向井少尉が「横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」と書いてあり、これは砲兵の向井少尉にとっては、上官の命令を無視し、勝手に砲側を離れ、勝手に兵を動かした」ことになるからです。つまり、こんな事は、「上官の命令は天皇の命令」である日本軍では絶対に許されないことであり、そう認定されれば死以外になく、従って、そういうことは、たとえ口が裂けても向井少尉が新聞記者にいうはずがなく、この点、あらゆる関係者は一致して、向井少尉が『百人斬り』に触れられることを生涯いやがったと証言しています。(『私の中の日本軍』p202)

 また、向井少尉自身は「浅海記者が創作記事を書いた原因として、向井少尉が冗談で『花嫁の世話を乞う』と言ったところ、浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて、花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり、それから察すると、浅海記者の脳裏には、このとき、既にその記事の計画がたてられていたであろうと思われ、浅海記者は、直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し、報道しており、無錫の記事を見れば、『花嫁候補』の意味を有する文章があって(大阪毎日の記事=筆者)、冗談から発して創作されたものであることが認められる」といっています。(向井少尉「最終弁論」)

 ただ、両者には、その後の浅海記者に対する対応に違いが見られることも事実です。というのは「新聞記事の内容は記者の創作である」という主張が明確なのは、野田少尉の方で、「被告等ノ冗談笑話ニヨリ事実無根ノ虚報ノ出デタルハ全ク被告等ノ責任ナルモ又記者ガ目撃セザルニモカカハラズ筆ノ走ルガママニ興味的ニ記事ヲ創作セルハ一体ノ責任アリ」と明確に浅海記者の責任を問うているのに対し、向井少尉は「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」(遺書)と、むしろかばう姿勢を見せています。

 しかし、母に充てた遺書では、浅海氏が南京軍事法廷に提出した証言の第一項「同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。」について、「浅見氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。」と一種の「うらみ」の心情を吐露しています。

 これらの証言から解ること、それは、野田少尉の場合は、そんな冗談が新聞に載るとは思いもよらず、かつ、その誇大妄想狂的な記事を見て、大変恥ずかしく思った。しかし、自分の武勇を宣伝されたため、自分自身悪い気持ちはせず、従って、積極的に虚報を訂正しようとしなかった。また反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的に虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」というのが正直な彼の気持ちではなかろうかと思います。

 一方、向井少尉の場合は、自分がホラ話を浅海記者にしたこと、それを「百人斬り競争」として新聞記事に載せることに同意し、かつ、第一報や第四報で記者の求めに応じて、「百人斬り」のシナリオに沿う発言をしたことの責任を十分自覚しており、浅海記者に対しては、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。」とかばう一方、その証言の第一項について、「正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。」  というに止めているのです。これらの証言は、洞氏の疑問に対する説明として、十分納得できるものだと私は思います。

 また、浅海記者が、そうした、すぐネタバレするインチキ記事を四度までも書くはずがない、という洞氏の意見についてですが、しかし、どう考えても、彼の書いた「百人斬り競争」の新聞記事は、洞氏がいい、また浅海氏自身も後にそれをほのめかしているように(「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」『ペンの陰謀』所収)、両少尉が「捕虜の据えもの斬り競争」をやっていて、それを白兵戦における武勇伝として話したのを、それをそのまま粉飾することなく記事にした、とはとても思われません。

 もし、そうなら、それは浅海記者が事実を見抜く目を全く持っていなかったということになりますし、また、「据えもの斬り」を知っていて、それを武勇伝に仕立て上げたというのなら同罪ということになります。さらに、両少尉が副官と砲兵であることは、佐藤振寿氏の証言によって、浅海記者が第一報の記事を常州で書いた段階ですでに知っていたことは明白です。それをあたかも両少尉が歩兵小隊長であるかのように描いている、これを粉飾といわずして何というのでしょうか。

  東京高裁の判決文も、「百人斬り競争」の記事について、浅海記者が粉飾を加えていないと認定している(かのよう)ですが、これについては洞氏以下の盲断というほかありません。

2007年12月12日 (水)

「百人斬り競争」論争の真の争点は何か

 前回の末尾で「さらに、論争としての『百人斬り競争』の真否に迫ってみたい」と申しました。東京高裁判決文では「『百人斬り競争』の話の真否」となっており、その「真否に関しては、現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にある」と述べられています。

 しかし、よく考えてみると、その真否を問うべき「『百人斬り競争』の話」とは、そもそもどういう「話」なのでしょうか。裁判における議論を聞いていると、あたかも両少尉が、捕虜及び非戦闘員である中国人を一人でも二人でも斬ったことがあるかどうかが争われているかのような印象を受けますが、実はそんなことは、この「話」の争点ではないのです。その真の争点とは、両少尉がそれによって南京法廷において死刑判決を受けたその訴因、そこで認定された「事実」の真否が問われているのです。

 南京軍事法廷の判決文は次のようにいっています。
 「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は・・・當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。(中略) (また)既決犯谷壽夫の確定せる判決(昭和22年3月10日死刑判決4月27日銃殺=筆者)に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り・・・之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。・・・以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辯したり。
 然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。」

 要するに、向井、野田両少尉は南京戦で捕虜及び非戦闘員の屠殺競争を娯楽として行い、野田は合計105名、向井は106名を斬殺した事実は、「東京日日新聞」の記事によって明らかである。また、この殺人競争は、谷寿夫裁判の確定判決文にもある通り、19万人に上る中国人俘虜軍民の集団的殺戮の一部として行われたものである。また、両少尉は、この罪責をごまかすため「東京日日新聞」の記事はほら話を記載したものであり、それは日本女性の人気を博して良縁を得るためだったと弁明した。しかし、日本軍はこの作戦期間中新聞の検閲を行っており、特に「東京日日新聞」は日本の代表的な新聞であり、もし、その殺人競争がなかったとすれば、その貴重な紙面を割いて被告の宣伝をするはずがなく、従って、その記載内容は「伝聞」ではなく確実の証拠となる、といっているのです。

 つまり、こうした恐るべき事実認定が、「東京日日新聞」に記載された「百人斬り競争」の記事を唯一の証拠としてなされ、その結果、両少尉に死刑判決が下されたということ。その新聞記事は、日本人の新聞記者が日本の一流新聞に書いたものであるがゆえに、単なる「伝聞」とは見なされず、十分にその判決の基礎となるべき証拠とされたということ。では、なぜ、元来は単なる戦意高揚のため武勇を伝えるはずのこの記事が、このような恐るべき判決をもたらしたのか、こうした問に答えることにこそ、「百人斬り競争」という「話」のその真否を問う意味があるのです。

 『「南京大虐殺」のまぼろし』の著者鈴木明は、その続編『新「南京大虐殺」のまぼろし』のなかで、「『百人斬り』の向井、野田両少尉を、僕はなぜ無罪だと信じるのか」について、両少尉の死刑判決後、裁判長石美瑜に提出された「上訴申辨書」が崔培均という中国人弁護士によって書かれたことを最大の理由としています。その「上訴申辨書」には、判決は「東京日日新聞」の記事だけを証拠としていること。中国の最高法院判例でも、犯罪事実は必ず積極証拠によって認定されなければならず、新聞記事は証拠にできない等が主張されています。つまり、この法廷には、「向井、野田両名が実際に中国人を斬っている場面を証言した人間は、軍人、一般市民を問わず、誰一人いなかった」のであり、「積極証拠」は何一つ提出されなかったのです。(上掲書p313)

 従って、これを刑事裁判としてみれば、東京裁判の予備審理で向井少尉が不起訴となったように、伝聞証拠だけで両少尉を有罪にすることはできませんから、この南京法廷における判決が不当であることは言うまでもありません。では、なぜこのような無茶な判決が出されたのかというと、これはこの判決文を見れば明らかなように、戦後の東京裁判において、中国が南京事件を「南京大虐殺」として立証しようとした際、他に有用な「積極証拠」が得られなかったために、「百人斬り競争」の新聞記事が、その大虐殺の一部を「自白」する格好の証拠として利用されてしまった、おそらくこれが、事の真相ではないかと思います。

 もちろん、いわゆる「南京事件」においてどれだけの不当殺害がなされたか、ということについては、南京大虐殺論争が開始されて以降、調査研究が深められており、偕行社の『南京戦史』でも、不当殺害と認定されるべき事実が相当数あったことを認めています。しかし、その内容と、東京裁判における中国側証人の供述内容とは、今日までの研究成果に照らしてもその懸隔甚だしく、政治謀略的要素が濃厚であり、実は、こうした傾向の一端が、この南京法廷における「百人斬り競争」裁判にはからずも露呈した、と見ることができると思います。

 こうした推測を裏付けるものは、この事件に関する「東京裁判記録」にも残されており、その代表的なものは、「南京地方法院主席検察官」のいう肩書きの陳光虞と署名のある「宣誓供述書」で、その前文に次のようにある、と鈴木明が指摘しています。この「南京地方法院」では、1945年11月7日所定の文書を印刷して一般の市民に告知し、南京市民がどのように日本軍に暴行を受けたか、そのアンケート調査を南京中央調査統計局ほか14の部門を総動員して実施しました。ところが、その宣誓供述書の冒頭には、
 「この間、敵側の欺瞞、妨害等激烈にして、民心消沈し、進んで自発的に殺人の罪を申告する者、甚だ少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際においても、冬の蝉の如く口をつぐみて語らざる者、あるいは事実を否認する者、あるいはまた、自己の対面をはばかりて告知せざる者、他所に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者等あり」で、調査には異常な困難があった、という文章が記されているのです。「本来なら敵国日本が無条件敗北をし、市民は驚喜して、進んで「調査」に協力すると思うのが常識」であるはずなのに。*カナ文をかな文に漢字は常用漢字にしました。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』p303)

 また、こうした中国の政治謀略活動については、北村徹氏が次のような指摘をしています。
 「曾虚白『自伝』は、国際宣伝処(日中戦争時の国民党の宣伝工作機関=筆者)の成立から説き起こし、日本軍の南京占領直後の状況を次のようにいう。『我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたづさわる将志たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事跡であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じがたいほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項として敵の暴行(の事例)を探し求めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた』。曾虚白は、日本軍の南京攻略時に東京日日新聞が伝えた『百人斬り競争』の報道と、日本軍は『怒濤のごとく南京場内に殺到した』という読売新聞の掲げた見出しに飛びついた。」

(以下、2パラグラフ追記12/12)

 「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をを出すべきでなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。(中略)この後ティンパーリーはその通りにやり、(中略)二つの書物は売れ行きの良い書物となり宣伝の目的を達した。」(『「南京事件」の探求』北村稔p41~43)

 ここに出てくるスマイスとは、昭和12年12月13日南京陥落後、安全地帯(市民の非難地帯)で発生した事件の記録「市民重大被害報告」をもとに「安全地帯記録輯」をまとめた人物で、ティンパーリーの書いた『戦争とは何か』にはその全件数の45%が付録として掲載されています。(『南京「虐殺」研究』の最前線〈H14〉P193)そして、その本の付録の一つに、『ジャパン・アドバタイザー』に転載された東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事がありました。(その転載記事は、オリジナル記事とは微妙に異なり、相手は兵士ではなく中国人となり、また、この競技は、”遊び(fun)”だ、とされていた)そして、その記事が「日軍暴行紀実」として出版されたことから、この話が中国人に知られるようになったとされますが、実は、この背後には国民党国際宣伝処が控えていたのです。

 この間の事情、武勇談のはずの記事が、なぜ、殺人競争を行ったと告発されることになったか、そのプロセスについては「”虚報”のメカニズムとその恐るべき帰結」で詳説しましたのでここでは繰り返しませんが、要するにこの記事が「虚報」であったことがその第一の原因なのです。

 山本七平は、次のように言っています。
 「虚報の実態は、消した部分が明らかになったくればくるだけ、はっきり姿を現してくるのである。
 では(「百人斬り競争」の新聞記事において記者は)何を消したか、系統的指揮権と職務と兵器が消された。野田副官の直属上官である大隊長と向井歩兵砲小隊長の直属上官である歩兵砲中隊長が消され(実際は大隊本部に直属=筆者)、ついで本人の職務、すなわち副官と歩兵砲小隊長が消され、次いで兵器、すなわち歩兵砲が消された。・・・軍隊とは系統的指揮権と職務と兵器で成り立つもので、この一つがかけても成り立たない。」

 「そうしておいて二人をあくまでも軍人として描く。するとこの虚報の受け手は無意識のうちにそれを補ってしまう。・・・すなわち、二人を・・・あくまでも第一線の歩兵小隊長という印象を与えるように書く。当時の日本人の通念では、歩兵小隊長とは、着剣して六歩間隔に展開した散兵の先頭に立ち・・・日本刀を振りかざして敵陣に突入するものであった。そしてそう思わせる描写に誘導されると、この架空の二小隊長の直属上官すなわち中隊長までが、ごく自然に創作されてしまう。これが本多版『百人斬り』に登場する上官である。いわば「上官」のいない軍人は、天皇以外にはありえないから創作されてしまうわけである。こうなると『百人斬り』はまさに『虚報作成の原則』の通り」である。

 「従って『百人斬り』も・・・発表部分の一部は非常に正確である。そして消した部分は永久にわからない。否、わからないであろうと、本多氏も浅海氏もたかをくくっている。・・・(私は)日本を破滅させたのは虚報」だと思っているが、『私はこれを『国民をだました』という点で問題にしているのではない。虚報の恐ろしい点は、内部の人間に幻影を与えてめくら以下にしてしまうだけではない。・・・内部の人間がそのようになるのに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。」

 「前にも言った通り、その者のもっている情報の総量を知っている者には、そのうちのどれを発表し、どれを隠したは一目瞭然である。そうなると、この発表された部分と隠した部分を対比さえすれば、相手の意図、目的、実情、希望的観測、潜在的願望といったものが、手にとるようにわかるのである。」

 「日本の陸海軍の首脳は、今でも、自分で何かをしたつもりでいるかも知れないが、実は潜在的願望も秘匿した企図もすべて見抜かれ、その希望的観測を巧みに誘導されて、真珠湾から終戦まで、文字通り鼻面をつかんで引きずまわされていたのであろう、と私は思っている。・・・」

 「国内向けの虚報が国外に出て行き、それがはねかえってきて恐るべき惨劇を起こしたというこの図式は、この点でもまた、そのまま『百人斬り』にもあてはまる。」「(このような)『頓馬なセンセーショナリズム』のみの記事は、これでもかこれでもかと、洪水のように紙面にあふれ、私などを『嫌悪症』に陥れるほどひどかった。ある意味でこの記事は九牛の一毛にすぎない。従って浅海特派員自身が、自分の記事が『戦犯』の証拠として出現しようなどとは、全く夢想だにできず、誰かが予言しても信じなかったであろう。」

 「この記事が再び事実として報道され、だれ一人疑わぬ事実として通ることは、外形は変わり表現は変わっても、国民全体の心理状態は昭和十二年当時と非常に似ている証拠かも知れない。・・・今の何らかの新聞記事を証拠に、まただれかが絞首台にひかれて行っても、いま傲然とすべてを蔑視している人やグループが、あき缶をぶら下げて一列に並び、ひしゃくでつがれる水のようなカユをそれに受けてすすっていても、私は少しも驚かないし、悲しまないし、絶望もしない──私がそれらの一員であろうとなかろうと。虚報の描出する幻影のみを見ていれば、それが起こる方が当然なのかも知れない。それはかって起こった。従って当然将来も起こりうるし、起こって少しも不思議ではない。」(『私の中の日本軍上』P230~240)

2007年12月 1日 (土)

「百人斬り競争」報道は”やらせ”

  前回申しましたように、この「百人斬り競争」という新聞報道と、それにつづく二少尉の南京法廷における「俘虜及非戦闘員の屠殺」犯としての処刑という事件は、当時のマスコミによる戦意高揚という「軍部に対するごますり記事」=虚報が生んだ「悲劇」なのです。つまり、一種の「やらせ」報道事件であって、本来なら、「やらせ」をした記者や新聞社の責任が問われて然るべきなのに、この事件では、「やらせ」で武勇伝を語らされた二少尉が、戦後、「南京大虐殺」を象徴する残虐犯として処刑され、いまもなお「南京大虐殺記念館」にその写真が掲示され、その汚名がすすがれないまま今日に至っているのです。

  このことについて東京高裁の「百人斬り競争」裁判の判決は、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」としています。しかし、両少尉が「百人斬り競争」をすると記者に話していたことや、野田少尉が一時帰郷した時に、記者の取材や講演等でそれを認めていたことなどを取り上げ、「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、『百人斬り競争』の記事が作成された」としています。つまり、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をしたこと自体は否定でき」ず、従って、東京日日新聞の「百人斬り競争」の新聞記事を記者の創作であり「全くの虚偽」とは認められない、としているのです。

 しかし、その「新聞報道されることに違和感を持たない競争」について、本多勝一氏らが「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害した」と主張していることについて、「いかに戦争中に行われた行為であるとはいえ、両少尉が戦闘行為を超えた残虐な行為を行ったとの印象を与えるものであり、両少尉の社会的評価を低下させる重大な事実」と認定されるものであるともいっています。しかし、それは、「歴史的事実探求の自由あるいは表現の自由」に関わるものなので、遺族の主張が認められるためには「少なくとも、個人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要する」といっています。

 もし、この「百人斬り競争」裁判が刑事裁判であったならば、両少尉の犯罪事実を訴えるものがその挙証責任を負うわけです。しかし、この裁判は両少尉の名誉の回復やその遺族の故人に対する敬愛追慕の情(一種の人格的利益)の侵害を訴えた民事裁判ですから、その挙証責任は原告側が負わなければなりませんでした。つまり、こうした原告の主張が認められるためには、本多記者や朝日新聞の主張する「摘示事実または論評若しくはその摘示事実の重要な部分が、全くの虚偽であること」を立証する義務が原告側に課せられたわけです。しかし、それは極めて困難なことで、原告側はこれを立証することができませんでした。

 結局、全面敗訴だったわけですが、しかし、これで、両少尉の犯罪事実が立証されたというわけでは全くありません。そうではなくて、判決がいっていることは、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の新聞記事の内容は「甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である」が、しかし、それが新聞記者の創作による「全くの虚偽」であるということは、未だ立証されていない、といっているに過ぎないのです。つまり、「『百人斬り競争』の話の真否に関しては、・・・現在に至るまで、肯定、否定の見解が交錯し、さまざまな著述がなされており、その歴史的事実としての評価は、未だ、定まっていない状況にあ」り論争は継続中だといっているのです。

 私が、本稿を書き始めたのも、この裁判の以上のような結末について、あたかも、本多勝一氏らの主張──「両少尉が、『百人斬り』と称せられる殺人競争において、捕虜兵を中心とした多数の中国人をいわゆる『据えもの斬り』にするなどとして殺害したとの事実摘示──が事実として認定されたかのように論評するものがネット上に見られるので、そうではないと指摘するためでした。それと同時に、この裁判における原告側の主張に、今までの論争の経過、特にイザヤ・ベンダサンや山本七平の論証の成果を生かしていないと思われる部分が見受けられたので、それを指摘し今後の論争に生かすべきと思ったのです。

 原告の主張のうち、その論証があいまいなため、余計な反証を招いてしまったと思われる部分は次の二点です。

一、原告側は、「百人斬り競争」を報じた東京日日新聞の記事が、浅海記者の創作記事であり、虚偽であると主張したこと。

 これについては、前回紹介した通り、山本七平は、「百人斬り競争」の新聞記事の全てが記者の創作であるとはいっておらず、二少尉が語ったと思われる部分と記者による創作と思われる部分を区別しようとしたのです。氏は、まず、無錫における両少尉と浅海記者の三者談合の存在を指摘し、常州では、浅海記者は佐藤振寿カメラマンを呼んで両少尉に「百人斬り」の”やらせ会見”をさせた。その時、佐藤カメラマンは両少尉が副官と歩兵砲小隊長であることを知り、この話を信用しなかったが、浅海記者はこの話を二人の歩兵小隊長の話に作り変え、常州ではじめて二少尉を取材したように装って第一報を送った。従って、この記事中、歩兵小隊長の戦闘行為として記述されている部分は記者による創作、としたのです。

二、原告側は、紫金山攻撃については、歩兵第三十三連帯の地域であり、冨山大隊は紫金山を攻撃していないと主張したこと。

 これは第四報の記事内容について述べたものですが、山本七平は、この記事は、昭和12年12月10日における向井、野田両少尉の紫金山某所における会見と、11日の紫金山山麓における向井少尉、鈴木二郎記者及び浅海記者3人の会合の二回あったように書いているが、鈴木二郎記者の証言から判断して、実際にあった会見は、11日の野田少尉を含めた4人の会見だけだとしました。ではなぜこのような記事構成にしたかというと、一報の記事との整合性を図るためである。(「百人斬り競争」という創作記事をここで完結させるため、及びベンダサンの指摘した、「100人斬り」という数を決めて時間を争う競技を、戦場では無理と途中で気がつき、時間を決めて数を争う競争であったかのように粉飾するため)従って、12月10日の紫金山某所における会見談話は(その言葉遣いから見ても)浅海氏の創作としました。また、向井少尉が否定している紫金山における会見とは、この12月10日の会見記事であり、向井少尉は丹陽で負傷したものの12月10日ころ紫金山東麓の霊谷寺あたりで部隊復帰し、12月11日に紫金山山麓の安全地帯で両記者と会見をしたのではないか。というのは、11日の記事中の向井少尉の談話には、敵は強かったという兵士の心理が現れており、また、極秘であるはずの毒ガス(催涙ガス)使用を口走っていることなどから見て事実と推論しているのです。また、11日の会見に鈴木二郎記者が参加していることについて、これは、第一報における佐藤振寿カメラマンの場合と同じく、三者談合の事実を知らない鈴木記者の前で、両少尉に「百人斬り競争」の”やらせ”会見をさせた、ものと見ているのです。

 以上、山本七平がこのように推断した時点では、氏は東日の「百人斬り競争」の第1報と第4報の記事だけしか知らず。その間に第2報と第3報があったことを知りませんでした。(本多勝一氏が提示した記事がこの二つだったため)また、東日の「百人斬り競争」の記事はその本社である大阪毎日新聞にも掲載されており、浅海記者の書いたオリジナル原稿はおそらく大阪毎日の「百人斬り競争」の記事であることも知りませんでした。従って、さらに、この第2,3報の記事及び大阪毎日の記事を加えて分析してみれば、この「百人斬り競争」の新聞記事が両少尉の主張する通り、三者談合にもとづく創作であることがさらに明らかになってくるのです。

 次回は、こうした点、(すでに指摘したことも含めて)にも論究しつつ、さらに、では、なぜ両少尉がこうした浅海記者による危険な記事の創作(「ねつ造」を訂正12/5)に加担させられていったかについて、山本七平の説く当時の日本軍兵士の置かれた過酷な状況や、その中における兵士の心理分析などを紹介しつつ、論争として「百人斬り競争」の真否に迫ってみたいと思います。

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