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2008年6月

2008年6月30日 (月)

岡崎久彦と山本七平の不思議な符合2

 前回、岡崎久彦氏の歴史を書く場合の基本的態度について紹介しました。要するに「特定の価値観、とくに現在われわれの生きている時代だけに特有な、しかもそれが政治の道具になっているような価値観にとらわれることなく、客観的に真実のみを求めることである」ということです。

 より具体的にいうと、「現在の概念では帝国主義が悪であることは誰も異論はないが、帝国主義の時代の人を帝国主義者といって非難するのは、中世の人を「中世的」「前近代的」と非難するのと同じで、別に間違いではないが、中世を理解しようという努力にとってマイナスにこそなれ、何のプラスにもならない。」

 しかし、「歴史の真実を追究するにあたって一番難しいのは、真実と真実の間の軽重、大小のバランスである。一つ一つの事実は真実であっても、自分の考え方に都合の良い真実だけを集めたのではバランスを失する。一部の事実だけをことさらに強調して歴史の本当の流れを見ていない。あるいは故意に曲解する歴史書が少なくない。」

 そこで、岡崎氏がこの「その時代シリーズ」を書くにあたってとった手法は、「草稿を三章ごとにまとめて数名の学識あり洞察力のある歴史の専門家の方々に読んでいただいて、セミナーを開き、『そこまでいえないのではないか』『それにはこういう反対の資料もある』というようなコメントをいただいて、『まあ、そのあたりが本当のところだろう』と言われるまで書き直す」ということでした。(以上『重光・東郷とその時代』p31~32)

 従って、このシリーズの目的は、「すでに多くの優れた学者先生たちによって研究し尽くされている」「そうした正確な事実と事実との間の軽重なバランスを見極めて、最も真実に近い歴史の流れを見いだすことにある。」「その目的を妨げる落とし穴は数多いが、木を見て森を見ないのもそのもっとも戒心すべき落とし穴の一つ」といっています。

 といっても、この本を書いた岡崎氏には、その動機となった一つの「思い入れ」がありました。それは「昭和前期に少年時代を過ごした世代として、われわれの父や祖父の世代であるこの時代の当事者たちが、逆らいようのない歴史の流れの中にあって、いかに国民と国家のために真摯に生きてきたかということをできるかぎり正確にありのままに後世に伝えるよう努力してみたい」というものでした。(前掲書p36)

 そして次の言葉は、おそらくこのシリーズを通しての岡崎氏の感想であろうかと思いますが、私もこのシリーズを読み終わって、同じような共感と感慨を新たにすることができました。

 「客観的に見て、われわれの父や祖父の世代の人びとはことごとく悲劇の人びとである。日本人としての教育を受けてその矜持と節操を守りつつ、大日本帝国の栄光の中に育ち、また大正デモクラシーの自由をも謳歌しながら、壮年以降戦争の辛酸を嘗め、戦後、それまでその中で生まれ育った社会環境や価値観が足元から崩れ落ちるのを見ながら、誇りを失ったなかで家族の生活を守るために戦わなければならなかった世代である。」(前掲書p38)

 もちろん、こうした共感と感慨を共有し得たとして、ではそこからどういう反省を導き出し有効な対策を立てるかと言うことが問題になります。私は、本稿の表題を「岡崎久彦と山本七平の不思議な符合」としましたが、その意味は、岡崎氏のこの本に述べられた、従来人口に膾炙している見方と異なる部分、例えば「大正デモクラシー」が戦後民主主義のパイロットプラントであるという評価や、「塘沽(タンク-)協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた、とする部分など、山本七平がすでに30年前に指摘していたことを紹介するためでした。

 なぜ、山本七平がこのような今日の歴史研究の成果を先取りするような「とらわれない」見方ができたかと言うことですが、それは氏が、日本人的思考法とは別の、もう一つのユダヤ・キリスト教的伝統に基づく「対立概念で物事の実相を把握する」思考法を身につけていたと言うことと、歴史を思想史と見、その「連続の背後にあるものをいかに把握するかがその主題」(『受容と排除の奇跡』p183)と考えていたからだと思います。

 つまり、歴史を思想(=言葉)の連続、あるいは弁証法的展開(マルクスの歴史観と同じですね)と見る見方です。言うまでもなく岡崎氏も明治以降の歴史をそうした連続性の内にとらえ継承しようとしているのです。その連続性の糸を、氏は、「その時代シリーズ」で取り上げた外交官たちの情報分析と判断の連続の中に見ているのです。同時にそうすることによって、この連続性からはみ出した部分も見えてきます。(以下3行削除8/27)

 では、この連続性から「はみ出した部分」の正体は何か、実は、この部分も含めて、それを日本の歴史つまり思想史の連続性の内にとらえようとしたのが、山本七平でした。

 「明治も過去を消そうとした。当時の学生は『われわれには歴史がない』といってベルツを驚かした。戦後も戦前を消そうとした。そしてベルツを驚かした学生が前記の言葉につづけたように『われわれに歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない』と考えた。・・・だが、こういう状態、劣等史観やその裏返しの優越史観、万邦無比的な超国家史観やその裏返しの罪悪史観、いわば同根の表と裏のような状態を離れてみれば、われわれは貴重な遺産を継承しているが、同時に欠けた点があることもまた認めねばならない。どの民族の履歴書も完璧なものはあるまい。諸民族の中の一民族である日本人もまた同じであって、貴重な遺産もあれば、欠けた点もあって当然なのである。要はそれを明確に自覚して、遺産はできうる限り活用し、欠けた点を補ってそれを自らの伝統に加え、次代に手わたせばそれでよいのであろう。」(『1990年の日本』p270)

 従って、私が本カテゴリー「日本近現代史をどう教えるか」で扱うテーマは、その「はみ出した部分」に焦点を当てることになります。
 

2008年6月26日 (木)

岡崎久彦と山本七平の不思議な符合

 エントリー「日本近現代史の躓き」では、主として岡崎久彦の著作を参考にしています。特に日本近現代史「その時代シリーズ」5巻本―『陸奥宗光とその時代』、『小村寿太郎とその時代』、『幣原喜重郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』はこの期に活躍した外交官から見た近現代史ですが、大変面白く、ようやく納得のできる近現代史本に出会えたという感じがしました。

 岡崎氏は、『明治の教訓、日本の気骨』という本の中で、明治期に活躍した人物評をめぐって渡部昇一氏と対談をしていますが、その末尾で、歴史の見方について渡部氏の見方を批判して、次のような興味深い見解を述べています。

 まず、渡部氏は、歴史の見方はそれぞれの立場によって異なる。従って、まず、自分の立場を主張すべきである。その上で相手の立場に理解を示すというのならわかるが、戦後は、日本の言い分は教えないで、アメリカやシナやコリアの言い分だけを教えた。もちろん、自国の歴史にも反省すべき点はあるが、それは国内で議論すべきことであり、国際的に言う話ではない。」(氏はそういう観点から数多くの著作をものしています。)

 これに対して岡崎氏は、「渡部さんの議論を引き継いで若干批判するとすれば、日本の立場とかアメリカの立場と言っただけで、もう歴史判断は偏ってしまいます。だから日本を論じる場合はまるでアメリカを論じるごとく論じて、アメリカを論じる場合は日本を論じるがごとく論じることが必要なんです。極端に言えば、火星人が見ているような形で論じないと歴史というのは読み間違えてしまう。」と反論しています。

 つまり、「歴史というのは公正客観的であるという基準以外はあり得ない」。なぜそう考えるかというと―氏はもともと外交官でしたから―国政情勢をいかに誤りなく正確に判断するかが問われる。そして、そのためには事実をできるだけ客観的に見る必要がある。つまり、歴史というのは、そうした事実関係をできるだけ公正客観的な記録することであり、渡部氏が言うように「歴史観」を介在させるべきでないと言うのです。

 そして、以上のように、歴史を、事実関係の(できるだけ)公正客観的な記録として把握した上で、「政策論として自国の利益を主張すべき」である。しかし、そうなると「日本の利益だけが得られれば戦争をしてもいいのか」というはなしになる。「それに対する唯一の反論は予定調和」という考え方で、「それぞれの国が自分の利益だけを全部主張すると一番いい世界ができる」という考え方をする。

 また、「ただ、そこで日本の利益だけを考えていればいいのか」という疑問が出てくるが、それについては、エンライトゥンド・セルフインタレスト(世界が平和になれば、それが日本の国益にかなう、というより広い観点から国益を考えること)という考え方も必要になってくるが、世界政府ができて世界の平和が保たれるようになるまでは、それぞれの国がそれぞれの利益を守ることを第一にせざるを得ない。

 つまり、「歴史」と「国益」とを区別し、前者はできるだけ公正客観的に、後者は「自国の国益を優先する立場」で論じるべきだ、と言っているのです。従って、それぞれの時代に生きた歴史的人物を評価しようとするときは、その時代の客観的な歴史的条件の中で、どれだけ日本の「国益」を守ったか、という基準で計るべきである。従って、人物の評価は、その次代の歴史的事実を離れて行うことはできないと言うのです。

 では、こうした考え方に立って日本の近現代史を見たらどうなるか。冒頭申しましたように、私もそれを大変面白く読み、また心底納得したわけですが、同時に、この見方は、不思議なことにかって山本七平が、25年程前に『1990年の日本』等で述べた見方とほとんど符合していることに気づきました。、おそらく氏の視角が火星人ならぬ「異人的」であったために生じたのだと思いますが・・・。

2008年6月22日 (日)

日本近現代史の躓き―日韓併合について

 「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。

 しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。

 一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかった。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。

 この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。

 となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。

 まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」

 第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」

 「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。

 しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。

 実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。

 「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)

 「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」

 また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」(以上引用は『小村寿太郎とその時代』より)

 しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。

 その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
 「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」                      *1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)

 伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。(『伊藤博文』中村菊男p199)そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)

 ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。。」(『なぜ日本人は韓国人が嫌いか』岡崎久彦p54)

 従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。(前掲書p54)

 一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。(『韓国併合への道』p215)

 また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。(『諸君』2003.7)(アンダーライン部誤字修正7/10)

 おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。(黄文雄氏の著作参照)しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。

 だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。

 この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。

2008年6月 9日 (月)

日本の近現代史における”躓き”

 日本の近現代史、特に明治以降の歴史を一通り勉強していくと、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思わせるいくつかのポイントがあります。前回記したように、明治時代までは、西洋の近代化された科学技術だけでなく、政治制度やその他の法制度にも謙虚に学び、それを日本に取り入れ、かつ模範的に行動しようとする姿勢が濃厚でした。

 日本軍についても、「北清事変」におけるその勇敢で規律正しい行動が、西欧諸国の賞賛の的になっています。また、日露戦争では、日本軍の陸戦(遼陽、旅順、奉天)における死闘を経ての勝利、日本海海戦における「信じられないほど」の大勝利が、同盟の相手国であるイギリスだけでなく、アメリカのマスコミにも熱狂的な賞賛の渦を巻き起こしています。

 当時の『ワシントンタイムス』は、「日本の勝利は文明・自由・進歩の勝利であるとして、『スラブ人種とアングロサクソン人種は20世紀中に決死の死闘をする、との予言があるが、はたしていまやその一部が実現したと云える。なぜならば日本はアングロ・サクソンの正当な後継者だからである』と評したそうです。

 それよりももっとすごいのが、その世界の非白人全体に及ぼした影響です。ネールは『父と子に語る世界歴史』のなかでその感激を次のように語っています。
 「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。わたしが少年時代、いかに感激したかを、おまえに何度も話したとおりだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国が敗れた。だとすればアジアは、昔しばしばそうしたように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムはますますアジアに広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。」

 さらに、日清戦争で日本に敗れた中国の孫文も「日本の勃興以降、白人はアジア人を見下さなくなった。日本の力は日本人自身に一等国の特権を享受させただけでなく、他のアジア人達の国際的地位も向上させた」と述べています。(以上の引用は『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦p259~p262)

 そして、この日露戦争の結果、清国留学生が日本に殺到するようになり、1905年には、興中会、華興会、光復会の革命三派による中国革命同盟会が東京においてを結成され、その後の中国の反清・反帝国主義、民族主義を掲げる革命的民衆運動をリードしていくことになるのです。

 このあたりまでの日本の歴史、またこの間の戦争における日本軍兵士の純粋かつ勇猛果敢な戦いぶりについては、司馬遼太郎や児島襄などの時代小説を読んで感激された方も多いと思います。とはいえ、こうした見方が一般的になったのは、司馬遼太郎の時代小説が書かれて以降のことで、それまでは、第二次世界大戦の反動から、日本の近代史全体を否定的に見る見解が主流をなしていました。

 その意味で、司馬遼太郎は、戦後のアメリカ軍による占領政策としての思想言論統制の結果できあがった、日本の戦後社会の自閉的な言論空間の壁の一角を打ち破り、日本近現代史における明治期までの歴史に、光をあてることにはじめて成功したといえます。

 だが、問題はその後です。この日露戦争の勝利は、同時に、白人世界の日本に対する警戒心を呼び起こすことになりますが、それよりなにより、日本がこのように近代化に成功し西欧諸国に肩を並べられるようになったと自負して以降、いわゆる自前の思想で国を動かすことを余儀なくされて以降の日本国の舵取りが、次第に変調を来してくるのです。

 その最初の変調、冒頭に述べた”もう少し何とかならなかったのだろうか”と呻かざるを得ない最初のポイントが、1910年の「日韓併合」です。その次が1915年の中国に対する「21箇条要求」、そして最後が、アメリカとの戦争を必然ならしめた日本の「満州支配」です。

 最初の「日韓併合」は、戦後60年を経ても今なお消えない朝鮮民族の日本人に対する恨みを背負い込むことになりました。また、「21箇条要求」は、中国にその条約締結日(最終的には13条となり5月9日妥結)を「国恥記念日」とさせただけでなく、ついには泥沼の日中戦争へと発展しました。そして、最後の「満州支配」は、一方で中国との持久戦争を戦いつつ、さらに米英を中心とする連合国との絶望的な戦争に突入することになりました。(アンダーライン部7日調印を訂正7/4)

 こうした結果を見れば、司馬遼太郎ならずとも、この日露戦争以降の日本の歴史に、呪詛の一つも投げつけたくなるのは当然です。

 しかし、この間の歴史的経緯を注意深く検討してみると、実は「日韓併合」も「21箇条要求」も日本軍の「満州支配」も、日清・日露戦争における奇跡的勝利がもたらしたものであり、ここで生じた問題を、その後の国際関係の中で適切に処理できなかったことが、その後の日本を泥沼の日中戦争、ひいては地獄の太平洋戦争へと引きずり込む、その基因となっていることに気づくのです。

 また、この間の歴史的経緯をさらに詳しく見て行くと、そこには、「東京裁判」が想定したような、満州事変以降の侵略戦争を一貫して計画・開始・遂行した首謀者がいたわけではなく、また、政治家を含む文民と軍部との関係も、必ずしも前者の責任が免除されるものでもなく、また、巷間言われる陸軍悪玉・海軍善玉論もかなりあやしく、さらに、当時のマスコミには、「一部の軍国主義者」よりも遙かに過激な侵略的論調が風靡していました。

 これらのことを総合的に考え合わせてみると、むしろ、韓国や中国を同文同種であり価値規範を共有するものと見て一体的に行動すべきことを主張した、いわゆる「アジア主義」思想が、かえって中国や韓国の反発を招いたことや、既成事実の積み重ねで物事を処理しようとする態度が、法規範を重視する国際社会の信用を損なわせたこと、あるいは日本人独自の死生観が、苦闘する戦況の中で甚だしい人命軽視へとつながったことなど、要するに日本人の思想的弱点が、負け戦の中でもろくも露呈したと見た方がいいように思われるのです。

 今後、他のテーマと飛び飛びになることもあるかと思いますが、この間の事情をより詳しく見ていきたいと思います。

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