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2008年7月

2008年7月25日 (金)

満州問題(3)―幣原協調外交から自主外交への転換

*説明のためのパラグラフの挿入・追加を行いました。7/26

 前回、満州問題の処理をめぐる国民の意識の変化、つまり国際協調主義を基本とした幣原外交による問題解決方法から、石原完爾ら陸軍首脳による満州占領という問題解決方法に、なぜ急激にシフトしていったか。これが、日本近現代史の悲劇を考える上で最も重要なポイントだと申しました。この原因を、軍(この場合は陸軍ですが)の「帝国主義」に求めるだけで済むならことは簡単です。もし、そうなら、そうした軍の独走を許すことになったその原因を突き止めさえすればよいからです。

 こうして、その原因とされてきたものが、軍の「統帥権」や「軍部大臣現役武官制」の問題です。また、明治憲法には内閣や首相の規定がなく、組閣の大命降下を受けた人が総理大臣となるが、国務大臣の任命権は持たなかったという明治憲法の欠陥も指摘されます。(『日本史から見た日本人 昭和編』渡部昇一)確かに、その後の軍部の専横には目に余るものがありますから、こうした指摘は当然ですが、より重要なことは、当時の大多数の国民が、こうした軍部の考え方や行動を支持したということです。この事実を閑却すべきではありません。

 では、一体なぜ当時の日本人は、そんなに満州にこだわったのでしょうか。もし、この問題を、幣原が主張したように経済合理的に処理できていたら、日中戦争も対米英戦争もしなくて済んだはずです。それがどうして武力による満州占領、そして満州国の独立へと進んでいったのでしょうか。再びいいますが、こうした考え方が、当時の軍人だけの妄想であったならばことは簡単です。だが事実はそうではなかった。当時の日本人のほとんどがこれを熱烈に支持したのです。

 次の文章は、1933年2月14日に発表された、国際連盟による満州事変に関する調査報告書、いわゆる「リットン報告書」からの引用ですが、以上提示した疑問についての、客観的かつ周到な考察がなされていますので紹介します。実は、日本は、この「報告書」に反発して、その後国連を脱退することになるのですが、これは決して日本批判に終始したものではない、ということにご注目下さい。

(第三章一節)
満洲における日本の利益、日露戦争より生じた感情
 満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う。一九〇四から五年にかけて、奉天や遼陽といった満鉄沿線の地、あるいは鴨緑江や遼東半島など、満洲の礦野で戦われたロシアとの大戦争の記憶は、すべての日本人の脳裡に深く刻み込まれている。日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で十万人の将兵を失い、二十億円の国費を費したという事実は、口本人にこの犠牲をけっして無駄にしてはならないという決心をさせた。
 しかも満洲における日本の権益の源泉は、日露戦争の十年前に発している。一八九四年から五年にかけて、主として朝鮮問題に端を発した日清戦争は大部分、旅順や満洲の礦野で戦われ、下関で調印された講和条約によって遼島半島は完全に日本に割譲されたのである。それに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の放棄を強制してきた〔三国干渉〕が、日本人にすれば、戦勝の結果、日本が満洲のこの部分〔遼東半島〕を獲得し、これによって日本が同地方に得た特殊権益はいまなお存続しているという確信に変りはない。

満洲における日本の戦略上の利益
 満洲はしばしば「日本の生命線」といわれる。満洲は、現在日本の領上である朝鮮に境を接している。シナ四億の民衆がひとたび統一され強力になって、目本に敵意をもって満洲や東アジア一帯に勢力を仲ばす日を想像することは、多くの日本人の平安を乱すことになる。だが、日本人が国家存続の脅威や自衛の必要を語るとき、彼らがイメージしているのはロシアであって、シナではない。
 したがって満洲における日本の利益のなかで根本的なのは同地方の戦略的重要性だ。日本人のなかには「ソ連からの攻撃に備えるために満洲に堅い防御線を築く必要がある」と考えるものがいる。彼らは、朝鮮人の不平分子が沿海州にいるロシアの共産主義者と連携して、将来、ロシア軍の侵入を誘導したり、それに協力したりすることをつねにおそれている。
 彼らは満洲をソ連やシナとの緩衝地帯と認めている。とりわけ日本の陸軍軍人は、ロシアとのシナとの協定によって満鉄沿線に数千人の守備兵を駐屯させる権利を得たものの、これは日露戦争における莫大な犠牲の代償としては少なすぎるし、北方からの攻撃の可能性に対する安全保障としても貧弱にすぎると考えている。

満洲における日本の「特殊地位」
 日本人の愛国心、国防の絶対的必要性、条約上の特殊な権利等、すべてが合体して満洲における「特殊地位」の要求を形成している。日本人の懐いている特殊地位の観念は、シナと他の諸国とのあいだの条約や協定中に規定されているものとはまったく違う。日露戦争の遺産としての国民感情、歴史的な連想、あるいは最近の二十五年間における満洲の日本企業の成果に対する誇りは(なかなか捕捉しにくいものであるが)「特殊地位」の要求の現実的な部分を形づくっている。したがって日本政府が外交用語として「特殊地位」という語を使用するとき、その意味は不明瞭で、ほかの諸国がその真意をつかむことは不可能ではないにしても困難である

 以上が、満州において日本が有する「特殊地位」についての説明です。(アンダーライン部分要注意)そしてこれがシナの主権と抵触すると次のように述べています。(挿入7/26)

満洲における日本の特殊地位の要求はシナの主権および政策に抵触する
 (しかし)こうした満洲に関する日本の要求はシナの主権に抵触し、国民政府の願望とも両立しない。というのも国民政府はシナ領土を通じていまなお諸外国がもっている特権を減らし、将来、これらの特権が拡張されることを阻止しようとしているからだ。日支両国がそれぞれ満洲において行おうとしている政策を考察すれば、衝突がますます拡大されることは明らかである。

 そして、ここから生じる日支間の利害の対立をどう調整し、日本の国益を守っていくかとということを巡って、幣原喜重郎の「友好政策」と田中義一の「積極政策」が対立したわけですが、その違いは「大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度」の違いであり、その目的―「日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護する」―は共通していたと、次のように述べています。(挿入7/26)

満洲に対する日本の一般的政策
 一九○五年から柳条湖事件にいたるまで、日本の諸内閣は満洲において同一の目的をもっていたように見えるけれども、その目的を達成する方法に関しては見解を異にし、治安維持に関しても日本の取るべき責任の範囲に意見の相違があった。満洲における日本人の一般的目的は、日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護することにあった。こうした目的を実現するために取られた諸政策すべてに共通する主な特徴は、満洲および東部内モンゴルをシナの他の地域とはっきりと区別する傾向で、それは満洲における日本の「特殊地位」に関する日本人の考え方から生じる当然の結果であった。
 日本の諸内閣が主張してきたそれぞれ特別な政策――たとえば幣原〔喜重郎〕男爵のいわゆる「友好政策」と、故田中〔義一〕男爵のいわゆる「積極政策」とのあいだにいかに相違があったとしても、前記の特徴はつねに共通していた。「友好政策」はワシントン会議のころからはじまり、一九二七年四月ごろまで継続され、その後「積極政策」に変り、一九二九年七月にまた「友好政策」に戻り、これは一九三一年九月まで外務省の正式政策として継続されてきた。
 両政策の原動力となる精神にはいちじるしい相違があった。「友好政策」は、幣原男爵の言を借りれば「好意と善隣の誼を基礎」とするが、「積極政策」は武力を基礎とするからだ。だが、満洲において取るべき具体的方策に関する違いは、大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度のいかんに拠るものであった。
 田中内閣の「積極政策」は満洲をシナの他の地域から区別することを強調し、その積極的な性質は、「もしシナの動乱が満洲やモンゴルに波及し、その結果として治安が乱れ、満洲における日本の特殊地位や権益が脅威を受けるようになった場合、その脅威がどの方面からこようとも、日本は敢然と権益を擁護すべきだ」という率直な宣言によって明らかだろう。田中政策は、それ以前の諸政策が目的を満洲における日本の利益の擁護に限定していたのに反し、満洲における治安維持のつとめも日本国が担当すべきだということを明らかにした。(後略)

 さらに、日本の満州におけるこうした「特殊地位」の主張が、ワシントン会議における九カ国条約の精神―シナの領土保全と門戸開放―に抵触するのではないか、という疑問については次のように説明しています。(挿入7/26)

ワシントン会議の満洲における日本の地位および政策に対する影響
 ワシントン会議はシナの他の地方の事態に大きな影響を及ぼしたが、満洲においてはほとんど変化はなかった。一九二二年二月六日の「九か国条約」にはシナの領土保全と門戸開放に関する規定があり、条文上、その効力は満洲にも及ぶはずだったが、満洲については日本の既得権益の性質や範囲に考慮して、単にその制限的適用がなされただけだった。前述したように、日本は一九一五年の条約によって借款や顧問に関する特権を正式に放棄したが、「九カ国条約」は満州における既得権益(関東州の租借地や満鉄及び安奉鉄道の日本の所属期限を99年に延長すること、南満州の内部の土地を賃借する権利及び南満州の内部において旅行、居住、営業する権利、南満州において各種商工業上の建物を建設するため,または農業を経営するため、必要とする土地を商租する権利等=筆者)にもとづく日本の要求を実質上縮小することはなかった。」

(以下追加挿入7/26)
 以上が、「リットン報告書」に示された、満州における日支間の基本的対立構造ですが、これが、うち続く中国国内の内戦や、胎動する中国のナショナリズムに刺激されて、激しい反日運動・反帝国主義運動へと高まっていくのです。こうした極めて困難な状況の中で、いかに日本の実益(特に経済的)増進を計っていくかが、当時の日本外交の最重要課題でしたが、幣原は、この課題に取り組む外交の基本姿勢を、就任演説の中で次のように述べていました。

 「由来支那と政治上経済上および文化上、最も密接な関係を有する日本としては、支那の政情が一日もすみやかに安定することを希望する。近年支那の諸地方に外国人の被害事件が頻発し、支那の不満足なる政情は外国人の注意をいっそうひくことになったが、日本としては、同情と忍耐と希望をもって、支那国民の努力を観望し、その(統一の)成功を祈る。日本は機会均等主義のもとに、日安両国民の経済的接近を図る。ワシソトソ会議での諸条約は日本の政策と全然一致するものであるから、日本は同条約の精神をもってこれにのぞむ。」

 その後、支那に第二次奉直戦争が始まり、張作霖が劣勢となり満州に直隷派が侵入してくるような情勢になると、国内でも「日本は列強と異なり、支那には特殊利益を有する以上、内政不干渉に固執する必要はなく、満州の秩序を維持するためには実力行使も辞さない覚悟でなければならない」(『外交時評』)といった、中国内戦への干渉出兵を求める意見が強く出されるようになりました。関東軍がこの急先鋒に立ち、参謀本部がそれに続き、外務省がこれを牽制するというパターンでした。(『満州事変への道』p158)

 議会でも、「われわれの満蒙の権益を守ったか」とか「満蒙の秩序維持をどうするか」といった質問が出されましたが、幣原は「満蒙の権益と申されましても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんの権利利益ををもっていないのであります。・・・私は満蒙地方における治安維持は当然支那の責任であると申しておる。これは当たり前のことであると思う。支那の主権に属することならば当然支那の責任である。」また、張作霖支援についても、「満州の一部の情勢のみを見て帝国の態度を決するがごときは、はなはだ不得策にして、かつ危険なる方法なりと思考す」と答えています。(上掲書p162)

 実際、こうした幣原外相の外交方針の転換によって、日中関係が非常に好転したことも事実です。堀内干城は『中国の嵐の中で』という回顧録で次のように述べています。幣原外交の時代に「日本の侵略政策、高圧政策は180度の転換を遂げて、全中国、特に当時台頭しておったヤングチャイナの間に非常な好感をもって迎えられた。・・・上海をはじめ、各大都市の排日は暫時影をひそめて、親日の空気が台頭してくるという極めて愉快な状況であった。」おかげで、対中貿易額は1921年の二億八千七百万円から1925年には四億六千八百万円に伸張した、といいます。(上掲書p182)

 しかし、南京事変などを経て、対支強攻策を唱える国内世論の『幣原外交』に対する批判と不満はますますつのっていきました。当時最も進歩的な新聞とみられていた『朝日新聞』でさえ「幣原外交」を「自由主義かぶれ」と社説で攻撃するありさまでした。幣原のとった一つ一つの事件に対する措置を検討してみれば・・・独自の外交理念に基づき、日本の実益(特に経済的)増進を計ろうとする、むしろ「自主外交」の感が強かったのですが、世論はそう受け止めませんでした。こうして幣原外交に対する「軟弱外交」「迎合外交」の非難が激しくなるにしたがい、彼らの間には「自主外交論」を求める声がますます高まっていったのです。(上掲書p182)

 この「自主外交」を求める世論が、「満蒙問題の根本解決」を標榜する軍の「満州占領計画」を呼び込む事になるのです。そして軍内には、そのためには何をしてもよい(張作霖爆殺事件はその第一歩)という下剋上的考え方が生まれ、中央政府がそれを追認しない場合は「満州国を日本から独立させ、そこを革命の拠点として日本に政治革命を引き起こす」(3月事件や10月事件)」といったクーデターが企図されるに至りました。また、それが露見しても隠蔽し、関係者は処罰されないどころか栄達をほしいままにする、といったむちゃくちゃな事態に陥るのです。(7/27追記)

 山本七平は、こうした事態を、「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。(「山本七平学のすすめ」語録「日本軍人国は日本一般人国を占領した」)

2008年7月18日 (金)

満州問題(2)―幣原協調外交はなぜ国民の支持を失ったか

*7/20末尾2パラグラフ挿入・削除しました。

 これまで見てきたように、私も、”ワシントン会議以降、『幣原外交』による「満州問題」の処理ができていたら・・・”と思うわけですが、結果から見ると、いささかこれは楽観的過ぎたのではないかと思います。そもそも、この「満州問題」のポイントは、中国が条約上で認められた日本の満州ににおける既得権益を組織的に侵害しているというものでした。こうした考え方の背後には、先に述べたように、日本が日露戦争において膨大な人的犠牲を払ったという思いがあったことは疑いありません。

 そして、こうした考え方は、当時の日本の中正穏健な指揮者たちにも共有されていました。

「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満州の権利は当然シナに帰属すべきだと言って既存の権利を取りに来るのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認し得ないのは当然である。まして南満州の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中学から奪取したものではない」(河合栄二郎)

 そして、幣原喜重郎は、この問題を、ワシントン会議で確認されたウィルソン的理想主義に基づく国際的法規範の枠組みの中で処理しようとしたのです。それは中国の領土保全を約束した九カ国条約においても、その第1条第4項で、「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること」と規定し、これを列強の中国における既得権を侵されない保証としていたのです。(『戦争の日本近現代史』p269)

 また、幣原は、1922年2月2日極東総委員会において次のように中国の態度を非難しています。

 「支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せしむが為、厳にとらむとする手段については、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕(しかし)何国と雖も、領土権其他重大なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳然許与せられたる権利が、許与者の自由意志に出でざりしとの理由を以て、何時にてもこれをこれを廃棄し得べきものとするの原則を一旦承認せられむか、これ亜細亜、欧羅巴其他至る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先例を開くものなり。」(上掲書p270)

 おそらく、このあたりまでは、こうした日本の言い分は十分説得力を持っていたのではないかと思います。幣原は、ワシントン会議が終わる直前の会議で「日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、できうるだけの譲歩をシナに与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情及び好意の大義に照らして無益になるまいという考えの下に欣んでいるのである」(『幣原喜重郎とその時代』p198)とその中国に対する「思いやり」の心境を吐露しています。

 そして、幣原は、こうした考え方に立って、その後、約10年間(田中義一内閣の時を除いて)、いわゆる「新外交」と称する「幣原外交」を押し進めていくのです。しかし、こういった幣原の理想主義は、次に述べるような内外情勢の変化の中で、次第に国民に対する説得力を失っていきます。その一方で、その抜本的解決を軍に求める空気が次第に醸成されていきます。そこで登場したのが石原完爾という予言者(日蓮宗徒)的人物で、彼は、幣原とは全くその質を異にする国際関係のパラダイム(西洋の覇道文明と東洋の王道文明が最終戦争を争うというもの)を提供し、そのための抜本解決策を立案します。

 こうした石原の考えは一見荒唐無稽なもののように見えますが、必ずしもそうではありません。「彼はまず日露戦争の勝利に疑問を持ち、もしロシアがもう少し戦争を続けていたならば日本の勝利は危うかった」点に着目し、またナポレオン戦史を研究して、勝敗の鍵は膨大な資源を要する持久戦に勝てるかどうかである、と考えました。そして、戦争は先に述べたように第一次世界大戦で終わるものではなく、最終戦争を控えている。そして、それに勝つためには、まず、満州を北満州まで押さえてロシアに対する防衛を固め、さらに満蒙、朝鮮、日本の資源を動員してアメリカの大戦(持久戦)に備えるべき、としました。(前掲書p348)

 また、彼が満州事変を起こした昭和6年当時は、「ソ連は第一次五カ年計画が未達成であり、外に力を用いる余力はなく、石原はこれを絶好のチャンスと考えた。また、アメリカは大恐慌の最中で外の争いにかかわる余裕はなく、蒋介石は大規模な掃共作戦に従事中であり、張学良は主力を北京周辺に集めていた」(前掲書p349)こうして石原完爾は、昭和3年に関東軍参謀として赴任して以降、満州占領のための作戦、占領後の具体的計画案まで緻密に練り上げ、これを実施に移すタイミングを計っていたのです。

 もちろん、こうした破天荒な計画が、軍はもちろん一般国民の支持を受けるようになるまでには、次に述べるような、いわゆるワシントン会議で確認された国際協調路線を根底から覆す国際情勢の変化があります。が、最大の問題は、私は、やはり当時の日本人の思想・心情にあったのではないかと思います。確かに、このあたりは運命的としかいえない部分があるのですが、事実の問題として、その後の軍のテロリズムを支持し、国際社会の支持を失わせる道を選択したのはマスコミを含めた国民自身だったからです

 この点、満州事変が柳条湖における満鉄線路爆破という謀略で始まった事は、そうした行動に出ざるを得ない中国側の「挑発」があったにせよ、「国際法上」言い訳のできない致命的な瑕疵となりました。また、こうした(「国際法」無視の)考え方が当時の軍を支配していたことは、この3年前に起こった張作霖爆殺事件における軍の対応を見ればよくわかります。軍は、この事件(当時、満州全体の支配者であり北京政府大元帥の地位にあった張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺した。*文章訂正7/21)の実行犯河本大作(大佐)を徹底してかばい、付近鉄道の警備不備という行政処分ですましたばかりか、その4年後の昭和7年には満鉄理事の要職に任命しているのです。

 ここに、「尊皇愛国の純粋な動機をもっていさえすれば何をしてもかまわない」(「目的のためには手段を選ばない」、あるいは、「動機が純粋であれば何をしてもよい」を修正7/21)という、恐るべき法秩序無視、下剋上的思想傾向が、当時の軍を支配していたことに気づきます。そして、こうした思想傾向は何も軍だけに特有なものではなく、国民一般の心情にも根強く支えられており、これが軍部独裁を生み、昭和の激動期を迎えてその後の日本の選択を狂わせていくのです。一体、これはどうした事か。なぜ大正デモクラシーという政党政治が花開いた直後に、こうした過激思想の急展開が起こったのか。実はここに昭和史の謎が隠されているのです。(下線部挿入7/20)。

(以下のパラグラフは、これだけではわかりにくいと思いましたので、追って詳しく説明する事として、今回は削除させていただきます。)

2008年7月11日 (金)

満州問題(1)―日本を破滅に導いた満州問題

 いままで、日露戦争以降の「躓き」として「日韓併合」と「21箇条要求」について述べてきました。そこで最後の問題が「満州支配」の問題です。結局、この問題の処理がうまくできなかったことから、満州事変が起こり(1931.9.18)、日中戦争となり(廬溝橋事件(1937.7.7)、さらに、対米英戦争(真珠湾攻撃1941.12.8)、ソ連の対日参戦(1945.8.9)、ポツダム宣言受諾(1945.8.10)となるのです。(8月15日は終戦の詔勅発表の日)

 ここで、この間の人的被害がどれほどのものであったか、概略見ておきたいと思います。ただし、日本や米英の被害者数についてはかなり正確な統計が残されていますが、中国人の「死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。」(wikipedia「15年戦争」)とされています。そこで、ここでは『平凡社世界大百科事典』の「太平洋戦争」の項目の記述を引用しておきます。

 「十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名( 括弧内筆者注記削除10/27),外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争(s12~16)における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。

 これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。」(ちなみに、太平洋戦争における米軍の死者は約35万4千人、イギリス軍の死者は約8万6千人wikipedia「太平洋戦争」)

 また、敗戦後のソ連軍によってシベリアに抑留された日本人は約60万人とされますが、wikipedia「シベリア抑留」の項では、「従来死者は約6万人とされてきたが実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」と説明されています。

 これらの数字がいかに桁はずれのものであるかは、日清戦争における日本軍の死傷者数約1万7千人(内死者約1万3千人)、日露戦争の約23万8千人(内死者約11万8千人)と比較してみるとよく分かります。また、ここで注目すべきことは、日中戦争(s12~16)による日本軍の死者数は約18万人ですが、太平洋戦争による死傷者数は300万人に達するということ、かつ、その大半は、昭和19年10月のフィリビンのレイテ戦以降に生じているという事実です。また、その多くは戦闘によるものではなく飢餓やマラリア等の病気による死亡、あるいはバーシー海峡などでの米軍潜水艦による兵員輸送船の撃沈による溺死だということです。(『語録』「バシー海峡の悲劇」参照)
*一橋大学名誉教授藤原彰氏によるとアジア太平洋戦における軍人軍属戦死者230万の内約6割140万人が餓死戦病と栄養失調による病死だということです。なお無差別爆撃等による一般市民の死者数は約80万人です。(*部分10/28追記)

 さて、では、この最後のソ連によるシベリア抑留は論外としても、これだけの甚大な被害をもたらした日中戦争及び太平洋戦争(日本は1941.12.11以降大東亜戦争と呼称)の原因は一体何だったのでしょうか。近年、これをアメリカや中国の挑発とする説が多く聞かれますが、私は、その淵源は、日本の「満州支配」にあったのではないかと思います。前回紹介したように幣原喜重郎は、ここで生じた日中の対立構造を、中国の主権尊重と内政不干渉を基本に、国際規範に則った協調外交によって乗り切ろうとしました。
 
 幣原は、満州事変の直前に次のような自説を開陳しています。「満州に求めるものは領土権ではなく『日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互有効強力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況』の確立であり、『これは少なくとも道義的に当然の要求と考える』」。そして、鉄道については、中国は協定によって満鉄の競争線は敷設しないと保証しているのだから、「かりそめにも日本の鉄道を無価値にするような路線を建設できないことは信義の観点からいっても自明の理である」(『幣原喜重郎とその時代』p344)

 つまり、満州問題を、経済・貿易上の問題として処理できると考えていたのです。そうした考えは幣原にはワシントン条約締結時から一貫したものでした。「・・・日本は、また支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図に動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。・・・日本の貿易業者及び実業家は地理上の位置に恵まれ、またシナ人の実際要求については相当知識を有っている」。だから、自由平等な競争ならば日本は勝てるのだから、特権は必要としないのだ」と。(『上掲書』p199)

 だが、こうした幣原の「自由貿易」を基礎とする満州問題の解決方法は、次第に、その後の国際的な政治・経済環境の変化や、それに対して過激に反応する国内世論の変化に対応できなくなります。このことについて岡崎久彦氏は、幣原が、ワシントン会議でアメリカのウイルソン主義にもとづく理想主義に流され、バランス・オブ・パワーによる平和維持という現実を軽視したことが、日英同盟を失効させることとなり、それが、その後の日本の国際的孤立を招くことになった批判しています。

 この間の事情をもう少し説明すると次のようになります。つまり、幣原が信じたワシントン体制下の国際協調主義というのは、アメリカのウイルソン主義に基づくもので、国際秩序の基礎を、民主主義、集団安全保障、民族自決に置くものでした。しかし、当時、各国の置かれた政治・経済・社会状況は、帝国主義の現実や共産革命の成功もあって混沌としており、とても、各々の国益の相違を乗り越えて、こうした原理のもとに国際秩序を維持することはできなかったのです。(『上掲書』p202)

 そのことは、「民主主義」という考え方一つをとっても、その困難性は容易に想像できます。つまり、これは世論を無視しえなくなるということで、事実、こうした幣原の国際協調外交は、その後の国際状況の変化の中で、「軟弱外交」あるいは「国辱外交」という世論の悪罵にさらされ退陣を余儀なくされます。また、「民族自決」という考え方についても、中国はこうした考え方に立って、いわゆる「革命外交」を推し進め、それまで国際条約で承認された外国の権益一切を否認するようになります。

 こうして、満州における特殊権益をめぐる日本と中国の対立は、全く調整不可能なものとなり、ここに新たに「満州の軍事的占領」による問題解決をめざす軍人グループの台頭を見ることになるのです。いわく、満州における日本の権益は、日露戦争における20万を超える日本軍人の生命の犠牲を払ってロシアより得たものであり、それを放棄することは断じてできない、とする考え方です。そして、こうした軍の対支強攻策を世論が熱狂的に支持し、政治の押さえが全く効かないなります。

 では次に、こうして幣原の国際協調外交を破綻させることとなった、ワシントン会議から満州事変に至るまでの国際及び国内情勢の変化を順次見て行くことにしましょう。

2008年7月 4日 (金)

日本近現代史における躓き―「21箇条要求」

 日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。

 この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。
 1914年7月28日に、欧州において三国同盟国と三国協商国間の戦いとなる第一次世界大戦が勃発しました。この時、苦境に立った協商側のイギリスが日英同盟により日本に参戦を求めてきたことから、日本は6月23日ドイツに対して宣戦布告し、中国におけるドイツの租借地である膠州湾や青島等を占領しました。その後、日本は、これらのドイツ利権の引き渡しとともに、当時の中国の袁世凱政権に対して次のような五号よりなる「21箇条要求」をしました。(1915年1月18日)

 第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。
 第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の九十九      ヵ年延長、南満洲・東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する七ヵ条。
 第三号は、漢冶萍公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める二ヵ条。
 第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める二ヵ条。
 第五号は、支那の主権を侵害するとされた七ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
  第一条 日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。
  第二条 日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。
  第三条 必要の地方で警察を日支合同とすること。
  第四条 日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。
  第五条 南支での鉄道敷設権を日本に与へること。
  第六条 福建省の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。
  第七条 支那での日本人の布教権を認めること。

 問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。

 問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような、天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。(『百年の遺産』岡崎久彦)

 結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。しかし、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。(『幣原喜重郎とその時代』)
 
 当時の議会で原敬は大隈内閣弾劾演説で次のように批判しています。
「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。この時に日本が野心を逞しくして何かするのではないかということはどの国でも考えることである。今回の拙劣な威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、目支親善の道を尽せば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた。」 
 
 この原敬の批判にあるように、この「21箇条要求」を基点として、中国の反日運動が激化することになります。また、この「21箇条要求」は当時中国や列強にどのように受けとられていたかという事について、かってイザヤ・ベンダサンは次のように指摘していました。(『日本人と中国人』p287~288)

 「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。〔()内筆者記入9/17訂正)〕

 日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」

 実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘しているとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。

 つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権回復運動として高揚していくのです。
 
 結局、これが「反日」運動へと発展していくのですが、こうした外交当局の失態をカバーし、反日運動の高まりをなんとか修復しようとする外交努力もなされています。実際、それが成功し、その後の日中関係が改善された時期もありました。その立役者が幣原喜重郎で、氏の回顧録「外交五十年」には次のようなワシントン会議(1921年11月~22年2月)における山東問題についての交渉経過が記録されています。

 「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。7/7追記)

 この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。

 「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。

 「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」

 「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回しかものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」

 そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。

 この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。(『歴史の嘘を見破る』p70)

 しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。 

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