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2008年8月

2008年8月30日 (土)

満州問題(6)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆2

 張作霖爆殺事件の真相については、東京裁判で田中隆吉少将が次のように証言したことで、はじめて一般の国民の知るところとなりました。
 「張作霖の死は当時の関東軍高級参謀河本大佐の計画によって実行されたものである。この事件は軍司令官、当時の参謀長には何ら関係なし。当時の田中内閣の満州問題の積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく、北京、天津地方より退却する奉天軍―張軍の錦州西方での武装解除する計画をもっていた。その目的は張を下野せしめ、張学良を満州の主権者として、そこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土を作るという目的であった。・・・しかるにこの計画はのちに至って田中内閣より厳禁された。

 しかしなおこの希望を捨てなかった河本大佐は、これがため、六月三日、北京を出発した列車を南満鉄道と、京奉線の交差点において爆破して、張作霖はその翌日死んだ。この爆破を行ったのは、当時朝鮮から奉天へきていた竜山工兵第二十連隊の一部将校並びに下士官兵十数名。このとき河本大佐は、参謀の尾崎大尉に命じて、関東軍の緊急集合を命じて、列車内から発砲する張の護衛部隊と交戦せんとした。しかし、この集合は、参謀長斉藤少将の厳重なる阻止命令により中止された。

 私は河本大佐も尾崎大尉もよく知っている。河本大佐は、まったく自分一個の計画であると申し、そのとき使った爆薬は工兵隊の方形爆薬二百個で、あのとき緊急集合が出ておったなら、おそらく満州事変はあのとき起こったであろうと語った。」(『昭和史発掘3』松本清張p52)

 ここで、事件が河本大佐だけの計画だったというのは真実ではなく、村岡関東軍司令官自身も関東軍の錦州出動が田中首相により阻止された段階で張作霖暗殺を計画し、それを知った河本大佐が自分の案を採用させた(『張作霖爆殺』大江志乃夫p16)とされているように、関東軍上層部も知っていたことは間違いありません。ただ、関東軍が他国の国家元首の暗殺に組織的に関与したということになると大変なことになるので、あくまで河本一人の謀略(爆破犯人を国民党の工作員に見せかける偽装工作もしていた)として実行せしめ、あわよくばその混乱に乗じて関東軍の武力発動の好機を得ようとしたのではないかと思われます。

 また、そのように武力発動をしてでも達成しようとしていた、その目的は何だったのかというと、それは、当時参謀本部員であった鈴木貞一の談話(戦後)に示された、次のようなものでした。
 「昭和二年・・・僕は自分で参謀本部、陸軍省あたりの若い同じ年配の連中に会った。今の石原莞爾とか河本大作とかであるが、・・・日本の軍備の根底をなす政策を確定しなければならぬという考えで、いろいろ若い人に話をして、ほぼこうすれば軍部は固まり得る、少なくとも下のほうのわれわれ若いところは固まり得る、という案を考えていた。その案というのは、方針だけでいうと、満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる。そうして東洋平和の基礎にする。これがつまり日本のなすべき一切の内治、外交、軍備、その他庶政すべての政策の中心とならなければならない」(『昭和史発掘』p33)

 しかし、「こういう考えをむき出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣皆承知しそうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ」ということで、鈴木貞一と森恪(外務政務次官)及び吉田茂(奉天総領事)が相談し、東方会議を開催することにしました。この会議は、昭和2年6月27日から7月7日まで、外務本省(首相兼外相田中義一、政務次官森恪他)、在外公館(中華公使芦沢謙吉、奉天総領事吉田茂、上海総領事矢田七太郎)、植民地(関東軍司令官武藤信義他)、陸軍(次官畑英太郎、参謀次長南次郎、軍務局長阿部信行、参謀本部第二部長松井石根)、海軍(次官大角岑生、軍令部次長野村吉三郎他)、大蔵省(理財局長富田勇太郎)の代表が出席し、森恪の主導で行われました。(前掲書p35)

 この会議で決まった方針(「対支政策綱領」)は、次のようなものでした。
 その「綱領」の前段では、田中も注意深く、「支那の内乱政争に際し一党一派に偏せず、支那国内に於ける政情の安定と秩序の回復とは、支那国民自ら之に当ること最善の方法なり」と述べています。にもかかわらず、同一綱領の後段では、
(一)「支那の治安を紊し不幸なる国際事件を惹起する不逞分子が支那に於ける帝国の権利利益並在留邦人の生命財産を不法に侵害する虞ある時は、断乎として自衛の措置に出でこれを擁護する。……排日排貨の不法運動を起すものに対しては、権利擁護の為、進んで機宜の措置を執る」
(二)「満蒙殊に東三省地方に国防上並国民的生存の関係上重大な利害関係を有する我邦としては特殊の考量を要す。同地方の平和維持経済発展により内外人安住の地とする事には接壌する隣邦として特に責務を感じる」
(三)「東三省有力者にして満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方に於ける政情安定の方途を講ずる場合は、帝国政府は適宜これを支持する」
(四)「万一満蒙に動乱が波及し我特殊の地位権益が侵害される虞がある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず適当の措置をとる覚悟を有する」(『満州事変への道』p199)となっていました。

 だが、こうした方針は、「田中と森の方針の相違(田中は、日本の満蒙への勢力進出をできるだけ同地の実力者(張作霖)を利用してその目的を達成しようとしていたのに対して、森は、そんな手ぬるいことはせず、日本が直接満蒙に手を下し、その開発に当たるべきとした。)や、関東軍の強硬論(治安の乱れを口実に満州を武力制圧する)と、なお幣原外交の影響が強く残る外務省首脳見解(「将来東三省の主人がだれになろうとも、日本の権益にははなはだしい影響はない。満州における日本の地位はすこぶる強固であるから、今後は公平かつ合理的な主張をもって日本の権益を擁護し、経済的発展を獲得すれば足りる」=吉田茂奉天総領事)の対立を反映した、いわば玉虫色の色彩を帯びていた」といいます。(『張作霖爆殺』p8)

 そして田中は、満蒙政策を具体化するためには、まず満蒙の地に鉄道を増敷設をすることから開始し、その沿線に日本の勢力を伸ばしていくこと、この計画は東三省の「真面目な有力者」=張作霖と提携することだと考えました。そこで「張作霖をして東三省における過去、現在及び将来のわが国の地位とともに以上の趣旨を十分諒解せしめ」鉄道の増敷設を承認させるため、その交渉を山本条太郎(満鉄総裁に任命)にあたらせたのです。結局、張もそうした要求を承諾し北京を引き上げることに同意しました。山本はこれで「日本は満州をすっかり買い取ったも同然だ」と喜んだといいます。(『満州事変への道』p201~206)

 一方、関東軍の方は、そもそも東方会議がもたれたのは、先に紹介した鈴木貞一のような考え方を政府の満蒙政策の指針とするためでしたから、その結論を「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という方向で理解していました。そして、そのためには、蒋介石の北伐によって張作霖が北京から追われる際の混乱を利用して、日本軍のいうことを聞かなくなっている張作霖を武装解除し下野させることで、一挙に満州を武力制圧し支那本土から切り離すとともに、その政治支配権を確立しようとしていたのです。

 しかし、こうした関東軍の思惑は、田中首相の採った満蒙政策によって裏切られることになりました。そして、このことに対する怒りが、「張作霖爆殺」という「恐るべき」事件を引き起こすことになったのです。当然のことながら、田中首相は、自分の満州問題解決の努力を水泡に帰したこの愚挙を怒り、その実行犯及び責任者の厳罰を天皇に約束しました。しかし、軍は事件をうやむやにすることをはかり、それに多くの閣僚も同調し、また多くの政治家やマスコミも、真相が公表される事によって日本が面子が失われることを恐れて追求を手控えました。結局、軍は、真相は不明、事件の責任者は事件現場付近の警備上の手落ちがあったということで行政処分するに止めたのです。

 さて、ここで問題となるのは何か、ということですが、

 第一に、たとえ、首相の意志に全く反することであっても、自分たちが正しいと信じることであれば、何をやってもかまわない、という下剋上的考え方が、当時の軍特に若手の将校たちに蔓延しており、これを放置したということ。

 第二に、この場合、何をやってもかまわないといっても、爆殺の相手は、北京政府の大元帥である。それを関東軍の一参謀が平気で爆殺し、それを軍が組織ぐるみでかばうということは、当時の軍人が中国人をどれだけ軽んじ侮っていたかということ。逆に言えばどれだけ増長していたかということ。

 第三に、実は、この事件の真相は、事件発生後二ヶ月たった八月頃には、東京、上海、天津の英字新聞に出始めており、爆破ははっきり日本軍のしわざであると報道されていた。そして九月頃には、国内の新聞も与野党も詳しい内容をほとんど知っていた。にもかかわらず、国内の新聞は、翌年の4月になっても「満州某重大事件」としか言わなかった。ここに、日本の新聞の権力迎合的性格が如実に現れていたということ。

 第四に、このように、外国人の目から見れば虚偽であることが明白であるような事件について、政治家もマスコミも、「外に向かって恥ずかしいようなことをわざわざ公表しなくてもいいではないか」というような甘い考え方をした。それが日本に対する国際的信用をどれだけ失墜させ、日本人に対する侮蔑を招いたかについて、考えが及ばなかったということ。

 第五に、これだけの重大事件を引き起こした犯人たちが、形式的な行政処分で済まされたばかりか、仲間内で英雄視され、要職につけられ、軍で重用され続けたということ。また、彼らを組織ぐるみでかばい、事件をもみ消そうとした責任者たちが、その後の軍の出世街道を歩き軍の中枢を占めたということ。

 そして最後に、この事件が、以上のような問題点を抱えながら処理されたことによって、結果的に「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という考え方(が容認されたということです。そして、ついに満州事変を経て、)政府自身(もこうした考え方を)認知せざるを得なくなりました。〔( )内挿入9/3〕

 こうして、日本は、この時ついた嘘(謀略の存在のもみ消し)をつき続ける一方、こうした手段(武力発動し満州を実効支配すること)に訴えた自らの立場を正当化し続けなければならないという窮地に追い込まれることになりました。しかし、この嘘はアメリカには見えていました。日本を対米戦争に追い込んだハル・ノートの第一条件は、「日本軍の中国からの撤兵」でしたが、それは、このときついた嘘を嘘と認めることを意味していました。しかし、その時点(昭和16年)で日本は、満州事変以降さらに多くの犠牲を払っており、これを無視して撤兵する勇気は、当然のことながら当時の軍人にはありませんでした。〔( )内挿入9/4〕

2008年8月21日 (木)

満州問題(5)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆

 前回、関東軍高級参謀河本大作が引き起こした張作霖爆殺事件(1928.6.4)によって「満州事変」への道が開かれた、ということを申しました。つまり、満州事変というのはこの事件がもたらした帰結だということです。その意味で、この張作霖爆殺という「恐るべき」事件の発生と、その処理をめぐる「奇怪さ」の中に、その後の対米英戦争に至る、日本人の数々の蹉跌の根本原因が胚胎していたといっても過言ではありません。次に、それがどれほど「恐るべき」事件であったか。また、その処理がいかに「奇怪」なものであったか、ということを見ておきたいと思います。

 いま少し詳しく事件の概要を述べます。

 前回述べた済南事件は未解決のまま、田中内閣は、京津に非常事態が継続していることを理由に、5月8日、三たび山東出兵しました(これで山東地帯の日本兵は一万五千に達した)。さらに田中は同月18日、満州に動乱が波及する場合は治安維持のため適当有効の措置をとるむね中国南北両政府に覚書で通告しました。これは、南北両軍の(錦州方面よりの)満州乱入を阻止するため両軍の武装解除を行うという事を意味していました。といっても、南軍(革命軍)の関外(長城以北)《関内(長城以南)を訂正8/22》進入は絶対に阻止するが、奉天軍の場合は、早期に戦闘を離脱して整然と関外に引き上げれば、必ずしもこれを武装解除しないと了解されていました。

 この通告に対して、北京政府(北軍)も国民政府(南軍)も共に内政干渉であると激しく抗議しました。しかし、国民政府は、この通告の意味するところは、関内の国民政府による統一を日本が認めたものと理解し、矢田七太郎総領事に対して、関外に奉天軍が撤退するならば国民革命軍はこれを追撃しないと約束しました。一方、張作霖の方は、日本の武力援助により関内にとどまることを期待していたためこの通告には大変不満でしたが、田中は芳沢公使に訓電して、張作霖に対して自発的に奉天に引き上げるよう勧告し、張作霖はやむなくこれを承諾しました。(上掲書p305)

 一方、村岡長太郎関東軍司令官は、18日この覚書を受領するや、奉天軍の武装解除を目標として関東軍の錦州派遣と軍司令部の奉天移駐にとりかかりました。しかし、外務省は、この措置がポーツマス条約で規定された範囲をこえて、関東軍の付属地外への出動をもたらすことになるとして反対し、19日、芳沢公使あてに「奉天軍の引き上げを南軍が追撃」しない場合は武装解除するには及ばないと訓電しました。20日夕、奉天では林総領事が斉藤参謀長と秦特務機関長と会い、有田アジア局長からの同文の訓令を提示したため、関東軍は錦州出撃計画を別命あるまで延期することにしました。(上掲書p306)

 この間、関東軍の田中首相と政府に対する不満は日ごとに激しくなっていきました。参謀本部の方も、荒木貞夫作戦部長の外務省への圧力が功を奏せず、29日の陸軍・外務両省の首脳会議でも現地軍出動時期について意見がまとまらなかったため強い不満を持つようになりました。5月31日、張の北京撤退が時間の問題となった段階で、関東軍は重ねて出兵の許可を求める電報を軍中央に打ちました。31日陸軍は関東軍の電報を受け取ると、阿部軍務局長を通じて有田アジア局長に出兵断行を強調させるという手をもちいました。両名は田中首相のところにおもむき田中首相の裁断を仰ぎましたが、田中首相は31日夜出兵延期を裁決しました。(『太平洋戦争への道1p308』)

 村岡関東軍司令官は、これにいらだち、北支駐屯軍と連絡を取り、張作霖暗殺を計画しました。しかし川本大作高級参謀は、あくまで張の謀殺によって関東軍の満州武力制圧のきっかけを作るという目標をもっていたため、村岡の計画ではなく自分の作った爆破計画を採用させました。河本の張作霖爆殺→東三省権力の地方軍閥化→治安攪乱→関東軍出動という段取りは、5月中旬、大石橋の石炭屋・伊藤謙二郎が、張作霖に代えて呉俊陞(しょう)擁立計画を斉藤参謀長に進言したことに端を発しており、河本は出兵の奉勅命令が出ないため、かねてからの鉄道爆破計画を実施に移すことにしたのです。(上掲書p309)

 また、河本は、張作霖抹殺により満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するためには、張作霖はその本拠地奉天で殺害されたほうが治安が乱れている証明になると考え、6月4日早朝、張が京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下に爆薬をしかけ張作霖を列車ごと爆破し死亡させました。河本は日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力衝突を起こす計画であり、また、その日の内に第二段階行動として各地の爆弾騒ぎの挑発謀略を起こしました。しかし、この陰謀が河本を中心とするごく少数者で計画実行されたことや、案に相違して奉天省長は奉天軍の行動を抑制したため、武力発動には至りませんでした。(『張作霖爆殺』p16大江志乃夫)

 この事件の報を受けて、田中首相は愕然としました。なぜなら、田中は「満蒙に鉄道を増敷設し、この沿線に土地所有権なども獲得し、資源を開発して日本の勢力を伸ばしていくこと、そしてこの計画は張作霖を擁立して進め」ようとしており、そのために張を東三省に引き上げさせたからです。事実、田中の意を受けて、山本(条太郎)満鉄総裁と張との間には鉄道敷設の契約が成立しており、しかしこの計画はあくまで張と山本・田中の個人的「諒解」であったので、張が北京にとどまり南軍に破れでもすれば、もとのもくあみになると恐れていたのです。(『満州事変への道』P213~214)

 だが、この事件は関東軍の河本大佐を中心とするごく少数者の陰謀であったため、当初は陸軍中央部も田中首相もその真相を知ることができませんでした。陸軍中央部は、6月26日から一週間、河本大佐を取り調べましたが、河本は事件への関与を否定し、また陸軍中央部も内心張作霖の抹殺を望んでいましたので、河本を深く追求することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中首相にしました。しかし、河本が上京したとき、荒木作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長、小畑敏四郎作戦課長が出迎えており、河本は彼らには一切の事情を告白していました。(『張作霖爆殺』P20)

 一方、田中首相は9月7日林総領事に会い、「本件は国際的重大事件である。若し日本人の仕業ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。ついては本件を取り調べよ」と命じるとともに、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長に共同調査を命じ、さらに峯幸松憲兵司令官を奉天に派遣し調べさせました。その結果、関東軍からは何らの証拠も得られませんでしたが、朝鮮軍の工兵隊が爆薬敷設に関係しており、その工兵隊の某中尉を取り調べた結果、案外すらすらと自白したので帰郷し、10月8日に白川陸相を通じて田中首相に報告しました。また外務省などの共同調査の第二回調査特別委員会が10月23日に開かれ、河本らの犯行をほぼ裏付けましたが、杉山軍務局長は陸軍側の調査報告を待ってくれと依頼し、また参謀本部は、事件をやみのうちにほうむろうとしました。(『太平洋戦争への道1p320)

 田中首相は事実がある程度判明した段階で西園寺に報告しました。この時西園寺は首相のとるべき方針について次のように勧告しました。
 「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなくてはならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って回復することができる。・・・また、内に対しては・・・政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたということが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思い切ってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」(『張作霖爆殺』P28)

 田中首相はこの西園寺の勧告を容れ、事実関係者の厳正な処罰と、全容の解明・公表することで意見一致しました。しかし参謀本部は、政友会幹部と連絡を図り、原嘉道法相、久原逓相、小川鉄相、山本達雄農相は公表反対としました。一方、田中を支持して公表賛成したのはわずかに岡田啓介海相と山本満鉄総裁だけとなりました。また当初田中に共鳴した白川陸相もにわかにあわてだし、いまや全陸軍が組織の命運をかけて田中首相に挑戦したに等しい状態となりました。こうした陸軍の動きは、この陰謀が公表されることによる陸軍の面子・威信の失墜が防ぐということ以上に、当時の陸軍が進めようとしていた満州問題の(軍事的)根本解決方針を死守せんとする思惑に発していました。

 こうして、小川ら満州に利害を持つ閣僚、政治家たちも、処罰と公表に頑強に反対するようになりました。それは、もし「この事件の全容が明らかになれば、満州はもとより、中国全体からの強い反発は避けられない。そうなれば、国民党政府が進めている、国権回復運動がいよいよ勢いづき、また反日、抗日運動がより盛んになるのは目に見えている。今は中国の条約を無視したやり方に対して反感を持ち、日本を支持してくれているイギリスをはじめとする国際世論も、陰謀が明らかになったら、どのような姿勢をとるか分からない。その帰趨によっては、日本は満州から追い出されることになるのではないか。」(『地ひらく』上p360)といった危惧によるものでした。

 しかし西園寺に励まされた田中は、この事件についての「調査内容」を、1928年12月24日午後2時に天皇に奏上しました。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるをもって若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行うべく、詳細は調査終了次第陸軍大臣より奏上する」(『田中義一伝記』による)これに対して天皇は田中に「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と戒めました。田中は上奏後、各閣僚に個別に了解を求め、白川陸相に対して強硬に責任者処罰を要求しました。しかし、この報告を白川から聞いた陸軍省中堅幹部は激烈に反対を表明しました。(『太平洋戦争への道』P321)

 ここで、陸軍省中堅幹部というのは、実は東条英機や永田鉄山といった学閥(藩閥を訂正8/26)意識を強く持った陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校出身のエリートたちのことで、陸士卒業期でいえば15期以降の卒業生です。彼らは二葉会(15期から18期まで)や一夕会(20期から25期)といった藩閥と違った学閥を母体とする新しい幕僚閥を形成していました。そして、当時の軍内の主導権は、こうした、日露戦争の激戦を体験していない(試験で選抜された)エリート軍人たちの手に握られていたのです。張作霖事件の首謀者である河本大作は、陸士第15期でこれらの幕僚閥の最先輩であり、その行動は同士たちに”英雄視”され、彼らによる組織を上げての擁護が画策されていたのです。

 田中は、1929年に入っても、このように陸軍の組織から孤立した状況におかれながら、なお懸案解決に向かって努力しました。しかし、政友会の森恪や、閣僚たちは、田中内閣を存続させるためには、田中首相が陸軍の要求に従うことを求めました。6月12日には、鈴木参謀総長、武藤教育総監が白川陸相と会談し田中首相に反対の態度をとるよう要求し、その後、陸軍省では阿部次官、杉山軍務局長、川島義之人事局長が田中の要求に反対をとなえ、白川陸相も辞意を表明すると見られたため、ついに田中首相は陸軍の圧力に屈し、責任者を単に行政処分にする案を天皇に上奏するとともに、真相不明として公表することについて許可を得ようとしました。

 しかし、天皇は「首相の述ぶる所前後全く相違するではないか」とのむねを伝え、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいうことはちっとも分からぬ、再び聞くことは自分はいやだ」ともらしました。恐懼した田中首相は、その後ただちに西園寺を訪問し一時間にわたる会談の後、各大臣一人一人官邸に呼んで内閣総辞職に至るかもしれぬと告げました。この際再度参内して事情を天皇に奏上するよう求められ、田中は再び参内しようとしましたが鈴木侍従長はこれを取り次ぐことに難色を示しました。恐懼した田中は首相を辞任し、7月1日田中内閣は崩壊しました。同日、河本大佐停職、斉藤中将と水町少将とが重謹慎、村岡中将が持命となりましたが、処分の文案には関東軍の警備上の手落ちとのみ説明されていました。(上掲書p326~327)

2008年8月12日 (火)

「教育委員会を腐敗させたのは誰か」寺脇研氏の主張について

 ここで、「大分県教員採用汚職事件」に関して、『中央公論』に元文部官僚(現京都造形芸術大学芸術学部教授)の寺脇研氏が、「教育委員会を腐敗させたのは誰か」という対談記事を載せていますので、この問題について、簡単に私見を申し述べておきたいと思います。

 寺脇氏は「教員出身者だけに任せてはダメだ」という冒頭の小見出しで次のように述べています。

 まず、「大分県教委の”体質”に問題がありました。大分県教委は、教育委員会生え抜きの職員が出世できず、課長以上の上級職を『教員出身者』と『教育現場をよく知らない県庁からの出向者』が固めているという悪い教育委員会のまさに典型例です。しかも、トップの教育長まで知事部局から来た人でしたので、教育について詳しくなかった。自分が詳しくなければ、『じゃあ、教員出身でナンバー2の富松審議官よろしく頼みます』となる。こうして不正につながりました。」

 これに対して、「教育の実情をよく知らない県庁からの出向者ばかりが幹部になるのは問題だと思いますが、現場をもっともよく知るはずの教員出身者に幹部を任せるのが、なぜいけないのでしょうか。」という質問に対し、寺脇氏は、その理由は「彼らが『教員ギルド社会』を作っているからです。」と次のようにいっています。

 「この『教員ギルド社会』のルーツを知るには、戦前の教育制度まで遡る必要があります。戦前は、教員人事だけでなく、教員免許の交付も各都道府県の管轄でした。つまり、教員になるには、唯一の教員養成機関である県の師範学校を出なくてはいけなかった。すると何が起きたか。『学閥』ができたんです。師範学校の先輩・後輩関係とその身内のつながりで、採用や校長・教頭への昇進といった教員人事が決まるようになった。」

 今は全国統一の免許制度になり(問題点1)、他県の大学卒業者も教員として働くようになったので、おおっぴらな『学閥人事』はできなくなっているが、こうした教員同士の「馴れ合い体質」は変わらない。だから、教育委員会は組織としてこれをチェックする機能を作らないといけない、というのです。組合と教育委員会が対立しているところではこうしたチェックが働きます、と。(問題点2)

 また、こうした「馴れ合い体質」が疑われる県としては、第一に旧師範学校の支配体制が残っている「田舎」が危ない。それから、教員組合と教育委員会が癒着している都道府県が危ない。だが、大分のように「お金が動く」というのはレアケースで、普通は「お金」ではなく県会議員や地域のボスからの「圧力」が多い。また、権力者に覚えめでたくなるためには、それまで盆、暮、正月の挨拶をはじめ、雑巾がけのようなことをし尽くさなければならない。だからお金は動いていないといっても、そうした「不正につながっている構造」を見逃してはいけない、といいます。

  そして結論としては、「結局、問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです。日本という社会は、昔はすべてそうして成り立っていたともいえます。建設業界に限らず、日本全体が巨大談合社会でした。しかし、それがどんどん暴かれて、今は入札談合はできなくなりました。教育は「最後の聖域」・・・ということではないでしょうか。」

 この意見に対して、そんな不正の温床になるくらいなら、教育委員会制度そのものを廃止すべきという声もありますが、という質問が投げかけられていますが、これに対しては次のように答えています。

 「そもそも教育委員会制度は、戦後になって,戦前の教育制度の反省から、『政治からの独立』と『教員ギルド社会の解体』を目的に導入されたシステムです。それがうまくいっていないわけですが、単純に『では廃止します』では状況はさらに悪化します。ですから本来の目的に近づくよう教育委員会の立て直しに努めるべきだと思いますね。」

 そして、そのためには、教育委員の公選制を復活させるのも一つの手段です。では、なぜこの制度が廃止されたかというと五十五年体制下の政党の(イデオロギー対立の)影響を免れなかったからで、それが崩れた今ならうまく機能するのではないか。つまり、今回の事件は教育委員会を改革するチャンスで、事務局をきちんとチェックできる教育委員を選び、事務局には国や他県からの外部人材を入れててみるといい。

 以上が寺脇研氏の主張です。

 そこで私見ですが、寺脇研氏といえば、「ゆとり教育」で文科省のスポークスマン的役割を果たした人で、現在、中教審でその見直しが進められていますが、氏自身は「それでもゆとり教育は間違っていない」とがんばっています。しかし、私は、現在、教育再生会議のメンバーにもなっている陰山英男氏の「学力の基礎は読み書き計算にある」「揺るぎなき基礎の上に総合的学習は可能となる」という考えの方が、教育実践に裏打ちされていて説得力があると思います。

 寺脇研氏は、こうしたキャリヤのほかに映画評論家としての肩書きも持っていて、wikipediaには「2004年に文化庁が主催して韓国で開催されたイベント「日本映画:愛と青春」(1965年から1998年に発表された日本映画46本を上映したもの)は、文化庁に在職していた寺脇が中心となって進めた企画だといわれているが、黒澤、小津ら、巨匠と呼ばれる監督の作品を敢えて排し、日活ロマンポルノに属する作品を入れるというラインナップが物議をかもした」と紹介されてます。

 きっと、こうした多彩な能力と、高校卒業(ラ・サール)の時の答辞「私はこの学校のことを懐かしく思い出すことは、これから先ないだろうと思います。なぜなら、ずいぶん多くの友人がこの学校の体質についてこれずに、途中でドロップアウトをし、去っていかなければならなかったからです。彼らのことを考えると、とても懐かしい母校などとは言えません」に見られるような氏の「反骨精神」が、彼の「ゆとり教育論」を支えていたのではないでしょうか。

 さて、氏の教育委員制度改革論についてですが、私はおおむね当たっていると思いますが、いくつか問題点もあります。その第一は、「今は全国統一の免許制度になり」という部分ですが、これはあまり正しくない。教員免許は現在も都道府県教育委員会が出すようになっていて、全国統一になっているのは各免許取得に必要な単位が示されているだけです。そして、その単位取得はそのための講座を持つ大学、短大に任されていて、その免許によって保証される全国統一の「資格水準」が確保されているとは、とてもいえないからです。

 その意味では、確かに戦後の教員免許制度における「開放制」は、戦前の師範学校制度の弊害とされた「学閥」の弊は免れているとは思いますが、それに代わる「教員の専門的資格水準の維持」という点では、むしろ後退していると思います。最近の教育改革提言の中には、今なお根強く残る教育界の「閉鎖的体質」を打ち破るため、社会人の登用枠の拡大等が掲げられていますが、これが容易に進まないのは、むしろ現在の免許制度に原因があります。というのは、これがあてにならないため、各都道府県における採用試験がそれに代わるものとなっているからです。

 つまり、あまりにも教員免許によって保証される能力資質の水準が不明確だということで、むしろ、これを全国統一の資格試験として、一切の学歴要件を排して受験可能とした方が、より公平で開かれたものとなり、戦後改革の趣旨にもあっているのではないかということです。そうすれば、採用試験には、その資格を得て教師としての能力を保証された者のみが受験することになりますので、採用試験のウェイトも軽くなり、今問題となっている教員採用試験の中核都市等への委譲も容易になってきます。(いまのところどこからもそんな意見は聞きませんが)

 第二は、「組合と教育委員会が対立しているところではこうしたチェックが働きます。」というところです。そもそもこうした対立関係は、55年体制下の東西イデオロギー対立が「日教組vs文部省」という形で構造化したものです。こうした対立構造に対応するために、政府は、戦後の「教育委員会法」(s23)を抜本的に改正し、現在の「地方教育行政の組織及び運営に関す法律」(略称「地教行法」)(s31)に代えたのです。その要諦は、地教委(市町村教育委員会)の「ダミー化」でした。そして隙間に「日教組う勢力の掣肘」という役目を担って保守政治家や「地域ボス」が這入り込んだのです。今回明らかになった教員人事への介入はその名残でしょう。

 つまり、寺脇氏の言っていることは、このような自民党の政策が失敗して、組合と教育委員会との対立関係を解消させることができずにそのまま残ったところが、うまくいっていて、逆に失敗したところ、組合と教育委員会が保守系あるいは革新系いずれにしろ一体化し癒着したところはうまくいっていないという”おもしろい”論理になっているのです。氏の反骨性がうかがわれないこともありませんが、より正確な問題の立て方としては、教育委員会を「ダミー」にした「地教行法」を抜本的に改正して、その地域の学校経営機関としての内実を整えるということでしょう。

 氏のいう、教育委員の選任方法の改革や、事務局職員には、国や他県あるいは民間から多彩な人材を登用できるようにするという考え方には賛成です。しかし、そのためには「地教行法」を抜本的に変えるしかないでしょう。また、教員の採用に当たって学閥や馴れ合い人事を排することは勿論のこととして、そのためには、そのより確かな教員資格を担保する全国統一の「教員免許制度」(国家試験)を確立し教職への道を門戸開放するしかないと思います。

 日本の教育界における、これらの伝統的な談合体質の克服のためには、従来曖昧なままに放置されてきた教員資格の水準や、採用・昇進基準を明確なルールに変えることがまず必要であると私は考えます。

2008年8月 9日 (土)

満州問題(4)―張作霖爆殺事件が切り開いた満州事変への道

 ここまで、日本が日中戦争それから日米戦争へと引きずり込まれていく、そのターニングポイントとなった満州事変がどうして起こったのかを見てきました。一般的には、これを日本軍による植民地主義的な領土拡張(=帝国主義的な侵略戦争)と見る見方が多いと思います。しかし、こうした見方は、マルクス主義的な歴史観(植民地主義や軍事的膨張主義を伴う帝国主義を資本主義の帰結とする見方8/22挿入)によらない限り、”当時の軍人の頭は狂っていた”というような結論に達せざるを得ません。また、それは自分は彼らとは違うといった免罪意識につながり、さらには自分を被害者に見立てて当時の日本人を糾弾するといった態度になります。

 しかし、実際には、この満州事変が起こる前段には、幣原喜重郎による国際協調主義に基づく日中「友好政策」があり、それを国民が支持した時期もあったのです。彼は中国の満州に対する主権を認めた上で、ワシントン会議における「九カ国条約」に抵触しない形で、両者の友好的な関係を維持することで日本の満州における「特殊権益」の確保ができると考えていました。しかし、こうした幣原の態度は、結局、中国の排外主義的な日本の「特殊権益」侵害を防ぐことはできず、日本国内においては、第一次南京事件を経て、幣原外交を「屈辱外交」と批判する論調が次第につのっていきました。

 この第二次南京事件というのは、北伐途上の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃に会い暴行・略奪をうけたという事件です。英米軍艦は蒋介石軍の本拠地を砲撃してこれに軍事的圧力を加えましたが、日本の軍艦は「尼港事件」の教訓から十数万の居留民に危害が拡大することを恐れて砲撃を控えました。また、日本領事館でも無抵抗主義をとったことから、現場にいた海軍大尉も居留民と共に暴行・掠奪を受けることになりました。そのため、彼は帰艦後、これを帝国軍人として屈辱に耐えないとして割腹しました。

 この事件を機に、幣原外交を非難する世論が急速に高まっていきます。各新聞はセンセーショナルに支那兵の残虐を報道し、激越な言葉で幣原の無為を論難しました。また、金融恐慌問題を討議中の枢密院でも、南京事件を中心とする若槻内閣の対支外交批判が集中し、「なかでも枢密顧問官の伊東巳代治は、率先して幣原外交を罵倒した。論旨は、無抵抗主義は本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を阻喪させ、中国における日本人の生命財産を危うくしている。国民党の革命運動は北支に及ぶ趨勢であるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘い」というものでした。(『幣原喜重郎とその時代』p293)

 こうして、ワシントン会議(1920)以降、第一次若槻礼次郎内閣まで、幣原喜重郎が主導した国際協調外交、日中友好外交、内政不干渉外交は、田中義一(外相兼任)内閣(1927.4)の「積極外交」に取って代わられることになります。この田中内閣の「積極外交」とは、中国における日本人居留民の生命財産や権益(条約によって認められたもの)を守るためには、必要があれば出兵してでもそれを守る(「現地保護政策」)というもので、特に、満洲における「特殊権益」を守るためには、その地区の治安維持のための積極的な役割を果たす、というものでした。

 ところが、こうした田中義一内閣の「積極政策」は惨憺たる結果をもたらしました。おりしも、1928.2から蒋介石による中国統一をめざす第二次北伐が始まっており、4月には早くも山東省の境に達していました。田中内閣は居留民の「現地保護政策」をとっていたため再び山東出兵(4.20)しました。この時、蒋介石軍は済南に平和的に入城しますが、5月3日に発生した南軍暴兵による日本人に対する掠奪・暴行事件がエスカレートして日本軍との全面衝突となり、5月8日には日本軍が支那軍の立てこもる済南城を砲撃、11日これを占領するという「済南事件」が起こりました。(死亡者は日本軍二百三十名、中国軍二千名、日本人居留者十六名)

 この「済南事件」は、その後の日中関係の大きな転機となります。中国は、日本権益に対する組織的なボイコット運動で対抗するようになり、日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米マスコミに向かって日本を非難し、日本を孤立させる政策をとるようになりました。特に、日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進(北伐=中国統一)を妨げるものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激しました。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標でしたが、一転して日本が最大の敵となりました。(上掲書p296)

 このことについて幣原は、「日本には、もともと北伐軍の進路を妨げて中国の内政に干渉する意図があったとも思われない。それならば、居留民(約2,000人)をしばらくの間青島など安全な場所に避難させておけばよかった。それなのに政府は、将来どうするかの深い考えもなく突如出兵して、現地保護策をとった。その結果、国庫の負担はすでに六、七千万円に達し、将卒の死傷も数百名を下らない。そしてわが居留民は財貨を略奪され虐殺陵辱にあったものは少なくない惨状を呈している。」と批判しています。(慶應義塾大学での講演、上掲書297)

 また、1929年の貴族院における質問に答えるかたちで「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くの死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆き、「これは畢竟、内政上の都合(世論におもねったということ=筆者)によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信ずる」と述べています。(上掲書p298)

 だが、はたして、こうした幣原の「人間の善意と合理主義への確信」に基づいた対支外交で、日本の満州における「特殊権益」は本当に守れたのでしょうか。幣原は、「我々は支那における我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加え、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります。」(『大東亜戦争への道』p250)と述べています。しかし、こうした幣原の外交姿勢に対して、特に、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人と日中ビジネス界から激しい批判がわき起こりました。

 田中内閣は、こうした幣原の軟弱外交に対する批判を背景に、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜するかたちで登場しましたが、これが中国側との衝突を招くことは不可避でした。では、一方、仮に幣原のいうように「現地保護主義」を抑えて不干渉主義を貫いたとした場合、はたして、幣原が言うような合理主義に基づく満州権益の主張は、中国の国権回復運動のうねりに抗し得たでしょうか。これは双方によほどの良識と指導力があってはじめてできることで、その意味では「悲劇は運命づけられていた」と岡崎久彦氏は述べています。(『前掲書』p288)

 済南事件の後、蒋介石の軍隊は済南を迂回して北上を続けました。北京の張作霖軍は風前の灯となっていました。この時、日本軍が最も心配したのは、戦乱が満州に及んで日本の権益が害されるということでした。そこで、田中は1928年5月18日、張、蒋双方に対して「もし、戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な措置をとらざるをえない」と公式の覚書きで警告しました。その一方で、北京の芳沢公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得しました。

 この時、田中首相は、「いざという場合の用意はしつつも張を平和利に満州に撤退させて、すでに話し合いが軌道に乗っている満州五鉄道(吉会線の内敦化、図們間、延海線、吉五線、長大線、洮索線の五線で、正式の外交ルートを通さない秘密交渉により、山本条太郎が張作霖に無理矢理ねじ伏せる形でのませたもの=筆者)などの日本の権利を張に守らせ」ようとしていました。そしてその説得が成功して、張は北京から引き上げ京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下にしかけられた爆薬により列車ごと爆破されて死亡したのです。(満州某重大事件」1928.6.4)

 これは、関東軍の河本大作高級参謀が引き起こした事件だったのですが、その目的は、張作霖抹殺により東北三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにありました。しかし、奉天軍が反撃を抑制したことや、ごく少数による計画・実行であったために武力発動には至りませんでした。(下線部挿入、相当部分削除8/21)張作霖の死後、田中は息子の張学良をたてて、今まで通りの計画を推進しようとしましたが、逆に、張学良は蒋介石に恭順の意を表し、七月末には中華民国の国旗、青天白日旗が全満州に翻ることになりました。ここに関東軍の夢も破れ、こうして満州事変への道が開かれることになったのです。

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