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2008年9月

2008年9月26日 (金)

満州問題(10)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(3)

 そもそも満州問題はいつどこから発生したのでしょうか。前回、そのことについての渡部昇一氏の主張を紹介しましたが、もう少し詳しくこの間の経緯を見ておきたいと思います。

 いうまでもなく、それは、日本が日清戦争で遼東半島全域を手に入れたことにはじまります(1895.4.17)。しかし、三国干渉でロシアにそれを中国に返還するよう迫られたので、賠償金を積み上げる形で遼東半島を清に返還しました(1895.5.4)。その後ロシアは、露清密約(1896.6.3)で、日本が満州・朝鮮・ロシアを侵略した場合の共同防衛、交戦中清国全港湾のロシア軍への開放、黒竜江・吉林両省を横断しウラジオストックに達する鉄道(東清鉄道)の敷設権を得ました。

 さらに1898年、中国から遼東半島南部を25年間租借し、旅順・大連の港湾都市建設、東清鉄道の延長となるハルピン―旅順間の鉄道建設権を得ました。その後1900年に義和団事件が起こり居留民保護のため列国(8カ国)が共同出兵すると、ロシアは満州に大軍を送り、事件鎮圧後もこの地に居座り、事実上占領支配下に置き、さらに韓国の鴨緑江河口の竜岩浦に進出しようとしました。日本はこの事態に朝鮮支配の危機感をつのらせ、「満韓交換論」でロシアとの衝突を回避しようとしました。

 しかし、ロシアは交渉の最終段階の回答(1904.1.6)で、「日本の韓国に対する援助の権利は認めるが、軍略的使用は認めないこと、朝鮮の北緯三十九度以北の中立地帯については最初の案を維持すること、そしてこれを日本政府が同意するなら・・・日本が満州は日本の利益外であることを承認する前提のもとに、ロシアは日本及び他国が清国から獲得した権利(ただし居留地の設定は除く)を認める」としました。これは、日本の韓国支配に制限を加えると共に、事実上満州支配を宣言するものでした。

 こうして日露戦争が始まりました。日本陸軍は1904年2月8日に仁川上陸、旅順港外及び仁川沖での日本艦隊とロシア艦隊の戦闘、第一軍は朝鮮北部からロシア軍を撃退して満州地域に攻め込み、5月には第2軍が遼東半島上陸、第4軍は両軍の中間地点に上陸し、8,9月遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦と苦戦しながらも奉天に軍を進めました。一方、第3軍は8月以降旅順のロシア軍近代要塞に膨大な犠牲を強いられながらも、1905年1月にこれを陥落させ、旅順艦隊を撃滅し、3月には陸軍の総力を挙げて奉天を占領、さらに1905年5月27,28日には、対馬海域の海戦で日本連合艦隊はバルチック艦隊を壊滅させました。

 この段階で、日本は国力の限界を見極め、アメリカに講和の斡旋を依頼しました。ロシアもロシア革命が高揚して政治体制が揺らいでいたことから、ポーツマス条約(1905.9.5)が結ばれ戦争は終結しました。〔日本軍の戦死者8万、戦傷38万人、戦費総額20億(前年の一般会計歳入総額は2億6000万円)、外債7億円〕これにより、日本は満州の清国への返還、韓国に対する日本の指導・保護・監督権の承認、清国政府の承認を前提として、ロシアの遼東半島租借権と長春―旅順間の鉄道権益の日本への譲渡、樺太南部の割譲、沿海州における日本の漁業権の承認、1㎞に15名以内の日本の鉄道守備兵配置を承認させました。

 その後、日本は、第二次日韓協約(1905.11.17)により韓国の外交権の日本への委譲や統監の設置を認めさせ保護国化しました。また、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道南部支線(長春―旅順)の鉄道および付属する土地建物、港湾、炭坑、さらに「日清満州善後条約」により、清国に経営権を認めさせた安奉(安東―奉天)鉄道を基礎に、1906年、南満州鉄道を設立しました。これは鉄道だけでなく炭坑、製鉄所などの鉱工業、自動車、水運、港湾埠頭、電気、ガス、旅館など多角経営を行うもので、満鉄付属地(沿線用地及び停車場のある市街地)においては日本は行政権を有することとなりました。

 実は、この段階で、すでに、日露戦争後の満州における日本の地位をめぐって、陸軍と政府の間で意見の対立が生じていました。伊藤博文は、政府側を代表する立場で、「満州における日本の権利は、ポーツマス条約によってロシアから譲渡されたものだけである、満州は決してわが国の属地ではない、純然たる清国領土なのである」と主張しました。これに対して、児玉源太郎は、「国際法上は伊藤のいう通りだが、南満州を事実上は日本領にしておかなければロシア軍と戦えないとして、占領地に軍政署を置くなど「新領地」扱いし、さらに満州経営を統括する部門の新設などを提案しました。(『史伝伊藤博文』下p544)

 結局、この局面では、政府の方針に従って、関東総督の機関を平時組織に改め軍政署は順次廃止されることになりました。しかし、陸軍の行き過ぎに歯止めをかけることには成功したものの、軍の満州に対する野望をくじくことはできませんでした。そして、この児玉に代表される考え方が、後の関東軍幕僚たちに受け継がれ実行に移されることになるのです。ただ、この段階では、「陸軍第一の山県でさえも、最後には、ライバルであった伊藤の側に立ち、児玉や寺内をたしなめ」ました。「さすがに山県は日本の国力の限界を心得ており、児玉を野放しにして英米を敵に回すようなことになっては、日本が危ないことを見通していた」と三好徹氏はいっています。(『前掲書p547』)

 その後、1907年7月30日、第一回日露協約の付属の秘密協約により、日本とロシアは、鉄道と電信に関し、南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすることを相互承認しました。その後、1910年7月4日には、第一回日露協約を拡張し、鉄道と電信以外も全般的な利益範囲としました。さらに、1912年7月8日には、第三回日露協約を調印し、付属秘密協定において内蒙古部分について、北京の経度から東部分を日本の利益範囲としました。もちろんこうした合意は、中国側の了解をとってなされたわけではありませんでした。(『満州事変から日中戦争へ』p21)

 そして、1915年5月、いわゆる二十一箇条要求にもとづく「南満州及び東部内蒙古に関する条約」により、①旅順・大連の租借期限及び安奉鉄道に関する期限を99年に延長すこと、②南満州における工業上の建物の建設、又は農業経営に必要な土地を商祖すること、③南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他業務に従事すること、④東部内蒙古において支那国民と合弁により農業及び付帯工業の経営をすることを中国に認めさせました。その後この東部内蒙古は、32年の時点では熱河省と察哈爾省すべてを合した地域と日本側に認識されていました。(上掲書p27)

 1921年から22年に賭けて開催されたワシントン会議では、「中国に関する九カ国条約」により、以上説明したような日本に有利と見られる諸条件が消滅したかのように思われます。しかし、アメリカ全権・ルートの提出した四原則が「中国に関する大憲章」として採択され、そこには安寧条項と呼ばれた項目があり、「帝国の国防並びに経済的生存の安全」が満蒙特殊利益に大きく依存する、という日本のかねてからの主張に理解が示され、各国は中国の既得権益を原則的に維持することで合意していました。(上掲書p55)

 こうして、日本の満蒙特殊権益の擁護は、まず、幣原喜重郎の「条約に基礎をおくものであり確固としたものである」とする主張にそって進められることになります。しかし、第二次南京事件を経て「軟弱外交」との批判を受けるようになり、ついに1927年4月退陣に追い込まれました。しかし、次の田中首相による「積極外交」は、早速、第二次山東出兵で済南事件を引き起こし、国民政府の対日観は決定的に悪化しました。さらに「張作霖爆殺事件」は張学良に易幟を決意させ、満州を国民党の支配下におきました。その結果、唯一の残された満蒙権益擁護策が、陸軍が日露戦争以来宿願としてきた武力による「満蒙領有」だったのです。

 しかし、こうした軍事行動を伴う「満蒙領有」論は、1928年8月27日にパリで戦争放棄に関する「不戦条約」の調印によって、その「国防」のための軍事行動が「自衛権」に限られることになったため、日本の満蒙特殊権益擁護の措置がはたして「自衛権」で説明され得るかどうか問題となりました。検討の結果、その治安維持のための軍事行動は正当化されないと認識されました。にもかかわらずというべきか、それ故にというべきか、その後、こうした「満州領有」を正当化するための「満州生命線論」の一大キャンペーンが満州だけでなく内地においても繰り広げられることになるのです。

 前回にも紹介しましたが、当時の、国民一般や知識人の間における満蒙問題の認識は次のようなものでした。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びは寧ろ頑迷の徒の言の如くに蔑まれてさえいた、之は事実である。国民も亦至極呑気であった、・・・情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p76)

 そして、丁度この頃、張作霖爆殺事件が起きて4ヶ月後の1928年10月はじめ、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として旅順の軍司令部に着任しました。それは東三省側の排日体制の激化にともなって、「警備上応変の準備として対華作戦準備を必要とするようになった」と関東軍が考え始めた時期と一致していました。また、それは張作霖爆殺事件調査で峯憲兵隊長来満の直後でもあり、河本の取り調べが行われていましたが、河本はうそぶくように満蒙武力解決の必要を強調し、石原もこれを当然としていた、といわれます。(『太平洋戦争への道』2p362)

 こうして石原は、河本とともに作戦計画の検討を関東軍幕僚会議に提議しました。そこで採択された案は、「万一事端発生するとき」は、「奉天付近の軍隊を電撃的に撃滅し、政権を打倒」しようとするものでした。「この案は、防衛計画としての衣装をまといながら全面的武力衝突の可能性を増大させ」るものであり、具体的計画もこの原則にもとづいて研究されることになりました。また、「29年2月28日に満州青年連盟第一回支部長会議が開かれ、小日山理事長は、日本が満蒙から『旗をまいて引揚げる運命』におちいることは断じて許せぬ」と述べて、奇しくも石原構想を背後から支持することになりました。
(上掲書p363)

 「このような関東軍の満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州青年連盟は満州における在留邦人の世論を統一するため、また国内世論を喚起沸騰させるために独立した活動を行って」いました。彼らは幣原外相が、在満同胞の排外主義を批判し「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発しました。そして、「満蒙問題とその真相」と題するパンフレットを一万部印刷し、これを内地の政府当局、各代議士、各新聞、雑誌社、各県当局、青年団その他各種団体など、鮮満各方面にまで広く配布しました。(上掲書p387)

 その主張は、「満蒙はわが国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地としてわが国家の存立上極めて重要な地域である」という大前提のもとに、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」と説いていました。さらに、「全既得権益を一挙にして抛去らんとする険難」が迫ってきた今日「吾人は起って九千万同胞の猛省を促す」と主張しました。(同上)

 こうして、旅順、鞍山、奉天と全満州各地には武力解決のムードを作るための遊説隊が送られました。石原・板垣らの企図した在留邦人の世論統一を創出するための方策は、青年連盟による「満蒙領有」運動として自然とおし進められました。満州青年連盟はさらに大連新聞社の協力で、1931年6月中「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民を鞭撻し国論を喚起する目的で、遊説隊を内地に送ることにしました。内地では政府・軍首脳、政治家らと会見し、財界や新聞社を訪問し「幣原氏の軟弱外交」を非難する一方、「満蒙解放論」は当然であると論じました。

 こうした青年連盟の圧力運動は、「満蒙放棄論」をとなえていた関西財界の空気に大きく影響したばかりでなく、東京においては七十一団体を強硬論へと結束させたとさえいわれました。貴族院の研究会、公正会はもとより枢密院の福田雅太郎、伊藤巳代治などを含む黒幕の権力者もその強硬論のあおりを受け、8月5日には上野、日比谷の二カ所で国民大会が開催されて全国的運動への糸口が今やきり開かれました。このような満州現地からの本国への圧力とならんで、関東軍の板垣も帰京して軍中央と連絡を取っていました。(上掲書397)

 そこで示された「情勢判断に関する意見」は、米ソとの開戦を覚悟しても満蒙を領土化せよと主張するもので、その根拠は、今日の恐慌による未曾有の経済不況は、アメリカ製の資本主義や民主主義がもたらしたものであり、そこにソ連製の共産主義が進入しようとしているから、「日本が経済及び社会組織を改めて社会改造を行う必要がある」と主張するものでした。さらに謀略計画に関する意見では、日本の満蒙獲得が日米、日ソ戦争を誘発する公算があるから、「支那中央政府を転覆せしめて親日政府を樹立する」謀略が推奨されていました。(上掲書399)

 こうした動きの中で、民政党は6月30日、幣原外交擁護の声明書を発しました。それは「政友会の田中内閣の外交が『支那のみならず南洋方面の排日をも引きおこして、対支対南洋貿易を危機に陥れたことを立証し』、外交知識の欠乏せる田中大将が、『我が国の対支外交をほとんど救う能わざる窮地に陥れた』と非難したうえ、民政党内閣の成立とともに、『(一)日貨排斥が沈静に帰し、(二)日支関税協定が成立し、(三)政友会内閣のとき行きづまった満蒙鉄道協定の交渉が開始され、(四)間島の共匪事件が解決して同地における共産党の細胞組織が完全に破壊され、(五)治外法権問題を中心とする日支通商条約の改定商議が開始されんとしている』ことなどをあげて、国民に対して幣原外交に対する支持を呼びかけました。(上掲書p394)

 だが、こうした幣原の努力も、1931年9月18日の「柳条溝事件」いわゆる満州事変の勃発によって、完全に息の根を止められてしまいました。そして国民の間には、数年前までは「満蒙放棄論」さえ唱えられていたものが、この関東軍による謀略戦争、彼ら自身には米ソとの開戦さえ必然と見なされたこの満州の武力占領策を、熱狂的に支持する空気が生まれるのです。もちろん、こうした世論の急展開の背後には石原莞爾という一種の偽メシア(予言者)がいました。その終末論は、ハルマゲドンを思わせる最終戦争論、最後の審判後の千年王国のような満蒙王道楽土論をともなっていました。

 では、そうした彼らの一種の宗教的信念に基づく、満蒙を日本の国家改造の前線基地とする彼らの国家改造論を根底においてささえていたものは一体何だったのでしょうか。あるいは、それは前回紹介したような大正デモクラシー時代の政党政治に対するルサンチマンだったのかもしれません。そうしたエリート将校の「恨み」と「傲り高ぶり」、「国際法無視」の精神が、日清・日露戦争以来ほとんど無意識のレベルにまで達した日本国民の、中国人に対する蔑視感や日本人の優越感を励起させた、それが、この間の世論の急激な変化をもたらしたように思われます。

 では、次に、こうしたルサンチマンに基づく国家改造運動を扇動した、偽メシア石原莞爾の戦争責任について論じたいと思います。彼の戦争責任を故意に看過し、天才的思想家とあがめる論調が余りに多いように思われますので・・・。

2008年9月19日 (金)

満州問題(9)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(2)

 もう少し、渡部昇一氏の説に関わって、私の考え方を述べておきます。渡部昇一氏は「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない、と述べています。

 これは、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が、戦前期の日本の指導者28名をA級戦犯とし起訴し「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に問おうとしたとき、起訴状では、その訴追対象期間を1928(s3)年から1945(s20)年までとしたことに関わっています。つまり、この間に、日本の「犯罪的軍閥」がアジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したと立証することによって、その犯罪成立を容易にしようとしたのです。

 ここから、昭和十五年戦争という言い方も生まれてくるわけですが、実は、本稿の「山本七平と岡崎久彦の不思議な符合2」で,「塘沽(タンク-)停戦協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた]という事実をあえて紹介したように、満州事変から太平洋戦争までの間に、「犯罪的軍閥」による一貫したアジア・世界支配の「共同謀議」があったとはとてもいえないのです。

 それが、渡部氏のいわれる「日本には日本の歴史があったのであり」ということの意味だと思います。実際、よく調べてみると、そのような事実はなくて、まあ、はっきりいって”行き当たりばったり”です。特に中国との戦争では、国民には戦争をしているという意識すら曖昧で、暴支膺懲という言葉が使われたように、中国が満州における日本の当然の権益を無視して「反日・侮日」を繰り返すから、満州事変が起こり日華事変の泥沼に陥ったのだといった気持ちで、むしろ被害者意識の方が強かったのです。

 竹内好は、「近代の超克」の中で、そうした当時の国民の心理状況を次のように説明しています。
 「『支那事変』」と呼ばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人を含めて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論(満州を日本の安全面及び経済面における生命線と見る見方=筆者)の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。」(『日本とアジア』p189)

 さらに、亀井勝一郎は次のように述懐しています。
 「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘わらず、『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない。たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大勝の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」(同上p190)

 これに比べて、アメリカに対しては、はっきりとした戦争意識を持っていました。それは、日本が先に述べたような泥沼に陥ったところに、アメリカが介入して一方的に中国の味方をし軍需物資を中国に送り込んだ。日本がその援蔣ルートを遮断しようとすると、今度は、日本の資産凍結や石油をはじめとする天然資源の対日禁輸を始めた。日本は、なんとか対米戦争を避けようと努力したが、アメリカはさらに、それまでの交渉経過を一切無視して中国からの完全撤兵を日本に要求した。このため日本はやむなく対米戦争を決意した、といった意識です。

 そうした意識は、次のような、開戦二日目の河上徹太郎の言葉に典型的に表れています。 「私は、徒に昂奮して、こんなことを言っているのではない。私は本当に心からカラッとした気分でいられるのがうれしくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い立腐れのあった言葉である。今開戦になってそれが霽(は)れたといっては少し当たらないかも知れないが、本当の気持ちは、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『文学界』1942.1月号)

 これが、満州事変以降日中戦争そして対米英戦争に至るまでの日本国民のいつわらざる正直な気持ちでした。一言で言えば、中国と戦争をしているという意識はあまりなくて、一方、アメリカとは民族の存亡を賭けて戦ったという気持ちです。そして、敗戦後の東京裁判において、日中戦争において中国人が被った甚大な被害を知らされた時、日本人は、亀井勝一郎の述懐にあるような「中国無視」の態度やその裏返しとしての日本人の「優越感」の存在にはじめて気づいたのです。

 つまり、この事実をしっかりと認識することが、戦後の出発点でなければならないと思います。確かに昭和の戦争については、特に、陸軍幼年学校、海軍士官学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などを卒業したエリート軍人たちによる、謀略・侵略的かつ独断・独善的的な国際法無視の軍事行動や、統帥権や軍部大臣現役武官制を悪用した国内政治の壟断などがありました。しかし、これをマスコミを含めた国民の圧倒的多数が支持したこともまた事実です。

 そして、このような軍の行動と、国民の意識が分厚く重なり始める時期が、張作霖爆殺事件以降満州事変までの時期に当たるのです。それ以前は、当時満鉄副総裁をつとめていた松岡洋右の回顧録にあるように「当時、朝野の多くの識者の間において」満蒙の重大性に関する叫びが「頑迷固陋の徒の如くにさげすまれてさえ」いたのです。また、一部の左翼や自由主義者の間には満蒙放棄論さえ台頭しつつありました。(『太平洋戦争への道1p359』)

 一方、軍人の間では、「満蒙は『明治大帝のもとに戦い血を流し十万の同胞をこれがために犠牲にした』聖地であると考えられていました。「彼らは、・・・満蒙放棄論が台頭していることを痛切になげき、在満青少年に呼びかけて満州に世論機関の創設を図ろうと試みた。『為政者のなすに任せたる満蒙』から『全国民の血によって購いたる満蒙』に転化するために満州青年議会の創設がはかられ・・・『若人の純真なる熱意と愛国心を持って』満蒙を死守する必要を説いた。」(上掲書p360)

 こうして、関東軍と満州居留民指導者が一体となり、本土における満州「生命線」論の宣伝活動を精力的に展開していくのです。

 また、この満州「生命線」論は、当時の青年将校達にとっては、もう一つの重要な意味を持っていました。それは、大正時代の軍縮ムードの中において、軍人はまるで無用の長物、税金泥棒扱いされていた事実に起因します。当時、軍人に対する世間の目は冷たく、新聞の投書欄には「軍人がサーベルをガチャ、ガチャさせて電車やバスに乗るのはやめてほしい」という女学生の投書が載るしまつでした。さらに、軍縮による兵員の削減は大量の失業者を生み、その救済策の一つが、妹尾河童の『少年H』の中等学校に配属された将校なのです。

 「この風潮が軍隊、軍人にはどう受け止められたか、それが”十年の臥薪嘗胆”である。世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんのときである。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。その結果でてきたものは、『一夕会と桜会』」(『昭和の軍閥』p98)であり、この青年将校グループの中の一人が、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作でした。

 この張作霖爆殺事件の真相については、「張作霖事件に胚胎した敗戦の予兆」でくわしく述べましたが、当事者の証言として極めて興味深い証言がありましたので紹介しておきます。これは、張の軍事顧問であった町野武馬大佐の証言を1961年に国立国会図書館が採録したものです。この録音は「三十年間は非公開」の条件付きで実施したもので、平成三年六月一日に、やっと公表さました。

 「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので、殺したという関東軍首脳の説はウソだ。張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは日本だけだ。だから日本と手を握らにゃならないのだとよくいっていた。関東軍の首脳は、張を殺さないと満州は天下太平になり、日本では軍縮が激しくなる。軍人が階級をのぼりぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。そして張作霖を殺した。それは斉藤恒(注:関東軍参謀長)の案なんだ。」(『日本はなぜ戦争を始めたか』p51)

 私はこの説は、この本ではじめて知りましたが、実のところ、「河本大作は、なぜ張作霖を殺す必要があったか」という疑問について、「日本の言うことを聞かなくなったから」という説明は十分ではないと、福田和也氏なども疑問を呈していました。それだけに、「張を殺さないと満州は天下太平になり・・・」というのは、まさに驚くべき重要な証言です。確かに、この時期の青年将校達が抱えていた、大正デモクラシーに対するルサンチマンの激しさを考えれば、私はさもありなんと思いますが、それにしても・・・。

 また、このことについては、幣原喜重郎も「満州事変」の原因について、それは「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と次のように述べています。

 「・・・陸軍は、二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大ていが大佐が止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは、情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢がいっぺんに落ちてしまった。

 軍人たちがこれを慨嘆して、明治以来打ち建てられた軍の名誉―威勢を、もう一度取り返そうと苦慮したであろうとは首肯けるが、血気の青年将校のたちの間では、憤慨が過激となり、『桜会』という秘密結社を組織したり、政党も叩き潰して、新秩序を立てよう。議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどという、とんでもない計画を立てるようになった。・・・これがすなわち柳条溝事件のはじまりで、満州事変の発芽である。」(『幣原喜重郎―外交五十年』p192)*岡崎久彦氏はこの説には疑問を呈していますが・・・。

 もっとも、こうした軍人の主観的心理的動機の他に、国内外における経済的・政治的な客観的要因が重なったことも事実です。しかし、私には、これが、日清・日露戦争で軍功を上げ個人感状や金鵄勲章を受け元勲となった将官たちと、そうした実戦参加の機会を得なかった第15期以降の幼年学校から士官学校そして陸軍大学を卒業したエリート軍人たちとの意識のズレを最もよく説明しているように思われます。(山本七平もこのことについて、青年将校の決起の動機とされる「農村の貧困」について、「貧困は彼ら自身にあった」といっています。)

 なぜ、彼らはあれほどまで必死になって河本大作を守ろうとしたのか。彼らの自己及び自国の実力に対する異常なまでの過信、中国人に対するはなはだしい蔑視と優越感、既成エスタブリッシュメント(元老、政治家、財界人等)に対するはげしい敵対意識、マスコミや国民に対する不信とその隠蔽工作、これらの肥大化した自尊心と被害者意識の根底には何があったか。そして、こうした心的傾向は、張作霖爆殺事件において予兆的に露呈していたと私は考えるのです。

 さて、それでは、一般国民=大正デモクラシーの軍縮時代に軍人に冷たい視線を浴びせていた人びとは、一体、いかなる事情で、以上のような怪しげな軍人たちの主張に耳を傾け、さらに、これに熱狂的に支持するようになるのでしょうか。これが次に解明さるべき問題です。いずれにしてもできるだけ正確に事実関係を把握することが、問題解決の第一歩だと思います。意外と、それを解く鍵は、身近なところにころがっているのかもしれません。くどいと感じられる方もおられると思いますが・・・。

2008年9月13日 (土)

満州問題(8)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか。

 張作霖爆殺事件の「もみ消し」によって、軍部が真に守ろうとしたもの、それは一体何だったのでしょうか。もちろん、日清戦争以来、日本が膨大な犠牲を払って獲得した満州における「特殊権益」の擁護が目的であったことは間違いないのですが、問題はそれを達成する方法・手段です。張作霖爆殺事件の場合は、関東軍の高級参謀が、謀略により政府が承認した満州国の元首を爆殺し、その混乱を利用して軍事行動を起こし満州を武力制圧しようとしたのでした。

 従って、もし、この重大事件の真相が明らかにされ、その責任者が厳罰に処せられるということになると、当然のことながら、軍中央の命令なしに、独自の政治的主張をもって、勝手に兵を動かした関東軍の下剋上体質が問われることになります。それと同時に、相手国の元首をも平気で爆殺する、その恐るべき危険性も国民の目に明らかとなり、その結果、そうした関東軍の暴走を食い止めるための方策や、徹底した軍紀の引き締めが図られることになります。

 実は、軍部―特に陸大出の若手将校たちが最も恐れたことは、このように事態が進行することによって、軍に対する国民の信頼が失われ、その結果、彼らが「満蒙問題の根本解決」のための唯一の方策と考える「満州の武力占領」という強硬手段がとれなくなってしまうことでした。そのために彼らは組織を上げて、軍首脳はもちろん、政治家、官僚、マスコミに対する説得工作を行い、多数派を形成して田中首相を孤立に追い込み、事件の真相を闇に葬ったのです。

 だが、問題はここからです。確かにこのあたりまでは、軍の行動は必ずしも国民の支持を得ていたわけではありませんでした。というのは、田中内閣による第二次山東出兵が引き起こした済南事件は、中国人の反日民族意識を決定的にし、さらに張作霖爆殺事件は、その後継者である張学良(張作霖の息子)を反日に追いやり、東三省の国民政府への合流を決断させたのです。そして、これらはいずれも軍事力行使を伴う軍の対中強硬策がもたらしたものでした。

 ところが、この張作霖爆殺事件の三年後に起こった「満州事変」では、それが軍中央の命令を無視した、関東軍ぐるみの謀略的軍事行動であったにもかかわらず(もちろんその真相は国民には隠されていましたが)、マスコミを含めた国民の熱狂的な支持を受けることになりました。政府は謀略の証拠を列挙し、南陸相に対して不拡大を命じましたが、関東軍は、軍中央の黙認?や朝鮮軍の支援を得て戦線を拡大し、ついには政府も既成事実の追認を余儀なくされました。

 この間わずか三年あまり、国民の意識は、張作霖爆殺事件の真相「もみ消し」以降、ほとんどクーデターに等しい関東軍による「満州の武力占領」を熱狂的に支持するまでに劇的な変化を遂げました。一体、この間に何があったか。いうまでもなくこの満州事変こそ、日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、そして絶望的な対米英戦争へと突入していく、その起因となる大事件だったのです。しかし、この時、そのことに気づいた国民はほとんどいませんでした。

 ところで、こうした満州事変の位置づけ方に反対する意見もありますので、まず、これに対する私見を申し述べてから先に進みたいと思います。以下は、渡部昇一氏の見解ですが、氏は関連する文献の紹介やユニークな著作を数多くものしており、私自身も氏から多くのことを教わっていますが、いくつかの点で、私見とは異なる部分もありますので、それを確認しておきたいと思います。

 満州某重大事件は日本の侵略のはじまりか(以下『昭和史』渡部昇一による)

 「張作霖爆殺事件も・・・関東軍の陰謀のにおいがしても、(満州の匪賊による)連続する鉄道爆破事件の「ワン・オブ・ゼム」ととらえられるところもあった」だからそれほど大きな国際問題とはならなかった。しかし、その後この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになった。つまり「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない。

 「日本は満州を侵略した」といういうが、まず、「満州における日本の『特殊権益』とは何か」を理解する必要がある。日本が満州に特殊権益を持つようになったのは、日清戦争(1894年)に日本が勝利し、下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことにはじまる。
ところがその条約締結後一週間もたたないうちにロシア、フランス、ドイツの三国がわが国に「遼東半島を放棄せよ」と迫り、日本はやむなく遼東半島を清国に還付した。

 ところがロシアは日本に返還させた遼東半島の要衝の旅順と大連を、清国の弱みにつけ込んで租借した(1998年)。それは不凍港がほしいというロシアの悲願によるものだった。さらにロシアは1899年に義和団事件の時に日本を含む諸外国と華北に共同出兵し、それが満州に及ぶと、兵を増派して全満州を占領した。そのとき清国はロシアを満州から追おうとしなかった。この満州に居座ったロシアを追い払ったのは日露戦争に勝利した日本だった。こうして日露戦争に勝利した日本は、満州を清国に返還させた上で、ポーツマス条約により次のような満州における権益をロシアより譲渡された。

①ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡すること。
②ロシアは東支鉄道の南満州鉄道(長春~旅順間。のちの満鉄線)と、それに付属する炭坑を日本に譲渡すること。
③ロシアは北緯五十度以南の樺太を日本に譲渡すること。

 つまり、こうした経緯を見てもわかるとおり、日本は満州を侵略したわけではない。これらは国際条約にのっとって正当に得た権益である。さらに、日露戦争後、清国はロシアとの間に「露清密約」という日本を敵視する条約を結んでいたことが露見した。もし、この事実が日露戦争以前に日本にわかっていたら、日本は満州を清国に返還する必要はなかった。

 次に、「満州はシナではない」ということを理解する必要がある。十六世紀後半の満州の族長はヌルハチで、当時シナ大陸を支配していたのは明で、その支配権は満州には及んでいなかった。明にとって万里の長城の外側にある満州は文明の及ばない「化外の地」だった。その後ヌルハチは東満州を統一して「後金」という国を建てた。そのヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金を「大清国」と改めた(1636年)。この間明との攻防が続き、その後継者フリンのとき、ついに明を倒し北京入城を果たした(1644年)。ここにシナ人は満州人の被征服民族となった。

 こうした歴史を見る限り、満州という土地は清朝の故郷であってシナではない。しかも秦の始皇帝以前も以降も、シナの歴代王朝が満州を実効的に支配した事実はない。つまり、「満州族の清朝がシナを支配しているあいだは、シナ本土も満州も清国の領土であるが、そうでなくなれば満州とシナ本土は別個のものだ」「したがって辛亥革命によって清国が倒されたとき、あのときに最後の皇帝・溥儀が父祖の地・満州に帰っていたら、満州はシナとは『別個の国』として存続していただろう」。

 そして渡部氏は結論として、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文章を引用しつつ、次のように主張します。「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度も戦争をして獲得した権益をシナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信するものは大勢いた。(『紫禁城の黄昏』第16章)
つまり、先に述べたような日本が日清・日露の二度の戦争で得た満州における合法的権益を侵したのはシナの方であり、それ故に、張作霖爆殺事件や満州事変の起こる必然性はあった、というのです。

 このほかに「なぜ張作霖は狙われたか」や、張作霖死後にその後継者となった張学良が易幟を行い東三省(満州)の国民党への合流を決断し猛烈な反日運動を展開したことが満州事変を引き起こす直接のきっかけとなったこととか、幣原外相が軍部と協力して満州独立の方向で外交的な働きをすればよかったとか、最後に昭和天皇が張作霖爆殺事件の時、田中内閣に総辞職を迫る発言をしたことについて、重臣がそうした天皇の発言を抑えすぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられた、とかが論じられています。

 さて、こうした意見に対する私の考えですが、まず、満州における日本の「特殊権益」についての歴史的理解はその通りだと思います。ただ問題は、それを守るためにどういう手段・方法を選ぶべきであったかということで、軍事占領がただちに正当化されるわけではないと思います。また、満州はシナの領土ではなかったということは歴史的にはいえると思いますが、満州固有の問題をシナの問題に拡大したのは二十一箇条要求や華北分離工作に見るとおりむしろ日本だったと思います。また、張学良の易幟は自分の父親が日本軍に故なく爆殺されたからであって当然だと思います。(下線部修正10/14)

 なお、冒頭の満州事変及び張作霖爆殺事件を昭和史にどう位置づけるかということですが、私はいわゆる「東京裁判史観」などにとらわれることなく、それを日本の歴史の流れの中に、自分の常識で理解できる姿で位置づけるべく、さらにそれを山本七平氏の独創的見解とも対比しつつ、一つ一つ考えていきたいと思っています。

 以上、渡部昇一氏の見解に対する私見を申し述べさせていただいた上で、先に問題提起しておきました、済南事件や張作霖爆殺事件以降満州事変に至るまでの間の急激な世論の変化がどうして起こったか、ということについて考えてみたいと思います。(下線部挿入10/14)

2008年9月 5日 (金)

満州問題(7)―張作霖爆殺事件と昭和天皇

 前回、張作霖爆殺事件(昭和3年6月4日)をめぐるいくつかの問題点を指摘しました。だが、そのほかに、もう一つの重大な問題が惹起していたことを指摘しなければなりません。それは、この事件の処理の過程で、天皇及びそれを輔弼する元老・重臣たちと、政府あるいは軍との権限関係のあり方をめぐって、双方に根本的な意見の対立が生じていたということです。(実は、この問題は、今日においても、特に天皇の戦争責任との関連で問われている問題であり、日本人の被統治意識の根幹に関わる問題です。)

 この事件の処理について、田中首相は昭和天皇に、その実行犯及び責任者の厳罰を約束しました。(昭和3年11月24日)しかし、こうした田中の方針に対する陸軍の抵抗は強まる一方でした。天皇は、翌年1月に白川陸相に対して「まだか」と催促し、白川陸相は2月26日の拝謁で、調査が遷延している理由として、「関係者は尋問に対して興奮し、国家のためと信じて実行したる事柄につき取り調べを受ける理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り・・・」と苦し紛れのいいわけをしました。(『昭和史の謎を追う』上p36)

 一方、閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説きまわり、「閣僚全員首相に反対」(『小川秘録』)に持ち込みました。孤立した田中にとって最大の痛手は、古巣の陸軍がこぞって反対論にまとまり、特に、当初は田中支持に見えた白川陸相(処罰の法的権限を持つ)が、部下に突き上げられ、小川にけしかけられて変心したことでした。昭和4年3月末、陸軍が真相は不公表、河本らは行政処分という結論を出すと、田中は外務省で唯一の支持者だった有田アジア局長に閣議での反論を起案させましたが、そのとき「白川がなあ・・・」とため息を漏らしたといいます。(同上)

 また白川陸相は、3月27日、天皇に対して次の様な中間的な結論を報告しました。それは、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定しましたが、処罰については「処分を致度存ずるも、今後この事件の扱い上、其内容を外部に暴露することになれば、国家の不利に影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、この不利を惹起せぬ様深く考慮し十分綱紀を糺すことに取計度存ず(後略)」という回りくどい言い方で、真相不公表、行政処分で済ますことを説明しました。(上掲書p37)

 こうして田中は、軍法会議での処分をあきらめ、「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸相報告(5月20日)を呑みました。その後、田中は、それを天皇に対してどう申し開きをするか、悩んだあげく、6月27日午後参内して天皇に拝謁し上奏案を読み上げました。これに対し天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか、言い訳は聞きたくない、辞表を出したらどうか」といい、その怒りは激しく、田中は慌てふためいて退出し、鈴木侍従長に「辞職する」と何度も口走ったといいます。(上掲書p38)

 しかし、田中は、翌朝閣議に出て叱られた様子を報告したのち気を取り直し、再び、同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ参内させました。すると意外にもすんなりご裁可があり、続いて鈴木侍従長より首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜び、田中はいそいそと参内しました。しかし、鈴木侍従長より、前日の上奏を責める天皇の意向がもう一度伝えられ、田中は拝謁を、と食い下がりましたが、鈴木から「ご説明に関し召されずとの思召なり」と聞き、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職を告げました。(上掲書p40)

 田中内閣は7月2日総辞職しました。そして、その四ヶ月後の9月29日、田中は狭心症のため亡くなりました。一説では、遺骸の首に包帯が巻かれていたことから軍刀で喉を突いて自殺したのではないかともいわれています。

 以上が、田中首相の、張作霖爆殺事件の処理についての上奏の経過ですが、ここに、二つの問題が生じることになりました。一つは、こうした天皇による、時の宰相を罷免する様な言動がはたして妥当なのかどうか、ということ、もう一つは、6月28日午後の白川陸相による天皇に対する説明にはすんなりと裁可をしておきながら、なぜ、午前の田中首相による同じ内容の上奏に対しては、あれほど激しい怒りを表したのか、ということです。

 前者の問題については、これが天皇を輔弼する宮中方面の元老重臣による政治介入であるとして軍部を強く刺激しました。もとより、軍部は田中を見放してはいましたが、張作霖事件に際して軍紀の粛正を迫った宮中に対して、激しい反感を持つようになりました。このことが、後年の五・一五事件や二・二六事件において、いわゆる「君側の奸」とされた元老・重臣(西園寺や牧野内大臣、鈴木侍従長など)が、繰り返し軍部によるテロの標的となった、その遠因とされています。(『日本史発掘2』p190)

 また、天皇に対しても、その処置が気に入らないと、「若さゆえの思慮不足」にこじつけて恨み言を言い立てる政治家や軍人も少なくありませんでした。それは「輔弼の責任者として、君主に過ちある時は其過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたといふべからず。特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互いに兼ねて熱心努力せし所にあらずや。・・・昨日の陛下の聖旨中(首相の)説明を聞くに用なしとあるは・・・決して名君の言動にあらず。或は何者か君徳を蔽ふの行動に出でたるものあるやもはかられず・・・。」といったものでした。(『小川秘録』)

 また、昭和天皇自身も、戦後、このことについて、「私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった。・・・私の若気の至りであると今は考えているが・・・」(『昭和天皇独白録』)と反省の弁を述べています。これをもって昭和天皇は自分の思慮不足を認めたとする解釈が一般的になっていますが、秦郁彦氏は、そう解釈せず「昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動した」のではないかと次のように説明しています。

 昭和8年6月、鈴木が時の本庄侍従武官長に語ったところでは、天皇は、田中が自己の責任で処置を公表したのち「政治上余儀なく発表しました。前後異なりたる上奏をなし申し訳なし。故に辞職を請ふ」と申し出たなら、「政治家として止むをえざることならん」と理解もするが、「まづ発表そのものの裁可を乞い、これを許可することとなれば、予は臣民に詐りをいわざるを得ざること」(『本庄日記』)になるではないか、と鈴木侍従長に述べた、というのです。(『昭和史の謎を追う(上)』p42)

 そして、そのように理解するなら、これは第二の問題に対する答えにもなります。秦氏は、「田中がこの通りの手順を踏んでいたら、天皇は今後を戒めて辞職を慰留するつもりだったのかも知れない」といっています。それが、自分の意にそわぬ結論であっても白川陸相の上奏には裁可を与え、「真相不公表」「行政処分」の線で事件の後始末に一応のケリをつけた理由であり、昭和天皇はそうすることによって陸軍との正面衝突を回避した、と推測しているのです。(同上)

 しかしながら、天皇の意向によって内閣が倒れ、政変が起きたことには変わりがありません。このことについて元老である西園寺は、当初、軍紀粛正の正論を主張しましたが、直前になって、天皇の不信任という理由で内閣が総辞職するとなると天皇が政治責任をかぶることになるのでよくないと、天皇が「田中の責任を問う」発言をすることに反対しました。(『上掲書』p41)それは君臨すれども統治せずという、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動だからです。そして、天皇の、このことに対する反省が、その後、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めることになってしまった(『幣原喜重郎とその時代』p310)と多くの論者が語っています。

 だが、前回指摘したように、こうした張作霖爆殺事件の誤った処置は、次のような「恐るべき」事件を次々と引き起こし、その後の日本の政党政治の基礎を掘り崩すことになりました。1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、1931年3月の3月事件(陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)、1931年9月18日の満州事変、1031年10月の十月事件(3月事件と同様)、1932年5月15日の五・一五事件(海軍青年将校によるクーデター事件)そして1936年2月26日の二・二六事件などです。

 つまり、これらの軍若手将校による恐るべき謀略・クーデター事件を惹起することとなったその初発の事件が、この張作霖爆殺事件であったのですから、もしこの事件が国内法に照らして厳正に処置されていたなら、前回指摘したような問題点の自覚がなされ、その解決への努力がなされていたかもしれません。そうすれば、あるいは昭和の悲劇は回避することができたかもしれないのです。

 この点に関して、『張作霖爆殺』の著者大江志乃夫氏は、関東軍を管轄するのは参謀総長であり、その参謀長に命令または指示ができるのは天皇だけであるから、天皇はまず参謀総長に事件の真相解明の調査を命じるべきであった。それなしに陸相は司法捜査権を発動できないし、ましてや首相は事件の処分について関与できない。従って、昭和天皇がそれをしないで田中首相を叱責したのは筋違いであり、統帥権者としての自覚に欠ける行為であった。また、張作霖爆殺事件の処理に当たってその統帥権の手綱をゆるめたことが、その後の軍部という暴れ馬の暴走を許すことになった、と昭和天皇を厳しく批判しています。(『張作霖爆殺』p185)

 しかし、法理的にはそういうことがいえるのかも知れませんが、昭和天皇は、立憲君主制下における「君臨すれども統治せず」という英国憲政を手本としていたのであり、また元老重臣もそのような考えに立って天皇を補弼していたのです。従って、当然のことながら、統帥権の行使についても統帥部(参謀本部及び軍令部)による補翼(補弼を訂正11/13)に期待したと思います。その統帥部も、もし天皇が自らの意にそわない場合、補翼責任者として「その過ちを正す」ことを当然としており、事実、同様の論理に基づいて、天皇を補弼する元老・重臣が次々と軍人によるテロの標的にされたのです。

 いうまでもなく、こうした軍人の行動は、はじめから当時の国内法や国際法を無視しているのであって、こうしたアウトローを信条とする武力集団を法律で規制することは、たとえ天皇であってもそれが可能であったとは思われません。「たとえ、この時期に有能な首相が出ても、満州侵略に逸る軍部は、その政治力を持ってしても抑えることはできなかったであろう。時代は個人の政治力を超えて、日本の破局の序幕を開けはじめていた。」(上掲書p200)というのが、この時代の実相だったのではないでしょうか。

 では、その若手将校たちに、そうした合理性を超えた、破壊的行動エネルギーを供給していたものは、一体何だったのでしょうか。次回からは、このことについて考えてみたいと思います。

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