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2008年9月19日 (金)

満州問題(9)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(2)

 もう少し、渡部昇一氏の説に関わって、私の考え方を述べておきます。渡部昇一氏は「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない、と述べています。

 これは、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が、戦前期の日本の指導者28名をA級戦犯とし起訴し「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に問おうとしたとき、起訴状では、その訴追対象期間を1928(s3)年から1945(s20)年までとしたことに関わっています。つまり、この間に、日本の「犯罪的軍閥」がアジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したと立証することによって、その犯罪成立を容易にしようとしたのです。

 ここから、昭和十五年戦争という言い方も生まれてくるわけですが、実は、本稿の「山本七平と岡崎久彦の不思議な符合2」で,「塘沽(タンク-)停戦協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた]という事実をあえて紹介したように、満州事変から太平洋戦争までの間に、「犯罪的軍閥」による一貫したアジア・世界支配の「共同謀議」があったとはとてもいえないのです。

 それが、渡部氏のいわれる「日本には日本の歴史があったのであり」ということの意味だと思います。実際、よく調べてみると、そのような事実はなくて、まあ、はっきりいって”行き当たりばったり”です。特に中国との戦争では、国民には戦争をしているという意識すら曖昧で、暴支膺懲という言葉が使われたように、中国が満州における日本の当然の権益を無視して「反日・侮日」を繰り返すから、満州事変が起こり日華事変の泥沼に陥ったのだといった気持ちで、むしろ被害者意識の方が強かったのです。

 竹内好は、「近代の超克」の中で、そうした当時の国民の心理状況を次のように説明しています。
 「『支那事変』」と呼ばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人を含めて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論(満州を日本の安全面及び経済面における生命線と見る見方=筆者)の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。」(『日本とアジア』p189)

 さらに、亀井勝一郎は次のように述懐しています。
 「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘わらず、『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない。たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大勝の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」(同上p190)

 これに比べて、アメリカに対しては、はっきりとした戦争意識を持っていました。それは、日本が先に述べたような泥沼に陥ったところに、アメリカが介入して一方的に中国の味方をし軍需物資を中国に送り込んだ。日本がその援蔣ルートを遮断しようとすると、今度は、日本の資産凍結や石油をはじめとする天然資源の対日禁輸を始めた。日本は、なんとか対米戦争を避けようと努力したが、アメリカはさらに、それまでの交渉経過を一切無視して中国からの完全撤兵を日本に要求した。このため日本はやむなく対米戦争を決意した、といった意識です。

 そうした意識は、次のような、開戦二日目の河上徹太郎の言葉に典型的に表れています。 「私は、徒に昂奮して、こんなことを言っているのではない。私は本当に心からカラッとした気分でいられるのがうれしくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い立腐れのあった言葉である。今開戦になってそれが霽(は)れたといっては少し当たらないかも知れないが、本当の気持ちは、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『文学界』1942.1月号)

 これが、満州事変以降日中戦争そして対米英戦争に至るまでの日本国民のいつわらざる正直な気持ちでした。一言で言えば、中国と戦争をしているという意識はあまりなくて、一方、アメリカとは民族の存亡を賭けて戦ったという気持ちです。そして、敗戦後の東京裁判において、日中戦争において中国人が被った甚大な被害を知らされた時、日本人は、亀井勝一郎の述懐にあるような「中国無視」の態度やその裏返しとしての日本人の「優越感」の存在にはじめて気づいたのです。

 つまり、この事実をしっかりと認識することが、戦後の出発点でなければならないと思います。確かに昭和の戦争については、特に、陸軍幼年学校、海軍士官学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などを卒業したエリート軍人たちによる、謀略・侵略的かつ独断・独善的的な国際法無視の軍事行動や、統帥権や軍部大臣現役武官制を悪用した国内政治の壟断などがありました。しかし、これをマスコミを含めた国民の圧倒的多数が支持したこともまた事実です。

 そして、このような軍の行動と、国民の意識が分厚く重なり始める時期が、張作霖爆殺事件以降満州事変までの時期に当たるのです。それ以前は、当時満鉄副総裁をつとめていた松岡洋右の回顧録にあるように「当時、朝野の多くの識者の間において」満蒙の重大性に関する叫びが「頑迷固陋の徒の如くにさげすまれてさえ」いたのです。また、一部の左翼や自由主義者の間には満蒙放棄論さえ台頭しつつありました。(『太平洋戦争への道1p359』)

 一方、軍人の間では、「満蒙は『明治大帝のもとに戦い血を流し十万の同胞をこれがために犠牲にした』聖地であると考えられていました。「彼らは、・・・満蒙放棄論が台頭していることを痛切になげき、在満青少年に呼びかけて満州に世論機関の創設を図ろうと試みた。『為政者のなすに任せたる満蒙』から『全国民の血によって購いたる満蒙』に転化するために満州青年議会の創設がはかられ・・・『若人の純真なる熱意と愛国心を持って』満蒙を死守する必要を説いた。」(上掲書p360)

 こうして、関東軍と満州居留民指導者が一体となり、本土における満州「生命線」論の宣伝活動を精力的に展開していくのです。

 また、この満州「生命線」論は、当時の青年将校達にとっては、もう一つの重要な意味を持っていました。それは、大正時代の軍縮ムードの中において、軍人はまるで無用の長物、税金泥棒扱いされていた事実に起因します。当時、軍人に対する世間の目は冷たく、新聞の投書欄には「軍人がサーベルをガチャ、ガチャさせて電車やバスに乗るのはやめてほしい」という女学生の投書が載るしまつでした。さらに、軍縮による兵員の削減は大量の失業者を生み、その救済策の一つが、妹尾河童の『少年H』の中等学校に配属された将校なのです。

 「この風潮が軍隊、軍人にはどう受け止められたか、それが”十年の臥薪嘗胆”である。世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんのときである。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。その結果でてきたものは、『一夕会と桜会』」(『昭和の軍閥』p98)であり、この青年将校グループの中の一人が、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作でした。

 この張作霖爆殺事件の真相については、「張作霖事件に胚胎した敗戦の予兆」でくわしく述べましたが、当事者の証言として極めて興味深い証言がありましたので紹介しておきます。これは、張の軍事顧問であった町野武馬大佐の証言を1961年に国立国会図書館が採録したものです。この録音は「三十年間は非公開」の条件付きで実施したもので、平成三年六月一日に、やっと公表さました。

 「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので、殺したという関東軍首脳の説はウソだ。張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは日本だけだ。だから日本と手を握らにゃならないのだとよくいっていた。関東軍の首脳は、張を殺さないと満州は天下太平になり、日本では軍縮が激しくなる。軍人が階級をのぼりぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。そして張作霖を殺した。それは斉藤恒(注:関東軍参謀長)の案なんだ。」(『日本はなぜ戦争を始めたか』p51)

 私はこの説は、この本ではじめて知りましたが、実のところ、「河本大作は、なぜ張作霖を殺す必要があったか」という疑問について、「日本の言うことを聞かなくなったから」という説明は十分ではないと、福田和也氏なども疑問を呈していました。それだけに、「張を殺さないと満州は天下太平になり・・・」というのは、まさに驚くべき重要な証言です。確かに、この時期の青年将校達が抱えていた、大正デモクラシーに対するルサンチマンの激しさを考えれば、私はさもありなんと思いますが、それにしても・・・。

 また、このことについては、幣原喜重郎も「満州事変」の原因について、それは「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と次のように述べています。

 「・・・陸軍は、二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大ていが大佐が止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは、情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢がいっぺんに落ちてしまった。

 軍人たちがこれを慨嘆して、明治以来打ち建てられた軍の名誉―威勢を、もう一度取り返そうと苦慮したであろうとは首肯けるが、血気の青年将校のたちの間では、憤慨が過激となり、『桜会』という秘密結社を組織したり、政党も叩き潰して、新秩序を立てよう。議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどという、とんでもない計画を立てるようになった。・・・これがすなわち柳条溝事件のはじまりで、満州事変の発芽である。」(『幣原喜重郎―外交五十年』p192)*岡崎久彦氏はこの説には疑問を呈していますが・・・。

 もっとも、こうした軍人の主観的心理的動機の他に、国内外における経済的・政治的な客観的要因が重なったことも事実です。しかし、私には、これが、日清・日露戦争で軍功を上げ個人感状や金鵄勲章を受け元勲となった将官たちと、そうした実戦参加の機会を得なかった第15期以降の幼年学校から士官学校そして陸軍大学を卒業したエリート軍人たちとの意識のズレを最もよく説明しているように思われます。(山本七平もこのことについて、青年将校の決起の動機とされる「農村の貧困」について、「貧困は彼ら自身にあった」といっています。)

 なぜ、彼らはあれほどまで必死になって河本大作を守ろうとしたのか。彼らの自己及び自国の実力に対する異常なまでの過信、中国人に対するはなはだしい蔑視と優越感、既成エスタブリッシュメント(元老、政治家、財界人等)に対するはげしい敵対意識、マスコミや国民に対する不信とその隠蔽工作、これらの肥大化した自尊心と被害者意識の根底には何があったか。そして、こうした心的傾向は、張作霖爆殺事件において予兆的に露呈していたと私は考えるのです。

 さて、それでは、一般国民=大正デモクラシーの軍縮時代に軍人に冷たい視線を浴びせていた人びとは、一体、いかなる事情で、以上のような怪しげな軍人たちの主張に耳を傾け、さらに、これに熱狂的に支持するようになるのでしょうか。これが次に解明さるべき問題です。いずれにしてもできるだけ正確に事実関係を把握することが、問題解決の第一歩だと思います。意外と、それを解く鍵は、身近なところにころがっているのかもしれません。くどいと感じられる方もおられると思いますが・・・。

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