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2008年10月

2008年10月30日 (木)

満州事変は日本の「運命」だったか。

 このあたりで、「日本近現代史における躓き―「満州問題」のまとめをしておきたいと思います。

 戦前の日本人にとって「満州問題」とは、朝鮮の独立問題をめぐって勃発した日清戦争に日本が勝利し、その結果、遼東半島が日本に割譲されたことに起因します。これに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の中国への返還を要求し(三国干渉)、日本はやむなくそれに応じましたが、その後、日本が日露戦争に勝利した結果、それまでロシアが支那から租借していた関東州と南満州、安奉両鉄道の租借権を日本が譲り受けることになりました。

 これによって、日本は、関東州租借地を完全な主権を持って統治し、南満州、安奉両鉄道の経営は半官半民の南満州鉄道株式会社(略称満鉄)にあたらせることになりました。日本はこの満鉄を通じて鉄道付属地の行政にあたりました。この満鉄の付属地には、奉天や長春など人口の多い地域をはじめとして15都市が含まれ、これらの地域では、日本は、警察・徴税・教育・公共事業を管理しました。また、租借地に関東軍を置き、鉄道の沿線地帯(線路の両側合わせて62m)には鉄道守備隊を駐屯させ、各地方に領事館や警察官を配置するなど、満州諸地方に武装部隊を置きました。

 その後1915年の「二十一箇条要求」で、これらの租借期限(ロシアが得ていた租借期限は25年)を99年に延長するとともに、日本国民が南満州において旅行、居住し、営業に従事し、商業、工業及び農業のための土地を商租する権利を得ました。

 ところで、満鉄経営の基本政策は、満鉄線に連絡する支那の鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満州内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようとすることにありました。しかし、支那にすれば、満鉄のような外国管理の施設が国内に存在し鉄道輸送を独占することはおもしろくなく、そのため満鉄の発達を妨害しようとする支那の試みは張作霖の時代からありました。張学良の時代になると南京政府の利権回復運動とも相まって、日本の独占的・膨張的な政策との衝突を繰り返すようになりました。

 1931.9.18日の満州事変以降日本は、その武力行使を正当化する根拠として、日本の満州における以上のような「条約上の権益」が侵害されたと主張しました。

 第一の非難は、①南満州鉄道付近にそれと平行する幹線および利益を害すべき支線を建設しないという、1905年の取極(「満州に関する日清条約付属取極」)があるにもかかわらず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。②南満州において、各種商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権利が1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」によって認められているにもかかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不誠意によって実現されていないこと。

 第二の非難は、満州の都市部・華中・華南で広く見られた排日貨、対日ボイコットが中国側の組織的な指導によってなされているという主張で、これが不戦条約第二条(「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外、之が処理または解決を求めざることを約す」)の明文またはその精神に違反する、というものでした。つまり、これらの条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躙された以上、それを実力で守ってどこが悪いか、というものでした。(『戦争の日本近現代史』加藤陽子p255~256)

 しかし、第一の①については、「付近の平行線」の定義が明確でなく、欧米の慣行では約12マイルから30マイル以内の鉄道を「付近」としていたそうですが、日本が平行線と非難した錦州―チチハル間の鉄道は最短の部分で100マイルも離れていました。また、②については、「外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があり、そのため中国側は、多くの日本人(朝鮮人含む)が開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのは、中国の主権の破壊になると主張し、領事裁判権を日本側が持つ以上は、内地雑居を許可できないと反論」しました。事実、こうした特権は外交上前例がなく、日本側もその無理は承知していました。

 また第二については、これまで済南事件や張作霖事件における日本側の行動を詳しく見てきましたので事情はお分かりだと思いますが、こうした日本側の度重なる侵略的行為に刺激された結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躙するようになったのだ、ということもできます。なにしろ張学良は自分の父親を日本軍の謀略によって爆殺されたのですから、その彼に日本に対する友好的な態度を期待する方がおかしい。さらに、日本側の主張の根拠とされた、それまでに積み上げられた条約や規定の解釈自体にもグレーゾーンがあり、双方の解釈が異なっていたことも指摘されています。(上掲書p259~263)

 こうしてみてくると、日本側の言い分にはかなり無理がありますが、関東軍は満州事変を引き起こす過程で、その武力占領の正当性を国民に納得させるため、日本は条約を守る国であるが、中国は条約を守らない国であるという宣伝に努めていました。確かに、1920年代の国民党による中国統一の過程で、排外主義的なナショナリズムが鼓吹されたことは事実です。幣原喜重郎はこうした中国の事情に十分な同情を寄せつつも、中国側が「事情変更の原則」を掲げて、前述したような既存条約の一方的廃棄を求めることを、国際関係の安定を脅かすものだとして明確に拒否していました。

 幣原としては、1922年のワシントン体制の中核的条約である九カ国条約の中国における門戸開放や機会均等主義を「わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている」として支持していました。同時に、満州においては、「日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互友好協力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立」を目指していました。この時幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、私から見ればロシアのものだった。・・・ロシアを追い出したのは日本」であり、このような歴史的背景を踏まえれば、以上のような日本の要求を中国側が尊重するのは道義的に当然である、という考えをその基礎に置いていたのです。。(*おそらく幣原はこの商租権の問題は不平等条約の撤廃で可能と考えていたのではないでしょうか。11/3挿入)

  だが、こうした幣原の期待は、両国国民の友好関係(お互い~信頼関係を訂正11/3)があってはじめてできることで、しかしこの時は、済南事件で日本が中国統一を妨害したように受け取られ、張作霖爆殺事件以降は、張学良政権による意図的な反日侮日政策がとられていたのですから、そのための現実的基盤は失われていました。その結果、在満邦人はこうした反日・侮日政策に結束して対抗するようになりました。また、幣原外相が、在満同胞が「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発し、もう外務省は恃むに足らずとして、軍の支持のもとに「実力行使による満州問題の解決」を要求するようになりました。

(注) 幣原外相と広東政府外交部長陳友仁との秘密交渉に関する記述、近衛文麿と駐日支那公使蒋作賓との会話及び石原莞爾の「満蒙計略の方針」に関する記述は削除し、以下を追加挿入11/3)

 もちろんこの間陸軍は着々とこうした満州問題の行き詰まりを武力で解決するための政治工作、世論作りを進めていました。そこに起きたのが万宝山事件(1931年7月、長春北30キロにある万宝山で発生した朝鮮人移民と中国人農民との衝突事件)で、これが朝鮮人虐殺事件と誇大に報道され(実際には死者は出ていない)、朝鮮国内で激しい排華暴動となり華僑100人余が殺害され、中国でも排日ボイコットが展開されるるという事態に発展しました。さらに、中村大尉事件(興安嶺地区の兵用地誌調査中の参謀本部の中村震太郎大尉らがスパイ容疑で張学良軍の殺害された事件1931.6.27発生)が8月17日公表されると、世論はいっそう硬化し、従来幣原を支持してきた朝日新聞も「小廉曲謹的」と幣原外交を批判するようになりました。また、政友会や貴族院においても軍部の主張する満蒙問題の武力解決を容認する政治的情況が生まれていました。(『太平洋戦争への道』1p421)

 こうして、1931年9月18日、関東軍参謀の謀略による柳条溝鉄道爆破に端を発する満州事変が勃発しました。政府(第二次若槻内閣)は不拡大方針をとりましたが、関東軍は軍中央の協力、朝鮮軍の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、1932年2月までに東北の主要都市、鉄道を占領しました。この間奉天、吉林、ハルピン等に次々と地方独立政権を樹立させ、これらは連省自治制を採用して1932年2月17日東北行政委員会を発足させ、その名において、満州事変勃発後わずか半年後の3月1日、奉天、吉林、黒竜江、熱河の四省を中心とする新国家満州国の建国を宣言しました。発足時の政体は共和制とし、溥儀には「執政」の称号を贈りました。

 この間、12月11日には若槻内閣が総辞職し幣原外交はここに終焉することになりました。続いて犬養政友会内閣が成立し、外相は犬養兼任、陸相は十月事件でクーデター政権の首班に擬された満州事変積極的推進派の荒木貞夫が就任しました。そして、翌1月6日には陸、海、外三省の関係課長は次のような「支那問題処理方針要項」を決定しました。いうまでもなく、先の新国家満州国の建国は、こうした日本政府の方針・要綱に沿って進められたのです。

 「方針一 満蒙については、帝国の威力の下に同地の政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において、帝国の永遠的存立の重要要素たる性能を顕現するものたらしむることを期す。二(略)。要綱一 満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立セル一政権の統治支配地域とし、逐次一国家たる形態を具備するごとく誘導す。・・・成立する各省政権をして逐次、連省統合せしめ、かつ機を見て新統一政権の樹立を宣言せしむ(以下略) 」

 以上、「日本近現代史に於ける躓き」における最大の難問である満州問題、その発端から満州国建国に至るまでの経過を見てきました。ではこうした歴史の展開をどう見るか。岡崎久彦氏は次のようにいっています。

 中国の国家統一が進展しそれが「満州に及んだ場合を想像すると、日本は在留邦人の希望に添った現地保護主義をとらざるを得ず、その場合、中国側との衝突路線を歩むのは不可避である。現地保護主義を抑えて(幣原の)不干渉主義を貫く場合、中国側の有識者のなかには日本の政策の理解者もあり、日本の権益を保護しようとしてくれたかもしれないが、中国の国権回復のうねりはそういう妥協を許したかどうかもわからない。双方によほどの良識ある外交とそれを実施する指導力がないかぎり、悲劇は運命づけられていたといえる。」(『幣原喜重郎とその時代』p288)

 さて、その「運命」ですが、確かに歴史はそのように進んだのですが、では、そのような「運命」を決定づけた歴史的条件のすべてが不可避であったかというと、私は必ずしもそうはいえないと思います。本稿では、その歴史的条件の一つとして、当時の軍部とりわけ青年将校グループが満州占領、政治革新へと突き進んだその異常な心理状況を説明しました。また、そうした青年将校達を熱狂的に支持した国民世論がどのように形成されたのかを見てきました。では、はたして、こうした事態は回避できたのでしょうか。

 そこで最後に、このことを、当時の政党や政治家およびマスコミの果たした役割とともに考察して本稿のまとめとしたいと思います。

2008年10月25日 (土)

最近の教育界をめぐる”ちんぶんかん”

 最近、我が国の教育や教育界のあり方をめぐって、「意外な」事件が明るみに出たり、意表を突く発言や行動が相次いで、なんだか”ちんぷんかん”な状況が生じていますので、簡単に問題点の整理をしておきます。

 まず、大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件についてですが、これについては、「教育委員会を腐敗させたのは誰か」寺脇研氏の主張について、で一通り説明しました。

 その要点は、公立学校の場合は、一種の「教員ギルド社会」がベースにあるということで、現在でも、「旧師範学校の支配体制が残っている「田舎」や、教員組合と教育委員会が癒着している都道府県が危ない。」そんなところでは、採用や昇任人事などに、表向きのルールとは別の裏のルールが働く。ただし、「大分のように「お金が動く」というのはレアケースで、普通は「お金」ではなく県会議員や地域のボスからの「圧力」が多い。また、権力者に覚えめでたくなるためには、それまで盆、暮、正月の挨拶をはじめ、雑巾がけのようなことをし尽くさなければならない」といったような、一種の派閥人事に陥るケースが多い。

 また、教育委員会の人事が、「教育委員会生え抜きの職員が出世できず、課長以上の上級職を『教員出身者』と『教育現場をよく知らない県庁からの出向者』が固め」るようになると問題が大きくなる。しかも、トップの教育長が知事部局から来た場合、教育について詳しくなく、「『じゃあ、教員出身でナンバー2の富松審議官よろしく頼みます』となる。こうして不正につながりました。」というわけ。

 そこで結論としては、「結局、問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです。日本という社会は、昔はすべてそうして成り立っていたともいえます。建設業界に限らず、日本全体が巨大談合社会でした。しかし、それがどんどん暴かれて、今は入札談合はできなくなりました。教育は「最後の聖域」・・・ということではないでしょうか。」ということになります。

 では、どうしたらこのような問題点を解消することができるか、ですが、最初の「教員ギルド社会」の問題について、私は、教員免許制度及びその資格基準をより客観性のある全国統一のものとするため、従来の単位制から、国家試験制度とすることを提起しました。現在はこの教員の資格基準が曖昧なため、採用試験がこれに代わるものとなり、結局、その合否判定の曖昧さが、かえって採用時の不正や新たな「教員ギルド社会」の形成につながっていると考えるからです。

 次の、教育委員会の人事構成の問題ですが、これは決して特異なケースではなく、現行教育委員会制度がもたらす当然の結果だと思います。都道府県教育委員会の場合は、知事が教育委員を任命し、その教育委員によって構成される教育委員会が教育長を任命することになっています。また、教育に関する財政権は知事部局がもっていますので、教育委員会事務局の管理部門の重要ポストは知事部局が抑えることになります。

 市町村教育委員会の場合は、市町村長が教育委員を任命しその教育委員によって構成される教育委員会が、教育委員の中から教育長を任命するようになっています。そして、教育委員会事務局職員は指導主事を除いてすべて市町村の職員です。本来は学校と教育委員会事務局は一体のものであり当然人事交流すべきですが、県費負担教職員制度のもとではこの道は閉ざされています。

 これらの事実は一体何を物語るか、寺脇氏は「問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです」といっています。しかし、本当は、これは教員や政治家達の個人的な心構えの問題ではなくて、そもそも現行制度下の学校経営システム総体が、教員ギルドや知事部局や市町村部局の仲間内の論理に引き裂かれていて、学校経営体としての責任主体が一体どこにあるかわからなくなっていることから起こっていることなのです。そして、このような無責任なシステムの維持に文科省が深く関わっている、この事実を、寺脇氏は文科省の「仲間内の論理」から見て見ぬふりをしているというか、隠しているというか、責任を他に転嫁していると思います。

 果たせるかな、こうした矛盾に一見傍若無人な言い方で批判を加えているのが、大阪府の橋下知事です。

 ①8月29日、橋下徹知事は、全国学力テストで大阪府小学校が45位だったことについて、「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と述べ、府教委を厳しく批判した。

 ② 9月7日、橋本知事は、同府箕面市で地元FM局の公開生放送に出演した際、全国学力テストの結果公表に消極的な市町村教育委員会などを指して「くそ教育委員会が、みんな『発表しない』と言うんです」と発言した。

 ③ 橋下徹知事は17日の定例会見で、全国学力テストの結果公表をめぐり、市町村別データを明らかにしないよう文科省が都道府県教委に求めていることについて、「国民の意思はお構いなしだ。市町村別データ公表を序列化というなら、(民意を踏まえないような)文科省はいらない」と批判した。

 ④ 都道府県や市町村の教育委員会の見解を、教育委員長ではなく、事務局の教育長や課長が述べているケースが多いと指摘し、「教育長がホームページで教育観を披露していることさえある。これは暴走だ。関東軍と同じだ」と訴えた。

 ⑤ 橋下知事は「自民、公明両党が本気で地方分権に取り組んでいるのか不安だ。国会議員にたびたび地方分権をお願いしているのに改革が進まない」と苦言を呈し、両党が明確な地方分権改革案を打ち出さないかぎり、次期衆院選で応援しない意向を示した。さらに地方分権改革推進を打ち出している民主党の政策を評価したうえで、「今の段階では民主党の方が地方分権に力を入れていると思う。行政の長として民主の考え方に感銘を覚える」と述べた。

 ①は、知事の府教委批判です。府の教育委員は知事が任命しますから、これはかまいませんね。②は、知事の市町村教委批判ですが、こんなこと知事がいう権限はありません。③は、学力テスト結果の公表についての文科省の都道府県教委に対する指示に対する批判です。これは一種の頭越しですから当然⑤につながります。④は、教育委員会(合議制の)が形骸化しているということ。権限のないはずの事務局が実質的にそれを支配していることを「関東軍」になぞらえていったものです。適切な比喩ではないと思いますが。⑤は、教育行政においても地方分権が必要だということをいったものです。

 まあ、橋下知事のこれらの発言は、自分の権限とか責任ということは一まず措いて、「全国学力テスト」の結果をどのように公表するかということについて直截な私見を述べた、ということにすぎないと思います。しかし、確かに現行制度の矛盾があからさまに指摘されていることも事実です。結論からいうと、これは先に大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件について私見を申し述べたとおり、今日の教育委員会制度のもとでは、とりわけ公立小中学校経営の責任主体が曖昧になっているということに尽きるのです。一体誰が公立小中学校経営について最終的な経営責任を負っているのか皆目わからない、このイライラ感を橋下知事が表明したと見るべきです。

 そして、その解決策は、まず公立学校経営の基本単位を確定すること。その上で、現在文科省、都道府県知事、都道府県教育委員会、市町村長、市町村教育委員会間でバラバラになっている学校経営権をできるだけそこに委譲し、その責任を明確化することが、必要です。そのためには、現在の教育委員会制度は抜本的に改正する必要がある。都道府県教委と市町村教委の機能分担(前者は狭義教育行政、後者は学校経営)、教育委員の選出方法やその権能の再検討、学校教育と社会教育の分離、学校経営体としての教育委員会事務局の再編、学校から事務局まで統一的な職員制度の確立などです。

 また、この公立小中学校経営に関わる文科省の権限について、現在、先に成立した改正教育基本法によって、文科省の権限が大幅に強化され、補助金制度などによる中央集権的な学校経営関与が強くなっているかのような印象があります。この点についても、先ほど述べた学校経営の責任主体の確立と矛盾しない、義務教育推進に果たすべき国の役割を明確にしていく必要があります。

 ここで、最近話題になった中山成彬元国土交通大臣の「日教組批判」について私見を申し述べておきます。氏は、現在の歴史教科書が自虐史観に陥っていることを批判して次のように言っています。

 「どこの国の教科書をみても、祖国をつくり、祖国を護った英雄達の話はいっぱい出ているが、祖先が悪いことばかりしてきたということを教えている国はない。(中略)日本民族としての自覚と素晴らしい祖先を持ったという誇り、そして世界のために貢献したいという高い志を持った青少年を育てなければならないが、そのためには、自虐史観に貫かれた今の歴史教科書を一日も早く改定することが国家百年の計として必要であると考える」(『歴史教科書への疑問』489―490頁)

 また、日本の道徳教育の再建について、次のように述べています。
 「教育勅語が謳いあげている『目指すべき教育のあり方』が、けっして間違ったものでなかったことは明白であろう。むしろ、こうした指針がなくなったことが現在の教育の荒廃を生む一因となったと理解いただけるのではないだろうか。だからこそ、私たちは、『かつての教育勅語に相当する教育理念の制定を目指すべきではないか』と提案する」(『人づくりは国の根幹です!』78頁)。

  前者の見解についてですが、私も、いわゆる「自虐史観」は好きではない。なぜか、それは、「自分を被害者の位置に置くことで自己正当化しようとするため、一方的な意見を鵜呑みにする傾向がある」からです。いずれにしろ、歴史的事実はしっかり見つめないといけない。その上で、それが自分たちの父祖の時代に起こった出来事ならば、その恩恵とともに負債も引き受けて、それを次の時代に向けて改善し発展させなければいけません。現在私が本ブログで取り組んでいる「日本近現代史をどう教えるか」というテーマもそうした作業の一つです。(アンダーラインの部分を修正10/28)

 その意味では、ほんとに教科書をよくしたいと思えば、私は、自由に教科書は作らせて、検定制度で基本的な審査をしてパスしたものについては、現場教師にその採択を任せる、それくらいの責任を教師に持たせることが必要だと思います。現在の教科書採択制度など、その建前と実態は余りに違いすぎて不信感に陥らざるを得ません。これなど現在の教育委員会制度の表と裏の乖離を象徴する出来事だと思います。まあ、(教科書問題は)国民の、国を愛する心、そして伝統的英知に信頼を寄せるしかありませんね。

 また、後者の教育勅語の評価についてですが、これは山本七平さんが見事にそれと明治憲法との関係を解明しています。この二つが、前者は道徳教育、後者が立憲君主制として相互補完しながら日本の近代化を支えるべく期待されたのですが、明治時代はそれがうまくいったのですが、昭和になってその矛盾が明らかとなり、結局、教育勅語の天皇親政という政治思想が国民の意識を支配することとなって、議会政治が崩壊し、軍が政治を支配することになったのです。

 こうした歴史的事実を踏まえながら、日本人の道徳教育のあり方を考えていくほかありませんね。それは他から強制されるものではなく、自分を内から支えるもの、いわば自律を担保するものですから、法律の規制作用でできることではないのです。確かに人間は「教えなければ禽獣に近し」ですから、人間にするための「教え」は絶対に必要ですが、それは民族の知恵として親から子へその実際の「生き方」を通して伝えていくほかないもので、これもまた日本国民の力を信じるしかありません。

 この点で、中山氏のように日教組批判をすることは、裏から見れば過度に教師に期待を寄せるもので、福田恆存などは教員に道徳教育は諦めて知識教育の徹底を勧めていたほどです。それが本物の批判力とともに知識を超えた道徳規範の大切さを教えることになると。まあ、いずれにしろ、教育勅語に語られた道徳規範は、中国の儒教の教えを元にしており、これを見ても、道徳原理などというものは国家の枠を超えるものなのです。

 それとは別に愛国心を教えるというなら、私は今中教審の会長をしている山崎正和氏の次のような意見が妥当ではないかと思います。

 「このさい私が提案したいのは、内面的な価値としての倫理を学校で教えることはあきらめ、もっぱら客観的な順法精神の寛容に徹すべきだ」

 「こうして学校で教育できることが倫理ではなく法的正義だとわかれば、そこで教えられる愛国心」とは「法と法で定められた制度からなりたつ国への愛情であり、いいかえれば、合理的な近代国家への愛情であるほかはない」

 「端的にいえば、愛されるのはたとえば『和の心』や『日本的協調』ではなく、比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本であるべきなのである。」

 ところで「この日本という政治単位が初めて誕生し、全ての住民がそれに帰属意識を覚え始めたのは、近代以降のことで・・・今日では、その版図は世界的な範囲に起源をもつ芸術や社会風俗をうちに含んでいる」

 そうした「現在の多元的な日本文化のあいだで、例外的に近代国家の成立とともにつくられ、結果として国民を一元的に統一している文化は、共通語としての日本語しかない」ように思われる。

 つまり、それは「異質な価値観を媒介して、日本社会を分裂から守る最強の防波堤に他ならない。しかもこれは十分に制度的な学校教育になじみやすい対象だから、愛国心はまず思いきった国語教育の充実に徹するべきだろう。」

 まあ、こんなところではないでしょうか。

2008年10月18日 (土)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任3

 「メシア」とは、ヘブライ語またはアラム語で油を注がれた者、すなわち聖別された者を意味する言葉です。出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれていますので、後にそれが「油注がれた者」すなわち理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになったと辞書には説明されています。私が石原莞爾について「偽メシア」という言葉を使ったのは、彼の言葉と行動は、はたして、昭和6年という日本の危機の時代において、民族の伝統文化を未来に向けて発展させる契機をもっていたか、ということについて疑問を感じているからで、私はむしろその逆だったのではないかと思っています。

 もちろん、こうした見解は従来のものと特に変わってはいないのですが、最近の石原評の中には、彼の頭脳の並外れた優秀性と、満州事変の奇跡的な軍事的成功に幻惑されて、その「偽メシア」的メッセージの及ぼした害毒の深刻さを看過しているものが多いような気がします。とりわけ福田和也氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』では、「世界最終戦総論も、満州国も、五族協和も、東亜連盟も、永久平和も、都市解体も彼の祈りであった。」(上掲書p461)「石原莞爾の魅力は、・・・その根源は、やはり高い倫理性、理念性にあると思う。」(同p464)として、その生き方や精神性を高く評価しています。

 だが、私は石原莞爾の場合は、そんな資質よりも、彼の「政的的行動」が日本に及ぼした結果責任をこそ、厳しく問うべきだと思います。よく、彼の東京裁判の「酒田臨時法廷」における発言が紹介されます。いわく「もし大東亜戦争の発端の責任が満州事変および満州国にあるというのなら、その第一の戦争責任は自分にある、なぜ自分を裁かないのか、と裁判官を問い詰めた」と。これは「潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する」という石原の捨て身で痛快なイメージを伝えるものですが、これが真実かどうかとなると、かなり怪しい。

 そもそも、彼が計画・実行した満州事変が、石原莞爾や板垣征四郎を中心とするごく少数の将校たちによる謀略(柳条湖事件)に始まることが明らかにされたのは、歴史家の秦郁彦氏が、事件の首謀者の一人花谷正(事件当時奉天特務機関補佐官)らをヒアリングしてまとめた、「別冊知性」(河出書房)の記事「満州事変はこうして計画された」(1956年秋)が最初です。それまでは、この事件は日本軍の犯行と推断されてはいたのですが、決定的な証拠はなく、東京裁判でも検察の追求は不徹底に終わり、石原は戦犯指定を免れました。事実、彼は、検察側証人として次のような虚偽の証言をすると共に自分の責任をも否定しています。

 「石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。〔以上、「戦史研究 石原莞爾はかく語りき―戦後の石原莞爾―」参照〕 

また、こうした態度はこの事件の他の実行犯にも一貫していました。なぜか、秦郁彦氏は次のようにいっています。

 「柳条湖事件には、どことなく後味の悪さがつきまとう。味を占めた日本はその後も同じ手口を重ねて戦火を拡大し、十年もたたぬうちに東アジア・太平洋の全域を支配する軍事大国に急成長するが、太平洋戦争で元も子も失って倒れた。まさに『悪銭身につかず』である。東京裁判で『共同謀議による侵略戦争』遂行したとして訴追された戦時指導者たちは、『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったと抗弁した。しかし、どんな大義名分を持ち出しても、起点となった柳条湖事件を正当化できないのは明らかだった。だからこそ、彼らは一致して秘密を守り抜いたのである」(『昭和史の謎を追う』p34)

 では、このことを確認するために、先に紹介した花谷証言以降明らかになった柳条湖事件の事実関係を説明します。

 石原は昭和3年10月に関東軍参謀として赴任して以来、前回紹介したような壮大な「最終戦争」ヴィジョンのもとに、日米戦争を覚悟しても満州領有が必要であることを周囲の人びとに説きつつ、具体的な満州占領計画を作成していました。だが、はたして、こうした霊感、神意に発する石原プランが板垣以下同士同僚にどれだけ説得力を持ちえたかについては私も疑問に思いますが、いずれにしろ、「満州領有」という悪くすると世界大戦に発展しかねない軍事行動のバネになる最低限の根拠を与えられたということだけで満足したのではないかと思います。(『昭和史の軍人たち』畑郁彦p235参照)

 一方、軍首脳は、満州問題が外交交渉で解決できず、ついに軍の出動を必要とするに至った場合でも、なぜそれがやむを得ないものであったかを、ソ連や米英だけでなく国民にも納得させる必要があるとして、そのためには約一カ年を要すると見ていました。そして、満州における「排日侮日一覧表」などを作成・配布して宣伝に努めるとともに、関東軍に対しても張学良との間に事件が起きても大事に至らしめないよう注意していました。これに対して石原は、この中央の方針を「腰抜け」と罵って不服従の姿勢を示し、旅順司令部で、花谷正参謀後に高級参謀板垣征四郎も加わり実地解決策を内密で研究しました。

 板垣は初めは関東軍単独の解決案に反対しましたが、昭和5年には石原工作の主将たるを約束しました。この外張学良顧問府補佐の今田新太郎大尉も加えこの4人だけで満州事変の密造に着手し、鉄道の爆破、北大営の夜襲、奉天の占領、各枢要都市の占拠、各種擾乱工作、朝鮮軍との連絡、軍中央部(東京)の誘導、等々の事変方式を作り上げました。昭和6年1月頃にブループリントは出来上がりました。それから朝鮮軍参謀中佐神田正種に大要を明かしてその全面賛成を得、次いで参謀本部の橋本欣五郎及び根本博に打ち明けて原則的に協力の約束をとりつけました。

 また、石原は軍の中央部に対し、万一事ある場合には関東軍を見殺しにしないだけの諒解をとりつける必要があるとして、土肥原、花谷を東京に派遣し、敵から挑戦された場合は関東軍は断然決起する決心であることを省部の首脳に説かしめ、なお在郷の同士には極秘裏に「我が方から起つ計画」を内示し、その場合の強力なる掩護行動を要望しました。これに対して橋本欣五郎は、満州問題解決には内政革命が先決である、若槻の政党内閣では何事もできない。故に先ずクーデターによって軍政府を樹立し、その上で思う存分に解決を計るべく、その時期は大体10月の見当だから関東軍の行動はその直後とすることを熱説して袂を分かちました。(「十月事件」参照)

 だが、石原は、高梁の刈り入れが終わる直後を選んで9月28日の夜に決行することを決めていました。そして中央及び朝鮮の空気も、関東軍が手一杯の戦闘に突入してしまえば、決して知らぬ顔では済ませないと判断し、一直線に既定計画に邁進する考えでした。9月に入ると実行部隊の中隊長を集め、初めて計画を内示し、極秘裏に演習を行わせて時期を待ちました。一門28センチ要塞砲は極秘裏に旅順から分解搬送され、第29連隊の兵営内に据付けられ、照準を北大営に調整して盲目にも打てるよう準備しました。

 9月15日驚倒すべき急電が東京から届きました。橋本欣五郎の電報で「計画露見、建川少将中止勧告に出発す、至急対策を練るべし」というものでした。板垣、石原、花谷、今田の4名と実行部隊の5人の将校は直ちに集まって会議を開きました。建川美次(参謀本部第2部長)の奉天着は18日の夕刻である。もしも天皇陛下の中止命令を携えてくるなら即刻服従の外はない。故に、彼の到着善に決行してしまえ、というのが、今田以下実行部隊5名の熱説するところでした。その理由は、部外の策謀工作員として予備大尉の甘粕正彦などが資金を与えられて浪人や青年を擾乱作為に雇い、各地に予備工作を進めているので、ここで延期すれば全面遺漏は避けられない、「延期は放棄」を意味するというものでした。

 しかし、さすがに板垣や石原は自重し、とにかく建川の話を聞いた上で後図を策しようとする方針に一同を宥めて(一説では鉛筆を転がすクジで決めたいう)散会しました。ところが翌日、今田大尉は花谷参謀を訪ねて前論を熱説し、あるいは今田一人で鉄道爆破を決行する意志が読まれたので花谷もついに同意し、直ちに板垣と石原を説いて、28日の予定を18日に繰り上げることに同意させ、かくて柳条湖の鉄道爆破となりました。その夜建川は奉天につくとその足で料亭菊文に招じられ、酒で眠らせるという策略の布団の上で急ピッチで杯を重ね、9時頃には前後不覚で酔体を横たえた10時頃、建川は爆音と銃声に目を覚ました、といった次第。

 以上のような経過で、満州事変は、関東軍参謀作戦課長の石原中佐が中心となり、板垣、花谷、今田と計って専断強行したものでした。なんと御大の本庄司令官にも三宅参謀長にも一言の相談もなく、二、三の参謀だけでやってしまったのは、まさにウソのような本当でした。況んや軍中央部が時期と方法について別項の計画をもっていたものを、腰抜けと罵って聴従せず、日本国を世界世論の前にさらすような大事件を、三人の参謀が独断専行したこと。この事実は、東京裁判で戦時指導者たちが、日中戦争は『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったといういくら抗弁しても、どんな大義名分を持ち出しても、決して正当化できない、つまり隠し通す外ない一大過失だったのです。

 事変勃発後、政府は「不拡大方針」を決定し、陸軍省も参謀本部もこれに同調しました。ところが、事変は夜を日に継いで拡大し、ハルピン、チチハル、錦州、熱河、後には長城を超えて拡大しました。そして、わずか半年後には政府や軍部の声明とは似てもつかぬ形に発展し、ついに満州国という傀儡国家まで造り上げてしまいました。満州国はやがて日本政府の承認するところとなり、「日満提携」は国策のイロハとして謳われるようになりました。板垣、石原たちには金鵄勲章が授けられました。(以上『軍閥攻防史第2巻』伊藤正徳p190~195)

 だが、このように、本来ならば軍刑法に照らし天皇大権の侵犯のかどで本庄司令官以下死刑に処せらるべき者たちが栄達を重ねていったことは、結果さえよければ、軍中央の統制にも服さず、上官の命令をも蹂躙して差し支えないという、およそ近代国家の軍隊とは思えない無統制・無規範ぶりを軍内に蔓延させることになりました。

 まして、彼らの行動は、中国の主権・独立の尊重、門戸開放・機会均等を謳った九カ国条約や、自衛戦争以外の戦争の放棄や紛争の平和的解決を謳った不戦条約などの国際条約に真正面から挑戦し破壊するような行為でした。アメリカの国務長官のスチムソンは、1936年の段階で、満州事変という「侵略行為」の成功がイタリアやドイツなどの国際協調政策に「不満なる独裁政府」に元気を与えた、と認識していました。つまり第二次世界大戦の突破口は満州事変によって切り開かれたと認識していたのです。(『日本の失敗』松本健一p157)

 その後の日本軍はどうなったか、それは次回以降に論じるとして、石原莞爾の話題にもどりますが、彼はその後、以上述べたような満州事変における致命的過失に気づいて、それを心底深く悔いたのではないかと私は推測しています。それが、後に彼をして「満州国独立論」「五族協和「王道楽土」の満州国建設という理想論に憑かしめた理由ではないかと。その石原は、昭和11年、2.26事件に際してうまく立ち回ったことから、参謀本部作戦部長の要職に就きました。そのころ、華北では、関東軍が政略活動による華北五省の分離工作に走り、蒋介石との本格的軍事衝突が懸念される事態になっていました。

 そこで、石原は断然彼らに「不拡大」を指示しました。しかし関東軍がどうしても聴かないので単身長春に乗り込み、参謀達を集めて一条の訓辞を試みました。訓辞が終わると、武藤章中佐が起って「それは閣下が本心で言われるのですか」と臆せず発言しました。石原はそれを叱して再び軍中央の方針と対局論とを述べると、武藤が平然として「自分達は石原閣下が満州事変の時に遣られたことを御手本として遣っているのです。褒められるのが当然で、お叱りを受けるとは驚きました」と討ち返した、といいます。(『軍閥攻防史』第2巻p198)

 こうして、日中戦争そして太平洋戦争は、満州事変の、およそ法治国家とは思えない無軌道・無規範、むき出しの暴力肯定の行動哲学を基調として、おし進められることになるのです。秦郁彦氏は「日中戦争」には三分の理、太平洋戦争には四部の理があるとして、満州事変には一分の理も見いだせないといっています。重要なことは、この一分の理も見いだせない「満州事変」の延長に「日中戦争」も「太平洋戦争」もあるということです。東京裁判において日本側は、これを「自衛戦争」とか「アジアの開放」という言葉で正当化しましたが、もし「満州事変」の真相が明かされたらどうなったか。

 「自衛戦争」とか「アジアの開放」とか、そのような抗弁どころか、近代法治国家としての日本の信用はその瞬間地に墜ちる、この恐怖こそ、関係者が一様に口を閉ざしたその本当の理由だったのではないでしょうか。

2008年10月13日 (月)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任2

 「政治家はヴィジョンを持たなくてはといわれる。目先のことに捉われずにヴィジョンを持った政治をやれ、たしかに結構なことに違いないが、余りヴィジョンをもたれすぎても困ることがある。戦前の日本人で、石原莞爾ほど壮大なビジョンを展開し、それが全く崩壊し、結果が国を滅したという人もないだろう。なぜなら、彼がヴィジョン展開の第一着として演出した満州事変は、日本を世界に孤立させる始まりとなったばかりでなく、石原がおかした下剋上、政府無視、そして独善がこの後の陸軍を支配して、やがては国を破局に導いていくからである。」

 これは、高田万亀子氏の石原評ですが(『昭和天皇と米内光政と』p115)、私も石原莞爾の関係資料をあたってみて、ほぼこの通りではないかと思いました。ただ、石原の「下剋上、政府無視、そして独善」的傾向は、私が「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」でも述べたとおり、当時の軍人特に「二葉会」「一夕会」「桜会」等に集った青年将校たちにも見られた傾向でした石原莞爾は、こうした精神傾向を彼の壮大なヴィジョンによって粉飾し、一方、冷厳な作戦計画によって満州事変を奇跡的成功に導くことによって、それを正当化したのです。(「顕著に」を削除10/14)

 ところで、これらの「二葉会」や「一夕会」と呼ばれた青年将校グループにはある特徴がありました。彼らは陸軍士官学校卒第15期から25期に属する人たちで、その多くは、1896年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に新設された陸軍地方幼年学校(13、15歳から3年の修学期間、定員各50名)、中央幼年学校(2年の修業期間)を卒業し、陸軍士官学校(1920年より予科2年、隊付き6ヶ月、本科1年10ヶ月)に入り、さらに陸軍大学校(隊付き2年以上の大尉、中尉から1期50名内外を選抜し3年間修業)を卒業した超エリート軍人(いわゆる「天保銭組」)だったのです。

 また、彼らが陸軍大学を卒業して現役についたのは日露戦争後であり、つまり、彼らは実戦経験をもたない「戦後派」でした。これに比べて、彼らの先輩達(第15期以前=当時の軍首脳、軍事参議官、師団長、連隊長)は、全員日露戦争の功労者、戦場の殊勲者で「個人感状」や「金鵄勲章」をもらった人たちでした。これら賞を軍人たちが最高の栄誉としてどれだけ羨望したか・・・、しかし、これは戦場で砲火をくぐって戦うか、あるいは最高戦略に参画し”武功抜群”と認められる働きをしなくては手にすることのできないものでした。(『昭和の軍閥』p116)

 それに加えて、彼らが佐官となり活躍を始めた頃は、第一次大戦の惨禍を経て軍縮が世界の潮流となった時代でした。大正11年6月11日成立の加藤友三郎内閣では、戦艦「安芸」「薩摩」以下14隻を廃棄し、戦艦「土佐」「紀伊」など6隻を建造中止にしました。それにともない海軍の現役士官と兵7,500人を整理し、海軍工廠の工員14,000人が解雇されました。また、山梨半蔵陸相も陸軍の兵員53,000人、馬13,000頭を減らし、大正13年までに退職させられた陸軍将校は約2,200人にのぼりました。続いて、第二次加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、陸軍4個師団を廃止し、整理された兵員は将校以下34,000人に達しました。昭和5年のロンドン軍縮会議による軍縮では、海軍工廠の工兵8,233人が解雇されました(『日本はなぜ戦争を始めたのか』p31)

 「こうした一連の軍縮によって、深刻な絶望感をいだいて動揺したのは当然職業軍人であった。彼らは財閥とむすんで(軍縮をおし進める:筆者)腐敗した政党政治に不信感を深める一方、新しい希望を満蒙の大陸にもとめる気運が強くなった。とりわけ満州に”事変”を誘発して、新国家を建設しようとうごきはじめたのは、陸軍省及び参謀本部の天保銭組のエリート軍人たちであった。彼らはまず、自分たちの栄進をさまたげる陸軍中央の「藩閥」(=長州閥:筆者)にたいして猛然と挑戦した。」(前掲書p32)

 なお、ここにいう陸軍中央の「藩閥」とは、初代陸軍大臣の山県有朋以来の長州閥と薩摩閥のことで、山県の死(大正11年2月1日)後、長州は陸軍、薩摩は海軍を背景に、軍の要職や政権をねらって排他的な権力闘争を展開しました。ところが大正末期になると、薩長とも人材難で藩閥内に後継者がいなくなり、そこで長州閥の田中義一大将は、宇垣一成(岡山)、山梨半蔵(神奈川)を自派に引き入れました。これに対して、薩摩閥の上原勇作は武藤信義、真崎甚三郎(以上佐賀)、荒木貞夫(東京)などの有力将軍を自派(これが後に皇道派となる)に引き入れ、藩閥闘争を繰り広げました。(前掲書P33)*海軍の場合は兵学校の入学試験が難しいことから次第に薩摩閥は解消したが、陸軍の長州閥は宇垣陸相時代まで続いた。薩摩閥の上原はこれに挑戦した。

 これに対して、第16期以降の陸軍中央の天保銭組のエリート将校達は、こうした藩閥(=長州閥)がらみ人事や「戦わずして四個師団を殲滅」させた軍縮に反感を抱き、藩閥打倒の運動を始めました。その嚆矢となったのが、天保銭組の中でも三羽烏といわれた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三少佐で、彼らは大正10年に南ドイツの温泉郷バーデンバーデンで「長州閥打倒・陸軍の人事刷新」の密約を交わしました。「二葉会」(14期から18期までの佐官級約20名)や「一夕会」(「二葉会」のメンバーと第20期から25期までの佐官級将校が合流約40名、昭和3年結成)など従来の藩閥に代わる「学閥」はこうして形成されたのです。

 この時、彼らがめざしたものは、①陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること。②満蒙問題の解決に重点を置く。③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護りたてながら、正しい陸軍を立て直す(「一夕会」第一回会合決議S3.11.3)でした。といっても、重点は「人事の刷新」に置かれていて、必ずしも下剋上的な非合法手段が是認されたわけではないといいます(『昭和の軍閥』)。しかし、陸軍の伝統的な「日満一体」の考え方を背景に、軍事上の見地や満蒙の自給自足的経済的見地が重なり、これを「日本の生命線」として「満州領有」を主張する考え方が急激に高まっていきました。(「満蒙一体」を「日満一体」に訂正10/14)

 ここに登場したのが石原莞爾で、彼は、満州に赴任(s3.10)するまでに、後の「世界最終戦総論」の発端をなす「戦争史大観」を構築していました。それは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というものでした。これは戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論によって日米間の最終戦争を不可避としたものだと思います。(『現在及将来ニ於ケル日本ノ国防』参照、満州赴任前に起草済み)

 その上で、彼は昭和4年7月5日に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決策」を関東軍参謀として策定し、次のように「満蒙領有」の歴史的必然性とその問題解決方針を提起しました。

一、3 満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり即ち正義の為日本が進で断行すべきものなり。歴史的関係等により観察するも満蒙は漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり。
二、1 満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりて始めて完全達成せらる。対外外交即ち対米外交なり 即ち前記目的を達成する為には対米戦争の覚悟を要す。若し真に米国に対する能はずんば速に日本は其全武装を解くを有利とす
  2 対米持久戦に於て日本に勝利の公算なきが如く信づるは対米戦争の本質を理解せざる結果なり 露国の現状は吾人に絶好の機会を与えつつあり
三、2 若し戦争の止むなきに至らば断固として東亜の被封鎖を覚悟し適時支那本部の要部をも我が領有下に置き・・・其経済生活に溌剌たる新生命を与へて東亜の自給自足の道を確立し長期戦争を有利に指導し我目的を達成す(以下略)(石原莞爾資料p40)

 こうして、石原莞爾によって、済南事件以降ほとんど手詰まり状態になっていた満州問題の根本解決が、日本の「満州領有」という形で可能とされるに至ったのです。そして、この日本の「満州領有」には「日米戦の覚悟がいるが、それは満蒙だけでなく支那本部の要部も領有下に置き、自給自足の道を確立すれば有利に持久できる。決勝戦は日米間の徹底した殲滅戦になる。・・・国民は鉄石の意志を鍛錬しなければならない。」そして「これを勝ち抜けば王者天皇の下の永久平和がくる」(『昭和天皇と米内光政と』P116~117)とされたのです。

 だが、はたしてこれが思想の名に値するでしょうか。単に、当時の軍の「満州領有」の願望に迎合しそれを粉飾しただけではないでしょうか。そのために、移民問題に端を発した日本人の反米感情を巧みに利用し、満州領有の結果予測される日米戦争の危険を永久平和に至るための試練と言い換え、済南事件の失敗や張作霖爆殺事件の暴虐に憤激する中国人の反日感情を一切無視して、満州領有は多数支那民衆のためにも喜ぶべきことなりという。こうした中国人に対する優越感と蔑視意識は、当時の日本人の潜在意識の中にあり、石原はこうした日本人の潜在意識をも巧みに利用したのです。

 さらに、マルクスの歴史必然論を借用してインテリ受けを良くし、仏教的終末論を使って西欧文明の終末を予言し、さらには皇国史観に基づく天皇親政論を使って統帥権の独立を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と神秘化した。私は、これだけの壮大な思想的粉飾があってはじめて、このクーデターまがいの満州事変は成功したのではないかと思います。この結果、関東軍は「中央が出先(=関東軍)の方針を遮る場合には、皆で軍籍と国籍を脱して新国家建設に向かうべし」とまで極言するようになりました。そして、ついに政府も満州国を黙認するほかなくなりました。(「それを」を「満州国」に訂正10/14)

 この後の、関東軍の華北分離工作に至る日本軍将校によるテロや謀略活動の連鎖を見ていくと正直言ってあきれ果てるというか、司馬遼太郎さんではありませんが、”精神衛生上良くない”。一方、蒋介石の忍耐力には同情を禁じ得ない。確かに戦争に正義・不正義はないとは思いますが、それにしても当時の日本軍将校の思い上がり、自己絶対化、他者蔑視の精神構造には参ります。一体、この精神構造はどこからきたか。おそらく、これを中国人やアメリカ人のせいにするのは間違っている。それは日本の伝統思想中にもとめる外ない、私はこのように指摘する山本七平さんの見解が当たっているように思います。(日本軍人→日本軍将校に訂正10/13)

(10/13修文しました。下線部挿入10/14)

2008年10月 4日 (土)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任

 ここまで、幣原外務大臣の「協調主義外交」がどのように行き詰まっていったかを見てきました。特に「張作霖爆殺事件」を適切に処置し得なかったことが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延さすなど決定的な悪影響を及ぼし、ついに満州事変を引き起こすに至ったことを指摘しました。また、この間、国民世論は大正デモクラシー時代は軍縮や国際協調外交を支持していましたが、済南事件や張作霖爆殺事件を契機に反日運動や国権回復運動が高まると、関東軍の主張する「満蒙領有論」を熱烈に支持するようになったことも指摘しました。

 こうした国民世論の急激な変化の背景には、軍による世論操作があり、さらにその背景には、軍縮による軍人の失業や威信低下をもたらした大正デモクラシー下の政党政治に対するルサンチマンがあったことも指摘しました。しかし、もちろんそれだけではありません。客観的要因としては、1920年の第一次世界大戦後の「反動恐慌」、次いで東京大震災後の「震災恐慌」(1923)、そして震災手形の処理問題に端を発した「金融恐慌」(1927)があります。さらに浜口雄幸内閣の金解禁(1930)によるデフレーション政策と世界恐慌が重なって、日本経済が深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の倒産、、失業が急速に増大したことも指摘しなければなりません。

 これは、どちらかといえば外的要因によるものですが、実は、先に述べた「国民世論の急激な変化」の背景に、もう一つ、国民の隠然たる反米主義や中国人に対する近親憎悪的な反感が含まれていたことに注意する必要があります。渡部昇一氏は、こうした日本人の排外主義的な心情を生んだ背景には、次のようなアメリカ人や中国人の反日政策があったと指摘しています。そして、これらが、幣原外相がそれまで進めてきた国際協調外交の基盤を掘り崩し、日本国民の幣原外交に対する信頼を失わせるに至った根本原因であるとも指摘しています。(『日本史から見た日本人 昭和編』p131)

第一は、アメリカの人種差別政策
第二は、ホーリー・ストーム法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向
第三は、支那大陸の排日・侮日問題

 第一の問題は、日露戦争の翌年(1906)に発生したサンフランシスコ大地震後に、日本人や朝鮮人児童(中国人も含む)を公立学校からの閉め出したことにはじまります。ついで大正2年(1913)には、カリフォルニア州は土地法により日本人移民の土地所有を禁止、さらに1920年には、借地も禁止するという州法を成立させ、また他の州でも同様の州法が制定されました。さらに、1922年には、米国の最高裁判所は日本人の帰化権を剥奪する判決を下し、それまでに帰化していた日本人の市民権まで剥奪しました。そして、1924年には、日本人の移民を完全に禁止する「排日移民法」を成立させました。

 こうしたアメリカの措置が、元来は親米・知米的であった日本の学者、思想家、実業家をも憤激させ、そして日露戦争以来親米的であった国内世論を一挙に反米に向かわせることになりました。渋沢栄一は、排日移民法が成立した年に行った講演で、「(私は渡米後、)アメリカ人は正義に拠り人道を重んずる国であることを知り、かってアメリカに対して攘夷論を抱いていたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。」と前置きした上で、次のように慨嘆しています。

 「さらにこのごろになると、絶対的な排日移民法が連邦議会で通ったのであります。長い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏もないのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、七十年前にアメリカ排斥をした当時の考えを、思い続けて居たほうが良かったというような考えを起こさざるをえないのであります。・・・」(『前掲書』p166)

 第二の問題は、第一次世界大戦後の過剰投資が原因となって、1929年10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨーク株式市場が大暴落し、深刻な世界恐慌に発展したことに端を発しています。アメリカはこうした状況の中で、1930年6月に国内産業保護のためと称して1000品目以上の商品に高率の関税障壁を設けるホーリー・ストーム法を成立させました。これに対してどの国もこれに対抗して保護関税を設け、このためアメリカの輸出・入は半減し大不況に陥りました。さらに、こうした保護貿易の風潮の中でイギリスはオタワ会議を開き、イギリス連邦内に特恵関税同盟によるブロック経済を導入しました。

 これらのブロック経済の導入は、資源に恵まれたアメリカやイギリス連邦などのアングロ・サクソン圏では、国内やブロック内で何とかやっていけますが、資源のない国はどうしたらいいか。特に日本の場合は、近代産業に必要な資源をほとんど持たず、「せいぜい生糸を売って外貨を稼ぎ、それで原料を買い、安い労働力を使って安い雑貨を売り、それによって近代工業を進め、近代軍備を進めてきたのである。それに日露戦争以来の借金も山のようにある(そうした日本の負債がゼロになったのは昭和63年=1988年12月31日である)。」(上掲書186)という状態でしたから、これは死活問題でした。

 こうした状況の中で、日本が近代国家として生き延びていくためには、自らの経済圏を持たなければならないと多くの日本人が考えるようになったのも当然でした。また、先に述べたように、日本ではすでに昭和2年(1927)から金融恐慌に伴う不況がはじまっており、それに拍車をかけるような形で金解禁が断行され、不況は一層深刻化していました。おりしも、昭和6年9月21日にイギリスが金本位制から離脱したため、井上財政は信憑性を失い若槻内閣は総辞職し、それに代わって犬養毅内閣の高橋是清が蔵相となりました。その高橋が金解禁を廃止するやいなや円安状況が生じ、輸出ブームとなり景気が回復していきました。そして丁度この時期が、満州事変(昭和31年6月18日)と重なっていたことも、関東軍の暴走が国民に支持された一因だと渡部昇一氏はいっています。(上掲書p195)

 第三の問題は、中国人の日本に対する意識が、日清・日露戦争後の「恐日」あるいは「敬日」から、日本の「対華二十一箇条要求」(1915)を境に、「排日」そして「反日」・「侮日」さらにはボイコット運動へと変わっていったということです。この「二十一箇条要求」については以前説明しましたが、外交の拙劣としか言い様のないもので、最終的にはワシントン会議(1921~22)において当時駐米大使であった幣原喜重郎の努力でなんとか誤解を取り除くことができました。しかし、中国では、「二十一もの不当要求を日本が大戦のどさくさに中国に押しつけた」とされ、この条約の締結日である1915年5月9日は、中国の「国恥記念日」とされました。

 渡部昇一氏は、この他に、清朝が滅んだ後、袁世凱が共和国大統領となって「米国と組んで日本を抑える」方針をたてたこと。また、米国のウイルソン大統領が唱えた「十四箇条」が、その後の中国の反植民地主義を支えるバイブルになったこと。また、1919年のパリ講和会議あたりから、中国でしきりに日英同盟更新反対運動が起こったこと。さらにアメリカも、日露戦争後の日本に対する警戒感の高まりや、中国における日本との利害関係の対立から、イギリスに対して日英同盟の廃棄を迫り、その結果、日英同盟は廃棄され「四カ国条約」に代えられたこと。これらが、日本を孤立させ中国人の「侮日」を招くことになったと指摘しています。

 この間、支那では、清朝が滅んでのち中国各地の軍閥間の争いが続き、1922年には張作霖が東三省=満州の独立を宣言しました。「この間にも孫文の北伐や、奉天軍と直隷軍の戦い、いわゆる奉直戦争が二度も行われ、大正13年(1924)には、安徽省出身でありながら直隷派と手を組んだ馮玉祥が北京を占領した・・・。その翌年には広東の国民政府が樹立され、昭和2年(1927)には王兆銘の武漢国民政府出来、同じ年には蒋介石の南京国民政府ができる」といった具合で、めぼしい政府だけでも四つ五つあるといった状態でした。そんな中で、国家統一をめざす国民の中に、排外思想や攘夷思想、特に「排日思想」が強くなるのは自然の成り行きでした。

 そして、以上述べたような状況下にあって、いかにして日本の安全を確保し、民族としの生存をはかっていくか、そして、そのための生命線と考えられ急にクローズアップされたのが、「満州問題」でした。しかし、中国の「排日思想」の高まりの中で、幣原喜重郎の「対支宥和外交」は、蒋介石による北伐にともなって発生した第二次南京事件を経て「軟弱外交」「屈辱外交」との批判を浴びるようになりました。さらに、済南事件や張作霖爆殺事件の処理の失敗によって、対支関係は決定的に悪化しました。そこで、この「満州問題」解決のために残された唯一の手段が、武力による「満州領有」だったのです。

 こうした「満州領有」という考え方は、日露戦争以来、陸軍に根強くあったことは前回指摘しました。しかし、こうした手段に訴えることは、ワシントン会議の「九カ国条約」における中国の領土保全・主権尊重と門戸開放・機会均等主義や、さらには1928年の不戦条約(国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることをは禁止され認められなくなった。ただし国際連盟の制裁として行われる戦争及び自衛戦争は対象から除外)が成立して以降は、決して許されることではありませんでした。この時、その難問を解くべく登場したのが、昭和3年10月関東軍参謀として赴任した石原莞爾だったのです。

 しかし、結果をいえば、石原莞爾も、その満州占領直後から、自らの理論では到底国際社会を説得しきれないこと、また、中国人の納得も得られないことを悟らざるを得ませんでした。そのため、当初の「満州領有」計画は諦め、満州人の自治運動の結果としての「満州独立」という体裁を取らざるを得なくなりました。さらに、その「最終戦争論」に基づく米国との戦争に備えるためには「日・満・支」の連携が不可欠で、そのためには、満州を五族共和の「王道国家」としなければならないと考え、日本の指導性を排除することや、ついには、満州国の官吏たる日本人の日本国籍離脱を主張するようになったのです。

 こうした石原の「ユートピア」的ロマンチシズムは、当初は、「満州占領」の大義名分を求めていた軍人たちに強くアピールしましたが、やがて、そのリアリズムの欠如から遠ざけられるようになり、満州事変(1931.9.18)のわずか1年後の1932年8月には満州を追われました。石原退去後の満州は、関東軍による満州国政府に対する「内面指導」という名目での日本人官僚支配が強化され、それまでの「独立援助」は「属国化」に、「民族協和」は「権益主義」(=帝国主義)に姿を変えていきました。「内地に帰還した石原は永田鉄山参謀本部第二部長と面談した際『満州は逐次領土となす方針なり』と聞かされ愕然」としたといいます。(『キメラ満州国の肖像』p205)

 その後石原莞爾は、1935年に参謀本部第一作戦課長として復帰し、2.26事件において戒厳司令部参謀を任じられ事件処理に当たっています。また、1927年には作戦部長となって、関東軍の華北分離工作や廬溝橋事変後の戦線の拡大に、「最終戦争論」に基づく総力戦準備、生産力拡充計画を専行させる観点から執拗に反対しましたが、関東軍参謀長である東条英機や部下の参謀本部作戦課長の武藤章の「一撃論」を抑えることはできませんでした。そして、1937年9月関東軍参謀副長に左遷され(参謀長は東条英機)、38年8月には辞表を提出、41年には退役しました。

 このように見てくると、石原莞爾がなした歴史的仕事は、柳条湖事件という鉄道爆破謀略事件の後約1年間の「満州事変」の計画・実行それのみということになります。しかも、その結果生み出された「満州国」は、彼の「最終戦総論」にいう「王道国家」の理想とは似ても似つかぬもので、ただ、日本の戦争遂行に寄与・貢献するための官僚統制国家=日本軍による傀儡国家へと必然的に収斂していきました。さて、こうした歴史の推移を、石原莞爾の不明として責めるべきか、それとも彼の理想主義の挫折として惜しむべきか、私はその「偽メシア」としての厄災をこそ、しっかり認識する必要があると思います。

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