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2008年12月

2008年12月24日 (水)

日本国憲法第9条の生い立ちと有事教育の行方2

 前回、「あの憲法は、当時の国際的要求をかろうじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話をしていたことがある」という話を紹介しました。いわば敗戦という異常事態の中で、ソビエトが極東委員会を通じてアメリカの占領政策に介入しようとする緊急事態を迎えて、天皇制―日本政府は勿論のこと、マッカーサーも占領政策を円滑に進めるためには絶対に必要と考えていた―を守るためにはどうしたらいいか。そのためには、天皇の人間宣言を行うとともに、国民の総意に基づく象徴天皇制と戦争放棄を謳った日本国憲法を、極東委員会が開かれる前に日本政府案として発表することが、緊急避難措置としてどうしても必要だったというのです。

 また、これはあくまでも緊急避難的な措置ですから、「米側はGHQ製憲法の寿命は講和までの数年で、どうせ改正されるのだからと、気軽に考えていたふしがある。日本側でも金森国務大臣などは議会でいつもそれを念頭におきながら答弁を切り抜けていた」(『昭和史を縦走する』「占領期と占領史」秦郁彦p111)といいます。ところが案に相違して、「平和憲法」は、半世紀以上にわたって生きのびることになりました。問題となった第九条は、その後、マッカーサー草案段階から自衛権行使のための戦力保持を当然としていたように、自衛隊を合憲とし、さらにその戦力不足を補うため、米軍への基地提供を代償として日米同盟による安全保障体制が構築されることになりました。

 しかしながら、この日米安全保障条約に基づく安全保障体制は、「集団的自衛の関係によってでなく、基地に存在によって『同盟』関係を結ぶ」という変則的なものでした。そのため「アメリカの日本防衛義務が曖昧な点をとらえれば、この条約はその『物と人との協力』という点でも不完全な条約であり、かぎかっこ付きであれ同盟と呼べるような」ものではないといわれます。(『日米同盟の絆』坂本一也p126)また、このように自国の防衛をアメリカに任せて経済復興に専心するという路線は、アメリカへの依存度を高める一方国民の独立心を弱体化させ、他方、長期にわたる米軍基地の存在が国民の独立心を逆なでし反米感情を高めるという、アンビバレントな心理状態に国民を置くことになりました。

 そこでこの問題を考えるために、まず、こうした日米安保体制を導入した吉田茂の、日本の安全保障についての基本的考え方(おそらく幣原喜重郎がその原型)はどのようなものだったかについて見ておきたいと思います。

 「島国であり、海の国である」日本は、海外貿易と資本技術の導入によって生きねばならない。その面で「最も進歩している」「自由主義国」、とりわけ「米国との親善関係が、我が国にとって何より最も大切」である。つまり、戦後日本は通商国家・経済国家として再生させるべきである。(『占領期』五百旗頭真p386)そのためには「米国主導の占領改革を受け入れ、安保条約を結んで米軍基地を存続させ、同時に米国との通商、資本の導入を図る。自由民主主義をとり、軽軍備で経済重視の親米国家として戦後日本を再出発させる。」また、第二次世界大戦後の世界は「集団安全保障」と「国際的相互依存」の時代に入ったのであり、「再軍備」や「自主独立」などを振りかざすのは陳腐な思想である。(上掲書p397)

 こうした吉田茂の安全保障観を見ると、いわゆる「逆コース批判」(戦前の強権政治復活の危機感を訴えたもの)は長期的には全くの的外れであったことが分かります。それは「平和憲法」制定以降、アメリカに対して「負けっぷりの良さ」を演じつつ、憲法を盾にアメリカの軍備強化圧力をかわし、一方で通商国家・経済国家としての再生を一貫して追及してきたからです。そのためには、特に占領期間中、憲法九条が自衛権を排除していないことは百も承知の上で、「当面、戦力を持たない」―それは経復興の邪魔になるだけでなく、冷戦期を迎えて日本人がアメリカの先兵として使われる危険性を排除する―という戦略のもとに、あえて、自衛権の放棄をも含むユートピア的非武装論をマッカーサーに信じ込ませたのです。

 おそらくこれが、幣原及び吉田が説いた自衛権の否定をも含む「ビックリ非武装論」の謎を解く最も説得力のある解釈であろうと思います。(『昭和の三傑』堤堯 参照)

 そこで問題は、こうした考え方を今後の防衛論議にどう生かしていくかということになります。だがその前に問題となるのが、こうした幣原、吉田及びマッカーサーの言動が、自衛権の行使に伴う戦力=自衛隊の保持をも違憲とする考え方を国民の間に生み、自衛隊を「私生児」扱いしただけでなく、防衛論議がタブー化している現状をどう修正するか、ということです。そのためにはまず、憲法第九条は、自衛権の行使のための戦力の保持を認めている(最高裁判決でも合憲が確定)ということを明確にする必要があります。その上で、先に示した吉田茂が立国の基本方針、日本は「島国であり、海の国である」は、日本の生存の基本的条件を提示したものであり、それは今後も変わらないということについて、国民の認識を一致させることが必要です。

 それができれば、かっての自衛隊違憲論に端を発する自衛隊の私生児扱い、さらに今日にまで及んでいる防衛論議のタブー化などの問題の克服は、世界の自由主義経済化が進行し、テロに対する国際連合の役割が強化されている今日、それほど困難なことではないように思われます。ただ一つ、中国や韓国による「歴史問題」をテコにした日本人に対する贖罪意識の強要という問題があります。当然のことながら、これは「東京裁判」に根拠を置くもので、それは「一部軍国主義者の共同謀議により日本の侵略戦争が進められた」という歴史観を前提にしています。そのため、日本人の意識が、その「一部の軍国主義者」と「その他の国民」に分離され、後者を前者の被害者とみなすことによって、一部の軍国主義者=軍隊=自衛隊という発想連鎖でこれを否定する傾向を持つのです。

 しかし、これはいうまでもなく占領統治の常套手段であり、国民の不満を「一部の軍国主義者」に振り向けると同時に、その他の国民を免罪することによって占領統治(=支配)を容易にしようとする宣撫工作(中国の主張はその一種)なのです。山本七平はこれを「マッカーサーの歴史観」と呼んでいますが、こうした占領統治を容易にするために作られた歴史観に拘束されたままでは、到底、昭和戦争(『戦争責任』読売新聞社)の失敗の真因に迫ることはできないと思います。事実今だに、国民の間に、防衛問題を自由に論ずることをタブー視する傾向が残っているということは、かっての戦争は、「一握りの軍国主義」という特殊な思想の持ち主が引き起こしたものであって、自分とは関係がない、という考え方をしている証拠です。だが、事実はそうではなかった。あの戦争を国民は熱烈に支持し共に戦ったのです。

 では、以上の議論をふまえて、日本の満州事変以降の歩みを検証してみます。まず満州事変ですが、それは、先に紹介した吉田茂の安全保障観の原型をなす外交方針を確立した「幣原外交」を、「軟弱外交」「弱腰外交」として批判することから始まりました。確かに当時の日本も資源を「持たざる国」でした。それ故に通商国家、貿易国家として自由貿易体制を維持する必要がありました。しかし、当時の満州における日本の権益(資源を含む)の確保と、国家統一期にある中国の「国権回復運動」との外交調整は容易ではありませんでした。そこで軍は「幣原外交」を打倒し「武威外交」を推進したのですが、それは済南事件そして張作霖爆殺事件を引き起こし、中国との外交交渉を修復不可能なものにしてしまいました。そこに、世界恐慌に端を発する保護主義の動きが重なり、軍はこの問題の解決を、満州の武力占領に求めることになったのです。

 だが、これは否応なく、ワシントン体制下の中国の領土保全と門戸開放、機会均等を定めた九カ国条約に違反することとなり、イギリス、アメリカとの対立を深めることになりました。その結果、日本は、国際連盟によるリットン調査団報告書(満州独立を否認)の採択に反発し国際連盟を脱退することになりました。こうして日本は、ロンドン軍縮条約の破棄による際限なき軍事国家への道を歩むことになったのです。この間、関東軍はその軍事力にものをいわせて華北五省分離工作を推進し、ついに泥沼の日中戦争に突入することになります。英米との対立はさらに深刻化し、国際的孤立を深めた日本は、なんとイギリス本土を爆撃中のドイツヒトラーと日独伊三国同盟を締結し、さらに資源獲得のため南部仏印に軍を進め、こうして米英との対立を決定的なものにしていったのです。

 こうした歩みは、一言にしていえば、通商国家から軍事国家への転換ということで、自由主義国家との連携を捨てて全体主義国家との提携を選択するものでした。そして国内においても政党政治を軍事クーデターやテロによって破壊し、大政翼賛会という一党独裁的政治体制を確立することによって、議会を軍の翼賛組織と化しその予算審議権を手中に収めていったのです。これは、大正デモクラシー下にようやく形を整えつつあった政党政治と、それに基盤を置く議会制民主主義を破壊するもので、戦後吉田茂が採った「軽軍備で経済重視の親米国家」とは対照的な、「重武装で軍事力優先の親ファシズム国家(=国家社会主義)への転身をはかるものでした。

 さて、こうした日本の戦前の歩みが、はたして歴史的にみて避けられないものであったかどうか、これは議論の分かれるところだと思います。しかし、あえてそこから教訓を引き出すとすれば、その最大の教訓は、「持たざる国」としての生存の道を自由貿易体制の確立の中に求めることを諦めて、帝国主義的植民地主義によって「もてる国」になろうとしたことにあったのではないかと思います。その自由貿易体制の確立ということが、当時の国際関係とりわけ日中関係においてどれだけ現実性を持っていたか、ということが問題になると思いますが、私は、当時の幣原外相の外交方針を再点検するとき、中国の主権を尊重する方向で、満州における日本の権益を維持・拡大することは必ずしも不可能ではなかったのではないかと思っています。

 そのことの検証は後日を期すとして、話を元に戻しますが、山本七平は、「新憲法が発布されたとき、私は少しも違和感を感じなかった。」と次のようにいっています。

 「そしてこれは恐らく私だけではない。その時代における総力をあげ、そのため長い間最低生活に甘んじ、それを当然と考える状態にあって作りあげた陸海軍は、実に無用の長物で、何の役にも立たず、ただ一方的に叩きつぶされたにすぎなかったという事実は、あまりに歴然としていた。おそらく今ではこの言葉は極端な議論にきこえるであろう。だがそれはその人が「緒戦の大勝利」という当時の新聞のまやかしや、・・・「強大な武器をもった日本」などという虚構にひっかかっているからに過ぎない。・・・そしてこの「一方的に叩き潰された」という図式は陸軍にもそのままあてはまり、ただその現れ方が海軍より複雑だというにすぎず、それは中国戦線でも南方戦線でも、結局は同じことであった。」(『ある異常体験者の偏見』p178)

 「何度も言ったが、日本という国は、島国という特質、食糧・燃料という資源、カッとなる傾向(これは射撃には全く不適)、軍隊が運用できない言語等々々、あげれば全くきりがないが、そのすべては近代戦を行いえない体質にあり、そのことは太平洋戦争という高価な犠牲が百パーセント証明した―これが、当時のわれわれの実感だったはずである。」

 「そしてこの実感は、新憲法に違和感を感じさせず、また、たとえ憲法を改正してもこの客観的事実が変るわけではないのだから、生きて行くつもりなら、ここを起点として、全く別の道を模索せねばならないと思わせたはずである。当時から約四分の一世紀、その間われわれは本当に何かを模索したのであろうか。実は何もしなかった。・・・なぜそうなったか。われわれにとって新憲法が何であれ、マッカーサーにとっては『占領政策』の手段にすぎず、マック制を護持するための方便であり、占領統治・宣撫工作と新憲法とがからみ合ってしまったからであろう。」(上掲書p179)

 「このマック制が、宣撫工作に新憲法を悪用し『新憲法擁護』が、結局マック制擁護の錦の御旗になり、その結果『新憲法』と『軍政・宣撫工作』という全く相いれないものの間で、人びとが一種の循環論に落ちこんだこと、それが『新憲法』の最大の不幸であり、同時にそれは、われわれにとっても最大の不幸であろう。従って、今に至るまで、新憲法が、日本という国の持つ一種の『体質』の結果、必然的に生み出されたという当然の見方が全くないのも、あるいは不思議でないかもしれぬ。」(上掲書p180)

 この山本七平の『ある異常体験者の偏見』は、昭和48年に文藝春秋紙に掲載されて話題を呼び「文藝春秋読者賞」を受賞したものです。それからすでに35年、山本七平のいういわゆる新憲法を生み出した、日本という国の持つ一種の『体質』、それをふまえた日本の安全保障のあり方についての論議は、一体その後どれだけの進展を見たのでしょうか。山本七平はこの時、「これを考えるためには、まず、マック制というその宣撫班的発想から自らを解放することである。これがある限り、何の結論も出てくるはずはない。」といっています。その上で、「まず、われわれが置かれている現実の位置を見、過去における決定的な失敗の跡をたどり、それへの検討を新しい方法探求の基盤とすべきであろう。」(上掲書p194)といっています。

 私は先に、戦後の吉田茂が採用した「自由民主主義をとり、軽軍備で経済重視の親米国家として戦後日本を再出発させる」という外交方針―それはとりもなおさず彼の安全保障観の前提をなすものですが、それと、満州事件以降日本が採った外交政策を比較してみました。そのどちらが成功したかといえばいうまでもなく前者です。では、こうした国運を左右する選択の岐路にあたって、戦前そして戦後のマスコミそして国民の多くは、はたしてどれを選択しようとしたのでしょうか。いうまでもなく戦前は、軍の指し示した「重武装で軍事力優先の親ファシズム国家(=国家社会主義)」への道でした。そして戦後は、非武装のままソ連に隷属する衛生国家への道でした。この間、スターリンや毛沢東が戦前のヒトラーの如く国民の人気を博したことは言うまでもありません。

2008年12月13日 (土)

日本国憲法第9条の生い立ちと有事教育の行方1

 前回、自衛隊と憲法第九条との関係、そして有事教育の必要性について述べました。問題は、実は憲法第九条第一項の「戦争放棄」ではなくて、第二項「戦力不保持」の規定が、あたかも自衛権の行使のための戦力をも否定しているかのように読めてしまうということです。そのため、自衛隊の存在そのものを「憲法違反」とする考え方が、憲法制定以来60年経っても残ることとなり、その結果、自衛権を行使するとはどういうことか、有事の際には国民はどう行動すべきかということも含めて、防衛問題を議論することが国民の間で極めて困難になっているのです。

 これは大変不思議なことで、というのは、この憲法第九条の条文が確定した段階では、それは決して自衛権の行使まで否定するものではなく、従って、そのための戦力の保持は認められると解釈されていたからです。また、こうした考え方は、この日本国憲法を審議する国会論戦でも当然のこととして主張されていました。南原繁貴族院議員は「歴史の現実を直視して少なくとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考えるということは、これは当然のこと・・・之を憲法において放棄して無抵抗主義を採用する何らの道徳的義務はないのであります(8月27日)」と言っています。

 こうして出来上がった日本国憲法第9条の規定は次の通りです。

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この規定の内、第一項の冒頭「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と、第二項の冒頭「前項の目的を達成するため」は、憲法改正特別委員会におけるいわゆる芦田修正(1946.8.20)で挿入されたものです。その目的は、第一項については、平和なら何でもいいというのではなく、あくまで正義と秩序が保たれた国際平和という意味であり、そのためには、世界政府のような国際機関など何らかの平和維持機構を想定していました。また、第二項の「戦力を保持しない」「交戦権は認めない」というのは、前項の目的を達成するため、つまり国際紛争を解決する手段としての戦力は持たないという意味であって、自衛権を行使するための戦力はこの限りではない、と解釈されたのです。

 この修正によって、日本が自衛権を行使するために戦力を持つことは、条文解釈上可能となりました。芦田はこの修正について、GHQ民政局のケーディスに了承を求めています。それに対してケーディスは即座に同意し、芦田が、マッカーサーやホイットニーに相談しなくてもいいのかと訊ねたところ、「大丈夫だ、問題ない」と答えています。また、ケーディスは、部下が「これでは日本は再軍備できることになるではないか」と騒ぎ出したのに対して「日本から自衛権まで奪うのはやり過ぎだ」と答え、民政局長のホイットニーもこの訴えに対して「それがどうした、それでいいじゃないか」と答えています。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p216)また、連合国11カ国で構成する極東委員会も、国務大臣(軍部大臣含む)を文民とする規定を第66条を追加することでこれを了承しています。(1946.9.25)

 と、こう見てくれば、戦後の日本がその自衛権を行使するために自衛軍を持つことは当然、GHQもそれを認めた、ということになり、冒頭に述べたような問題は起こらなかったはずですが、その後の歴史の展開はいささか違っていました。というのは、この憲法第九条の議会審議(1946.6)において、「侵略された場合はどうするのだ、他国との条約でも考えているのか」という質問に対し、吉田茂は「本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが」と前置きした上で次のように答弁しました。「従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。日本は好戦国である、・・・ということが、日本に対する大きな疑惑であり、また誤解であります。・・・ゆえにわが国においては、いかなる名義をもってしても交戦権はまず第一自ら進んで放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす・・・」

 これは、「自衛権は憲法上否定されているわけではないが、自衛権の発動はしない、つまり、自衛権の名によって戦う権利を放棄する」といったのです。なぜか、「日本は好戦国である、いつ再軍備をして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からない」そういう世界の日本に対する大きな疑惑がある。従って、そうした日本に対する疑念を解くためには、「いかなる名義をもってする交戦権も自ら進んで放棄する」という規定を憲法に明記する必要があるというのです。こうした吉田の見解は、昭和49年の施政方針演説にも「我が国の安全を保障する唯一の道は、新憲法において厳粛に宣言せられたごとく・・・非武装国家として・・平和を愛好する世界の世論を背景に」と一貫して主張されています。

 ところが、その翌年昭和50年1月の施政方針演説では、「戦争放棄の趣旨に徹することは、けっして自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。わが国家の政策が民主主義、平和主義に徹底し、終始この趣旨を厳守して行動せんとする国民の決意が、平和を愛好する民主主義国家の信頼を確保するにおきましては、・・・この相互信頼が、民主主義国家相互の利益のために、わが国の安全保障の道を論ぜんとする国際協力を誘致するゆえんであるのであります」と述べています。これは、戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではない。民主主義・平和主義に徹する我が国への信頼が、民主主義国家相互間の安全保障を誘致し、それによって我が国の安全は守られる、といっているのです。要するに、自らの軍備はなくても、自衛権の行使の一形態としてアメリカに守ってもらう、つまり平和条約と日米安保条約の締結を示唆したのです。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p361~363)

 もちろん、このような自衛権の解釈は、先に紹介した芦田修正の中にも見られるもので、その時は、安全保障を担う世界機構として国際連合が想定されていました。しかし、すでに昭和22年3月のトルーマンドクトリンあたりから米ソの冷戦構造が明らかになり、1948年はチェコの政変やベルリン封鎖などで東西関係は一触即発の危機を迎えていました。そのため、当初、日本の安全保障の担い手とされた国連への期待も疑問視されるようになり、そして、1948年10月には、アメリカの対日政策は全面転換(NSC-13/2)されました。そこでは日本を西側陣営の一翼とすることが決定され、日本の再軍備が要請されるようになりました。しかし、こうしたワシントンの要請に対して、マッカーサーは1950年に至るまで「日本は東洋のスイスたれ」といい、日本の再軍備に徹底して反対し、ワシントンの日本再軍備の要請を拒否し続けました。

 では、なぜマッカーサーは日本の再軍備に反対したのか。その理由は、「日本に軍隊を作るための足がかりとなるような措置をとることは、日本占領の性格と目的をそこなう恐れがあるので望ましくないし、時期尚早である」(『史録日本再軍備』秦郁彦P108)というものでした。その「日本占領の性格」とは、トルーマン大統領からマッカーサーに交付された「初期の対日方針」(1945.9)に示されたもので、日本が「再び米国の脅威となり又は世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」ため、日本の非武装化と民主化を図るというものでした。しかし、それだけなら、すでに日本はGHQによる占領支配を受けているのですから、冷戦期を迎えて新たにソ連勢力が脅威となり、その「封じ込め政策」がとられて後は、当然、日本占領の性格が変化してもおかしくありません。

 というのは、NSC(アメリカの国家安全保障会議)はすでに1948年3月にトルーマン大統領に対して次のような「ソ連の指導する世界共産主義に関するアメリカの立場」という文書を提出し、ソ連の脅威を訴えていたからです。

 「枢軸陣営の崩壊で世界には米・ソという二つの巨大中心勢力が生まれた。アジアとヨーロッパはその争奪目標であるが、この両地域がソ連の手中に入るとソ連は圧倒的に優勢となり、アメリカの影響力は微弱となるので、かかる〔国家的自殺〕を受け入れることはできない。・・・今やスターリンはヒトラーが失敗した目標をほとんど達成しようとしている。・・・ソ連は自由陣営とは共存不可能である、とのドグマに立っている・・・クレムリンに主導権を与えてはならぬ・・・防衛体制は不得策であり、アメリカは世界的な反撃体制を創設しなければならぬ」。そして、そのために直ちにとるべき具体的手段として、対外面では、(4)侵略に対する軍事的反撃、(5)非共産主義国家の軍事力強化等が必要である、としていました。(『史録 日本再軍備』秦郁彦p115)

 このように、「非共産主義国家の軍事力強化」が求められる中で、対日講和問題が話し合われるようになりました。トルーマン大統領はジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命し対日講和問題を専任させました。そのダレスが1950年6月6日にアリソン日本課長とともに作成した第一次講和条件案は、(1)日本を平和的、親米的かつ反共的な国家に育成する。(2)強力な警察軍を創設する。(3)日本人のアメリカ移民を許容する。(4)賠償その他の経済統制は課さない。(5)日本の国連加盟。(6)ソ連をふくむ講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を講和条約と同時に締結する、等でした。(6)は変な感じがしますが、講和はソ連をふくむ連合国が参加して行うものであり、客観情勢をつめていけば、多数講和、日米安保条約、日本の再軍備の戦に落ち着くであろうと読んでいたのです。(前掲書p130)

 これに対して、マッカーサーは当初は日本の再軍備にも米軍駐留にも反対していましたが、当時来日していたジョンソン国防長官の顔を立てる形で「米軍の要点駐留」を譲りながらも、なお日本の再軍備には反対しました。また、6月22日の吉田・ダレス会談で吉田首相は「非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と力説し、ダレスは「不思議の国のアリスに会ったような顔」になって沈黙したといいます。これは、これに先立つ4月末から約一ヶ月間、池田勇人蔵相がアメリカを訪問した際、講和の促進と米軍の駐留について打診したことが、マッカーサーを飛び越してワシントンとの連絡を企てたものとして、マッカーサーの不興を買い吉田首相が陳謝した事件の余波とされ、吉田は安全保障の問題で総司令官を出し抜く発言をすることは慎んだ方が賢明と判断したためではないかといいます。(『上掲書』p132)

 ところが、1950年6月25日朝鮮戦争が勃発しました。在日米軍は急遽朝鮮半島に出動しなければならなくなり、そのため日本が手薄になるというので、マッカーサーは75,000人からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の8,000人増員を指令しました。しかし当時も、マッカーサーは依然として、日本に必要なのは国内治安能力だけであり、再軍備は不必要と考えていました。そんな中で、1951年1月、正式に対日講和を交渉するダレス使節団が日本に到着しました。ダレスは「日本は独立を回復して自由世界の一員になろうとする以上、・・・自由世界の強化にいかなる貢献をしようとするのか?」と吉田に尋ねました。吉田は再軍備の不可を経済面、対外面から説きました。また、マッカーサーは「自由世界が今日日本に求めるものは軍事力であってはならない」といい、吉田の側に立つ意見を述べました。(上掲書P372)

 しかし、吉田は2月3日、「日本の防衛努力について、ダレスに対して何の意思表示もしないで、日米協定だけをまとめるという虫のいいことは到底見込みがないと考え」て、5万人からなる保安隊を設ける案をアメリカに示しました。しかし、正面から再軍備をするための憲法改正は、いまのところ「きわめてデリケートで困難」であり、「平和条約が締結され日本が国際社会に復帰して、日本人が軍備を持つべきであるとの気持ちになるまでは、国内治安のための警備力という概念」にとどめるとしました。その後マッカーサーは、朝鮮戦争における強引な情勢判断と独走がもとで解任されました。マーシャル国防長官は「マッカーサーは二年前に解任すべきだった」と述べたといいますが、それは、マッカーサーが、自分がつくった日本の平和主義路線に固執して、ケナンからダレスに至る米本国の現実主義を斥け続けたことをさしています。(上掲書p375~380)

 では、マッカーサーはなぜこれほどまでに日本の非武装化に固執し続けたのでしょうか。

この日本の非武装化というアイデアは、1946年2月3日にマッカーサーがGHQ民政局長ホイットニーに憲法草案の起草を命じたときに示した、いわゆる「マッカーサーノート」の一項にあったものです。それは、「二、国権の発動たる戦争は、廃止する。」という項目の下に次のような説明書きが添えられていました。「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。日本が陸海空軍を持つ機能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」(『マッカーサーの二千日』袖井林二郎P173)

 実は、この項目は、その10日ほど前の1月24日のマッカーサーと幣原首相の会談をふまえて作成されものです。マッカーサーはこのときの様子を自らの『回想記』で次のように述べています。

 「首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対ないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。」

 「私は腰がぬけるほどおどろいた。・・・戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。・・・原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。私がそういった趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感極まるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」

 これは、「戦争放棄」と「非武装化」のアイデアはまず幣原の方から示され、それに対してマッカーサーが共感を示した、と説明するものです。しかしこれに対して、「マッカーサー草案」を作った当人であるケーディス大佐ほか民政局のスタッフは、口をそろえてマッカーサーのアイデアだといっています。(『史録日本国憲法』児島襄)そして、幣原自身も、側近の村山有氏に「戦争放棄は私から望んだことにしよう・・・」といったといいます。こうしたやりとりから判ることは、憲法にこうした条項を盛り込むことについて両者の見解が一致したことは間違いなく、そして、そのアイデアはあくまでも幣原(=日本側)から提起された、とすることについて合意が得られた、ということではないかと思います。

 では、どうして両者間にこのような合意が成立したのか。幣原は2月21日に再びマッカーサーと会談し、その内容を22日の閣議で次のように報告しています。

 「マッカーサーは例のごとく演説を始めた。『吾輩は日本のために誠心誠意図っている。・・・しかし極東委員会の討議の内容は、総理の想像に及ばないほど、日本にとって不快なもの(天皇の戦犯訴追も含め=筆者)だと聞いている。自分もいつまでこの地位に留まりうるや疑わしいが、その後を考えるとき自分は不安に堪えない。・・・憲法第一条は・・・米国案は天皇護持のために努めているものである。・・・また軍に関する規定は全部削除したが、この際日本政府は、国内の意向よりも、外国の思惑を考えるべきであって、もし軍に関する条項を保持するならば・・・またまた日本は軍備の復旧を企てていると考えるに決まっている。日本のためを図るに、・・・戦争を放棄すると声明して、日本がmoral leadership を握るべきだと思う』これに対して、幣原は、leadershipといわれるが、おそらく誰もfollowerとならないだろうといった。マックはfollowerがなくても、日本は失うところはない。これを支持しない者が悪い、といった」

 この幣原によるマッカーサーの主張の説明と、マッカーサー回顧録の説明とはかなり食い違っていますが、岡崎氏は、1月24日のマッカーサーの言葉は、幣原が2月22日に紹介したマッカーサーの言葉の通りだろうといっています。そのポイントは二つあり、一つは天皇を守るためには、天皇制維持を定めた憲法を通さなければならないということ。そしてそのためには、戦争放棄などを含む、極東委員会といえども反対のしようのないリベラルな憲法を作らなければならない。それも、それが占領軍の強制ということでは、マッカーサーは極東委員会やワシントンに対して新憲法を守りきれないので、あくまで日本側の自発的意志ということでなければならない。つまり絶対に人に言えないマッカーサーとの約束が幣原にあったとすれば、それをそれを日本側の発意とする、ということで、幣原はそれに同意したのではないかと氏は推測しています。

 実は、こうした憲法改正は極東委員会の専管事項であり、その極東委員会の開催は2月26日となっていました。また、それはあくまで日本が主体的に取り組むべきこととされていたのです。そこで、マッカーサーは、憲法問題には介入せず日本政府の自発的発案に任せてました。しかし、2月1日に毎日新聞にスクープされた日本側の憲法改正案は旧態依然たるものであり、また、マッカーサーは占領の成功のためには天皇の権威を温存してこれに頼るしかない、と考えていたため、急遽1月24日の幣原との会談で、一、天皇は国の元首の地位にある。二、国権の発動たる戦争は、廃止する。三、日本の封建制度は廃止される。の三本を柱に、新たに憲法草案を策定することを提起し、それをあくまで日本側の自発的発案とすることで幣原の諒解を求めたのです。

 そして、この作業を極東委員会の開催日である2月26日前に完了するため、民政局のホイットニーに2月3日、三項目の「マッカーサーメモ」を渡して2月12日までに憲法草案を策定することを求めました。そして2月13日にその案を日本政府に交付。日本政府は、それまでに松本案を作成し2月8日にはGHQに提出していましたが棚上げされたまま、突然、13日のGHQ案に接することになりました。2月21日の閣議では「到底受諾できない」との声が大勢でした。そこで2月21日に、先に紹介した第2回目の幣原・マッカーサー会談がもたれたのです。幣原はその後直ちに天皇に拝謁し「象徴天皇制」についても説明しましたが、天皇は「象徴でいいではないか」と答えたといいます。その後、新憲法草案は若干の表現上の手直しの後、3月6日、日本政府案として公表されました。

 幣原は、その後4月22日に内閣総辞職をしますが、その直前の枢密院での憲法草案審議第1回審査会において、「戦争放棄は私の信念である」と述べたとされます。それは、1月24日のマッカーサーとの約束をふまえれば、少なくとも占領時代が終わるまでは、それは自らの発案である、といい続けるほかなかったのだと思います。国会図書館長の金森徳治郎は、昭和25年の晩秋、幣原に占領初期のことについて「日本側でも一つ正確な記録を作っておかなければならないと考えるが、そのことになるとあなたご自身しか知らないことがずいぶん多いから、この際ぜひお話を伺っておきたい」と訊ねましたが、幣原は「そのことをお話しするのはまだ時期が早い」といって何も語らなかったといいます。幣原はその翌年3月、平和条約の調印を見ずに亡くなりました。(『吉田茂とその時代』P139)

 以上、憲法第九条、特にその第二項「戦力不保持」「交戦権否認」の規定がどのようにして生まれたのか、について説明しました。それにしても、マッカーサーはなぜ、あれほど繰り返し本国の方針に反してまで、そして大統領の目がなくなってから後も、さらに、朝鮮戦争の勃発によってその非現実性が明らかになっても、日本の戦力不保持にこだわったのでしょうか。考えられるのは、あれほど無理をして日本国憲法を作り、それをによって日本の占領を歴史的成功に導き、非武装化による平和の実現と諸制度の民主化を図った。つまり、そう自負する自らの業績の正当性を一貫して守り通そうとした、ということではないかと思います。では、幣原や吉田はそれに利用されただけだったのでしょうか。いや、そうではない。彼らは逆に、そうしたマッカーサーの性向を見抜き、非武装をという憲法理念を逆利用して、冷戦下におけるアメリカの極東戦略の先兵に日本人が使われる危険性を未然に防いだ、堤堯氏はそのように推測しています。(『昭和の三傑』参照)おそらくこれが幣原と吉田の憲法第9条の解釈の不可解さ(自衛権行使のための戦力をも否定した)を説明する最も妥当な解釈であろうと私は思います。(下線部追記12/5)

 いずれにしろ、「あの憲法は、当時の国際的要求をかろうじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話をしていたことがある」(『占領秘録』住本利男)つまり、そのような歴史的せめぎ合いの中に、冷静に日本国憲法の第九条の生い立ちとその特性を捉える必要があるのです。その救助艇としての役割を無事母船に回収するためにも・・・。

2008年12月 2日 (火)

田母神論文が教える「有事教育」の必要性

 12月1日、田母神氏は日本外国特派員協会で講演し、「普通の国のように軍を使うことができないのは歴史認識の問題」と従来の考え方を繰り返し強調しました。また、「(核保有を)議論するだけで(核)抑止力が向上する」などと国内外での「本音の安全保障論議」の必要性を訴えました。(毎日新聞12月1日配信)さらに、戦争や武力行使の放棄をうたった憲法9条についても「国民の意見が割れており、直してもらった方がいい」と述べました。また、懸賞論文で「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣(ぬぎぬ)」と主張した点については「自衛隊員の多くは支持していると思う」と語りました。(読売新聞12月1日配信)

 田母神氏のいう歴史認識の問題については今まで論じてきましたので、ここでは、現在の平和憲法下における自衛隊のあり方、それを担う自衛隊員の意識あるいは「士気」の問題について、私見を申し述べておきたいと思います。田母神氏は、「日本は侵略国家だった」という歴史観が「普通の国のように軍を使うこと」を困難にしているといいます。そして、核という問題も含めて「本音の安全保障論議」が必要であり、それが自由にできないのは、「国際紛争解決の手段」としての武力の行使を放棄した憲法9条についての「国民の意見が割れている」ためであり、こういう状態は「直してもらった方がいい」と述べています。

 ここで田母神氏のいう「普通の国のように軍を使うこと」というのは、どういう意味なのか必ずしもはっきりしませんが、一応ここでの議論は現行憲法下における自衛隊のあり方についての議論だと思いますから、これを「軍=自衛隊による自衛権の行使」という風に理解して議論を進めたいと思います。田母神氏はこの「軍=自衛隊による自衛権の行使」が困難になっているのは「日本は侵略国家だった」という歴史観があるからだといっています。しかし、私はそれは違うと思います。実際は、国際法上「侵略国家」といわれても仕方のない軍事行動があったという反省に立って、憲法上軍の使用を自衛権の行使に限定したのであり、そして、こうした考え方は、国際法から見ても決して特異な考え方ではなかったのです。

 国連憲章(1945.10.25発効)は、国連の目的が「国際の平和及び安全を維持すること」であることを明記し次のように規定しています。

 第一条 平和を破壊するに至る虞の国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
 第二条 すべて加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

 つまり第一条は、国際紛争はすべて平和的手段によって解決するということであり、第二条は、武力による威嚇又は武力の行使はいかなる場合も他国に対して行わない、ということです。いうまでもなくこの規定は1928年の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、日本を含む当時存在した主要国60カ国が調印、現在でも有効とされる)の規定を反映したものです。この不戦条約は次のように規定しています。

 第一條 締約國ハ國際紛争解決ノ為戦争二訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互間係二於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ拠棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名二於テ巌蕭二宣言ス
 第二條 締約國ハ相互間二起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段二依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス
 
 これは、日本国憲法第9条一項の規定そのままです。そして東京裁判における最大の訴追理由は「平和に対する罪」ですが、これは、この不戦条約を破って戦争を始めたことそれ自体とされたのです。(『滅び行く国家』立花隆p224~228)もちろん、不戦条約は自衛戦争を認めています。そしてこのことを当時の日本もよく知っていました。それ故に、満州事変や真珠湾攻撃を自衛戦争だと言い張ったのです。しかし、これが通るためには不戦条約の解釈から「先制攻撃」(=作戦計画に基づき第一撃を討つこと)をしては駄目で、だから、満州事変が関東軍の謀略(=柳条湖における満鉄線路爆破)に始まったことを関係者は隠し続けたのです。(それが当事者の証言で明らかになったのは1956年秋のこと)

 また、真珠湾攻撃では開戦通告が遅れたことが問題とされますが、不戦条約によって開戦手続き(=最後通牒又は宣戦布告)は集団安全保障に基づく参戦を除いて空文化していた(『軍事学入門』別宮暖朗p36)そうですので、たとえ宣戦布告が真珠湾攻撃開始以前だったとしても自衛戦争とは認められなかったでしょう。もちろん戦争にはどちらが先に手を出したかということの外に、どちらが正義かということがありますが、これはいずれの国でも主張しうることであり、いわばそれは自国民を戦争に駆り立てるための宣伝に過ぎないといえます。ここに、不戦条約が先制攻撃を非としていることの意味があるわけで、つまり、その最初の一撃を侵略と規定することで戦争の発生を防止しようとしたのです。

 もちろん、これで戦争が防げるかというと、その後の歴史を見ても判る通り、必ずしもその理想どおりにはいきません。宗教的あるいはイデオロギー的に自国の軍事行動を正義とする国家が現れ、それに対して有効に対抗できない場合は侵略される恐れが出てきます。そこで、勢力均衡の考え方に立つ「同盟を含んだ安全保障体制」の構築が必要になってくるのです。つまり、日本国憲法第9条第一項の規定は、「同盟を含んだ安全保障体制」(=日米安保条約)の構築と矛盾するものではないのです。それは、自国の自衛権の行使(=独立の確保)を集団的な安全保証体制の中に求めようとするもので、従って、当然「集団的自衛権」は認められるのです。

 ただし、現在の日本政府は、憲法解釈上「日本の自衛権は憲法上の制限に従って行われ、自衛権の行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるため、「集団的自衛権を行使することは…憲法上許されない」としています。しかし、それでは、日本はアメリカと安全保障条約を結ぶことによって自国の自衛権を担保してもらうが、その逆はできないということになります。そこで、その埋め合わせをするために「思いやり予算」など在日米軍の駐留経費の一部を負担したりしているのです。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、アメリカからの要請によって、安全保障分野における日本の役割拡大が求められるようになりました。

 これは、アメリカと日米安全保障条約を結び、自国の自衛権の行使をアメリカによる「集団的自衛権」行使によって肩代わりしてもらっている以上当然出てくる議論で、日本はアメリカのそうした要求を、平和憲法を盾に今まで拒みつづけてきたのです。それは「日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」とした、連合国最高司令官マッカーサーの指示を受けて作成されたものだったからです。しかし、当初の民政局が示した原案は、自衛権まで否定するものでしたので、その後、いわゆる芦田修正により日本国憲法第9条第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため」が挿入され、「」自衛権行使のための戦力の保持及び国の交戦権」は認められるとしました。だが、「集団的自衛権」の行使については、日本国憲法9条の解釈として認められない、と解釈してきました。

 ここに、日本国憲法第9条の解釈上、田母神氏も指摘するような、日本の防衛をめぐって「国民の意識が割れる」状況が発生しているのです。実際、この条文の成立過程を見れば、もともとそれは、一切の戦力の保持及び交戦権を否定していたことは明らかで、文章表現もそう解釈するのが自然です。また、第二項の「前項の目的を達成するため」も、自衛権の行使を可能とするため応急的に挿入したもので、苦肉の策という外はない。そして、こうした一見して矛盾した条文をあえてそのままにすることによって、日本の自衛権の行使の有効性をアメリカの「集団的自衛権の行使」に担保させつつ、一方、アメリカの極東戦略に巻き込まれないために、自らの「集団的自衛権」の行使は憲法上できないとしてきたのです。

 こうした態度は、ある意味では狡智といえますが、何となくすっきりしない。一体、こういう態度がいつまで許されるのか、しかし、そのおかげで日本は戦後60余年間一人の戦死者も出さず、また他国の人を傷つけることなく平和を保ってきた。それは世界が夢みてきたことではないか。だから、その理想は今後とも誇り高く保持すべきではないか。こうした意見がある一方、だがそれは、アメリカ軍の一方的な犠牲の上に保持されてきた平和ではないか。また、日本も憲法解釈上自衛権の行使は当然としており、実際、世界第三位(軍事費)の自衛力を持つ自衛隊を持っているではないか。それなら、そうした自衛隊の役割を憲法上明記し、国論の分裂を避けるほうが賢明ではないか、という意見もあります。

 さて、こう考えてくると、私たち国民は、自国の安全・独立の確保のために自衛権を行使するとはどういうことかということを、憲法第9条を盾に、あまり考えてこなかったということに気がつきます。あるいは、その困難に伴う精神的負担を自衛隊員に押しつけてきたのではないか。いやそれどころか、彼らの仕事を軽視あるいは忌避さえしてきたのではないか。こうした観点から田母神氏の提起した自衛隊員の意識あるいは「士気」という問題を考えてみると、氏の訴えるところは一理ある。いうまでもなくそれは、日本人は、今後、日本の「有事」ということをどう考えるのか、という問いにつながっていきます。

 実は、こうした問題は、一部の政治家や官僚が考えればいいという問題ではないのです。そもそも防衛とか有事への対応ということは、国民生活にも重大な影響を及ぼすことであり、国民の理解と支持がない限り不可能なことなのです。当然、教育の課題としても採り上げられるべきものです。しかし、今日までの中央教育審議会の答申はいずれも、国際化の重要性を強調し、そうした厳しい環境の下で経済的な繁栄を持続していくためにはどうしたらいいかを論じながら、その前提となる平和の確保、我が国の安全保障の問題については一言も触れてきませんでした。。(『未来形の教育』市川昭午「なぜ有事に言及しないのか」参照)

 では、本当に「有事はないと考えてよいか」「本当にアメリカ頼みで大丈夫か」日米欧の120名以上の識者・知識人に対するインタビューに基づいて作成された三つのシナリオの一つは、「安保で自立を迫られる日本」だったといいます。(上掲書p72)それよりなにより、日本人は独立国家として自国の安全を守るということ、その意味が判らなくなってしまっているのではないか。ホントに憲法改正をしないだけで、国の安全は守られるのか。少なくとも、現在の世界各国の安全保障の実態を学ぶべきではないか。さらに、現在のような国民の意識で、自衛隊員に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」ことを求めうるのか。まずは、「国民が防衛問題の重要性を認識し、有事への対応を真剣に考え、まともに議論し合うこと」が必要ではないか・・・。

 「本当の文民統制は、文民が防衛問題について的確な見識を有することを前提としてはじめて可能となるのである。」(上掲書p82)

 と、ここまできて、ふとあることに気づきました。例の裁判員制度についてですが、その意味が私はどうもよく分からなかったのですが、これはある意味で、我が国の安全の確保、社会秩序の維持ということについて、国民の意識の高揚をねらって、その審理過程に参加さすべく義務を課す、つまり、徴兵制ならぬ一種の「徴民制」ではないかと・・・。それならそうとはっきり言うべきではないかと、私は思いました。

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