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2008年12月13日 (土)

日本国憲法第9条の生い立ちと有事教育の行方1

 前回、自衛隊と憲法第九条との関係、そして有事教育の必要性について述べました。問題は、実は憲法第九条第一項の「戦争放棄」ではなくて、第二項「戦力不保持」の規定が、あたかも自衛権の行使のための戦力をも否定しているかのように読めてしまうということです。そのため、自衛隊の存在そのものを「憲法違反」とする考え方が、憲法制定以来60年経っても残ることとなり、その結果、自衛権を行使するとはどういうことか、有事の際には国民はどう行動すべきかということも含めて、防衛問題を議論することが国民の間で極めて困難になっているのです。

 これは大変不思議なことで、というのは、この憲法第九条の条文が確定した段階では、それは決して自衛権の行使まで否定するものではなく、従って、そのための戦力の保持は認められると解釈されていたからです。また、こうした考え方は、この日本国憲法を審議する国会論戦でも当然のこととして主張されていました。南原繁貴族院議員は「歴史の現実を直視して少なくとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考えるということは、これは当然のこと・・・之を憲法において放棄して無抵抗主義を採用する何らの道徳的義務はないのであります(8月27日)」と言っています。

 こうして出来上がった日本国憲法第9条の規定は次の通りです。

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この規定の内、第一項の冒頭「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と、第二項の冒頭「前項の目的を達成するため」は、憲法改正特別委員会におけるいわゆる芦田修正(1946.8.20)で挿入されたものです。その目的は、第一項については、平和なら何でもいいというのではなく、あくまで正義と秩序が保たれた国際平和という意味であり、そのためには、世界政府のような国際機関など何らかの平和維持機構を想定していました。また、第二項の「戦力を保持しない」「交戦権は認めない」というのは、前項の目的を達成するため、つまり国際紛争を解決する手段としての戦力は持たないという意味であって、自衛権を行使するための戦力はこの限りではない、と解釈されたのです。

 この修正によって、日本が自衛権を行使するために戦力を持つことは、条文解釈上可能となりました。芦田はこの修正について、GHQ民政局のケーディスに了承を求めています。それに対してケーディスは即座に同意し、芦田が、マッカーサーやホイットニーに相談しなくてもいいのかと訊ねたところ、「大丈夫だ、問題ない」と答えています。また、ケーディスは、部下が「これでは日本は再軍備できることになるではないか」と騒ぎ出したのに対して「日本から自衛権まで奪うのはやり過ぎだ」と答え、民政局長のホイットニーもこの訴えに対して「それがどうした、それでいいじゃないか」と答えています。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p216)また、連合国11カ国で構成する極東委員会も、国務大臣(軍部大臣含む)を文民とする規定を第66条を追加することでこれを了承しています。(1946.9.25)

 と、こう見てくれば、戦後の日本がその自衛権を行使するために自衛軍を持つことは当然、GHQもそれを認めた、ということになり、冒頭に述べたような問題は起こらなかったはずですが、その後の歴史の展開はいささか違っていました。というのは、この憲法第九条の議会審議(1946.6)において、「侵略された場合はどうするのだ、他国との条約でも考えているのか」という質問に対し、吉田茂は「本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが」と前置きした上で次のように答弁しました。「従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。日本は好戦国である、・・・ということが、日本に対する大きな疑惑であり、また誤解であります。・・・ゆえにわが国においては、いかなる名義をもってしても交戦権はまず第一自ら進んで放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす・・・」

 これは、「自衛権は憲法上否定されているわけではないが、自衛権の発動はしない、つまり、自衛権の名によって戦う権利を放棄する」といったのです。なぜか、「日本は好戦国である、いつ再軍備をして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からない」そういう世界の日本に対する大きな疑惑がある。従って、そうした日本に対する疑念を解くためには、「いかなる名義をもってする交戦権も自ら進んで放棄する」という規定を憲法に明記する必要があるというのです。こうした吉田の見解は、昭和49年の施政方針演説にも「我が国の安全を保障する唯一の道は、新憲法において厳粛に宣言せられたごとく・・・非武装国家として・・平和を愛好する世界の世論を背景に」と一貫して主張されています。

 ところが、その翌年昭和50年1月の施政方針演説では、「戦争放棄の趣旨に徹することは、けっして自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。わが国家の政策が民主主義、平和主義に徹底し、終始この趣旨を厳守して行動せんとする国民の決意が、平和を愛好する民主主義国家の信頼を確保するにおきましては、・・・この相互信頼が、民主主義国家相互の利益のために、わが国の安全保障の道を論ぜんとする国際協力を誘致するゆえんであるのであります」と述べています。これは、戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではない。民主主義・平和主義に徹する我が国への信頼が、民主主義国家相互間の安全保障を誘致し、それによって我が国の安全は守られる、といっているのです。要するに、自らの軍備はなくても、自衛権の行使の一形態としてアメリカに守ってもらう、つまり平和条約と日米安保条約の締結を示唆したのです。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p361~363)

 もちろん、このような自衛権の解釈は、先に紹介した芦田修正の中にも見られるもので、その時は、安全保障を担う世界機構として国際連合が想定されていました。しかし、すでに昭和22年3月のトルーマンドクトリンあたりから米ソの冷戦構造が明らかになり、1948年はチェコの政変やベルリン封鎖などで東西関係は一触即発の危機を迎えていました。そのため、当初、日本の安全保障の担い手とされた国連への期待も疑問視されるようになり、そして、1948年10月には、アメリカの対日政策は全面転換(NSC-13/2)されました。そこでは日本を西側陣営の一翼とすることが決定され、日本の再軍備が要請されるようになりました。しかし、こうしたワシントンの要請に対して、マッカーサーは1950年に至るまで「日本は東洋のスイスたれ」といい、日本の再軍備に徹底して反対し、ワシントンの日本再軍備の要請を拒否し続けました。

 では、なぜマッカーサーは日本の再軍備に反対したのか。その理由は、「日本に軍隊を作るための足がかりとなるような措置をとることは、日本占領の性格と目的をそこなう恐れがあるので望ましくないし、時期尚早である」(『史録日本再軍備』秦郁彦P108)というものでした。その「日本占領の性格」とは、トルーマン大統領からマッカーサーに交付された「初期の対日方針」(1945.9)に示されたもので、日本が「再び米国の脅威となり又は世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」ため、日本の非武装化と民主化を図るというものでした。しかし、それだけなら、すでに日本はGHQによる占領支配を受けているのですから、冷戦期を迎えて新たにソ連勢力が脅威となり、その「封じ込め政策」がとられて後は、当然、日本占領の性格が変化してもおかしくありません。

 というのは、NSC(アメリカの国家安全保障会議)はすでに1948年3月にトルーマン大統領に対して次のような「ソ連の指導する世界共産主義に関するアメリカの立場」という文書を提出し、ソ連の脅威を訴えていたからです。

 「枢軸陣営の崩壊で世界には米・ソという二つの巨大中心勢力が生まれた。アジアとヨーロッパはその争奪目標であるが、この両地域がソ連の手中に入るとソ連は圧倒的に優勢となり、アメリカの影響力は微弱となるので、かかる〔国家的自殺〕を受け入れることはできない。・・・今やスターリンはヒトラーが失敗した目標をほとんど達成しようとしている。・・・ソ連は自由陣営とは共存不可能である、とのドグマに立っている・・・クレムリンに主導権を与えてはならぬ・・・防衛体制は不得策であり、アメリカは世界的な反撃体制を創設しなければならぬ」。そして、そのために直ちにとるべき具体的手段として、対外面では、(4)侵略に対する軍事的反撃、(5)非共産主義国家の軍事力強化等が必要である、としていました。(『史録 日本再軍備』秦郁彦p115)

 このように、「非共産主義国家の軍事力強化」が求められる中で、対日講和問題が話し合われるようになりました。トルーマン大統領はジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命し対日講和問題を専任させました。そのダレスが1950年6月6日にアリソン日本課長とともに作成した第一次講和条件案は、(1)日本を平和的、親米的かつ反共的な国家に育成する。(2)強力な警察軍を創設する。(3)日本人のアメリカ移民を許容する。(4)賠償その他の経済統制は課さない。(5)日本の国連加盟。(6)ソ連をふくむ講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を講和条約と同時に締結する、等でした。(6)は変な感じがしますが、講和はソ連をふくむ連合国が参加して行うものであり、客観情勢をつめていけば、多数講和、日米安保条約、日本の再軍備の戦に落ち着くであろうと読んでいたのです。(前掲書p130)

 これに対して、マッカーサーは当初は日本の再軍備にも米軍駐留にも反対していましたが、当時来日していたジョンソン国防長官の顔を立てる形で「米軍の要点駐留」を譲りながらも、なお日本の再軍備には反対しました。また、6月22日の吉田・ダレス会談で吉田首相は「非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と力説し、ダレスは「不思議の国のアリスに会ったような顔」になって沈黙したといいます。これは、これに先立つ4月末から約一ヶ月間、池田勇人蔵相がアメリカを訪問した際、講和の促進と米軍の駐留について打診したことが、マッカーサーを飛び越してワシントンとの連絡を企てたものとして、マッカーサーの不興を買い吉田首相が陳謝した事件の余波とされ、吉田は安全保障の問題で総司令官を出し抜く発言をすることは慎んだ方が賢明と判断したためではないかといいます。(『上掲書』p132)

 ところが、1950年6月25日朝鮮戦争が勃発しました。在日米軍は急遽朝鮮半島に出動しなければならなくなり、そのため日本が手薄になるというので、マッカーサーは75,000人からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の8,000人増員を指令しました。しかし当時も、マッカーサーは依然として、日本に必要なのは国内治安能力だけであり、再軍備は不必要と考えていました。そんな中で、1951年1月、正式に対日講和を交渉するダレス使節団が日本に到着しました。ダレスは「日本は独立を回復して自由世界の一員になろうとする以上、・・・自由世界の強化にいかなる貢献をしようとするのか?」と吉田に尋ねました。吉田は再軍備の不可を経済面、対外面から説きました。また、マッカーサーは「自由世界が今日日本に求めるものは軍事力であってはならない」といい、吉田の側に立つ意見を述べました。(上掲書P372)

 しかし、吉田は2月3日、「日本の防衛努力について、ダレスに対して何の意思表示もしないで、日米協定だけをまとめるという虫のいいことは到底見込みがないと考え」て、5万人からなる保安隊を設ける案をアメリカに示しました。しかし、正面から再軍備をするための憲法改正は、いまのところ「きわめてデリケートで困難」であり、「平和条約が締結され日本が国際社会に復帰して、日本人が軍備を持つべきであるとの気持ちになるまでは、国内治安のための警備力という概念」にとどめるとしました。その後マッカーサーは、朝鮮戦争における強引な情勢判断と独走がもとで解任されました。マーシャル国防長官は「マッカーサーは二年前に解任すべきだった」と述べたといいますが、それは、マッカーサーが、自分がつくった日本の平和主義路線に固執して、ケナンからダレスに至る米本国の現実主義を斥け続けたことをさしています。(上掲書p375~380)

 では、マッカーサーはなぜこれほどまでに日本の非武装化に固執し続けたのでしょうか。

この日本の非武装化というアイデアは、1946年2月3日にマッカーサーがGHQ民政局長ホイットニーに憲法草案の起草を命じたときに示した、いわゆる「マッカーサーノート」の一項にあったものです。それは、「二、国権の発動たる戦争は、廃止する。」という項目の下に次のような説明書きが添えられていました。「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。日本が陸海空軍を持つ機能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」(『マッカーサーの二千日』袖井林二郎P173)

 実は、この項目は、その10日ほど前の1月24日のマッカーサーと幣原首相の会談をふまえて作成されものです。マッカーサーはこのときの様子を自らの『回想記』で次のように述べています。

 「首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対ないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。」

 「私は腰がぬけるほどおどろいた。・・・戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。・・・原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。私がそういった趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感極まるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」

 これは、「戦争放棄」と「非武装化」のアイデアはまず幣原の方から示され、それに対してマッカーサーが共感を示した、と説明するものです。しかしこれに対して、「マッカーサー草案」を作った当人であるケーディス大佐ほか民政局のスタッフは、口をそろえてマッカーサーのアイデアだといっています。(『史録日本国憲法』児島襄)そして、幣原自身も、側近の村山有氏に「戦争放棄は私から望んだことにしよう・・・」といったといいます。こうしたやりとりから判ることは、憲法にこうした条項を盛り込むことについて両者の見解が一致したことは間違いなく、そして、そのアイデアはあくまでも幣原(=日本側)から提起された、とすることについて合意が得られた、ということではないかと思います。

 では、どうして両者間にこのような合意が成立したのか。幣原は2月21日に再びマッカーサーと会談し、その内容を22日の閣議で次のように報告しています。

 「マッカーサーは例のごとく演説を始めた。『吾輩は日本のために誠心誠意図っている。・・・しかし極東委員会の討議の内容は、総理の想像に及ばないほど、日本にとって不快なもの(天皇の戦犯訴追も含め=筆者)だと聞いている。自分もいつまでこの地位に留まりうるや疑わしいが、その後を考えるとき自分は不安に堪えない。・・・憲法第一条は・・・米国案は天皇護持のために努めているものである。・・・また軍に関する規定は全部削除したが、この際日本政府は、国内の意向よりも、外国の思惑を考えるべきであって、もし軍に関する条項を保持するならば・・・またまた日本は軍備の復旧を企てていると考えるに決まっている。日本のためを図るに、・・・戦争を放棄すると声明して、日本がmoral leadership を握るべきだと思う』これに対して、幣原は、leadershipといわれるが、おそらく誰もfollowerとならないだろうといった。マックはfollowerがなくても、日本は失うところはない。これを支持しない者が悪い、といった」

 この幣原によるマッカーサーの主張の説明と、マッカーサー回顧録の説明とはかなり食い違っていますが、岡崎氏は、1月24日のマッカーサーの言葉は、幣原が2月22日に紹介したマッカーサーの言葉の通りだろうといっています。そのポイントは二つあり、一つは天皇を守るためには、天皇制維持を定めた憲法を通さなければならないということ。そしてそのためには、戦争放棄などを含む、極東委員会といえども反対のしようのないリベラルな憲法を作らなければならない。それも、それが占領軍の強制ということでは、マッカーサーは極東委員会やワシントンに対して新憲法を守りきれないので、あくまで日本側の自発的意志ということでなければならない。つまり絶対に人に言えないマッカーサーとの約束が幣原にあったとすれば、それをそれを日本側の発意とする、ということで、幣原はそれに同意したのではないかと氏は推測しています。

 実は、こうした憲法改正は極東委員会の専管事項であり、その極東委員会の開催は2月26日となっていました。また、それはあくまで日本が主体的に取り組むべきこととされていたのです。そこで、マッカーサーは、憲法問題には介入せず日本政府の自発的発案に任せてました。しかし、2月1日に毎日新聞にスクープされた日本側の憲法改正案は旧態依然たるものであり、また、マッカーサーは占領の成功のためには天皇の権威を温存してこれに頼るしかない、と考えていたため、急遽1月24日の幣原との会談で、一、天皇は国の元首の地位にある。二、国権の発動たる戦争は、廃止する。三、日本の封建制度は廃止される。の三本を柱に、新たに憲法草案を策定することを提起し、それをあくまで日本側の自発的発案とすることで幣原の諒解を求めたのです。

 そして、この作業を極東委員会の開催日である2月26日前に完了するため、民政局のホイットニーに2月3日、三項目の「マッカーサーメモ」を渡して2月12日までに憲法草案を策定することを求めました。そして2月13日にその案を日本政府に交付。日本政府は、それまでに松本案を作成し2月8日にはGHQに提出していましたが棚上げされたまま、突然、13日のGHQ案に接することになりました。2月21日の閣議では「到底受諾できない」との声が大勢でした。そこで2月21日に、先に紹介した第2回目の幣原・マッカーサー会談がもたれたのです。幣原はその後直ちに天皇に拝謁し「象徴天皇制」についても説明しましたが、天皇は「象徴でいいではないか」と答えたといいます。その後、新憲法草案は若干の表現上の手直しの後、3月6日、日本政府案として公表されました。

 幣原は、その後4月22日に内閣総辞職をしますが、その直前の枢密院での憲法草案審議第1回審査会において、「戦争放棄は私の信念である」と述べたとされます。それは、1月24日のマッカーサーとの約束をふまえれば、少なくとも占領時代が終わるまでは、それは自らの発案である、といい続けるほかなかったのだと思います。国会図書館長の金森徳治郎は、昭和25年の晩秋、幣原に占領初期のことについて「日本側でも一つ正確な記録を作っておかなければならないと考えるが、そのことになるとあなたご自身しか知らないことがずいぶん多いから、この際ぜひお話を伺っておきたい」と訊ねましたが、幣原は「そのことをお話しするのはまだ時期が早い」といって何も語らなかったといいます。幣原はその翌年3月、平和条約の調印を見ずに亡くなりました。(『吉田茂とその時代』P139)

 以上、憲法第九条、特にその第二項「戦力不保持」「交戦権否認」の規定がどのようにして生まれたのか、について説明しました。それにしても、マッカーサーはなぜ、あれほど繰り返し本国の方針に反してまで、そして大統領の目がなくなってから後も、さらに、朝鮮戦争の勃発によってその非現実性が明らかになっても、日本の戦力不保持にこだわったのでしょうか。考えられるのは、あれほど無理をして日本国憲法を作り、それをによって日本の占領を歴史的成功に導き、非武装化による平和の実現と諸制度の民主化を図った。つまり、そう自負する自らの業績の正当性を一貫して守り通そうとした、ということではないかと思います。では、幣原や吉田はそれに利用されただけだったのでしょうか。いや、そうではない。彼らは逆に、そうしたマッカーサーの性向を見抜き、非武装をという憲法理念を逆利用して、冷戦下におけるアメリカの極東戦略の先兵に日本人が使われる危険性を未然に防いだ、堤堯氏はそのように推測しています。(『昭和の三傑』参照)おそらくこれが幣原と吉田の憲法第9条の解釈の不可解さ(自衛権行使のための戦力をも否定した)を説明する最も妥当な解釈であろうと私は思います。(下線部追記12/5)

 いずれにしろ、「あの憲法は、当時の国際的要求をかろうじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話をしていたことがある」(『占領秘録』住本利男)つまり、そのような歴史的せめぎ合いの中に、冷静に日本国憲法の第九条の生い立ちとその特性を捉える必要があるのです。その救助艇としての役割を無事母船に回収するためにも・・・。

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