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2009年1月

2009年1月30日 (金)

なぜ日本は中国と戦争をしたか

 前回の末尾で、橋川文三(1922.1.1生、政治思想史研究者)の日本国民としての日中戦争及び日米戦争についての率直な印象を紹介しました。ここで氏は「極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。」といっています。私はこれは、日中戦争及び日米戦争における日本の「調子狂い」の根本原因を最も鋭く見抜いた言葉ではないかと思います。

 次に、この問題を考えるために、1945年12月20日から11回連載された「近衛文麿手記」に紹介された、日支間の問題解決についての駐日支那公使蒋作賓の提案を見てみます。

 「丁度その頃駐日支那公使の蒋作賓も血圧が高い為長谷の大仏の境内に住んでいた。そんな関係から、ある日―たしか昭和七年の五・一五事件のあとだったと思うが、秘書役の参事官丁紹扨と連れ立って、蒋は私を訪ねて来た。丁紹扨とは私の一高時代に西寮で一緒だったという因縁があったので特に丁を伴って来たものと思う。それ以来蒋と丁は屡々やって来た。鎌倉山の家にもひと月に一回位は必ず顔を見せた。

 蒋作賓は前にドイツ大使をやって居り、蒋介石直系の人物である。彼は丁の通訳で日支問題を論じ、このままで行けば日支の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると私に警告した。

 彼は何よりもまず蒋介石の実力を説いた。蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はないというのである。成程一方には呉佩孚等いう人も居るが、しかし彼等は一部勢力の代表にしか過ぎない。そういう手あいを相手にしていたのでは何時になっても日支の問題は解決しないであろう。

 一体日本の軍部は支那の軍閥を利用して、お互いにお互いを牽制し、反発させて支那の統一をさまたげ分割統治をやろうという政策をとって居るようだが、これがそもそも根本の誤である。日本人は第一にこの点からして認識を改めねばならぬ。日本が如何なる政策をとろうとも今日の支那はまさに国内統一の気運に向っている。そしてこの気運に乗っているものこそ実に蒋介石その人だ。だから支那のことを考えるからには是非とも蒋介石国民党を中心に置いて考慮をめぐらしてほしい、とこういうのである。

 従来日本の軍部は国民党を叩こうとばかりしている。この政策ぐらい間違っているものはない。こういうやり方を続けていると、支那の隠忍にも程度がある。やがては我慢ができなくなり、終には捨てばちになって反抗するようになる。一体武力で支那を征服しようなどという事は、全く支那をしらない者の考えであって、いくら支那が衰えているからといってそんな事ですぐ倒れるものではない。戦が長びけばその内には英・米が蒋に味方をするということが起こり、日支問のもつれは必ずや世界戦争に発展する可能性がある。もし世界戦争にでもなれば、結果は英・米を利し、日本も支那も共倒れになってしまう。

 だから日本は今の内に政策を改めて大局に目をくばり蒋介石と手を携えて、大アジアの問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想なのだ。そうなればイギリスにしても、アメリカにしても手が出せなくなる。これこそ東亜安定の唯一の策であり東亜興隆の唯一の道だ。今日の日本のやり方というものはこれと全く逆になっている。」(注:驚くべきことにその後の歴史は、この蔣作賓の「読み」どおりに進行しています。)

 こうした蒋作賓の説に対して、近衛文麿は「心から同感の意を表し」たといっています。その後、「蒋作賓は十年の夏だったか、一先ず帰国し」当時四川省で赤軍討伐のため重慶にいた蒋介石と協議して日支和平案を練り、これを「丁紹扨に持たせて日本に寄こした。丁は日本に着くと、早速軽井沢に私を訪ねて来た。」その時彼の携えて来た日支和平案というのは、

一、満州問題ハ当分ノ間不問二付スル(現在の空気では支那に於ては取りあげられないから)

二、日支ノ関係ヲ平等ノ基礎ノ上二置ク、ソノ結果トシテ凡ユル不平等条約ヲ撤廃スル、但シ満州二関係ノアル不平等条約ハ、除外シナイ、マタ排日教育ハ防止スル。

三、平等互恵ノ関係ノモトニ、日支経済提携ヲナスコト。

四、経済提携ノ成績ヲ見タウエデ軍事協定ヲ結ブ(軍事協定締結の場合には、蒋介石自身は日本を訪問してもよいというのである)。

 大体右のような内容のものであった。」といいます。

 この提案内容は、昭和10年9月、蔣大使が広田外相に示した和平提案の内容―「日中両国相互の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しないこと。日支の経済提携の相談に応ずること。更に「共同目的」(防共=筆者)のため軍事上の相談を為すこと」等―と同様のものだったのではないかと思います。

 近衛もこの案に大賛成であり、「充分努力しようと丁に誓」いました。そして、この支那の提案を、「議会で広田外相に会い事情を話し、政府に於いても日支問題の解決につき努力するよう頼んだ。」しかし「広田も外務省も同感であったのだが、軍部から反対の声があがった。それは提案第一条の満州を「不問」に付するという点がいかん、「承認」と改めよというのである。これには広田も困った。」その後、昭和10年10月の「広田三原則」(外陸海三省了解)が出来上がり、これと中国側三原則の調整のための協議が広田と蔣の間で進められましたが、そこで問題になったのがやはり満州国の承認問題でした。

 広田三原則では、「二、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策をやめしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。」となっていました。日本側は「満州国の独立を事実上黙認」することを求めましたが、中国側は、日本に満州国承認の取り消しを求めることはしないなど「かなりの譲歩の意向がみとめられる」ものの、その主権の放棄を明言することはありませんでした。

 ただ、この「広田三原則」の付属文書には、「我が方が殊更に支那の統一または分立を助成しもしくは阻止する」施策は慎むとの方針が入っていました。これは、同時期関東軍が進めていた華北分離工作を押さえ込もうという政府の思惑があったのですが、関東軍はこれを阻止しようとして、華北分離工作をおし進めました。この時出されたのが「多田声明」で、北支より反満抗日分子の徹底一掃、民衆救済のための北支経済圏の独立、赤化防止、北支五省連合自治体の結成をうたい、「これを阻害する国民党及び蔣政権の北支よりの除外には威力の行使」も辞さないと露骨に威嚇しました。(『廬溝橋事件の研究』秦郁彦p18)

 しかし、こうした関東軍の強硬策も、中国の「幣制改革」の成功に伴う中国経済の統一の進展もあって縮小せざるを得ず、結局、翌昭和11年25日の「冀東防共自治委員会(一ヶ月後「冀東防共自治政府」と改称)」という親日自治政権の樹立、同12月18日の「冀察政務委員会」(=国民政府、宋哲元、日本政府の妥協の産物である日中間の緩衝政権)の設置となりました。(冀東とは河北省東部のことで、冀東政権はその地域を、冀察政権はそれ以外の河北省とチャハル省をその管轄地域としていた)その後川越駐華大使と張群外交部長の間で交渉が継続されましたが、中国は「主権の完整」という大前提のもとでタンク-停戦協定の廃止など具体的要求を持ち出すようになりました。(交渉は関東軍の内蒙工作である綏遠事件により破綻)

 こうした日中交渉の手詰まり状態の中で、華北分離工作に対する中国の抵抗が強いことや、西安事件を契機として中国に「国共内戦停止」や「抗日国内統一」の気運が高まっていることを背景に、従来の「軍閥闘争時代」の中国観の修正を求めるいわゆる「中国再認識論」が生まれてきました。石原莞爾が、従来の主張(=中国の政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐する)を転換し、「支那の統一運動に対し帝国は飽迄公正なる態度を以て臨む北支分地工作は行わざること」(『石原莞爾資料』p206「陸軍省ニ対シ対支政策ニ関スル意思表示」s12.1.25参謀本部)と主張し始めるのはこの頃です。

 こうした「中国再認識論」の動きは、昭和12年4月16日付けで四相会議が決定した「対支実行策」と「北支指導方策」にも反映されました。そしてこうした動きを促進するため、吉田茂駐英大使は往年の日英同盟の協調関係を復活させようとしました。イギリスのイーデン外相は「日本は中国を扱う正しい方法をが何であるかについての見方を明らかに変えつつある」と評価しました。しかし、6月4日に発足した第一次近衛内閣に外相として再登場した広田は、こうした対支親善策に消極的でした。吉田大使は「日支関係の局面打開は日英協力主義を善用すべし」としましたが、広田は冷淡でした。(『廬溝橋事件の研究』p34)

 日本政府内にこうした「中国再認識論」が出てくる一方で、関東軍参謀部は「北支防共を完成し対ソ必勝の戦備を充実するため内蒙及び北支工作を強行」し「冀東、冀察、山東各政権を一体とし呉佩孚を起用し、茲に北支政権の基礎を確立・・・要すれば所用の兵力を行使し」と唱えていました。また、関東軍板垣参謀長の後任の東條英機中将も昭和12年6月「対蘇作戦準備の見地より・・・まず南京政権に対し一撃を加え我が背後の脅威を除去」せよと中央部に具申していました。こうして陸軍内が対中国避戦派と一撃派に分かれたまま廬溝橋事件を迎えることになったのです。(上掲書p31)

 この間、蒋介石は「安内攘外」を標語として、対日和平の途を模索したのですが、1935年半ば頃から日本の華北分離工作が進み始めると、高まる抗日世論にさらされるようになりました。しかし、この間の中国の国内統一の進展はめざましく、反蔣軍閥との抗争も一段落し、管理通貨制度による幣制改革も成功し、経済建設面でのインフラ整備も顕著で、こうした国内的成功によって蒋介石はカリスマ的指導者として世論の支持を受けるようになりました。1936年からは軍備の近代化と重工業の振興をめざす三カ年計画に着手しました。この間中国は「二、三年の時間をかせぎ出すことだけを考え」てかろうじて日中交渉の決裂を避けようとしていました。

 こうして蒋介石は、その「安内攘外」策の「安内」が整って行くにつれ、次第に「国民の要望に応えて、”攘外”を何とかやらざるを得ないという羽目」(『上海時代下』松本重治p70)に追い込まれていったのです。「すでに『即時抗日』を呼号する声は、中共党や救国運動に結集した進歩は文化人ばかりでなく、綏遠事件の『勝利』で『敗戦コンプレックス』を解消した中央軍の中下級将校まで広がり、『準備抗日』を説く軍幹部の統制もゆらぎはじめ」ていました。(上掲書p40)こうして、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へと突入することになるのです。

 まさに、ため息が出るような話ですが、ではどうして日本がこのようなまるで集団自殺を思わせるような局面に落ちこむはめになったのか。この間の事情を最もわかりやすく語っているのが、昭和14年初め、北京の燕京大学大学校長レイトン・スチュアート氏が近衛文麿溝に宛てて書いた和平提案の手紙の邦訳写しです。これは昭和13年12月22日の「第三次近衛声明」が「日本が何等支那の主権と独立を侵害する意志なし」(スチュアート氏の解釈)と表明したことを受けて、スチュアート氏が日中和平を願う同志を代表し、近衛公に両国間の誤解を解くべくアドバイスしたものと思われます。(平成17年秋に近衛家の鏡台の隠し棚の中から発見された『近衛文麿六月終戦のシナリオ』p20)

 「近衛公閣下、未だ拝眉の機を得ざるも貴国に於ける貴下の卓越せる地位と、自由にして聡明なる閣下の政治的風格に対する敬仰の念よりして、吾等に関聯せる現下の問題に対して敢えて一書を拝呈する。私は支那生まれの米国人です。長き間宗教と教育を通じて支那の福祉の為に働き支那人を愛敬するが同時に心から日支両国の親善を希って居るものです。これは独り両国の共通の利益たるのみならず又関係第三国もこれを歓迎することと信じます。たとへそのため少し位自分達の利益を犠牲にされても。

 現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る。日本は支那の排日感情乃至排日煽動を撲滅せんとして戦って居ると思って居る。然るに一方支那は支那の独立とその存在すら脅かされると思って、如何なる愛国者にも当然なる防衛の為の戦争をしてゐると思って居る。

 昨年末貴下の有名な近衛声明に於いて日本は何等支那の主権と独立を侵害する意志無しと公表された。然るに支那人は大抵日本は占領地に於ける軍事上の占領のみに止まらず、あらゆる生活の形式を支配するものと思い込んで居る。日本は共産党を排撃し、防共上の協力を提議して居るが、支那人はこれは支那内部の問題であって、支那の政府に一任すべきだと思って居る。防共の為に如何なる他国の軍隊と雖も駐在することは、却って平和生活の破壊となり漸く納まりかけた治安を激発するものと思って居る。

 日本は所謂親日政府を建設しこれと協同して居るが、これは支那側からみれば深刻許すべからざる日本の支配の軽蔑すべき一形式であり、凡そ支那人の目からみると彼等の承認せる政府を裏切った漢奸としか映じない。(王兆銘擁立工作のこと=筆者)これ等は前述せる相互の無理解の一班である。その憂慮すべきことは、この無理解の傾向は日支両国がお互いにその動機と手段とに対する猜疑心を益(ますます)解けがたきものにすることである。真の悲劇はこれが必要なくして、しかも益(ますます)深刻になってゆく点にある。

 私の貧弱な、しかし確たる確信によれば、支那は日本の帝国主義的脅威に対する危惧の念を脱却したらその瞬間排日の行動を終熄し、且つ喜んで日本に必要な原料品と市場を提供するであろう。乃至は又互恵的な経済的合作の道をも講じ、且又共同の外敵に対し共同防衛の方法をも講ずるであろう。

 米国がこの問題に対して関心せざるを得ないのは、支那の自由且独立は太平洋の永久的平和の基礎条件であると信じ、且日本の現在の駐兵は日本の支那支配の表現ではないかといふ危惧に由来する。その懸念が晴たら、日米の間の偕老的なる友誼は直に恢復されるであろう。

 支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今まで日本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる様にされんことを勧告する。そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退することだ。これは貴国政府に対する凡ゆる疑問を一掃する。一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう。私は微力乍ら喜んで両国並に米国間の理解の促進に力める。私の役割は少さい。然私はこの崇高なる目的の実現に協力せんとする多くの同志を代表するといふ確信の下にこの手紙をかいた。」

 要点は次の通りです。
 「現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る」もので、日本が防共のために軍隊を中国に駐在させたり、親日政府を立てたりすることは日支両国の猜疑心をますます解けがたいものにしている。従って、この問題を解決するためには、「支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今までの本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる」ことが必要である。そして「そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退すること」であり、「一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう」

 しかし、近衛がこの手紙を受け取ったのは、氏がその職を辞した直後であり、これを「近衛第三次声明」後の外交交渉に生かすことはできませんでした。だが、おそらくこれは、昭和16年8月の日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「(ハル四原則」(一切の国家の領土保全と主権の尊重、他国の内政への不干渉他)につき「主義上異存なし」と述べたことや、その後の近衛・ルーズベルト会談(実現を見なかったが)において近衛が陸軍に求めた「名を捨てて実を取る日本軍の中国からの撤兵」提案などに反映していたのではないかと推測されます。

 一体、この「中国の主権と独立の尊重」という”あたりまえ”の観念を否定して華北分離工作を強行し、数百万に上る兵を駐兵させて中国に居座ったまま撤兵を拒んで、日本を対米英戦争に引きずり込んだ、この「妖怪」の正体とは何だったのでしょうか。いうまでもなくそれは、満州事変という実行行為を通して日本軍に胚胎したものであり、「中国の主権否認」という形で現実化したものでした。イザヤ・ベンダサンは『日本人と中国人』の中で、先の駐日支那公使蒋作賓の言葉を「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」という意味だといっています。おそらく、スチュアート氏の「勧告」も同様の点を指摘しているのではないでしょうか。

 つまり、中国を「他国としてみる目」が欠如していたことが原因であり、日本人の伝統思想である尊皇思想から見た中国のイメージが、現実の中国と余りにも異なり「匪賊国家」に見えたため、自分たちこそ「東亜の盟主」であるとし、中国人はその「内面指導」を受けべきであり、日本のアジア解放・欧米駆逐という大業に協力すべきである、という傲慢を生んだというのです。そしてこのことは、何も軍部だけにいえることではなく、世論となるとこれが決定的で、これが本稿の冒頭に紹介したような「日本人の日中戦争観の狂い」を生じさせたというのです。

 満州事変の発生と、それに対する国民の熱狂的な支持の背景には、中国文化に対する憧憬とそれに対する反発を繰り返しながら、自らの文化を育んできた日本の「中国の辺境文化」として宿命があった。ではそれから脱却するためにはどうしたらいいか。いうまでもなく、それは、こうした自らの行動の規範がどういう伝統思想に由来するかを知ることであり、それを対象化し思想史として客体化できれば、それを脱却して新しい文化を創造することもできるというのです。(山本七平語録「明治維新は疑似中国化革命」参照)

 ともあれ、我々が日中戦争から学ぶべきことは、こうした自らの「内なる中国」と、実際の「外なる中国」とを区別すること。つまり、中国(=他国)の主権を尊重する」という”あたりまえ”の観念を、自らの思想として身につける、ことなのかもしれません。たったそれだけのことができなかったために、あれだけの傲慢と惨劇を生むことになったとしたら・・・。 

2009年1月20日 (火)

なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか3

 前回、「政府及び軍中央の命令を無視し満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなった」と申しました。私は、ここに昭和の悲劇を理解する最大のポイントがあると思います。この満州事変さえなければ、間違いなく昭和史は別のものになっていたと思います。

 ところが、この満州事変についての評価は必ずしも確定しているとはいえない。私は、これが今日の我が国における歴史観の分裂を招いている最大の要因だと思います。かって主流をなした「自虐的」歴史観においては、この満州事変を否定することによって、それと同時に「満州問題」の存在自体を否定あるいは無視する傾向がありました。一方、最近の修正主義史観においては、この「満州問題」の存在を指摘することで、自動的に満州事変が正当化できると考えているようです。

 最近話題になった「多母神論文」は、いうまでもなく、この後者の立場に立って日本の大東亜戦争における「侵略性」を否定しようとしているのですが、不思議なことに、満州事変をすっぽり抜かしています。なぜそうしたかというと、この満州事変を抜くことで、いわゆる「満州問題」を日中戦争を直接結びつけることができるからです。そうすれば廬溝橋事件に端を発する日中戦争は、どちらかといえば中国のイニシアティブで始まった戦争ですから、日本の「侵略性」を否定することができます。

 また、そうすることで、その中国を後押しして戦略物資を仏印ルート等を通して中国に送り込み、早期の戦争終結と日中和平を願っていた日本の努力を妨害し続けたアメリカ。さらに資産凍結や禁輸によって日本を追い詰めて挑発し、先に手を出させることによって国内世論を対独参戦へと導こうとしたアメリカ。そうした謀略国家アメリカの挑戦に対し「自存自衛」のため戦わざるを得なかった日本の立場を、被害者の位置から(場合によってはペリー来航に遡って)正当化することができるからです。

 これに対して、「自虐的」歴史観においては、満州事変の謀略的・侵略的性格を忌避するあまり、その前段にあった「満州問題」の存在を無視する傾向があるのです。そのため、大東亜戦争は勿論のこと、日清・日露戦争の歴史的な意義についても、日本の膨張的・侵略的な大陸政策の一環として否定してしまうことになります。あるいは否定はしないまでもその意義付けを明確にできないため、明治、大正、昭和の歴史的連続性の把握ができなくなってしまうのです。悪くすれば暗黒史観に陥ってしまいます。

 この問題を考える上で最もよい資料が、瀬島龍三(氏は、大本営陸軍部作戦参謀として同年12月8日の太平洋戦争開戦以降、陸軍のほぼ全ての軍事作戦を作戦参謀として指導したとされる)の『大東亜戦争の真相』大東亜戦争敗戦の教訓1「賢明さを欠いた日本の大陸政策」です。これは、氏が1972年にハーバード大学大学院の要請を受けて、国際関係学者約50人を前に「1930年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで行った講演録をまとめたものです。

 「教訓の第一は、いわゆる大陸政策の功罪についてであります。日本側の立場から見ると、大東亜戦争の動機はハード面では米国の対日全面禁輸、特に石油の供給停止であり、ソフト面から見ると「ハルーノート」に示された米国による日本の大陸政策否定、つまり国家の威信の全面否定にあると考えられます。米国による日本の大陸政策否定は、「ハルーノート」の各条項がこれを示しているばかりでなく、その冒頭にかかげられたいわゆるハル四原則」が、端的にこれを物語っております。

  昭和十六年(一九四一年)八月、日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」と述べたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥結事項に含ましめることを、極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なるからでありました。

 ともあれ日本の大陸政策に対し、今日の時点において今日の価値観に基づいて断罪を下すことはきわめて容易でありましょう。しかし歴史としては日本が歩んで来た大陸政策のよって来たる由来を、当時の時点においてとらえることを重視しなければならぬと考えます。

 既に申し上げましたように、明治維新(一八六八年)当時における日本の国防環境は重大でありました。インドを併合して清国を植民地化した英国と、沿海州を割取し樺太、千島、カムチャッカに進出した露国、すなわち世界の二大強国が、二百五十年にわたる鎖国桃源の夢の醒め切らない日本に対し、南北二正面から迫って来ていたのであります。徳川幕府末期の思想家橋本左内は日露結んで英国に対すべしと提言いたしましたが、明治政府は日英結んで露国にあたったのでありました。

 このような存亡の危機において、韓国も清国も、国家としての自衛独立の機能に欠如し、主権国家としての責任遂行能力をもっておりませんでした。特に清国は露国の満洲(現在、中国の東北地方)占領を放任するのみならず、満洲経由韓国への侵略も拱手傍観するのみでありました。日清、日露戦争は日本にとってみますと、国防上のやむを得ざる受動的戦争、すなわち明治の時代(十九世紀)における日本の大陸政策は、国防上の必要に基づく防衛圏の大陸推進であり、それは明治日本の国是たる「開国進取」の政策的発展でありました。

 日露戦争勝利の結果日本が満洲において獲得した権益は、露国から移譲されたものが主であり、当時の戦争終結の通念からして戦勝国に与えられるべき権益として世界はこれを明らかに肯定したものでありました。

 その後、この権益の確保拡充を中心として、日本の大陸政策は政治的、経済的、軍事的勢力圏設定へと変貌し、勢いの赴く所満洲事変となり、支那事変へと発展したわけであります。(筆者注:満州事変によって日本の大陸政策が侵略的なものに変質したとの私の指摘は前回述べた通りです。従って、これを連続的・必然的にとらえる著者の見解には同意できません)

 しかしその背景には第一に、日本の国土狭小、資源貧弱、人口過多という国家存立上の当時としては半絶望的条件を、大陸発展により克服しようとする国民的意欲の勃興がありました。

 さらに、世界経済恐慌の波及と世界経済ブロック化の趨勢が、ますます日本と大陸との結合関係を促進し、日満支ブロック経済の確立が国家の存立上不可欠の要件なりとするに至ったことであります。

 その上さらに、対ソ防衛圏の前縁を満ソ国境線に推進することにより、日本本土自体の国防を完うするばかりでなく、東亜の安定を確保することが、日本の使命と考えられたことであります。

 第四に、当時の中国の実体が、なお近代国家として未完成の域にあったことであります。従って中央政令の徹底が不十分であるため地方的処理の必要があったこと、治安の不安定、軍隊の不統制のため、在留邦人の生命財産または権益の擁護に日本が自国軍隊による現地保護の措置が必要であったことなど、中国の特殊事態をも指摘しなければなりません。

 しかも当時の中国の為政者は近代国家統一政策の手段として、国権回収、排外思想を強く鼓吹するのを常としていたのであります。そして戦後日本の代表的指導者であった幣原喜重郎氏が、当時外務大臣として平和協調外交を強調されるに対し、間もなくその外務次官に就任した吉田茂氏が武力強硬外交を主張するという時代であったのであります。

 かくてこの大陸政策は国民的合意を得たものでありました。昭和十六年(一九四一年)十一月東条内閣の国策再検討の結論を求める大本営政府連絡会議において、対米妥協屈伏を伴う臥薪嘗胆案を、本来戦争回避を願う東郷、賀屋両文官大臣が意外にも言下に否定したことは、大陸政策に対する国民的熱意を物語るものでありましょう。(筆者注:ここにおける東郷に関する記述は、氏の回想録『時代の一面』によると、11月初めの連絡会議において戦争回避の方策に努力した際「臥薪嘗胆」と同様の主張を為し、陸海軍に対し勝利の見込みもなく戦争に突入するは国民に対し相済まざるところなりとつめよった、とある)

 昭和十六年(一九四一年)十月二目付米側の口上書をめぐって、和戦の論議が沸騰したときにおける木戸内大臣の日記(十月九日)「日米交渉に関する豊田外務大臣所信」及び「現下国際情勢に処する帝国外交方針天羽外務次官意見」(共に十月十三日)は、いずれも戦争回避を趣旨としながら、大東亜新秩序建設または大東亜共栄圏建設の堅持を強調しているのであります。

 (筆者注:10月9日の『木戸日記』には、近衛公参内拝謁後意見を述べた中に、一、十年乃至十五年の臥薪嘗胆を国民に宣明し・・・とある。また、東郷の東亜政策は、「この地域内の諸国に就いても、主権の尊重と経済協力との基礎の上に善隣友好関係を樹立せんとするを念とした。即ち日本は東亜の先進国として東亜諸国並びに諸地域の進展を助け、平和的手段により東亜の繁栄を図るにあった」とし、これは武力による支配の政策とも異なり、また、「ブロック」経済乃至生活圏の観念とも一致しないのはあまりに明瞭であり、これら生活圏主義を至上とする東亜新秩序の観念の主張主張と相反することは明らか」であり、東條一派の大東亜政策と異なるのは当然としている。(『時代の一面』p437~438)

 当時米国または英国においては、日本における軍の強硬分子にとってかわる協調分子の台頭により、日米英関係が好転するかも知れぬことを、指摘する向きがあったようでありますが、それは日本の実状に対する認識が不十分であり、大陸政策に対する日本国民の合意を的確に把握していなかったものと考えます。

 しかしこの大陸政策が中国ばかりでなく米国によっても否定され、戦争となりました。そして日本はすべてを失いました。結果論として様々な事情があったにせよ私は日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」(『大東亜戦争の実相』p278~282)

 この最後に語られた「日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」という言葉、これはその前に語られた日本の大陸政策に対する弁護の言葉と鋭い対照をなしています。それは、その「限界、方法、節度」において賢明でなかったというのです。では、その「限界、方法、節度」というのは具体的にどういうことか。もちろんこれは日本の満州事変以降の大陸政策全般についていえることですが、これを満州問題についていえば、その「限界」は東三省(=満州)、「方法」は国際法遵守、「節度」は中国の主権の尊重ということであったろうと思います。また、東亜政策については東郷外務大臣の説明の通りであろうと思います。

 また、昭和16年4月に始まる日米交渉において、最大のネックとなったことは、日本軍の中国からの撤兵問題でした。廬溝橋事件以来日中戦争は4年を経過し、この間、日本軍は中国の主要都市の大半を占領して多くの親日政権を樹立し討伐戦を行う一方占領地の治安維持にも当たってきました。この間の日本軍の犠牲者は実に18万人にも上りました。これらの既成事実や犠牲を全て投げ捨てて中国から撤兵するということ、しかもそれをアメリカの圧力に屈する形で行うということは、満州事変以来の日本陸軍の行動を否定することであり、当時の陸軍には到底できることではありませんでした。

 それでも陸軍の主敵はソ連であり、中国から足を抜けない状態の中でアメリカと戦争はしたくなかった。そこで、昭和16年の10月12日、近衛首相の下での最後の日米交渉の段階において、陸軍の武藤章軍務局長は、「海軍の方で『戦争出来ぬ』というのなら陸軍はなんとかおさめるから、本当の処をいって呉れ」と海軍に伝えたといいます。これに対して、及川海相は海軍首脳を集めて対応を協議しましたが、結論は、海相としては戦争をすべきや否やを決定する発言はできぬ。その問題は総理がきめるべきで、そこで総理からはっきり「戦争は避けるべきだ」と言ってもらえばよい、ということでした。

 実際のところ、昭和16年10月6日の海軍首脳会議では、「日米戦うのは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」という結論に達し、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うも良うございますか」と半分は自己の所信を示し、永野修身軍令部総長の了解を求めたのでした。これに対して永野は「それはどうかね」と述べ、大臣の折角の決心にbrakeをかけられ、意気高揚する場面たちまち白けわたる」といった状況だったといいます。(『第一次世界大戦と日独伊三国同盟』平間洋一p315)

 こうした海軍の責任回避を非難する意見に対して、海軍の高木惣吉少将は次のように反論しています。
 陸軍が「海軍として成算がないから、ということにしてもらえば何とか内部が収められぬこともないが……」と、統制の乱れた陸軍の部内収拾のため、海軍が陸軍の前に膝を折らねばならぬ、とは何と虫のいい勝手な要求であったろう。仮りに国のためなら一身上の毀誉褒貶も、海軍の立場がぬきさしならぬ境地に立ってもかまわぬ、という勇猛な海相や総長がいて、海軍には対米戦の成算がない、ぜひ対米交渉をつづけてもらいたい、と陸軍に歎願したと仮定して、東條陸相、杉山総長は、はたして陸軍の中央および出先の強硬主戦派を統制できたと断言できるであろうか。それができる位ならば張鼓峯でも、ノモンハンでも、柳条溝でも、盧溝橋でも、また近くは南北の仏印進駐でも問題は起こらなかったはずである。中央、とくに大本営命令に違反した南部仏印の強行上陸などなぜ起こったのか。

 一方仮りに奇蹟が現われて陸軍が開戦決意を緩和し、または延期したと仮定しても、反日親支の連中がそろったハル、ハミルトン、ホーンベックの立てこもる米国務省、スチムソンの陸軍省、支那びいきの口ーズヴェルト大統領の率いる米国が、はたして対日要求条件を現実的なラインまで近寄せることができたであろうか。そのいずれの一方の条件が欠けても、海軍はただ年度作戦計画の上奏では陛下をあざむき、国民の前には無敵海軍が一転して無能海軍と化して世論の集中攻撃にさらされ、陸軍に対しては支那事変や北方問題解決(実は対ソ作戦)のために、予算と軍需資材と生産工場を提供しなければならぬ絶好の口実を与えたにすぎないであろう。陸軍部内を統制するのは海軍の泣き言ではなく、陸相、参謀総長の重大な責任ではなかったであろうか。」(『私観太平洋戦争』高木惣吉)

 そこで最後に下駄を預けられた形になった近衛首相ですが、実は、氏は最後に「近衛・ルーズベルト会談」に最後の望みを賭けていました。

 「日米交渉の最大の難問は、中国からの撤兵だが、軍部は到底承知しそうにない。ところが近衛は、『どんな譲歩をしても日米妥協を図る。それには直接御允裁を仰ぐという非常手段をとる』と、なかなか悲壮な決心を固めていたようだ。聖断により中国から撤兵するということであり、木戸氏によれば、『近衛君と僕との話では、そのトップ会談で話がついたら、それを僕のところへ電報で寄こすと……、で、それを陛下に申し上げると……。陛下がそれを御嘉納になればだね、陛下の御命令で軍隊を撤兵するということなら、陛下の御命令とあらは終戦のときでも収まったからね、結局収まるわけなんだ。まあ、年を貸すぐらいのことは認めるだろうと……そう考えていたわけだ』という。『これをやれば殺されるに決まっているが……』伊沢多喜男が心配したら、近衛は「生命のことは考えない」と言い切ったという。『この頃は見上げたものだ。あれならものになりそうだ』。原田は、近衛が松岡を辞めさせたり、生命の危険を顧みずにアノリカヘ行くと聞いて、池田成彬や東久爾たちと、『なかなか粘り強いし意志も強くなって来たようだ』と感心するほどだった。」(『重臣たちの昭和史』勝田龍夫p279)

 一方、東條は「(中国)駐兵は最後までがんばる。優諚(天皇の恵み深いお言葉)があってもがんばる」と天皇の命令さえはねのける決意でした。海軍は前述の通り、「撤兵問題のため日米戦うは愚の骨頂なり、外交により事態を解決すべし」と内部決定をしながら、それを外部には明確にしない。結局、「近衛・ルーズベルト会談」は実らず、東條は説得できず、近衛は昭和16年10月16日、ついに内閣を投げ出し、ここで近衛の政治生命は終わりました。

 この近衛文麿の戦争責任を問う声はきわめて強い。しかし、彼が昭和12年6月に首相になった直後に起こった日中戦争は、明らかに中国側のイニシアティブで始められたた戦争であり、中国の継戦意志が続くかぎり終結することは困難でした。そしてその困難を決定づけていたものが、中国に満州国を承認させることでした。もし「満州問題」が、中国の宗主権を認める形で処理されていたら、この問題の解決は容易だったと思いますが、それが満州国の独立で否定されている限り、例え誰が首相であっても、この問題を解決することは困難だったのではないかと思われます。

 その上、その後の、日本軍の華北五省分離工作に至る度重なる中国に対する主権侵害・侵略行為は、中国人の抗日意志をいやが上にも高めました。昭和10年9月、中国側から「日中両国の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しない」ということを基礎に話し合いを進めたい」とする申し出がありました。

 これに対して、昭和10年年10月4日、次のような広田三原則が示されました。「一、支那側は排日言動を取締り、・・・欧米依存政策より脱却し対日親善策を採ること、二、満州国はさし当たりその独立を事実上黙認し、反満政策を止め・・・北支方面では満州国との間に経済的、文化的融通提携を行うこと、三、外蒙などよりの赤化勢力の脅威排除のため、我が希望する施策に協力すること。」

 これに対する蒋介石の言葉は次のようなものだったといいます。
 「9.18事変発生以来、継続不断に上海事件、華北事件と踵を接してくる。全国上下、ひとしく極度の煩悶、苦痛に陥る。・・・最大の忍耐をなすに当たっては、主権を侵さざるをもって限度とする和平いまだ絶望の時期に至らざれば、決して和平を放棄せず。犠牲いまだ最後の関頭に至らざれば、まだ決して軽々に犠牲を言わず・・・これより全国の同胞、振奮鼓舞、埋頭努力、共に抗日戦争の積極準備を為す。」(第五次国民党全国代表大会)(『陸軍の反省』加登川幸太郎p65)

 そしてついに、廬溝橋事件を経て、蒋介石は「生死関頭の演説」をなすに至りました。
 《……弱体国家の人民として吾人は、数年来隠忍自重、あらゆる痛苦を忍びて和平を維持し来りしが、もし不幸にして最後の関頭に至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦により、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり。その時に至って、再び不徹底なる妥協をなすことは許されず、全国国民はいわゆる「最後の関頭」の意味を充分に認識すべきなり。

 蘆溝橋事件は、もとより日本側の計画的挑戦行為なり。・……今日の北平にしても、もし昔日の奉天と化したらんには、今日の糞察はまた往年の東北四省となるべく、北平もし奉天とならば、南京またかつての北平と化することなきを誰か保せんや。故に蘆溝橋事件の推移いかんは、中国にとって実に全国家的問題にして、同事件収拾の能否は、吾人の最後の関頭の境界なり。……五に人の和平解決の条件には、きわめて明瞭なる左の四項あり。

一、いかなる解決も中国の領土と主権とを侵害するを許さず。
二、糞察の行政組織に対する、いかなる非合法的改変も容認し得ず。
三、翼察政務委員会委員長・宋哲元らの如き中央政府の派遣する地方官吏を、外部の要求により更迭せ しむるを得ず。
四、第二十九軍現在の駐屯地区に対する、いかなる制限をも受け得ず。
 これを要するに政府は、……全力をつくしてこの条件を固守せんとするものなり。……》

 この廬溝橋事件の発端については、中国側第29軍の兵士による「偶発的発砲」(秦郁彦氏の見解)の可能性が高いとされていますが、いずれにしても、この後の郎防事件、公安門事件、通州事件、上海事件等そのいずれも、中国側の激しい抗日抗戦意志を示すものであることは疑いありません。

 この間8月7日、陸海外三省会議決定の停戦協定案及び国交調整案が示され、1933年以降日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄するとともに、満州についても「中国は満州を承認するか、あるいは満州国を今後問題とせずという約束を穏約の間になすこと」と大きな譲歩案が示されましたが、8月9日上海で突発した大山事件もあり、交渉はなんら進展することなく中絶しました。(『日中戦争史』秦郁彦p228)

 こうして始まった日中戦争を、アメリカの圧力を受けて日本軍の一方的な中国からの撤兵という形で終わらせることは、昭和12年末の南京占領、13年の徐州・漢口作戦、広東作戦、昭和14、16年の南昌・南寧作戦、宣昌作戦、華北の百団大戦と続いて、日露戦争を超える犠牲者(日米開戦までの日本軍犠牲者は約18万人)を出している現状においては極めて困難なことでした。

 よく、南京戦におけるトラウトマン和平工作の失敗が近衛の責に帰せられますが、中国側のイニシアティブで始められた抗日戦争である上海・南京戦の勝利の後に、開戦前の「国交調整案」でその終結をはかることは無理だったのではないかと思います。まして、それより4年後の日米交渉の段階において、中国からの撤兵を前提とする日米交渉を成功させることはどれだけ困難だったか。

 先に紹介したように、近衛は、終戦時に鈴木貫太郎が用いた天皇聖断をもって、中国からの日本軍の撤兵を実現し日米戦争を回避しようとしました。しかし、もし「近衛・ルーズベルト会談」が成功して日本軍の中国からの撤兵が約束されたとしたら、結局、「あいつはやはり公卿だ、長袖政権が英霊をむだ死にさせて屈服した」ということになって殺されたであろう。」と山本七平は推測しています。(『激動昭和の領袖』「近衛文麿」山本七平p214)

 この中国本土への、数百万に上る日本軍駐兵という恐るべき結果をもたらしたものが満州事変であり、その帰結が日米英戦争であったことはいうまでもありません。満州事変は関東軍の一部参謀による謀略によって引き起こされたものであり、政府及び軍中央の不拡大方針を無視した関東軍の独断的軍事行動によって満州占領が企図されました。しかしその途中で、これでは国際的非難を避けがたいということになり、満州人による自治運動の結果としての満州国の独立という体裁にし、その執政として廃帝溥儀を担ぎ出し、それを関東軍が内面指導するという形で日本の傀儡国家としたのでした。

 この満州国出自におけるあまりにもあからさまな”虚偽”が、それゆえに国際社会に対して、さらには国民に対して隠蔽され、自衛戦争の名の下に正当化されたということが、日本陸軍が、その暴露につながりかねない中国からの撤兵を恐れた、その”本当の”理由だったのではないかと思います。また、アメリカの執拗な日本軍の中国からの撤兵要求も、あるいはここにその根拠をおいていたのかもしれません。(下線部1/28挿入)

 この満州事変その必然的結果として導かれた日中戦争の性格について、橋川文三は次のようにいっています。

 「あの戦争は非常に不思議な戦争で、宣戦布告がないし、戦闘はやっているけれども、いわゆる裏面工作では、和平工作というのが執拗に最後まで行われるわけでしょう。極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。なにか、私なんかの体験でもぜんぜんすっきりしなかったという記憶を持つんですね。そしていつの間にかそれに慣れちゃって、太平洋戦争にああいう形で入りますと、これは本当の戦争だと少し元気になったという、奇妙な記憶があるんですがね。」(『シンポジウム日本歴史 ファシズムと戦争』p245)

2009年1月11日 (日)

日本はなぜ大国アメリカと戦争をしたか2

 前回私は、日本が無謀な対米英戦争に突入することになった根本的な原因は、満州事変以降の日本の大陸政策の誤りにあったのではないかと申しました。結局、それが「日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜ブロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、それをもってアメリカやイギリスの大陸進出に対抗しよう」ということになり、もし、それが彼らによって妨害されるなら戦争も辞さない」ということになったのです。

 問題は、こうした流れの端緒となった満州事変及びそれに続く満州国の建国です。国際連盟のリットン報告書は、この事件の発端について次のような認識を示しました。

  「まず満州事変の発端となった柳条湖事件について,日本軍の軍事行動を〈合法なる自衛の措置と認むることを得ず〉と認定し,満州国についても,〈現在の政権は純真且自発的なる独立運動に依り出現したるものと思考することを得ず〉と断定して,柳条湖事件以来の日本の主張を否定」しました。

 しかし、その一方で、「〈毒悪なる排外宣伝〉が中国の〈社会生活の有らゆる方面を通じて実行せられた〉こと,日本が中国の〈無法律状態に依り他の何れの国よりも一層多く苦しみた〉ることなどが紛争を誘発したとして中国の側にも一半の責任があると認定」しました。

 その上で、報告書は「〈単なる原状回復が何等解決たり得ざること〉は明らかであるとし,東三省(吉林,黒竜江,奉天の3省)に広範な自治をあたえ,自治政府を設けること,特別憲兵隊が治安維持にあたり,それ以外の日本,中国のすべての武装隊は撤退すること,自治政府に外国人顧問を任命し,〈其の内日本人は充分なる割合を占めること〉」などを提議しました。

 「結局,報告書の構想は東三省を日本を中心とする列強の共同管理下におくことにあり,日本の排他的な覇権を否定する一方,日本の優先的地位を認め,日本が国際連盟と妥協することを期待するもの」でした。

 しかし、すでに満州国を承認していた日本政府は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この提案をまったく受けつけませんでした。

 そして、11月21日開会の国際連盟理事会に報告書が付議されると,日本代表松岡洋右はこれを激しく非難し,報告書の提案を問題解決の基礎として受け入れるという中国代表と激論を重ねましたが、1933年2月24日の総会がこの報告案を42対1の票決により採択すると,日本代表は退場,3月27日,日本は国際連盟に脱退を通告したのです。(以上『平凡社世界大百科事典』「リットン報告書」の項参照)

 このリットン報告書に対して「我が朝野の態度は、反駁、非難、罵倒、冷罵など、さまざまの批判」がなされました。当時の雰囲気については、昭和6年12月第二次若槻礼次郎内閣総辞職とともに外務大臣を辞して野にあった幣原喜重郎――彼は当時世間から軟弱外交の代名詞のように蔑視され完全に「忘れ去られた人」となっていた――は彼の友人大平駒槌宛書簡で次のようにいっています。

 「近頃時局の変態に営り、國際開係は理解なき民心に媚びむが為め、新聞に、演説に”ポスター”に偏狭なる排外思想を鼓吹せむとするもの多く、我國も宛然支那と同一の水平線に落ちたるの観あり。聯盟調査委員の報告書所載の事實叉は意見にして現實の認識不充分なるものあらは、我当局の努力足らざりしことを證するに拘はらず、自己の責任を省慮せずして調査委員を悪罵する現状、寔(まこと)に苦々しきことと存候(昭和七年十月十五日附)」

 では、満州問題解決のために幣原がとるべきと考えていた具体的方策とはどのようなものだったのでしょうか。私は、それは、満州事変が起こる一ヶ月くらい前に、当時広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁との間にかわされた、日中政府間の満州問題解決のための確認書に明瞭に示されていると思います。

 陳友仁は、幣原に、まず満州の総督制度をやめてノミナルな支那の承認の下に日本が任命するハイコミッショナー組織とすることを提案します。それに対して幣原は次のようにいいます。「支那人は満洲を支那のものと考へているやうだが、私共から観れば、それはロシアのものだった。團匪事件の後に、牛荘の領事を任命するのにロシアの許諾を求めたといふやうな事情であった。支那の學生などは、さうした歴史を知らないから自分の力で満洲を取り返したやうに考へているが、露國を追ひ出したのは日本である。」

 「日露戦争の終結以来、満洲は建設的事業の凡有る方面に於いて驚くべて進展を示し、支那の他地方にかって見ない程度の平和と繁栄とを獲得した。斯くの如き東北諸省の発展が少くとも一部分は日本の同地方に於ける企業及び役員の結果なることは、我が國民の確信する所である。

 しかし吾人は未だかって満洲に對する中國の領土権を争いたることは無い。吾人は同地方に對する中國の領土権を明白に承認し、且之を領土権たる凡有る意味に於いてこれを尊重せんとするものである。要するに吾人は同地方の領土権を要求するものではないのである。

 然し乍ら吾人は日本國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、相互的親睦及び協力の基礎の上に満洲に居住し商、工、農業に従事し、其の他一般に同地方の経済的開発に參加し得る如き状況の確立せられんことを期待するものであって、これを以て少くとも道義的に吾人の有する当然の要求であると思惟する。

 次に満洲の鉄道問題につき吾人は中國側の如何なる鉄道計書も、南満洲鉄道の存立及び運行に對する脅威を企図するものでない限り、これに干渉せんとするが如き意図を持たないし、叉千九百五年に日清両國代表者が調印した北京會議議定書には南満鉄道と並行し、叉は同鉄道に有害なる鉄道を敷設しない旨、中國政府は保障してゐるのである。何れにするも中國が日本の南満鉄道所有及び経管に同意せる以上、苟も該鉄道を無價値ならしめんとするが如き線路の建設を計書することが出来得ないことは、信義の観念上からいっても自明の理と謂ふべきものである。

 吾人は本問題に就いても「共存共栄」の主義に據らんとするもので、我方としては中國が我方累次の抗議を無視し、建設したる既成競争線の撤去を要求せんとするものではないが、しかし日華鉄道系統間に無盆なる競争を予防するに足るべき運賃率及び運輸連絡を取極めるの要あることを主張するものである。吾人は両國鉄道当局が友好的協力の共通の基礎を発見し、以て双方の永続的利盆に資するの可能なるべきを信ずるものである。」

 こうして両者の間に非公式ながら次のような確認書が交わされました。

一、過去四半世紀聞を通じ日華両國間に存在せる不満足なる開係を終了せしむること両國のため利益なり。

二、両國関係は之を眞の親善の基礎の上に置かざるべからず。右は廣東政府が支那の承認せられたる政府となりたる暁、同政府と日本政府との間に締結せらるべき協約又は條約に依り形成せらるる同盟叉は協商の形式を取り得べし。

三、該締約には極東に於ける平和の必要及び其の維持保全を明定すべく、而して一般に挿入せらるる形式的の普通の條款の外不侵略條款及び日支両國間に係争中又は未解決なる総ての問題及び事項、殊に満洲に関するものの解決に関する規定を設くべきものとす。

四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意圖なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により賦与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経管及び運行は同鉄道の破滅を企画する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。

 一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来たれる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に開する取極にして成立するに於いては、之を既成事實として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。而してこの道徳的要求権は三個の考慮による。

 即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。

 第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当り満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し常時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事實を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。

 第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。

五、日支雨國間の締約が有効なる為には支那側に於ける一種の國民的承認を経ざるべからず。此の点に関し、陳友仁氏は右は國民党なる機関を通じ實現し得べき旨を述べたり。叉同氏は支那側に於いては斯る締約は全國大會に於いて國民党に附議し、其の承認を得たる後に於いてのみ批准せらるべきものなることを表明せり。(『幣原喜重郎』幣原平和財団)

 満洲事変が起ったのは、この会談が行はれて後、約五十日ほど後のことでした。その後十月には、上海で南京、広東の平和統一会議があり、十二月には国民党四全大会があって、南京と広東に分地開会し、予ての諒解により蒋介石の下野宣言、広東南京蒋汪合作政府成るといった筋書きが績きました。汪精衛氏としては、恐らくは南京に乗り込み、国務を分担するについては対日政策を決定し、日本との諒解を遂げておいて、政策具現の資に供しようとしたのではないか、と幣原は推測しています。

 その後、陳友仁は須磨總領事を通じて幣原に書簡を送って来て、「満洲事態は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張學良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と書いてあったといいます。(昭和18年10月幣原稿)

 ここにおけるポイントは、まず、日本は満州に対する支那の主権を明白に承認し、同地方について領土的侵略の意図がないことを明らかにする、ということです。その上で

一、日中親善の基礎の上に両国間に同盟または協商条約を結ぶこと。
二、極東における平和の維持のため両国間に不可侵条約を結ぶこと。
三、両国間の係争中又は未解決の解決のための条約を結ぶこと。
 などが提言されました。

 また、幣原はこの確認書の中で、重ねて次のような点を指摘しています。
 歴史的にいえば、満州は日本が日露戦争の犠牲を払って取り戻し支那に返還しないかぎり、ロシアの領土となっていたこと。また、日本が満州を中国に返還したのは中国が中立の立場にあったからであって、もし、日露戦争の当時、中国がロシアと秘密同盟を結んでいたことを日本に知ることができていたならば、自ずと別の解決方法をとっていたかもしれないこと。また、今日の満州の繁栄は相当に日本の企業努力や投資に負っていること。

 こうした幣原の考え方は、満州事変勃発後、日本政府が10月26日に発表した満州事変に関する声明書にも次のように明示されています。
一、相互的侵略政策及び行動の否認
二、中国領土保全の尊重
三、相互に通商の自由を妨害し、国際的憎悪の念を煽動する組織的運動の徹底的取締
四、満州の各地に於ける帝国臣民の一切の平和的義務に対する有効な保護
五、満州に於ける帝国の条約上の権益尊重

 ところが、こうした幣原の将来の日中関係及び国際関係を考慮した問題解決努力にもかかわらず、関東軍は全く中央の命令に服さず、事変を全満州に拡大し、しかも内閣にも陸相もこれを抑えることができない。そのため、どれだけ立派な国策が立案されても、その施策や所信は全く行われない。こうして日本外交の国際的信用は地に墜ちてしまいました。幣原は、何とかして時局を平和裏に切り抜けたいと念願し、「実に気の毒なほど苦慮し暗躍しましたが、殆ど手のつけようがない」状態に追い込まれ、ついに第二次若槻内閣の瓦解と共に辞任のやむなきに至りました。(上掲書)

 ところで、このような幣原の満州問題の平和的解決策は、その後の国際連盟のリットン報告書の提言ともかなり共通する部分を持っています。リットン報告書の概要は先に紹介しましたが、次にその具体的提言を紹介します。

一、東三省に特別行政組織を構成する。
 シナ中央政府(国民政府)は一般的な条約や外交関係の管理、税関、郵便局、塩税等の事務管理(これらの純収入は両政府間で公平に配分する)、東三省自治政府の執政の第一次任命権(ノミナルな)等を持つ。この執政は適当数の外国人顧問を任命するが、そのうち日本人が十分な割合を占める。その他の権力はすべて東三省自治政府が有する。東三省の武装隊として特別憲兵隊を置く。

二、日本の利益に関する日支条約を結ぶ。
 東三省における日本人の特定の経済的利益と鉄道問題を取り扱う。その目的は、「満州国」の経済的開発に対する日本の自由な参加、熱河省において日本が享受しつつある権利の存続、居住権及び商租権を全満州地域に拡大する。また、これにともなって治外法権の原則を多少修正する。鉄道運行に関する協定を結ぶ。

三、調停、仲裁裁判、不侵略及び相互援助に関する日支条約を結ぶ。
 これらによって日支両国政府間における紛争の調停を行う。また、不侵略相互援助に関する規定にもとづいて、当事国は満州が次第に非武装地帯となることに同意する。

四、日支通商条約を結ぶ。
 通商条約は当然、他国の現存条約上の権利を保障しつつ、できるかぎり日支両国間における公益を増進すべき条件の設定を目的とする。(『リットン報告書』渡部昇一)

 つまり、満州国をシナの統一国家の枠組みに置きつつも東三省を自治政府として認める。その自治政府と日本の特定の経済関係や鉄道問題を処理については日支条約により、できるかぎり日支両国間の公益を増進するような条件を設定する。満州を非武装地帯とする。これらによって、この新体制を、連盟規約や不戦条約、九カ国条約の精神に合致するものにすると同時にシナの主権とも両立する、としたのです。

 だが、先に述べたように、この時すでに満州国を承認していた日本政府(斉藤実内閣)は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この報告書の受け入れを拒否し、さらに、この報告書に基づく勧告が国際連盟総会で四十二対一で可決されたことから、国際連盟からの脱退を宣言しました。

 問題の焦点は、満州国の成立をもって中国の主権からの分離独立とすることを認めるか否かということにありました。そして中国は、日中戦争期さらに大東亜戦争期を通じて、こうした「満州国の独立」を公式に承認することを拒否しつづけました。本当は日本が満州の独立の承認を中国に求めるというのは、満州国を独立国と宣明する以上おかしなことであり、それをあえてするということは、満州は日本の傀儡国家だといっているに等しいのですが、いずれにしても、この問題が最後まで日中戦争を和平に導く最大の障碍となったのです。

 実は、満州国を正式承認した斉藤実首相の前の犬養毅首相も、満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとしていました。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものでした。しかし、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居たためにじゃまされ、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまいました。(『犬養毅』時任英人」)

 犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱き、陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えました。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようとしました。当時、前蔵相井上準之介の暗殺(2.9)や財界の大立者團琢磨の暗殺(3.5)などに対するテロが相次ぎ(血盟団事件)、軍閥や右翼の勢力が伸張しつつありました。こうした中で5月15日に、犬養首相は、現役の海軍将校によって永田町首相官邸で射殺されてしまいました。

 幣原は、この五.一五事件の公判についても次のような感想を漏らしています。

 「昨今五・一五事件の公判過程を見るに、軍法會議に於ては荐(しき)りに各被告をして其犯罪の動機に付大言壮語せしむるの機會を輿ふるに努むるものの如く、被告の誤解または軽挙を指摘せむとするの意向毫も見受けられざるは甚だ面白からず。斯かる公判の経過発表は、今後も無思慮の青年を駆って同一歩行を再演せしむるに至らざるか私かに憂慮に堪へず候。」(八月三日附)

(以下の文章のうち推敲が不十分な部分を修正しました。1/16)

 日本はこうして破滅の道を歩むことになりました。よく対米英戦争に至ったポイント・オブ・ノーリターンはどこか、ということが議論されます。それは日独伊三国同盟であったり、南部仏印進駐であったり、あるいはハルノートであったりするわけです。しかし私はそれは、以上述べたような満州事変以降の日本の大陸政策――満州を中国の主権から切り離して日本の傀儡国家とし、そこを前線基地として日満支ブロック(政治)経済体制を確立し、もって米英に対抗しようとした――が、満州事変を経て国民的合意を形成した時点に置くべきではないかと思います。

 つまり、この満州事変の奇跡的成功が、満州独立を前提とする日本の大陸政策の国民的合意を形成し、それが、その後幾度となく繰り返された日中和平工作を失敗に終わらせ、さらには日米交渉をも破綻させることになったのです。昭和16年8月、「日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」としたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥協事項に含ましめることを極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なる」(『大東亜戦争の実相』瀬島龍三p278)と判断されたためでした。

 また、五.一五事件を経て日本政府がこの満州国を承認したによって、それまでの関東軍の行動――政府や軍中央の命令どころか天皇の奉勅命令さえも無視した独断専行の侵略行為――が是認されることになりました。そのため、結果さえよければそうした行為も報償の対象となり栄達が約束されるという、まさに恐るべき下剋上的風潮を軍内に蔓延させることになりました。それどころじゃありません。時の首相や政府高官を白昼堂々、軍服を着たまま首相官邸等に乗り込んで射殺するという卑劣極まる行為さえ、動機が純粋であれば許されるというモラルハザードを招来するに至りました。

 こうした下剋上的風潮の中で、当時の世界恐慌に端を発する経済不安があおられ、一方ロシア革命に端を発する共産主義思想が流行し、それに対する反動として国家社会主義が唱えられ、それが、日本の伝統的な尊皇思想における天皇親政という、伝統的なるが故に強力な政治イメージと結びつくことになったのです。こうして、明治憲法下の統帥権や「軍部大臣現役武官制」(首相の閣僚任免権の不在という明治憲法の制度的欠陥をついたもの)をテコとして、軍部による政治支配が貫徹されることになりました。

 また、軍部内においても、政党政治や議会政治のくびきを脱することによって一切のチェック機能が働かなくなり、派閥抗争の巷と化し、はてに2.26事件を生むに至りました。さらに、こうした政治テロへの恐怖が、政党政治や議会政治を窒息させ、政党を解体し大政翼賛会という軍部の大陸政策を追認するだけの御用組織を誕生させることになりました。こうして軍部の専横は殆どコントロール不能となり、ヒトラーとの同盟さらには南部仏印進駐となって米英との対立を決定的にし、ついには対米英戦争へと突入することになったのです。

 つまり、こうした流れを必然ならしめたその発端となった事件こそ満州事変というべきであって、これが、その後の日本の大陸政策を決定し、冒頭紹介したような、リットン報告書を一顧だにせずにはねつけるという、かたくなな国民世論を形成したのです。この満州事変さえなければ、幣原喜重郎と陳友仁の確認書に見られるような張学良を排除した上での満州自治も可能でした。また、当時の軍中央でさえもそうした満州における実力行使を含む新政策の展開について、国際社会の理解と支持を得るべくなお1年間の宣伝工作の必要を認めていたのです。

 それが、政府及び軍中央の命令を無視して満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなったのです。そして、このような軍部の行動を支えた(正当化を訂正1/19)たものが、尊皇思想にいう天皇親政という政治イメージだったのです。そしてそれが、明治憲法に規定された立憲君主制と衝突し、天皇機関説排撃事件となり、立憲君主制を機能不全に陥れてしまったのです。

 そうした日本の尊皇思想という日本の伝統思想の思想的系譜及びそのメカニズムを、江戸時代草創期における日本への朱子学の導入に遡って解明し、その思想的克服を提言したのが山本七平でした。(松岡正剛『千夜千冊』「山本七平」参照

2009年1月 5日 (月)

なぜ日本は超大国アメリカと戦争をしたか

  昨年の暮れに、「山本七平学のすすめ」の談話室で今回のエントリーにあるような質問を受けました。簡単に答えられることではないのですが、これを機に自分が現在理解している範囲で考えをまとめてみました。談話室のコラムには少し長すぎるので、ここに転載しておきます。参考までに!

Q なぜ日本は超大国アメリカと無謀な戦争をしたか

 おそらく一か八かの賭ではあるけれども勝てるチャンスがあると思ったのでしょうね。もちろんそう考えたのは対米戦の主役となった海軍でなければなりません。戦後、「なぜ、多年にわたって米国を研究し、最も米国を知っていたはずの日本海軍が、米国に対して戦争を開始することになったか」と問われたそうです。

 また阿川弘之氏の「米内光政論」以降、海軍善玉、陸軍悪玉論が唱えられるようになりました。しかし、実際はその海軍でも、昭和10年頃までには、米英との協調を重視するいわゆる条約派は大半が予備役編入され、一方、反英米感情を持った親独派であるいわゆる艦隊派が海軍中堅を占めるようになっていました。

 なぜ、「つねに科学的、合理的であることを組織の本質」とした海軍に、こうした合理性から逸脱し、いたずらに危機感にあおられ反米感情を持った政治的軍人が増えたのか。実は、ここにも、陸軍の場合と同じく、海軍兵学校や海軍大学校を卒業したエリート青年将校の被害者意識という問題があったのです。

 それは1922年のワシントン軍縮会議における主力艦対米英7割(6割で妥結)、1930年のロンドン軍縮会議における補助艦の対米比率7割(重巡洋艦6割等で妥結)という要求がが達成できなかったことで爆発し、いわゆる統帥権干犯問題を引き起こします。これは表向きは兵力量の問題とされましたが、後者の場合、全体的にはほぼ7割が達成されていたことから見て、その不満の根底には、陸軍の青年将校の場合と同じく、軍縮に伴うエリート青年将校の軍の社会的威信の低下に対する不満があったのではないかと思われます。

 この時、彼らをとらえた政治思想も陸軍の場合と同じで、昭和維新により軍縮を推進した政党政治の撲滅を図るとともに、英米等アングロサクソンに対する一種の攘夷論を根拠に日米戦争を宿命と見てこれに備えようとしていました。このことは5.15事件の首謀者が海軍の青年将校であったことでもわかります。こうして海軍の中枢を占めるようになった彼らは艦隊派と呼ばれ、ワシントン、ロンドン軍縮条約を破棄し(1936)、米英との無制限建艦競争に突入していきます。(下線部修文)

 昭和11年には日独防共協定が締結され、この年の第三次改定帝国国防方針において初めて米国が主たる仮想敵国とされるに至りました。そして昭和12年7月に日中戦争が始まると、米ルーズベルト大統領が「『国際的無政府状態』を引き起こしている国(日独伊)に対する隔離演説」(12.10.5)を行い日米対立が先鋭化します。そして昭和14年2月、援蒋ルート遮断のために海軍が海南島を占領すると、アメリカはその報復として日米通商航海条約を破棄、その結果、日本は石油の確保を蘭領印度に求めざるを得なくなりました。

 また、彼らは、昭和13年夏ドイツが提案した日独伊防共協定を軍事同盟に格上げする案を陸軍とともに後押しし、昭和14年には、このために200日、70回に及ぶ五省会議が開かれました。しかし、海軍省中枢の米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長が反対しこれを抑えました。しかし、14年夏には米内は海相を辞任、山本はテロを避けるため連合艦隊に、井上も支那方面艦隊に出されます。この間しびれを切らしたドイツは、14年8月日本を裏切ってソ連と不可侵条約を結びます。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と辞任、続いてドイツは9月にポーランドに侵入、これに対して英仏両国がドイツに対して宣戦布告し第二次大戦が始まりました。

 翌、昭和15年5月ヒトラーはオランダ、ベルギーに侵入してこれを降伏させ、英仏連合軍をドーバー海峡に追い落とし、6月にはフランスを降伏させます。このようなドイツの快進撃に、日本では”バスに乗り遅れるな”、この機に乗じて東南アジアの仏・蘭・英の植民地資源地帯に進出すべし、とする主張が、軍部、議会、マスコミに風靡し、こうして再び日独伊三国同盟の締結が主張されるようになりました。また、これと独ソ不可侵条約とを結びつけることによって、日独伊ソ協商が結ばれれば、中国を支援している米英に対する日本の立場を強めることになるとの判断も生まれました(近衛首相はこうした考え方を支持しました)。

 こうした中で9月に日本が北部仏印に進駐、その直後に日独伊三国同盟が締結されました。これに対してアメリカはすかさず屑鉄・鉄鋼の対日輸出を全面禁止。これに対して日本は、翌16年4月に日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保して南進を進めようとしました。

 一方、これと平行して、日本とアメリカの間で日米衝突を避けるための交渉が「日米諒解案」をもとに始まりました。アメリカは「ハル四原則」(すべての国の領土主権の尊重、内政不干渉、すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持)を示します。日本は、①日独伊三国同盟は防衛的なもの②日中間協定によって日本軍が中国から撤兵する③中国に賠償を求めない④蒋介石、王兆名両政権の合流を助ける⑤中国は満州国を認める、アメリカが中国国民政府との平和を斡旋する、日米間の友好通商条約を正常に戻す、という案でアメリカと妥協を図ろうとしますが、松岡洋右がこれに反対し交渉は頓挫します。

 こうするうち、6月にはまたまたドイツが日本を裏切りソ連に対して宣戦布告。日本は度重なるドイツの不信行為を理由に日独伊三国同盟を破棄することもできたのに、南部仏印、蘭印に対するドイツの影響力を慮ったのか、7月に関特演を実施し70万の兵力を満州に集めてソ連を牽制する一方南部仏印に進駐。これに対してアメリカは日本の在米資産を凍結するとともに石油輸出を全面禁止する措置に出ました。(下線部挿入1/6)

 こうして日本は9月6日の御前会議で「自存自衛を全うし」「大東亜の新秩序を建設する」ことを名目として米英との開戦を決断するに至ります。この後も、近衛首相とルーズベルトの直接会談が検討されますが、陸軍との調整がうまくいかず近衛は辞任、代わって10月東条英機が首相となります。

 この時も、天皇の希望によって外交交渉の継続がはかられ、11月7日には最終譲歩案(甲案)、20日には最終暫定協定案(乙案)が出されますが、これに対し米国務長官ハルは、11月26日両案を拒否し、中国とインドシナからの日本軍の撤兵、重慶政府以外の政府・政権及び三国同盟の否認という、それまでの交渉経過を無視したいわゆるハル・ノートを提示します。日本はこれをアメリカの最後通牒と受け取り、こうして、12月1日の御前会議で米英との開戦が最終決定されることになりました。(下線部挿入1/6)

 ところで、こうした対米英戦にそなえるための海軍の伝統的戦術とは、一体どのようなものだったのでしょうか。それは、漸減邀(よう)撃戦という長期持久戦で、その間、南方資源地帯を確保し輸送路を作って米主力の来航を待ってそれを迎え撃ち、その戦力を漸減させ最終的には主力艦の艦隊決戦で勝負を決する、というものでした。しかし山本五十六は、日米の国力差から到底米英と戦争することは無理であり、それ故に日米英衝突は避けるべきで、日本は穏忍自戒、臥薪嘗胆すべしと考えていました。

 しかし、もし避戦ができないなら、海軍の伝統的な邀撃長期持久戦では勝ち目はないので、前方短期決戦で敵機動部隊を撃滅し、アメリカの戦意を喪失させつつ早期に講和に持ち込む作戦を採るべきと主張したのです。最終的には、軍令部は、山本の案をあくまで南方作戦の支援のための一作戦と位置づけることでこれを認めました。このため敵機動部隊撃滅のための連続決戦という山本の作戦が中途半端なものとなりミッドウェーの大敗につながったとされます。

 だが山本も、この作戦(真珠湾攻撃)について「桶狭間とひよどり越えと川中島と合わせ行うの已むをえざる羽目に追い込まれる次第」と述べているように、もしこれで失敗したら、対米戦争はいさぎよく断念すべきと考えていたのです。この作戦の重点はむしろここにあったのではないかと半藤氏は見ています。(以上『太平洋戦争への道』『昭和史探究』5 半藤一利 参照)

 以上、ロンドン軍縮条約から日本が対米英戦争を突入するまでの海軍の動きを見てきました。では、一体、この間の歴史のどこに誤りがあったのでしょうか。

 私は基本的には、日本の満州事変以降の大陸政策の誤りが原因だと思います。つまり、日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜フロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、アメリカやイギリスのブロックに対抗しようとしたところに根本的な誤りがあったのではないかと思います。

 つまり、日露戦争後世界の一等国になったと錯覚し、アジアの盟主として満州を武力占領し(結果的には満州傀儡国家となった)、さらに華北を国民党政権から分離して親日政権を樹立し、さらに国民党政権を否認して汪兆銘という親日傀儡政権を樹立し、中国を武力でもって親日(?)国家にしようとした、そうした一連の流れを導いた、その基本的考え方に問題があったと思うのです。(下線部挿入1/6)

 確かに、それは当初から意図されたものではなく、満州事変が予想外にうまくいったものだから、ついそうした妄想に駆られて欲を出し華北にまで手を出した、そのために中国人の反撃に遭い泥沼の日中戦争となった、というのが本当のところだろうとは思いますが、それは、こうした無原則な成り行き任せの「切り取り勝手次第」の国策の遂行が必然的にもたらした結果であるといわざるを得ません。(下線部挿入1/7)

 また、こうした一連の日本の行動が、当時の国際連盟規約及び不戦条約による侵略戦争の禁止や、九カ国条約による中国の領土保全、主権尊重、門戸開放・機会均等、内政不干渉等の原則に違反しているという意識、それが、軍部だけでなく、当時の政治家、マスコミ、そして国民にも全く見失われていたことも見逃せない事実です。

 これらの国際法規は、第一次世界大戦による甚大な被害に驚いた西欧諸国が、その後の国際社会における平和維持のルールを確立しようとしてできたもので、軍縮条約もその一環でした。しかし、日本人はこれはアングロサクソンがアジアにおける利権の拡大を図ろうとするもので、先に述べたような日本の大陸政策を掣肘するものだと被害者意識で受け止めたのです。(下線部修文1/7)

 一方、満州事変以降の日本軍の行動に見られる特徴は、日本人の無原則性を如実に示すもので、法的規範を無視しても既成事実を積み上げ、その結果さえよければすべてよし、例えそれが軍中央の命令を無視した独断的行動であっても、罰されるどころか逆に栄達を重ねるといったような事があからさまに行われ、これが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延させる元凶となりました。

 そうした武力優先の考え方が、むき出しの侵略行為に狂奔する独裁者ヒトラーに対する崇拝を生み、さらにそのヒトラーにそそのかされて南進政策を選択し、東亜の資源地帯を押さえることで米英に対抗し、ついには大東亜共栄圏という新秩序(はたしてどのような?)を打ち立てるという妄想を実行に移させることになるのです。(下線部修正1/7)

 この間、政党政治や議会政治は相次ぐテロや長引く戦争によって全く機能しなくなり、軍の方針を翼賛するだけの御用組織となり、国民の言論の自由も報道の自由も全く失われてしまいます。

 先の日米交渉の当事者であった岩畔(くろ)豪雄(ひでお)は、交渉が頓挫し帰国した8月ころの日本人の様子を次のように伝えています。

 「『大和魂を過大に評価する』あまり、『精神だけ鍛錬すれば、技術や兵器は論ずるに足らず』というような弊風が、一部日本人の心をむしばむようになった事実も、見逃すことは出来ない。その結果『物量のアメリカ恐るるに足らず、我には大和魂がある』といったような悪風が生まれ、この悪風が日本を勝利の見込みのない戦争に追い込む一員になったことは、かえすがえすも遺憾であった。そして、同時に『天佑神助の迷信』が大手を振ってまかり通っていたのである。」(『昭和史探索5』p238)

 当時のアメリカと日本の国力は、GNP比で12.7倍、艦艇生産能力4.5倍、飛行機生産能力6倍、鋼鉄10倍、鉄20倍、石油20倍、石炭10倍、電力6倍という圧倒的な差がありました。その国と長期持久戦争ができると考えたということは、要するに日本が一撃を加えればアメリカは恐れをなして引っ込むはずだ、という相手を小馬鹿にした手前勝手な思い込みが軍人にあったからに違いありません。それは現に中国人にも通用しないものであったにも関わらず・・・。(前掲書p330)

*以下、山本七平『日本はなぜ敗れるのか』の小松真一「敗因21箇条」についての記述は別途論ずる事として、ここでは削除させていただきます。(1/7)

2009年1月 1日 (木)

明けましておめでとうございます。

 新年明けまして、おめでとうございます。本ブログも開設以来3年目を迎えます。山本七平さんの思想、そして氏のものの見方や考え方を紹介するのが本ブログの目的です。とはいえ、あくまで一読者として勉強しながら進めていることですので、間違いも多いことかと思います。お気づきの点はどうぞご教示下さい。

 山本七平さんが自分の本名で”ことば”を発し始めたのは、横井さんがグァム島から出てきた時のこと、文藝春秋に求められて1971年3月号に書いた「なぜ投降しなかったのか」がその最初でした。51歳の時です。

 それ以降の著作は、私のホームページ「山本七平学のすすめ」の著作一覧の通りですが、私が今までに本ブログで紹介できたのは、初期の「軍隊論4部作」(『私の中の日本軍』『ある異常体験者の偏見』『一下級将校の見た帝国陸軍』『日本はなぜ敗れるのか』)までです。

 少しずつでも前に進めれば、と思っていますが、はたしてどこまで行けるのやら、まあ、山本七平という大監督のもとでやっていることですので、安心といえば安心ですが、とらわれることなく自由にやらせていただこうと思っています。

 今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

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