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2009年1月20日 (火)

なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか3

 前回、「政府及び軍中央の命令を無視し満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなった」と申しました。私は、ここに昭和の悲劇を理解する最大のポイントがあると思います。この満州事変さえなければ、間違いなく昭和史は別のものになっていたと思います。

 ところが、この満州事変についての評価は必ずしも確定しているとはいえない。私は、これが今日の我が国における歴史観の分裂を招いている最大の要因だと思います。かって主流をなした「自虐的」歴史観においては、この満州事変を否定することによって、それと同時に「満州問題」の存在自体を否定あるいは無視する傾向がありました。一方、最近の修正主義史観においては、この「満州問題」の存在を指摘することで、自動的に満州事変が正当化できると考えているようです。

 最近話題になった「多母神論文」は、いうまでもなく、この後者の立場に立って日本の大東亜戦争における「侵略性」を否定しようとしているのですが、不思議なことに、満州事変をすっぽり抜かしています。なぜそうしたかというと、この満州事変を抜くことで、いわゆる「満州問題」を日中戦争を直接結びつけることができるからです。そうすれば廬溝橋事件に端を発する日中戦争は、どちらかといえば中国のイニシアティブで始まった戦争ですから、日本の「侵略性」を否定することができます。

 また、そうすることで、その中国を後押しして戦略物資を仏印ルート等を通して中国に送り込み、早期の戦争終結と日中和平を願っていた日本の努力を妨害し続けたアメリカ。さらに資産凍結や禁輸によって日本を追い詰めて挑発し、先に手を出させることによって国内世論を対独参戦へと導こうとしたアメリカ。そうした謀略国家アメリカの挑戦に対し「自存自衛」のため戦わざるを得なかった日本の立場を、被害者の位置から(場合によってはペリー来航に遡って)正当化することができるからです。

 これに対して、「自虐的」歴史観においては、満州事変の謀略的・侵略的性格を忌避するあまり、その前段にあった「満州問題」の存在を無視する傾向があるのです。そのため、大東亜戦争は勿論のこと、日清・日露戦争の歴史的な意義についても、日本の膨張的・侵略的な大陸政策の一環として否定してしまうことになります。あるいは否定はしないまでもその意義付けを明確にできないため、明治、大正、昭和の歴史的連続性の把握ができなくなってしまうのです。悪くすれば暗黒史観に陥ってしまいます。

 この問題を考える上で最もよい資料が、瀬島龍三(氏は、大本営陸軍部作戦参謀として同年12月8日の太平洋戦争開戦以降、陸軍のほぼ全ての軍事作戦を作戦参謀として指導したとされる)の『大東亜戦争の真相』大東亜戦争敗戦の教訓1「賢明さを欠いた日本の大陸政策」です。これは、氏が1972年にハーバード大学大学院の要請を受けて、国際関係学者約50人を前に「1930年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで行った講演録をまとめたものです。

 「教訓の第一は、いわゆる大陸政策の功罪についてであります。日本側の立場から見ると、大東亜戦争の動機はハード面では米国の対日全面禁輸、特に石油の供給停止であり、ソフト面から見ると「ハルーノート」に示された米国による日本の大陸政策否定、つまり国家の威信の全面否定にあると考えられます。米国による日本の大陸政策否定は、「ハルーノート」の各条項がこれを示しているばかりでなく、その冒頭にかかげられたいわゆるハル四原則」が、端的にこれを物語っております。

  昭和十六年(一九四一年)八月、日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」と述べたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥結事項に含ましめることを、極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なるからでありました。

 ともあれ日本の大陸政策に対し、今日の時点において今日の価値観に基づいて断罪を下すことはきわめて容易でありましょう。しかし歴史としては日本が歩んで来た大陸政策のよって来たる由来を、当時の時点においてとらえることを重視しなければならぬと考えます。

 既に申し上げましたように、明治維新(一八六八年)当時における日本の国防環境は重大でありました。インドを併合して清国を植民地化した英国と、沿海州を割取し樺太、千島、カムチャッカに進出した露国、すなわち世界の二大強国が、二百五十年にわたる鎖国桃源の夢の醒め切らない日本に対し、南北二正面から迫って来ていたのであります。徳川幕府末期の思想家橋本左内は日露結んで英国に対すべしと提言いたしましたが、明治政府は日英結んで露国にあたったのでありました。

 このような存亡の危機において、韓国も清国も、国家としての自衛独立の機能に欠如し、主権国家としての責任遂行能力をもっておりませんでした。特に清国は露国の満洲(現在、中国の東北地方)占領を放任するのみならず、満洲経由韓国への侵略も拱手傍観するのみでありました。日清、日露戦争は日本にとってみますと、国防上のやむを得ざる受動的戦争、すなわち明治の時代(十九世紀)における日本の大陸政策は、国防上の必要に基づく防衛圏の大陸推進であり、それは明治日本の国是たる「開国進取」の政策的発展でありました。

 日露戦争勝利の結果日本が満洲において獲得した権益は、露国から移譲されたものが主であり、当時の戦争終結の通念からして戦勝国に与えられるべき権益として世界はこれを明らかに肯定したものでありました。

 その後、この権益の確保拡充を中心として、日本の大陸政策は政治的、経済的、軍事的勢力圏設定へと変貌し、勢いの赴く所満洲事変となり、支那事変へと発展したわけであります。(筆者注:満州事変によって日本の大陸政策が侵略的なものに変質したとの私の指摘は前回述べた通りです。従って、これを連続的・必然的にとらえる著者の見解には同意できません)

 しかしその背景には第一に、日本の国土狭小、資源貧弱、人口過多という国家存立上の当時としては半絶望的条件を、大陸発展により克服しようとする国民的意欲の勃興がありました。

 さらに、世界経済恐慌の波及と世界経済ブロック化の趨勢が、ますます日本と大陸との結合関係を促進し、日満支ブロック経済の確立が国家の存立上不可欠の要件なりとするに至ったことであります。

 その上さらに、対ソ防衛圏の前縁を満ソ国境線に推進することにより、日本本土自体の国防を完うするばかりでなく、東亜の安定を確保することが、日本の使命と考えられたことであります。

 第四に、当時の中国の実体が、なお近代国家として未完成の域にあったことであります。従って中央政令の徹底が不十分であるため地方的処理の必要があったこと、治安の不安定、軍隊の不統制のため、在留邦人の生命財産または権益の擁護に日本が自国軍隊による現地保護の措置が必要であったことなど、中国の特殊事態をも指摘しなければなりません。

 しかも当時の中国の為政者は近代国家統一政策の手段として、国権回収、排外思想を強く鼓吹するのを常としていたのであります。そして戦後日本の代表的指導者であった幣原喜重郎氏が、当時外務大臣として平和協調外交を強調されるに対し、間もなくその外務次官に就任した吉田茂氏が武力強硬外交を主張するという時代であったのであります。

 かくてこの大陸政策は国民的合意を得たものでありました。昭和十六年(一九四一年)十一月東条内閣の国策再検討の結論を求める大本営政府連絡会議において、対米妥協屈伏を伴う臥薪嘗胆案を、本来戦争回避を願う東郷、賀屋両文官大臣が意外にも言下に否定したことは、大陸政策に対する国民的熱意を物語るものでありましょう。(筆者注:ここにおける東郷に関する記述は、氏の回想録『時代の一面』によると、11月初めの連絡会議において戦争回避の方策に努力した際「臥薪嘗胆」と同様の主張を為し、陸海軍に対し勝利の見込みもなく戦争に突入するは国民に対し相済まざるところなりとつめよった、とある)

 昭和十六年(一九四一年)十月二目付米側の口上書をめぐって、和戦の論議が沸騰したときにおける木戸内大臣の日記(十月九日)「日米交渉に関する豊田外務大臣所信」及び「現下国際情勢に処する帝国外交方針天羽外務次官意見」(共に十月十三日)は、いずれも戦争回避を趣旨としながら、大東亜新秩序建設または大東亜共栄圏建設の堅持を強調しているのであります。

 (筆者注:10月9日の『木戸日記』には、近衛公参内拝謁後意見を述べた中に、一、十年乃至十五年の臥薪嘗胆を国民に宣明し・・・とある。また、東郷の東亜政策は、「この地域内の諸国に就いても、主権の尊重と経済協力との基礎の上に善隣友好関係を樹立せんとするを念とした。即ち日本は東亜の先進国として東亜諸国並びに諸地域の進展を助け、平和的手段により東亜の繁栄を図るにあった」とし、これは武力による支配の政策とも異なり、また、「ブロック」経済乃至生活圏の観念とも一致しないのはあまりに明瞭であり、これら生活圏主義を至上とする東亜新秩序の観念の主張主張と相反することは明らか」であり、東條一派の大東亜政策と異なるのは当然としている。(『時代の一面』p437~438)

 当時米国または英国においては、日本における軍の強硬分子にとってかわる協調分子の台頭により、日米英関係が好転するかも知れぬことを、指摘する向きがあったようでありますが、それは日本の実状に対する認識が不十分であり、大陸政策に対する日本国民の合意を的確に把握していなかったものと考えます。

 しかしこの大陸政策が中国ばかりでなく米国によっても否定され、戦争となりました。そして日本はすべてを失いました。結果論として様々な事情があったにせよ私は日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」(『大東亜戦争の実相』p278~282)

 この最後に語られた「日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」という言葉、これはその前に語られた日本の大陸政策に対する弁護の言葉と鋭い対照をなしています。それは、その「限界、方法、節度」において賢明でなかったというのです。では、その「限界、方法、節度」というのは具体的にどういうことか。もちろんこれは日本の満州事変以降の大陸政策全般についていえることですが、これを満州問題についていえば、その「限界」は東三省(=満州)、「方法」は国際法遵守、「節度」は中国の主権の尊重ということであったろうと思います。また、東亜政策については東郷外務大臣の説明の通りであろうと思います。

 また、昭和16年4月に始まる日米交渉において、最大のネックとなったことは、日本軍の中国からの撤兵問題でした。廬溝橋事件以来日中戦争は4年を経過し、この間、日本軍は中国の主要都市の大半を占領して多くの親日政権を樹立し討伐戦を行う一方占領地の治安維持にも当たってきました。この間の日本軍の犠牲者は実に18万人にも上りました。これらの既成事実や犠牲を全て投げ捨てて中国から撤兵するということ、しかもそれをアメリカの圧力に屈する形で行うということは、満州事変以来の日本陸軍の行動を否定することであり、当時の陸軍には到底できることではありませんでした。

 それでも陸軍の主敵はソ連であり、中国から足を抜けない状態の中でアメリカと戦争はしたくなかった。そこで、昭和16年の10月12日、近衛首相の下での最後の日米交渉の段階において、陸軍の武藤章軍務局長は、「海軍の方で『戦争出来ぬ』というのなら陸軍はなんとかおさめるから、本当の処をいって呉れ」と海軍に伝えたといいます。これに対して、及川海相は海軍首脳を集めて対応を協議しましたが、結論は、海相としては戦争をすべきや否やを決定する発言はできぬ。その問題は総理がきめるべきで、そこで総理からはっきり「戦争は避けるべきだ」と言ってもらえばよい、ということでした。

 実際のところ、昭和16年10月6日の海軍首脳会議では、「日米戦うのは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」という結論に達し、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うも良うございますか」と半分は自己の所信を示し、永野修身軍令部総長の了解を求めたのでした。これに対して永野は「それはどうかね」と述べ、大臣の折角の決心にbrakeをかけられ、意気高揚する場面たちまち白けわたる」といった状況だったといいます。(『第一次世界大戦と日独伊三国同盟』平間洋一p315)

 こうした海軍の責任回避を非難する意見に対して、海軍の高木惣吉少将は次のように反論しています。
 陸軍が「海軍として成算がないから、ということにしてもらえば何とか内部が収められぬこともないが……」と、統制の乱れた陸軍の部内収拾のため、海軍が陸軍の前に膝を折らねばならぬ、とは何と虫のいい勝手な要求であったろう。仮りに国のためなら一身上の毀誉褒貶も、海軍の立場がぬきさしならぬ境地に立ってもかまわぬ、という勇猛な海相や総長がいて、海軍には対米戦の成算がない、ぜひ対米交渉をつづけてもらいたい、と陸軍に歎願したと仮定して、東條陸相、杉山総長は、はたして陸軍の中央および出先の強硬主戦派を統制できたと断言できるであろうか。それができる位ならば張鼓峯でも、ノモンハンでも、柳条溝でも、盧溝橋でも、また近くは南北の仏印進駐でも問題は起こらなかったはずである。中央、とくに大本営命令に違反した南部仏印の強行上陸などなぜ起こったのか。

 一方仮りに奇蹟が現われて陸軍が開戦決意を緩和し、または延期したと仮定しても、反日親支の連中がそろったハル、ハミルトン、ホーンベックの立てこもる米国務省、スチムソンの陸軍省、支那びいきの口ーズヴェルト大統領の率いる米国が、はたして対日要求条件を現実的なラインまで近寄せることができたであろうか。そのいずれの一方の条件が欠けても、海軍はただ年度作戦計画の上奏では陛下をあざむき、国民の前には無敵海軍が一転して無能海軍と化して世論の集中攻撃にさらされ、陸軍に対しては支那事変や北方問題解決(実は対ソ作戦)のために、予算と軍需資材と生産工場を提供しなければならぬ絶好の口実を与えたにすぎないであろう。陸軍部内を統制するのは海軍の泣き言ではなく、陸相、参謀総長の重大な責任ではなかったであろうか。」(『私観太平洋戦争』高木惣吉)

 そこで最後に下駄を預けられた形になった近衛首相ですが、実は、氏は最後に「近衛・ルーズベルト会談」に最後の望みを賭けていました。

 「日米交渉の最大の難問は、中国からの撤兵だが、軍部は到底承知しそうにない。ところが近衛は、『どんな譲歩をしても日米妥協を図る。それには直接御允裁を仰ぐという非常手段をとる』と、なかなか悲壮な決心を固めていたようだ。聖断により中国から撤兵するということであり、木戸氏によれば、『近衛君と僕との話では、そのトップ会談で話がついたら、それを僕のところへ電報で寄こすと……、で、それを陛下に申し上げると……。陛下がそれを御嘉納になればだね、陛下の御命令で軍隊を撤兵するということなら、陛下の御命令とあらは終戦のときでも収まったからね、結局収まるわけなんだ。まあ、年を貸すぐらいのことは認めるだろうと……そう考えていたわけだ』という。『これをやれば殺されるに決まっているが……』伊沢多喜男が心配したら、近衛は「生命のことは考えない」と言い切ったという。『この頃は見上げたものだ。あれならものになりそうだ』。原田は、近衛が松岡を辞めさせたり、生命の危険を顧みずにアノリカヘ行くと聞いて、池田成彬や東久爾たちと、『なかなか粘り強いし意志も強くなって来たようだ』と感心するほどだった。」(『重臣たちの昭和史』勝田龍夫p279)

 一方、東條は「(中国)駐兵は最後までがんばる。優諚(天皇の恵み深いお言葉)があってもがんばる」と天皇の命令さえはねのける決意でした。海軍は前述の通り、「撤兵問題のため日米戦うは愚の骨頂なり、外交により事態を解決すべし」と内部決定をしながら、それを外部には明確にしない。結局、「近衛・ルーズベルト会談」は実らず、東條は説得できず、近衛は昭和16年10月16日、ついに内閣を投げ出し、ここで近衛の政治生命は終わりました。

 この近衛文麿の戦争責任を問う声はきわめて強い。しかし、彼が昭和12年6月に首相になった直後に起こった日中戦争は、明らかに中国側のイニシアティブで始められたた戦争であり、中国の継戦意志が続くかぎり終結することは困難でした。そしてその困難を決定づけていたものが、中国に満州国を承認させることでした。もし「満州問題」が、中国の宗主権を認める形で処理されていたら、この問題の解決は容易だったと思いますが、それが満州国の独立で否定されている限り、例え誰が首相であっても、この問題を解決することは困難だったのではないかと思われます。

 その上、その後の、日本軍の華北五省分離工作に至る度重なる中国に対する主権侵害・侵略行為は、中国人の抗日意志をいやが上にも高めました。昭和10年9月、中国側から「日中両国の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しない」ということを基礎に話し合いを進めたい」とする申し出がありました。

 これに対して、昭和10年年10月4日、次のような広田三原則が示されました。「一、支那側は排日言動を取締り、・・・欧米依存政策より脱却し対日親善策を採ること、二、満州国はさし当たりその独立を事実上黙認し、反満政策を止め・・・北支方面では満州国との間に経済的、文化的融通提携を行うこと、三、外蒙などよりの赤化勢力の脅威排除のため、我が希望する施策に協力すること。」

 これに対する蒋介石の言葉は次のようなものだったといいます。
 「9.18事変発生以来、継続不断に上海事件、華北事件と踵を接してくる。全国上下、ひとしく極度の煩悶、苦痛に陥る。・・・最大の忍耐をなすに当たっては、主権を侵さざるをもって限度とする和平いまだ絶望の時期に至らざれば、決して和平を放棄せず。犠牲いまだ最後の関頭に至らざれば、まだ決して軽々に犠牲を言わず・・・これより全国の同胞、振奮鼓舞、埋頭努力、共に抗日戦争の積極準備を為す。」(第五次国民党全国代表大会)(『陸軍の反省』加登川幸太郎p65)

 そしてついに、廬溝橋事件を経て、蒋介石は「生死関頭の演説」をなすに至りました。
 《……弱体国家の人民として吾人は、数年来隠忍自重、あらゆる痛苦を忍びて和平を維持し来りしが、もし不幸にして最後の関頭に至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦により、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり。その時に至って、再び不徹底なる妥協をなすことは許されず、全国国民はいわゆる「最後の関頭」の意味を充分に認識すべきなり。

 蘆溝橋事件は、もとより日本側の計画的挑戦行為なり。・……今日の北平にしても、もし昔日の奉天と化したらんには、今日の糞察はまた往年の東北四省となるべく、北平もし奉天とならば、南京またかつての北平と化することなきを誰か保せんや。故に蘆溝橋事件の推移いかんは、中国にとって実に全国家的問題にして、同事件収拾の能否は、吾人の最後の関頭の境界なり。……五に人の和平解決の条件には、きわめて明瞭なる左の四項あり。

一、いかなる解決も中国の領土と主権とを侵害するを許さず。
二、糞察の行政組織に対する、いかなる非合法的改変も容認し得ず。
三、翼察政務委員会委員長・宋哲元らの如き中央政府の派遣する地方官吏を、外部の要求により更迭せ しむるを得ず。
四、第二十九軍現在の駐屯地区に対する、いかなる制限をも受け得ず。
 これを要するに政府は、……全力をつくしてこの条件を固守せんとするものなり。……》

 この廬溝橋事件の発端については、中国側第29軍の兵士による「偶発的発砲」(秦郁彦氏の見解)の可能性が高いとされていますが、いずれにしても、この後の郎防事件、公安門事件、通州事件、上海事件等そのいずれも、中国側の激しい抗日抗戦意志を示すものであることは疑いありません。

 この間8月7日、陸海外三省会議決定の停戦協定案及び国交調整案が示され、1933年以降日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄するとともに、満州についても「中国は満州を承認するか、あるいは満州国を今後問題とせずという約束を穏約の間になすこと」と大きな譲歩案が示されましたが、8月9日上海で突発した大山事件もあり、交渉はなんら進展することなく中絶しました。(『日中戦争史』秦郁彦p228)

 こうして始まった日中戦争を、アメリカの圧力を受けて日本軍の一方的な中国からの撤兵という形で終わらせることは、昭和12年末の南京占領、13年の徐州・漢口作戦、広東作戦、昭和14、16年の南昌・南寧作戦、宣昌作戦、華北の百団大戦と続いて、日露戦争を超える犠牲者(日米開戦までの日本軍犠牲者は約18万人)を出している現状においては極めて困難なことでした。

 よく、南京戦におけるトラウトマン和平工作の失敗が近衛の責に帰せられますが、中国側のイニシアティブで始められた抗日戦争である上海・南京戦の勝利の後に、開戦前の「国交調整案」でその終結をはかることは無理だったのではないかと思います。まして、それより4年後の日米交渉の段階において、中国からの撤兵を前提とする日米交渉を成功させることはどれだけ困難だったか。

 先に紹介したように、近衛は、終戦時に鈴木貫太郎が用いた天皇聖断をもって、中国からの日本軍の撤兵を実現し日米戦争を回避しようとしました。しかし、もし「近衛・ルーズベルト会談」が成功して日本軍の中国からの撤兵が約束されたとしたら、結局、「あいつはやはり公卿だ、長袖政権が英霊をむだ死にさせて屈服した」ということになって殺されたであろう。」と山本七平は推測しています。(『激動昭和の領袖』「近衛文麿」山本七平p214)

 この中国本土への、数百万に上る日本軍駐兵という恐るべき結果をもたらしたものが満州事変であり、その帰結が日米英戦争であったことはいうまでもありません。満州事変は関東軍の一部参謀による謀略によって引き起こされたものであり、政府及び軍中央の不拡大方針を無視した関東軍の独断的軍事行動によって満州占領が企図されました。しかしその途中で、これでは国際的非難を避けがたいということになり、満州人による自治運動の結果としての満州国の独立という体裁にし、その執政として廃帝溥儀を担ぎ出し、それを関東軍が内面指導するという形で日本の傀儡国家としたのでした。

 この満州国出自におけるあまりにもあからさまな”虚偽”が、それゆえに国際社会に対して、さらには国民に対して隠蔽され、自衛戦争の名の下に正当化されたということが、日本陸軍が、その暴露につながりかねない中国からの撤兵を恐れた、その”本当の”理由だったのではないかと思います。また、アメリカの執拗な日本軍の中国からの撤兵要求も、あるいはここにその根拠をおいていたのかもしれません。(下線部1/28挿入)

 この満州事変その必然的結果として導かれた日中戦争の性格について、橋川文三は次のようにいっています。

 「あの戦争は非常に不思議な戦争で、宣戦布告がないし、戦闘はやっているけれども、いわゆる裏面工作では、和平工作というのが執拗に最後まで行われるわけでしょう。極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。なにか、私なんかの体験でもぜんぜんすっきりしなかったという記憶を持つんですね。そしていつの間にかそれに慣れちゃって、太平洋戦争にああいう形で入りますと、これは本当の戦争だと少し元気になったという、奇妙な記憶があるんですがね。」(『シンポジウム日本歴史 ファシズムと戦争』p245)

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