フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月

2009年3月29日 (日)

蒋介石の「敵か友か?中日関係の検討」

 前々回に紹介いたしましたが、蒋介石は、1934年12月、満州事変以前そして以後の中国側の犯したあやまりに対する反省を踏まえて、日中関係の抜本的改善を呼びかける「敵か友か?中日関係の検討」という論文を、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表しました。「外交評論」は国民党外交部の機関誌といえるもので、党・政府中央の意を広く民衆に伝える雑誌でした。そこに「日中朝野の人びとに先入観抜きで読ませる」ため、あえて第三者に語らせる形をとり、かつ、その内容が国民政府の本意にかなうものであることを明らかにしました。

 これを見ると、当時蒋介石が、満州事変以降危殆に瀕した日中関係を、どのような観点に立って、互助互恵の日中親善関係へと転換させようとしたかがよく分かります。北村稔・林思雲著『日中戦争』によると、満州事変後における中国市民や学生間の主戦論はすさまじく、それに比べれば和平派(その多くは軍事や政治の重要ポストにいる人たちや、社会的影響力の大きな学者たち)の数は少なく、彼らの努力が無かったならば、日中間の全面戦争は、一九三一年頃に早くも勃発していたであろう、というほどだったといいます。

 そうした雰囲気のなかで、蒋介石は何とか満州事変の戦後処理を済ませ、日中親善・互助互恵の経済関係を築きたかった。それが両国のためであるし、ひいてはアジアの平和の確立のためでもあり、さらに世界戦争の危機を免れるためでもあると確信していたのです。そして、そのための唯一の方策として、蒋介石が広田外相に期待したのは、満州国問題をその宗主権を中国に残す形で、「中国の面子」を立てるやり方で解決して欲しい、それ以外に、主戦論に沸き立つ中国国民の怒りを鎮める方法はない、ということだったのです。

 残念ながら、当時の日本はその願いに応えることができなかった。なぜか、日本人は当時の世界をそして中国人の感情を、蒋介石が世界をそして日本人の感情を読んだほどには読めなかった、そういうことだったのではないかと私は推測しています。おそらく、近衛も広田も内心ではそうしたい気持ちはやまやまだったろう、という推測ともあわせて・・・。(以下『蒋介石秘録(下)』より引用・要約p134~138)

 「世上、中日問題を論述した論文は非常に多い。両国の政治家、学者が発表した意見も、専門的なもの、一般的なものを問わず、少なくない。ただ、私はここで、あえて断言する。一時の感情や意地、一時のあやまりにとらわれず、国家の終局的な利害を考えた見解は、きわめて少なく、問題の正面からの認識が、あまりにも不足しているのだ。国際間の多くの悲劇は、すべて一時のわずかな行き違いから生まれながら、永遠にとり返しのつかない禍いとなっているのである。中日両国はさまよい、滅亡への足どりをますます早めている。これを打開し、ひいてはアジア平和の基礎を確立し、世界戦争の危機を免れるためには、なによりもまず、中日問題をまじめに検討しなくてはならない。率直で赤裸々な批判と反省が必要なのである」

 「まず私かいいたいのは、理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である。私は日本入のなかにも同様の見解を抱く者は少なくないと思う。だが、今日までのところ、難局を打開し、両国の関係を改善する兆候はないばかりか、前途をみても一点の光明もない。ずるずると、行き当たりばったりに、自然のなりゆきにまかせられているのである」

 蒋介石はこのような日中関係についての基本認識のもとに、当時の日本の置かれた情況について次のような透徹した認識を示しています。

 「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。

 「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。

 この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」

 「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。

 戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。

 また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」

 このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。(筆者要約)

一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。

 日本側には、次の五つのあやまりがある。

一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。

二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。

三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。

四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。

五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。

 日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。

①国際連盟を脱退したこと。

②アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。

③自ら作り出した危機意識にとらわれていること。

 以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、

第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。

第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。

 第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。

 以上、誠にお見事というほかありません。

(以下3/29追記)

 ところで、この内支那側の反省を見ると、満州問題の処理をあやまったということが中心をなしていますが、それはいうまでもなく支那側の拙速な革命外交によって幣原外交の日本における存立基盤を破壊してしまったことに対する、蒋介石の痛切な反省がベースになってように私には思われます。実は、こうした中国外交のあやまりをつとに指摘していたのが幣原自身で、幣原平和財団が発行した『幣原喜重郎』には、政治評論家馬場恒吾による「幣原外交の本質」と題する次のような一文が掲載されています。

 「昭和七年十一月支那に開係ある日本人が幣原を訪ねて云ふには、自分はこれから支那に行って支那の要人に會ふ積りだ。満洲事変の起った当時の外務大臣として、幣原は支那人に云ふべきことがあるかと云った。

  幣原は答へて、大にある。支那の要人に會ったら、幣原は彼の阿房さ加減に呆れていると云って呉れ、其の理由は前年九月十八日に満洲事変が突発した。そのころ財政部長宋子文からの非公式の話しとして、支那は満洲事変に関して日本に直接交渉を開き度いと云ふ意向がある、と云ふ報道が来た。幣原は外務大臣としてそれに応じてもよいと返事した。 所が其後何の音沙汰もない。

  越えて十月八日幣原は東京駐在の支那公使に向って、日本は直接交渉を開く用意があると云ふ公式通牒を発したのである。かうした通牒を出すに『幣原は命がけの決心をしていた。直接交渉に依って、日本は正常の権益を収める。しかし、同時にこれ以上満洲事変の拡大することを抑へるといふことは当時の情勢では幣原は一身を賭してなさなければならぬことであった。若しあのとき、支那の要人が幣原の誘ひに乗って満洲問題の満足な解決を与えたならば、支那は共後の汎べての戦禍を免れたであらう。それをしなかった支那要人の阿房さに呆れるといふのであった。

 幣原を訪ねた人はそれは過去の事だが、今後の支那に對する忠告はないかと問ふた。幣原は答へて、今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、國際聯盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消さうなどということは理論の遊戯として面白いかも知れぬが、国際政治の領域のものでない。実際政治家の要は、この現実此の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。支那の出方一つで、満洲國の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから、本家と分家の関係位に見て居ればよい。

 例へば加奈陀は英國から実際的には殆んど独立している。各回へ公使を出したり、國際聯盟へも代表者を出している。併し重大問題になると、其國の不利益になるやうな事はしない。満洲が独立国になった所で、支那の出様さへよければ、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れないと。」(上掲書p503~504)

* なお、この記述は、幣原のなした会話の伝聞記録なので、幣原が言いたかったことをどの程度正確に反映しているのか判りません。ただ、氏のそれまでの主張との整合性を考えると、おそらく、これは必ずしも満州国の独立を承認せよといっているわけではなくて、そのポイントは「此の事実に立脚して如何に善処するかを講究」すべき、という点に置かれているような気がします。そう考えれば、この時の蒋介石の提案はその善処策の一つと見ることができます。(3/30追記)

 おそらくこの後段の幣原の提案に対する蒋介石の回答が、「敵か友か?中日関係の検討」以降の広田外相との日中親善をめざす外交交渉になったのではないかと私は思っています。(以下追記3/30)この時の駐華日本大使は有吉明で、国民政府の対日態度が一大転換をしたことについて、これは日本にとって千載一遇の好機であるが、これに対して外務省は何をもって応えようとしているのか、と問うています。南京政府が「邦交敦睦令」や「排日禁止令」で誠意を示しているのに、外務省のは華北問題につき軍部の若手強硬派を説得する勇気も矜持も持っていないのか、と怒りを露わにしています。

 しかし、この頃の日本の政治体制は、あたかも一国二政府のごとき変態を呈していて、日本の支那駐屯軍は、政府の日中親善を目指す外交交渉を妨害するため、あえて、梅津・何応欽協定を嚆矢とする華北分治工作を推し進めました。しかも、それに対する政府の干渉を統帥権を盾に排除する姿勢を示しましたので、その説得は極めて困難でした。私は前稿で、満州事変のもたらした二つの難問の一つとして、「関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなった」ことを指摘しましたが、この時の支那駐屯軍による華北分治工作こそ、日本に中国との全面戦争を運命づけるポイント・オブ・ノーリターンとなったのです。

2009年3月26日 (木)

なぜ日本は中国と戦争をしたか6

 前回紹介した岸田国士の言葉「今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。」は、日中戦争の本質を端的に表したものといえます。

 また、私は前回の末尾で「軍部を含めた日本側も、そしておそらく中国側も望まなかった日中戦争」と書きました。これについては廬溝橋事件発生時における「拡大派」の存在や「中共謀略説」などを根拠に、異論を唱える方も多いと思います。北村稔・林思雲氏の『日中戦争』の副題は「戦争を望んだ中国望まなかった日本」となっています(挿入3/30)。しかし、日中関係をより長いスパンで見た場合、日中親善が望まれていたともいえるわけで(注1)、蒋介石も、また満州事変の張本人である石原莞爾も、先の「拡大派」にしても、決して中国との全面戦争を望んだわけではありませんでした。

注1:中国は日本を近代化のモデルとし、日本は中国をアジア主義または王道文明という観点から一体的に捉えていた、という意味(3/27)。「両者とも日中親善を望んでいたことは明らか」という表現は上記の通り訂正(3/30)。なお、中共の立場はまた別の観点で見るべきで、ここでは日中戦争を日本と国民党間の戦争として考察します。(3/29)

 終戦後の1946年にアメリカ戦略爆撃調査団が日本陸軍の華北進出の動機に関する調査を行っていますが、その一説には次のような調査結果が記されています。(『太平洋戦争への道4』「日中戦争(下)」p3)

 「一九三七年(昭和一二年)の華北進出は、大戦争になるという予測なしに行われたものであって、これは本調査団が行った多数の日本将校の尋問によって確証されるところである。当時、国策の遂行に責任のあった者たちが固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自ら調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。・・・交渉で――あるいは威嚇で後は万事、片がつくと考えていた。」

 この事実は、満州事変以降の日本の中国に対する究極の要求が何であったかを見てもわかります。もちろんそれは、寛大ないわゆる「大乗的」といわれるものから侵略的という外ないものまで、その振幅はさまざまですが、中国との戦争状態を惹起しないあるいはそれを終熄させようとした時の最低限の日本の要求は何だったかというと、結局それは、満州事変以降日中戦争期そして大東亜戦争期を通じて、満州国の独立を中国に承認させる、という一点に絞られてくるのです。

 この間における満州国承認に関する日中間交渉は、昭和10年9月7日、蒋介石が蔣作賓を通じて日本政府に示した日中提携のための関係改善案の提示に始まります。この時の中国側の提案は「満州国については、蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日これを不問にする。(右は日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずという意なり)」というものでした。これに対して広田外相は、昭和10年10月7日、張作賓に「広田三原則」を示し、その第二項で「満州国の独立を事実上黙認」することを求めました。

 これに対する中国側の答えは、「満洲にたいし政府間交渉はできないが、同地方の現状に対しては、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことをしない」というものでした。広田外相は、「中国は満洲に対して政府間の交渉はできないというが、それでは現状と変わりがない」として重ねて「事実上の満州国承認」を求めましたが、中国側は応諾しませんでした。おそらくその理由は「中国としては満州国の宗主権を放棄することはできない」ということだったと思います。

 また、中国側はこの交渉に先立って中国側三原則を示し、その趣旨に日本側が賛同することを求めました。それは(1)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること。(2)両国は真正の友誼を維持すること。(3)今後、両国間における一切の事件は、平和的外交手段により解決すること、でした。その狙いは、「梅津・何応欽協定」以降の日本軍の武力を背景とした脅迫的な交渉態度や「華北自治工作」という主権侵害行為の停止を、日本側に約束させることにありました。

 広田外相としても、1935年1月12日の議会演説で中国に対する不脅威・不侵略を宣言して以来、なんとか日中関係改善の糸口を見つけようと努力しました。また、国民政府も日本軍による華北自治工作開始後も、対日親善方針を変えなかったため、広田外相は陸海外三省協議の上、「広田三原則」をまとめたのです。しかし、そこでは軍部の圧力のため(3/27挿入)「相互尊重・提携共助の原則による和親協力関係の設定増進」という項目が削除されたり、「日満支三国の提携共助により」が「日本を盟主とする日満支三国」となるなど中国側三原則の趣旨は失われていました。

 そのため、この時の日中関係改善交渉は挫折しました。そしてその後も、日本の出先陸軍は華北自治工作を強力に推進し、1935年11月23日には殷汝耕を政務長官とする冀東(冀=河北省)防共自治委員会を設置し、さらに河北の宋哲元らに対する自治工作を強化しました。国民政府はこれに対して1935年12月18日、一定の自治権を有する冀察(チャハル省)政務委員会を設置(1935.12.18)しました。しかし、こうした日本軍のあからさまな華北分治工作に対する中国国民の反発は、燎原の火の如く中国全土を蔽い、各地で対日テロ事件が頻発するようになりました。

 一方日本では、1936年2月26日に一部青年将校による二・二六事件が勃発し、岡田内閣が崩壊、続いて3月9日広田内閣が発足しました。対華政策については8月11日「第二次北支処理要項」が決定され、日本の「華北分治政策」が満州国の延長の如く解せられないよう留意しつつ、「日本と華北の経済合作」を進めるべきとしました。また、険悪の度を増す日中関係の根本解決をめざして、南京で川越駐華大使と張群外交部長の間で華北経済合作を中心とする交渉が行われました。その中で中国側は、塘沽・上海停戦協定(満州事変の停戦協定)の取り消しや、冀東政府の解消を要望するようになりました。

 さらに日本の綏遠工作(内モンゴル軍を使った中国からの綏遠分離工作)が発覚すると、蒋介石は、「綏遠工作が続く限り南京交渉は困難である」「中国国民の日本に対する不安と猜疑の念は、ますます高められる一方だから、日本も大局的見地からこれを一掃する処置を講じてほしい」と要望しました。さらに1936 年11月24日の百霊廟陥落(綏遠事件の最後の戦闘で中国軍が勝利したもの)以降の中国側の姿勢はさらに高姿勢に転じ、交渉の進展は絶望となりました。さらに12月12日には「西安事件」が発生し、これ以降蒋介石は、第二次国共合作、抗日民族統一戦線の結成へと進むことになりました。

 広田内閣は1937年1月23日に総辞職し、組閣の大命は宇垣一成予備陸軍大将に下りましたが、陸軍の反対に遭い組閣を断念し、2月2日林(銑十郎)内閣が成立しました。外相は佐藤尚武となり、対華政策については従来の陸軍の拙速主義に対する反省から、華北分治政策の放棄と冀東政府の解消がはかられました。また、「日満を範囲とする自給自足経済を確立し」て対支政策を一変し「互助互栄を目的とする経済的・文化的工作に主力をそそぎ、その統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み、北支(華北)分治は行わず」となりました。これは石原構想に基づくものでした。

 しかし、こうした政策変更が実効を見る間もなく、林内閣は5月31日に倒れ、6月1日に近衛文麿内閣が誕生し、外相は再び広田弘毅となりました。この間、華北をめぐる日中関係は悪化の一途をたどり、一触即発の状態となりました。そしてついに、7月7日北平郊外の廬溝橋で演習中の華北駐屯日本軍と冀察政権の第二九軍の間で武力衝突が発生したのです。直接の原因は第二十九軍の兵士の偶発的発砲(秦郁彦)とされますが、この段階では、すでに中国国民や兵士の抗日気運は十分に盛り上がっており、いつ衝突が起こってもおかしくない状況になっていました。

 事件直後の7月8日、中共中央は全国に通電を発し、即時全民族抗戦を発動することを主張し、蒋介石に国共合作による共同抵抗の実現を要求しました。しかし、抗日戦準備態勢の不完全を憂慮した蒋介石は、なお抗日戦発動をためらっていましたが、7月17日廬山国防会議において「最後の関頭」演説を行い、万一やむをえず「最後の関頭」にいたるならば」中国としても全民族をあげて抗戦し、最後の勝利を求めるほかないとしました。そしてついに8月8日「全将兵に告ぐ」という次のような演説を行いました。

 「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍れども忍をえず、退けども退くをえない。いまやわれわは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死を賭けて戦わなければならない。」

 一方日本側では、事件発生後「不拡大・現地解決」を指示しましたが、陸軍の一部には「この機会を利用して、内地からの兵力を派遣し中国に一撃を加えて、前年からの華北工作の行き詰まりを打開しようという強硬意見」が台頭し、不拡大を主張する石原参謀本部作戦部長らとの間で激論が交わされました。しかし現地では11日相互撤退の原則で停戦協定が成立しました。しかし、東京ではこの調印に先立つ数時間前の閣議で内地三個師団の派兵が決定していました。ただし、動員後派兵の必要がなくなれば取りやめるとの条件付きでした。

 この派兵が決定した11日の五省会談及び閣議では、米内海相から反対意見が述べられ、近衛首相、広田外相、賀屋蔵相も乗り気ではなかったといいますが、近衛首相はその日の夕方、華北派兵の理由及び政府の方針に関する政府説明を内外に公表し、同時にこの事件を「北支事変」と呼ぶことにし、同日夜首相官邸に政・財・言論界の代表をまねき、協力を求めました。こうした政府の鼓吹によって「暴支膺懲熱」が国民の間にも高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催があいつぎました。(この時の近衛首相の判断には首をかしげざるを得ませんが、それは、中国との外交交渉の主導権を握るためのブラフだったと説明されています。3/27補足)

 この7月11日の派兵声明以降、陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が生じ、これを反映してその後二週間の間に三回も動員の決定と中止が繰り返されました。一方、現地では支那駐屯軍と冀察政権の交渉は順調に進み、19日には細目協定が橋本参謀長と張自忠の間に停戦協定が調印されました。そして23日、石射外務省東亜局長は、陸・海・外三局長会議で、事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第三十七師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得ました。

 だが、23日を境に現地情勢は急速な変転を示し始め、第三十七師は北平撤退を中止したばかりでなく、かえって第二十九軍の他の部隊が協定に反して北平侵入するありさまでした。さらに25日には郎防駅(北平・天津の中間)付近で電線修理に派遣された日本軍の一中隊と中国軍が衝突した「郎防事件」。次いで26日には北平入城中の広部大隊に対し、中国側が城壁上から機銃掃射を加えた「公安門事件」が発生しました。かくて、現地香月軍司令官は従来の不拡大方針を放擲し、27日、政府も午後の閣議で内地五個師団二十万人の動員案を決定しました。(南苑にある中国軍主力対する攻撃は28日1日で終わり華北での戦闘は停止しましたが日本軍は南下を続けた。)

 一方、石射東亜局長の提案になる解決試案――日中戦争の全期間を通じ、最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策――が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになりました。その原動力は石原作戦部長だったと推定されていますが、これに天皇も同感の意を表され、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定されました。

 「この停戦協定案は、(1)塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消、(2)廬溝橋付近の非武装地帯の設定、(3)冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政、(4)増派日本軍の引揚げ、また国交調整案としては、(1)満州国の事実上の承認、(2)日中防共協定の締結、(3)排日の停止、(4)特殊貿易・自由飛行の停止などを、それぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助土地顔法権の撤廃も考慮されていました。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、一九三三年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする寛大な条件でした。(『太平洋戦争への道(4)』p18~19)

 この案(船津案)を、南京政府の高宋武・亜洲司長に伝える交渉者として、在華紡績同業者会理事長・船津辰一郎(もと上海総領事)が選ばれ、八日または九日から高宋武と会談を始める予定でした。ところが、おりしも華北から帰来した川越・駐華大使が訓令を無視して高との会談を行うよう変更し、九日夜川越・高会談が行われました。しかし、この日上海で大山事件が突発したため、交渉はなんら進展のないまま途絶しました。そして十三日夜、上海で対峙していた日中両軍間で戦闘が開始され、翌十四日、中国空軍は上海在泊中の第三艦隊に先制攻撃を加えました。そして翌十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、ここに日中全面戦争が開始されました。

 以上、「広田三原則」以降「日中全面戦争に突入するまでの日中交渉の経過を『太平洋戦争への道』の記述を引用しつつ説明してきました。そこで疑問となるのは、8月4日に日本側にこれだけの譲歩ができたのなら、なぜ、出先陸軍は広田外相の日中親善外交をあれほど露骨に妨害し「華北分離工作」をおし進めたのか、ということです。その時問題となった「満州国の事実上の承認」についても、中国側は日本に対し「満州国承認の取り消しを要求せず」としていましたし、また、第三国の承認もなされていたのですから、この線での妥協も可能だったと思います。

 この和平条件は、11月2日に広田外相から依頼を受けたディルクゼン駐日ドイツ大使が、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石に示した仲介案(「満州国の事実上の承認=黙認」が「満州国の承認」となっているほか船津案とほぼ同じ)にも引き継がれていました。しかし蒋介石は、ブラッセル会議(蒋介石はこの会議で対日制裁が決議されることを期待していた)を理由にこの申し出を断りました(11月5日)。その後同会議が見るべき成果なく閉会したので、蒋介石はあらためてドイツの仲介案を取り上げることにしました。12月2日、蒋介石は会議に出席していた各将領の意見を聞きましたが、白崇禧は「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」と疑問を呈しました。

 他の将領もこれだけの条件なら受諾すべしと答えました、しかし蒋介石は「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつも、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」としました。しかし「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」とトラウトマンに要望しました。(『広田弘毅』p302)

 トラウトマンより連絡を受けたディルクセン駐日独大使は12月7日広田を呼び、「中国側では日本側提示の条件として交渉に応ずる用意がある。ついては先にお示しになった条件のままで話を進めてよいか」と訊ねました。広田は早速近衛総理及び陸海両相と会談しこの件をはかるといずれも意義なく賛成だといいました。ところが翌朝杉山陸相が広田を訪れ「ドイツの仲介を断りたい.近衛総理も同意である」と申し出てきました。そこで和平条件案が12月14日の連絡会議にかけられましたが、原案を支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、近衛首相は沈黙を守り、そのため多田、末次、杉山、賀屋らの異論により条件が加重され、戦費賠償まで加えられました。(『廣田弘毅』廣田弘毅伝記刊行会p302~303)

 最終的にこれが閣議決定されたのは12月23日ですが、このように日本側の態度が強腰になったのは、上海の激戦や(3/27挿入)南京陥落により国民が刺激され、対華強硬世論が盛り上がってきたことが原因と考えられます。というのは、11月13日から始まった上海戦は、14日の中国空軍による第三艦隊に対する先制攻撃で開始され、また、中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築、訓練、作戦指導を受けており、ドイツ製の優秀な武器を持って日本軍と戦い、日本軍に膨大な犠牲をもたらしたからです。この模様は同盟通信の松本重治によると「上海の戦いは日独戦争である」というほどのものだったといいます。

 そのため、上海での戦闘(「上陸作戦」を訂正3/29)に三ヶ月もかかり、この間の日本軍の戦死傷者は四万一千名に及び、日露戦争の旅順攻略に匹敵するほどでした。こうした予想だにしなかった事態を、日本軍はどれだけ事前に把握していたか。廬溝橋事件後のいわゆる一撃派は「一撃で中国軍が簡単に降参する」と見ていました。また、当時の支那通も上海付近の要塞化にさしたる注意を払いませんでした。それは日本軍の伝統的な支那人蔑視観が判断をあやまらせたともいえますが、最大の理由は、まさか支那との全面戦争になるとは思っていなかったからではないかと思います。

 こうした上海戦の犠牲の大きさを考慮すると、それ以前に構想された和平条件を、そのまま南京陥落後の和平条件とすることは無理だったのではないかと思います。蒋介石の12月2日の言葉を見れば、こうした事態を当然の如く予測し、調停が成功しないことを見越していたように思われます。それより問題なのは、白崇禧の「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」という言葉です。つまり日本側の条件で懸案となるのは「満州国の承認」だけで、そして、これだけなら戦争の必要はなく、満州事変以降の外交交渉で十分解決可能だったということになるからです。

 よく、トラウトマン和平工作の打ち切りに際して、参謀本部が強硬に交渉の継続を主張し、これに対して米内海相が「参謀本部は政府を信用しないというのか。それなら参謀本部がやめるか、内閣がやめるかしなければならぬが・・・」という会話が引用され、日中戦争を長期化させた責任は参謀本部ではなく米内や文民たる政府である、との主張がなされます。しかし、かりにこの交渉を継続しても、蒋介石がこの加重された調停案を呑むことはなかったでしょう。参謀本部はこの時あえて昭和天皇に帷幄上奏を試みましたが、天皇はこれを受け入れませんでした。私はこれは当然だと思います。

 この時天皇は、閑院宮参謀総長に対して「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるというのか。」と問い、「それなら、まづ最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったぢゃないか」といっています。蒋介石は「日本が軍事的優勢をカサに着て、条件の加重をはかろうとしたため、交渉を重ねた末、中途で打ち切られた。」(『蒋介石秘録(下)』p225)と言っていますが、この条件加重を強硬に主張したのは多田参謀次長らであり、そもそも日中関係をさらに悪化させた華北五省分離宣言(「多田声明」)をしたのも彼でした。

 いずれにしても、上海事変以降の蒋介石の持久戦を想定した抗戦意志は明確であり、南京陥落後に和平交渉が成立する可能性は全くなかったと思います。仮に、日本が、上海事変が起こる前に中国側に提示したものとほぼ同じ条件で南京陥落後のトラウトマン調停に応じた場合、上海戦が中国軍のイニシアティブによるものであることや、それまでに日本軍の払った人的犠牲の大きさを考慮すると、これに憤激する国内世論は誰にも押さえられなかったでしょう。ではどこで間違ったか。いうまでもなく、それは、1935年当時の蒋・広田間の日中和平交渉の段階であり、せっかく蒋介石より日中関係改善の処理方法が提案されたのに、軍部がこれを妨害し華北五省分離工作を強引に推し進めたからというほかありません。

 そこで、「なぜ日本は中国と戦争をしたか」という本稿のテーマに沿って、その根本原因を探るならば、それは、満州事変以降華北分離工作において観察された、関東軍将校をはじめとする軍人らの特異な行動パターンを常習化させたものは何か、を問うことになります。一体、彼らはなぜ、蒋介石による中国の国家統一をあれほど恐れたのか、なぜ、彼らは満州国承認問題で中国の宗主権を認めようとしなかったのか。また、なぜ彼らは、武力を背景とする示威行動において、あれほど自制心を失ったのか。

 おそらくその原因は、まず、中国を他者(国)として認識する力が欠如していたということ。次に、満州国成立の正当性に自信を持てなかったということ。最後に、当時の青年将校たちが、大正デモクラシー下の軍縮に由来する軍人蔑視の社会的風潮に深刻な被害者意識を持ち、そこに当時の革新思想である国家社会主義が強烈なアピール力を持って作用したということ。さらに、それが日本の伝統的な一君万民・天皇親政を理想とする尊皇思想(これが明治維新のイデオロギーとなった)によってオーバーラップされた結果、殉教者自己同定さらに自己絶対化へと進んでいった・・・そういうことではなかったかと、私は思っています。(つづく)

2009年3月18日 (水)

なぜ日本は中国と戦争をしたか5

 前便で、満州事変の基本的性格について、それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させたものだということを申しました。また、その担い手となった軍人たちの心理的背景として、ワシントン会議以降の軍縮がもたらした軍人軽視の社会風潮、それに対する憤懣があったことを指摘しました。折しも、金融恐慌(s2.3.15)、世界恐慌(s4.10.25)、金解禁(s5.1.11)などが重なり日本経済は深刻な経済不況に陥り、軍部はその原因を自由主義経済の破綻や政党政治の腐敗に求めました。また、これらの問題と合わせて日本の人口問題や資源問題さらにはソ連の脅威に対処するためには「満洲領有」が必要であり、そのためには国内政治の抜本的改革が必要であると訴えたのです。

 こうした「満蒙問題」に関する国民啓発運動は昭和6年6月頃から活発化しました。まず、満州青年連盟が「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民とを鞭撻し国論を喚起するため内地に遊説隊を派遣しました。関東軍も板垣を帰京させ「機会を自ら作り満州問題の武力解決」を図る石原構想をもって軍中央の一部将校(永田、岡村、建川など)の説得に当たりました。また、陸軍も国防思想普及運動を全国的に展開し「時局講演会」を各地で開催し、満蒙の領有が土地問題の抜本的解決になること、極東ソ連軍の脅威、日本の満洲権益がワシントン条約で放棄(?)させられたこと、張学良政権の排日政策によって日本の正当な満洲での権益が損なわれていること等を国民に訴えました。

 そこに、前回紹介したような中村大尉事件(1931.6.17)や万宝山事件(1931.7)が発生し、国民世論は一気に対支強硬論へと急展開していったのです。特に、中村大尉事件の公表以降は、政友会はいうまでもなく、貴族院各派さらに民政党内にも「中村事件を幣原外交の失敗と見なし」「あえて軍部の強硬意見を非難しない」というような情況が作り出されました。しかしながら、外務省はあくまで「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」を堅持しており、また、南陸相のもとに省、部中堅層を集めて作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)でも、満洲で軍事行動を起こす場合も、閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、これを是認せしむるよう努力する」としていました。

 にもかかわらず、9.18満州事変の勃発となったわけですが、そのことについて私は前回次のような問題点を指摘しました。「この結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。もう一つは、関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなったということです。」つまり、この時ビルトインされたこの二つの難問を解くことが出来なかったことが、日本を泥沼の日中戦争そして太平洋戦争へと引きずり込んでいく足かせとなったのです。しかし、当時、この問題点に気づいた日本人はごくわずかしかいませんでした。いや、現在においてもこの点が十分認識されているとはいえません。

 というのは、事変直後の9月19日の陸軍中央部(金谷参謀総長、二宮参謀次長、南陸相、杉山次官、荒木貞夫教育総幹部本部長)の方針は全満州の軍事占領ではなく、条約上における既得権益を完全に確保する、というものでした。また10月8日の段階でも「独立案」には進んでおらず「中国中央政府と連携を認める地方政権」ということで陸軍三長官の意見は統一され、政府の方針もその方向で統一されつつありました。

 ところが、関東軍の方では、早くも九月二十二日に軍参謀長三宅少将(13期)以下土肥原賢二大佐(16期)、板垣征四郎大佐(16期)、石原中佐、片倉衷大尉(31期)らが集まり、「軍年来の占領案より譲歩し、中国本土とは切り離した親日政権、宣統帝を頭首とする独立政権を作ること、内政などは新政権が行うが、国防、外交は新政権の委嘱という形で日本が握ること」などの要点で話が決まっていました。

 結局、「この満蒙処理の構想に関する限り、現地関東軍が押し切り、東京の軍中央部も政府当局も、これに引きずられていったわけである。勿論、世論の強硬論が関東軍の案を支持した。満洲で一発撃たれると同時に世論はがらっと変わって、軍を支援する形に動いていった。この時風は完全に変わり、今までの陸軍に対する逆風は追い風になった」のです。(『陸軍の反省』加登川幸太郎p40)

 加登川氏はこれに続けて、自らの元陸軍省軍務局軍事課参謀としての体験を踏まえて、彼自身の反省の弁を次のように述べています。

 「私は満州事変は当然のことを当然のこととしてやったんだといったが、さて、ここの段にいたって、私は日本は「攻勢移転」したとたんに『攻勢の限界点を越えた』と思っている。日本は全く後戻りの出来ない袋小路に首をつきこんでしまったからである。

 これからあとは私の愚痴である。例として引くにはおかしいが、すでに述べたように、一九一一年(明治四十四年の辛亥革命のとき)、外蒙古は清朝衰亡の機に、帝政ロシアの使喉を受けて清国からの独立を宣言し、大蒙古国と称した。

 翌明治四十五年には帝政ロシアは、露蒙条約を結んで蒙古独立を支持し、土地借款などの特権を得た。当時の中国にとっては大問題であった。だがその後、既成事実として「自治」を認め「名」をとる妥協の余地があった。それは一九一三年(民国二年)に至って袁世凱政権のもとで外蒙古に関する露中宣言となって、中国は蒙古の自治を承認し、ロシアは中国の対蒙宗主権を承認するという解決法であった。

 中国は、なくなった『実』は何ともならなかったが、『宗主権』という『名』をとって『面子』を保った。外蒙古はロシア革命後に、永久に中国の手を離れてしまったが、それはまた違った事態である。帝政ロシアの侵略の手を学べというのではないが、巧妙な解決策が残っていた。日本も、武力侵略を決意したにしても中国側に『宗主権』という妥協の余地を残すだけの含み、余裕がとれなかったものであろうかと私は今でも思っている。

 それにしても、溥儀を担ぎ出したことが、まずかった。かつぎ出した以上『執政』としてもひっこめる余地が少ないだろうし、ましてこれを『皇帝』としたのではもうひっこめる手はない。中国政府との間に『面子』に関する解決不能の難題を作ったことになったのである。(この満州国という難題が、ついに日本の敗戦まで続いて日本はニッチモサッチもいかなかったのである)」

  もちろん、満州国が、東京裁判の宣誓供述で石原莞爾が述べたように「東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもの」なら問題はありませんでした。しかし実際は、石原莞爾自身当初は満洲を武力占領するつもりであり、しかし、軍中央の反対に会ってやむなく「満蒙の支那本部よりの独立」に妥協したのでした。しかし、この間の事実を認めれば、国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約違反を問われる恐れがあったので、満洲国の独立は、あくまで、張学良が悪政故に満洲の民衆の支持を失った結果であり、「民族自決」の原理によって国民政府から独立したものである、と説明したのです。

 だが、これが詭弁であることはいうまでもありません。そして日本政府もこの主張の無理を承知していました。また当然のことながら、この事変を企図した者たちもそれを自覚していたので、それが柳条湖の鉄道爆破という謀略で始まったという事実を戦後に至るも隠し続けたのです。その結果、陸軍そしてそれに引きずられて日本政府もそして国民も「満州において日本が軍事行動をとったのは、張学良=支那が条約により日本に認められた権利を尊重しなかった結果であり、日本は自らの権利を守るためやむなく自衛行動に立ち上がったのである」と主張し続けることになったのです。

 では、こうした、いわば「ゴルディアスの結び目」から日本が逃れる方法はあったのでしょうか。実はそれは甚だ簡単なことで、加登川氏も指摘するように、満洲に対する中国の宗主権を暗黙にでも認めればそれで済むことでした。そうすれば、上に述べたような日本の言い分にもスジが通ってきますし、日本国の名誉も守ることができたのです。しかし残念ながら当時の陸軍にはそれができませんでした。そして、この問題をあくまで武力を背景に中国側の犠牲において処理しようとしたのです。つまり、中国が「満州国を承認する」という形で問題解決を図ろうとしたのです。

 ではなぜ、そんな道義にもとることをしたのでしょうか、また、なぜその過ちに最後まで気づかなかったのでしょうか。もし、関東軍がこれを初めから中国を侵略する目的でやったのなら、むしろ堂々と公言した方が少なくとも論理的には(下線部挿入3/27)スッキリしたのに、一方で戦争を継続しながら日支親善を言い中国に対して抗日を改めろと言い反省を求め続ける、この不思議さ。このことについて岸田国士は、昭和14年に出版した彼自身の著書『従軍五十日』で、この間の両者の心理を次のように説明しその解決策を提示しています。

 「平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依って解決されることを前提としている。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。

 かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国国民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつつあるのであるが、問題がやや抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られでゐないやうである。

 これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があったにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露しているわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があったかどうかは疑わしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によって、何等か打開の這が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて事変そのものの面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。

 欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?

 一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。

 戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれている傾がありはせぬか。主観的な意戦論は十分に唱へられているが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによってはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。

 そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究ということを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでいるけれども、かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」(同書p108)

 実は、岸田国士がこの文章を書いた昭和14年の時点では、満州事変の真相は国民の前に明らかにされていませんでした(それが明らかにされたのは昭和34年)。もちろん、この事件を企画し満州を武力占領した当事者たちにはその真相は分かっていました。石原莞爾はそれを「最終戦争論」という偽メシア的預言によって(注1)正当化したのです。その意味で石原莞爾こそ、以上説明したような誠に不思議な自己欺瞞的戦争を日本に余儀なくさせた元凶であるといわなければなりません。

 では、日本人全員が石原莞爾に騙されていたのかというと、必ずしもそうとはいえず、むしろ石原莞爾は、そうした当時の日本人の中国人に対する優越した気分(注2)を代弁していただけ(そういう意味では、私は彼が独創的な思想家であったとは到底思えません。3/27挿入)ということも可能なのです。それが、満州事変を機に、それまであからさまに行われてきた軍部批判が、一気に熱狂的な軍部礼賛へと転化したというもう一つの不思議を説明する、最も説得的な解釈ではないかと思います。

 もちろん、日本人の支那人に対する優越感が、支那人の自尊心を傷つける行動につながっていたのと同様、支那人の側にも同じような問題があり、それが日本人の自尊心を煽った側面もあったと思います。しかし、この問題点に先に気づいたのは中国側指導者たちでした。1934年12月20日付『外交評論』紙上に「敵か友か?中日関係の検討」と題する注目すべき論文が掲載され、そこには「一般に理解力ある中国人は、すべて、次のことを知っている。すなわち、日本人は究極的にはわれわれの敵ではない。そして、われわれ中国にとって、究極的には日本と手をつなぐ必要がある」と記されていました。
 (注:それは蒋介石の口述したものをその最も信頼する第一侍従室長の陳布雷に筆記させたものだったといいます。)(『上海時代(上)』松本重治p286)

 ここから、満州事変勃発以来初めての、日中親善に立脚した日中国交回復が、蒋介石と広田外相の間で真摯に模索されることになったのです。しかし、こうした慶賀すべき動きに対して、関東軍は執拗に妨害工作を繰り広げました。こうして、軍部も含めた日本側も、そしておそらく中国側も(注3)望まなかった日中戦争へと、ほとんど運命的に突入していくことになるのです。岸田国士は「かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」と言いました。しかし、日中全面戦争に突入する以前において(下線部3/23挿入)その余裕を見せたのは中国人であり、これに応える余裕を持たなかったのは日本人だったのです。(つづく)

注1:「それをもって、そうした手段に訴えることに逡巡する「仲間たち」をミスリード」部分を削除3/27。

注2:「つまり『侵略をも恩恵と見なし、その恩恵を抗日という仇で返す中国を、懲らしめる』といった倒錯した当時の日本人の気分」部分を削除3/27

注3:「誰ひとりとして」を削除3/27

2009年3月 8日 (日)

なぜ日本は中国と戦争をしたか4

 前回、昭和の悲劇は「満州問題」を外交的に処理できなかったことによりもたらされた、と申しました。結局それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させた満州事変によって処理されることになりました。その結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。(これがその後の「満州問題」の処理をどれだけ困難にしたか)もう一つは、関東軍の独走に対して政府の歯止めが掛からなくなったということです。(これが日本に「二重外交」をもたらし、その国際的信用を地に落とした)

 重ねて申しますが、「満州問題」は確かに存在しました。これは、前回紹介したような国民党の王正廷外交部長がおし進めたいわゆる「革命外交」、その余りに性急な、既成条約を無視した国権回復の主張や、さらに満州における張学良の露骨な排日方針に起因するものであったことは間違いありません。これが幣原外交に対する国民の信頼に決定的な打撃を与える一方、軍部の「満州問題」の武力解決、その伝統的な大陸進出論に弾みを与えました。といっても、当時(満州事変前)の国民は必ずしもこうした軍の強硬策を支持していたわけではありませんでした。

 この事実は、以前、私が「日本近現代史における躓き」で「満州問題」を論じたとき(今もその続きをやっているわけですが・・・)に紹介したような、松岡洋右(昭和5年まで満鉄副総裁をしていた)の次のような言葉でも確認することができます。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義=筆者)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向に気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びはむしろ頑迷固陋の徒の如くに蔑まれてさえ居た。これは事実である。国民も亦至極呑気であった、二回迄も明治大帝の下に戦い、血を流し、十万の同胞を之が為に犠牲にした程の深い関係のある満蒙に就てすら、全く無関心と謂って宜しいような有様であった。情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p78)

 更に興味深いことには、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)が、その「満蒙独立論」について石原莞爾との会話で次のように自説を展開していることです。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)

 石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」

 小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」

 石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」

 小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」

 石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」

 小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」(『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』松本健一p160)

 つまり、満州における居留日本人の立場から「満蒙独立論」を唱えた彼らの思想は決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなかったのです。それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」(上掲書p150)とするものでした。(この小沢の慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります)

 では、当時、このように一向に国民の「気乗りのしなかった」満蒙問題が、一転して国民の関心を引くようになったのはなぜでしょうか。山本七平は、「中村大尉事件」(満州事変の直前のs6.6.27に、満洲で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長らが殺された事件)が当時の世論に及ぼした決定的影響について次のように述べています。

 「当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変わったそうである。そうなると世論はますます激昂し、ついに『中村大尉の歌』まで出来た。

 一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。すると・・・『内閣のヘッピリ腰』を難詰する『世論』はますますエスカレートした。・・・昂奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり(張学良軍によって殺害されたのではという=筆者)『第六感』があたっていた。もう始末におえない。そして柳条溝(湖)鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。

 これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える。というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は『世論』の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然中村大尉事件がなければ『世論』の支持は得られず、満州事変は張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終わっていたであろう。」(『ある異常体験者の偏見』「マッカーサーの戦争観」p160)

 にわかに信じられないような話ですが、この中村大尉事件が「満州事変」を支持する方向で国内世論を一気に急転回させたその不思議について、戦後、山本七平のいた収容所内では、「中村大尉事件も軍の陰謀で日本軍の密命で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた」といいます。(事実はそうではありませんでしたが・・・)

 では、これは日本人にとって単なる「不幸なアクシデント(偶然の事件)」だったのでしょうか。山本七平は、そのようには見ないと、当時の「金大中事件」(s48.8.8)に対する日本の世論の激昂ぶりや、南京攻略時のパネー号撃沈事件における日本人の反応を例に挙げて、次のように自説を展開しています。

 「こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれが問われている問題だ」と思う。

 そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。

 太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合いに出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何かできるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。

 これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワー 日米開戦か?」といった緊張感まであった。」

 「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。それと等しい事件のはずである。

 だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した。これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。

 個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか(反撃するという意味=筆者)、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。といっても私は別に他人を批判しているわけではない。いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。」(上掲書)p162~163)

(一パラグラフ削除3/27) 

 実は、こうした日本人の「事件を事件として冷静に処理」することの出来ない弱点が、1927年の北伐途上の国民革命軍が引き起こした第二次南京事件、1928年の済南事件、そして、中村大尉事件、万宝山事件の処理にも典型的に表れているのです。そして、これらの事件を重ねる毎に日本人の対中国感情が悪化し、また、その時の行き過ぎた日本人の反応が新たな悲劇を生み、さらにそれが中国人の対日感情を悪化させるという、悪循環を生むことになったのです。こうして、日本人も中国人も望まなかった日中戦争へと突入して行くことになるのです。

 ところで、こうした悪循環の起点となった第二次南京事件に対する日本の対応が、幣原外交を「軟弱外交」「弱腰外交」と批判する一般的風潮を生むことになりました。こうした批判は、今日ではほとんど通説化していて、名著『太平洋戦争への道(一)』「ワシントン大勢と幣原外交」でも、「彼はあまりに人間性を偏重し、満蒙にたいする日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と満蒙問題にからむ内政面への顧慮とを欠いていた。しかも彼自身はその合理主義へと世論を誘導する政治力を持たなかったのである。」と批判されています。

 だが、本稿で紹介したように、満蒙に対する当時の日本人一般の感情が一体どのようなものであったか、それが何故に満州事変を指示する方向で急展開したか、また、軍部の満蒙問題をめぐる非合理的感情というものが、一体どのようなものであったかを見れば、こうした批判は私は当たらないと思います。というのは、ではこの局面において、「満州問題」の解決のために有効な他のどのような方策があり得たか、ということです。その代案の一つが、田中義一内閣の武力を背景とする「積極外交」だったはずですが、それがいかなる惨憺たる結果を招いたか。

 第一次山東出兵、それに続く第二次山東出兵は済南事件(日本軍の謀略・煽動の疑い濃厚)を引き起こし、それが中国人に、あたかも日本が中国の国家統一を妨害しているかのような印象を与え中国の排日運動を激化させました。さらに、張作霖爆殺事件――この無法極まるむき出しの暴力主義を生んだのも田中「積極外交」でした。そして、その真相(すでに周知の事実となっていた)を陸軍は組織をあげて隠蔽した。この人を馬鹿にした不誠実極まる事件処理が、父を爆殺された張学良に、日本に対するどれだけの不信と恨みを植え付けたか・・・。

 その田中「積極外交」が遺した支那本国や満州におけるの排日運動激化の責任を、なぜ幣原が負わなければならないのか。第二次若槻内閣における幣原の無策を責めることは簡単ですが、では、当時の、支那の革命外交や張学良の排日政策が進行する中で、幣原や重光が唯一取り得るとした「堅実に行き詰まらせる」方策以外に、はたしてどのような方策があり得たか。この「堅実」策が最終的に何を想定していたかについては、前便で守島伍郎の解釈を紹介しましたが、幣原は既に昭和3年9月17日の段階で次のようにその所信を述べています。

 「私は満洲の権益は、東三省の政治組織如何によって左右されるやうな薄弱なものではないと思う。だから、政治と経済を混同してはならないといふのだ。第一国民政府が満州に進出して、特に我国の権益を脅かすような不謹慎的行動に出るとすれば、その時初めて我政府は否と返答すればよい。真に帝国の存在を無視するが如き態度に出るにしても執るべき手段は幾らでもある。」大切なのはそれに至る手続きだ。「徒に小細工を弄し、列国をして侵略的なる疑問を抱かせるような方策に出ることは、他を傷つけると共に自分を傷つける不明の策であって、外交の妙諦を解せざるものである」(大阪日華経済協会「幣原招待懇談会」における田中外交批判演説要旨、『幣原喜重郎』p366)

 なお、先に述べた幣原外交批判の嚆矢となった第二次南京事件における現地軍の無抵抗主義は、実は、幣原が指示したものではなく、当地の本邦居留民が「尼港事件」の二の舞を恐れて海軍部隊長に隠忍を陳情したことによって執られた措置でした。幣原がこうした局面における軍の統帥事項に容喙するはずもなく、もし本当に政府がこの時無抵抗主義を現地領事館に指示していたとしたら、いち早く居留民の引き揚げを断行していたはずだ、と幣原はいっています。(「外交管見」『幣原喜重郎』所収p322)

 しかし、こうした「穏忍自重」の対応策は、その被害についての誇大報道もあり、国内において激しい批判の対象となりました。そして、それがあたかも幣原の「対華不干渉主義」「対華親善政策」の結果である如く喧伝されました。しかし、日本が排外暴動の対象となったのは実はこの時が初めてで、それまではイギリスがその対象とされたのです。また、この時の暴動は、国民革命軍内部のソビエトに指導された共産主義分子が、共産党排斥の旗幟を鮮明にした蒋介石を打倒するため、意図的に引き起こした領事館襲撃だったといいます。

 こう見てくると、一体、幣原の外交方針のどこに間違いがあったのか。「日英同盟を廃棄してこれを四カ国条約に代えた」ことや、「九カ国条約に謳う門戸開放・機会均等主義が日本の満蒙における特殊権益と政治的に両立しない」ことなどが批判されますが、「日本が九ヵ国条約に敵意を抱いたのは満州事変以降のことであり」、それまでは、それが「中国の排日感情を和らげ、列国の疑惑を解くため必要な実利政策である」(『太平洋戦争への道(一)』p37)として、当時の政府が一致して支持してきたものなのです。四カ国条約についても、集団安全保障体制であり無力だということは戦後判ったことだし、仕方ないのではと思います。(3/28追加)

 また、こうした幣原の外交方針が、その後の世界恐慌による自由市場の閉鎖化や、ソ連共産主義の台頭、国民党の革命外交や張学良の排日政策に有効に対処するものでなかった、などとも批判されますが、では、これらに対応できるどのような外交方針がありえたか。それは結局、ワシントン体制下の世界秩序――軍縮から外交交渉による国際紛争の解決の方向、デモクラシーと自由民主主義の方向に国民を導いていく、ということではなかったか。だとすれば、「満州問題」を巧みに利用することで、満洲領有と軍部独裁を同時に実現しようとした軍部に、どのように対抗し得たか。

 あるいは、そうした幣原とは違う軍部とのつきあい方(3/27挿入)を試みたのが広田弘毅であり近衛文麿ではなかったか。彼らこそ「日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と、満蒙問題にからむ内政面への顧慮」に注意を払いつつ、内交的外交を展開した人たちではなかったか。そしてそれは見事に失敗した。そう見ることができるのではないか、私はそう思っています。 (つづく)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

twitter

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック