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2009年4月

2009年4月22日 (水)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問2

 前回の続きです。
7、なぜ、文民政治家の多くは参謀本部の態度を不可解としたのか

 このあたりの事情を最も的確に説明しているのが、別宮暖朗氏の「第一次大戦と二十世紀サイト」です。その「トラウトマン工作」の冒頭には次のような解説がなされています。

 「和平交渉は戦局が一段落せねば成り立たない。これは自明のことで、それより以前和平がもし成立するようであれば、戦闘自体が中断されるはずだ。一方このような悲惨な戦いを中止するため為政者がなぜ話合いをしないのか不思議と思うだろう。だが、戦争とはその為政者(片方)が開戦を決意したため起きているのだから、これは不思議ではない。この辺りの事情は大衆には全く知らされない。そして戦争を引き起こした片方の指導者は戦局の悪化を簡単には認めない。蒋介石も例外ではない。なぜならば、認めることは、自身の政治的破滅につながるからだ。」

 これは、11月6日にトラウトマンより第一次和平条件を知らされた時の蒋介石の継戦意志の強さ、さらに戦局が決定的に悪化した12月2日の段階で第一次条件による和平交渉に応ずる旨トラウトマンに伝えた時の蒋介石の強気の態度を説明するものです。同時に、この戦争が中国側の決然たる開戦意志によって始められたということ。一方日本側の、全面戦争に発展するのをなんとかして食い止めたい、そのためには、いまだ戦闘が継続中であるが、開戦直前に策定された「寛大な」和平条件でもってなんとか戦争を終結させたいともがく様子も見えてきます。

 もちろん、戦闘があらかじめ設定された追撃限界線や、あるいは南京城外で戦闘が停止されれば、こうした和平交渉も効果を発揮したと思います。しかし、日本軍では、現地軍が軍中央の指示を無視して既成事実を積み重ねそれを中央が追認するという「結果オーライ主義」が常態化していました。そのため12月7日には中国側の和平条件受諾の報が伝えられたにもかかわらず、南京城総攻撃が開始され「城下の盟」が実現する暇もなく12月13日には南京城が陥落しました。

 では、このような情況下で戦争に勝利した日本がとるべき行動はどのようなものだったでしょうか。別宮氏は続けて次のようにいっています。 
 「ところが勝利した側は楽であって、単純に占領地にいすわり相手が和平を乞うのを待てばよい。そのためには時間が必要で、まず現地軍同士で休戦ラインを設定、占領地で軍政を敷き待機することになる。この時日本の文民政府は軍事面について知識がなく、そして戦局すら知らされなかった。だが文民政府は、8・13上海決戦開始時、陸軍が逡巡する反撃、動員・派兵を支持したため、比較優越感をもっていた。つまり攻撃にたいし反撃すべきだ、友軍の孤立は救援すべきだ、との常識論が勝利したための優越感である。これが、この後の展開に意外な影響を及ぼした。」

 つまり、それまで日本の文民政府は、軍の無統制な行動に振り回されるだけで、しかも、その結果の後始末ばかりさせられてきた。しかし、今回の戦争については、参謀本部が上海への戦線拡大を恐れて兵力の逐次投入をしたため膨大な犠牲を生むに至り、これに対して文民政府は「アウトライトな攻撃に対しては断乎反撃すべき」という常識論でもって上海への増派を支持し、こうして上海戦の膠着状態は打開された。そうした先行経験もあって、文民政府は、南京陥落後も拙速に蒋介石との和平提案を推進しようとする参謀本部に疑問を投げかけた、というのです。

 昭和13年1月初旬に当時の近衛文麿首相の所信をまとめた文書に「講和問題に関する所信」があります。近衛はその中でつぎのようにいっています。
 「一、今や南京陥落し蒋介石政権も昨今は頗る窮地に立つに至りし如くなるも未だ彼の権威全く地に墜ちたりと断ずる可らず少しく手を緩めれば再頽勢を挽回し来るや明なり謂わばもう一押しと云う所なり。かかる状態にある際我より進んで条件を提示し講和を促すことは、我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく返ってそれが為に彼の侮を受けて彼の戦意を復活せしめ大害をまねく恐れありと考えらる・・・。

 一、然るに・・・元来我より進んで講和条件を提示することさへ如何と思わるるに彼の一部拒絶に逢うて再び譲歩の色を見するが如きことありては益々彼の乗ずる所となるべきや明らかなり、政府側としては軍部がかくの如き拙速を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ次第なり。

二、ここに於いて政府側としては軍部がかくの如く講和を急がるるには何等かそこの深き事情が損するに非ずやと推測せざるを得ず、然るに今日迄の陸軍大臣の説明だけにては今日講和を急ぐがざる可らざる理由明白ならず。もし真にこの際講和を急がざる可らざるの事情存するならば陸軍大臣は率直明白に之を他の閣僚に説明すべきものと信ず、閣僚も其説明により真に能く事情を了解するに至らばいかなる譲歩も之を忍び局を結ぶことに全力を注ぐことと成るべし。恐らく之に対し事情を解せざる一般国民の間には猛然として、反対運動起こるべきこと予想せらる其際各閣僚が陸軍大臣により真に能く事情を了解し居れば一致団結断乎として政府の責任に於いてこれら反対運動を抑圧すべし・・・。」(『現代史資料9』p104)

 そして、こうした見解は、近衛首相だけでなく、広田外相はじめ軍部大臣を含む閣僚全員、そして日本国民やマスコミの大半が支持する国民的世論となっていたのです。
  
8 なぜ参謀本部は中国との和平交渉継続に固執したのか

 これに対して参謀本部は、このままでは中国との長期消耗戦を余儀なくされ、その間にソ連による満洲侵攻を招く恐れがある。従って、なんとかして蒋介石に日中親善を望む日本側の「真意」を伝えて早期に戦争を終結したい。そのためには、和平条件を侵略的との疑念を抱かせない「寛大な」なものにする必要がある、と考えていました。そのため、12月20日、陸・海・外・参本間で纏められ閣議決定された「講和交渉条件」では、いわゆる加重条件とされた北支、内蒙及び中支占拠地域の非武装地帯や北支の特殊機構の設定などは、和平案が履行されるまでの保障条項として取り扱われました。

 しかるに、広田が中国側に伝えた「日華和平交渉に関する在京独逸大使宛回答文」は、実はこの「講和交渉条件」そのものではなく、それを抽象的な四項目にまとめたもので、その中に上述の保障条項や賠償条項を含めるなど、はなはだ侵略的な印象を与えるものとなっていました。さらに、その細目条件の説明は口頭説明となっており、さらに、「講和交渉条件」に明記されていた「講和に関連して廃棄すべき約定」(梅津可応欽協定、塘沽停戦協定、土肥原秦徳純協定、上海停戦協定)が省かれるなど、中国側に条件加重による極めて過酷な印象を与えたのです。

 その年末、参謀本部は、傍受電で支那側が四条件の内容を具体的に承知したいと希望を述べていることを知りました。これに対して外務省は既に詳細説明せりと応酬し、これに対して支那側はその説明を筆記にて受領したいと申し入れてきました。参謀本部戦争指導当局はこうした外務省の態度は不可解であるとして、閣議決定の「講和交渉条件」を端的に支那側に提示すべく軍務当局を通じて督促し、また在京の許大使に直接伝達すべしと付言しました。(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p121)

 では、なぜ参謀本部がそのとりまとめに当たった「講和交渉条件」と、広田が独大使に伝えた回答(「第二次和平案」)とが、このように異なった印象を与えるものとなったのでしょうか。この間の事情は『西園寺公と政局(6)』に次のように説明されています。

 「参謀本部は一時も早く戦争をやめたいので、『ドイツを仲介にして支那側の希望を判明させたい』と言って非常に焦っている。当方の条件も何とかしてつくって、連絡会議で成案を得たいと思っていろいろ努力した結果、閣議に出したら『先方に言ってやって、その案で纏まらない時は、政府も後で困るから・・・』というので、大体をカヴァーするような抽象的なもの即ち防共と経済提携と賠償と特殊政権の四条件に変て、その案を一応総理から上奏し、また統帥府の陸海軍首脳者からも上奏して、寧ろ御前会議を開かないで済まそうということになった。」(広田外相の談話)

 しかし、それにしても独大使に伝えられたこの「第二次和平案」が中国側にかなりの混乱を巻き起こしたことは事実のようで、三宅正樹氏の「トラウトマン工作と資料」には、1月14日に独大使ディルクセンから広田に中国側回答――日本側より提議された基礎的4条件はその範囲が広きに過ぎるため、再度その条件の性質と内容を知らされることを希望するというもの――が伝達されたときの次のような会話が紹介されています。

 「広田はあいまいな中国側宣言に憤激しそれを単なる遁辞なりと考え且中国側は諾否を表明すべきあらゆる必要材料を有しありと述べたり。結局、敗北し和平を請わざるべからざるは中国にして、情報を与えられることを絶えず求められてきた日本には非らざりきと。本官は外務大臣に対し中国政府は正式には現在迄僅かに四個の基礎条件を知れるのみなることに注意を喚起せり。彼より本官宛のその他の通信は彼の希望により中国政府に対し極めて漠然たる形式に於てのみ送達せられたり。」

 これを見ると、広田から中国側に伝えられた和平条件は、4個の基礎条件のほかは「極めて漠然たる形式」において知らされただけだったことが判ります。また、この間のドイツ外務省電文記録によると、その四条件の内の第二の原則(所要地域に非武装地帯を設け且該各地方に特殊の機構を設定すること)に関する説明としては、「華北における非武装地帯に加えて、揚子江渓谷における非武装地帯が今やはっきりと考慮されている」など、明らかに「講和交渉条件」の内容を逸脱する説明も見られます。(トラウトマン工作の性格と資料)

 実は、12月20日に決定された「講和交渉条件」は、参謀本部の奮闘により12月14日の閣議で加重された条件、すなわち、非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、華北特殊政治機構の承認及び保障駐兵を保障条項としていて、梅津可応欽協定等四つの協定と共に講和成立後に廃棄されることが予定され、実質的に「第一次和平条件」を踏襲するものとなっていたのです。こうした「講和交渉条件」の軽易な性格を曖昧にし、過酷な条件加重との印象を与えた「第二次和平案」は、広田がディルクセンに通告した回答文の方だったのです。

 従って、それが、中国側の照会に答えるべく作成された12月20日の「講和交渉条件」の趣旨と異なる印象を中国側に与えていることが判明したならば、当然参謀本部の言う如く、その回答文のオリジナルテキストをそのまま中国側に示すべきでした。実際、中国側からはその条件の細目照会が度々来ていたらしく、1月14日の中国側回答の直後の16日にも、新しく行政院長となった孔祥熙より、再度広田が示した基礎的条件の性質と内容を照会する次のような口上書が届いていたのです。

 「中国と日本が、両国に悲惨な結果をもたらす現在の武力抗争にまきこまれていることは、最も不幸なことである。中国は、依然として、その結果東アジアに永続的平和が維持されるような、日本との真の了解が到達する希望を抱いている。われわれは、日本によって提案された〈基礎的条件〉の性格と内容とを知らせて欲しいという、熱烈な希望を表明した。何故ならば我々は両国間に平和を再建する兆候を探し求める全ての真摯な努力をなすことを、我々は日本によって提起された条件に関する我々の見解を表明するのに、よりよい立場に到達すると信ずる。」(「トラウトマン工作の性格と資料」)

 もちろん、広田が独大使に示した回答文は、12月21日に閣議決定されたもので広田の独断ではありませんが、「講和交渉条件」が閣議決定された後、「此等条件を支那側に移す要領に就ては外交事務当局に一任され度し」と申し出たのは広田でした。また、中国からの度重なる細目照会に対して、あえて「極めて漠然たる形式」の回答しか与えず、最終的には1月14日の中国側回答を遷延策と見なして、蒋介石との和平交渉を打ち切ったのも広田でした。それだけにその責任は免れない。

 確かに「陸軍は相変わらず双頭の鷲であり、『二本軍』であった。陸軍省と参謀本部の意見が違う。・・・軍内部で意見調整できないものを、取り上げようがなかった」(『落日燃ゆ』城山三郎p207)という言い訳も出来ると思います。しかし、独大使に示した「第二次条件案」は、1月11日の御前会議で決定された「支那事変処理根本方針」(12月20日に決定された「講和交渉条件」にあえて日支提携の根本理念とその運用方針を附したもの)とも、その基本理念を異にしています。

 にもかかわらず、なぜ広田や近衛が中国との和平交渉継続を願わず、その打ち切りを選択したのでしょうか。前回も言及しましたが、私はここに、軍人を含む日本人一般の伝統的な大陸政策に対する思い入れがあった。つまり、この時の省部の軍人と参謀本部の軍人との違いは、その大陸政策推進上の手段・方法の違いに過ぎず、その点、参謀本部の意見は確かに正論ではあるけれども、その有効性においては、省部軍人の主張する積極的侵攻策の方が現実的と見なされていたからではないかと思います。

 つまり、参謀本部は、”言わせておいて片付けられた”のです。裏から見れば、参謀本部の説く「相互の主権及び領土の尊重に基づく日満支の互恵互助的提携論」(「支那事変処理根本方針」)は、満洲独立から華北分離工作へと発展した日本の伝統的な大陸政策と根本的に矛盾するものであり、前者の主張は究極的には満洲国さえ危うくする危険をはらんでいた。その自己矛盾が、参謀本部の主張の説得力を決定的に阻害したのではないか。おそらく石原莞爾はこのことに気づいていた。しかし、それを公言することはできなかった。

 残された唯一の解決策は、支那の満洲に対する宗主権を回復させることだった、と私は思うのですが・・・。

2009年4月11日 (土)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問

 トラウトマン和平工作は、日中戦争期において日本が中国に働きかけた数ある和平工作の中で最初の、そして蒋介石が受諾の意向を示した唯一の和平工作です。結局、この和平工作は、日本側が途中で和平条件を加重したために、具体的な話し合いに入ることなく、近衛文麿首相の”国民政府(=蒋介石)を対手とせず”という声明によって打ち切られました。この時、参謀本部は執拗に交渉継続を求め、ついには帷幄上奏まで行い政府決定の「再考」に期待をかけましたが、ついにその願いはかないませんでした。

 こうしたトラウトマン和平工作の失敗について、その責任を、統帥部の意見を無視して交渉を打ち切った文民政府(近衛首相や広田外相など)に求める意見が大勢のようです。しかし、前々回申しましたように、私はこうした見方は一種の結果論であって当を得ていないと思います。というのは、すでにこの段階(南京陥落後)では、日中双方が妥協できる和平案を得ることはできなかったのではないかと思うからです。

 以下、このことを、トラウトマン和平工作をめぐる幾つかの疑問点を明らかにする中で考えてみたいと思います。

1,なぜ(戦勝国である)日本が先に和平条件を提示したのか

 この和平工作は、日支全面衝突以前の昭和11年末、参謀本部の真奈木中佐が、石原作戦部長の意を受けてこの問題の全面解決を目的とし駐日ドイツ武官オットーに接触したことに始まります。この時「支那側は(1)内蒙古の自治を許し(2)満州において支那主権を認め親日政権の樹立をなすという条件にて和平をなすに異議はなかった」と重光葵は記しています。(参謀本部がこれに同意していたかどうかは不明)(『昭和の動乱(上)』p197)

 日本政府の動きとしては、参謀本部の働きかけもあって、昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を決定し講和条件に関する思想統一をはかった後、広田外相が10月27日に各国の外交代表(英米仏独伊)を招いて、個別に日本側条件の概要を説明し、第三国の公平な斡旋を依頼したのが最初です。この要綱は、「内蒙自治政権の承認」を追加したほかは、ほぼ船津工作当時の『大乗的条件』を踏襲」していました。

 なぜ、この時期にこうした寛大な和平条件が踏襲されたかというと、それは、当時の「上海戦線の膠着状況、ひいては消耗戦争への不安」を反映していたからで、いわゆる「一撃派」にとっても、上海戦線における苦戦は全く想定外でした。そのため、それまで支那に一撃を加えることで紛争の早期解決を図るべしと主張してきた陸軍省及び参謀本部内の「拡大派」も、この条件での蒋介石との和平交渉に同意したのです。

 後に、日本軍が上海占領後南京に向けて追撃を行う段階で、この和平条件が無電傍受され、「広田がこっちの肚を早く入ってしまったのが悪い」「広田を捕まえて縛ってしまえ」などと陸軍省や参謀本部の若手将校が広田外相を攻撃しました。しかし、実態は以上の通りで、またこの時の和平条件には、回答が遅延すれば「条件の変化があり得る」ことを広田よりディスクゼンを通じて中国側に通告していました。
    
2,日本の示した「大乗的」和平条件は何をめざしていたのか

 日中戦争前における国交調整交渉は、まず広田三原則(1935年秋)の提示(排日停止、満州国の承認、共同防共)に始まり、川越・張群交渉(1936年秋)でその具体的条件の詰めがなされました。しかし、それに反対する陸軍出先の妨害工作(=華北分離工作)により交渉は中絶しました。

 その後、軍は、佐藤尚武外相の新政策(1937年春)――陸軍出先が華北分治工作の一環として設けた既成事実の一部放棄(華北政治工作の中止、冀東密輸の停止など)――に同意し、日中和平交渉の再開が図られました。しかし、林内閣の瓦解(12.6.30)により進展せず、廬溝橋事件の勃発で交渉は再び中絶しました。

 廬溝橋事件勃発後は、石原第一部長の発案になる近衛首相または広田外相の南京訪問案(7月中旬)や、近衛首相による宮崎竜介(宮崎滔天の息子)派遣などが試みられましたがいずれも実現しませんでした。そんな中、拡大を見せ始めた事変をなんとか収拾するための新たな「停戦及び国交調整案」(=船津案)がまとめられました。

 これは、外務省の石射東亜局長が中心となってまとめたもので、(1)塘沽、梅津・何応欽、土肥原・秦徳純各協定の解消、(2)冀察・冀東両政府の解消、(3)排日の取締、(4)自由飛行、冀東特殊貿易の廃止を骨子とするもので、満州国を除き1933年以降日本の出先軍が華北で獲得した既成事実の大部を放棄しようとする「寛大な」条件でした。

 特に「三原則交渉いらい難点となっていた満州国承認問題については、ただちに正式承認を求めず、「満州国を今後問題とせずとの約束を隠約の間になすこと」で足りるとし、また停戦協定成立後の交渉において治外法権の撤廃をも許与する含みがあった」(『日中戦争史』秦郁彦p147)とされます。

 つまり、日本側としては、何としても中国との全面戦争は避けたかったわけで、そのためには、満州国の実質的承認を中国側に約束させることさえ出来れば、1933年以降日本の出先軍が華北において積み上げてきた既成事実のほとんどを放棄してもかまわないとする、従来の行きがかりを精算した画期的な了解案に達していたのです。

 そのため、いまだ上海での激戦が継続中の10月1日に決定された「支那事変対処要綱」に示された和平条件が、「船津工作」(8月9日中国側に提示)に見られる「寛大な」和平条件を踏襲するものとなったのです。ということは、日本が中国に対して求めていたことは、究極において「満州国の承認」のみであったということになります。

 ところで、この「船津工作」おいて、船津辰一郎(在華紡同業界理事長)に託された交渉を、天津より帰任した川越駐華大使が横取りしたため成功しなかったとの評が一般的になされます。この意味は、古屋哲夫氏によると、船津の役割は「極秘の内に中国有力者と接触し中国側から停戦を発議させる」ことを工作のかぎとしていた、とのことです。

 このことは、政府が現地軍部の行動を正面から抑制し得ないと考えていることを示すもの(『日中戦争史研究』古屋哲夫編p108)で、従って、以上紹介したような中国との和平交渉の推進も、陸軍省及び参謀本部のごく一部の首脳と政府と間で極秘裏に進められてきたものであるということが判ります。 

3,なぜ蒋介石は日本の「第一次和平案」を一月も放置したのか

 先に述べた「支那事変対処要綱」の和平条件を引き継ぐ和平案(第一次案)が広田外相より駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石のもとに届けられたのは11月2日でした。しかし蒋介石は、開催中の国際連盟ブラッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保しました。しかし、同会議が見るべき成果なく月末には閉会されたので、あらためて12月2日ドイツの仲介を取り上げることにしました。 

 しかし、この段階でも蒋介石の対日不信は根強く、「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとしました。

 また、「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」と述べました。(『広田弘毅』p302)一方、この時(s12.12.6)開かれた中国の国防最高会議常務委員会での協議に出席した他の将領の意見はいずれも「だだこれだけの条件ならば、これに応ずべし」というものでした。

 ここに、蒋介石と他の将領との、日中和平交渉に臨む姿勢の違いが伺われるわけですが、こうした蒋介石の強硬な態度を決定づけたものが、広田三原則以降の日本の出先陸軍による武力を背景とした華北分離工作と、それに引きずられた日本政府の「二枚舌」的外交に対する不信にあったことは言うまでもありません。

 実際、上海戦以降の日本軍の行動も中央の指示を全く無視したものであり、大本営(11.20設置)には南京まで進撃する計画はなく、あらかじめ蘇州―嘉興の線を現地軍の追撃限界線としていました。しかし現地軍は、南京占領による国府の降伏を主張して軍を進め、大本営はやむなく無錫―湖洲の線までこれを延長しました。

 その後の南京攻略に際しても、参謀本部の戦争指導当局は、これを機に講和を図らんとして、南京城外における戦線の停止を提案しました。つまり、この「按兵不動」の間に勅使を南京に送り双方の真意を交換し、「日支和戦究極の決定に導かん」(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p110)としたのですが、現地軍の不同意で断念しています。しかし、12月1日松井大将の強い意見具申を受けて南京攻略の許可を与えています。(4/18追記)

 *一パラグラフ削除(4/18)

 なお、蒋介石は11月2日に第一次案がトラウトマンより示された時、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。・・・日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べました。(『日中戦争』児島襄p146、「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹)

 つまり、それほど「日本のやり方」に対する蒋介石の不信は根強く、かつ、中国国民の日本に対する抗戦意志も強烈だったということができます。従って、蒋介石に第一次和平案が示された段階では、先に述べたブラッセル会議に対する期待もあり、蒋介石にはこの第一次和平案を受諾する意志はなかったのです。(下線部追記4/18)

4,なぜ日本は「第二次和平案」に見られるような条件加重をしたのか

 第一次案に対する条件加重に、近衛首相や広田外相がどのように関わったのかということについては、資料間に異同があり正確なことは判りません。しかし総じていえば、両者とも軍や世論の多数意見に左右されがちないわば「融和的」政治指導者であったことは否めないと思います。といっても、両人とも軍の独断専行と無統制に悩みつつ、なんとか早期和平に導こうと努力したことは間違いありません。(下線部修正4/20)

 また、この時の戦争は、中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まっていますし、上海戦における日本側犠牲者は、旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものでした。従って、そうした激戦を制した後の南京陥落という戦果を前にして、二人ともつい、華北における親日政権の樹立(=蒋介石政権の否認)が戦争終結の早道であるいう現地軍の「トリック」にはまってしまったのではないでしょうか。

 というのは、この条件加重は、12月7日ディルクゼン大使から広田外相に「日本側提示の条件を基礎にして交渉に応ずる用意がある」との蒋介石の回答が伝えられた段階では、この「第一次和平案」に「青島紡績工場焼き払いの如きもの」に対する損害賠償を加えたというだけのものだったのです。広田はこれを直ちに天皇に上奏し、天皇は「よかったね」とうなずいたといいます。(『天皇』第3巻 児島襄p238)

 しかし、これが南京陥落(s12.12.13)後12月14日の政府・大本営連絡会議では「近衛首相は終始沈黙していた。原案を忠実に支持したのは米内海相と古賀軍令部長のみで、多田、末次、杉山、賀屋の諸氏から出された異論によって条件が加重されていった。・・・かねてから和平論者として評のある多田次長から、条件加重の意見が出たのは不可解であった。わが広田外相に至っては一言も発言しない。」と描写されています。(『外交官の一生』石射猪太郎p326)

 ここにおける「近衛首相は終始沈黙していた」との描写については、『西園寺公と政局』では、末次内務相が「この事変の講和条件については、よほど強硬にやらないと、とても国民は収まらんし、出先の軍人も収まらん」と述べたのに対し、近衛首相は、「今の内務大臣の言われた趣旨には自分は反対である。自分達としてはどこまでも中外から見て、なるほど日本の主張は正当であり、日本の要求は公正である、といわれるような内容をもった講和の条件でないとならないと思う。国民が収まらないからとか、軍人が不平を言うからと言って、不可能なこと、或は無理なことを日本が要求することは、国家の威信に関する」と毅然として自己の主張を述べた、とされています。(米内海相の談話)(同書第6巻p187)

 また、堀場一雄(参謀本部作戦指導課)の『支那事変戦争指導史』では、「広田外務大臣先ず発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認しがたきを述べ」た(誰かからの伝聞)、となっています。また、堀場は、広田が第一次和平案を軍に相談しなかったとか、一度自らの責任で条件を提示しながら南京の戦勝に酔って条件を加重したことは国家の信義に反するなどと広田を批判しています。(同書p118)

 しかし、このトラウトマン和平工作における第一次和平案の提示は、先に述べたとおり、参謀本部とドイツのオットー(東京駐在武官)を通じての中国との和平交渉を政府が引き継いだものであり、「要するに陸軍の統制さえついていれば何事もおこ」らないはずのものでした。(米内海相及び山本次官の話『西園寺公と政局』第3巻p173)

 また、参謀本部の戦争指導班は「成しべくんば支那側の申し出を取り上げて交渉に入るべし」としていましたが、付加すべき条件については、陸海外三省及び統帥部間の協議を経て、第二次和平案がまとめられました。そこでは非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、内蒙自治政府及び華北特殊政治機構の承認、保障駐兵、及び戦費賠償などが追加されていました。

(5)なぜ参謀本部は蒋介石との交渉継続を執拗に主張したか

 この「第二次和平案」は、その翌日(12.22)ディルクゼンに提示されましたが、ディルクゼンは一読して、中国側が受諾する見込みは薄いとの感想を述べました。これは26日トラウトマンより孔祥熙ならびに蒋介石夫人(宋美齢)に伝えられました(この時は蒋介石は病中)が、孔は「誰もこんな原則を受け入れることはできない。・・・日本は日本自身の破滅をもたらすであろう」と述べました。(「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹)

 なぜなら、この講和条件はまさに華北分離工作の延長上にあるとしか見えなかったからです。華北、内蒙における非武装地帯の拡大や特殊政治機構の承認などは、「塘沽協定以来の現地軍部の基本目標であり、そのうえに戦争の拡大に伴う諸要求を積み上げてゆくというのが、この要求の骨組みをなして」いました。このことは「船津工作に見られた政策修正の試み」が消え失せたことを意味します。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p108)

 案の定、中国側の回答は年が明けても届きませんでした。船津案をまとめた石射は広田に「あの加重された条件では、到底色よい回答が中国側からくるはずがありません。和平はさし当たり絶望です。日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。その時機はやがて到来します。それまで『国民政府を相手にせず』結構です。この点について私は争いません」と述べました。(『外交官の一生』p329)

 結局、中国側回答は、最終期限の1月15日の前日に届きました。内容は「日本の条件は範囲広範に過ぎるので・・・さらに詳細な内容を知りたい」というものでした。これに対して政府・軍部は、講和条件の細目はすでに数次にわたり(ディルクゼンを通じ口頭で)説明済みであるとし、いまさらこのような申し入れをしてくるのは講和への誠意がなく遷延策に出たものであるとして、14日の閣議で交渉打ち切り方針を固めました。

 しかし、参謀本部はなお交渉継続をあきらめず、そのため15日の連絡会議では広田外相らの交渉打ち切り論と多田参謀次長の継続論が鋭く対立しました。多田はこの機会を失えば、長期戦争に引き入れられる危険が大きいとし「中国側の要望に応じて日本側条件11ヵ条の確実な内容を文書で交付し、手続きについても、なお検討を加えるべきである」と主張し、古賀軍令部次長も多田の主張を支持しました。

 しかし、陸軍省は打ち切り論に一致していて、杉山陸相もすでに連絡会議で広田に賛成し多田と激論を交えている状況であり、部内の意見統一すら困難とみられたので、結局参謀本部は「この重大事局において、政府対統帥部の抗争のために政変を起こすようなことは是対に避けねばならぬと考えるので、統帥部として不同意なるもあえて之に反対しない」という趣旨を政府に通告して、その方針に従うことにしました。

 にもかかわらず参謀本部は、これを参謀総長から天皇に上奏すれば、かねてより早期和平を望んでいる天皇から政府に対し「再考の御諚あるいは御前会議の招集」があるのではないかと期待しました。しかし、閑院宮参謀総長があらためて対ソ防備上交渉継続の必要性を天皇に言上すると、天皇は、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなおよかったじゃないか」といい、総長は返す言葉を失ったといいます。

 この天皇の言葉は、日支事変に際して度々講和の機会を得るよう希望していた天皇の言葉としては意外な感じがします。しかし、これは「政府がその全責任において決定したことについて、天皇がそれを左右するような発言をすることは厳に慎む」という立憲君主の態度として当然のことでした。ただ、天皇としては、事ここに至ったその責任が「最初に支那と事を構えた」(長城を越えて華北に手を出した)参謀本部にあるとの認識について一言したかったのでしょう。

(6)なぜ参謀本部は政府を説得できなかったか(小見出し挿入4/18)

 それにしても、どうして参謀本部は、軍の統帥機関としての専門的見地から日支間戦争の長期化をこれほど恐れながら、なぜ文民たる政治家を説得できなかったのでしょうか。一方、なぜ文民政治家たる近衛や広田は、事変当初から早期和平の実現に努めながら、この決定的な局面において、参謀本部の交渉継続を求める意見を無視したのでしょうか、いや無視することができたのでしょうか。

 この間の事情を説明する論はほとんどなく、参謀本部の見識を評価する一方、文民政治家の無能ぶりを慨嘆する意見がほとんどです。しかし私自身は、先に述べたように、「第二次和平案」の段階で、蒋介石が和平交渉に応ずる可能性はゼロだったと考えますので、この点はむしろ文民政府の判断の方が正しかったと思います。問題は、この「第二次和平案」から「船津工作に見られた政策修正の試み」が姿を消した、ということではないでしょうか。

 つまり、この「第二次和平案」は、国民政府がこれを呑まなければ、日本は再び華北分離工作さらには華中分離工作を開始するぞ、という脅しているようなものなのです。確かに参謀本部は、華北分離工作の誤りを指摘する一方、日満支三国提携共助の実現の必要性を説いています。しかし、参謀本部は、この和平案がならず、「現中央政府を否認」した場合の中国における軍事占領地域内の新政権樹立方針をも同時に起案していました。(『支那事変戦争指導史』P116)

 ところで、石原が日本の伝統的大陸政策の修正の必要を認めたのは昭和10年末頃です。しかし、石原自身、これと矛盾する日本による華北五省の分離支配政策を捨ててはおらず、この政策は、昭和11年8月決定の「帝国外交方針」その具体化である「第二次北支処理要綱」で正式の政府決定とされました。ここでは「北支分治政治を完成して防共親日満地帯を建設し、併せて国防資源の獲得をはかり、以て蘇国の侵攻に備える」としていました。

 その後石原は、昭和12年1月に「帝国外交方針」を改訂し、華北「分治政策」の放棄を提起しました。しかし、それは、究極的には、石原自身が押し進めてきた日本の伝統的大陸政策の放棄を意味するものであり、ここに石原は、深刻な自己矛盾に逢着しました。つまり参謀本部の堀場一雄を中心とする作戦指導課もこの矛盾の上にあったのですが、しかし彼らは、この自己矛盾の深刻さに(下線部追記4/18)気づきませんでした。

 というより、実は、石原が説き堀場も信奉した「王道思想」論が日本の大陸政策を根底において支えていたわけで、従って、この「第二次和平案」を堀場がいかに非侵略的なものだと言いつくろおうとも、その欺瞞性は中国人の目には明らかだったのです。蒋介石は王寵恵外交部長から、ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促を受けていることを告げられた時、次のように王部長に大声で命令したとされます。

 「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」「断固として拒絶せよ」そして日本側が1月15日の回答期限を前に政府大本営間で会議を重ねていることを知ると「それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気がついたか――。」(『日中戦争(3)』児島襄p222)
(つづく)

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