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2009年5月

2009年5月28日 (木)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか1

 前回の末尾に、「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」という重光葵の言葉を紹介しました。この「日本国民の政治力の不足」ということは、ひいては当時の日本国民の政治意識を支えた「思想」に帰着します。つまり、この「思想」が、この時代の日本に「自滅」への道を選択させてしまったのです。

 私は先に「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか」について、その根本原因を「日本の伝統的大陸政策」に求めました。特に、昭和期の日本の大陸政策が、独善的・排他的な東亜共和思想に陥ったことが大きな問題でした。確かに、当時の国際環境の中で資源の少ない日本は中国にそれを求めるざるを得ませんでした。しかし、この問題を、あくまでも中国の主権を尊重するなかで解決すべきでした。また、第一次世界大戦後の国際協調路線を堅持する中で解決すべきでした。

 ここで、明治以降の日本の大陸政策の変遷を概略見ておきます。

 それは、中国との朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争(1894.7~1895.4)に始まります。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾、澎糊諸島を獲得しましたが、三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉(1895.4)を受け遼東半島を中国に返還しました(その代償として邦貨約4500万円を取得)。しかし、その後ロシアは旅順港の租借、東支鉄道の敷設をはじめ満洲に支配権を広げ、さらに朝鮮にも進出しようとして日本と対立するようになりました。

 こうして日露戦争(1904.2~1905.9)が勃発し、日本は日英同盟もあって勝利し、ロシアに南満州を中国に返還させた上で、遼東半島(関東州)と東支鉄道の一部(旅順―長春間、南満州鉄道)の支配権(ロシアの25年の租借権を継承)を獲得しました。この内、遼東半島については、日本は二度の戦争の犠牲を払ってようやく獲得したものであり、それだけ思い入れの深いものとなりました。また、南満州鉄道の租借権については、ロシアが採掘していた撫順及び煙台炭坑の開発・経営権や、鉄道付属地(鉄道両側併せて約62メートル及び駅付近の市街地)の行政権も含んでいました。さらに関東州の守備隊として日本の軍隊が配置され、1919年には関東軍司令部が設置され、南満州鉄道の線路防衛にもあたることとなりました(1931年の満州事変に至るまで約一万人)。

 この間、日本は1910年に朝鮮を併合しました。満洲及び蒙古については、四次(1910~1016)にわたる日露協約によって、ロシアとの勢力範囲(日本は南満州および東部蒙古)を確定し、相互援助・単独不講和を約しました。しかし、1917年のロシア革命によりこの協約は破棄されました。また、この間の1911年には辛亥革命が発生し、1912年1月には中華民国が発足し孫文が臨時大統領となりました。2月には宣統帝が退位して清朝は滅亡し袁世凱が大統領になりました。

 このように中国の政情が激動する中、一部日本人(川島浪速他)による満蒙の分離独立工作が企てられました。しかし、日本側の工作は統一されておらず、革命派を支持する活動もあり、また、イギリスが袁世凱による統一共和政府を支持して、日本に分離独立運動を援助しないよう申し入れたことから、この運動は挫折しました。一方ロシアは、1912年11月、露蒙協約を結んで外蒙(モンゴル)を保護国化し、1913年には中露協定を結んで、中国に宗主権を残す形でのモンゴルの自治を認めさせました。

 1914年7月には第一次世界大戦が勃発しました。日本は日英同盟の要請もあり、東洋からドイツの根拠地を一掃するとともに、この機会を利用して中国における日本の権益確保・拡大をねらって対独参戦しました。日本軍は11月までに膠州湾、青島、山東鉄道を占領、その後加藤外相が袁世凱に出した要求が、いわゆる「対華二十一ヵ条要求」でした。特にその第五号は、希望条項でしたが、支那中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくなどの要求を含んでいたために、列国の反発を招き、中国はこれに激しく抵抗しました。

 結局、日本政府は第五号の希望条項を留保(撤回を訂正5/3)した上で、1915年5月7日に最後通牒を発し、5月9日中国はやむなくこれを受諾しました。続けて、二十一ヵ条要求を具体化する「山東省に関する条約」及び「南満州及び東部内蒙古に関する条約」等が締結されました。前者による権益は、その後のワシントン会議(1922)における中国との直接交渉で全て返還されましたが、日本は後者によって、新たに、日本人が南満州における商工業上の建物を建設するための土地や、農業を経営するための土地を商租する権利を得ました。また、この時満鉄平行線を敷設しないとの取り決めもなされました。

 この間、中国では袁世凱の独裁化が進行し、1915年12月に袁は皇帝となり、共和制が廃止され帝政となりました。しかし内外の強い反発を受けて、袁はあわてて帝政を取り消しましたが、各地で反袁武装蜂起が相次ぎました。こうした中国の政情不安の中で満洲では張作霖が台頭し、日本政府(大隈内閣)は張を支援して満蒙独立運動(第二次)を推し進めようとしました。しかし、1916年6月に袁が急死し、副総裁の黎元洪が大総統代理となったことで情勢は一変し、第二次満蒙独立運動は中止されました。

 1917年10月、大隈内閣に代わって寺内正毅内閣が成立しました。同内閣は混迷した対中国政策を立て直すため、「中国の独立と領土保全を尊重擁護し、両国の親善増進をはかり、内政に干渉せず、列国とも協調することで、満蒙の特殊利益の増進と利権の確保」しようとしました。そのため段祺瑞政権に対する借款(西原借款)がなされました。また、1917年11月にはアメリカとの間で「領土相近接する国家の間には特殊の関係が生ずることを承認する」いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれました。

 1918年11月には、膨大な犠牲をもたらした第一次世界大戦が終わり、1919年1月からパリで講和会議が開かれました。この会議では英仏そしてアメリカも、日本がドイツ利権を引き継ぐことに同意しました。これに対して中国民衆の憤懣が爆発し、全国的な民族解放運動が巻き起こりました。それまでの排外運動は、イギリスやロシアを対象としていましたが、今や中国民衆の主要な敵は日本に絞られるようになり、日本政府は大陸政策の抜本的修正を迫られるようになりました。

 その後、1920年7月、段祺瑞の安徽派と、これに反発する馮国璋の直隷派及び張作霖の奉天派との間で「安直戦争」が行われました。その結果、段祺瑞が敗れて日本の中国における親日基盤は壊滅しました。日本政府は、五四運動が高まりを見せる中で大陸政策を見直す余裕もないままに、「安直戦争」後の新情勢への対応を迫られました。原内閣は大陸政策に関係する諸機関の代表者を集めて満蒙政策の再検討(1921.5)を行い、「満蒙経営には張作霖との親善を保つ」ということで意志統一をはかりました。

 1921年7月には、アメリカが提唱したワシントン会議が始まりました。これは、第一次世界大戦後の軍縮要求を受け、列強間の建艦競争を休止させることを目的としていました。またこれを機会に、アジア太平洋地域における国家間の協調体制も作ろうとしました。日本では会議の結果を憂慮す声もありましたが、「日露協約は既になく、日英同盟の存続も危うく、直隷派の勝利した中国との間も多難であり、アメリカとの親善保持も不可欠」ということで、原首相はこれに応じました。

 周知のようにこの会議では、日英同盟条約を終了させ、「太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する英米仏日による四カ国条約」が調印されました。その他中国に関する九カ国条約、海軍軍縮条約等が調印されました。この九カ国条約の成立を機に、23年4月石井・ランシング協定は廃棄されました。こう見てくると、これまで日本に有利と見られた条件がことごとく消失したかに見えますが、アメリカ全権ルートが提出した「ルート四原則」は日本の満蒙特殊権益に理解を示していました。

 この九カ国条約の締結に際して、中国は列国の特権や利権の公表と審査、不平等条約の撤廃等を要求しました。しかし、中国がすでに各国に附与した既得権益には影響を及ぼさないことが確認されました。日本は先述したように、中国との直接交渉で膠州湾租借地の還付他山東省の利権を手放しましたが、満蒙に関する権益は維持しました。しかし、その後中国では第一次奉直戦争(1922.4)が起こり、二十一ヵ条条約の無効を訴える「旅大回収運動」が提起され日本政府を悩ませました。

 この間日本政府は、中国政府のこうした要求を拒否する一方、中国の内争に対しては不干渉主義をとりました。また国際関係のおいては列国との協調路線をとりました。こうした外交方針について、この頃は、中央と現地、外務省と陸軍の間に大きな意見の齟齬は見られませんでした。また、原内閣以降も、こうした日本の不干渉政策は維持され、加藤高明護憲三派内閣(1924)外相幣原喜重郎による「中国に対する内政不干渉・国際協調政策」へと受け継がれました。(幣原外交により中国の対日世論は好転した。6/3追記)

 しかし、こうした日本の不干渉政策は、第二次奉直戦争後も引き続く中国の政情不安の中で安定せず、結局、満鉄沿線の日本国民の生命財産保護を目的としつつ、実質的には張作霖を支援する軍事的行動がとられました。また、その一方で、加藤高明内閣は満鉄支線の建設促進を図りました。これに対して張作霖は、北京政界に進出するようになると、日本の抗議を無視して満鉄東西平行線の建設を押し進めるようになりました。こうした張作霖の強硬姿勢は、従来在満権益擁護のために張作霖を支持してきた日本側に深刻な危機感を抱かせるようになりました。(下線部追記6/3)

 一方中国では、蒋介石が孫文の後継者として国民党の実権を握り、北伐(1926.7)を開始し10月には武漢三鎮を攻略しました。これに対して、張作霖は軍閥各派を糾合し国民革命に対決の姿勢を示しました。1927年1月、国民政府が広東から武漢に遷都した時、意識高揚した民衆によるイギリス租界の占拠・回収事件が発生しました。イギリスは日米両国に共同出兵を要請しましたが、幣原外相はこれを拒否しました。さらに3月には国民革命軍が南京に侵入したとき、兵士による各国領事館の掠奪暴行事件が発生し、日本領事館も掠奪暴行を受けました。

 この時、南京の江岸には日・英・米の砲艦がいて、英・米の砲艦は蒋介石軍の根拠地を砲撃しました。しかし、日本の砲艦はこの砲撃に加わりませんでした。これは、南京の居留民が尼港事件(1920.3シベリア出兵中ニコラエフスクで起きた日本人居留民・将兵の虐殺事件)を憶えていて、艦長に砲撃しないよう嘆願したためにとられた措置でしたが、これを機に、幣原外交を「軟弱外交」「腰抜け外交」と非難する声が、軍、政界、マスコミの間に澎湃として起こるようになりました。

 こうした批判の中で、幣原外交は若槻内閣総辞職(1927.4.27)と共に終わり、これに代わって、田中義一内閣による「積極的大陸政策」がとられるようになりました。一方、反共クーデターに成功した蒋介石は、首都を南京に定め北伐を再開しました。田中内閣は青島の在留邦人の安全をはかるための自衛措置として、5月28日満洲より一旅団を青島に派兵しました(第一次山東出兵)。しかし、この時は、蒋介石の南京政府と共産党中心の武漢政府の間に対立が生じ、北伐は中止されました。

 ところで、第一次山東出兵が行われる中、6月27日から7月7日のまでの間、政府や軍の幹部を集めた東方会議が田中首相の主宰で開かれ「対支政策綱領」が決定されました。ここでは「満蒙特に東三省地方は国防上、国民生存の関係上重大な利益を有するので、万一動乱が満洲に波及し、治安乱れて同地方におけるわが特殊の地位権益に対する侵害が起きる恐れがあれば、これを防護し且つ内外人安住発展の地として保持できるよう、機を失せず適当の措置に出る覚悟を要する」とされました。

 こうした考え方は、6月1日付けで関東軍が陸軍省と参謀本部に提出した「対満蒙政策に関する意見」とも似ていました。つまり、関東軍の満蒙政策が東方会議によって裏付けされることになったのです。こうした日本の動きは、それが山東出兵中になされたこともあって内外の関心を呼びました。その後1928(1927を訂正6/3)年4月、国民革命軍の北伐が再開され済南をめざして北上しました。これに対して田中内閣は第二次山東出兵(支那駐屯軍4.20済南着、第六師団は4.25青島上陸、4.26より済南商埠地警備にあたる)を行い、5月1日には北伐軍が済南に入城し、両軍が対峙する事態となりました。(下線部6/5挿入)

 そしてついに、5月3日、小部隊の衝突から日中両軍の戦闘に発展し、日本軍は中国軍の済南からの撤退及び軍団長の処刑を要求するなど期限付きの最後通牒を発しました(5月7日午後4時、福田第6師団長名で12時間後)。しかし、回答が期限までに届かなかったとして(拒否を訂正6/3)、現地軍第6師団は5月8日4時済南城の攻撃を開始し、田中内閣は5月9日第三次山東出兵を決定、5月11日これを占領しました。この戦闘で中国側の死者は三千名を超えたともいわれ、これに対して、日本側の居留民死者は15名負傷者15名のほか、軍人の戦死者は60名負傷者百数十名とされています。(この数字は『関東軍』中山隆志p67による)(下線部6/5挿入)

 この最初の衝突における日本人居留民死者(12or13名)の多くは、領事館の避難勧告を無視したアヘン密輸入などの従事していた人びとだったともいいます。(『ある軍人の自伝』佐々木到一)これを酒井隆武官は極めて誇大に軍中央に報告し、陸軍省は300人以上の邦人が虐殺されたという新聞発表を行い世論を煽りました。こうして5月8日、済南で全面的な武力衝突がはじまり、上記のような、日本側の犠牲を遙かに上回る犠牲を中国側にもたらすことになったのです。註:ただし、中国側の死傷者数については諸説あり、はっきりしない(6/3追記)

 この事件以降、それまで華中方面でイギリスを主敵としてきた中国の排外運動は日本を標的とするようになり、蒋介石始め国民政府要人の対日観も決定的に悪化しました。第一次山東出兵には理解を示した英米も、イギリスはこれ以降国民党との接触を開始し、元来国民党に好意的であったアメリカの対日世論にも悪影響を与えました。蒋をはじめとする中国側は、これを日本側が計画的に北伐を妨害しようとしたものと解釈し、その結果、この済南事件は、彼らにぬぐいがたい恨みを残すことになりました。(以上、主に中山隆志著『関東軍』参照)

 実は、この済南事件こそ、本稿の主題である「昭和の青年将校の暴走」がもたらした最初の事件であり、この事件を機に日本の大陸政策は独善的・排他的・誇大妄想的な方向へと変質していったのです。

2009年5月24日 (日)

マスコミ報道の不正確

*HP『山本七平学のすすめ』の「フリートーク」からの転載です。「報道の責任」という意味で重要だと思いましたので・・・。(説明的文章の追加及び語句の修正をしています。)

(その1)イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事件について

この件について、5月23日の各紙で以下のような報道がなされました。
「防衛省は22日、責任を全面的に認める最終報告書を公表し、舩渡健・前艦長(1等海佐)を停職30日の懲戒処分にするなど計38人を処分した。」

 しかし、防衛省の最終報告書をネットで見てみると、

4 事故の原因
(1)結 論
「清徳丸」乗員の証言は得られず、航法機器も損傷して航跡データ等もないことから、事故の原因は「あたご」側に限定して直接的・間接的要因を指摘することとする。
ア 直接的要因
(ア)第2直当直士官の見張り指揮及び見張り並びに判断、処置不適切等
a 見張り指揮不適切
b 見張り不適切
c 行船に関する判断、処置不適切
d 艦内各部に対する指揮不十分
(イ)間接的原因(略)
 つまり、この報告書は「あたご側」の原因に限って書かれたものだと言うことです。

 では、清徳丸には責任はなかったかというと、
平成21年1月22日の横浜地方海難審判所の裁決では次のようになっています。
「本件衝突は,あたごが,動静監視不十分で,前路を左方に横切る清徳丸の進路を避けなかったことによって発生したが,清徳丸が,警告信号を行わず,衝突を避けるための協力動作をとらなかったことも一因をなすものである。」

 この場合、”あたご”の衝突回避動作が遅れたことが主因とされていますが、それは、「あたご」も「清徳丸」も船形に関係なく同じ動力船と見なされ、次の海上衝突防止法第15条が適用されたからです。

第15条 2隻の動力船が互いに進路を横切る場合において衝突するおそれがあるときは、他の動力船を右げん側に見る動力船は、当該他の動力船の進路を避けなければならない。この場合において、他の動力船の進路を避けなければならない動力船は、やむを得ない場合を除き、当該他の動力船の船首方向を横切つてはならない。

 従って、あたごの回避行動の遅延が事故の主因とされたわけですが、清徳丸が衝突回避協力動作をとらなかったことも一因をなす、とされているわけで、このあたりの報道は正確にやってもらいたいと思いました。

 正直言って、清徳丸が「あたご」に気づいていれば、当然自衛的回避行動を取れたわけで、衝突1分前に気づいて急に舵を右に切ったため清徳丸の船腹にあたごが衝突する結果になったのですから、”漁船側もうっかりしていたのでは”と疑問に思っていたのです。

 自分の身を守るという点では既存の法律に頼るだけでなく、あらゆるケースでの臨機応変の対応力が要請されますから、そのあたりの事実関係も正確に調査し報道すべきではないかと思いました。

 日本の言論界における「空気支配」の問題は、つとに山本七平が行っているところであり、それにおもねることなく正確に事実関係を記録し報道することは、その後の事故の再発防止という点でも制度を見直す上でも極めて重要です。

 私が目にした限り、こうした報道に接することはできませんでしたので、疑問に思い関連資料をネットで検索して見たら、以上のような事実関係を確認できたというわけです。ネットによる情報公開の賜ですね。

(その2)「裁判員制度」その真の狙いは何か

 導入されたばかりの裁判員制度について、ひょっとしたらこれは一種の”徴兵制度ではないか”と思ったことがあります。”徴兵制度”というと物騒ですが、言葉を代えていえば「国の防衛について国民に(兵役)義務を課す制度」ということになろうかと思います。現在の日本は志願制度ですから、国民全員がこの義務を課せられているわけではありませんが、世界にはそういう国は多いわけです。

 そこで裁判員制度ですが、私はひょっとしたらこの制度は、「社会の秩序維持について国民に義務を課す」=「裁判参加の義務を課す」という意味あいを持っているのではないかと思ったのです。そんな意見はどこにも聞いたことがないので、「竹林の国から」で一度ふれたきりになっていました。

 ところがwebの「ポリシーウオッチ」で野村修也氏(中央大学法科大学院教授)が次のようにこの制度を解説しており、”なるほど”と思いました。それは、この制度の導入には当初裁判所も弁護士も警察もみな反対だったが、なぜそれが一転して導入になったかというと、海外からの目線があるからで、要するに裁判が裁判官=官僚まかせで国民が参加しない国の裁判など信用できない、それは民主主義が徹底していない証拠だ、と見られているため、そうした疑念を払拭する必要から、急にその導入が決まった、というのです。

 もちろん、裁判員が量刑の決定まで関与する制度はアメリカもないそうで(事実認定のみ)、私もこれは行きすぎだと思いますが(日本は情状酌量の範囲が広すぎることが特に問題です。ひょっとしたこれでつぶそうとしているのかも?)いずれにしても、「裁判に国民が参加するのは民主主義国では当然」という考え方は、民主主義という言葉の持つ重さを考える上で、極めて重要な観点だと思いました。

 この意見はもっと広範に論じられるべきですね。防衛問題についての解もそこから得られると思いますから。

2009年5月17日 (日)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問4

10、トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか

 さて、本テーマの最後の疑問として「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか」ということについて総括的に考えてみたいと思います。このことは自ずと、「なぜ、日本は中国と戦争をしたのか」を問うことになりますし、ひいては太平洋戦争の敗因を探ることにもなると思います。

 一般的には、トラウトマン和平工作の失敗の原因を、文民政府(近衛首相や広田外相など)の責めに帰す意見が大半です。いわく、参謀本部は、中国との戦争が必然的に持久戦争になることを恐れて、蒋介石との寛大な条件による早期和平を強く主張した。しかし文民政府は、和平条件を過酷なものにつり上げ、かつ蒋介石の交渉態度を無礼として交渉打ち切りを主張した。米内海相に至っては内閣総辞職をちらつかせて参謀本部に政府案への妥協を迫った。もしこの時、参謀本部の意見が容れられていたならば、日本は中国との泥沼の持久戦争を避け得たし、ひいては日米戦争を戦うこともなかったであろう、と。

 だが、今までにも言及してきた通り、私はこうした見解は妥当ではないと思います。堀場一雄の『支那事変戦争指導史』では、参謀本部はあたかも広田外相が示した第一次和平条件を一致して支持したかのような印象で書かれていますが、実際の経過は次のようなものでした。

 まず、12月7日にディルクセンより蒋介石の交渉受諾の報が伝えられました。この時広田は、ディルクセンに対して一ヶ月前に起草された条件を基礎として交渉を行うことが可能か疑問だ、と述べましたが、即刻、総理・陸・海・外四相会議を開催し、ここでドイツの仲介を受諾して話を進めることが申し合わされました。、続いて陸・海・外務の事務局長が会議し、従来の条件に不当に加えられた直接損害の賠償を付加するだけの新条件が決まりました。

 しかし、広田の仲介申し入れがあったことを知った陸軍は色めき立ち、『広田を殺す』と騒ぐ者も出る始末で、多田参謀本部次長を含む省部会議は、『現在のような支那側態度では和平の応じられぬ。一応拒否し、後日新条件を提示する』」と決定しました。12月8日には杉山陸相が広田を訪ね「一応ドイツの仲介を断りたい。首相も同意だから」と伝えたとされますが、これは、この省部会議の結果を受けたものだったのではないかと、高田万亀子氏は見ています。

 こうした陸軍の強硬姿勢に対して、「海・外事務当局の二日がかりの工作が奏功し陸軍はドイツの仲介を受諾することに翻意」しました。(『外交官の一生』石射猪太郎p324)ただし、12月14日に政府大本営連絡会議にかけられた新和平案は、「新たに作成された強硬な陸軍案に基づき、『三省事務当局間で最大の条件として一応まとまりたるもの』(『静かなる楯』高田万亀子p200)で、原案説明に当たった石射東亜局長によると、それは「華北の中央化を妨げぬ趣旨」を守って「大乗的見地から立案された」ものとはいえ、「なお中国側の受諾を疑問視せざるを得ない」ものでした。

 しかし、連絡会議では、この案すら忠実に支持したのは米内海相と古賀(峯一)軍令部次長のみで、多田、末次(信正)、杉山、賀屋から出された異論で次々に条件が加重されていきました。この時近衛は、末次が「このような条件で国民が納得するかね」と言うと、「どんな条件にせよ、国民のためにこれが最善とあれば国民の間に不満があろうとも、これを断行しなければならぬ」といいましたが、条件加重に積極的に反対したわけではなく、また、広田外相は一言も発しませんでした。

 この時石射は、多田が条件加重派だったことに驚いていますが、それは、陸軍ではこの会議の前に、既に「華北五省を特殊化する強硬な新条件を陸軍案(前出「三省事務当局間で最大の条件としてまとまりたるもの」を決めるときの陸軍原案と考えられる)」を決めていて(上掲書p200)、結局これが、附記2条を含む11ヵ条の「第二次和平条件」となったのです。この時に加重された条件の要点は石射によれば次の通りでした。

・原案では、華北の中央化を妨げない趣旨にしたのが、特殊地域化の要求に変わり、
・塘沽協定を始め諸軍事協定の解消、冀察及び冀東政府の解消を規定した原案が削られ、南方の非武装地帯を上海周辺に限ったのが「華中占領地に」拡大され、
・中国側が故意にわが権益に与えた損害の賠償のみ予定した原案が、戦費の賠償をも要求する趣旨に変わり、
・和平協定成立後初めて停戦協定にいるべき旨の一項が付加され、
・なお日本政府は、中国側より講和使節を日本に送ることなどが申し合わされた。(『外交官の一生』石射猪太郎p326)

 こうした条件加重について風見書記官長が、こういう条件では「和平は到底成り立つまいと思うが、閣僚諸氏はどう思われるか」と聞くと、米内は「僕は和平成立の公算はゼロだと思う」。広田は「まあ三、四割は見込みはありはせぬか」、杉山は「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがあろう」と答えたとされます。また多田も「(回答して)一応筋だけは当方の誠意を示しておく必要あり」と述べました。(『変動期の日本外交と軍事』)

 その翌日の12月15日には、陸軍省部合同で「対処要綱」が決定され、蒋介石が「条件を受諾せぬ場合は蒋介石否認」とされました。また、12月16日の連絡会議では、多田は広田や米内海相から、蒋介石否認に反対の言葉や態度を示された時、「天下りと思ってやればよし」といったとされます。(前掲書)

 こうした多田の強硬姿勢に対し、その部下である作戦指導課の堀場少佐は、
一、念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するほかなし。是道議に反す。
二、成し得べくんば支那側今次の申し出を取上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし」等と主張しました。

 堀場はこうした批判を広田に向けていますが、以上の経過を見ればわかる通り、広田の「第一次和平条件」を葬ったのは、上司の多田を含む省部会議だったのです。これに対して堀場は、参謀本部が12月1日に関係当局の意向を斟酌して作成していたという「解決処理方針」をもって、陸・海・外務の強硬論を説得し、12月20日になってようやく、華北の特殊地域化や非武装地帯の拡大などの加重された条件を、講和成立後に解除される保障条項とする「第二次和平条件」をとりまとめました。

 この条件案は、その後の閣議で、中国側に附記を含めた11ヵ条全部を示すか、原則4ヵ条を示すか問題となりました。これについて杉山陸相から参謀本部に意見が求められたとき、多田は書面で「順序方法は外相に一任するが、支那側が直接交渉に乗り出してくる時は全条件を納得してくることを要す。・・・目的は支那側が速やかに直接交渉に応ずるか否かを知ること。」と回答しました。要するに、蒋介石が直接交渉を求める場合は全条件の受諾が必要である。それ以外は政府に任す、ということだ思います。

 ところが、堀場は中国側が四条件の内容を具体的に承知したいという希望を述べ伝えていることを知った時、この四条件について、「右四条件より受くる印象は、甚だ侵略的にして本来の建設的理念を没却しあり、四ヵ条の内非武装地帯及び賠償問題の二項を含む。そもそも非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり。又賠償の如きは元来期待せざりしものなり。支那側が疑心を抱きて具体的言質を請求するは当然なりと謂うべし」として、広田を激しく批判しました。(『支那事変戦争指導史』p121)

 しかし、先に見た通り、第二次和平条件の11条件を、その大体をカバーする4条件に変えたのは広田とはいえず、閣議での意見を踏まえたものでした。また、「非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり」といっても、それは先ず蒋介石が本体の11条件を呑むことが前提であり、それが何時解除されるかについては日本側の随意に任されるわけで、蒋介石としてはとても信用できなかったと思います。また、「賠償の如きは元来期待せざりしもの」といっても、これは堀場の願望に過ぎません。

 確かに、堀場が、加重条件に対してそれを保障条項とし、和平成立後解消することの努力したことは評価さるべきですが、蒋介石が第二次和平提案について講和交渉に応ずるとしたときの条件は「華北の行政権は徹底的に維持されること。まず停戦すること。最後通牒では困る」でした。しかし、この保障条項付きの第二次和平条件は、中国の華北行政権を否定する特殊地域化や華中の占領地の非武装地帯化という過酷条件を呑まない限り、停戦には応じないとしており、蒋介石がこれを呑む可能性はなかったと思います。

 しかも、堀場のいう日本の真意とは「過去の一切を精算して日支両国が互いに領土主権を尊重し、渾然融和して日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」(『静かなる楯』p203)とするものでした。確かに日本にとってはそれでいいでしょうか、蒋介石にしてみれば、さんざんぶん殴られて満洲をひったくられ、「さあもうおしまい。みんなで仲良くやりましょう。しかしいやだというならば」と、大きな拳を振り上げられているわけで、蒋介石ならずともそんな国と肝胆相照らせるはずがありません。(上掲書p203)

 さらにいえば、堀場の「日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」という考え方は、次のような石原莞爾の最終戦総論に立脚するものでした。日本には、世界の思想・信仰を東洋の道義文明によって統一する使命がある。その使命達成のためには、西洋の覇道文明との最終戦争に勝利しなければならない。そこで、まず中国を日本を盟主とする東亜連盟の一員とし、政治的・経済的・文化的一体化を図り、まずソ連、最終的には西洋文明のチャンピオンたるアメリカとの最終戦争に備えなければならない・・・。

 まさに、アメリカとりわけ中国人にとっては妄想としかいえない誇大思想で、堀場がいかにまじめかつ真剣であったとしても、こんな手前勝手な思想に基づいて日中友誼論が説かれてもそれが説得力を持つはずがありません。実際、こうした考え方に立脚した堀場の主張は、政府・重臣にも不信の念を抱かせ、「陸軍とドイツの間に了解があるのではないか。ドイツ自身のために利用されているのではないか。対ソ同盟でも考えているのではないか」と疑われさえしたのです。

 一方、当時の日本の大陸政策の基調としては、昭和11年8月7日の「国策大綱」によって、「満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去するとともに、英米に備え、日満支三国の緊密なる提携を具現して、わが経済的発展を策するをもって、大陸政策の基調とす、而してこれが遂行にあたりては、列国との友好関係に留意す」としつつ、「ソ連の極東兵力に対しては、開戦初頭一撃を加える如く在満鮮兵力を整備充実す」とし、「海軍軍備は、米国海軍に対し、西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す」としていました。

 この両者は似ています。といっても、後者は、あくまで予算獲得上の陸海軍の妥協の産物であり「その場限りの作文」とされるものです。(『昭和の動乱(上)』p125)しかし、南京陥落後の蒋介石との和平交渉の段階では、軍部や政治家を含めた日本人一般の、日本の大陸政策についての基本的考え方は、ほぼこのようなものになっていました。つまり、堀場らと政府との日本の大陸政策を遂行していく上での主張の違いは、「手順あるいは心構え」の違いといった程度のものでしかなかったのです。

 さらに、日本の大陸政策を遂行していく上で、この両者のどちらが現実的であったかといえば、政府側であったというほかありませんでした。というのは、「蒋介石が日本側が期待するような条件で和平に応ずる」可能性はほとんどなく、この点、参謀本部の期待は「甘い」という外なかったからです。もしこの時、参謀本部が本当に中国との長期持久戦を恐れていたなら、軍事専門家として万難を排して政府を説得すべきであり、それをせず、あたら精神論に主軸を置いたことがかえって災いしました。(註:本来は華北分離政策の誤りを指摘すべきでしたができなかった)(下線部追記5/18)

 以上、私が、昭和13年1月に堀場等の主張による蒋介石との交渉が継続されていたとしても、それが成功する見込みはほとんどなかった、と考える理由について説明しました。もちろん、これによって、近衛首相や広田外相の責任が免除されるとは考えていません。高田万亀子氏は「近衛首相や広田外相としては、軍が乗っているこの機に一気に和平に持っていく機略こそあって欲しかった」と言っていますが(『静かなる楯』p211)、私もその通りだと思います。

 とはいっても、この時代、軍の意向を無視しては何事もできなかったことも事実です。当時、参謀本部作戦課長だった河辺虎四郎(少将)は「今次の政府の態度とその処理は、なるほど軍部の処理には、便利であることがわかるが、そうした手放し的な『軍部まかせ』の考え方が、果たして大局上妥当かどうか、私は事実、政府当局がもっと自主的に慎重な構えをとってくれることを、内心望んでいた」と書いています。(『市ヶ谷台から市ヶ谷へ』p137)

 しかし、広田自身は次のようにいっています。「外交の方は軍部さえちゃんとその持っていきたいところをはっきり決めてくれたら、手の打ちようはいくらでもあるんだ。いまうっかり手を出して、またそれじゃいけないの、これじゃいけないのといわれたら出しようがない」(『西園寺公と政局6』)つまり、「最大の政治力を持ちながら部内をまとめられない陸軍を、はたからどうしようもない」というのが実態で、問題は「陸軍の下剋上、統制不能」にあったのです。

 重光葵は「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。(『昭和の動乱(上)』p188)その日本の政治機構を破壊した張本人が、当時の青年将校、特に幕僚将校たちであり、その暴走の端緒をなした事件が、張作霖爆殺事件であり満州事変でした。そして、この青年将校たちを当時の国民の多くは熱狂的に支持したのです。

 次回は、この不思議について考えてみたいと思います。

2009年5月 6日 (水)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問3

 前回の続きです。
 
9、交渉打ち切り後の政府の見通しはどういうものだったか

 それにしても近衛首相や広田外相は、蒋介石政権否認後の日本の中国政策にどのような成算をもっていたのでしょうか。昭和13年1月16日の近衛声明では、蒋介石を交渉相手とする和平を断念して「帝国ト真二提携スルニ足ル」振興政権を育成し、更正した新中国をともに建設するとしていました。というのも、南京陥落の翌日(s12.12.14)には、日本政府がほとんど関知しない間に北シナ方面軍の手によって中華民国臨時政府が樹立されていました。また、12月24日にはこれを追認するように「事変対処要綱」が閣議決定されました。そこでは、蒋介石との和平交渉が不調に終わった場合、北支に防共親日満政権を樹立し、これを拡大強化して更正新支那の中心勢力とすべく指導する、としていました。

 この中では特に  北支経済開発について、その目的を日満支提携共栄実現の基礎を確立するとし、そのため北支経済開発及び統制のため一国策会社を設立し、主要交通運輸事業(港湾及び道路を含む)、主要通信事業、主要発送電事業、主要鉱産事業、塩業及び塩利用工業等の開発経営又は調整に当たるとしていました。これについて参謀本部第二課戦争指導班の堀場一雄少佐は、「戦争方略としての施策と日支提携の基本形態との区分明瞭ならずして混同せる嫌あり」とし「之等は一切戦争遂行上の過渡的手段たることを明確にし」ない限り欧米侵略の亜流に異ならない、と批判していました。(『支那事変戦争指導史』p140)

 確かに、この「事変対処要綱」を見ると、蒋介石政権との講和よりも華北の経済開発に関心があるかのようであり、なかんずく重要産業をことごとく国策会社の管掌下に置くとしていることは、あたかも戦争目的がここにあったかのように見えます。事実、日中戦争の引き金となった華北分離工作はこれを目的としていましたから、日本は日中戦争でこの目的を達成したともいうこともできます。従って、南京陥落後首尾良く蒋介石政権が倒れたならば、日本が擁立した親日政権が日本の傀儡政権となって、ここに華北の満洲化という新たな事態が生まれたかもしれません。

 ということは、近衛も広田もこうした事態が現出することの方が、日中間紛争を根本的に解決する上では、蒋介石との和平交渉を模索するよりもベターだと判断していたことになります。もちろん、こうした判断は何も近衛や広田に特有なものではなく、軍部や政治家を含めた大多数の日本国民もそう考えていました。これに反対したのは、前述の如く堀場少佐を中心とする参謀本部の一部軍人だけだったのですが、彼らとて、もし、蒋介石が早々にギブアップし、新たに生まれた親日政権が中国国民の支持を得ることができると想定していたら、これに異論は唱えなかったと思います。

 つまり、堀場少佐等が執拗に蒋介石政権との和平交渉継続を主張したのは、和平交渉決裂後の事態はこのように日本に都合良く進まない。この戦争は必ず中国との持久戦争に発展し双方の国力を損耗することは必至である。この間中共の台頭やソ連の満洲侵攻さえ招く恐れがある、と考えていたのです。それ故に、この機会を逃さず、公明正大かつ寛大な条件で蒋介石と講和を結ぶべきである。現在蒋介石に提示している第二次和平条件は、その趣旨を十分説明すれば、決して過大な要求ではないことが了解されるはずだ。ゆえに、中国側の再度の細目条件照会にも応ずるべきだと主張したのです。

 ところで、この時の日本の第二次和平条件に対する中国側の対応は、中国国民党の最高国防会議メンバー間でかなりの混乱があったように見受けられます。汪兆銘の『挙一個例』では「12月30日から翌二十七年(昭和13年)の元旦に至るまで、三日間に亙って最高国防会議が開かれ和戦の問題を協議したのである。そして大晦日に至って、トラウトマン大使の和平提案を受諾することの決定した。併せて蒋介石は行政委員長の職を辞し、孔祥熙が代って院長となり、張群が副院長となることも決定を見るに至った」としています。しかし、別説では、この改造は”和平派”の追放が主眼であり、国民政府は1月3日に「和平拒否」を正式決定したとしています。(『日中戦争』児島襄p218)

 これは、国民政府内において、日本の第二次和平条件に対する意見の対立があったことを伺わせます。おそらくこのために、1月13日の中国側回答が「改変された条件はその範囲多少広きに過ぎるため・・・条件の性質と内容を知らされることを希望する」という迂遠な表現になったのです。また、一月15日の、この回答は必ずしも国民政府の回避的態度を示すものでないという孔祥熙のトラウトマンに対する釈明にもなったのではないかと思われます。そこでは、国民政府は「日本との真の了解に到達する希望を抱いている」として、再度、日本側提案の〈基礎的条件〉の性格と内容の照会トラウトマンに依頼するものになっていました。

 しかし日本政府は、1月15日午後7時30分蒋介石政府との和平交渉打ち切りを決議しました。参謀本部は9時20分に参謀総長閑院宮の上奏により”巻き返し”を図りましたが、天皇が一度参謀本部も同意した政府決定を覆すはずもなく、こうして参謀本部は「孤立無援」となり、それ以上の”抵抗”を断念しました。翌16日、広田外相は独逸大使ディルクセンに「中国側には和平意志がないと認めるのでこれ以上の交渉は中止する」と通告しました。

 これに対してディルクセンは、「中国側の引き延ばし的不満足な姿勢にたいし、日本側が待ちきれなかった事は理解できるが、世界の人びとの目には、日本側に交渉決裂の責任があるように、うつるのではないだろうか」と述べました。ディルクセンは交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察していたのですが、大使のこの発言は、「日本側から交渉拒否をいいだすのは自ら不利を招くことになる、との忠告であった」と児島襄は見ています。(『日中戦争』p228)

 こうして日本政府は、16日正午に、次のような声明を発表しました。「・・・仍ッテ帝国政府ハ、爾今国民政府ヲ対手トセズ、帝国ノ真ニ提携スルニ足ル侵攻支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、コレト両国国交ヲ調整シテ、更正新支那ノ建設ニ協力戦トス」。既に和平拒否、抗戦継続を決意していた蒋介石は、この声明を知ると、「有一笑而已」と述べ、「日本側がいう「侵攻支那政権」の樹立は、要するに中国の領土主権を破壊する意図を宣伝するものであり、かえって、国際世論を反日親中国に押しやる結果になる、との判断を示したといいます。(上掲書p230)

 このあたりの日本側の外交的駆け引きの拙劣さにはいささか愕然とします。というのは、もともとこの戦争は、中国軍の日本海軍に対する奇襲攻撃によって開始され、また、広田が11月2日にトラウトマンを通じて蒋介石に示した第一次和平条件は客観的に見ても妥当なものであり、しかし蒋介石はそれを一ヶ月も放置した。そのため南京陥落を招き和平条件の加重を見たが、それも、実質的には第一次和平条件と大差なく、中国側に和平の意志さえあれば交渉継続は可能だったことなど、中国側に不利なそれまでの交渉経過が、ここでは完全に覆っているからです。

 また、こうした拙劣さを見ると、日本政府は、蒋介石政権否認の段階で、その後の占領地統治や戦争終結の道筋について、一体どれだけの見通しを持っていたのか疑問になります。実際、南京陥落の翌日成立した中華民国臨時政府(主席王克敏)も、昭和13年3月に中支那方面軍が南京に樹立した維新政府(梁鴻志)も、民心による支持は薄く、日本軍の武力なくしては一日も存続を危ぶまれる弱体政権に過ぎませんでした。そのため、当初期待されたように国民政府を地方政権に転落させる見込みはほとんどありませんでした。(『日中戦争史』秦郁彦p152)

 また、第一次近衛政権下における占領地管理方式は、旧態依然たる分治合作主義で、華北及び蒙彊、揚子江下流地帯、華南諸島等に日中強度結合地帯を設定し、駐兵地域の鉄道航空等を管理するとともに、中央政府にも少数の顧問を派遣するというものでした。すなわち、実質的には中国の日本による独占化の色彩の強いもので、日本が育成した汪兆銘政権関係者からさえ「日本が列国を閉め出すのみならず、中国人をも閉め出すにあらずやとの誤解を生ずる」と批判されるほどのものでした。(『現代史資料』日中戦争2「解説」)

 そもそも、近衛や広田は、広田和協外交が出先陸軍による妨害工作で頓挫させられた事実から何を学んだのでしょうか。折角の広田の和協外交が出先軍の華北分治工作によって妨害されたこと。その結果、中国各地で邦人テロが相次ぐようになったこと。さらに廬溝橋事件を契機に日中全面戦争に発展しそうになりあわてて船津案という日本側の全面的譲歩案を示したこと。また、広田がごく少数の軍政府首脳の了解のもとに行ったトラウトマン和平工作はこの船津案をベースとしており、いうまでもなくこれは、出先陸軍による華北分治工作に対する反省を踏まえたものだったはずです。

 こうした疑問については、一般的には、参謀本部第二課戦争指導班の道義性や先見性が評価される一方、特に近衛首相や広田外相の不明が慨嘆されていますが、私は、これは一面的な見方ではないかと思います。というのは、実は、昭和12年1日に参謀本部が起案した「解決処理方針」の「現中央政府否認の場合」の措置も、「北支に親日満防共の政権を樹立し之を更正新支那の中心勢力たらしむる如く指導」するとなっていて、近衛「蒋介石を対手とせず」声明と同じようなものになっていたからです。

 また、「占領地域内においては画期的善導指導により・・・民衆をして抗日容共の非を悟らしめ、時と共に依日救国の大勢に順応するに至らしむ」として、日本の道義的正統性を当然としていました。さらに、「我国家総力就中国防力培養強化及び統制を促進すると共に支那に対する我国力の消耗を制限し且対ソ作戦の準備を強化整頓す」としていました。これは、中国に日本の国防政策に従うとともに経済統制を受け入れることを求めるもので、中国の主権は全く無視されています。(『支那事変戦争指導史』p116参謀本部「事変対処要綱」)

 なるほど、参謀本部の主張――日本人の支那人に対する蔑視感の払拭や、支那人の民族統一にかける思いへの理解を日本人に求める、という点では、確かに彼らは一般の日本人より覚醒的でした。また、中国の領土主権の尊重という点でも善意を持っていたことは間違いないと思います。だが、日本の中国における国防上又は経済上の権益拡大という点においては、拡大派のそれと同じ、あるいはそれを凌駕するものがありました。つまりこの点では、参謀本部の主張は当時の大多数の日本人のものと同じだったのです。

 ではこうした日本人の中国におけるこのような権益主義がどこから出てきたのでしょうか。実は、それは「満州国」の独立についての日本人の次のような倒錯的な思い込みに端を発していました。

 「『満州国』独立以後の日本の対中国政策は、『満州国』を既成事実として交渉の範囲から除外することを前提にしており中国側にも同じ前提を要求していたのである。しかし日本にとって『満州国』が過去形の既成事実であっても、中国にとっては決して既成事実ではなく、それは満州事変勃発(九・一八)以来一貫して強化されてきた日本の圧迫の基礎として、云いかえれば常に現在のものとして、意識されていた」

 「このような両国間の、あるいは両国民間の政治問題に対する認識乃至感覚の重大な相違は、日中戦争直前の事態においても指摘できる。廬溝橋事件約一週間前の『大公報』紙は、『北支中央化』問題にふれて次のような論説を掲載した。

 「日本側の云う『北支』なるものは、日本の歴史よりも古い時代から中国の土地であり、我が民族の居住生活してから、少なくとも百数十代経過している。そして中央政府とは、一国の国家組織にあって当然具有すべき最高機関であり、それが領土内において政令を施行することもまた当然のことである。しかるに今、『北支中央化』を指して直ちに抗日であるとし、さらに侮日慢日行為であるかの如く日本側が云っているのは、余りにも中国を蔑視した誤論であり、中国国民として深く憤激に堪えないものである。」

 「しかし日本側にとっては、『北支』の中央依存の強化はすなわち反日行為である、と意識された。このような日本側の無意識的な倒錯意識は限度なく拡大されるものであり、中国側から云えばいつか戦火によって洗礼を与えなければ是正できない性格のものであった。中国は九・一八以来つねに日本に一撃を与え得る軍事的経済的力量の養成に努力してきたのであり、戦争が必要なのは実は日本ではなく中国であった。日本としては戦争に訴えることなく中国を屈服せしめ譲歩させさえすれば満足であり・・・しかし中国が東北を回復するためには、軍事力に頼る以外手段はなかったといえよう。」(『現代史資料』日中戦争2「資料解説」)

 つまり、中国人の目には日本政府の主張も参謀本部の主張も同じ穴の狢に見えたのです。一方、日本人の目から参謀本部の主張を見た場合、それは理想主義的ではあるが現実性を欠いているように思われた。実際、このことは満洲経営においてすでに実証されていました。従って参謀本部がこの疑問に答えるためには、中国との戦争は不可避的に持久戦となり、双方にとって耐え難い消耗戦となることを説得的に説明しなければならなかったのです。しかし、南京陥落後の戦況は圧倒的に日本に有利であり、蒋介石政権の命脈は誰にも風前の灯火に見えました。

 その一方、ソ連に対する防備の強化や英米に対する日満支経済圏の構築という点では、参謀本部も政府と目標を共有しており、そこには対立点はなく、むしろ参謀本部の方がより長期的な観点から総力戦に堪える国防国家構想を持っていました。従って、近衛や広田が蒋介石との和平交渉継続に反対したのは、つまり、日本の伝統的な大陸政策を遂行する上においては参謀本部と意見は同じだが、蒋介石がこれを受け入れる余地はほとんどないから(この判断は当たっていた!)、従って、これに期待をかけるのは無駄であり、早々に交渉を打ち切ったほうがすっきるする、ということだったのです。

 そこで最後の疑問は、ではなぜ、蒋介石政権は容易には倒れず、日中戦争は必然的に持久戦争となるということが近衛や広田には読めなかったのか、ということになります。それは、先に紹介したように、中国人の満州事変以来の日本に対する強靱な抗戦意志を理解することができなかったということ、これに尽きると思います。つまり日本人の大半が、「満州国」を過去の既成事実とし、こうした見方への抵抗を抗日と見なして中国に反省を求め、その保障措置として華北の中央政府からの分離自治、さらには親日政権の樹立を求めた、この倒錯的心理現象の再生産が、日本人の判断を狂わしていたのです。(つづく)

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