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2009年6月

2009年6月29日 (月)

NHKジャパンデビュー「アジアの一等国」―問われているのは戦後の日本人

 NHKジャパンデビューのメインキャプションは次のようになっています。

「150年前世界にデビューした日本は、ひたすら“坂の上”をめざし、第一次大戦後には五大国のひとつになる。日本が明治以来、欧米列強に伍していこうとする時に命運を握った4つのテーマ、「アジア」、「天皇と憲法」、「貿易」、「軍事」に焦点をあて、いったんは世界の“一等国”になった日本がなぜ国際社会の中で孤立し、焼け野に立つことになったのかを、世界史的な視点から検証する。」

 その第一回が「アジアの一等国」だったわけですが、保守系のメディアからバランスを失していると激しい抗議を受けています。私も見ましたが、従来日本人が抱いてきた日本の台湾統治のプラスイメージを帳消しにする内容で、これに衝撃を受けた友人から、当夜意見を求められるということもありました。

 この番組制作の意図は、”親日的ともいわれる台湾に今も残る深い傷”を紹介することにあったようです。そのため、この番組制作に協力した台湾の方々の証言の内否定的部分だけ紹介したり、また、その非人道性を際だたせるためか、台湾原住民パイワン族を「人間動物園」としてロンドン日英博覧会に展示したことを紹介するなど、かなり誤解を招きやすい編集がされていました。

 それは、日本の台湾領有が、台湾人の「漢民族としての伝統や誇り」を奪うものであり、その皇民化政策がいかに差別的で非人道的なものであったかを、印象づけようとしているかに見えました。確かに、日本の台湾統治には、そうしたネガティブな側面もあったでしょう。しかし、よく知られているように成功した部分もあったわけで、いささかバランスを失しているように私には思われました。

 というのは、当時は、植民地は「人類の経済を豊かに思進歩させるもの」(矢内原忠雄)と考えられ、「当時の人道主義的、平和主義的、反戦的な文化人」の多くが、こうした考えを支持」していたからです。新渡戸稲造も植民は「文明の伝播」「地球人化」であると評価していました。つまり、「列強諸国の植民地統治は列強の倫理的使命だと見なされ、先進国としての崇高な歴史的使命」とされていたのです。

 もちろん、現実の植民地統治は、こうした理想主義だけで解決できるものではなく、利害関係や権力闘争が絡み、その初期には台湾人の激しい抗日運動もあり、多くの犠牲者を出したことは事実です。しかし、日本の台湾領有自体は、日清戦争後結ばれた日清講和条約(下関条約)に基づくものであり、これを非合法な侵略と見なすことはできません。

 また、その当時の台湾は土匪が支配する社会であり、ここに法的秩序を確立するためには、反乱を武力で討伐し警察による治安維持に代える必要がありました。その上で、インフラ(土地所有権の確立、鉄道・道路、上下水道、ダム・水力発電・港湾・都市の建設など)を整備し、森林開発や農業改良(米作・サトウキビ栽培)を行い、法律を整備し、教育の普及が図られました。

 また番組では、特に皇民化教育の弊害が指摘されていましたが、この問題は、朝鮮や台湾における教育政策の問題点というより、日本の国内政治(=思想統制)の延長と見るべきだと思います。というのは、日本が日中戦争から大東亜戦争へと突入する中で、独善的・排外的思想が生まれ、それが国内では言論弾圧・思想統制となり、朝鮮や台湾では皇民化政策となったのです。

 というのも、台湾人の公学校就学率は1899年の調査では2.04%だったものが1944年には71.17%、日本語普及率は57%に達しているからです。日本語教育が批判の対象となることもありますが、それまでの台湾の言語は多種多様であり、そこに日本語という共通言語を得たことで、台湾が近代国家に生まれ変われた、と黄文雄氏は評価しています。

 一方、日本人は台湾人を教化するために台湾語をマスターしようと努め、特に警察官や師範学校教師には台湾語学習が必要とされ、多くの語学書や優れた日台辞典、台湾文化志などが編纂出版されました。この外、台湾文化を守るために尽力した学者、文化人、教育者、ジャーナリストも数多くいたということです。(以上『台湾は日本の植民地ではなかった』黄文雄 参照)

 これらのことを総合的に勘案すれば、日本の台湾統治が、台湾の近代化や殖産興業に果たした役割は、正当に評価されて然るべきだと思います。それと同時に、台湾の人びとが、日本の統治下で自治を奪われ、日常生活においてもなにかと差別扱いを受け、悔しい思いをしたという事実もあったわけで、このことも率直に認めるべきだと思います。

 ただ、こうした問題を考える際に忘れてならないのは、特に昭和12年の日中戦争以降大東亜戦争に至る日本の無謀な対外膨張政策によって、日本人のみならず、台湾人や朝鮮人にも多くの犠牲者を出したという事実です。これさえなければ、朝鮮や台湾の独立あるいはアジアの植民地からの解放ということも、もう少し犠牲少なく達成できたかもしれません。歴史のIFということではありますが。

 また、この番組でNHKのインタビューに答えていた台湾のおじいさん達の言葉を聞いていて感じたことですが、私は、彼等の不満は必ずしも戦前の日本に向けられたものではなく、戦後の日本に向けられたものではないかと思いました。(雑誌「正論」7月号「視聴者センターに殺到した抗議二転三転する”仰天”言い訳集」永山英機 にも同様の指摘がなされていました。)

 それは、戦時中は日本国民として日本語を話し、日本語でものを考え、軍歌を歌い、命をかけて日本のために尽くしたのに、戦後私たちは、かって敵国であった蒋介石のの国民党の支配下におかれ、みなしごになってすてられた。中には”日本の奴隷になった”として処刑されたものもいた。この事実を戦後の日本人は忘れているのではないか、ということです。

 ”人を馬鹿にしているんだ日本人は・・・”という、この台湾のおじいさんの言葉は、戦前の日本人に対してというより、こうした悲劇に見舞われなければなければならなかった台湾の人びとに対して、戦後の日本人はどう責任をとろうとしたのか、日本人の信義は一体どうなっているのか、と問いかけているように私には思われました。

 とすれば、NHKも(この時の、このおじいさんのインタビューのテープの切り方がいかにも不自然でしたねェ・・・)、また、この番組が日台間の友好親善関係を傷つけたと抗議している日本人も、こうした彼等の言葉の意味を今一度反芻し考え直してみる必要があるのではないでしょうか。問われているのは過去の日本人ではなく、現在の日本人なのだと。

2009年6月25日 (木)

東国原知事「総裁発言」騙したのはどちら?

 宮崎県知事東国原氏が、自民党の古賀誠選対委員長の次期衆院選出馬要請に対して「自分を自民党総裁候補として選挙を戦うなら」という法外な条件を出したことが話題になっています。氏は、前宮崎県知事安藤忠恕氏が、橋の設計業務の落札(たった690万円!)に「天の声」を出したとして辞職(民主党の小沢氏の「天の声」110億と比べるといかにも少額)したことに伴う知事選挙で、通産官僚出身の持永哲志氏を破って知事になりました。知事選で、はじめて”そのまんま東”の名を聞いた時、私もびっくりしましたが、県民の圧倒的な支持を受けて当選しました。官僚出身の知事に対する不信と、もとお笑い芸人の「異色さ・親しみやすさ」に加えて「しがらみの無さ」がこうした結果を生んだのだと思います。

 しかし、氏は地方自治について、大学(社会人枠入学)で勉強していたらしく、その政権公約であるマニフェストを持ち(当時は公選法上一般配布は出来なかった)、知事就任後それを県の新総合計画に組み込みました。こうした手法は九州では初めてということで、就任3年目の今年1月に実施された「マニフェスト中間検証結果」(早稲田大学マニフェスト研究所(北川正恭・所長)では、総合評価84点という高い評価を得ました。といっても、それがそのまま県政全体の評価を反映していたわけではなくて、最近の世論調査(宮崎日々新聞)では、これからの県政に対する要望は「景気・雇用対策」(45%)、次いで「医療福祉対策」(20.1%)であり、「県のさらなるPR」は僅か6.0%」に過ぎませんでした。(地域医療崩壊の問題はNHK特集でも放映されたくらいひどい!)

 これは、この時の知事の支持率が87.8%であり、その支持理由の42.6%が「メデイアで宮崎をPR」だったことを考慮すると、今後の県政に対する期待は、必ずしも、知事のメディア露出度(「東国ばる」という新語が出来た。その意味は「忙しいのにどこにでも顔を出す」、傑作ですね!)の多寡によって実現されるものではないことがわかります。そもそも知事といえども公務員であって、日々激務に耐えている部下職員のことを思えば、本来なら職務とあまり関係ないテレビ番組に出演することはなるべく控えるのが常識というものです。このあたり、もともと国政に関心があったようで、氏一流の自己PRだとは思いますが・・・。

 そこで、冒頭の話題にもどりますが、氏が、自民党からの出馬の条件として「総裁候補とすること」などといえば、国会議員は多かれ少なかれ大臣ポストを狙っているわけで、まして総裁(=首相)とはなんだ!「ふざけるな!」となるのは必然です。しかし、もし氏が、国政に関するマニフェストを持ち、それが現在各党から出されているものより優れているなら、そうした反感も次第に和らいでいくでしょう。いずれにしても、政治スタイルが官僚主導から内閣主導に移りつつあるわけで、その内閣の主導する政策の骨組みが、いわゆる「骨太方針」であるわけですから、ここにどのような切り込みが出来るのか、今後の氏の奮闘に期待したいと思います。

 見方によっては、今回の氏の言動は、日本における総裁(リーダー)の選出方法について、従来の派閥談合的なものからの脱却を訴えているとも受け取れます。実際、小泉首相の選出にはそのような力が働いたわけで、安倍、福田、麻生首相の選出ではなんとなくもとに戻ったような感じを受けました。それが、安倍首相の”ひ弱さ”、福田首相の”無責任”、麻生首相の”定見の無さ”につながっていると思います。鳩山前総務大臣の軽薄なパフォーマンスもこうした状況の中でこそ演じられた、つまり、アメリカの大統領選に見るような激しい言論戦やメディア戦略を駆使した総裁選出方法こそ今日求められているような気がします。(そういう意味では民主党も旧態依然です)

 だが、こうした評価も、東国原氏が提出する国政に関するマニフェストがいかなるものであるかにかかっている訳で、今のところ「地方分権」という政策イシューしか聞こえてきません。しかし、国政はそれだけでは済まないし、外交・防衛政策をはじめ、経済政策、社会・福祉政策、教育政策他、当面する郵政改革や税制改革など困難な課題が山積しています。こうした問題に対する氏のビジョン構築力・論争力が試されると思います。しかし、その顔出しが「傲岸・不遜・無礼」の印象を免れ難かっただけに、おそらく与野党を問わぬ国会議員の反撃・冷笑を覚悟すべきでしょう。はたしてそれを突破するだけの旗を氏は掲げることができるか。

 もし、へなへなと迎合的な態度をとれば、今後は芸能界でも使ってもらえなくなる恐れがあります。このあたりは、大阪の橋本知事が「あそこまで捨て身で・・・」と評価しているように、まさに「捨て身」という外ありません。ところで、氏は一体、何に対して「捨て身」の挑戦をしているのでしょうか。鳩山氏の行動も不可解でしたが、東国原氏の場合はもっと不可解です。確かに自民党は”崖っぷち”ですが、では、なぜ氏が、それに対して「捨て身」の救援に駆けつける必要があるのか?古川氏の「大政奉還」ではありませんが、「転身」に箔を付けようとしただけなのか、といぶかってしまいます。

 だが、この芝居一体誰が仕掛けたか、その結果、どのような新しい局面が生まれたかを冷静に考えてみると、まず、一、東国原氏が自民党支持者であったことが明らかになった。二、国会議員の大半の反感と冷笑を買った。三、このため、氏が民主党に鞍替えすることもかなり困難になった。四、氏の庶民「神話」が崩壊した。このことによって次回選挙における不安定要因の一つが除去された。五、もちろん、「総裁候補とする」ことが自民党に受け入れられるわけもなく、では氏にどういう対抗手段が残されているか・・・とこう見てくると、以上、一から四の手順でそのパワーがそがれ”裸の王様”同然となるという、氏にとって悪夢のようなシナリオが見えてきます。

 さてこの勝負、どちらに軍配が上がるでしょうか。新党結成という話も出ていますし、いずれにしろ、”かんぽの宿”騒動が生んだ民主党有利の政局に変化が生じたことは否めませんね。(6/26追記)

*エントリーを当初の「・・・騙したのはどちら?」に戻しました。(7/5) 

2009年6月18日 (木)

古川氏の「大政奉還」は何かの間違いでは?

 私は早く日本も政権交代できる国になって欲しいと思っています。しかし、そのためには言論戦を通したリーダー選びができるようにならないといけません。そして、その言論戦が熾烈であればあるほど、論敵同士にウイットやユーモアが交わせるようになる・・・そうなって欲しいと思っています。

 言論戦における罵詈讒謗は、本当の狙いは別の所にあるか、真剣に物事を考えていない証拠だと思います。こうした言葉による秩序作りという点では、市場原理主義とかなんとかいって多くの論者がアメリカを批判していますが、アメリカのこの点における統治能力はたいしたものです。

 ところで、自民党の古川禎久衆院議員は、首相に「大政奉還を決断すべきだ」と迫りました。なんでも、古川氏は日本郵政社長人事をめぐって辞任した鳩山邦夫前総務相の元秘書だったそうですが、私が不思議に堪えないのは、この「大政奉還」という言葉の使い方が、比喩として、あまりにもばかげているということです。

 また、そのことを指摘する報道が全くないのにも、ビックリします。要するにマスコミは政局だけに関心があるということなのでしょう。(論争における基本知識やルールには関心が及ばないということ)

 そもそも「大政奉還」というのは、幕府が鎌倉幕府以来(「建武の中興」の一時期を除いて)日本の政治権力を掌握してきたが、明治維新期に、その統治権力を、天皇を中心とする新たな中央集権的政府にお返しした、というものです。(中央集権的政府といえるほどのものであったかはどうかは疑問ですが)

 これは、江戸幕府の統治システム――戦国時代の大名領国制をそのまま凍結し、それに手枷足枷はめることで、中央政府(=幕府)への反乱を防止するという形で全国統治した――が、近代植民地主義の脅威に対応できなくなったために、新たに天皇を主権者とする強力な中央集権国家を作ってこれに対抗しようとした、いわゆる「尊皇攘夷」運動の結果生まれたものです。

 とすると、今日の政局において「大政奉還」という言葉を使うなら,現憲法下の議会制民主主義をやめて、新たに、天皇を主権者とする一元的国家を作り、そこに政治権力を移すことを提案したことになります。しかし、古川議員はそんなことをいったわけではなくて、単に、自民党が民主党に政権を譲る、ということをいったに過ぎないのでしょうが、でも、それなら、「政権交代」です。

 ということは、古川議員は「大政奉還」という言葉を「政権交代」と同じ意味に理解していたわけで、明治維新とは何であったかを全く理解していなかったことになります。国会議員が政治討論で、こんな常識を疑うような発言をしたら、先輩議員は”ガツン”とやるべきだと思うのですが、麻生総理は、”若い人は緊張感をもってやってる云々”などと優しく応答していましたね。頭をひねっていましたが・・・。

 私は,国会議員には峻厳なレフリーをつけて、一対一丁々発止の討論を義務づけるべきだと思いますね。言葉による統治能力を高めていくためには、まず,政治家にそれを実践をしてもらうことが先ですから。

 山本七平は、あのばかげた戦争が終わって捕虜収容所の中にいたとき、戦友達と次のような会話を交わしたといっています。

 こんなばかげた戦争をしたのは、日本人のものの考え方に何か欠陥があったからではないか。そこで、次の三点が指摘されたというのです。

 一つ、日本人は「本当のことを口にしない」、なぜか、個人の言論より組織の名誉や利害が優先するから。このため事実に基づいた作戦計画ができなかった。

 二つ、是非論をやるとき、それが可能か不可能かを区別して論じることができない。そのため不可能な事を是非論(=精神論)で強行しようとした。

 三つ、事実論とその人の思想信条は関係ない、ということがわからない。だから議論がいつも罵詈讒謗になる。しまいには暴力支配に陥った。(捕虜収容所がことごとくそうなった)

 こうした日本人の思考上の欠陥が災いして、一方でソビエトにおびえながら、他方で中国と長期持久戦を戦い、さらに、国力20倍、石油の大半、貿易4割近くを依存していたアメリカに対して、必勝の信念で戦いを挑む,という信じられないことをやったのです。

 つまり、この事実こそ,先の戦争の失敗から我々日本人が学ばなければならない最重要ポイントではないか,というのです。だが、戦後はそれを統帥権という制度の問題にしたり、一部の軍国主義者の問題にしたり、要するに他人の問題にして済まそうとしました。

 しかし、それなら現憲法には統帥権の規定はありませんし、また、一部軍国主義者の問題も,憲法上シビリアンコントロールは徹底していますから問題解決、ということになります。

 だが、本当は、統帥権という制度だけの問題ではなかったのです。というのは,当時「編成大権」が政府にあるということは憲法解釈上定説化していて、実際、ロンドン軍縮会議まではそういう運用が為されたのです。従って問題は、それを自己絶対化の方便として利用するものが現れた時、それを抑止するだけの力を、当時の政党政治家が持たなかった、ということなのです。

 さらに、国民は、当時の普通選挙実施後の政党政治の金権腐敗に辟易し(今もそうですね)、彼等より”純粋”に見えた青年将校たち(一部軍国主義者を訂正6/23以下同じ)による,積極的大陸政策に期待を寄せたのです。そして、その行動の事実関係を見極めることなく彼等を熱狂的に支持したのです。(五・一五事件のような、制服を着た軍人による白昼堂々のテロ行為にも100万通にも及ぶ減刑嘆願書が寄せられた)

 さらに、もう一つの真実、これら青年将校たちは、統帥権の絶対を口にしながら、実際は,上官である関東軍司令官の統帥権はおろか、天皇の統帥大権さえも無視し、謀略による満洲占領を行い、ここを革命基地として国内政治を軍事国家に改変しようとしたのです。

 では、こうした彼等のデーモン・パワーをドライブしたものは何だったかというと、それは、大正デモクラシー下の自由主義と政党政治に対する怨念ともいうべき反発でした。

 では、なぜ彼等は、これほど自由主義や政党政治を目の敵にしたか。それは、エログロナンセンス的風潮や政党政治の金権腐敗、金融恐慌に端を発する経済不況や東北地方の冷害などということもさることながら、とりわけ,大正デモクラシー下の軍人蔑視の社会的風潮や、ワシントン会議以降の軍縮に対する、強烈な被害者意識がその根底にあったのです。

 重ねて言いますが、統帥権なんて、当時の青年将校たちにとっては屁でもなかった。それは、要するに外部に対して自己絶対化を図るための方便に過ぎなかった。それは内部においては「私物命令」の横行として現れた。つまり,問題はこの自己絶対化を許した思想そのものにあったのです。

 日本人が、あの無謀な戦争から学ぶべきものがあるとすれば、このことではないのか、山本七平はそう指摘したのです。では、そうした「自己絶対化を許さない思想とは何か。人は自分が正しいと思うから発言する。自分だけでなく誰もがそうする。また、そうする権利は現憲法で保障されている。では、どう決着をつけるのか。

 いうまでもなく、それは、言葉による決着しかありません。これは一種の戦い(=討論)でもあります。でも、これを有効ならしめるためには、スポーツと同じように、「ルール」や「手続き」を決める必要があります。この討論上の「ルール」が、実は、先に指摘した三点なのです。

 後者の「手続き」、これは言うまでもなく,選挙をはじめとする民主主義的諸制度のことですが、こちらは比較的わかりやすい。だが、前者の「ルール」は、後者をうまく機能させるための前提条件でありながら、見えにくい。従って、私たちは、こうした論争上のルールを顕在化させる必要がある。それ故に、政治家には、レフリーをつけた一対一の公開討論を義務づける必要があるのです。

 今回の鳩山氏の発言を繞る議論の混乱―与謝野財務大臣は、政府にとってはたいした問題ではないといったそうですが―確かに、この問題は,事実関係(西川氏が国民の財産をかすめ取ろうとしたかどうか、という事実認定)さえはっきりすれば,片のつく問題です。

 そうした事実論を冷静にやらないままに、鳩山氏のように、自分の主張を正義と言い立てると、西川氏だけでなく、鳩山氏の意見に反対する人は皆不正義になります。これでは相手を犯罪者扱いすることになりますから、まともな議論はできなくなります。言論の自由も内部から崩壊します。

 この言論の自由・思想信条の自由という、現行憲法上最重要な権利を尊重しない、自分の考えに合わない相手を不正義、犯罪者と決めつける論法がいかに危険であるか、こうした、事実論と価値論を区別できない論法が、かって日本を悲劇に陥れた元凶だった、このことを肝に銘じるべきだと私も思います。

 以上、私が鳩山氏を批判する所以です。厳正な事実論に期待しましょう。

6/23文章の校正をしました。

2009年6月16日 (火)

鳩山氏の”正義100連発”の怖さについて

 以下の文章は、竹中平蔵氏の「ポリシー・ウオッチ」のコメント欄に投稿したものです。

  私のこの問題に対する疑問は、鳩山前総務大臣が、今回の日本郵政の宿泊保養施設「かんぽの宿」の一括売却問題で、”おかしなやり方で国民の財産がかすめ取られそうになった”と公言したことについて、私の常識では、人を泥棒扱いした随分ひどい発言だと思うのですが、それに対する政治家の反論がニュース報道であまり見られないのはなぜか、ということです。

  これでは、国民は判断に迷います。あるいは、鳩山氏の指摘する様な正義?にもとる行為が、この売買にからんで為されていたのか、との臆断を国民に抱かせてしまいます。こうした問題については、公開の場での徹底したガチンコ討論をやって欲しいですね。民主社会で大切なことは、国民の前に争点を明らかにすることです。水戸黄門ばりの勧善懲悪劇など政治の世界で見たくはありません。ぜひ”クローズアップ現代”などの時間帯をそのように使っていただきたい。高い金取って、出来レースばっかり見せないで。

 私は、宮崎に住んでいますが、例のシーガイアの話ですが、県や市が共同出資したフェニックスリゾート株式会社は、総投資額約2千億プラス国際観光(フェニックスカントリークラブを含む、黒字企業)の施設を、アメリカの投資会社リップルウッド・ホールディング社に、投資額の1割にも満たない162億円で経営権を売却しました。

  文字通り県民の共有財産であったはずの施設は、こうして外資の手に渡ったわけですが、それでも、宮崎県は、観光立県を目指すためには何としてもシーガイア施設を存続させなければならないということで、シーガイア一連の施設を現状のままの観光施設として存続させると言う条件で、この売却に同意したのです。

 さて、「かんぽの宿」全国72施設の土地・建物代約2400億円を、オリックスへ一括譲渡額約109億円で売却するという話、その入札の前提条件は、従業員約3240人の雇用継続とかんぽの宿の一括譲渡というもの。また、現在、かんぽの宿は年間50億円規模の赤字をだしているとのこと、これらを総合的に勘案した時、この売却条件は、鳩山前総務省が言うように”国民の財産をかすめとる”というほどの悪辣なものだったか。

  日本郵政は、収益力を考えると価格は適正、といっていましたが、その後この売却問題は撤回されたことからすると、鳩山氏の論が正しかったような印象を受けますが、ぜひ、このあたりの議論も今後しっかりやってもらいたいと思います。

 それにしても、以上の様な議論は措くとして、鳩山氏の”正義100連発”ウルトラマンばりのパフォーマンスの奇怪さには驚くほかありません。こうしたパフォーマンスを直後の世論調査では70%を超える人が支持しているとのことですが、はたしてどのような判断根拠に基づくものか。私には、”私は直球しか投げられない人間だ”などという言葉はプロのものとは思えませんが。

  それはおそらく”私は純粋だ”という意味で、そういえば国民の支持が集まると期待しているのでしょうが、5.15事件じゃありませんが恐ろしいと思いました。さらに驚いたことには、かっての盟友の私信の暴露に及びましたが、いかに政治の世界の話だとはといっても、私は子どもには見せたくないと思いました。政治家の皆さん方、これあたりまえの世界ですか?

 以上の問題について関連サイトを探していたら、山本七平の「正義論」を引用したサイトが見つかりましたので、紹介しておきます。また、同郷の県会議員中野廣明氏のこの問題に関する「私の主張」も適切な意見だと思いましたので、併せて紹介しておきます。戦前の日本における政党政治をつぶした責任は、まさに政党政治家(鳩山一郎氏もその一人)が負うべきで(軍人は政治のプロでない)、そうした反省を踏まえるとき、この平和な時代においてさえ・・・と慨嘆せずにはおれません。なお私HP「山本七平学のすすめ」「気魄」という名の演技、もご覧下さい。

2009年6月13日 (土)

ジャパンデビュー「通商国家の挫折」、森恪の評価への疑問

 6月7日放送NHKスペシャル「ジャパンデビュー」―通商国家の挫折―を見ました。その中で、三井物産の社員であった森恪のことが二度ほど出てきました。一つは、森が日露戦争下、ロシアのバルチック艦隊のバシー海峡通過後の行動を追跡し、これが東支那海から対馬海峡に向かうことを通報し、連合艦隊の日本海海戦勝利に貢献したということ、

 もう一つは、1911年に辛亥革命が起こり、孫文が中華民国政府の臨時大統領となったとき、三井物産は革命勢力支援のための借款を次々と成立させた。その代表的なものが、武漢の漢冶萍公司を日中合弁とし、その所有する大冶鉄山を抵当として中華民国政府に500万円貸し付けた、この時、現地で孫文との直接交渉に当たったのが森恪だったという話です。

 番組タイトルが「通商国家の挫折」ですから、当然、日本の通商国家としての挫折以前の成長期にも触れることになります。そうなれば、その成長期に活躍した三井物産社員時代の森恪を紹介する事になります。しかし、この森恪は、確かに、日本の通商国家としての成長に一役買ったことは間違いありませんが、一方、その自爆へのトリガーを引いた人物でもあったわけで、このことに触れないと、なぜ日本が通商国家としての国作りに失敗したか、その真因がわからなくなってしまうと思いました。

 この番組のネットでのキャプションは次のようになっています。

 「 太平洋戦争後、GHQが徹底的に解体した企業があった。明治から大正、昭和にかけ国家と一体となり経済の屋台骨を支えた三井物産である。
 150年前、貧しい島国として世界にデビューした日本は、貿易によって富国強兵の「富国」を実現する戦略を立てる。明治政府が貿易立国の担い手としたのは元徳川幕府騎兵隊長の益田孝が作った三井物産だった。世界に残された最後で最大の市場、中国に打って出た三井物産は、日清日露戦争の時代は綿製品の加工貿易で、重工業の時代には資源の獲得でイギリスやアメリカと熾烈な戦いを繰り広げた。

 世界恐慌後の1933年、日本の綿製品輸出は世界一を達成し、経済大国へとはずみをつけた。しかしまさにその時、世界の貿易は自由貿易から保護貿易へと枠組みが変わってしまう。石油という戦略物資をめぐり英米の国際資本と激突した結果、富の源であった世界市場から閉め出されるに至る。

 貿易を通し世界経済の激流のなかで日本の興亡をみつめ、未来への生存条件を探る。」

 つまり、通商国家としての日本の宿命――世界恐慌、ブロック経済、大東亜共栄圏、日米戦争――を振り返るとともに、今後の、日本の通商国家としての成長、その「イデオロギーにこだわらない」国益追求のあり様を問うことが、この番組の主題だったと思います。

 しかし、この日本の通商国家としての有り様に、武力を用いた満蒙占領や支那大陸からの米国勢力の駆逐等を主張して、軍を政治に引き込み、それを国家主義的イデオロギーに染め上げたその張本人が、森恪であったことを忘れてはなりません。そうであれば、当然、彼の、中国人のナショナリズムを一顧だにしない一人よがりの冒険主義が、日本の通商国家としての宿命を悲劇へと変えていった、この事実について、一言あって然るべきと思いました。

 森恪が、田中義一内閣で外務次官を務め、東方会議という愚にもつかぬ会議を主宰し、日本の大陸政策に対する世界の猜疑心を植え付け、軍の満蒙強硬策を「対米戦を辞さず」の決意にまで高揚させ、三度にわたる山東出兵、とりわけ第二次山東出兵が済南事件という暴虐を結果し、それが蒋介石の中国統一を妨害したとして、中国官民の反日意識をトラウマ化させた。

 さらに、山東出兵後、張作霖の失脚をねらった関東軍の思惑がはずれて張作霖爆殺事件となり、その真因の軍組織を上げてのもみ消し、それが日本国の国際信用を地に落とし、次いで、ロンドン条約締結時の統帥権干犯事件の作為、そしてついに満州事変の勃発、さらにその締めくくりとしての五・一五事件――この時森恪は、犬養内閣の書記官長でしたが、犬養首相の満州事変収拾策(中国の宗主権を認めた形で処理する)や政党政治の堅持、不穏な動きを見せる青年将校の免官等の方針に反対して、対中交渉電報を握りつぶすなど妨害活動に出ていました。また、犬養首相暗事件当夜、首相官邸に駆けつけた新聞記者(木舎幾三郎)の手を堅く握ってニコッと笑った(会心の笑い)といいます。

 この男、昭和7年12月12日に肺炎で死にますが、昭和2年に田中内閣の外務次官となって以降わずか5年間の間に、上記のような手順で、通商国家日本を国粋主義イデオロギー国家へと変質させ、その破滅へのレールを敷いたのです。この事実こそ、当番組では指摘すべきではなかったか、私はそう思いました。

*以下6/14追加

 今、私の手元には『森恪』(山浦貫一著)があります。昭和16年7月25日発行ですから、ちょうど日本が南部仏印に進駐し、アメリカとの対立が先鋭化した時期にあたります。つまりアメリカ何するものぞ、と意気軒昂な頃に出版された本ですから、以上紹介したような森恪の働きがいかに先駆的なものであったかを宣伝称揚しています。当時の日本の大陸政策および国内政治をめぐる世間一般の空気が、いかなるものであったかがよくわかりますので、次にその一節を紹介します。

 「ロンドン條約を繞る森の活動は、その一面では日本の國家主義運動発展の基礎となった。
 日本の國家主義運動、普通には、一概に、右翼運動とよばれるところの運動は、思想的には、欧洲戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開して行った潮流に對する反動として、また、外交政策としては華盛頓條約以来の屈辱に對する反抗として、更に、國内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。

 それが大陸政策の形で、現実に政治の上に姿を現はし初めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、國内の政治運動として勢力を擡(もた)げはじめたのは倫敦條約の問題からである。

 森によって、或ひは森の政治的活動を機縁にして、政治に現実の足取りを取り初めた日本の大陸政策と國家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相剋しながら、年一年と発展して行った。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいはれるところの政治理念は、森恪に発しているといっても敢へて過言ではあるまい。」(上掲書p673)

 この一〇六五ページに及ぶ浩瀚な『森恪』伝記の序文は、なんと近衛文麿が書いていて、その出版記念会の発起人には鳩山一郎も名を連ねています。

 ジャパンデビュー第二回「天皇と憲法」では、国内政治のファッショ化を招いたものとして、政党政治家(犬養毅など)の責任が指摘されていますが、実は鳩山一郎もその一人であり、そして、その黒幕的存在が森恪であったことはいうまでもありません。

*6/14 文章の校正を行いました。

2009年6月10日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか2

 前回は、日本の大陸政策が日清戦争以降山東出兵までどのように変遷したかを一通り見てみました。今回は、もう少し掘り下げて問題点を整理しておきたいと思います。(重複する部分もありますが、ご容赦下さい。)

 日清戦争の段階では、日本の安全保障上死活的な位置を占める朝鮮の重要性が認識され、朝鮮は、日清戦争後中国の宗主権を離れて独立することになりました。いうまでもなく日本の勢力下におかれたわけですが、日本が三国干渉に屈したことにより、朝鮮では国王高宗の妃である閔妃一族の勢力が復活し、ロシアの支援を受けるようになりました。これが公使三浦梧郎(陸軍中将)による、大院君のクーデターに見せかけた閔妃殺害事件(1895.10)を惹起し、朝鮮全土に抗日義兵運動が起こることになりました。高宗はロシア公使館に移され親ロ内閣を作りました。(1896.2)

 他方、そのわずか3年前、日本に対して「遼東半島を日本が所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、朝鮮国の独立を有名無実のものとなす」として、遼東半島を中国に返還するよう迫ったロシアとドイツは、中国の弱みにつけ込み、前者は遼東半島の旅順・大連の25年間租借権と南満州鉄道の敷設権を、後者は、膠州湾の99年間の租借権と膠済鉄道敷設権、鉱産物採取権を獲得しました。これに対して日本は両国に正式抗議一つできずに見守るほかありませんでした。

 1898年には中国に義和団事件が発生し、清国政府はこれを利用する政策をとり6月21日列強に対して宣戦を布告し、北京の外国公使館区域を封鎖しました。列強8カ国は連合軍(七万)を組織して北京を制圧しました。この時の日本軍(二万二千)の規律ある行動は列国の賞賛を博しました。1901年には講和が成立し、北京には各国軍隊が駐留権を持つ特別区が設定されました。一方ロシアは、建設中の東清鉄道保護を名目に八万の大軍を満州に送ってこれを占領し、第一次撤兵後そのまま居座りました。

 日本国内では、このようにロシアが満洲に居座り、日本の朝鮮支配は一向に進展せず絶望視される中で、ロシアとの戦争が議論されるようになりました。こうした世論を背景に日本政府は日露交渉を開始し、1903年8月「満韓交換論」をロシアに提示しました。しかしロシアはこれを無視し、韓国領土の軍事的利用の禁止、北緯三九度以北の中立地帯化を日本に要求しました。日本は、財政的・軍事的限界からロシアとの短期局地戦を決意する一方、イギリス、アメリカの調停による早期の講和に期待しました。

 この段階での日本の大陸政策の狙いは、朝鮮を日本の植民地化することと引換に満洲を列国に解放するというものでした。幸い日本は奉天会戦と日本海海戦(1905.5)に勝利し、ロシアが第一次ロシア革命の渦中にあるこの機を捉えて、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼しました。この時、日本による韓国の保護国化の承認と引きかえに、アメリカに対してはフィリピン統治を(「桂・タフト協定」1905.7)、イギリスに対してはインド国境地方における特殊権益を承認しました。

 日露交渉は、ロシアの強気もあって難航しましたが、1905年9月5日講和条約が調印されました。日本は、韓国における日本の優位、ロシア軍の満洲からの撤退、長春から旅順に至る鉄道と大連・旅順の租借権の譲渡、サハリン南部の割譲、沿海州沿岸の漁業権を得ました。日本国内ではこうした講和条件を不満とする暴動が発生しましたが、日本は政治と軍事、外交と統帥が一体となってこれを抑えました。当時の陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と武士的規範意識を持っていました。

 一方、韓国人にとって日本の日露戦争における勝利は、その植民地化を意味していました。「第一次日韓協約」(1904.8)によって韓国の財政権・外交権は実質的に日本の掌握するところとなり、「第二次日韓協約」(1905.11)で韓国の外交権は日本に接収されました。また、ソウルには日本政府を代表する統監府が置かれ、統監は天皇に直属し、韓国において日本官憲が行う政務の監督、韓国守備軍司令官への兵力使用の命令など、強大な権限を有することとなりました。初代統監には伊藤博文が就任しました。

 これに対して韓国国内では、こうした日本による韓国の植民地化は、韓国の独立を約した先行条約や宣言に対する裏切りであると受けとられ、救国と独立をめざす武装義兵闘争が繰り広げられました。1908年には最高潮に達し、この年の交戦回数は1451回に上り、7万人近くがこれに参加し、1万1千余名が死亡したとされます。また、高宗は「日韓協定」を容認せず、1907年6月オランダハーグで開かれた第二回平和会議に密使を送りましたが訴えは斥けられました。

 こうした高宗の密使事件に激怒した伊藤統監は、高宗を譲位させ大韓帝国最後の皇帝となる純宗を即位させ、「第三次日韓条約」(1907.8.27)により韓国の内政権も掌握しました。しかし、伊藤博文は、韓国統治の実権を掌握しながらも、韓国官僚に日本人を送り込むことはせず、その傀儡化を進めつつ合邦論は避けていました。それは、韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて「日韓提携」するのが得策であり、「合邦はかえって厄介を増すばかり」と判断していたからです。

 しかし、韓国の義兵闘争は収まらず、日本人の間からも伊藤の保護国経営を批判する声が上がるようになり、こうして、伊藤は1909年6月「合邦」に同意するとともに統監を辞任しました。伊藤は辞任後まもなく朝鮮人安重根にハルピンで射殺されました。(10.26)新たに統監となった寺内正毅は、李完用韓国首相に日韓併合条約の受諾を求め、1910年8月22日条約発効、ここに李朝五〇〇年の歴史は閉じることとなりました。併合直後の日本の新聞雑誌は一致してこの韓国併合を支持しました。

 こうして、日本の朝鮮支配は「韓国併合」という形で完成を見たのですが、日露戦争の結果、ロシアより譲渡された旅順・大連の租借及び南満州鉄道の租借期間は二五年であり、1923年にはその期限が切れることが問題となっていました。そんな折、1914年8月欧州において「第一次世界大戦」が勃発しました。日本はこれを天佑とし、日英同盟に基づく要請を受ける形で、1914年8月23日ドイツに宣戦を布告、青島ばかりでなく済南や膠州鉄道も占領し、11月7日ドイツは降伏しました。

 中国政府(袁世凱)は1915年1月7日、日本に交戦区域の廃止と日本軍の撤退を要求しました。しかし、日本はこれを拒否した上袁世凱大統領に対して「二十一ヵ条要求」(1915.1.18)を突きつけました。この要求は五項からなり、第五号は単なる「希望条項」であり、その主眼は、第二号の、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長(さらに九十九年)、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利、鉱山採掘権の承認にありました。

 しかし、中国は、第五号の要求項目が「希望条項」とはいえ中国を属国視するものであるとして強く反発し、中国国民は憤激し、日本を「仇敵」視するようになりました。しかし、日本政府は第五号を保留した上で最後通牒を発し、1915年5月9日中国にこれを受諾させました。こうした日本のやり方に不信感をつのらせたアメリカは、中国の「領土保全・門戸開放等」を求める通告を発しました。しかし、10917年11月には、「石井・ランシング協定」により、日本に「領土相近接する国家間の特殊関係」を認めました。

 1918年11月11日、ドイツは敗れて休戦条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。1919年1月18日からパリのベルサイユ宮殿で講和会議が開催され、ドイツに極めて過酷な内容の平和条約が調印され、また、国際紛争の調停機関として国際連盟が設立されました。一方、日本が「二十一ヵ条」で要求した山東省のドイツ利権は、アメリカの妥協によって日本に譲渡されました。この頃日本は、大戦景気もあって経済を飛躍的に躍進させ、軍事大国としての地位を確立するようになっていました。

 しかし、この間1917年3月にロシア第二次革命が起こり、11月ソビエト政権が成立したことにより、1907年から1916年7月まで四回にわたって、満州における日露の勢力範囲(日本は南満州)や中国における利益範囲を約していた日露協定が廃棄されました。また、ロシア革命の影響や、パリ講和会議においてウイルソン大統領によって提唱された民族自決主義の考え方が広まるにつれ、朝鮮においては民族独立運動、中国においては反帝国主義・反封建主義運動が組織されるようになりました。

 ベルサイユ講和会議から二年後の1921年11月、アメリカの主導でワシントン会議が開かれました。その結果、海軍軍縮条約が成立し、主力艦の米英日比率(トン数)を5:5:3としました。また、日本はこの条約に基づいて、廃艦、空母への改造、建艦中止をするとともに、将兵7,500名、職工14,000名を整理しました。また、陸軍においても1922年の山梨軍縮で兵員約6万人と馬匹約13,000を削減、続いて、1925年の宇垣軍縮で四個師団を削減し装備の近代化を図りました。

 また、安全保障面では日英同盟を解消し、その代わり四カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約を締結し、太平洋地域に領有する島嶼に関する四カ国の相互の権利尊重、紛争発生の場合の協議について規定しました。また、九カ国条約(上記五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加える)によって、中国に進出する列国間の原則(中国の独立・領土保全、門戸開放・機会均等等)を確立しました。これにともなって、日本の大陸における特殊利益を認めた石井=ランシング協定は廃棄されました。

*以上『あの戦争は一体何であったのか』竹内久夫を参照しました。

 懸案の二十一ヵ条問題については、支那はこの会議を利用して同条約を廃棄しようとしました。しかし、幣原は、日本は南満州において独占権(借款や、政治・財政・軍事・警察等への顧問傭聘に関する優先権)を振り回す意志のないことを表明した上で、二十一ヵ条要求の中で保留となっていた第五項を撤回しました。こうして、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利や鉱山採掘権が正式に認められました。

 さらに、日本は中国との直接交渉によって、膠州湾租借地を中国に還付し、膠州鉄道も中国が十五年年賦で国債で引き取ることを認め、鉱山は日中合弁としました。こうして日本軍は青島から撤退しましたが、商業上の利権はそのまま確保され、山東は満洲に次ぐ日本の勢力範囲となりました。しかし、これによって日本の日清・日露戦争以来の大陸政策、軍事力増強政策に歯止めがかかり、「ワシントン体制」のもとにおける国際協調、中国の内政不干渉政策が選択されることになったのです。

 しかし、その一方で、こうした政府の軍縮政策や国際協調路線に強い不満を抱くグループが軍内に形成されつつありました。1921年(大正10年)秋、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三陸軍中佐が会合し、長州閥の打破と国家総動員体制の確立のため結束することを約しました。1927(2を訂正)年には陸士十五期から十八期までの佐官級将校の横断的組織として、二葉会が結成され、ここに陸軍による国家改革運動がスタートすることになりました。

 この二葉会とともに、昭和3年になると陸軍省軍事課の職員を中心に、第二の集団が結成されるようになります。彼らは二十期から二十五期までの陸軍の佐官級実力者たちで、無名会あるいは木曜会と称していましたが、昭和4年4月頃、先の二葉会と合流する形で一夕会が形成されました。こうして十五期から二十五期までの陸軍佐官級実力の結合が成立し、藩閥解消・人事刷新、軍政改革・総動員体制の確立による、満蒙問題の根本解決が図られるようになりました。

 ところで、彼らには”軍縮を挟んで十年の臥薪嘗胆”という言葉がありました。先に述べた軍縮の時代、大正末期から昭和の満州事変までは、軍人に対する世間の目は冷たく、当時の軍人は税金泥棒扱いされていました。しかし、彼らは、こうした「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんの時である。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで一国の支配を誓」っていたのです。(『昭和の軍閥』p98)

 この軍縮に象徴される大正末期から昭和初期の時代は、第一次大戦後の慢性的不況に関東大震災やシベリア出兵による費用が重なり、不況のどん底にありました。こうした中で、陸海軍の青年将校たちは、大正デモクラシー下の軍縮政策や、政党政治にともなう利権体質及びその腐敗構造に対して、強烈な反感と憎悪を抱いていました。また、ロシア革命の影響を受けて国内の左右の反体制運動も激化しつつあり、一方、中国においては、反日運動が反帝・反植民地主義運動に結びつく兆候を見せていました。

 こうした困難な状況の中で、日本外交の舵を取ったのが幣原喜重郎でした。彼はワシントン会議の時は駐米大使でしたが、日本外交団の全権を務めており、四カ国条約や九カ国条約の締結、さらに二十一ヵ条要求問題とその後始末である山東問題の処理を、上述したような形で行いました。〈軍縮問題は加藤(友)全権が担当〉その後1925年6月加藤高明護憲三派内閣の外務大臣になり、国際連盟規約とワシントン条約に盛られたの精神(民族自決、国際協調)の遵守を基調とするいわゆる「幣原外交」を押し進めました。

 幣原が外相に就任したことは米国において特に好評で、ニューヨークタイムスは「その主義というのは、現代のような列国間の相互信頼の時代には協調と親善とが、傲慢と暴力よりも永遠の平和を増進するという確信から発したものである」と激賞しました。また、従来北支における排日派の宣伝機関紙として有名だった「北京益世報」も、従来の排日的筆鋒を収めて日華新提携論を高唱し、旅大の返還要求などは別に協定を締結し相当期間延長すべきである、とする具体的提案を行いました。(『幣原喜重郎』幣原平和財団発行p261)

 こうして幣原は、加藤内閣(1924.6~1926.1)第一次若槻内閣(1926.1~1927.4)において外務大臣を務める間、対支不干渉政策を基調として、中国関税自主権の確認、支那治外法権撤廃への努力、支那の通商条約改定要求への応諾等中国との関係改善に努めました。しかし、支那における軍閥間の闘争は止むことなく、一方、支那の革命運動は急進して、蒋介石の北伐は広東より開始せられ、段祺瑞政府は倒れ、北京は無政府状態となりました。この頃から、幣原外交を批判する声が上がるようになりました。

 特に問題となったのが、1927年3月24日、北伐途上の革命軍が引き起こした南京事件への対応です。この時、日本領事館も革命軍兵士による掠奪・暴行を受けましたが、領事館に派遣された陸戦隊員は、尼港事件の記憶が生々しい時期でもあり、居留民の懇願を容れて無抵抗を貫きました。この時、揚子江上にいた日本軍艦も、南京に居住する多数の日本人の虐殺を招く恐れがあるとして砲撃を控えました(幸い死者は出なかった)。また、幣原は事件後イギリスの求めた共同出兵にも応じませんでした。

 しかし、この事件が国内においてセンセーショナルに報道され、その後(3.29)、領事館に派遣されていた陸戦隊員が、その任務を全うできなかったとして自決(未遂)する事件が起きました。ここにおいて世論は激昂し、日本人の蒙る屈辱はいずれも幣原外交の結果である、として政府を激しく攻撃し、反対党は、政府の無抵抗政策を「弱腰外交」「軟弱外交」と排撃し、居留民は現地において保護すべし、必要ならば出兵も断行すべし、居留民の引き揚げはわが威信の喪失であると主張するようになりました。

 かくして、民政党内閣は倒れ、政友会内閣が出現したことで、従来の国際協調を基調とする幣原外交は、田中内閣の積極的外交に取って代わられました。この時、田中首相は外相を兼任し外務政務次官に森恪を任命しました。(1927.4)当時、森恪は政友会の闘士として活躍しており、対支政策については奔放な積極意見の持ち主で、軍の極端分子と連携して満洲に対する強硬論を煽動していました。彼は、そうした対支強硬策を政府公認の政策に高めようとして「東方会議」(1927.6.27~7.7)を開催しました。

 しかし、こうした森の対支強攻策と田中首相の満州問題解決策にはかなりのズレがありました。田中首相は、張作霖が日本の援助によって、東三省だけで事実上独立する事を希望し、張作霖が支那中央部を離れて、日本との間に特殊関係を設定することで、日本の希望する満州問題の解決を図ろうとしていました。そのため北伐中の蒋介石とも連絡し、張作霖を東三省に帰還させるよう働きかける事を約束するとともに、蒋介石の支那統一のための北伐にも了解を与えていました。

 そこで、蒋介石の北伐となりましたが、第一回目は、国民党内の内部対立から北伐は中止(1927.7)されました。この時日本は、森恪の強硬な主張で第一次山東出兵(1927.6)をしていましたが、9月に撤兵しました。続いて蒋介石は1928年4月北伐を再開しました。この時も、田中首相は不測の事態が起こることを恐れて出兵を躊躇しましたが、森恪の働きかけや、済南駐在武官酒井隆少佐の執拗な出兵要請もあり、天津より歩兵三個中隊、内地より第六師団司令部(約5,000)が、済南に直接派遣(4.26先遣部隊到着)されました。

 済南にいた北軍の残留部隊は4月30日全員撤退し、代わって5月1日より南軍の第九軍及び第四十軍が入城をはじめました。5月2日には蒋介石も済南に入りました。日本軍は商埠地内に警備地域を定め警戒に当たりましたが、5月3日午前9時半商埠地内で両軍の衝突事件が発生しました。(双方の言い分は食い違っており真因は不明、酒井武官の謀略という説もある)ただちに不拡大の交渉が開始されましたが、商埠地内においては市街戦や掠奪・暴行が断続的に発生し、4日朝の段階に至って事態はようやく沈静化しました。

 この間の日本軍の死者10名、負傷41人、一方南軍の死者は150人とも約500人ともいわれます。また、武装解除された中国兵は1,230人に達しました。また、日本居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵の襲撃による死者2人、負傷者30人、暴行を受けた女性2人と記録されています。また、この外に5月5日に邦人12名の惨殺死体が発見されましたが、これは、避難勧告を無視した麻薬密売人等で、惨殺は土民の手により行われたものが多かった、と佐々木到一の『ある軍人の自伝』にあります。

*中国側死者の中には、北伐にともなう外国居留民との折衝に当たっていた蔡公時はじめ済南交渉公署職員8名他16名がいます。

 ところが、この間に酒井武官より陸相宛に発した電報があまりにも誇張されたものであったため、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽り、報道各社もそれに追随しました。そのため、国内では反中国感情がみなぎり「積極的膺懲論」がしきりに唱えられるようになりました。参謀本部内ではこうした世論を背景にして「国威を保ち将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示すにあらざれば到底長く禍根を断つ能わず」との意見をまとめて参謀総長に具申しました。総長は動員一個師団の出兵(第三次5月9日)の必要を認めました。

 一方、蒋介石は5日参謀副長熊式輝を福田中将のもとに派遣して、国民革命軍は北進する。蒋介石自身も「本日出発」する、ゆえに日本軍も戦闘を中止して欲しい、と要請しました。しかし福田中将はこれに答えず、自らの「膺懲方針」を東京に打電しました。蒋介石は6日午前8時済南を離脱しました。国民革命軍主力が北進した後の済南城には、約3,000人の将兵が、日本軍の攻撃に対して「持久する」事を目的に残留しました。日本側は7日になってようやくこの事態の変化に気づきました。

 しかし、福田中将は5月7日午後4時、蒋介石が到底飲めないことを承知の上で、あえて「暴虐行為」に責任ある高級武官の「峻厳なる処刑」、同部隊の武装解除他五ヵ条の要求を手交し、十二時間以内に回答するよう迫りました。中国側には、これはあまりに過酷な条件であり、明らかに「北伐妨害」である、一戦も辞さない覚悟ではねつけるべきだという意見もありましたが、結局、「北伐に支障なき限り忍耐策」をとることとして、回答期限の延長を提案しました。しかし、福田中将はこれを無視し、5月8日午前4時済南城攻撃を開始しました。

 この頃、東京では陸軍側の軍事参議官会議が開かれていました。会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。

 「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」
 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」

 こうして8日早暁以後11日に至るまで、済南城攻撃戦が展開されることになったわけですが、その経過については、資料間に甚だしい食い違いがあり、その実態は必ずしも明らかではありません。臼井勝美氏の「泥沼戦争への道標」(『昭和史の瞬間(上)』所収)では、「9日と10日の両日は昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせました。夜は火炎が天を焦がし、済南城内は逃げ惑う住民達の阿鼻叫喚の巷となった」と書かれていますが、児島襄氏の『日中戦争』では、両軍の一進一退の攻防戦が克明に描かれています。

 その概要を、両軍の死傷者数で見てみると、上掲『日中戦争』では、中国側の遺棄死体160で、「第四十一軍副長蘇宗轍によると、第一師第一団の死者行方不明約600、第九十一師第二団は同300であった」と記述されています。また、済南惨案後援会会長が6月7日南京で報告したところによれば、「死亡3,600、負傷1,400、財産損失約2,600万元」に上ったとされています。

 しかし、日本側にはこうした報告を裏付ける記録も回想も見あたらない、と児島襄氏はいっています。また、済南城攻撃を指揮した第六師団長福田中将の、戦闘報告書には、「済南城陥落にともない支那側は無数の死体と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の武威は十分これを宣揚したり」と書かれていると紹介されています。(『昭和史の瞬間』(臼井勝美)p49)

 一方、日本側の5月3日以来の死傷者数は、『日中戦争』では、戦死11(21の間違いか?)、負傷230人となっています。また、臼井氏の先の論文では、第六師団の済南城攻撃による死者25、負傷157となっています。(日本側居留民の死者は15名、負傷者30名)なお、前回紹介した中山隆氏の『関東軍』では、日本側居留民死者15名負傷者15名、軍人の戦死者60名負傷者百数十名となっています。

 これらの数字のうち、日本側の死傷者数については、それほど大きな食い違いはなく、ほぼこのあたりの数字であろうと思われますが、中国側(済南惨案後援会)の数字はいささか過大であり(といっても日本側の犠牲をはるかに上回ることは明白)、また臼井氏の語る済南城砲撃の様子も、私にはにわかに信じられません。というのは、児島襄氏の『日中戦争』では、済南城攻撃の戦闘模様が克明に記述されており(戦闘詳報によったものか)、砲撃は城壁破壊が中心で、城内住民の避難措置もとられており、城内に「持久」した中国兵も11日まで良く戦い、そして速やかに撤退しているからです。

 だが、以上のような点を考慮したとしても、日本軍の済南城攻撃は居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものであり暴虐のそしりは免れません。というのも、蒋介石は、5日の段階で主力部隊を北進あるいは迂回させることを福田第六師団長に告げ、戦闘中止を依頼しているからです。つまり、南軍には北伐を中止して日本軍と戦う意志は全くなく、両軍の衝突も4日午前中には沈静化していたのです。

 ところで、こうした軍中央の常軌を逸した行動は、はたして、酒井駐在武官のもたらした誇張した情報に基づく誤判断だった、というだけで説明できるでしょうか。本当はそうではなく、その背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのではないでしょうか。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。

 こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったかということは、これが田中首相の「不決断」で水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。張作霖爆殺事件は、こうした行動への願望が、とりわけ河本大作に代表される青年将校たちにいかに強烈だったかを遺憾なく示しています。

 そういえば、済南から誇大情報を送り続けた酒井隆武官(この人、例の梅津・可応欽協定の張本人でもあります)もその一人であり、張作霖爆殺事件の主犯である河本大作もそうです。また、この河本大作を英雄視し、田中内閣を倒壊させてでも彼を守り抜こうとしたのも、これら青年将校たちでした。
   

2009年6月 5日 (金)

”正義”を連発するアホ大臣を見る不快

 最近テレビニュースを見ていて不快に思うことがあります。例の鳩山総務大臣ですが、その”正義漢ぶった口吻”、水戸黄門ばりに、あたかも悪代官(西川氏?)を懲らしめる風の時代がかったものの言い方、その表情を見てると、なんだか馬鹿にされているようで、思わずテレビに向かって叫んでしまいます。

 なんでも、小さい頃から「オレは総理大臣になる」というのが口癖で周囲を辟易させていたそうですが、そもそも政治家が自らを絶対の正義と公言し他を絶対の悪と断罪するようなことはやってはならず、それを臆面もなく繰り返すに至っては、なにをか言わんやと慨嘆せずにはおれません。

 さらに、そうした自己主張について大臣の任命権を持つ首相の判断さえ無視してかかろうとする・・・。そういえば戦前の内閣は一人の閣僚が辞任するだけで内閣がつぶれたよなあ、ということを否応なく思い出してしまいました。

 おそらく、麻生総理もそれを内心では支持しているのでしょう、模様眺めを決め込んでいますが、この人のポリシーの無さにも愕然としますね。ぶら下がりインタビューに答える態度も正面を向くこともできず逃げ腰で、見ていて決していい感じはしません。

 この正義漢マニアの兄が野党党首で、周りからは何を考えているか解らない「宇宙人」だといわれているそうで、実際かれの「物言い」を聞いてきましたが、くそまじめだとは聞いていますが、まるで機知もユーモアも感じられない。一体日本の政治家はどうなってるの?と暗澹たる気分にさせられます。

 この際、あえて郵政の議論の中身には触れませんが、このアホ大臣に悪と断罪された西川氏には、ぜひ、こんな非常識に振り回されることなく、たんたんと事を処してもらいたい、と願っています。それくらいの常識が日本のリーダーには残っている、ということを是非示してもらいたい、と思っているのです。

ところでついでに、小泉元首相の進退についても、私見を申し述べておきます。

 数年前の文藝春秋(2005.11)の巻頭エッセイ(「日本人へ・30」)で塩野七生氏は、次のようなことを言っていました。

 「政治家にとっての「野心」は、やるべきと信じたことをやること、につきます。一方、「虚栄心」とは政治家の場合、良く思われたいこと、ではないかと思います。

 ただし、「野心」と「虚栄心」は政治家ならば両方とも持っているはずで、ゆえに間題は、どちらが大きいか小さいかであり、理想的な形は、つまらないことで虚栄心を満足させ、重要なことては野心で勝負する、ではないかと。つまらないこととは、自民党のマドンナたちに囲まれてニヤニヤする、のたぐいですね。

 ところが、彼ら(永田町の常識を形成している人たち=国会議員だけでなくその周辺にいる記者や評論家や官僚達=筆者註)の常識に反することばかりしてくれて、しかもそれで勝ってしまうあなたに悔然とするしかない既成の有識者の反撃が、あなたの虚栄心に的をしぼることで成されそうな気配がするのですがそれにはお気づきになられたでしょうか。

 総選挙後のテレビや新聞や雑誌をにぎわしている、小泉の男の美学なるものです。大勝負後高まりつつある任期延長の声にもかかわらず、男の美学に生きる小泉純一郎だから潔く退陣するだろう、というわけ。またあなた自身も、任期延長はしないと言われました。

  しかし、日本は改革を選んだと報じたこちら(欧米)のマスメディアは、小泉首相はあと一年でやめると言っている、と報じています。それは彼らが、一国の最高責任者ともあろう人が退陣の時期を明確にすることを、国益に反する行為と考えているからです。バーゲンセールが一週間後とわかっていて、買物するのはバカのやること。他国の政府でも、日本に譲歩するしかないかと思い始めていた国の政府は、あなたの退陣まで待つでしょう。任期を延長するかしないかは別にして、退陣の時期を明確にするのは、国益に適うとは思われません。

 それに、男の美学に殉ずるとか、潔ぎよく身を引くとか、優雅なリタイアを愉しむとかは、あなたのような高い地位と強大な権力を与えらている人の言うことではなく、それらは恵まれなかった一般の人々のためのものなのです。でなければ、神さまはあまりにも不平等。私があなたに求めることはだだ一つ、刀折れ矢尽き、満身創痍になるまで責務を果しつづけ、その後で初めて、今はまだ若僧でしかない次の次の世代にバトンタッチして、政治家としての命を終えて下さることなのです。


 ブオナ・フォルトゥーナ、ミスター・コイズミ。(九月二十二日記)

 最後のイタリア語の意味はよく解りませんが(幸多かれ、か?)、以上大変に面白い指摘で、政治家の無責任ということについて、考えさせられました。任期満了での退陣はともかく、早々と引退を表明し息子に地盤、看板、カバン(選挙資金)を継がせるというのは、世襲云々と言うことは別にしても、以上の観点から見てどうなのか・・・、あの”刺客騒ぎは、貴方の遊びだったの?”そう疑問に思う人も多いのではないでしょうか。冒頭紹介したアホ大臣の一幕も、どうやら、この無責任が演じさせているもののように、私には思われます。 

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