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2009年7月

2009年7月30日 (木)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(3)――明治憲法を葬った教育勅語の国体観

 本番組では、明治憲法が天皇の統治権について、第四条が「憲法の条規によりこれを行う」としていたのに対して、第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としており、これが天皇の統治権を絶対視する昭和への道を開いた、と説明していました。しかし、第一条にこれだけの責任を負わすことは無理で、というのは、この第一条の「萬世一系の天皇」が統治するという国体のイメージは、「教育勅語」によって補完されてはじめてその具体性を持つものだからです。
 
 しかし番組では、この教育勅語の存在には一言も触れませんでした。あるいは”物議を醸すことを恐れた”のかもしれませんが、しかし、この点に触れなければ、昭和の超国家主義は明治憲法第一条のせい、ということになり、本番組の”明治憲法の運用を誤った”という見解と矛盾することになってしまいます。

 ところで、前回指摘した通り、井上毅(法制局長官)は、君主による教育理念を提示する「教育勅語」が立憲主義を建て前とする明治憲法と矛盾することを自覚していました。そのため、明治23年6月20日付け山縣有朋総理大臣宛書簡で、次のような「教育勅語渙発に関する七ヵ条の諫言」をしました。(『教育基本法を考える』市川昭午p180)

第一に君主は臣民の良心の自由に干渉しないこと。
第二に天を敬い、神を尊ぶといった言葉は宗旨上の争いを起こすので使わないこと。
第三に反対論を引き起こすので哲学や思想上の理論に巻き込まれないこと。
第四に政治上の臭味を疑われないようにすること。
第五に漢文の口吻と洋風の気習を吐露しないこと。
第六に愚を貶めたり、悪を戒めたりしないこと。
第七にと特定の宗派を喜ばしたり、他の宗派を起こらせたりしないこと。
*原文を要約したもの

 結局、井上は立場上教育勅語に起草に参加しますが、勅諭を政事上の命令と区別して君主の著作とすることを主張しました。その結果、教育勅語は「大臣の副署がなく、政治上の勅語・勅令とは区別され、天皇が社会に対して直接諭言した形式をとって発布」されました。そのため法令が強制力を有するのに対して、教育勅語は一般臣民に対して強制力を有しないと解されました。

 その教育勅語の本文は次の通りです。
朕惟(オモ)フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克(ヨ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。爾(ナンジ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣(ヒロ)メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。斯(コ)ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コイネガ)フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽
*句読点及びよみは筆者

 これを見ると、確かに、宗教上あるいは政治上の臭みをできるだけ除いて、当時の国民の常識にそった文面とするよう努めていることが伺われます。「萬世一系の天皇」という言葉もありません。しかし、この「当時の国民の常識」にそった教育思想の表明は、自ずとその時代の日本の伝統思想の表白となりました。その結果、この伝統思想により担保された日本国の宗主としての天皇のイメージが、明治憲法に規定された立憲君主制下の制限君主としての天皇のイメージと齟齬を来すことになりました。

 では、この教育勅語によって表白された日本の伝統思想とはどのようなものだったのでしょうか。イザヤ・ベンダサンによると、それを一つの体系として示しそれを民衆教化の書としてまとめたのが、貝原益軒の『大和俗訓』(全八巻1710年)だといいます。その後、この書は江戸期を通じて「日本教の”聖書”のごとく読まれ、表現は変わっても(今日の)日本人がその延長上にいることも、また不思議でない。」といっています。(『日本教徒』イザヤ・ベンダサンp245)

 次に、この書に語られたその伝統思想を紹介します。それが、現代の私たちの自然や人間についての思想と、どう異なっているか考えながら読んで下さい。(『日本の名著 貝原益軒』中央公論社より引用)

天地と父母に仕えるは同じ
 「およそ天(=自然)は人のはじめである。父母は人の本である。人は天地をもって大父母とし、父母をもって小天地とする。天地・父母はその恩が同じである。だから天地に仕えて仁を行うことは父母に仕えて孝を行うようにすべきである。・・・おろそかなのは愛がないのである。畏れないのは敬がないのである。天地に仕えるのも父母に仕えるのも、同じく愛敬を尽くしておろそかにせず、侮ってはいけない。」

人は万物の霊
 「天地のうちに万物がある。万物のうちでは人ほど尊いものはない。であるから万物の霊という。人は霊であるがゆえに、心に五性(仁=あわれみの心、義=正しい心、礼=つつしみうやまう心、智=明らかにさとる心、信=いつわりのない心)があり、身に五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の和、長幼の序、朋友の信)がある。・・・鳥獣にはこういうことが一つもない。それなのに人となった道を知らないで、鳥獣にちかく、むなしくこの世を過ごし、人と生まれた身を無駄にすることは、くやしいことではないか。」

聖人は人の道を教えた
 「およそ人となったものは、人の道を知らないではいけない。人の道を知ろうと思ったら、聖人の教えを尊んでその道を学ぶべきである。・・・だから人と生まれては、必ず学ばないといけない。学ぶものはかならず道を知らないといけない。道を知ったら必ず行わないといけない。・・・だから道を学ぼうと思ったなら、学問のはじめから道にふかく志を立てて、明師にしたがい、良友に交わり学術をえらぶことを本旨としなければならぬ。」

学問の基は謙譲
 学問する人は謙を持ってもって基とする。謙とはへりくだることである。わが身をほこらず、人に高ぶらないで、心をむなしくし、人に問うことを好み、わが才をたのまず、師友をうやまって、わが身に寸力があっても無いかのようにし、教えをよく聞き、人の諫めをよろこび、・・・自分の知っていることを先立てず、すでに行っていることも、まだ行わないかのように思い、人を責めず、わが身を攻めるのをへりくだるという。これは学問をつとめ、教えを受ける基である。」

人の性は本来善
 「人はみな良知がある。教えなくても、小さいときから親を愛し、少し大きくなってからは兄をうやまう。人にはみな仁心がある。・・・人にはみな義理がある。・・・これは人の性が善である証拠である。・・・人は本来生まれつきもっていないことは教えても行いがたい。人に本来もって生まれついている善心があるのを本としてみちびき、開き、これをおしひろめさせようとするのである。天下の人その性はみな善である。」
 
博く学ぶ
 「天下の道理は無限である。・・・道理は我が一身に備わり、その作用は万物の上にあるのだから、まず我が一身の道理をきわめ、次に万事についてひろい道理を求めて、自分の心中に自得すべきである。これが博く学ぶということである。博く学ぶ道は多いけれども、本を読むほど益のあることはない。古人も、人の知恵をますのは本に及ぶものはないといっている。しかし文字だけ好んで、義理を求めないのは博く学ぶのではない。」

篤く行う
 「篤く行うには、すでに学び問い学び弁えて、その道理を知ったならば、我が身にその知った知った道理を篤く行わないといけない。・・・篤く行う道は、言葉を忠信にしていつわりなく、行いを慎んで、過ちを少なくすることである。人の身のわざは多いけれども、言葉と行いとの二つを出ない。だから、言葉をまことにし、行いを慎めば、身が修まる。 また心のおこるところの用が七つある。これを七情という。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲」である。人の身の行動はこの七つからおこる。これを慎んで、過不足なくして、道理にかなうようにする。中でも七情のうち、怒りと欲の二つは、最もわが心を害し、身を損ない、人を損なうものであるから、怒りをおさえて、欲をふさいで遠ざけて、そのおこりはじめたところでうち克たねばならぬ。
 また善にうつって、わが善よりもなお良いことがあったならば自分の善をすてて優れたほうにしたがわねばならぬ。身に過ちがあったらすぐ改めないといけない。我が身に執着して改めるのをはばかってはならぬ。また人に対して行うには、人が自分に対してしたがわないことがあったら、人を責めないで、自分のみをかえりみてとがめるがよい。これみな篤く行う道である。」

民をつかさどる人
 「民をつかさどる人は、民の父母であるから、民を哀れむ心を基とすべきである。民の好むことを好んでほどこし、民の嫌うことを嫌ってほどこさない。父母の子を思うようにするからこれを民の父母という。・・・すべて民はすなおな天性を持っている。上にある人が誠をもって民を愛すれば、民も又必ずそれに感じてよろこび、かくれて悪いことをしないで、誠をもって上につかえる。」

 以上は、儒教の五常五倫の教えを軸として、天地(=自然)と人の関係や人と人の関係を日本人の伝統的考え方に合うように整理したものです。しかし、こうした諸関係の基底には、「恩」という日本人独特の基本概念が置かれているいることに注意しなければなりません。巻六の「恩を忘れない」「恩をほどこして」「恩があれば」には、次のようなことが説かれています。

 「天地につかえて仁を行い、父母に孝を行い、君に忠を尽くし、師を尊び、故旧にあつくするのは、君子の道でみな恩に報いる道である。」「古い言葉に『恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ』とある。人に恩をほどこしたら、これは自分のなすべき当然の道と思って、その施したことを忘れるがよい。思い出してはいけない。・・・また人の恵みを受けたなら、その恩を忘れてはいけない。」

 つまり、自然と人の関係や、人と人の関係をつなぐ基礎概念として「恩」があり、その「恩」は、儒教の五倫(君臣・父・夫婦・長幼・朋友)によって形作られた人間関係を下支えしている。そして、その「恩」に基づく人間関係における基本的な倫理規範が、「恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ」ということ、つまり「施恩の権利を主張せず、受恩の義務を拒否しない」だというのです。(この恩論に基づく倫理観は「平家門語」に見られるとベンダサンは指摘しています。それくらい伝統的な考え方だということです。『日本教徒』参照)

 そして、この「恩」論に基づく人間関係が、家族の人間関係から人間と自然(=天地)の関係、さらに君臣の関係にまで拡大されているのです。いうまでもなくこの「恩」論に基づく人間関係は、家族をモデルとしているため、これが社会関係に拡大された場合、その社会組織は擬制的な家族として機能することになります。これが教育勅語の背後にある、皇祖高宗を宗源とする天皇中心の家族国家論につながっているのです。

 そして、その国家論における中心概念が、後期水戸学にいう「忠孝一致」です。「臣謹んで案ずるに、人道は五倫より急なるはなく、五倫は君父より重きはなし。然らばすなわち忠孝は明教の根本、臣子の大節にして、忠と孝は、道を異にして帰を同じうす。父に於ける孝といい曰い、君に於ける忠と曰ふ。わが誠を尽くす所以に至っては、すなわち一なり。」(『弘道館記述義巻の下』藤田東湖)こうして親子関係における孝が、君臣関係における忠と一致するという考え方を生み、それが一君万民、天皇親政という国家観に発展していったのです。

 こう見てくると、この教育勅語に盛られた道徳規範や教育理念、それをはぐくみ育てた日本の伝統的な教育思想自体は、決して奇矯なものではなく、今日でも通用する常識的なものであることが解ります。だが、これを国家論としてみた場合、大きな問題点を孕んでいることが解ります。それは家族倫理に止まるべきはずの孝が、統治者と国民との政治的関係にも拡大適用されていることです。

 確かに、この統治者と国民の関係――「民をつかさどる人は、民の父母であるから、民を哀れむ心を基とすべきである。民の好むことを好んでほどこし、民の嫌うことを嫌ってほどこさない。・・・上にある人が誠をもって民を愛すれば、民も又必ずそれに感じてよろこび、かくれて悪いことをしないで、誠をもって上につかえる――はうるわしい。しかし、現実的には、これが天皇親政に名を借りた軍部の暴走につながったのです。

 美濃部達吉の「天皇機関説」を批判した上杉慎吉は次のようにいっています。「我が立憲政体は、天皇親政を基礎とするものである。議会中心の政治というのは、即ち、天皇親政を排斥する政治である。」そしてこうした主張が、「政治腐敗を打破し、貧困から国民を救うには、明治維新と同じく、再び天皇親政による国家改造しかないという議論に発展し、当時公認の学説であった天皇機関説を、「国体の本義を誤るもの」として排除するに至ったのです。

 ここで改めて確認すべきこと、明治憲法における立憲君主制下の天皇の統治イメージを扼殺した天皇親政という統治イメージは、明治憲法第一条によって生み出されたものではなく、教育勅語に集約された日本の伝統的思想(=忠孝一致、治教一致)が生み出したものであるということ。そして、このことが解れば、天皇制を今後どのように運用すべきかということも自ずと解ってくる、私はそう思っています。

2009年7月19日 (日)

なぜ麻生自民党は国民の支持を失ったか――見失われた「構造改革」の旗印

 自民党が、”がけっぷち解散”とも”やぶれかぶれ解散”とも何とも名付けようのない奇妙な解散に追い込まれようとしています。麻生首相はなお「政策は間違っていない。堂々と胸を張っていい」と強気ですが、例の鳩山氏が「南北朝もあり得る」といっているように、今後は、政権公約=マニフェスト作りをめぐって、なお一波乱、二波乱ありそうです。
 
 麻生首相の問題点は、私は、小泉首相以来の「構造改革」の旗印を見失ったことにあると思っています。最近は、この「構造改革」の意義が「格差問題」の提起によって見えにくくなっていますが、問題は「格差問題」があるから「構造改革」はダメだ、ではなくて、「格差問題」は「構造改革」を進める中で解決するほかないのです。

 というのは、この問題を考える際に忘れてならないのは、小泉首相が推し進めた「構造改革」の根底には、”自民党をぶっ壊す”戦略があったということです。これは、日本の戦後政治の、いわゆる「55年体制」の中で確立した、政・官・業癒着の「政治的分配の口利き」政治を終わらせ、内閣主導の政治体制を確立しようとするものでした。

 これがどれだけ困難な仕事であったかは、今日でも郵政民営化問題がくすぶっていることを見てもよく判ります。もちろん、この問題は、郵政問題だけではなくて、道路、農水、文教、厚生などの族議員を含む、いわゆる田中派「総合病院」体制につながっていました。そしてこの体制への資金供給源となっていたのが、郵貯・簡保などの財投資金だったのです。

 こうした財投資金による「政治的分配の口利き」体制を完成させたのは、いうまでもなく田中角栄でした。それがどのようなものであったか、田中直樹氏は次のように説明しています。

 「郵政事業を通じての利権構造作りがねらったものは『票とカネ』を同時に引き出すことであった。さらに郵貯・簡保から財投機関に対する資金の環流の中で、道路に代表される公共事業が政治資金作りにおける実質上の財源の位置につくことになる。自民党の族議員といわれる分野別専門性を示すグループのなかで、道路、郵政、農水、文教、厚生の『五族』は圧倒的な存在感を示し、政治による経済価値の配分構造の中核を形成した」(「〇五年体制」の誕生と衝撃」中央公論2005.10)

 そして、こうした体制を完成させるための手法が、無集配特定郵便局を大都市圏に新増設することでした。この郵便貯金と簡易保険だけを扱う無集配特定郵便局は、55年には8,420でしたが、自民党が一旦政権から降りる93年までの間に6,334局が増設されました(上掲書)。この日本郵政公社の郵貯・簡保には、政府保障がついているということもあり、国民の金融資産の四分の一が流れ込み、その口座数は2003年4月郵政三事業が日本郵政公社に移行した段階で、何と日本人口の五倍の5億6千万に達していたといいます。(『日本国の研究』猪瀬直樹)

 この資金が1965年にはじまる高度成長期のインフラ整備にまわされたのです。もちろん、こうした社会資本の整備は必要で、財投資金からの資金調達は効果を発揮しました。しかし、問題は、これらの資金が大蔵省の財政投融資計画によって、安定的に、国の特別会計や政府系金融機関、公社、公団、事業団等の特殊法人、地方自治体などに供給される仕組みになっていたため、ここに、上述したような族議員を媒介とする政・官・業三者の「鉄のトライアングル」と称される利権構造が組み込まれることになったのです。

 そして、この「政治的分配の口利き」構造を取り仕切った裏組織が、自民党の田中閥(のち経世会)で、これが表組織である内閣をも自由にコントロールしました。そのための手段が、先の利権構造からの政治資金調達であり、これを力の源泉として、選挙時の代議士の公認権や大臣推薦権さらには総理大臣の擁立権まで握っていました。また官僚に対しては、族議員を通じて法律案をコントロールし、業界に対しては、公共事業等への予算配分の見返りとして集票及び政治資金の拠出を求めました。

 こうした派閥による利権政治からの脱却を目指して、1994年に小選挙区比例代表制と政党助成金制度が導入されました。これによって党執行部の力は強まりましたが、小泉政権発足前までは派閥はなお隠然たる力を持っていました。これに対して、小泉首相は、閣僚と党役員人事において派閥の推薦を一切受けず、「年功序列」を無視し、女性や民間人を重要ポストにつけることで従来の派閥の影響力を殺いだのです。

 また、この時変わったのは派閥だけではありませんでした。政府の政策は長年にわたって、官僚が立案し、与党の族議員に根回しする「官僚政治」で決定されてきましたが、小泉首相は、これを内閣中心の「政治主導」体制に転換しました。その舞台となったのが「経済財政諮問会議」でした。

 特に予算編成では、従来は、七月下旬頃来年度予算の概算要求が示され、八月に各省庁の概算要求がとりまとめられ、十二月中旬に来年度の政府経済見通しが固まるのを受けて、年末に予算案を決定するというもので、すべて財務省(旧大蔵省)主導で行われてきました。

 ところが小泉内閣では、「まず一月に諮問会議が『構造改革と経済財政の中期展望』(改革と展望)をつくり、経済の中期見通しを示す。次いで六月に諮問会議が『経済財政運営と構造改革に関する基本方針』(骨太方針)をまとめ、閣議決定する。さらに七月に、翌年度の経済見通しを踏まえて予算の全体像を提示する。財務省はこの大枠に基づいて、八月から各省の概算要求を取りまとめに入る。その後は、従来と同様の手順で進む」という流れになりました。

 こうした諮問会議による「政治主導の政策決定システム」が本格的に機能し始めると、自民党内から強い不満が噴き出すようになりました。なぜなら「予算をはじめ行財政に関する重要課題は、諮問会議で大枠が決まってしまい、(従来)官僚と二人三脚で政策に関わってきた族議員の出番が急に減」ってしまったからです。
 
 また、「族議員の背後には支援する業界団体が控えている。政策決定に影響を及ぼすことができなければ、業界団体から得てきた票とカネの支援も先細る」ことが恐れられました。地方分権改革でも、国と地方の税財源のあり方を見直す『三位一体改革』に対して、補助金削減を求められた各省庁と族議員が一体となって、これに激しく抵抗」しました。

 また、「郵政民営化では族議員の抵抗はさらに激化」しました。全国の特定郵便局長の0Bらでつくる『大樹』は、長年にわたって自民党を支えてきた有力組織でしたが、『民営化すれば、合理化で地方の郵便局が廃止される』などとして反対しました。しかし、小泉首相は「一部の支持団体を犠牲にしても、国民全体を考えるのが真の改革だ。特定郵便局長の会は自民党を応援しなくなっちゃったが、それでも結構だ」と述べました。(以上「『自民党を壊した男』小泉純一郎の体制内革命」大久保好男『中央公論』2005.10参照)

 結局、郵政省の郵政事業部門は、2003年4月1日に郵政事業庁が特殊法人である日本郵政公社となり、さらに、2005年8月8日郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて「郵政解散選挙」が行われ、郵政民営化を訴える自民党が圧勝して、10月14日の特別国会で関連法案が可決・成立しました。

 ではなぜ、こうした改革が可能となったかというと、「市場メカニズムの整備(経済のグローバル化)が進むなかで、(1)郵便貯金、年金積立金の資金運用部への預託義務が、特殊法人等の肥大化、非効率化を招いたこと、(2)資金の調達が市場メカニズムと連動していないため、貸付金利が相対的に高くなって融資のメリットが低下したこと、(3)事業の選択について、コスト分析が欠けていること、等の問題点」が、次第に認識されるようになったことが指摘されています。

  だが、こうした経済のグローバル化に伴う(9/15挿入)民営化は、言葉を代えていえば、組織の経済合理性を徹底する、ということで、組織の改廃は避けられません。もちろん、その際には経営責任が厳しく問われることになりますが、そのために発生した失業者や、その生活保障・再就職のためのプログラム―いわゆるセーフティーネットの整備が不可欠です。例えばヨーロッパでは、失業保険は失業したら誰でもすぐにもらえるそうで、さらにそのベースには失業扶助があり、金額は少ないがとりあえずは何とか生活できるようになっているそうです。

 また、日本では地方自治体は生活保護を出し渋る傾向があります。これは生活保護から就労支援へという流れがうまく作れていないためだそうです。従って、こうした問題点を解決するためには、生活保護から就労訓練、就労支援を一貫させる必要があり、職業訓練もハローワークも地方が受け持てるようにすべきだと猪瀬直樹氏は主張しています。さらに氏は、今まで貴重な雇用保険財源を食いつぶしてきた無駄な関係施設や財団を早急に整理すべきだ、ともいっています。(『Voice』4月号)

 最後に、このように経済のグローバリズムが進行するなかで、急速に高齢化しつつある日本社会を、今後どうしたら、その活力を維持し発展させていくことができるか、ということについて、一つの重要な視点を紹介しておきます。これは、山本七平が『日本資本主義の精神』の中で提起しているもので、日本の伝統的な社会構造に対応した「日本資本主義の倫理」について述べたものです。(『日本資本主義の精神』)

 日本の社会構造は伝統的に機能集団と共同体の二重構造でできている。そのため、機能集団として組織されたものが容易に共同体に転化して、植物組織となり活力を失う傾向がある。こうした状態から脱却し組織の活力を回復するためには、「倒産」が必要であり・・・つまり、それくらい厳しい経営環境にさらされることが必要である。
 
 また、その組織の合理的再編のためには、成果主義的な評価が不可欠だが、日本の組織は機能集団であると同時に共同体でなければ全体が機能しない。従って、成果のみの評価は問題で、基本的には、各人が自らに峻厳な自己評価を下すという以外に方法はない。つまり、このような伝統的な価値観に基づく厳格な自己把握が、個人にも、企業にも、民族にも求められている。

 しかし、こうした自己把握に基づく発展の原則は、文字通り「言うは易く、行うは難し」である。これらを実行に移せば、多くの抵抗があり、その抵抗は、常に、その時代の「権威」とされる言葉によって行われる。いわば「聖人の教え」であり、「武士の道」であり、戦後なら「民主主義」であろう。

 そして、こうした抵抗を克服して組織の再生を図った人は、常に、日本の伝統、即ちそれに対応している各人の精神構造を正確に把握し、それに即して解決策を見いだし、それを実施に移すための方法論を身につけた人である。それが「日本資本主義の倫理」であり、この倫理を失ったものには指導力がない。

 では、この日本資本主義の倫理とは何か。
 それは、一、「資本の論理」に従わないものは破滅する。二、この「資本の論理」の上に「資本の倫理」を樹立しなければならない。いわば、「資本の論理」を厳格に実施しつつも、本人は無私・無欲であらねばならぬという倫理である。言葉を代えて言えば、公私の峻別であり、「資本の論理」をあくまで公の論理として把握するということである。

 このことについて、氏は、江戸時代の名君と言われる上杉鷹山が、次のような言葉を嗣子に遺したことを紹介しています。

(1)国家は先祖より子孫に伝候国家にして、我私すべき物には無之候。
(2)人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。
(3)国家人民の為に立てたる君にて、君の為に立たる国家人民には無之候。
 
 さて、こうした伝統的な「日本資本主義の倫理」に照らして見た時、その後の小泉首相の行動(引退と世襲)はどう国民の目に映ったでしょうか。”ブルータスよ、お前もか!”の思いを深くしたのは、おそらく私だけではないと思います。(私は、これが構造改革に対する不信を招いた一つの原因だと思います7/22挿入)これが自民党の崩壊だけに止まるならばよろしいですが。(7/20追記)  

2009年7月12日 (日)

師匠に叱られた英夫と邦夫、由紀夫にも受け継がれる怖さの根源

 7月11日16時56分配信 夕刊フジ「たけし、東国原を一喝『あんたが思うほど甘くない』」が面白かったですね。

 宮崎県の東国原英夫知事が10日夜、都内のレストランでお笑いタレント時代の師匠である、ビートたけしと会食したことが分かった。この席で、自民党から要請された次期総選挙への出馬について、たけしは「逆風がすごい。メディアは甘くない」などと忠告したという。世論調査でも、国政転身には7、8割が「ノー」を突き付けているが、「自民党総裁」を狙っていたごう慢知事はどう判断するのか。

 これは、日本テレビ系「ズームイン!! サタデー」が11日朝、報じたもの。東国原知事は10日夕、東京・羽田空港に到着し、車で銀座の高級レストランに入ったという。

 その後、たけしが突然現れ、店の中に。東国原知事は2時間ほどして出てきて立ち去ったが、それから約1時間後にたけしが出てきて、会食内容を説明したという。

 たけしは同局の取材に「(自民党からの出馬は)ちょっと考えた方がいいと言った。一般の人はこう見ている。メディアはこう流れている。あんたが思っているほどメディアは甘くない。逆風が強すぎると伝えた。選ぶのは(東国原知事)本人だよ」などと語った。

 師匠の忠告に、東国原知事は「分かっています」と答えたという。

 これまで、東国原知事は「自分が出馬すれば自民党を負けさせない」などと、強気&ごう慢発言を繰り返していたが、9日、「予想以上に逆風だ。住民と接して快く応援して送り出していただくことはない。自民党内外でも逆風が多い」と、一転して弱気に。

 世間を騒がせた鳴り物入りの「東国原スペシャル」も、視聴率(支持率)低迷で、早々に打ち切りとなりそうだ。

 ほぼ予想通りの展開ですが、さぞかし、たけしに”お目玉”食らったことでしょう。”ばか野郎!おめえなんか、芸人の恥さらしだ!”くらいのことは言われたのではないでしょうか。「選ぶのは本人だよ」という師匠の最後の言葉には”愛の鞭”さえ感じますが、所詮世間は才覚の勝負ですから、この難局どう切り抜けるか、なお笑える余地が残っていれば幸いですが・・・。

 また、文藝春秋八月号「」鳩山邦夫大いに吼える」「鳩山家四代 エリート血族の昭和史」(佐野眞一)も近年にない面白さでした。

 次は佐野眞一氏の鳩山邦夫インタビュー後の感想の一節
 「ここで気がつくのは、何不自由なく育った御曹司ならではの周囲への配慮を欠いたふるまいや、自分の所信を一度「ため」てから発言する慎重さを欠いた(鳩山)一郎の不用意な言動が、孫の世代にも受け継がれていることである。それは私の質問に、誤解を恐れず答えた邦夫のインタビューをお読みいただければわかるだろう。邦夫はコードを無視した音楽のように、あるいは砂場遊びで自分の城をつくった子どもをのように無邪気に語りつづけた。その素直さは、危うさも感じさせた。」

 一読して、本当にそんな印象でしたね。逆境を知らずに育つと超秀才でもこれほどちぐはぐな感性を持つに至るのかといった驚きです。というより、一種のマザコンかとも思いました。

 まず麻生太郎との出会いの話
 「お前か、鳩山一郎の孫っていうのは。おれは吉田茂の孫」葉巻をくわえながら椅子にふんぞり返る麻生の仕草を、だみ声まで真似て、その最悪の初印象を語りながら、その人に”心配り”の礼状をもらったり、「キンキの煮つけ」を一緒に食った程度で”本当にいい人だ”と感激するその人の良さ。

 それから例の日本郵政の話
 「かんぽの宿」問題は庶民感覚で非常に分かりやすい。濡れ手に粟で儲けようとしている奴がいて、そのために国民の共有財産が毀損されていくという話です。これまでの私の政治活動の中でも、この話をするとウケがまったく違う。・・・また、国会見学に来た女子中学生の集団が私を見て、「キャー」って歓声を上げる。こんなことは生まれて初めてですよ。私の自宅の前に女子校があるのですが、そこの生徒たちも、朝、私が出かけるのを見かけると騒ぐ。・・・国民は善悪や正邪の判断をしっかりと下している。・・・総理周辺からは「そうかなあ」という気の抜けたような反応しか返ってこなかった。」

 それから兄由紀夫の話
 「兄は努力家です。しかし信念の人では全くないと思います。自分の出世欲を満たすためには信念など簡単に犠牲にできる人です。・・・今は虚像が前面に出すぎていますよ。実像はしたたかを絵に描いたような人で、じぶんのためになるのなら、どんな我慢もできるんですよ。あの人は。」

 「ズルい人ですから、いまでも政界遊泳術という点では日本一のスイマーでしょう。最後に自分がうまく昇りつめられるように、全て計算して生きてきたという感じがします。だから見事だといえば見事なのですが、私のような自分の信念や正義漢を大切にする人間からは、考えられない世界に生きている人ですね。」

 「私から見れば宇宙人ですね、まさに。自分の権力欲にここまで忠実に生きてこれるというのは大したものですよ。・・・
 兄は私に『小沢一郎的なものを全部、今の政界から抹殺するんだ。それがオレのライフワークなんだ』とも口にした。どうして小沢一郎がそんなにダメ何だと尋ねると、兄は『とにかくすべて金権政治だ。ぜんぶ金じゃないか。派閥の計算だけでやるじゃないか』という。・・・
 問題はそこまで嫌っていた小沢一郎さんにゴマををすって、べったりくっついていったことです。・・・やはり信念のないのが宇宙人なんでしょうね(笑)。」

 にもかかわらず、東大卒業後は官僚への道を蹴とばして田中角栄の秘書になった、その田中が邦夫に語った話
 「わしはね。政治家になるために無理をしているし、なってからもいろいろ無理をしとる。だからいろいろな歪みがあるんだ。世の中の人は『苦労が大事だ』と言う。おそらく『苦労がないぞ』と君にいう人も、将来、いっぱいいるだろう。だけど、出来ればくだらん苦労はしないほうがいいんだ。俺は苦労した。苦労したのはいいんだけど、その苦労が無理になっている部分がある。そういう面は反面教師だ。だらけろと君にいっているんじゃない。でも無理しないで政治家になれたら、それが一番いいんだ。そのほうが素直な政治家が育つ」

 それから一番好きなことは何かと問われて
 「そりゃ一杯飲んでるときですよ。それも付き合い酒ではなくて、気心の知れた友人たちを引き連れて、好きなものを食いに行く。
 蝶の世界では、フィールドに出て蝶が飛ぶ姿をみたり、卵や幼虫を探索するとき。これをしていると本当に生き返ります。・・・国内の蝶は・・・あまりいい表現ではないけど、女子高生みたいな感じで、海外の蝶は銀座のホステスさんみたい。」

 それからじいさん鳩山一郎の話
 ある日夕食を共にしたとき、邦夫は先ほどまで見ていたマンガのことを考えていて思い出し笑いをした。その時脳溢血で半身不随だったじいさんは自分のことを笑ったと思ったのか「食事中に笑うとは不謹慎だ。出てけ」と烈火のごとく怒った。その後二人は夕食をさっさと食って二階に上がり、人名辞典にある鳩山一郎の生年月日の(一八八三~)と空欄になっているところに、翌年の「一九五九年」と書き込んだら、本当に当たって祖父は翌年死んでしまった。

 それから師匠ともいうべき、おふくろ安子さんから叱られた話
 総務大臣を辞めた直後姉を通じておふくろから伝言があり「話したいことがある」ということで、電話で話した。その時「西川さんとか何とかって、そんなくだらないことやってないで、もっと大きなことしなさい」と、おふくろに言われた。「もっと大きなこと」って何だろう。(笑)

 私も、久しぶりに愉快に笑わせていただきました。佐野氏は、「私は正義を貫く」などと、「還暦過ぎの男なら、ふつうそんな青臭い台詞は恥ずかしくて口がさせても絶対言わない」はずの言葉をぬけぬけと吐く邦夫や、「友愛」という小学校のホームルームなみのスローガンを臆面もなく掲げる由紀夫の発言を、単なるポピュリズムと見るのは間違いで、それは、鳩山家の恵まれた生育環境がもたらした特異な人格形成の賜と見るべきではないか、と言っています。

 というのは、彼等の祖父一郎も、「政治は力に非ず正義なり」「政治の本質は友愛」という言葉をぬけぬけと発し続けた政治家だったからです。佐野氏は、鳩山一郎の例の「統帥権干犯発言」についても、「それは一郎の大向こう受けを狙ったパフォーマンスや、タカ派的イデオロギーの発露」というより、むしろ「周囲に担がれ先頭を切って熱っぽい演説をぶつお坊ちゃん政治家の無鉄砲さ」の現れだと解釈しています。

 では鳩山一郎はこの時、誰に担がれていたのでしょうか、いうまでもなくそれは政友会幹事長森恪だと思います。この件について、NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」では、政友会総裁であった犬養毅の責任だけに言及していますが、それはおそらく、現在の政局に配慮したためでしょう。というのは、この統帥権干犯問題に関する幣原外相の失言問題で、犬養首相は森を抑えて民政党との妥協を図っていますが、鳩山一郎は浜口雄幸首相が狙撃された後も、幣原首相代理に対して執拗な攻撃を続けているからです。(このことは、五・一五事件で海軍青年将校に暗殺されたのは犬養であることを見れば一目瞭然です。)

 その鳩山一郎の、政府の「統帥権干犯」を責め立てる国会演説の一節
 「用兵と国防の計画を立てるということが、憲法第十一条の統帥権の作用であるかどうかということを考えますれば、参謀本部条例または海軍軍令部条例に二つのものを同じく規定しておる趣旨からして、ともに憲法第十一条の作用の中にあるということは議論はないのである。果してしからば、政府が軍令部長の意見に反し、あるいはこれを無視して国防計画を立てる」ことについて・・・「輔弼機関でないものが飛出してきて、これを変更したということは、まったく乱暴であるといわなくてはならぬ。私はこれをこのごろにおいてのまったく一大政治的冒険であると考えておるのである。」

 こうした鳩山一郎らの演説は、「多年軍閥と戦い、軍備の経済化をとなえ、軍縮を持論としてきた政党政治家の節操をすてた、まさに自殺的行為であった。彼等が激発した統帥権干犯論がやがて犬養その人の生命と同時に政党政治の命脈を断った五・一五事件の動因となったのは、歴史の皮肉の鮮やかな一例であろう」とされます。しかし、これがもし「周囲に担がれ先頭を切って熱っぽい演説をぶつお坊ちゃん政治家の無鉄砲さ」の現れだとしたら、こうした行為を鷹揚に見過ごすわけにはいかなくなります。

 そのまんま東氏には”たけし”という恐い師匠が健在ですからまだよいとしても・・・。 

2009年7月10日 (金)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(2)――明治憲法第一条の思想的背景

 ジャパンデビュー「天皇と憲法」第1部「大日本帝国憲法の誕生」の冒頭のナレーションは次の通りです。(会話文は、前回同様、ブログ「夕刻の備忘録」を参照させていただきました)

 「大日本帝国憲法です。天皇についての規定が明文化され、第一章に掲げられました。その第一條、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、日本は天皇が統治する国であると謳われています。この条文が後に、天皇を絶対視する思想に繋がっていきます。

 しかし、この憲法には、天皇が支配者として独断で政治を行わないように、その権限を制限するための条文も定められていました。それは第四條です:
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。

 「憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」という規定、つまり天皇は国家の元首であるが、この憲法に従って統治するとされたのです。天皇を絶対視することに繋がる第一條、そして天皇も憲法に従うとする第四條、この二つの条文が憲法に同時に存在することによって、様々な矛盾や曖昧さを産んでいくことになります。」

 これは、この番組のライトモチーフともいうべき見解ですが、これについて、二人の若手憲法学者(慶応大学講師 武田恒泰、国士舘大学 倉山満)が『正論』七月号の対談記事で次のように批判しています。

倉山 あれはおかしかったですね。

竹田 ええ。第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。つまり、日本は天皇が統治するが、その統治の仕方は憲法の条規に定められている――ということを述べているのであって、日本語の意味を普通に理解すれば、矛盾でも何でもないことは明らかです。
 しかし番組では、こう決めつけています。「天皇を絶対視することにつながる第一条。そして、天皇も憲法に従うとする第四条。この二つの条文が同時に存在することによってさまざまな矛盾や曖昧さを生んでいく」と。こういうのを、牽強付会というのでしょうね」

 つまり、二人は、第一条の天皇の統治権の意味は、天皇が独裁者のように何でも決められる権能を持つことを規定したものではなく、第四条にいう「憲法ノ條規ニ依リ」決まったことを、形式的に認可する権限であって、第四条と矛盾するものではない。これは、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と同じで、「神聖不可侵である天皇に責任が及ばないよう、実際の権力は政府が行使する」との原則を述べていることと同趣旨だ、といっているのです。

 確かに、天皇の統治権の解釈としてはその通りでしょうが、問題は「萬世一系ノ天皇」という概念が一体どこから来たかということです。というより、なぜこの「成文法になじまない」言葉が、天皇の統治権の正統性を証するものとしてここに挿入されたかということです。

 このことについては、番組では次のように説明しています。

 伊藤博文より大日本帝国憲法の草案作りを命じられた井上毅(こわし)が、天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えた。そこで、井上は歴史書を改めて研究し、天皇が、第一代の神武天皇から、後に武士が台頭した時代になっても、絶えることなく、連綿と受け継がれてきたというその連続性を重視した。そして、「明治になって、天皇の歴史的由来を示す言葉として、頻繁に使われるようになっていた表現」である「萬世一系」に着目し、これをそのまま憲法草案に用いた。

 このことについて、京都大学・山室信一教授は次のように解説しています。

 もちろん「萬世一系」という言葉は、江戸時代以前から存在していた訳ではなくて、これは明治期に入って、外交文書に多く使われたことからも分かるように、徳川幕藩体制を壊して成立した明治政府の正当性を諸外国に対して証明するためのものだった。それと同時に今度は、国内において、天皇というものが何故支配するのかについて、旧支配階級などは新政府に非常に不満を持っていたから、それに対して、その正統性を伝えなければならないということで、今度は国内向けに使われ始めた。

 この山室氏の解説では、「萬世一系」という言葉は、明治政府が自らの統治を正当化するために便宜的に用いたものであるかのような印象を受けます。しかし、事実は決してそんな名ばかりのものではありませんでした。それは徳川幕府が導入した朱子学(儒学の一学派)の名分論(=階級的秩序)でもって、記紀に物語られた神代に続く皇統の連続性(=萬世一系)を権威付けることで、天皇による統治を理想化したものでした。また、その統治システムは、親子間の倫理である「孝」を、君臣間の倫理である「忠」に一致(=忠孝一致)させた、天皇を宗主とする家族国家のイメージを伴っていました。

 そして、こうした家族国家あるいは宗主国家のイメージを背景に、家族関係のあり方や君臣関係つまり天皇と臣民との関係のあり方を説いたのが、いうまでもなく「教育勅語」だったのです。従ってその構成は、まず、わが国の道徳教育の淵源が神代より続く皇統の連続性の中にあることが述べられ、その次に、そのおかげでわが国の臣民が忠孝心を一つにしてきたこと。続いて、儒教の五倫五常の教え、博愛、学業を通じて知識や道徳を身につけ、仕事を通じて社会に役立ち、憲法や法律を遵守し、一旦国難に逢えば勇敢に戦うこと期待されました。

 そして最後に、こうした生き方(=道)は、神代の昔から今に纏綿と続く天皇家の伝統的な教えであり、わが臣民として子孫の後々までも守るべきものであり、また、これは古今を通じ、また国内だけでなく世界に広めても決して道理に背くことにはならないものである。従って、私(朕)はあなたたち(臣民)と共にこれらの教えをよく守り、共に、これらの道徳規準を身につけて行きたいものだと思う、と締めくくられています。

 一見、あたりまえの道徳的規範を述べているように思われますが、注意すべきことは、ここに提示された道徳規範は儒教に基づくものであり、儒教は中国思想だということです。従って、それが皇祖高宗の教えによるというのは、あくまで儒教と国学思想が習合した結果であって、史実としては誤りです。また、忠孝一致という考え方は、儒教にはなくて、これは後期水戸学が生んだ日本独特の考え方なのです。従って、その帰結としての家族国家観も日本独自のものだということ。さらに問題は、こうした生き方=道は日本だけでなく世界に通用する普遍的な教えだ、としていることです。(これが大東亜戦争期の八紘一宇という考え方につながります)

 つまり、明治憲法第一条の「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定は、井上や伊藤の思いを超えて、この教育勅語がその背景に持っていた家族主義的な国家の統治イメージと密教的につながっていったのです。いうまでもなくこうした国家観、その家族主義的な国家の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制下の制限君主としての天皇の統治イメージと、根本的に対立するものであることはいうまでもありません。

 番組では、1888年6月、出来上がった憲法の草案について、天皇の諮問機関・枢密院で、「第四條 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」の審議の模様が次のように紹介されています。(天皇陛下の臨席の下、議長は伊藤博文だった)

(山田顕義・司法大臣から意見)
 「この憲法の條規以下の文字を削除することを望みます。この文字を置くと天皇の統治権は、元々在った権限ではなく、憲法を設置したことで、新しく始まったかのような感覚を持ってしまいます」

 これに対し、議長の伊藤博文は、次のように答えました。
「本條は、この憲法の骨子です。憲法政治といえば、即ち、君主権を制限することなのです。この條項が無ければ憲法は、その核となるものを失うことになります。憲法の條規により、という言葉が無くては、憲法政治ではなく、無限専制の政体となってしまうのです」

 こうして、第四條は、多数の賛成を以て可決されました。そして、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、天皇、議会、司法、国民の権利、義務などを明記、近代国家の骨組が出来上がりました。しかし、その翌年の10月30日には、この憲法下の立憲君主としての天皇の統治イメージとは全く異なる統治イメージをもった「教育ニ関スル勅語」が天皇より発布され、国民道徳の基本理念を定めた「国体の精華をなす」教育基準として位置づけられることになるのです。

 そして、この「教育ニ関スル勅語」の起草に当たったのも、当時法制局長官だった井上毅でした(当時の山縣有朋総理の命による)。彼自身は「立憲主義の建て前と君主による教育理念の提示が原理的に矛盾することを自覚していた」らしく、教育勅語渙発の構想には本来賛成でなかったといいます(『教育基本法を考える』市川昭午p180)。しかし、それにしても、後の時代(昭和)になって、自ら起草した教育勅語に胚胎した一君万民・天皇親政の統治イメージが、同じく自ら起草した明治憲法の立憲君主としての天皇の統治イメージ(天皇機関説)を食い殺すことになろうとは・・・、井上も夢想だにしなかったのではないでしょうか。(つづく)
 

2009年7月 6日 (月)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(1)――明治憲法の運用を誤ったという見解について

 ブログ「夕刻の備忘録」に、放送済みジャパンデビューの番組フルテキストが掲載されています。転載歓迎となっていて、この番組について私見を申し述べようとするものにとっては誠に有難く感激の至りです。本来ならNHKこそ、こうした番組については、放送直後からネットに公開し、視聴者の批評に委ねるべきだと思います。それが公共放送としての情報公開上の義務であり、また、その方が、議論の正確を期す上でも有効ではないかと思います。NHKの善処を望みたいと思います。

 さて、ジャパンデビュー「天皇と憲法」のメインキャプションは次のようになっています。
 「日本が国家の骨格ともいうべき憲法を初めて定めてから120年。大日本帝国憲法は「立憲君主制」を採り、当時の世界からも評価されていた。しかし、19世紀帝国主義から第一次世界大戦を経てうねる時代の流れの中で、日本はその運用を誤り、帝国憲法体制は瓦解する。その要因と過程を国内外に残された資料からつぶさに分析し、新しい日本国憲法誕生までの道程を検証する。」

 つまり、大日本帝国憲法自体が問題だったのではなく、その運用を誤ったことが国家の崩壊を招いたといっているのですが、この指摘は極めて重要だと思います。というのは、統帥権の問題に象徴されるように、明治憲法に不備があったから、昭和の軍閥の暴走を阻止できなかった、とするのが従来の一般的見解で、その運用を誤った云々というのは、従来あまり耳にしなかった見解だからです。私自身はこの意見に賛成ですが、ではいかなる根拠でもってこうした説を唱えたのか、以下当番組の内容を私なりに、数回に分けて検証してみたいと思います。

1 明治憲法と昭和憲法、国家の芯は続いているか(7/8挿入)

 まず、番組冒頭の、立花隆氏による次の解説に注目したいと思います。 
 「それで、その今の昭和憲法ってのは、実は大半の人は、あの明治憲法とは全く離れて、全く新しい憲法が出来たと思ってるんですよ、ね。大半の人はそう思ってます。しかし、そうじゃないんですよ、ありゃ続いてんです。だから、昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、非常に主要な部分が改正されてるから、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね。」

 これは、単に、昭和憲法が明治憲法第73条(改正条項)に基づき改正されたということを言っているだけではなくて、「国家の芯そのものは続いている」という認識に基づいてます。ではその芯は何かというと、ともに第一章が天皇であり、立憲君主制つまり制限君主制をとっているということ。つまり、明治憲法の場合は、その第4条において「天皇ハ国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シコノ憲法ノ条規ニ依リコレヲ行フ」として、「立憲主義」をよると規定していたことを指しています。

 確かに、明治憲法において国家元首は天皇であり、主権は天皇にあるとされました。しかし、立憲主義の要素としての言論の自由・結社の自由などの臣民の権利は、法律の留保のもとに保障され(第二章)、公選制の議会を持ち(議会は法律の提出権や協賛(同意)権、予算の協賛権を持っていた)(第三章)、天皇の行政大権の行使は国務大臣の輔弼(大臣責任制)によるとされ(第四章)、さらに司法権も天皇から裁判所に委任される形で独立を保障されていました(第五章)。

 こうした立憲主義をとる明治憲法が、敗戦後日本国憲法に改正されるとき、その改正案の作成は、当初日本側に任されましたが、GHQは、政府案(松本案)は旧憲法体制を温存しているとして強い不満を示し、その結果、いわゆる「マッカーサー草案」が急遽日本側に示されることになりました。政府は総司令部と交渉して若干の修正を施した後、これを「日本国憲法憲法改正案」として国民に発表し(s21.3.6)、国会審議にかけさらに若干の修正を行った後、昭和21年11月3日、日本国憲法公布、翌昭和22年5月3日新憲法は施行されました。

 この日本国憲法(以下昭和憲法と称す)の柱は、第一章:象徴天皇制の規定と、第二章:戦争放棄の規定にあるとされます。また、明治憲法が天皇主権を前提としていたのに対して、新憲法は国民主権を前提としていること。その他、明治憲法にはなかった内閣及び総理大臣の権限が規定され、行政権は内閣にあるとされ、その行使については国会に対し連帯責任を負うとされました。さらに、国務大臣は文民であること。その任命権は総理大臣にあること(第五章)など、内閣の権能が格段に強化されています。
 
 こうした昭和憲法の特徴をもって、明治憲法との断絶を指摘する意見が、従来は大勢を占めてきました。しかし、先に指摘した通り、明治憲法は、天皇が日本国の統治権を総覧する(主権は天皇にある)としながら、その主権の行使は「憲法ノ条規ニヨリコレヲ行フ」としており、そのため、立法権は議会の協賛、行政権は国務大臣の輔弼によるとされ、司法権は裁判所に委任されていました。つまり、立憲君主制としての基本的性格において、明治憲法も昭和憲法も「その芯においては続いている」と見ることができるのです。

 さらに、昭和憲法の二本の柱とされる象徴天皇制も戦争放棄の規定も、これは必ずしもGHQが押しつけたものとはいえないのです。というのは、前者については、幣原首相の起草にかかる「天皇の人間宣言」(昭和21年1月1日)によって、戦前の神格化された天皇のイメージが、新日本の民主化に向けて「国民の象徴」とされたものであり、これによって、戦後の憲法体制における天皇制護持の方向が確定したのです。また、後者については、幣原が昭和21年1月21日マッカーサーを訪ねた折、「原子爆弾が出来た今日では世界の情勢は全く変わってしまった。だから今後平和日本を再建するためには、戦争を放棄して再び戦争をやらぬ大決心が必要だ」と述べたことが、その端緒になったのです。

 マッカーサーは、極東委員会(その構成員にはソ連、豪州など天皇制維持を絶対拒否する強硬分子が含まれていた)が組織される前に、天皇制の維持を含む新憲法を日本側の手で作成しようとしていました。しかし、政府案(=松本案)には不満足であり、この修正を待っていては間に合わないので、急遽、自ら憲法草案の作成を決意し、2月4日、上記の象徴天皇制や幣原が提起した戦争放棄の根本原理を記したノートを総司令部の新憲法起草メンバーに示して、GHQによる新憲法草案の起草を命じたのです。

 以上の事実関係は、昭和30年に発刊された幣原平和財団の『幣原喜重郎』の記述によっても確認する事ができます。立花隆氏によれば、その後、日本国憲法の成立過程に関する研究が進んで、その二本の柱である象徴天皇制と憲法9条の戦争放棄は、マッカーサーではなく日本人の発案によるものであると認識されるようになったとのことです。私自身は、まだこれらの本を読んでいませんが、いずれにしろ、こうした発想は、(当初政府部内にはかなりの混乱が見られたものの)当時の国民にはごく自然に受け入れられていったように推測されます。

 一パラグラフ削除(「・・・運用を間違った」という見解についての考察は、今後の論述も含めて総合的に行いたいと思います。7/8)

 以上、立花隆氏の「昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね」という言葉の意味するところを、私なりに解釈してみました。これは、氏が、かって、明治憲法と昭和憲法との根本的な違いを強調していたことを知るものにとっては意外な感じがしますが、そのように氏の認識が変化したということなのでしょう。

 次回は、この明治憲法第四条と矛盾関係において論じられた第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」の意味するところを論じたいと思います。本来なら、この第一条は、教育勅語との関連で論じなければならない。第一条は、通常、明治政府の正統性を担保する条文とされますが、これは、教育勅語によって語られた忠孝一致の家族的国家観を背景に理解する必要があります。つまり、ここから生まれた天皇親政の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制の統治イメージと激しく衝突した、昭和の先鋭的な国体観の内実を満たすものとなったのです。

 このことを論ぜず、つまり、この問題の思想史的展開を解明した山本七平の業績を踏まえずして、両者の矛盾関係を解きほぐすことなど到底できない、私はそう思っています。  

2009年7月 2日 (木)

山本七平をめぐる論争

 本ブログは、山本七平の思想の紹介とその検証を主な目的としています。しかし、山本七平については風評的な誤解があって、食わず嫌いの人も多いようです。私としてはそうした誤解をできるだけ解きたいと思っています。以下の文章は「一知半解」さんのブログで出会ったmugiさんとのやりとりです。この問題を考える上で参考になるのでは、と思いましたので、ここに紹介させていただきます。双方のやりとりはコメント欄で行っています。

 mugiさん、横レスごめんなさい。一つ気になったものですから、私見を申し述べさせていただきます。かって山本七平は本多勝一氏との論争を契機に、「クリスチャンなのに、天皇制擁護に汲々とする右翼文化人、自衛隊擁護・憲法改正論者、原発推進論者、元号擁護論者、あげくの果ては朝鮮人を差別し、民族差別するレイシスト」などと、さんざん攻撃されてきました。一つの言を立てるということはこれほど過酷なものかと、氏の言葉に感銘を受けてきたものとしては、その怨念ともいうべき攻撃的感情の激しさに、改めて人間の限界を感じたものでした。

 ところが、最近では、こうした方面からの批判に加えて、さらにmugiさんのような保守系?の方から、「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物」と評されるようになったのですから、いささかビックリしました。おそらく、山本七平の論が右とか左とか色分けできるものではなかったことから、こうした現象が起きたのでしょうが、ぜひ、mugiさんにはサヨクと称される人たちが陥ったような「自己絶対化」の罠には陥らないようにしていただきたいと思います。

 山本七平は日本民族の歴史に対してどういう役割を引き受けたか。それは、本エントリーとも関わるのですが、「日本人が無意識の前提としている人間信仰の観念を自覚させる」ことによって、「言葉による」日本文化の新たな発展の糸口を見つけようとしたのでした。その一環として、氏の軍隊経験(21歳で応召し、フィリピンのジャングルで戦闘を経て「骨と皮」の終戦を迎え、その後捕虜収容所で戦犯の取り調べを受け、戦後は、38歳になるまで熱帯潰瘍外の戦争後遺症に悩まされた)を語ることによって、日本人の無意識の思想を明らかにしようとしたのです。

 日中戦争や大東亜戦争を語るとき、最近は世論の空気が、かっての革新一色のものから保守一色へと変わりつつあり、いわゆる「自虐史観」(山本はこれを「中国人天孫vs日本人犬猿」論の裏返しと説明していた)の(さらにその)裏返しとしての「自尊史観」が主流となりつつあります。だがこうした見方は、いずれも、中心文化(中国あるいは西欧)への迎合と反発を繰り返しているだけであって、大切なことは、いずれの民族文化にも長所と短所があり、時代の変化に対応して生き残るためには、その長所を生かし短所を克服する以外に方法はない、ということなのです。

 その意味では、先の戦争は日本がその完全な失敗(日本人の死者は約310万、アメリカは約9万、中国人の死者は、日本の日中戦争における死者が約40万程度ですから、その10倍と見て400万程度と見て良いのではないかと思いますが)から自らの弱点を学ぶための貴重な民族的体験と見るべきなのです。その時――これはイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争でベンダサンが指摘したことですが――そうした自民族の失敗の責任を問うことは、その歴史的遺産の内、負債部分をも引き請けるものだけに許される。財産だけ受け取り負債は拒否するものにはその資格はない、ということなのです。

 保守系の人たちが日本の伝統文化の遺産を大切にしそれを育てていこうとするならば、なおのこと、その負債部分もしっかり受け取り、必要な総括をして、自らの国の信を立てる必要があります。山本七平は、そのためには、日本人が無意識に生きている「日本教」ともいうべき信仰観念を対象化しなければならないと考えた。また、自らの戦争体験を語ることで、その新たな思想発展の糸口を探ろうとしたのです。そこで、日本思想の流れをつかむために、平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作や黄表紙までの文献を読み続けたのです。

 山本七平が、自らの名前で「日本軍隊論」を書き始めたのは、横井さんがグアム島、小野田さんがルバング島から出てきたことの感想を文藝春秋から求められたことがきっかけになっています。その結果、『私の中の日本軍』を初めとする日本軍対論4部作が生まれたのです。それを見れば、彼が共にジャングル戦を戦い死んでいった戦友たちにどのような「まなざし」を持っていたかが判ります。また、「百人斬り競争」という罪で死んでいった向井・野田両少尉の冤罪を、なぜ氏が晴らそうとしたかが判ります。

 彼が朝鮮人差別をした?そんなことをいう人は『洪思翊中将の処刑』を読んで下さい。山本はそれまで出版記念会などというものはやりませんでしたが、この本の出版記念会だけは、洪思翊中将の遺族とともに行っています。また、この本には構想から出版まで12年もの歳月をかけました。この本は、山本が本当に書きたかった二冊の内の一つだろうとも言われています。レイシズム?ご冗談を!山本は、話が聞きたいという人がいれば、どこにでも出かけていきました。創価学会にも統一協会にも・・・誤解されるからやめた方がという人もいたそうですが、氏は「言葉の力」を信じたのです。

 氏は、「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と常々言っていました。思想に対してそういう態度をとる人が、他民族に対して差別的な態度はとるはずはないと思います。大切なことは、自分の言葉、思想、行動を一致させることです。mugiさんの言葉には、他をレイシストと批判しつつ、自ら特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました。人間は自己正当化を免れませんが、でも、その自分を対象化し欠点を是正することはできます。このことを日本の伝統文化について行ったのが、山本七平だったと私は思っています。

2011.10.26校正

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