山本七平をめぐる論争
本ブログは、山本七平の思想の紹介とその検証を主な目的としています。しかし、山本七平については風評的な誤解があって、食わず嫌いの人も多いようです。私としてはそうした誤解をできるだけ解きたいと思っています。以下の文章は「一知半解」さんのブログで出会ったmugiさんとのやりとりです。この問題を考える上で参考になるのでは、と思いましたので、ここに紹介させていただきます。双方のやりとりはコメント欄で行っています。
mugiさん、横レスごめんなさい。一つ気になったものですから、私見を申し述べさせていただきます。かって山本七平は本多勝一氏との論争を契機に、「クリスチャンなのに、天皇制擁護に汲々とする右翼文化人、自衛隊擁護・憲法改正論者、原発推進論者、元号擁護論者、あげくの果ては朝鮮人を差別し、民族差別するレイシスト」などと、さんざん攻撃されてきました。一つの言を立てるということはこれほど過酷なものかと、むしろ氏の言葉に感銘を受けてきたものとしては、その怨念ともいうべき対立感情の激しさに、改めて人間の限界について考えさせられたものでした。
ところが、最近では、こうした方面からの批判に加えて、さらにmugiさんのような保守系の方から、「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物」と評されるようになったのですから、いささかビックリしました。おそらく、山本七平の論が右とか左とか色分けできるものではなかったことから、こうした現象が起こったのでしょうが、ぜひ、mugiさんにはサヨクと称される人たちが陥ったような「自己絶対化」の罠には陥らないようにしていただきたいと思います。
山本七平は日本民族に対してどういう役割を引き受けたか、それは、本エントリーとも関わるのですが、「日本人が無意識の前提としている人間信仰の観念を自覚させる」ことによって、「言葉による」日本文化の新たな発展の糸口を見つけようとしたのです。そのための手がかりとして、氏の軍隊経験(21歳で応召し、フィリピンのジャングルで骨と皮の終戦を迎え、その後捕虜収容所で戦犯の取り調べを受け、戦後は38歳になるまで熱帯潰瘍外の戦争後遺症に悩まされた)を語ったのでした。
日中戦争や大東亜戦争を語るとき、最近は世論の空気が、かっての革新一色のものから保守一色へと変わりつつあり、いわゆる「自虐史観」(山本はこれを「中国人天孫vs日本人犬猿」論と説明)の裏返しとしての「自尊史観」が主流となりつつあります。だがこうした見方はいずれも、中心文化(中国あるいは西欧)への迎合と反発を繰り返しているだけであって、大切なことは、いずれの民族文化にも長所と短所があり、時代の変化に対応して生き残るためには、その長所を生かし短所を克服する以外に方法はない、と知ることなのです。
その意味では先の戦争は、日本がその完全な失敗(日本人の死者は約310万、アメリカは約9万、中国人の死者は、日本の日中戦争における死者が約40万程度ですから、その10倍と見て400万程度と見て良いのではないかと思います)から自らの弱点を学ぶための貴重な民族的経験と見るべきなのです。その時―これはイザヤ・ベンダサンと本多勝一氏の論争でベンダサンが指摘したことですが―そうした民族の失敗の責任を問うことは、民族の遺産の内、負債部分も引き請けるものだけに許される、債権だけ受け取り負債は拒否する、そんな態度は許されない、ということです。
保守系の人たちが日本の伝統文化の遺産を大切にしそれを育てていこうとするならば、なおのこと、その負債部分もしっかり受け取り、必要な総括をして自らの国に信を立てる必要があります。山本七平は、そのための第一歩として、日本人が無意識に生きている「日本教」というべき信仰観念を客体化するという方法で、先の戦争の原因を解明し、その新たな思想発展の糸口を探ろうとしたのでした。でなければ、平家物語、太平記、神皇正統記、貞永式目から、さらに江戸時代の思想家群の著作・黄表紙に至までの文献を読み続けるはずがないではありませんか。
戦後、こうした文献に目をやる人は皆無(戦前の日本の歴史は暗黒と見たため)で、神田の古本屋街ではこれらはほとんど紙くず同然だったといいます。山本七平はそれを49歳に至るまで一人で読み続け、かって自分が体験した「戦争の謎」を解こうとしたのです。その時、彼が共にジャングル戦を戦い死んでいった戦友たちにどのようなまなざしを向けたか、それは彼の「軍隊4部作」を見て下さい。そしてこれらの著作の最初の動機は、百人切り競争という無実の罪で死んでいった向井・野田両少尉の汚名を晴らすことだったのです。『私の中の日本軍』の最後で山本が両少尉の魂に呼びかけた言葉を聞いて下さい。
彼が朝鮮人差別をした?そんなことをいう人は『洪思翊中将の処刑』を読んで下さい。山本は出版記念会などはやらなかったが、この本の出版だけは、中将の遺族とともに行いました。また、この本には構想から出版まで12年もの歳月をかけました。おそらく山本が本当に書きたかった本二冊の内の一つだろう、とも言われています。レイシズム?ご冗談を!山本は、話が聞きたいという人がいれば、どこにでも出かけていきました。創価学会にも統一協会にも・・・誤解されるからやめた方がという人もいたのですが、氏は「言葉の力」を信じたのです。
氏は、「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と常々いっていました。思想に対してそういう態度をとる人が、民族に対して差別的な態度をとるはずがないではありませんか。大切なことは、自分の言葉と自分の思想即ち行動を一致させることです。それが誠実というものです。mugiさんの言葉には、他をレイシストと批判しつつ、自ら特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました。人間は自己正当化する動物ですが、それを自覚できる動物でもあります。このことを日本の伝統文化に対して行ったのが、山本七平だった、私はそう理解しています。


私が言っているのは、他者の言葉ではなくて、自分自身の言葉について言っているのです。確かに、他者の言葉に対してはできるだけ寛容でなければなりませんが、自分自身の言葉に対しては責任を持たなければならない(責任を持つとは誤りを含まないという意味ではありませんよ)という至極当然のことを言っているに過ぎません。お互いにその前提があってはじめて人は他者の言葉に対して寛容になれる。無責任な言葉に対しては応答しなくなります。
投稿: tikurin | 2009年7月 8日 (水) 03時51分
tikurinさん、レスを有難うございました。山本ファンとそうでない者では所詮見解が異なるので、今回で私からもレスを終わりにさせて頂きます。
>無名人だから無責任な発言をしても良いということにはならない、といっているだけです。
もちろん仰るとおりですが、人の口に扉は立てられないのが人間社会。発言の責任を喧しく追及することこそ、異論や言論抑圧に繋がるのでは?『日本人とアメリカ人』に目を通したのですが、例え相手の言葉遣いや態度が悪かろうが、発言は許すのがアメリカだと山本が書いていたのを憶えています。
「ペンネームについて」なら以前拝読したし、その感想も書いています。貴方は理解する必要があると仰いますが、理解度は個人によって異なるのをお忘れではないでしょうね。そして踏み絵についての例えも、正直にいわせて貰えばおかしい点があります。これはブログネタになりそうで(笑)。
>では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね。
個人的にインドに関心がありますが、ヒンドゥー文化圏もまた多神教or汎神論。もちろん日本と違い、多民族、多宗教国家で社会背景は全く異なるけど、あれだけ多様な思想を認める文化圏もない。日本の場合、横並び傾向が異様に強いのは確かです。イスラム圏はまだマシですが異端審問、魔女狩りを西欧が行っていたのは遠い昔ではありませんでしたし、儒教圏は19世紀までキリスト教徒迫害は続きました。
>ご自分の”正確な記録”は疑っていませんね
そこまで私は絶対的な自信はありませんよ。山本も含め人間誰しも間違いを犯すし、だから「正確に書いた“つもり”」とコメしました。間違いがあると感じられたなら、是非指摘して頂きたかったです。貴方も山本とユダヤ人との版権問題を挙げて、「事実は次の通りです」と断定形で明記されましたが、これも“事実とされていること”であり、真実は実際の所、第三者には確認できません。
>これは山本をレイシズムの持ち主=レイシストと決めつけた言葉ですね。
ああ、そうでしたね。山本教徒からすれば大変な不敬発言で失礼致しました。mottonさんというのは時々拙ブログにコメントされる方で、勇み足気味の私に対し、鋭い指摘をされる上、私より学があるのでこの方の意見は尊重しています。貴方は不快でしょうけど、彼のコメントを改めて挙げておきます。
-一兵卒の視点から日本(日本軍)の問題を日本人論とからめて書いているのですが、一言『貧すれば鈍す』でほとんど終わる話です…「敗れたのか」ではなく「敗れるのか」かなんですよね。ということは、その原因から当時の環境(貧しさ)に起因のものは除かないと意味がない。ところが全てを日本人(日本社会) に原因をもってきているように見えました。これは科学的思考ではなくレイシズム的思考でしょう…
さらに彼は、こうコメントされてました。
「日本人とユダヤ人」などを読んで思ったのは、日本人が情で動くとか控えめとかとんでもない誤解なんじゃないかということです。むしろ日本人は合理的で利に敏いのではないかと。
「空気を読む」にしても、短期的には損をしても集団内での長期的利益を確保するための計算された合理的行動ですし、舶来崇拝も、栄えている(と伝え聞いた)国のものは良いもの(利益になるもの)であろう、ということじゃないかと思います。
(山本七平によると「日本人は政治の天才」だそうです。)
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/ee4cedff4b3e7bc0ddaabd9435195690#comment-list
>貴方の欧米キリスト教観やイスラエル観についてとやかく言うつもりはありません
とやかく言ってくださっても結構ですよ。「言葉の力」を信じている貴方なら、鋭い反論が出来るはずだし、私の浅はかな誤りを指摘されるのは有難いことです。
左翼が議論する時、彼らの決まり文句は次のパターンでした。「無責任な発言」「~を理解する必要がある」「甚だ穏当を欠く」「十分調べもしないで」「やめるべき」「勝手な論」…
私からすれば、彼らこそ責任を欠く発言をし、理解というより願望解釈、よく調べもせず穏当を欠く勝手な発言を繰り返す。要するに己自身は棚に上げ、感情的に他人を糾弾、説教している狭量さ。なお、相互理解というの社会主義用語だったと書いたブロガーさんもいました。貴方はまさか左翼ではないと思われますが、本当にお互い気をつけましょう。
以上、不躾な非信者のコメントに真摯にお相手をして頂き、有難うございました。貴方の多神教or汎神論への見方は、実に興味深く参考になりました。
投稿: mugi | 2009年7月 5日 (日) 17時26分
mugiさんへ
貴方の言葉
”私自身は「言葉の力」をあまり信じておりません。ブロガーがこんなことを書くのは意外に思われるかもしれませんが、ネットやブログは私にとって趣味であり、情報収集のツール以上のものではありません。ハンドルからしていい加減な人間だし、己の言葉に力があるとは思ったことはないのです。”
と書いたので、これ以上の議論は必要ないと思っていました。今回で終わりです。
mugi著名人の発言は無名人とはその影響力が格段に違い、特権に伴う責務もあると思います。無名人も著名人も一緒というのは、あたかも日本的平等思考のようですね。
tiku 私は著名人の発言が無責任であって良いと言っているのではありません。ただ、無名人だから無責任な発言をしても良いということにはならない、といっているだけです。
mugi そして、著作がユダヤ人との共同作業だったとしても、存在しないユダヤ人ベンダサンというキャラクターの名で本多との論争を行ったのならば、左翼が偽ユダヤ人と糾弾するのは当り前なのです。ファンならそれでよいとするでしょうが、非ファン、まして敵ならそう思わない。何故本名で論争をしなかったのか、これは実に残念です。当時の言論界は山本のような発言を許さなかったから?ならば、彼もまた空気に屈したとなりますね。ユダヤ人の威を借りた文化人と見なされる可能性もあるのに。
tiku ベンダサンが『諸君』に「日本教について」というエッセイを連載していて、その中の「朝日新聞のゴメンナサイ」という記事に対して本多勝一氏が論争を挑んだのです。
また、ペンネームは偽名でも匿名でもない(「山本七平学のすすめ」参照http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/goroku_bendasan.html#ペンネームについて)、ということを理解する必要があります。議論は本論で堂々とやればいいのではないでしょうか。
mugi貴方が仰る「自己絶対化」という概念が、私にはよく分らないのです。自己正当化なら分りますし・・・
tiku mugiさんは聖書にお詳しいようですが、私は、それは、唯一絶対神と人間との垂直の契約関係を基軸にして、人と人の横の関係のあり方を述べたものと理解しています。「自己絶対化」とは、神ならぬ人間である自己自身を絶対的な位置に置くことです。私はその危険性を指摘しているだけです。mugiさんは一神教が「自己絶対化」につながることを心配しておいでですが、聖書における神と人間との関係は基本的に律法的契約関係であって(それも新訳では隣人を慈しむことを第一義としている)、人間の方から神に接近しそれと無条件に臨在感的に一体化することではありません。いうまでもなく後者は日本的な神人関係ですね。ただ日本の場合は神概念そのものが絶対神ではないので危険性もないのですが、これが平田篤胤のように日本神話を(イザナギ、イザナミをアダム、エバに擬し)創造神話化すると、その末裔に、神と人が万世一系でつながっているゆえに、自分自身を絶対化するものが現れるのです。これが昭和の超国家主義の源流となったのです。
mugi「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。
tiku では、多神教or汎神論の日本人にはこれができるかというと、難しいようですね。
>要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。
mugi人間は嘘をつく生き物であり、世に出回っている“正確な記録”なるも必ずしも信用は出来ません。
tiku 完全に正確な記録は誰にも書けませんが、複数の”不完全な記録”をもとにより真実に近い事実に迫ることはできます。mugiさんは次のパラグラフで”私は事実を正確に書いたつもりです”と言っているではありませんか。ご自分の”正確な記録”は疑っていませんね。
mugi他にいささか不可解だったのですが、貴方は以前私の言葉に「他をレイシストと批判しつつ、自らに特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました」と指摘されましたね。この理由が分らないのです。確かに“特定の民族”に私は芳しいことは書いていませんが、私は事実を正確に書いたつもりです。私はレイシストの言葉を使った覚えはありませんし、他のレイシズムを列挙したに過ぎません。白を黒と書けばレイシズムですが、黒を黒と書いたことがレイシズム的断定となるのでしょうか?山本が親近感を抱いた“特定の民族”の不都合な事実を挙げることが、お気に召さなかった?これまた貴方のレイシズム的断定となりませんか?
tiku そもそも私が今回貴方に異議申し立てをしたのは、貴方の次の文章が甚だ穏当を欠くものだったから、事実関係を説明して誤解を解いてもらおうと思ったのです。
「日本社会には手厳しい非難をする山本は、欧米人キリスト教徒の悪行には所詮何もいえなかった人物だったのですね。クリスチャンの居直りと擁護といったところ。元から私は山本を全面信用できず、眉唾で見ていましたが、彼の意見には失望しました。イスラエルのご意向を元に書いた御用文化人。レイシズムと見抜いたmottonさんは正解でした。」
tikuこれは山本をレイシズムの持ち主=レイシストと決めつけた言葉ですね。なお、あなたが「特定の民族に対するレイシズム的断定がある」と言われることを忌避されるなら、同様に、十分調べもしないで他をレイシスト呼ばわりすることはやめるべきです。また貴方の勝手な黒白論議はご自身のこととされますよう。なお、貴方の欧米キリスト教観やイスラエル観についてとやかく言うつもりはありません。
mugi左翼のような“自己絶対化”こそ、他山の石になさいませ。
tiku お互い気をつけましょう。
投稿: tikurin | 2009年7月 3日 (金) 06時06分
再びtikurinさんへ
tikurin さん、またも真摯かつ丁重なレスを有難うございました!
以下は私の私見ですが、当然貴方とは性格も年齢も価値観も異なるので、見方もまた異なるのはご了承下さい。
>言葉に対する責任という点では、無名人も著名人も変わりはないと思います。
私はその点は違いますね。聖書を読まれたのなら、ルカによる福音書に由来する「ノブレス・オブリージュ」という言葉はご存知でしょう。mugiなるふざけたハンドルのブロガーは論外ですが、著名人の発言は無名人とはその影響力が格段に違い、特権に伴う責務もあると思います。無名人も著名人も一緒というのは、あたかも日本的平等思考のようですね。
特にその道で食べている言論人が言葉に対する責任を持ってほしいものですが、日本の知識人層はそれが薄いように思えます。匿名ネットの無責任を非難するマスコミもまた、言葉に対する責任意識が稀薄。もちろん海外のメディアもいい加減ですが、言葉に対する責任をとりたがらないのこそ、人間の本性かも。
そして、著作がユダヤ人との共同作業だったとしても、存在しないユダヤ人ベンダサンというキャラクターの名で本多との論争を行ったのならば、左翼が偽ユダヤ人と糾弾するのは当り前なのです。ファンならそれでよいとするでしょうが、非ファン、まして敵ならそう思わない。何故本名で論争をしなかったのか、これは実に残念です。当時の言論界は山本のような発言を許さなかったから?ならば、彼もまた空気に屈したとなりますね。ユダヤ人の威を借りた文化人と見なされる可能性もあるのに。
貴方が仰る「自己絶対化」という概念が、私にはよく分らないのです。自己正当化なら分りますし、大なり小なり人間は自己生存のためその傾向がある。これまで私はある人物若しくは集団を絶対化して見たことはないのです。尊敬する人物や集団はいても、どうもへそ曲がりなのか何か1つケチをつけずにはいられない。ある対象を絶対視するのは好みではありません。
仰るとおり個人が誰を絶対化しようが自由ですが、そのような者は他人にも己と同じことを求めるようになるので厄介です。「思想というものは、自分がそれで生きられれば十分のものであって、他人に強制するものではない」と、山本は常々いっていたそうですが、これは一神教なら難しいでしょうね。「寛容と無関心は表裏一体であり、人間は関心のある事に無関心ではいられない」と言った人物もいます。
>要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。
人間は嘘をつく生き物であり、世に出回っている“正確な記録”なるも必ずしも信用は出来ません。残念ながら虚偽や捏造が「真実」としてまかり通るのが人類史。聖書に限らず宗教書は粉飾や誇張だらけなのも、人間が正確さに欠けるものだと思いませんか?「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話に他ならない」と言ったのはナポレオンですが、彼は大変な読書家で歴史に精通していたのです。
他にいささか不可解だったのですが、貴方は以前私の言葉に「他をレイシストと批判しつつ、自らに特定の民族に対するレイシズム的断定があるように思われました」と指摘されましたね。この理由が分らないのです。確かに“特定の民族”に私は芳しいことは書いていませんが、私は事実を正確に書いたつもりです。私はレイシストの言葉を使った覚えはありませんし、他のレイシズムを列挙したに過ぎません。白を黒と書けばレイシズムですが、黒を黒と書いたことがレイシズム的断定となるのでしょうか?山本が親近感を抱いた“特定の民族”の不都合な事実を挙げることが、お気に召さなかった?これまた貴方のレイシズム的断定となりませんか?
『日本人とユダヤ人』に古のユダヤの賢者の言葉が載っています。「頭の空の人間ほど、議論を好む」「愚者は言葉を多くする」「愚かな者はすぐ怒りを表す」…私には耳が痛かったですが、賢者はいつの時代も至って少ない。貴方自身はさぞ言論に誠実に責任を負い、言行一致の人物と思われますが、自分のことはなかなか冷静に見れないものです。左翼のような“自己絶対化”こそ、他山の石になさいませ。
投稿: mugi | 2009年7月 3日 (金) 00時00分
mugiさんへ
mugi しかし、外国人に成り済まし、生涯それを貫き通したならば、その姿勢に懸念をもたれても当然ではないでしょうか?
tiku 事実は次の通りです。
イザヤ・ベンダサン名の著書は4冊、山本七平名の著作は共著も含めて200冊以上あります。この4冊の内問題にされているのは2冊『日本人とユダヤ人』『日本教について』です。なぜか、前者は、当時の左翼の絶対平和主義を刺激したため、後者は本多勝一氏の「中国の旅」を批判したためです。所詮、政治的な動機なのですよ。
では、なぜこの4冊がイザヤ・ベンダサン名になったか、それは『日本人とユダヤ人』は二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ローラーとミンシャ・ホーレンスキー)と山本七平の合作で、二人のユダヤ人のうち後者が著作権を持ち、もう一人は資料提供、山本七平は資料提供と編集を担当したようです。従って山本七平はこの本については版権しか持っていません。その後の『日本教について』(s47)『日本の商人』(s50)『日本教徒』(s51)は山本とホーレンスキーの合作と山本は説明していますが、後者の関与は資料提供程度ではないかと思われますが、このあたりは私もよく判りません。
これとは別に、山本は自分自身の名前で著作を開始しています。『私の中の日本軍』が最初です。これらは自らの体験を語るものだったからでしょう。
ではなぜ、上記の著作にベンダサン名が使われたかは、『日本人とユダヤ人』『日本教について』『日本教徒』は「日本教」という独創的見解に関わるもの、『日本の商人』は「日本で国際水準にあるのは商人だけ」という指摘が、これも当時の常識と逆行する独創的見解だったからだと思います。この外に「ベンダサン氏の日本の歴史」がありますが、これも、漱石の「こころ」の分析にはじまる日本思想の源流を探る独創的見解でした。そうした独創性を、余計なことを詮索されることなく、世に問う気持ちがあったのではないでしょうか。(もちろん共著者の存在も大きかったと思います。)
『日本人とユダヤ人』は大宅壮一ノンフィクション賞が賞されましたが、日本にも「読み人知らず」の優れた作品が残されているのだから、著者不明であってもかまわない、ということでこの授賞が決定しました。
mugi (ネットにおける書き込みにハンドル名を使うことと、著作者が自分の所在を明らかにすることの違いについて)まして無名の庶民ブロガーと立場は違い、著名人なら社会的責任が伴うのは当然なのです。
tiku 言葉に対する責任という点では、無名人も著名人も変わりはないと思います。
mugi貴方は「山本絶対化」(これは無害)と仰いますし、確かに個人の一作家絶対化なら無害でしょう。しかし、天皇や書記長、将軍なら有害の傾向大で、宗教の原理主義者のように「教祖」の絶対化は、己の絶対化にも繋がります。
tiku 個人がどなたを絶対化しようと、それは思想信条の自由あるいは信仰の自由の問題で、他人がとやかく言う問題ではありません。教祖の絶対化が己の絶対化につながるというのは、それはその人が教祖を絶対化していない証拠ではないでしょうか。昭和の青年将校は天皇絶対といいながら、奉勅命令も無視し自分を絶対化していました。
mugiところで、tikurinさんにお尋ねしたいのですが、貴方は聖書、殊に旧約聖書を読まれていますか?・・・聖書でも旧約だけは是非読んで頂きたいものです。聖書の解釈は個人差がかなり大きいですが、ユダヤ、キリスト教思想の一端は見えてきますよ。
tikuおそらく、聖書のホロコースト的迫害・弾圧・差別の歴史の記述についておっしゃっておられるのでしょうが、山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています。
mugi 私は山本の「軍隊4部作」を未読なので論評は出来ませんし、彼の主張について貴方と議論することも不可能です。やはり読まない限りは、お相手になれないですね。
山本ではありませんが、くどくどと女のグチのように戦時の苦労話を書き連ね、戦争を語るというスタイルは、はっきり言って狭い体験の年寄りの繰言であり、ウンザリさせられます。「俺はこんなに苦労したんだ。是非、俺の話を聞け」と言わんばかりの同情と同意の押し付けであり、民間人は黙っていろ、との戦前の軍部に似ていないでしょうか?岡目八目の通り、案外部外者の方が状況を把握することもある。
tiku 先の「正確に記録して後世に残す」に尽きると思います。その記録をどのように受け取るかは後世の自由ですが、山本はこれを伝統文化として継承し失わない限り、民族は存続する、といっています。それにしても張作霖事件の真相を日本が隠蔽したのが悲劇の始まりでした。
mugi山本の書を丹念に読めば、また印象も変わるかもしれませんけど、読書の感想は十人十色であり、貴方が感銘しても私が同じとは限らない。
tiku きっと印象も変わると思いますよ。「一知半解」さんのブログに来られているのですから。
投稿: tikurin | 2009年7月 2日 (木) 23時38分
tikurinさん、こちらでは初めまして。昨日は大変丁重なレスを有難うございました!
一知半解さんの使用しているFC2ブログですが、何故か私のコメントが「禁止キーワードが含まれています」と弾かれてしまい、書込みが出来ません。これで2度目ですが、やはり宗教に関することはブロック対象となるようです。仕方ないので、記事とは全く無関係で恐縮で申し訳ありませんが、こちらにコメントさせて頂きました。
>magiさんは中東情勢に関する研究者のようですが
それは誤解であり、先に挙げた記事「イスエラルの御用文化人」にも書きましたが、私は単なる中東オタクの無名一社会人に過ぎません。なお、細かいことですが、私のHNは“mugi”であり“magi”ではありませんよ。
山本の偽ユダヤ人に関し、貴方はネットのハンドルの例を挙げておられますが、これは事例が異なるのではないでしょうか?ネットでも成り済ましは多く見られるし、多くは匿名ゆえ格好を付けたい底の薄い大言壮語。それゆえマスコミがネットの匿名性を槍玉に挙げて非難するのですが、日本の新聞も記者名はあまり載ってないからネットと変わりない。また、ペンネームも著名作家なら顔や実名も分ることが多いし、あくまで内容が重要なのでペンネームで書いても問題はない。
しかし、外国人に成り済まし、生涯それを貫き通したならば、その姿勢に懸念をもたれても当然ではないでしょうか?「作家だからフィクションでした」との疑いも可能であり、社会評論家の姿勢を問う者が出て来ても不思議はない。まして無名の庶民ブロガーと立場は違い、著名人なら社会的責任が伴うのは当然なのです。
紹介されたベンダサンのペンネームについてですが、私には結局自己弁護にしか感じられませんでした。フランス人に成り済ました米国人作家が正体がバレた時、この作家は信用失墜するのは予測できるでしょう。ファンの貴方に是非伺いたいことですが、何故彼はユダヤ人に成り済ましたのでしょうね?
他にベンダサンは踏み絵について触れてますが、同時代の西欧の異端審問や魔女狩りなど、踏み絵の比ではない。この時代、これは当り前でしたが、やはり「身内」に甘いようですね。貴方は「山本絶対化」(これは無害)と仰いますし、確かに個人の一作家絶対化なら無害でしょう。しかし、天皇や書記長、将軍なら有害の傾向大で、宗教の原理主義者のように「教祖」の絶対化は、己の絶対化にも繋がります。
ところで、tikurinさんにお尋ねしたいのですが、貴方は聖書、殊に旧約聖書を読まれていますか?山本=ベンダサンも書いたとおり、聖書でも旧約だけは是非読んで頂きたいものです。聖書の解釈は個人差がかなり大きいですが、ユダヤ、キリスト教思想の一端は見えてきますよ。
上記で管理人さんが紹介されてますが、山本の言葉を改めて引用します。
-強い敵意と違和感のため、相手が絶対に受けつけないメッセージを、いかにして相手に伝えるか。その方法は一つしかない。これは多神教のローマに進出した初代キリスト教徒が迫害と殉教の中で会得した方法で、その第一歩は「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」である。
19世紀にアジアにやって来た欧米人宣教師は決して異教徒の宗教に無知ではなく、むしろ教典を丁寧に調べた上でした。理解するのではなく、弱点、矛盾点を徹底的に責め、相手側の精神文化的基盤を破壊するためなのです。そして布教、キリスト教化を図る。改宗した現地人は宣教師の下僕となったのです。これは近代だけの現象とは思えません。どの国も仮想敵国や同盟国にシンパを作ることはやっているし、それが国家戦略でしょう。
私は山本の「軍隊4部作」を未読なので論評は出来ませんし、彼の主張について貴方と議論することも不可能です。やはり読まない限りはは、お相手になれないですね。
山本ではありませんが、くどくどと女のグチのように戦時の苦労話を書き連ね、戦争を語るというスタイルは、はっきり言って狭い体験の年寄りの繰言であり、ウンザリさせられます。「俺はこんなに苦労したんだ。是非、俺の話を聞け」と言わんばかりの同情と同意の押し付けであり、民間人は黙っていろ、との戦前の軍部に似ていないでしょうか?岡目八目の通り、案外部外者の方が状況を把握することもある。
先日、拙ブログにコメントされた方から、あるブログ記事の紹介がありました。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/62d32ebcfe1d6cd11986c9ff86e1c49c
このブロガー氏、やたらユダヤ陰謀論を取り上げるため、“心に暗雲”と揶揄されていたし、押し付けがましく独善的な傾向が強く必ずしも賛同できません。それでも、この記事は興味深いものでした。ネットではマスコミに対する非難はよくありますが、言論界も問題はある。マスコミの寵児の文化人も全面信用は出来ないですね。山本の書を丹念に読めば、また印象も変わるかもしれませんけど、読書の感想は十人十色であり、貴方が感銘しても私が同じとは限らない。
「イスラエル擁護のメディア、ブロガーもメディア戦争に参加」というサイトも興味深い。これぞ、「違和感のある情報を受け付けようとしない「体質」」の典型ですが、先日、弱小の拙ブログの四ヶ月ちかく前の記事に、どうして知ったのかイスラエル擁護のコメントがありました(笑)。
http://groups.google.com/group/rael-science-japan/browse_thread/thread/fe718ec8c81f9653/c05c6a628d61b2fe?show_docid=c05c6a628d61b2fe
投稿: mugi | 2009年7月 2日 (木) 23時36分