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2009年8月

2009年8月24日 (月)

教育政策について民主党と自民党のマニフェストを比べて見た――民主党は80点、自民党は0点

 戦後64年を経て、ようやく政権交代のできる時代になったようです。特に政権選択の目安となるマニフェストが、政党と選挙民の政策公約として提示され、かつ財源等も明示されていますから、これら公約の実現可能性は、従前よりはるかに高くなったといえます。 そこで、せっかくの機会ですので、自民党と民主党のマニフェストを、私が専門としている教育行政分野について、その政策プランを比較して見ました。ただ、冒頭から誠に恐縮ですが、自民党のこの方面の改革提言はゼロでまるで比較になりません。

 これだけ見ても自民党の退場は約束されたかのようですが、民主党のそれは、逆に戦後教育改革を根本的に見直す壮大な改革プランとなっていますので、果たして本気かどうか改めてチェックし、政権獲得後の行動を監視する”よすが”としたいと思います。

 まず、「民主党政策INDEX文部科学」(これをそのままマニフェストと見ることはできないのかもしれませんが)から関連項目を見てみます。*部分は私のコメントです。

日本国教育基本法案
民主党の教育政策の集大成である「日本国教育基本法案」の主な内容は以下のとおりです。

(1)何人にも「学ぶ権利」を保障(2)普通教育の最終的な責任が国にあることを明記(3)幼児期および高等教育において無償教育を漸進的に導入(4)地方の教育委員会を発展的に改組した「教育監査委員会」を創設し、教育行政の責任を首長に移管(5)教育予算の安定的確保のため、教育財政支出について国内総生産(GDP)に対する比率を指標とする――などです

 さらに、建学の自由と、私立学校の振興、障がいのある子どもへの特別な状況に応じた教育、情報文化社会に関する教育、職業教育などの規定を設けるとともに、生命あるすべてのものを尊ぶ態度や、宗教的感性の涵養および宗教に関する寛容の態度を養うことを教育上尊重する規定を設けました。

*現行の教育基本法(2006年11月16日、衆議院本会議において、政府提出の改正案について、野党欠席のまま与党単独で採決が行われ、可決されたもの)を改正するということでしょうか。

 そもそも教育基本法というのは、国の教育行政理念(教育政策の基本方針と教育制度の基本的枠組み)を明示するためのものであって、教育理念を法定するものではありません。

 その意味で現行教育基本法は、その基本的性格が曖昧で、自民党は2006年の教育基本法改正によって、「教育正常化」(国民道徳の確立or日教組対策?)ができると考えているようですが、見当違いというほかありません。

 そういう観点からいえば、教育基本法改正も必要となりますが、民主党のかっての教育基本法改正案も、教育基本法の基本的性格を「理念法的」に捉えていましたから、なお時間をかけて議論していくべきことと思います。

 それはともかくとして(4)は、後述するように、現行教育委員会制度(都道府県教育委員会及び市町村教育委員会)の全面廃止を提言するものです。これに代わって「教育監査委員会」を創設するということが提言されていますが、これは教育委員会に代わるものではなく、自治体の首長が実施する地方教育行政あるいは学校経営に対する審査機関としての権能を有するものだと思います。

教育の責任の明確化
 国の責任と市町村の役割を明確にした教育制度を構築します。

(1)国は、義務教育における財政責任を負うとともに、「学ぶ権利」の保障について最終責任を負います(2)現行の教育委員会制度は抜本的に見直し、自治体の長が責任をもって教育行政を行います(3)学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会制度により、主体的・自律的な運営を行います。

*(2)は、先に述べた通り、現行の教育委員会制度を廃止して、その責任主体を自治体の首長(人口約30満程度の基礎的自治体を想定していると思われる)に移すというもので、もしこれが実現すれば、戦後GHQが行った教育行政改革の抜本的見直しとなります。その上で、各学校に「学校理事会」を置き主体的・自律的な学校運営に当たらせる、というのです。

 この学校理事会というのは、各学校に置くのか、自治体に置くのか必ずしもはっきりしません。8/24日の段階では、「教育監査委員会」が教育委員会に変わるものとして設置されるとしていることから、これを学校単位に設置するものと理解してきましたが、『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか』新保哲生著を見ると自治体に設置するもののようにも見えます。おそらく、必ずしも議論が煮詰まっていないと言うことでしょう。以下、とりあえず、それを学校に置くものとして私見を述べます。(9/2挿入)

 ここで問題となるのは、「学校経営」の責任主体が必ずしもはっきりしていないということです。自治体の首長のもとにおく「学校経営組織」と、各学校に置かれる学校理事会との役割分担が明確でないということです。私見では、学校の主体的・自律的な運営を保障しつつも、それを経営的に取りまとめる専門的「学校経営組織」を首長のもとに置かざるを得ず、これをどのような組織にするかが、今後問題になると思います。この学校経営機関のパフォーマンスを審査し首長に対して勧告をなすのが「教育監査委員会」の役目ではないかと思います。

中央教育委員会の設置
 教育行政における国(中央教育委員会)の役割は、(1)学習指導要領など全国基準を設定し、教育の機会均等に責任を持つ(2)教育に対する財政支出の基準を定め、国の予算の確保に責任を持つ(3)教職員の確保や法整備など、教育行政の枠組みを決定する――などに限定し、その他の権限は、最終的に地方公共団体が行使できるものとします。

*教育行政における国の役割と地方の役割をどう分担するか。はっきり言えば、国は(1)全国的教育基準の設定、(2)教育予算の確保、(3)教職員の養成や教育関係法の整備など、教育行政の  大枠の設定に責任を持ち、その他の学校経営上の権限は地方自治体の権限とする、ということです。そうしたことを専門的につかさどる機関として中央教育委員会を置くとしているわけですが、「中教審」を機能強化するということでしょうか。

 あるいは、戦後教育行政改革における、「教育行政の一般行政からの独立」という改革理念を、中央政府において生かそうとしているのかもしれません。そうした国の教育行政をつかさどる権威ある機関=中央教育委員会ができることは私はこれも極めて重要なことだと思います。(挿入8/27)『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか』神保哲生著によると、この中央教育委員会とは、現在の文部省の権能から学校教育に関する権能をはぎ取った独立行政機関として設置するもの、としています。(挿入9/2)

保護者や地域住民等による「学校理事会」の設置
 地方公共団体が設置する学校においては、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する「学校理事会」が主な権限を持って運営します。学校現場に近い地域住民と保護者などが協力して学校運営を進めることによって、学校との信頼関係・絆を深め、いじめや不登校問題などにも迅速に対応できるようにしていきます。こうした学校との有機的連携・協力が生まれることは、地域コミュニティの再生・強化にもつながります。

*先に述べた通り、「学校理事会」がどれだけの学校経営上の権限を持つか、ということが問題となりますが、首長の教育行政に対して「教育監査委員会」が経営審査権を持つように、個別学校経営に対する経営評価権をもつようにすべきだと思います。といっても、基本的には対立関係ではなく、学校運営上の支援・協力関係(教育支援も含む)を基本とすべきことは言うまでもありません。

教育予算の充実
 先進国中、著しく低いわが国の教育への公財政支出(GDP(国内総生産)比3.4%)を、先進国の平均的水準以上を目標(同5.0%以上)として引き上げていきます。(以下略)。

学校教育環境の整備(略)

教員の質(養成課程を6年制に)と数の充実
 教員が職責を全うできるように、教員免許制度を抜本的に見直します。教員数を拡充するとともに、教員の養成課程は6年制(修士)とし、養成と研修の充実を図ります。(以下略)

*教員養成制度を6年制、修士課程修了とする。あわせて教員免許制度を抜本的に見直すとしていますが、これは戦後の教員養成の開放制とどう関係するのか(教職専門大学院を出ないと教員資格がもらえなくなる9/2)。いずれにしても現行の免許制度は教職の専門的職能を保証するものではなく、そのため採用選考試験がそれに代わるものとなり、教員の質の確保に困難を来しています。現在こうした問題点を改善するため免許更新制が導入されていますが、多分に予算の無駄遣いに終わる公算が高く、私見では、教員免許を国家試験化することが根本的な問題解決法だと思います。

教育の無償化
 高等学校は希望者全入とし、公立高校の授業料は無料化、私立高校などの通学者にも授業料を補助(年12万~24万円程度)します。(中略)
義務教育就学前の5歳児の就学前教育の無償化を推進し、さらに漸進的に無償化の対象を拡大することによって、保護者の教育費負担の軽減を図ります。

*公立高校の授業料無償化、私立高校の一定額の授業料補助の提言ですが、私は、低所得世帯あるいはやむを得ぬ事情により未納となる世帯に対する授業料免除制度でもよいのではないかと思います。もちろん、予算の余裕があれば無償でもよろしいでしょうが、限られた予算をどう有効に使うかということになれば、はたして、富裕な家庭にまで月一万円程度の授業料を無料とすることにどれほどの意味があるのか、私は疑問です。

高等教育の機会の保障(略)
奨学金制度改革(略)
私立学校の振興(略)

学習指導要領の大綱化
 学習指導要領の大綱化を促進します。設置者および学校の裁量を尊重し、地域・学校・学級の個別状況に応じて、学習内容・学校運営を現場の判断で決定できるようにします。

*学習指導要領の各教科の指導目標や指導内容に関する記述は、現在も「大綱」的なものですが、ゆとり教育に伴って導入された創意の時間や選択学習の時間の設定などが加わって、各教科等の時数の割り振りが極めて複雑なものになっていることは事実です。

 これは必ずしも学習指導要領だけの責任ではないのですが、義務制学校については学校経営の責任主体が明確になることでもありますし、指導内容や方法・時間の選択も含めて、設置者や学校の裁量にまかせて、教育効果を第一に考えたカリキュラム編成ができるようにすることが必要だと思います。

教科書の充実
 中学や高校などにおける教科書のデジタル化を進め、内容の充実を図ります。教科書採択にあたっては、保護者や教員の意見が確実に反映されるよう、現在の広域採択から市町村単位へ、さらには学校(学校理事会)単位へと採択の範囲を段階的に移行します。

*いずれにしてもデジタル化によって各種教材・資料の利用は格段に向上すると思います。かといって印刷された教科書が不要になると言うわけでもないでしょう。また、教科書採択については、いわゆる偏向教育を問題にする人もいるでしょうが、そこは先ほども申しましたように、首長の教育行政も明確となり、また学校経営の責任主体となる「学校経営組織」、あるいは学校理事会も設置されることですから、そうしたところでしっかりとチェックすべきことだと思います。

拡大教科書の充実(略)
学校安全対策基本法の制定(略)
学校施設耐震化の促進(略)
スクールカウンセラーおよびガイダンスカウンセラー制度の充実(略)
大学改革と国の支援のあり方(以下略)

 *以上民主党の教育行政制度改革に関するマニフェストを見てきました。はたして、どれほど真剣に考えているのかしら、といぶかる点なきにしもあらずです。しかし、ここに提示された政策は、現行教育委員会制度のほとんど病膏肓に入った感のある制度形骸化の現実を確実にとらえていると思います。

 今回の民主党のマニフェストの基本政策目標は「中央集権的な政府を『市民へ・市場へ・地方へ』の観点から再構築する」となっています。そうした観点から見た時、今回の民主党のマニフェストで約束された教育行政制度改革のための政策提言は、その基本政策目標に恥じぬ内容を備えており、その実現可能性と共に、政策立案の勇気を評価したいと思います。

 そこで、次に自民党のマニフェストですが、残念ながら教育行政制度改革の文言は一行もありません。あるのは「教員免許更新制の着実な実施」「教育現場の正常化」「全国学力テスト継続の実施」「少人数学級」「地域社会に開かれた学校づくり」「地域の伝統文化の継承と発展」「伝統文化を尊重する豊かな人間性と正しい倫理観を涵養する教育の実践」などという、おなじみのものだけです。

 「教育現場の正常化」とか「正しい倫理観の涵養」とか、前者は学校経営の責任主体を明確にしない限り解決できない問題ですから、それに対応した制度改革が伴わなければ意味がありません。また、キャッチコピーとしても時代が完全にずれています(今日、日教組と文科省は蜜月関係?)。まして後者については、政治家の仕事は、「倫理観の涵養」などではありませんから・・・。すでに自分自身をも見失ったか、というのが私自身の率直な感想です。

8/25am4:00 最終稿をアップしました。

2009年8月18日 (火)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――青年将校を政治に引き込んだ「森恪」という政治家

 昭和の青年将校はなぜ暴走したか2で、第二次山東出兵に伴って起こった済南事件について説明しました。この事件についての中国側の死者が三千名を超えるという被害報告は、児島襄氏の『日中戦争』の戦闘経過を見る限り、私にはいささか誇大な数字のように思われます。しかし、済南の商埠地における両軍の衝突事件が収まって後の、日本軍による済南城の無差別砲撃と占領が、中国側に甚大な人的被害をもたらしたことは疑いありません。それは単に”武威を示した”というに止まらず、中国の国家統一事業である北伐を妨害したものと受けとられても仕方のないものでした。 

 この事件については、『森恪』(森恪を「東亜新体制先駆」として称揚した伝記。山浦貫一著)でさえも、「而して第二次山東出兵は、田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路となったものである。」と記しています。(上掲書p691)それほどこの事件は、その後の日中関係を血みどろの仇敵関係に変えた運命的な事件だったのです。

 一般的には、昭和における軍部の暴走は、張作霖爆殺事件に始まると説明されます。しかし、この事件は全く愚劣としかいいようのない事件で、なぜこのような、時の首相(田中義一、陸軍大将)の意向を無視した暴虐な事件が起きたのか説明が難しいのです。というのは、これは河本大作の個人的謀略ではなく、「関東軍と陸軍中央部の張作霖排斥という総意を背景としており、満洲の治安維持のための、さらには『満州問題』一括解決のための強硬手段として行われたもの」だったからです。では一体なぜ、政府と陸軍の間に満州問題解決方針をめぐるこれほどの食い違いが生じたか。

 張作霖爆殺事件は、済南事件後の蒋介石の北伐にいかに対処するかをめぐる政府と陸軍の対立から生まれたものです。事件後蒋介石は済南を迂回し、さらに北上して進撃を続け、五月中旬には張作霖大元帥のいる北京陥落も時間の問題となりました。日本政府は、北伐軍の進出がやがて満洲の治安に影響することは必至と見て、北京政府(大元帥張作霖)及び南京政府(国民革命軍総司令蒋介石)に対して、「戦乱が満洲に波及の場合は治安維持の為適当有効の措置をとる」との「五・一八覚書」を交付しました。併せて張作霖に対して、奉天への引き揚げを勧告しました。

 問題は、この「覚書」を田中首相から芳沢在北京公使に訓令した電報(5月16日)に「措置案」が示されていて、そこに次のような指示が記されていたことでした。

 「張作霖の軍隊が京津地方において戦闘が始まる前に、満洲へ引き揚げるならばこれを許容するが、もし革命軍と交戦して敗北し、あるいは両軍著しく接近した後満洲へ逃げ込む場合には、張作霖軍といえども国民革命軍と同様に、武装解除せずに長城以北に入ることを阻止する。」また、武装解除は「奉天軍か京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p74)

 つまり、「日本軍が満鉄の沿線を警備することは条約上の権利であるが、満鉄沿線に中国軍の戦渦が波及するのを防ぐという主旨を超えて、山海関の線から北には、戦闘しつつある中国軍は一歩も入れず、全部武装解除する」ということが示唆されていたのです。もちろんこうした行為は、条約上の根拠などもない、まさに重大な内政干渉といえるものでした。そして、この電報は必ずしも田中外相(田中首相の兼任)の意志ではなく、軍部と結びつきを強めていた外務省内の森恪政務次官の提案によるものとされます。(上掲書p75)

 こうした奉天軍及び国民革命軍を山海関または錦州において武装解除させるという方針は、すでに第二次山東出兵が閣議決定された翌日4月20日に、「支那時局ニ対スル意見」として、関東軍の斉藤恒参謀長より畑英太郎陸軍次官に上申されていました。また、5月16日の外務省亜細亜局と陸軍省軍務局の間で作成された「措置案」には、張作霖に対する下野勧告も含まれていました。しかし、5月18日に閣議決定された「支那軍隊武装解除ノ主義方針」では、こうした陸軍(白川陸相)の張作霖下野要求は、田中首相及び各閣僚の反対により削除されました。(上掲書p79)

 実は関東軍は、東方会議(s2.6.27~7.7)の前後より張作霖の排日的傾向に憤慨し、失脚の機会をうかがっており、張排斥の意向を陸軍中央部に訴えていました。「五・一八覚書」交付の際には、満洲にいる張作霖軍と国民革命軍のいずれを問わず、武力を用いて武装解除を行うべきを主張し、これを機会に関東軍の満州全域の出動をねらって、その主力を奉天に集結し、錦州出動の計画にそなえて京奉線による軍隊の輸送準備に着手していました。そして陸軍中央部もこの関東軍の計画を全面的に支持し、かつ実行させようとしていました。

 これに対して、田中首相は、南北両軍の武装解除に関する方針決定において、はじめから関東軍を錦州に出動させる考えは全くなく、まして張作霖に引退を強要し、蒋介石の北伐不支持を強行しようとする意図は持っていませんでした。また、蒋介石の国民革命軍は北伐は長城以南で一応打ち切り、満州には侵入しないと婉曲に内示していました。(上掲書p90)一方北軍も、張作霖の個人的不満はあったにせよ、戦局的には敗北が濃厚であり、結局日本側の勧告に従い満洲引き揚げを得策と判断していました。(上掲書p83)

 田中首相はこうした情況をよく把握し、かつこの機会を利用して、山本(条太郎)満鉄社長に張作霖と交渉させ、懸案となっていた満蒙の鉄道を増設し、この沿線に土地所有権などを獲得し、資源を開発することで日本の勢力を伸ばそうとしていました。そのためには、東三省政権の温存、張作霖政権の政情安定は、日本の満蒙権益の積極的な擁護拡大にとって必要不可欠だと考えていました。この点で、森恪や軍部が考えていた、日本の「武力によって満洲に傀儡政府を樹立」しようとする満洲独立論とは意見を異にしていました。

 このように、満州問題の解決策をめぐる政府と陸軍の方針が食い違っていたにもかかわらず、先に紹介した「五・一八覚書」の「措置案」には、陸軍の方針を許容するかのようなことが書かれていたのです。そのため、関東軍はあくまでも奉天軍の東三省頓入を阻止し武装解除するため錦州出動を要請し、そのための奉勅命令を待つことになったのです。しかし、張作霖の北京撤退がいよいよ現実となったにもかかわらず、ついに奉勅命令は下りませんでした。このことに対する関東軍の不満・憤激が、張作霖爆殺事件という形で暴発することになりました。

 実は、こうした政府と陸軍の満洲問題解決をめぐる方針の食い違いは、この「措置案」(s3.5.16)により初めて明らかにされたというわけではなく、蒋介石の第一次北伐に対処するための第一次山東出兵あたりから、田中首相と森恪外務次官との間で顕在化していました。この間の事情を『東亜新体制の先駆 森恪』では次のように説明しています。

 「始め、この出兵に対しては政府部内、殊に陸軍に異論があった。森は、在野時代に積極外交を唱へ、郭松齢事件、南京事件に対して、若槻内閣が機宜の処置を誤ったことを非難していたので、山東出兵の急務を主張したことはいうまでもないが、軍部方面では、出兵によって不測の紛争を惹起する危険があるとして反対を称える者があった。田中総理も、取捨に迷い躊躇の態度で、天津から二ヶ中隊位を青島に派遣してはとの折衷案を提出してきた。しかし、森は、政府がこの政策を決定することが出来なければ、政友会の党議として、出兵、現地保護の要求をすべしとなし『若し、田中が肯かなければ、総裁を引退させる』と、非常な勢いで、強引に廟議を決定せしめたのである。」(上掲書p608)

 結局、昭和2年5月27日、第一次山東出兵は閣議承認されました。しかし、田中首相は、「出兵に際しては派遣軍を青島にとどめ、済南進出は山東戦局の変化の如何に応ずるという条件をつけ、また派遣軍の行動に関しても内政干渉にわたらぬような厳密な規制を加え」ました。さらに、同日、英・米・仏・伊の四カ国代表を外務省に招致して、山東出兵の理由を説明」し、「中国における出来事は中国人自身によって解決させるべきであるが、ただ在留邦人の保護に関しては十分なる措置を講ぜざるを得ない」と強調しました。さらに南北両軍にも同様の主旨を伝えました。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p41)

 しかし幸い、この時は武漢に政変が起こって国共分裂し、武漢の国民党と南京政府の間に合体の議が起こり、武漢派は合体の条件として蒋介石の下野を要求したので、蒋介石は一旦北伐を断念して兵を後退させることにしました。これに伴い日本政府は撤兵することに決し、9月8日を以て全師団の撤兵を完了しました。しかし、その「撤兵声明」の末尾には、「将来支那に於いて、ひとり同方面のみならず、日本人居住地にして治安定まらず、為に禍害再び邦人に及ぶの虞ある場合には、帝国政府として機宜自衛の措置をとるの已むを得ざるものあるべし。」との「政友会即森の南京事件以来の積極政策の表現」が附されていました。(『森恪』p611)

 その後、一時下野していた蒋介石は、9月末日日本に亡命、その後来日して昭和2年10月13日には東京に入りました。その目的は、国民革命に対する日本朝野の意見を打診し、田中内閣の方針を革命承認に導くためでした。そして田中首相及び森と会談し、おおむね次の点について双方の了解が成立しました。
一、共産党と分離し、ソ連と断った後の国民革命の成功、支那の統一を日本が認める。
二、満洲に対する日本の特殊地位と権益を支那は認める。

 さらに11月5日には田中首相の青山私邸で会談がもたれ(この時は森恪不在)、田中は、「国際関係の許すかぎり、また、日本に利権その他を犠牲とせざるかぎりにおいて蒋の全国統一事業に対して援助すると伝え、・・・さらに北伐をなしうるのは蒋をおいて他にいないとも言い切った。そして、日本は決して張作霖を援助しておらず、日本の願うところはただ満洲の治安維持であるとも主張した。(これは森恪には伝えず)」(『近代日本の外交と軍事』p53)さらに、その後、蒋の意を受けた張群が来日して田中と会談し「もし日本が張作霖を北京から横転に引き揚げさせるならば、国民革命軍もあえて張作霖に追い打ちをかけない、という黙契ができあがった」とされます。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p54)

 昭和4年1月4日蒋介石は再び迎えられて南京政府の主席となり、9日総司令に復職しました。その後、蒋介石は党内の陣容を整備して着々戦備を進め、一方、閻錫山、馮玉祥とも連携して、第一集団軍十五万の部隊編成を行い、3月16日、北伐を再開しました。蒋介石は4月1日、徐州入城の前日、岡本在南京領事と会い、「済南方面居留民保護ニ付イテハ自分ハ断シテ責任ヲ負ウヲ以テ重ネテ出兵スルカ如キ事無キ様日支間ノ為ハ勿論朝野ノ同情ヲ表セラルル自分ヲシテ成功セシムル意味ニ於イテモ是非御一考ヲ請ウ」と日本側に伝えました。

 4月7日、蒋介石軍は津浦線上、馮玉祥軍は京漢線上、閻錫山軍は京綏線よりそれぞれ北上を開始し4月10日、北伐軍の張作霖軍に対する総攻撃を命令しました。4月17日には済寧が馮玉祥軍の支配下におかれました。そして、奉天軍主力が済南及び膠済沿線に後退すると、それを追って国民革命軍が再び済南に迫ってきました。こうした情況の中で、4月16日、済南駐在武官酒井隆歩兵少佐(例の済南事件の被害状況を極めて誇大に報告し、陸軍中央部の強硬策を煽った人物)は、鈴木宋六参謀長宛、済南への出兵を要請しました。

 しかし、「田中首相は先の蒋介石との諒解によって、第二次済南出兵には寧ろ反対でした。(それは)出兵する結果が、革命軍の北伐、支那の統一を妨げる」ことを恐れたためでした。ところがこの時も、第二次出兵を主張した急先鋒は森恪でした。森はその理由を、先の撤兵声明の末尾に述べられた、かねてより政友会の主張してきた「居留民の現地保護政策」を守るためであるとしました。(『森恪』p617)こうして、4月19日、天津の支那駐屯軍より歩兵三個中隊、内地より第6師団(約5,000名)の出兵が決まりました。

 4月20日には、関東軍は参謀長命で「奉天軍敗走の場合」、満蒙治安維持のためには軍の主力を「山海関マタハ錦州方面ニ進メ」、奉天軍・国民革命軍のいずれの侵入をも許さず、武装解除しなければならないとする意見を中央に具申しました。これは関外全体を戦闘禁止区域として特殊化しようとするものでした。さらに5月2日の意見書では、「南北対戦ノ現時局ハ我カ満蒙問題ノ根本的解決ヲ期スベキ絶好ノ機会」とし、張作霖を排して「帝国ノ要望ニ応スル新政権ヲ擁立シ、該政府ヲシテ支那中央政府ニ対シ独立ヲ宣セシムルコト緊要ナリ」と訴えました。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p62)

 この直後の5月3日に、済南に出兵した第六師団と国民革命軍の衝突事件が起こったのです。しかし、同日深夜には停戦が実現し4日午前中には戦闘は終熄し、中国側は軍隊を済南より引き離し北上させました。従って、事件はここで外交交渉に移されて然るべきでした。ところが参謀本部は、「国軍ノ威信ヲ顕揚」するため「断固タル処置」をとるよう第六師団に指示し、第六師団も「支那問題ノ解決ニ一歩ヲススムル為、南方ニ対シ断然タル膺懲ノ挙二出ツル好機ナリト信ス」と答えました。こうして福田第六師団長は中国側に、回答期限を12時間後とする強硬な要求書を突きつけ、時間切れの8日午前4時、済南城に対する総攻撃を開始したのです。
  
 この時、参謀本部は一師団増派の方針を決め、5月5日には参謀本部から陸軍大臣に対し「最早軍ノ問題ニシテ政策に左右セラレルヘキモノニアラス、動員一師団ハ断乎トシテ増派セサルベカラザル旨ヲ通告」しました。問題は、ここで、参謀本部により政府の政策に左右されない「軍の問題」なる領域が設定されたことで、軍の独断→現地交渉→軍事力行使ということが、済南事件を通して実行されたことです。これによって、「統帥権の発動により満鉄付属地外への出動命令さえ得れば、さまざまな工作の余地が生ずることを実例を以て示した」ことになりました。(上掲書p64)

 こうした第二次山東出兵を第一次出兵と比較すると、次のようなことがいえます。

 それは「第一次山東出兵の時ほどの慎重さが全くなく、しかも欧米列国に対する事前説明も熱心に行われず、とくに済南派遣軍の行動は全く異なった。第一次出兵のさいには完全に総領事の状況判断の下に決定され、しかも済南は自開商埠地にして外国疎開ではないとの配慮から、・・・在留邦人を要所に集結して保護するという、派遣軍に対する行動の制限を厳しく規定していたが、第二次山東出兵の場合は全く総領事の権限、判断、意向を無視する形で、在留邦人の保護を第一の目的とするよりは、軍の威信、武威を主張して、まさに直接蒋介石との外交交渉にまで立ち入る態度をとり、しかも済南城の占領を行ったのである」(上掲書p68)*8/18挿入

 その後、国民革命軍は済南事件にもかかわらず北上を続け、張作霖の関外敗走が時間の問題となるや、田中内閣は5月16日の閣議において戦乱が満洲に波及する場合には張作霖及び南京政府の双方に対し「帝国政府としては満洲治安維持のため適当にして且つ有効なる措置をとる」旨の「覚書」を交付しました。この覚書に付された「措置案」に、先に紹介したような、武装解除は「奉天軍カ京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」という、森恪が付したといわれる文面があったのです。

 このため、関東軍は、主力を奉天に集中して錦州方面への出動態勢を整えました。彼らはこの出兵に奉勅命令を得ることによって、敗走してくる張作霖軍を武装解除し、満蒙独立政権樹立の機会をつかもうとしました。一方、田中首相は、張作霖を説得して整然と満洲に退却させるとともに、国民革命軍の関外追撃をあきらめさせる方向で動いていました。そして、こうした構想が実現できる見通しとなったため、関東軍の出動を命ずる奉勅命令は出されませんでした。この時、関東軍に蓄積された不満が、6月4日高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件になったのです。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p64)

 河本大作は、これによって満洲に政治的混乱状態を引き起こし、関東軍の出動の機会を創出し、満蒙独立政権を作り出す手がかりを得ようとしました。しかし、奉天軍は穏忍自重してその挑発に乗らなかったため、この陰謀は不発に終わりました。そのため、張作霖爆殺は、満蒙分離をねらった河本等の思惑とは逆に、張学良(張作霖の息子)と国民政府の妥協の条件を作り出し、昭和3年12月29日には、東三省にいっせいに青天白日旗がひるがえることになりました。さらに、知日派であった国民政府外交部長の黄郛が失脚し、代わって王正廷が外交部長となり、革命外交と称する排日外交を繰り広げることになりました。

 よく満州事変の原因として、張学良が条約によって認められた日本の満州における特殊権益を侵害したことが指摘されます。だが、こうした条約が遵守されるためには、条約締結国相互間に外交上の信頼関係があることが必要です。確かに第一次山東出兵あたりまではそれは確保されていました。しかし、第二次山東出兵においては、外交より軍事力が優先され、それを象徴する事件として済南事件が発生、次いで、北伐に破れ満洲に頓入する張作霖軍の武装解除を目指した関東軍の錦州出動の要請と挫折、その帰結としての張作霖爆殺事件の発生、これによって、日中間の外交上の信頼関係は根底から破壊されてしまいました。

 ところで、先に紹介した『森恪』伝では、済南事件後、関東軍が張作霖軍の武装解除を目指して錦州出動を政府に要請した時、田中首相がこれを認めてさえいれば、平成6年の満州事変よりはるかに容易に、満洲の分離独立が可能であったといっています。「我が大陸政策の遂行上千歳の好機を逸した」ことが、やがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相克抗争を続けることになったとも・・・。だが果たしてそうか、外交より軍事力を優先し、政治に軍人(とりわけ青年将校)を引き込み、日中間に血みどろの相克抗争を運命づけたのは、政治家森恪その人だったのではないでしょうか。  
     

2009年8月 6日 (木)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(4)――統帥権問題で、犬養首相の責任を問うのは筋違いだ

  当番組では、次のように「政党政治の自殺」について説明していました。(ブログ「夕刻の備忘録」より転載)

(ナレーション)普通選挙実施の翌年、犬養毅は二大政党の一つ、政友会の総裁に担がれました。犬養は、従来から訴えてきた、軍の合理化を、党の公約に掲げました。

「軍制を整理し国防の経済化を図る」

 この時、政権は対立する民政党にありました。首相の浜口雄幸も緊縮財政に取組み、軍縮を推進する姿勢を示していました。1929年、昭和4年、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれることになり、会議の前に、財部毅・海軍大臣が政友会総裁の犬養を訪ね、軍縮への了承を求めました。この席で犬養は、異論は無いと述べています。

 「日本のような貧乏所帯でいつまでも軍艦競争をやられては国民が堪らない。こんな問題は政争の具にすべき問題ではない」

(ナレーション)ところが、ロンドンでの会議の後、犬養は大きく態度を変えていきます。ロンドン海軍軍縮会議には、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五ヶ国が参加。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの制限が話し合われました。会議は難航、成立した協定案は、海軍軍令部が確保を主張していた、軍艦の目標総トン数を下回っていました。浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切り妥結、調印しました。

 これに対し、猛然と政府を責め立てたのが、犬養率いる政友会でした。政友会が問題にしたのが「統帥権」でした。政友会は、条約の調印は、天皇の大権である統帥権を侵すものであると政府を攻撃。海軍軍令部の主張を認める方針を打ち出しました。

 政友会が軍との繋がりを深めたのは、犬養の前の総裁だった田中義一の時です。田中は軍人出身であり、軍関係者の組織票を頼りに選挙を戦っていました。犬養は、そうした政友会を党首としてまとめるために、それまでの自説を大きく変えたのです。

(談話)東京大学・御厨貴教授
 「犬養には、もう残された時間は無かった。しかも、その総理大臣の椅子というのは、もう、目の前にぶら下がっている、いう時に、彼は、権力の方を獲った訳です。だから、そこで大胆な妥協をする。やっぱり政治家って疼くんですよ、その権力を目の前にした時に、その権力って魔物なんだけど、俺は自由に出来る、俺の力で自由にしてみたい、それはもう歴代の、累代の政治家、みんなそう思うみたいだから、だから、これ、軍拡路線に何故、その、政友会が乗っかっていくかというと、軍拡路線に乗っかることによって、次の選挙に勝てるに違いない、と思うからですよ。あるいは、次の選挙に負けないと思うからであって。で、そうこうしてるうちに、本当に軍に取り込まれちゃう」

★満州事変 1931年(昭和6)の映像

(ナレーション)ロンドンでの条約調印の翌年、満州事変が勃発します。関東軍が、独断で満州を占領。時の民政党、若槻礼次郎内閣は、満州での不拡大方針を巡って、閣内で意見が分かれ、総辞職しました。その年の12月、遂に犬養に天皇から大命が下ります。第一回帝国議会から41年、漸く手にした総理大臣の座でした。

 総理大臣官邸前に集まった500人の人々、犬養の地元、岡山の支持者達です。その真ん中で、カメラに収まる犬養毅。民衆の声を政治に反映させるという夢を、いよいよ実現出来ると、意欲に燃えていました。総理大臣になった犬養は、満州国の承認に反対の意志を示しました。軍部や党内から激しい反発を受けます。

★五・一五事件 1932年(昭和7)の映像

(ナレーション)そして、総理大臣就任から僅か5ヶ月、海軍の青年将校らによって、犬養は射殺されます。この「五・一五事件」以降、政党内閣は成立せず、犬養は政党政治・最後の総理大臣となりました。

(談話)東京大学・御厨貴教授
 「政党政治ってのは、それ自体としては非常に脆いものであって、それ以外のもの、つまり政党総裁以外のものは、総理大臣候補になれない状態を、要するに枠組として、その、ずっと維持し続ける、これはもう、それこそ日々努力していなければダメな訳ですよ。これをきちんと確立した上で、その、政党が相互に争うならいいんだけども、そこのところの枠を全部破って、やっぱり反政党的な機関と結ぶことによって、全体としての政党政治の基盤が壊れていったってのが1930年代ですから。だから自殺なんですよ、これ」(ここまで番組の内容紹介)

 つまり、政党が反政党的な機関と結びつくことによって、日本の政党政治は自殺した、といっているのです。そのことをワシントン会議における軍縮条約調印に政友会が統帥権干犯を理由に反対したことを問題にしています。その際、政友会総裁が犬養毅だったことから、その責任を、犬養首相に求めているのです。犬養自身の本音としては、「軍縮条約調印」に異論はなかったのですが、人間は「総理の座」が目前にあると、そうした危うい妥協をしてしまうのだ、というわけです。

 確かにこの点は犬養に弁解の余地はないと思いますが(犬養だけでなく河野一郎も)、しかし、こうした犬養の行動には、革新倶楽部分裂後わずか8名で政友会に合同した犬養の勢力基盤の弱さや、その犬養を政友会総裁に担ぎ出した政友会の党内事情が深く関係していたことを忘れるべきではないと思います。とりわけ政友会幹事長であった森恪が、田中義一内閣の山東出兵以来、東方会議を経て、どのように日本の大陸政策を押し進めようとしていたか、を見逃す訳にはいきません。

 『東亜新体制の先駆 森恪』(s16.7.20)には、森がロンドン条約否決に努力した理由について次のように記しています。(この本は、昭和16年太平洋戦争勃発前に出版されたもので、森恪が押し進めた日本の大陸政策がどのようなものであったか、を知る上で極めて重要な資料といえます。)

 「森がロンドン條約の否決に努力した理由は、単純な倒閣熱からでは勿論なかった。何時でも彼の言行の根幹をなす所の大陸政策の危機を防ぐためであった。即ち彼は、先づ支那大陸から米国の勢力を駆逐するに非ざれば到底日本の指導権を確立することが出来ぬと考へていたし、遠くは日露戦争後、ハリマンが満鉄買収を計画して以来、華盛頓會議の実績に徴しても米國の満蒙に對する野心熾烈なるものあり、これを防ぐには海軍力の確保以外に途はないと信じていたからである。要するに對米七割の海車力を保有することの政治的意義は満蒙生命線を保有することになるのである。海軍の責任当局が、對米七割を以て國防上最少限度の兵力量なりと宣明し、米國は、七割なら到底日本海軍を撃破し得ずと認識している以上、七割は絶對必要の兵力量に相違ない。要は對英的には支那本土、對米的には満蒙生命線の確保にあった。六割に妥協することは、わが民族の生存権に開して、安
全保障が伴わぬことになるのである。しかも華盛頓合議では全面的に日本の對支権益を削られると共に、海軍力に於ては五・五・三の大譲歩をしている。これに相つぐこの譲歩である。海軍と歩調を合せて、森がその成立阻止に渾身の努力を費したことは、世の常の人の如く便乗でもなければ軍に内政上の倒閣運動でもなかったのである。」(上掲書p671)

 では、これに対して、犬養はそのような森の大陸政策に対して、どのような中国政策を持っていたか。

 「昭和四年の孫文移柩式に日本における「友人」として招待された犬養は、沈黙を破って国民党に対する支持を明らかにした。その内容は、①国民政府は永続し国都は南京を動かないこと、②蒋介石氏は現代支那の第一人者でこの政権を維持することは日支双方の利益であること、③国民政府の財源は関税を第一とし関税増徴は同政府の死活問題であるから日本は相当考慮を払わなければならないこと、④日支通商条約改訂に当っては平等互恵の精神を原則として努めて時勢に適応させなければならないこと等であった。このような犬養の発言は、中国のナショナリズムに独自に対抗しようとしたことから国際的に孤立しつつあった政友会の中国政策に対して、慎重な姿勢を求めたものであった。」(『犬養毅』時任英人p226)

 犬養が政友会総裁に担ぎ出されたのは昭和4年9月29日ですが、政党政治に対する考え方は、「森が軍部との提携によって政友会による『一国一党制』を実現』」しようとしていたのに対し、あくまでそれを堅持せんとするものでした。その後、昭和5年4月2日ロンドン会議海軍軍軍縮条約承認に伴う統帥権問題が発生、政友会が森を中心に統帥権干犯を楯に政府を攻撃するも9月26日枢密院本会議ロンドン海軍条約可決、10月27日同条約は批准されました。にもかかわらず、森は昭和6年2月3日、幣原首相代理の「失言問題」に食い下がり、倒閣を策して議会の乱闘騒ぎをおこしました。しかし、犬養は「議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は苦々しく思っており」幣原の発言を取り消すことにしてことを収めました。

 その後、3月には陸軍の革新将校らが引き起こしたクーデター未遂事件である「三月事件」、9月18日には「満州事変」、そして10月には3月事件と同様の「十月事件」が起こります。特に後の二者は、国際協調路線をとる第二次若槻礼次郎内閣に対する挑戦でした。こうした混乱した状況の中で若槻内閣の内相安達謙蔵による民政党・政友会の「協力内閣」構想が生まれ、これが挫折した結果、はからずも犬養が77才にして内閣を組織することになったのです。

 こうして発足した犬養内閣が直面した問題は二つありました。一つは不況打開で、これは高橋是清蔵相の独創的対応によって次第に成果を見ることになりました。もう一つが満州事変の収拾でした。犬養は特にこの後者の問題の解決策について、次のような考えをもっていました。

 「満州を武力でもって征服することはいけない、そうせずとも俺には之をうまく大局の上で権益を保護する方法がある。・・・武力で征服しても後の憂いに堪へん。国民が其財源に苦しむことも考えねばならぬ。」其の具体的方法とは、「満洲の宗主権(所有権)は中華民国に返し、その代り、満州地方の経済開発を日本と中国と平等の立場に於いて行い、あらゆる種類の排日行為は中国政府の責任で取締らせ、そして北満国境の固めは日本の実力でソ連の南下を防ぐ」というものでした。

 犬養はこうした構想を実現させるために、長年のパトロン的存在であった萱野長知を、森幹事長にも知らせず(森が軍部と通じていたため)上海に送り(s6.12.17)中国側との交渉に当たらせました。萱野はその交渉経過を次のような第一電を打ちました。(12.23)

一、満洲の政権確立のため、居正を主任とする委員会を組織し、一切の懸案は現地交渉とし、居正に権限を与ふること。
二、張学良を適当に処置すべきこと。
三、居正任命と同時に、日華双方軍事行動即時中止すること。

 そして第二電(12.25)
 「日華懸案解決に在り、一さいの権利義務を居正に一任することとなった。日本の不法侵略に対し、無条件和平の調印をなす全権は、これ国賊なりとする一般中国人の傾向を知りつつも居正は、吾甘んじて国賊の汚名を被る、アジア大局のためには何かあらむと、進んでその難局を引き受けたる由。」

 だが、この電報は東京で森書記官長の手に握られ、森はこれを握りつぶしました。さらに外務省の重光公使から「外務省公式機関を経て正式の軌道に乗せうべし」との要請があり、ついに、翌昭和7年1月5日犬養からの萱野に帰朝電報が届きました。こうして萱野工作は失敗し、そしてこの事件のため軍部との関係は悪化するようになりました。軍部と結ぶ森恪も犬養に見切りを付け、「政友・民政・軍部を再結集して挙国一致の政治力を発揮し」平沼内閣を作るよう画策するようになりました。

 次いで昭和7年1月28日軍の謀略のよる上海事変が勃発しました。この前後、犬養と高橋蔵相は激しく軍の派兵を抑えようとしました。閣議において荒木が「一躍大軍を派遣してシナを膺懲」する事を強調すると、高橋は荒木が若年であるため物事がよく見通せないとたしなめました。そして、中国問題は「犬養首相の縄張り」であると述べ、ついには「一体上海に何人の日本人がいるのか、みな引き揚げてくればいいではないか」とまで述べました。4日には高橋説得に来た森恪に対して「野蛮人」とまで罵ったほどだったといいます。 

 さらに犬養は、陸軍の長老上原勇作元帥に次のような書簡を送りました。
 「・・・実は拝晤を得度き主意は陸軍近来の情勢に関し憂慮に堪えざる事は上官の意下僚に徹底せず、一例を挙ぐれば満州に於ける行動の如き佐官級の聯合勢力が上官をして自然に黙従せしめたるか如き有様にて世間も亦斯く視て切に憂慮を懐き居候。甚しき風説に至りては直接に隊に属し居らぬ将校を称して無腰(無刀の謂)と為し隊を率いたるものに非れば無力として之を軽んずる傾向あり。何事も直接に軍隊を率いる者が聯結して事を起しさへすれば上官は終に事後承諾を与ふるものと信じて一意進行するが如き風習を成し軍の統制の上に一大変化を生ずる虞あり。全体より視れば今猶ほ一部に過ぎず。言はば萌芽を発したる際なるが故に未だ拡大敷衍せざる今日に於て軍の元老に於て救治の方法を講ぜられんことを冀ふ一事に外ならず。右の根底より発したる事。前内閣時代の所謂クーデター事件も其一現象に過ぎず。」

 しかし上原元帥はこの要請に応えようとしませんでした。これに失望した犬養は「処士横議」をやる「三十人ぐらいの青年将校」を「上奏」までして免官することも考えました。しかし、荒木陸相がこれに応えるはずもなく、また森恪を通じてこうした犬養の動きが軍に伝えられたため、軍は「犬養は怪しからん、満州事変をやめさせようとしている」と憤激するようになりました。さらに犬養は5月1日のラジオ放送で、「極端の右傾と極端の左傾」の現象に触れ、これは「議会否認論」であるとして批判し、8月の政友会関東大会では「我々は飽迄議会政治の妙用を信じ、十分改善の可能なるを信ずる」と述べました。
(以上『犬養毅』時任英人参照)

 こうした中で犬養を含めた支配層の要人を暗殺する計画が着々と進められ、ついに5月15日、海軍青年将校による白昼堂々の犬養首相暗殺事件となったのです。その時犬養は逃げず、それどころか侵入者を見ても動ぜず、”まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか”といい客間に侵入者を連れて行きました。”問答いらぬ。撃て。撃て。”弾は犬養の腹部そしてこめかみに一カ所、左鼻口に一カ所命中しました。犯人等が引き揚げた後、犬養は「今の若い者をもう一度呼んで来い。よく話して聞かせる」といったといいます。(『話せばわかる』下p358)

 まさに言論の府議会人犬養毅の面目躍如たるものがあります。このとき森は、木舎幾三郎の『政界五十年の舞台裏』によると、「森恪氏が廊下の片隅で荒木陸相と頻りに何か用談しているのに出会った。そのまま行き過ぎようとすると、森氏が『オイ、オイ』とぼくを呼ぶので、その方に足を運んでいくと、イキナリぼくの方に手を差出し、難く手を握ってニコッと笑っただけであった。」氏は、「なぜ笑ったかはいま考えても解し得ぬものの一つであるが恐らく犬養首相と不和と伝えられていた彼として、会心の笑ではなかったろうか。」といっています。

  この後森は、平沼騏一郎の擁立を画策するようになりますが、その政党観はどういうものだったかということが、先に紹介した森恪の伝記に次のように書かれています。
 「森の政党観は現在の既成政党による対立状態では国策の遂行に寄与し得ないが、さりとて政党を否認する独裁政治家というに然らず、しっかりした人物によってしっかり強い政党を築き上げ、その総裁が党を基礎にして強力な政治をする。云わばドイツのヒットラー、イタリーのムッソリーニの流れを汲もうというものの如くであった。」(上掲書p821)

 そして、五・一五事件の裁判がはじまると、これら卑怯の極ともいうべき青年将校等に対して、その減刑嘆願を求める手紙が、全国から100万通も寄せられたといいます。この時代のこうした異常な”空気”を支配したものは一体何か。以上、紹介した犬養首相の政党政治家としての思想と行動、その先見性と剛胆さを見るにつけ、こうした良識ある判断がなぜ当時の国民に受け入れられなかったか、その結果、日本の政党政治は崩壊した。その責任を犬養首相に求めるのは、私は”いささか筋違い”ではないかと思います。

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