フォト

おすすめブログ・サイト

twitter

無料ブログはココログ

« 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(2) | トップページ | 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(3) »

2009年12月23日 (水)

日本人は、オバマ大統領の「戦争論」にどう向き合うか。

 鳩山首相の普天間問題をめぐる対応には、誠に首をかしげざるをえません。11月13日の日米首脳会談ではオバマ大統領に「沖縄における米軍再編に関する二国間合意の実行について迅速な完遂」を約束したような言動をしておきながら、翌14日には、訪問先のシンガポールで、日米合意を前提にしない考えを記者団に表明し「具体的な移転先を約束したわけではない」と否定しました。

 そんな経緯があるのに、COP15に出席する12月18日に、「普天間問題先送り」をオバマ大統領に説明する会談を持つよう呼びかけあっさり断られています。にもかかわらず鳩山首相は、12月19日、COP15関連の晩餐会の席上、米国のクリントン国務長官にその「先送り方針」を説明しました。その結果、クリントン長官が「よく分かった」と答えたことを記者団に明らかにしました。

 私は、”えっ!晩餐会の立ち話でそんな話を?”と首をかしげましたが、何のことはない、22日には、クリントン長官が藤崎一郎駐米大使を呼び、日本の立場を理解したわけではない旨を伝え、鳩山総理の受け止め方に釘を刺した上で、日米合意に基づく現行計画の早期履行を求めたことが明らかになりました。これに対して鳩山首相は、「お互いに日米同盟が大事だから頑張ろう」という意味だと訂正しました。

 素人でも分かるような変な話ですよね。同様の不可解な印象は、鳩山首相の「友愛ボート」の話(14日、アジア太平洋経済協力会議関連のフォーラムで講演)を聞いた時にも持ちました。だって自衛艦を災害救援に使うなんて、緊急の時にはそんなこともあるかもしれませんが、政府がそれを自衛艦の計画的な使用法として構想するなんて、平和ボケもいいとこだ、と思ったからです。

 ところが、なんとこの話は、11月13日の日米首脳会談でも、鳩山首相がオバマ大統領に提案していたのだそうです。関係者によると、会談の途中、鳩山首相が「友愛の船」構想を持ち出し、説明を始めたところ、オバマ大統領は鳩山首相が説明を続けている最中に、話を露骨に遮る形で発言し、在日米軍など日米安保にかかわるテーマを持ち出し、このため鳩山首相の「友愛の船」についての語りかけは完全に中断される形になった、といいます。
 
 アフガンに3万ものアメリカ兵の増派を決断し、現在も対テロ戦争を継続中のアメリカの大統領に対して、よくもそんな寝ぼけたような話をするもんだと、その無神経さに改めて驚かされました。

 ところで、マスコミでは、この普天間基地の移設問題について、鳩山首相の冒頭に紹介したような雲をつかむような不明瞭かつ無神経な発言について、今後の日米同盟を危うくするものだ、と危惧する意見が多いようですね。一方、「普天間基地の辺野古移転案は、日本の官僚体制による米海兵隊の全面撤退計画に対する引き留め工作」であり、鳩山政権としては、あくまで海兵隊のグアムへの全面撤退を主張すべきである」とする意見もあります。(参照)

 この後者の意見は、アメリカ自身、実は普天間基地はグアムに移す方がいいと考えているというもので、アメリカが一見辺野古にこだわっているように見えるのは、日本が”思いやり予算”まで出して”居てくれ”というから、それをみすみす断ることはしないというだけのことだ、と言っているのですが、ホントですかね。

 いずれにしても、肝心なことは、日米同盟のもとで日本の安全及び極東アジアの平和をいかに維持するかということで、その上で、現在、住民生活に大きな危険を及ぼしている普天間基地の再配置をどうするか。それを専門的な見地からやって、その結果を国民に説明するということだと思います。

 その結果、グアムや沖縄以外の本土の空き空港を利用するなどの余地があるというのなら、沖縄の基地負担軽減のためにも、それを国民に説明し理解を得るよう努める必要がある思います。そのために民主党が時間が必要というなら、もっともだと思いますが、実際は、僅か数議席しか持たぬ連立社民党の主張に引きずられている印象です。

 このため、社民党の、単に”沖縄から米軍基地をなくせ”という主張と、”日米同盟のもとでの日本の安全保障及び極東アジアの平和維持のための基地は何処に置くべきか”という議論との区別がつかなくなっています。特に問題なのは、社民党が日米同盟の意義やアメリカの極東の平和維持の努力を有害無用のものと考えているらしいことです。

 これが単に社民党だけの問題なら、放っておいてもいいのですが、実はこうした平和観は日本人の伝統思想にもつながっていて、何もしないでいると、それが国民の多くの支持を得ることになってしまう危険性があります。そしてそれは必然的に、現在のアメリカの日米同盟及び極東の平和維持に果たしている役割を無視することになります。

 私は、それは、日本の安全保障にとって極めて危険な考え方だと思います。なぜか、日本はアメリカとの同盟関係なしに、独力で自国の安全及び極東の安全を守るだけの力を持たないからです。日本は通商国家として生きる外ない。そのためには世界とりわけ極東の安全保障は必須である。しかし、国土の狭隘さ、資源の少なさなどの自然条件や、食糧安保という観点からも、またイデオロギー的に言っても、軍事力とイデオロギー力を兼ね備えた政治大国には到底なれないからです。

 さらに、お隣の中国は、その軍事力とイデオロギー力を兼ね備えた超政治大国として国際政治社会に躍り出ようとしている。その政治体制は一党独裁であり、民主政治の基本的条件である思想・信条の自由を始めとする基本的人権は制限されている。確かに、今後日中の経済関係は不可欠ですが、その政治体制が民主化の方向に向かうまでは安心はできない。このことは中国共産党の反日教育の実態を見ても明らかです。ゆえに、民主的政治大国であるアメリカとの同盟は不可欠なのです。(『アメリカでさえ恐れる中国の脅威』参照)

 では、そのアメリカの平和維持のための基本的な考え方とはどのようなものでしょうか。実は、こうした問題を考える上で最もよい資料が、次のノーベル平和賞受賞式においてオバマ大統領が行った演説です。ここにはオバマ大統領の「戦争観」が明快に語られています。オバマ大統領を支持する日本人は多い。なら、ぜひ、以下のオバマ大統領の演説を読んで、その戦争観について、それぞれの意見をまとめていただきたいと思います。

(以下、オバマ大統領演説の共同訳を、その論旨を損なわない範囲で抜粋します。分かりにくいところは私訳も交えています。)

 まず、オバマ大統領は「この栄誉を、深い感謝とともに謹んでお受けする」といいました。なぜなら、「この賞は、この世が残酷さと困難に満ちていても、われわれは単なる運命の囚人ではなく、行動こそが重要であり、歴史を正義の方向に向けることができる、という崇高な精神を支持するもの」だからだと。

 その上で、自分は、この栄誉にふさわしいとは思わないが、それ以上に問題なのは、この賞を受けた「私が二つの戦争の最中にある国の軍最高司令官だ」という事実だと、いきなり今回のノーベル平和賞受賞問題の核心を突いています。続けて、

 しかし、この戦争は、どのような形であれ、昔から人類とともにあったもので、その道義性が疑われたことはなかった。部族間の、そして文明間の力の追求と相違の解決手段として、干ばつや疫病のように現実にあるものだった。

 時を経て、集団間の暴力を規制する手段として法律が登場すると、「大義のある戦争」という概念が登場し、戦争は自己防衛の最終手段として、適正な武力により、可能な限り非戦闘員は犠牲にしないという条件に合致する場合のみ正当化されるようになった。

 だが、歴史上、「大義のある戦争」という概念はほとんど実現していない。それは、「外見の違う人々、異なった神を信仰する人々に対し無慈悲にその能力を行使した。全面戦争では、戦闘員と一般市民の区別が不鮮明なものになった。

 さらに核兵器時代の到来もあり、勝者にとっても敗者にとっても、あらたな世界戦争を予防する仕組みが必要なことが明確になった。そこで「米国は平和を守る構想を打ち立てる上で世界を主導した。マーシャルプラン、国際連合、戦争抑止メカニズム、人権擁護の条約、虐殺の予防、最も危険な武器の規制がそれだ。

 もちろん、恐るべき戦争は発生し、残虐行為も起きてきたが、冷戦は終結し、商業は世界の大部分をつなぎ合わせ、数十億人が貧困から脱した。自由、民族自決、平等、法の支配といった理想は、もたもたしながらも前進してきた。これは米国が真に誇れる遺産である。

 21世紀に入り10年、古い構造は、新しい脅威により崩れつつある。世界はもはや二大核超大国間の戦争の脅威におびえることはないだろうが、核拡散は破滅への危険を増している。テロは、激しい憎悪を抱く少数の人間が罪のない人々を大量に殺すことが可能になった。

 私は今日、戦争をめぐる問題の絶対的な解決策を携えてはいないが、私が認識していることは、こうした難題に立ち向かうには同じ考え方、懸命の努力、すべての人たちの粘り強さ、さらに、大義ある戦争の概念と平和の必要性について新思考が求められているということである。

 私は、マーチン・ルーサー・キングの「暴力は決して永続的な平和をもたらさない。社会的な問題を何も解決せず、もっと複雑な問題を新たに作り出すだけである」というキングのライフワークを引き継ぐものであり、非暴力の道徳的な力を信じる証言者だ。

 しかし、国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。

 誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ

 私はこの問題点について提起したい。なぜなら今日、理由のいかんを問わず、多くの国で軍事力の行使に二つの相反する感情があるからだ。

 しかし、世界は思い出さなければならない。第2次大戦後の安定をもたらしたのは国際機関や条約、宣言だけではない。いかに過ちを犯したとしても、その国民の血と力で60年以上にわたり、世界の安全保障を支えてきたのは米国なのだ。

 われわれの献身と犠牲が、ドイツから韓国までに平和と繁栄をもたらし、バルカンに民主主義を打ち立てることを可能にしたのだ。われわれの意志を押しつけるためではなく、子や孫のよき未来のために重荷を背負ってきたのだ。

 つまり、平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。しかし、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。

 私たちの課題は、この両立させることは不可能に見える二つの事実に折り合いをつけさせることだ。具体的には、かつてケネディ元大統領が言ったように「人類の本性を急に変化させるのではなく、人間のつくる制度を少しずつ発展させた上で、実際的かつ達成可能な平和を目指す」ことだ。

 では、この発展の実際的なステップとは何だろう。

 まず初めに、戦力行使について規定する基準を、強くても弱くてもすべての国々が厳守すること。無分別な攻撃は許されない。世界はそれた対決しなければならない、ということだ。

 その際、特に重要になのは、われわれは、政府による自国市民の虐殺や、一つの地域全体を暴力と苦悩に巻き込みかねない内戦をどのように防ぐかということだ。それは、後により大きな犠牲を伴う介入が必要になる可能性がある。だからこそ、すべての責任ある国家は、平和維持において、明確な指令を受けた軍隊が果たし得る役割というものを認めなければならない。

 世界の安全保障における米国の責務が消えることは決してないが、米国は一国だけでは行動できない。北大西洋条約機構(NATO)諸国の指導者や兵士たち、そして他の友好、同盟国は、アフガンでその能力と勇気をもってこれが事実であることを示してくれた。

 しかし、多くの国で、任に当たる者たちの努力と、一般市民の抱く相反する感情との断絶がある。私は、なぜ戦争が好まれないのか理解している。だが、同時に、平和を求める信条だけでは、平和を築き上げることはできないということも分かっている。

 平和には責任が不可欠だ。平和には犠牲が伴う。そうだからこそ、NATOが不可欠であるのだ。そうだからこそ、われわれは国連と地域の平和維持機能を強化しなければならない。いくつかの国だけにこの役割を委ねたままにしてはいけないのだ。

 だからこそ、われわれは国外での平和維持活動と訓練から、オスロとローマ、オタワとシドニー、ダッカやキガリへ、故郷へと戻った者たちをたたえるのだ。戦争を引き起こす者としてではなく、平和を請け負う者たちとしてたたえるのだ。 

 武力行使について最後に言っておきたい。戦争を始めるという難しい決定を下すのと同じように、われわれはいかにして戦うのかについても明確な考えを持たねばならない。

 武力が必要なところでは、一定の交戦規定に縛られることに道徳的、戦略的な意味を見いだす。規定に従わない悪意ある敵に直面しようとも、戦争を行う中で米国は(規定を守る)主唱者でなければならないと信じている。だから、私は拷問を禁止にした。

 われわれが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきた。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しよう。

 まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際に、態度を改めさせるのに十分なほどに強い、暴力に代わる選択肢を持たなければならないと私は信じている。制裁は実質的な効果がなければならない。非協力的なそれらの国の態度には圧力を強めなければならない。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのだ。

 核兵器の拡散を阻止し、核兵器のない世界を追求する取り組みが急務だ。各国は(核拡散防止)条約(NPT)に従うこと。核兵器を持たない国は所有を断念すること。核兵器を持つ国は軍縮に向けてまい進すること。

 また、イランや北朝鮮のような国が核不拡散体制を悪用しないよう主張することもわれわれの義務だ。中東や東アジアでの軍拡競争の危険性を無視することはできない。平和を追求する者は、核戦争のため各国が武装するのを何もせず傍観してはならないのだ。

  同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用される。国際社会の関与や外交努力はあるが、その時、われわれが結束すればするほど、武力介入したり、抑圧の共謀者となるといったような選択を迫られることは少なくなる。

 これは第2の点につながる。われわれが求める平和の本質についてだ。平和は目に見える紛争状態がないということだけではない。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができる。

 第2次大戦後、世界人権宣言の起草者を後押ししたのはこの洞察だ。荒廃の最中、彼らは人権が守られなければ、平和は空虚な約束にすぎないと認識したのだ。

 しかし、こうした言葉は、人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もある。

 しかし、市民が自由に話したり、好きなように礼拝したり、指導者を選んだり、何の恐れもなく集会を開いたりする権利を否定されるところでは、安定した平和は得られないと信じる。われわれの最大の親友は、市民の権利を守る政府だ。

 米国はさまざまな国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になる。希望と歴史はこうした(自由を求める)運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任だ。

 これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できない。時には、労を惜しまない外交と連携させなければならない。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科したり、議論の余地なく非難するだけではだめで、抑圧的な政権は、開かれた扉という選択肢がなければ、新たな道を進めない。

 単純な公式はない。孤立させることと関与すること、圧力をかけることと励ますこと、両者の間のバランスを取るよう、最善を尽くさなければならない。そのようにして人権と尊厳は徐々に向上するのだ。

 第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえない。経済的な安定と機会が保障されなければならない。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからだ。

 きちんとした教育を受けたり、家族を支える仕事を得たりするという子供たちの望みがかなえられないところに安全はない。希望がなければ、社会は内側から腐りかねない。

 それゆえ、人々に食料をもたらす農家や、子供たちを教育したり病人を世話したりする国々を支援することは、単なる慈善事業ではない。このことはまた世界が団結して気候変動に立ち向かわなければならない理由でもある。

 国家間の合意。強力な制度。人権の保護。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに極めて重要な要素だ。またこれを完遂するためには、道徳的想像力の継続的拡大、すなわち、全人類が共有すべき何かがある。

 世界がだんだん小さくなるにつれて、われわれが基本的に同じものを望んでいると理解し、自分自身や家族がある程度の幸福感や充足感を持って人生を全うすることは、人類にとってだんだん容易になるだろうと、皆さんは思うかもしれない。

 しかし、目まいがするほどのスピードでのグローバル化、現代の文化的平準化の中で、人々が大事にしている自分ら特有のアイデンティティー、すなわち人種、部族、そして恐らく最も力強い宗教といったものの喪失を恐れることは、驚くに値しない。

 しかし、最も危険なのは、偉大な宗教であるイスラム教を歪曲(わいきょく)し、汚し、アフガニスタンからわが国を攻撃した者によって、宗教が罪なき者の殺害を正当化するために利用されるそのやり方だ

 こうした者たちは、われわれに、いかなる聖戦も正しい戦争とはなり得ないことを思い出させる。もし、心から神聖な意志を実行していると信じるなら、抑制する必要などないだろう。自らと同じ信仰を持つ人の命を容赦する理由などないはずだ。

 そうしたねじ曲がった宗教の考え方は、平和の概念と両立しないだけでなく、信仰の目的とも矛盾する。なぜなら、すべての主要な宗教の中心にあるただ一つのルールは、自分たちにしてほしいと思うことを他人にも行う、ということだからだ。

 われわれは誤りに陥りがちであり、間違いも犯す。自尊心や権力、そして時には悪がもたらす誘惑の犠牲ともなる。どんなに素晴らしい意図を抱いていても、時に自分たちの誤りを直すことに失敗することがある。

 しかし、人類の状態を完成させることが可能であると、信じるためにも、人間性が完全であると考える必要はない。また世界をより良くする理想に近づくために、理想化された世界に住む必要はない。

 ガンジーやキング師らの人々が実践した非暴力主義は、いかなる場合でも現実的で可能性を秘めていたわけではない。しかし彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんな時もわれわれの旅を導く北極星でなければならない。

 なぜなら、もしわれわれがその信念を失い、ばかばかしい、甘いと言って退けたり、戦争や平和に関する決定を下す際に無視したりするなら、人間性の最も優れた部分、可能性にかけたわれわれの思い、そして倫理的な指針を喪失することになってしまうからだ。

 キング師は次のように語った。「私はあいまいな歴史への最終回答として絶望を受け入れることを拒否する。私はまた、人間が現在『そうである』性質が、永遠の課題である『そうであるべき』姿に近づくことを不可能にしているとの考えにはくみしない。」

 だから、あるべき世界に到達するよう努力しよう。今日、世界のどこかには、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がおり、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がいる。

 こうした手本を見ならおう。この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできる。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができる。

 われわれにはそれが可能だ。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあってわれわれが地上で果たすべき仕事であるからだ。

以上 

« 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(2) | トップページ | 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(3) »

時事問題」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本人は、オバマ大統領の「戦争論」にどう向き合うか。:

« 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(2) | トップページ | 小沢一郎の権力意志と歴史認識について(3) »

Twitter

2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック