フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

2010年2月27日 (土)

日本の安易な「アジア共同体」思想が日中戦争を引き起こした

 いわゆる、自虐史観といわれる自己否定的歴史観を持った人たちに対して、日本の歴史をもっと素直に前向きに理解しようと主張する人たちの多くが、単に前者の反動に留まっているように見えるのは誠に残念なことです。というのは、前者が無くなれば後者も無くなってしまうからで、それでは元の木阿弥というか、結局、同じ失敗を繰り返すことになってしまいます。

 山本七平が、その「日本軍隊論」の中で提起したことは、戦後の日本の思想界を風靡した、いわゆる占領軍政上の思惑に基づいた歴史観(氏は「マック制」と言っていました)からの脱却は当然のこととして、そうした他国の思惑に振り回されない日本人自身の歴史観を、日本の近代の総決算ともいうべき「昭和の悲劇」を省みる中で考えてみようということでした。

 そうした反省の中から、氏が摘出した最重要ポイントが、「日本軍が同胞に犯した罪悪のうち最も大きなもの、それは日本人から『言葉を奪ったこと』」というものでした。一知半解さんが紹介している「聖トマスの不信」の話もここから出ているのです。つまり、解らないことは解るまで徹底して議論してよい。たとえそれが神と議論することであってもかまわないということなのです。

 ここには、人間の秩序はあくまでも「言葉によって作られるべきもの」という考え方があります。もちろん国が違えば言葉も違ってくるわけで、その結果、かっては戦争も起こったわけですが、日本人には、自由な言論を通して秩序を作っていくことが苦手で、特に戦前の日本軍には、言葉よりも暴力に訴える、いわゆる私的制裁の伝統が根強く残されていました。これが重要な局面での判断を誤らせたというのです。

 言い方を変えれば、それは、自分の言葉(=思想)と他者の言葉(=思想)を区別できないと言うことで、人はそれぞれ自分の言葉(=思想)を持っており、だから、お互いに意見を交換する意味があるのに、相手が自分と同じ考えでないと安心できない、というより、相手に対して感情移入し、相手が自分の思い通りに反応してくれないと裏切られたと感じる。そういう傾向を日本人は濃厚に持っていると言うのです。

 実は、日本が中国と戦争するはめになった最大の原因もここにありました。当時、日本の軍人は、日本と中国は同じ東洋の王道文明の国であるから、いち早く近代化を果たした日本に協力すべきであり、西洋の覇道文明に対して協力して対抗すべきだ、と考えていました。そのためには中国は日本の指導を受け入れ、軍事物資等の調達にも協力すべきだと考えていたのです。(下線部訂正3/10)

 つまり、この時日本は、このような自分勝手な「文明論的思い込み」を中国に押しつけているということに気づかなかったのです。確かに中国は、一日も早く全国統一して近代化に着手したいと思っていました。だから、その範囲であれば日本に協力できると考えていました。しかし、日本の勝手な「文明論」につき合って米英を敵に回す必要はなかったのです。。(下線部訂正3/10)

 考えてみればそれも当然で、日本のしていることは、「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という思想を中国に押しつけ、その兵力や資源を日本に提供することを求めていたわけで、日本人は真剣だったのでしょうが、それを強制されている中国にとっては、迷惑以外の何者でもなかったのです。実際、その一方で日本がやっていたことは、蒋介石の中国統一を妨害することでした。

 結局、このような勝手な思い込みがもたらした相互不信と反発が、日中戦争の原因となり、日本軍は百万を超える軍隊を中国に送り、その主要都市の大半を占領することになったのです。そうなれば、いろいろな既得権や面子も出てきますから、撤退はますます困難となり、一方、中国はアメリカやイギリスに支援を求め、これに対抗して日本はドイツと同盟した結果、アメリカとの対立は決定的となりました。

 こうして、日本のアメリカに対するイライラは次第につのって行きました。そしてついに堪忍袋の緒が切れて、真珠湾を奇襲攻撃することになったのです。実はこの時も、日本軍は、中国との戦争がそうであったように、アメリカと戦争するつもりはなかったのです。だが、アメリカに中国からの撤兵を迫られ、ほとんど窮鼠猫を噛むと言ったような心理状態で、対米英戦争に突入していきました。

 そんなわけで、中国やアメリカとの戦争は、日本があらかじめ計画して始めたものではありませんでしたから、その戦争目的は明確ではありませんでした。前者の場合は、中国に出征した日本兵士も一体何のために戦争しているのか分からなかったといいます。そこで困って急ごしらえで作ったスローガンが、大東亜戦争の場合は「東亜諸国の植民地支配からの開放」だったのです。

 このスローガンを最初に考え出したのは、外務省の重光葵(昭和17年頃)で、その目的は、日本が戦争をしていることの大義名分をこのように宣明することで、中国との戦争原因を消滅させ、それによって中国との和解に漕ぎつけ、中国からの日本軍の撤退を可能にすることでした。氏はそれが、英米との戦争状態を終結させる唯一の方策だと考え、これを大東亜戦争の戦争目的としたのです。

 つまり、このスローガンは、日本がアメリカやイギリスと戦いを完遂することによって「東亜諸国の植民地支配からの開放」を実現することを目指したものではなく、逆に、中国はじめ東亜諸国の欧米植民地主義者からの開放と独立を宣言することで、日本の大東亜戦争の大義名分を明らかにし、これによって、これらの地域からの日本軍の撤退の契機をつかもうとしたのでした。

 重光は、これを日本が対米英戦の緒戦での勝利で日本が優位にある段階で、これを実現しようと考えていたわけですが、ドイツとの三国同盟の縛りもあって勝手に戦争をやめるわけにも行かず、ぐずぐずしている内に戦況が逆転し、なんとか「大東亜会議」は持てたのですが、アメリカや中国をはじめとする連合国がこれに応じるはずもなく、結局、絵に描いた餅に終わりました。(『昭和の動乱(上)』重光葵参照)

 だから、この戦争について日本の名誉を回復しようとして、このスローガンをいくら持ち出しても、結局、中国からの日本軍の撤退を決断できなかったのは日本だったわけで、また、その機会は対米英戦争以前にもいくらでもあったわけですから、この戦争の原因をアメリカに求めることはできないと思います。では、なぜ日本軍は中国から撤退する事ができなかったのでしょうか。

 その原因は、実は、当時の日本軍や日本国民の多くが、先に紹介したような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」といった宿命論的文明論の拘束下にあり、その思想的文脈の中で中国問題を解決しようとしたからなのです。このことは、日中戦争が始まって最初に訪れたトラウトマン和平工作において、交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や堀場中佐をも支配した考え方でした。

 実は、こうした「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式を、軍事的観点から最初に提示したのが石原莞爾で、日本の陸軍将校の多くは少なからずその思想的影響下にありました。特に参謀本部の作戦課にはその思想の信奉者が多く、また、海軍の中にも、若手・中堅の将校を中心に、こうした思想に心酔し、対米英戦を不可避と見て海軍力の増強を主張する者も多かったのです。

 次の文章は、石原莞爾の『世界最終戦総論』(昭和17年発行)に収録された「最終戦争論」に関する問答の一節です。石原莞爾はこうした主張を昭和2年の陸軍大学教官時代にまとめ、関東軍参謀となって以降、講演などを通じて人びとに教宣していました。

 「西洋文明はすでに覇道に徹底して、自ら行き詰まりつつある。王道文明は東亜民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心都市値勃興しつつある。人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。

 最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦である。具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」

 「明治維新は明治初年に行なわれ、明治十年の戦争によって概成し、その後の数十年の歴史によって真に統一した近代民族国家としての日本が完成したのである。昭和維新の眼目である東亜の新秩序即ち東亜の大同は、満州事変に端を発し支那事変で急進展をなしつつあるが、その完成には更に日本民族はもちろん、東亜諸民族の正しく深い認識と絶大な努力を要する。

 今日われらは、まず東亜連盟の結成を主張している。東亜連盟は満洲建国に端を発したのであり当時、在満日本人には一挙に天皇の下に東亜連邦の成立を希望するものも多かったが、漢民族は未だ時機熟せずとして、日満華の協議、協同による東亜連盟で満足すべしと主張し、遂に東亜新秩序の第一段階として採用されるに至った。

 東亜の新秩序は、最終戦争に於て必勝を期するため、なるべく強度の統一が希望される。東亜諸民族の疑心暗鬼が除去されたならば、一日も速やかに少なくも東亜連邦に躍進して、東亜の総合的威力の増進を計らねばならぬ。更に各民族間の信頼が徹底したならば、東亜の最大能力を発揮するために諸国家は、みずから進んで国境を撤廃し、その完全な合同を熱望し、東亜大同国家の成立即ち大日本の東亜大拡大が実現せられることは疑いない。特に日本人が『よもの海みなはらから』『西ひがしむつみかわして栄ゆかん』との大御心のままに諸民族に対するならば、東亜連邦などを経由することなく、一挙に東亜大同国家の成立に飛躍するのではなかろうか。

 われらは、天皇を信仰し心から皇運を扶翼し奉るものは皆われらの同胞であり、全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。東亜連盟の初期に於て、諸国家が未だ天皇をその盟主と仰ぎ奉るに至らない間は、独り日本のみが天皇を戴いているのであるから、日本国は連盟の中核的存在即ち指導国家とならなければならない。

 しかしそれは諸国家と平等に提携し、われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、皇道の精神に合しないことを強調する。日本の実力は東亜渚民族の認めるところである。日本が真に大御心を奉じ、謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、東亜・の諸国家から指導者と仰がれる日は、案外急速に来ることを疑わない。日露戦争当時、既にアジアの国々は日本を『アジアの盟主『と呼んだではないか。」

 これは、昭和16年頃、石原莞爾が、氏の「最終戦争論」に寄せられた質問に対する答としてまとめたものです。石原莞爾は、関東軍の北支分離政策や廬溝橋事件以降の日支戦争拡大に反対したということで、東京裁判に訴追されることから免れましたが、これを見ればわかる通り、彼の思想は、この時代の国体思想を軍事専門家の立場から正当化すると共に、それを文明論的宿命論として正当化したのです。

  こうした石原莞爾の言説が、思想家としての範囲に止まってくれればまだ良かったのですが、彼の本職は軍人であり、こうした考え方に基づいて、それまで感情のレベルに止まっていた日本の大陸政策を正当化しました。さらに、柳条湖での列車爆破という謀略事件を起こして満洲全土を軍事占領しました。これがその後の日本の国論を、それまでの自由主義的なものから国家主義的なものへと急転回させたのです。

 確かに彼は、その後、満洲の「軍事占領論者」から「協和制論者」へと転換しています。しかし、その主張は、満洲の地を実質的に軍政によって維持していかざるをえなかったという現実に照らせば、空想論に止まらざるを得ないものでした。というより、氏がその「最終戦争論」を保持する限り、その最終目的はアメリカとの戦争に勝つことだったわけで、そのためには、満洲のみならず華北の資源を抑える必要があったのです。

 その意味で、氏が参謀本部の要職に就いて後、関東軍の華北分離工作を止めさせようとした時、かっての部下が「私たちは石原さんが満州事変でやったことを手本としてやっているのです」と反論したというエピソードは、氏の理論の自家撞着を物語って余りあります。そして、氏はこの思想を、日米戦争が勃発した段階においても保持していたのですから、何をか言わんやです。

 福田和也氏などは、こうした石原莞爾の「高邁」な思想とその「壮大な試み」を讃えて「石原莞爾の昭和の夢」を語り、そのロマンティシズムを好意的に評価しています。また、こうした隠然たる王道思想は、今日もなお、左翼のみならず右翼にも共有されていて、その気分は、鳩山首相の「アジア共同体思想」にも流れ込んでいます。しかし、こうした思想の背後に、かっての「東洋王道文明vs西洋覇道文明」論が隠されていることを見逃すべきではありません。(『地ひらく』福田和也参照)

 以上の問題点を見事に解明したのが、イザヤベンダサンの『日本人と中国人』で、この本の末尾には次のようなことが書かれています。
 
 「東アジアに『盟主』といわれるものが存在したなら、それは中国であっても日本ではない。そして、明治四年以降は潜在していたこの『中朝事実』(山鹿素行の「日本こそ中国」という考え方=筆者)は、実にさまざまな形で、時々、歴史に顔を出し、中国革命の主観的な。援助者が、二・二六事件の理論的指導者(北一輝のこと=筆者)であったりする。

 だがその間の事情は何よりも、近衛公の日記に記されている中国大使(駐日支那公使の蔣作賓のこと=筆者)の言葉が示していよう。彼の言葉を要約すれば、『中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい』。そうすれば、『今ほど日本にとって、対中国外交がやりやすい時はない』と。この言葉は『外なる中国』の存在をはっきり認めよ、ということにほかならない。

 ところが当時の日本人は、もちろん近衛公も含めて、自らの『内なる中国』が、中国とは関係なき尊皇思想の帰結として自らの内にあるイメージであって、『外なる中国』とは別だということが理解できないのである。従って認識しようとすればするほど、『内なる中国』を絶対化し他国という意識がなくなって、現実の中国を排除してしまう結果になる。

 さらに世論となるとこれが徹底していて、『外なる中国』が、自分の『内なる中国』のイメージ通りに行動してくれないと、じれている子供のような態度になっている。従って二国間の取引というものが、何としても成立しない。これではトラウトマン斡旋案だけでなく、非公式にも、両者を斡旋しようとする者は、すべて失敗せざるを得ない。そしてその原因は常に日本側に存在し、そして本論のはじまでにのべた通り、『すべては始めた如くに終わった』わけである。だが『終わり』常に『始まり』なのである。」

 そして今日なお、対中関係において、この「終わり」と「始まり」が繰り返されているような気がします。どうしたら、こうした思想的呪縛を脱却することができるか。どうしたら、日本近現代史理解におけるこうした視点の大切さをうまく説明することができるか、頭をひねるこの頃です。

2010年2月18日 (木)

「正論」を堂々と掲げた、言葉による権力闘争こそ真の「権力闘争」

 相変わらず小沢氏が”ねばり”を見せていますね。というより、あえて強気に出ている感じがします。「強制力を持った検察の捜査に勝るものはない。その結果、不正はないと明らかになったのだから、国民ははっきり理解していただける」というのがその言い分です。しかし、前回のエントリーで指摘したように、特捜部の佐久間達哉部長は4日の記者会見で、「(土地購入の)原資の実態は重要な判断要素」「どういう由来の金かは公判で明らかにする」といっていますので、まだ「不正はないと明らかになった」とはいえないと思います。

 というより、「検察の捜査で不起訴になった」ということを「不正はないと明らかになった」と理解すること自体が、近代裁判の考え方を理解していない証拠だと思います。おそらくこれは、刑法の「無罪推定」に依拠しているのだと思いますが、これはあくまで「刑法上無罪を推定する」ということであって、疑われた政治資金規正法違反行為について「不正はないと明らかになった」ということではないのです。つまり疑いは依然として残されているが、検察が立件し公判を維持するだけの完璧な証拠が得られなかった、ということに過ぎないのです。

 ここに、日本人の法意識と欧米デモクラシー国家の法意識のズレがあるわけですが、この裁判における証拠採用の問題が、最も先鋭な形で露呈したのが、田中角栄元首相が被告となったロッキード裁判でした。ここで問題となったのは、田中角栄氏が全日空の航空機選定にからんで、ロッキード社から5億円の賄賂を受け取ったとする罪状について、その証拠として採用されたロッキード社のコーチャン、クラッター両氏の、刑事免責を与えた上での嘱託尋問調書が、はたして合法であるか否やということでした。

 立花隆氏は、法律というのは血も涙もあるもので、同じ数式に従って自動的に答えが出せるようなものではない。従って、その法律―この場合はこの調書を証拠として採用した法律―の運用にあたっては「その社会全体の益になるよう」に解釈・適用すべきだと主張しました。これに対して、渡部昇一氏や、数々の冤罪事件で無罪を勝ち取った、いわゆる人権派弁護士の倉田哲治氏などは、この裁判の事実認定の最大の拠りどころとなっている証拠が、嘱託尋問調書であることを問題としたのです。

 いわく、この裁判では、「被告人の自白調書など、本来は違法のものを裁判官が合法と認めている。そうしたルーズな証拠がどんどん裁判所に採用されてしまい、それが被告人の不利益になるような判断の材料とされ」ている。これでは、「戦後、刑事訴訟法が施行されてからこのかた、・・・(人権派弁護士らが)築き上げてきた事実認定や証拠の採用についての成果が一気に壊されてしまう。一番悪い刑事裁判のパターンが、先例として残されてしまう。これはどうしても阻止しなければならない。」

 結局、この論争は、最高裁が、「共犯者に免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる制度を日本の法律は想定していないとして嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した」ことによって決着しました。(もっとも、田中角栄の判決については、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されましたが・・・)立花隆氏の主張が斥けられた格好になったわけですが、しかし、立花隆氏の主張が全く無効だったというわけではなく、この論争によって、職務権限がないにもかかわらず、民間会社に政治的影響力を行使し裏献金を受け取る日本独特の「裏権力」行使の実態が明らかになったのです。

 そこで、こうした問題に対処すべく考えられたのが、政治資金規正法を改正し、企業・団体からの政治献金を、政党(政党支部を含む)、政治資金団体、新設された資金管理団体に限定する(1994)。資金管理団体に対する企業・団体からの寄附を禁止する(1999)。政治資金団体に関する寄附の出入りについては原則銀行や郵便振込み等で行う。政党及び政治資金団体以外の政治団体間の寄附の上限(年間5000万円まで)を設ける(2005)。資金管理団体による不動産取得の禁止する(2007)。国会議員関係政治団体に関して、1円以上の領収書公開や第三者による監査義務付ける(2009年分の収支報告書から適用)などでした。

 また、1994年の政党助成法の制定に伴って、収支報告書に虚偽記載した場合の罰則は、無届団体の寄附の受領、支出の禁止違反については5年以下の禁錮、100万円以下の罰金。収支報告書の不記載、虚偽記載(重過失の場合を含む)については5年以下の禁錮、100万円などに強化されました。また、こうした刑を言い渡された場合、下記の期間、公民権(公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権)が停止されることになりました。
① 禁錮刑に処せられた者
裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間とその後の5年間
② 罰金刑に処せられた者
裁判が確定した日から5年間
③ これらの刑の執行猶予の言い渡しを受けた者
裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間
 
 このように、この論争を経て、政治資金規正法は格段に強化され、政治家の「裏権力」行使による企業団体からの政治献金について厳しい枠を設け、かつ、政治団体の政治資金収支を透明化し公表することを義務づけたのです。同時に、この法律に違反した場合の罰則も贈収賄罪に匹敵するものに強化されました。また、新たに政党助成法を成立させ、政党に対する政治資金を公的助成制度をスタートさせたのです。

 ところで私は先に、「日本人の法意識と欧米デモクラシー国家の法意識のズレ」ということを申しました。この点も、この論争を考える際の重要ポイントですので説明を加えておきます。実は、この指摘は、山本七平氏がその著書『派閥』において行ったものです。氏は、この著書の中で、「立花vs渡部」論争に関する、政治学者の小室直樹氏の次のような近代裁判の論理についての解説を紹介しています。

 近代裁判における「原告の主張も、被告の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続き)によって検証する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張をしりぞけない。ゆえに、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、”真実”が発見されたという意味ではない。まして、『正義が勝った』などという意味ではない。裁判官が、『必ず真実を明らかにして正義を勝たしてみせる』なんて思い上がった瞬間、近代裁判は姿を消し、それは『遠山の金さん』の裁判になってしまう。」

 これは、日本人は一般的に、裁判の目的を「真実を明らかにすること」と理解しているが、近代裁判の目的はそうではないということ。それは、あくまで所定の手続きに従って採用された証拠により判決を出す、ということであって、その判決はあくまで「仮説」であり「真実」ではない、ということなのです。従って、重要なのは裁判の方法(手続き)ということになる。おそらく、こうした考え方を基に、無罪推定や黙秘権さらにはプライバシーや思想信条の自由といった「人権」概念が生まれているのでしょう。

 そこで、こうした考え方を今回の小沢氏の「起訴見送り」に適用してみると、それは、裁判における証拠採用の「手続き」が重視された結果、石川代議士らに問われた嫌疑については、小沢氏の関与を立証する十分な証拠が得られなかった、ということだと思います。つまり、疑わしいが、起訴し公判を維持するための十分な証拠が得られなかったということで、決して「不正はないと明らかになった」わけではないのです。従って、今後、検察審査会による再審査もあり得ますし、新たな証拠が出れば別の訴因(例えば所得税法違反)での立件もあり得ることになります。

 以上、小沢氏の政治行動について、その政治資金調達が政治資金規正法や所得税法に触れるのではないか、ということを論じたわけですが、こうした法的アプローチとは別に、今後、その政治的・道義的責任が問われることは必至だと思います。過去の類似の事件を見ても、加藤紘一氏が秘書の所得税法違反の責任をとって議員辞職(2002.4)していますし、橋本元首相は、日歯事件(2004.9)で不起訴となりながらも議員辞職に追い込まれています。

 こうしたことを総合的に考え合わせると、小沢氏が、前回のエントリーで私が指摘したような複雑怪奇かつ巨額の政治資金疑惑をかかえながら、政権政党の幹事長として、首相をしのぐ権力を行使し続けることは到底できないと思います。それにしてもよく”ねばっている”という感じはしますが、そのことは逆に、小沢氏の政治手法や政治姿勢に対する疑念、民主政治家というより独裁政治家に近いのではないかという疑いを増幅させることにもなっていると思います。

 私が問題にしているのもこの点で、その政治手法はどうもおかしい。その政治資金調達法やその使い方が「金権政治」的であり、その組織の作り方動かし方が「派閥政治」的であるということもさることながら、その掲げた政治理念(=正論)は”本物”ではなかったのではないか、ということなのです。私は、昨年辺りから、氏の『日本改造計画』や『小沢主義』をはじめとする氏の著書を読みはじめました。はじめは、その「正論」に感動しました。また、その文脈の中で、氏のマニフェストも読み、その可能性に期待しました。

 従って、氏が民主党の代表になって以降の、日本の安全保障に関わる氏の主張のブレや、政権獲得までの小泉構造改革に対する批判は、野党をまとめるための”方便”であり、政権獲得後は「正論」の方向でリーダーシップを発揮するのではないかと期待したのです。それにしても民主党のマニフェストの”目玉”商品には”バラマキ”が多いとは思っていましたが・・・。ところが、民主党が政権獲得後も、この”方便”は修正されるどころか、”バラマキ”を食い散らすばかりで、その背後にあったはずの「正論」は微塵も感じられません。

 また、小沢氏自身の言動は、かって唱えてきた「正論」は実は借り物で、その動機は、単なる権力欲でしかなかったのではないかと疑わせるほどに貧弱です。そういえば、小沢氏が自民党を離脱して以降の日本の政治は、政治理念とは関係のない、単なる政権欲に発した野合政治に堕している。あるいは、民主党が政権を獲得した暁には、こうした状態も解消されるかと期待されましたが、現実には、民主党の「正論」は根も葉もない”飾り立ての造花”にすぎなかったことが次第に明らかになりつつあります。

 これまでの日本の政治改革課題といえば、まず、田中角栄以来の「金権政治」を打破すること。その温床となってきた「派閥政治」を打破し、内閣の政治的統合力を高めること。「官僚依存の政治」を脱却すること、などでした。いずれも小沢氏自身が主張してきたことでもあるわけですが、その後氏がやってきたことは、他の誰よりも「金権政治」的であり、「派閥政治」的であり、そして、その権力意志は「官僚依存の政治」からの脱却というより、「官僚敵視」の独裁政治を指向しているように見えます。

 では、現在の民主党内には、このような日本の政治改革課題――「金権政治」の打破、「派閥政治」の打破、「官僚依存の政治」からの脱却――を受け止めそれを実行に移す力があるのでしょうか。いうまでもなく前二者については、政権交代政党という、従来の”しがらみ”をもたない強みがあります。問題は三番目の「官僚依存の政治」から脱却して内閣の政治統合力を高めるということですが、この点では、小泉内閣の経済財政諮問会議に学ぶと共に、官僚のシンクタンク的機能を十分生かすことが大切です。

 要は、政治主導体制の確立のための「内閣官僚制」をいかに確立するかということです。そのためには、官僚組織が自己保身的に共同体化する傾向を阻止し、内閣官僚制を支える機能的な組織に改編する必要があります。また、政治的意志決定過程を極力透明化するため、その間の議論のをネット上に随時公開し、国民の判断に供する必要があります。その上で、安全保障、経済、福祉、行政改革、地方分権、教育などの政策課題に、政治主導で対処していかなければなりません。

 その場合、政権政党にとって最も大切なことは、その政党の掲げる政治理念を明快にするということです。また同様の政治理念を掲げる政党と連立することです。現在の民主党連合政権は、政治理念や歴史認識を全く異にする政党が権力欲しさに野合しただけのもので、これでは一貫した政策が打ち出せるはずがありません。鳩山首相の「友愛政治」とか「命を大切にする政治」などという言葉は、そうした政治理念の曖昧さを暴露する以外の何者でもありません。これでは政治家不信を招くだけです。

 同様のことは、社会党と連立して以降の自民党についてもいえます。このことは、今日の日本社会が、55年体制崩壊以来の政治理念の再構築を迫られているということだと思いますが、その時のキーポイントとなるものが、いわゆる日本人自身の歴史認識の問題ではないかと思います。いうまでもなく、夫婦別姓の問題や、外国人の地方参政権などの問題なども、この問題に関わっています。今日、「坂の上の雲」や「龍馬伝」が話題になるのも、こうした問題意識を反映しているのではないでしょうか。

 いずれにしろ、自らの歴史的・文化的伝統の上に、その弱点を克服し長所を生かすという形でしか、自らの民族の生存を図る道はないわけで、そうした共通認識の上に立って初めて、国際社会における共存・共栄のためのルール作りに参加できるのです。もちろん、自由主義経済から逃避することなどできないし、できることは、その枠組みの中で、企業共同体的な日本の社会構造を、社会全体へと広げていくこと。それも自己保身的な共同体ではなく、自己革新的な共同体へと発展させていくことが大切です。

 確かに、政治の世界において、”熾烈な権力闘争を闘うエネルギーが失われる”ことは歓迎されるべきことではないでしょう。だが、それが、かって「四絶」といい精神的克服の対象とされた「克・伐・怨・欲」という悪しき感情に動機づけられたものであってはならないと思います。その意味でも、小沢政治の「権力闘争相至上主義」はこれで終わりにしてもらいたいし、一日も早く、「正論」を堂々と掲げた、言葉による熾烈な権力闘争が繰り広げられることを望みたいと思います。 

2010年2月 7日 (日)

小沢氏「白」への唯一の道は、原資の出所を明らかにすること

 2月4日、東京地検は、小沢一郎氏の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、同会の事務担当者であった石川知裕衆院議員と後任の事務担当者だった池田光智氏、それに、現在西松建設ダミー献金事件で公判中の小沢氏の公設第1秘書兼陸山会会計責任者大久保隆規氏を追起訴しました。しかし、小沢氏本人については、嫌疑不十分ということで起訴が見送られました。

 この事件をめぐっては、宗像紀夫(元東京地検特捜部長・弁護士)氏や、郷原信郎(元東京地検特捜部・弁護士)氏などが、それぞれの立場から、検察を支持あるいは批判する論を闘わせていました。

 宗像氏は、「秘書3人の逮捕まで行ったということは、検察は政治家を逮捕する時は、普通はそんなあやふやな捜査はしないから、何らかの証拠を握っているのではないか」。つまり「検察は小沢一郎を単なる政治資金規正法違反容疑ではなく、水谷検察からの5000万円等の違法献金が含まれていたことを立証しようとしているのではないか」と主張。

 これに対して、郷原氏は、「いくらなんでも、支出入の総額が4億円足りなかったから、それだけで重大事件だとはさすがに言えないと思う。だからそれは、何らかの不記載・・・具体的な収入が書いてないということを立証できなければ、いくらなんでも政治資金規正法違反として悪質なものとは言えない」と主張していました。

 小沢氏不起訴という結果から見れば、これは、問題の政治資金収支報告書に記載されていない収入原資の特定が、2月4日までにはできなかったということだと思います。しかし、これでこの件に関する検察の捜査が終結したのかというと、そういうことではありません。検察は、4日の記者会見では次のように言っています。
 
――原資は解明できたのか
 「原資が何も分かっていなければ、起訴とならない。(土地代金の原資となった)4億円は陸山会の前に一度、小沢議員に帰属している。どういう金かは公判で明らかにする」
 ――この4億円の一部はゼネコンからのものか
 「それは言えない」
 ――小沢氏が記者会見で説明した原資は違うのか
 「今日の時点では否定も肯定もしない。必ずしも小沢議員の説明をそのまま認定しているわけではない」

 もちろん、小沢氏が主張するように、それは「私共が長年かかって積み立ててきた個人資産」なのかも知れません。奥様も鳩山家ほどではないが、かなりの資産家だといいます。また、水谷建設が胆沢ダム受注の謝礼として小沢氏の秘書に渡したという二度の5,000万円については、フリージャーナリストの上杉隆氏は、あるテレビ番組で”秘書が着服した?”というようなことをいっていました。また、郷原氏は、水谷建設社長の偽証ではないかといっていました。いずれにせよ、この問題が解明されないことには、”一件落着”ということにはならないと思います。

 また、郷原氏は、現在明らかにされている被疑事実だけでは、政治資金規正法違反としては悪質とはいえず、この程度で現職の国会議員を逮捕するのは検察の「暴走」ではないかと批判していました。氏は、同様の検察批判を、検察が西松建設ダミー献金事件で大久保秘書が逮捕された時にも繰り返していました。

 曰く、大久保秘書は西松建設からの献金を表献金として受け取っていたのであり、裏献金とは知らなかったのだから悪質とはいえないとか、収支報告書に記載するのは「寄付をした者」であり必ずしも「資金を出した者」ではないとか、もし、その政治団体がダミーだと分かったら、その時点で収支報告書を訂正すれば済む。また、そのことで企業団体から政治家個人が違法献金を受けていたということにもならない。なぜなら、犯罪には犯意が伴っていなければならないから、などと述べています。(「西松事件報告書」) 

 しかし、こうした言い分を認めていたのでは、政治資金規正法で企業団体から政治家個人への政治献金を禁止した意味がなくなってしまいます。というのは、ダミーの政治団体をつくればいくらでも裏献金ができることになるからです。従って、私は、その政治団体が実態のないダミー組織であることを政治家個人(あるいはそれを受ける秘書)が認識していたと立証されれば、それが「形式犯」で済まされることはないと思います。

 そもそも、1994年の政治資金規正法改正――企業団体献金は政治家が代表を務める政党支部と資金管理団体の二つに限る。政治家個人に対する企業団体からの政治献金はその五年後から全面禁止――や政党助成法の成立を主導したのは、細川連立内閣の時の小沢氏でした。その本人が、ダミー組織を介して企業団体献金を受け続けてきたということになれば、政治家としてのモラルや責任が問われて当然でしょう。まして、新生党や自由党解党時の政党助成金の残金の大半を、解党直前に自分の政治団体に寄付?していたということになればなおさらです。

 また、今回の「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件についても、この件に関する収支報告書の記載漏れは、とても事務ミスとか計算間違いなどといえるものではありません。次の、産経ニュース(参照)の小沢氏と陸山会及び関係政治団体間の資金の流れ図を見て下さい。

 この表の内、陸山会の政治資金収支報告書に記載のあったものは、ベージュ色の背景の部分だけで、それ以外の資金の流れは全て不記載です。これらのうち、原資不明とされているものは、小沢氏分については、いわゆる”タンス預金”で出所が全く分からないもの。その他は、陸山会の収支報告書や関連政治団体の報告書に記載のないものです。

Crm1001140108003p1 

 また、上図で、現在判っているものは次のようなことです。

 ①及び②を不記載にしたのは、小沢氏が”タンス預金”を4億円も持っていたことを、民主党の党首選前であったので隠したかったから。そこで銀行から4億円の融資を受けて土地購入したように偽装した。

 ③は、銀行から土地購入資金4億円を融資してもらうためには担保が必要となった。しかし、陸山会の資金は収支報告書上では2.2億しかなかっので、その不足分を補填するため、小沢氏の三つの政治団体(小沢一郎政経研究会・誠山会・民主党岩手県第4区総支部)から陸山会に1.8億円を入金した。しかし、このことは陸山会の収支報告書には記載があるものの、陸山会の通帳や関連政治団体の報告書には記載がなく原資不明となっている。

 ④は、土地の購入日を実際に購入した年の翌年の17年1月7日としたため、陸山会の収支報告書上では残金が不足した。そのため、その直前の1月5日に「小沢一郎政経研究会」など二つの関連政治団体から2.8億円の寄付を受けたように報告書に架空記載した。(池田容疑者供述)

 ⑤は、石川容疑者らが、土地代金に充てた4億円とは別の4億円を陸山会の口座に入金し、5月に⑥4億円全額を引き出したもの。また、07年5月頃、同会から⑦4億円が出金され、池田容疑者は、これは、土地代金に充てた4億円の返済として小沢氏に渡したもの、と供述している。これらは全て収支報告書には記載されていない。

 なお、①と⑤と同時期に、胆沢ダムの工事受注の謝礼として水谷建設より5,000万円づつ計一億円の裏献金がなされたと、水谷建設の元重役は次のように証言しています。

 「水谷と小沢側近は、赤坂のANAインターコンチ、2階にあるアトリウムラウンジで会った。水谷が渡した相手は、1回目が石川知裕に5千万円、2回目が大久保隆規に5千万円だったと特捜部に証言した。水谷建設は、「胆沢ダムは小沢先生の影響力が強かったので、小沢事務所に挨拶をした。そして1億円は見積もりに水増して、鹿島に請求し、鹿島から戻してもらった」(毎日新聞)。しかし、石川、大久保両氏ともこれを全面否認しています。

 ではなぜ、こうした、極めて不透明かつ複雑な資金の流れがなされたのか、なぜ、ベージュ色の背景部分だけしか収支報告書に記載されなかったのか・・・。一説では、小沢氏は自己資金で土地を買えば良かったのに、うっかり陸山会購入としたためこのようなことになったのではないか。そうであれば、これは自分のお金がグルグル回っただけで悪質とは言えない、などというものです。

 だが、これはとてもそのような単純な話では済まないと思いますね。これだけの虚偽記載をしていることが明らかになれば、政治資金規正法違反に問われるのは当然です。そのポイントは、これらの原資不明の資金がどこから出たのかということです。先の郷原氏も「小沢氏はすみやかに原資の出所を明らかにすべきだ」といっています。もちろんそれで小沢氏の個人資金であったことがはっきりすれば、当然政治資金収支報告書違反の悪質性も低く評価され、秘書の罪も軽くなります。

 以上、「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、小沢氏の元秘書及び現秘書が起訴され、一方小沢氏は嫌疑不十分で不起訴となったことについての私見を申し述べました。再度その結論を申し上げるならば、「小沢氏はすみやかに不明とされる原資の出所を明らかにせよ」ということです。といっても、いずれこのことは、三人の公判の中で明らかにされるとは思いますが。

2010年2月 3日 (水)

小沢政治の評価と、その行方

 2月3日、小沢氏の政治資金規正法違反事件をめぐって、検察庁は最高検などと協議し、小沢氏を在宅起訴するか、嫌疑不十分で不起訴処分とするかについて、結論を出すとみられる、といった報道がなされています。一部では、検察は起訴を断念する方向、という報道もなされています。

 一方、立花隆氏は、2月2日、小沢氏が検察の二度目の取り調べを受けたことを次のように行っています。

 「はっきりいって、小沢はもう終りと見てよいだろう。検察が二度目の事情聴取に踏み切るのは異例のことである。検察が目算なしに有力政治家の事情聴取に踏み切ることもなければ、秘書の逮捕(それも前元あわせ一挙に三人もの)に踏み切ることもない。ましてや二度目の本人事情聴取に踏み切ることはない。」http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100202-00000301-gtwo-pol

 さてどうなるか、ですが、前回申し上げた通り、仮に小沢氏の起訴が見送られるとしても、政治的に氏が生き残ることはないだろうと思います。その最大のウイークポイントが「裏献金」(この捜査が打ち切られるとは思わない)であることはいうまでもありませんが、私が最大の問題点であると思うのは、前回も指摘しましたがその「正論」に対する”疑惑”です。

 人の思想信条は自由です。だから右でも左でもかまわない。しかし、民主制下の政治家である限り、それ(その人自身の「正論」)を明確に表明しなければならない。その上に立ってその政治家の政策選択もなされているはず。そして国民はその言葉を信じて一票を投じたはずです。

 いや、実際にはそんなことで人は投票しているわけではない、という人もいるかと思いますが、少なくとも民主党のマニフェスト選挙とは、そうした政治スタイルを売り物にしたのであり、その結果、今回の政権獲得となったはずです。

 ところが、小沢氏の場合は、このマニフェストに示された「目玉政策」のみならず、それを支える氏の「正論」が単なる政権獲得のための手段、あるいは方便だった疑いが濃厚である。私はこれが氏の最大の問題点だと思います。

 元外務相主任分析官(外務省のラスプーチンと評された)佐藤優氏は、いや、小沢氏が『改造論』で表明した「普通の国」論はいまも生きている、と次のように小沢氏の隠された政治的意図を説明しています。(参照

 冷戦構造化における政治体制は、日米安保+象徴天皇制+官僚支配構造だが、それが終結した今日、まずこの官僚支配構造が打破されなければならない。つまり、今後の日本の政治は、二大政党制下の政党の切磋琢磨によって運営されなければならない。では、その究極の理念は何か。

 それは、必然的に「列強間の帝国主義」的運営とならざるを得ない国際社会において、特に国連の治安維持活動に積極的に参加することによって日本も列強としての資格を獲得すること。そうすることで国連という枠組みの中における利益を追求し、共同体としての生き残りをはかることである。それが氏の「国連中心主義」の真の意味だ、というのです。

 この佐藤優氏の所論については氏の宗教論も含めて今後勉強していこうと思っていますが、氏は、小沢氏の表向きの「正論」の変化について、それを「政治的センスの良さ」として評価しています。その一方で、現代の国際社会は「資本主義の宿痾」としての”自由競争的メカニズム”から逃れられない。従って、その「資本の論理」を自覚的に受け入れることによって、「よりよい資本主義」を目指すべきだと説いています。

 つまり、ここで佐藤氏は、〇五年に民主党代表となった前原氏が「自民党と改革競争をする」と口走っていたことの政治的センスの無さを小沢氏との比較で指摘しているのです。しかし、これは政治家の本音の思想と国民向けの政治的宣伝とを使い分けるものであり、ここには、大衆を政治的煽動の対象としか見ない官僚的エリート主義が隠されているようにも見えます。

 確かに、政治家に政治的センスは不可欠でしょう。しかし、政治家は自らの言葉には誠実であってもらいたい。この民族が歴史的に独自のプラグマティズムを発達させてきたことは事実ですが、それはあくまで「日本教」的枠組みの中で機能を発揮してきたことである。

 明治以降の日本は、この伝統に立憲君主制という政治制度を継受することで、西欧諸国が作る国際的政治・経済秩序を生きてきた。ここで私たちに求められていることは、自らの思想を対象化することで「言葉による秩序」を形成する能力を身につけることではないか。

 官僚もそして検察も、自らの権力行使について、言葉で明瞭にその根拠を国民に説明してもらいたい。また政治家は、自らの政治的信念と政策とを偽りなく国民に示していただきたい。それが民主主義社会における政治主導の要諦ではないか、私はそう思っています。

追伸 佐藤氏は次に小沢氏が目指すものは、日米関係の再構築さらに「象徴天皇制」だ、といっています。この指摘は、小沢氏の天皇発言ひいては佐藤氏自身の天皇制理解にも関わっていて大変興味深いところですが、追々勉強して私見を申し述べさせていただきたいと思っています。

(2/4 0:30下線部最終校正)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

twitter

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック