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2010年3月

2010年3月30日 (火)

「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと4――葵様への返書1

*葵様への返書です。いい質問が含まれていましたので、本文掲載とさせていただきます。

 葵さんからLAST突っ込みをいただきました。なんと、かって山本七平の戦争体験談を駄作と思っていたが「大事だ」と評価されるようになっておいでのようで、その山本の言葉を、私たち(一応「一知半解」さんも共犯ということに・・・)が誤読しているのが悪い、とお叱りをうけました。

 もちろん、私たちが紹介しているのは山本七平であって「自分」たちではありませんから、つまり、私たちのは刺身のツマのようなものですから、より優れた山本解釈が現れれば有難いわけで、葵さんにはよろしくご教示いただきたいと思います。

 そんなわけで、今回はお返事差し上げることにしました。ついては、葵さんも折角のお料理ですので、変な臭気を出さず、上品に召し上がっていただきたいと思います。

>攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

(葵) ↑まず、タイトルを見て、目が点になってしまった。
攘夷って?黒船渡来時期なら分かるが???
傑作なのが『デェ(ィ)アスポラへの挑戦』。日本人はユダヤ人のように迫害されて国を追われた歴史は・・・私は知らない。苦痛を我慢して最後まで読んで、その意味が分かったような・・・つまりは↓こうゆうことなのか?

>小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。

(葵)『日本沈没』の原作は読んでいないが、私は映画で愉しんだ。
もしかして・・・・現実と空想の境界線を引けない人なのかいな?
ディアスポラに挑戦するに相応しいのは、日本に強制連行されたとする朝鮮民族だろう。
一日も早く祖国に帰るように~~アーメン、ソーメン、ナンマイダー

(tiku) 以下、『日本沈没(下)』の、日本列島の沈没を目前に、一人の死を覚悟した老人が、日本沈没を予知した田所博士に話す言葉です。(少々長いですがご辛抱下さい)。というのも、葵さんは、ディアスポラを「祖国喪失の悲劇」としか捉えていないみたいですが、それは、次の会話にあるように、「大人の国に再生するための契機」という見方もあるのです。聖書が生まれたのも、ユダヤ人のバビロン捕囚というディアスポラを契機としてますし、キリスト教が生まれたのも、ローマにディアスポラしたユダヤ人のために、その聖書をギリシャ語に翻訳したことがその契機となっています。 

 「日本人は・・・若い国民じゃな・・・」そういって、老人はちょっと息をついた。『あんたは自分か子供っぼいといったが・・・日本人全体がな・・・これまで、幸せな幼児だったのじゃな。二千年もの間、この暖かく、やさしい、四つの島のふところに抱かれて・・・外へ出て行って、手痛い目にあうと、またこの四つの島に逃げこんで・・・子供が、外で喧嘩に負けて、母親のふところに鼻をつっこむのと同じことじゃ・・・。それで・・・母親に惚れるように、この島に惚れる、あんたのような人も出る・・・。だがな・・・おふくろというものは、死ぬこともあるのじゃよ・・・」

 『日本人はな・・・これから苦労するよ・・・。この四つの島があるかぎり・・・帰る”家”があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやかし、育ててくれているおふくろかいたのじゃからな。・・・だが、世界の中には、こんな幸福な、暖かい家を持ちっづけた国民はそう多くない。何千年の歴史を通じて、流亡をつづけ、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかねばならなかった民族も山ほどおるのじゃ・・・。あんたは・・・しかたがない。おふくろに惚れたのじゃからな・・・。だか・・・生きて逃れたたくさんの日本民族はな・・・これからが、試練じゃ・・・。家は沈み、橋は焼かれたのじゃ・・・。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、わたっていかねばならん・・・。いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん・・・。これからはな・・・帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧でなにもわからん民族と立ちあって・・・外の世界に呑みこまれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか・・・それもええと思うよ・・・それとも・・・未来へかけて、本当に、新しいか意味での明日の世界の”大人の民族”に大きく育っていけるか・・・日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな”国”ぐらいつくるじゃろうが・・・辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、我が身の不運を嘆いたり、世界の”冷たさ”に対する愚痴ばかり次の世代にのこす、つまらん民族になりさがるか・・・」これからが賭けじゃな・・・。そう思ったら、田所さん、惚れた女の最期をみとるのもええが・・・焼ける家から逃れていった弟妹たちの将来をも、祝福してやんなされ。あの連中は、誰一人として、そんなことは知るまい。また将来へかけて気づきもしまいが、田所さん、あんたは、あの連中の何千万人かを救ったのじゃ。・・・わしが・・・それを認める・・・わしが知っとる・・・それでええじゃろ……」

 「ええ・・・」田所博士はうなずいた。「わかります・・・」「やれやれ・・・」と老人は、息をついた。「わかってくれたら・・・何よりじゃ・・・。あんたが・・・考えてみれば・・・最後の難物じゃったな・・・。実をいうと、あんたをな・・・そういう思い(日本列島に恋して、一緒に沈没して死のうと決心する程の思い=筆者)のまま・・・死なせたくなかった。・・・本当は、それが心のこりじゃったが・・・今、あんたの話を聞いて、わしも、やっと日本人というものが、わかったような気がしたでな。・・・日本人というものは・・・わしにはちょっとわかりにくいところがあってな・・・」
 「どうしてですか?」 老人のいい方に、ふとひっかかるところかあって、べつにそんな深い意味もなしに、田所博士は聞きかえした。
 ふ、と老人は、短い息を洩らした。――しばらく、間をおいて、老人は、ささやくようにいった。
 「わしは――純粋な日本人ではないからな・・・」それから、もう一つ、吐息をつくように老人はいった。「わしの父は・・・清国の僧侶じゃった・・・」
 田所博士は、ちょっとおどろいたように、ふりかえった。――老人に何か問いかけようとして、老人の次の言葉を待つ形で、老人のほうを見ていたが、そのまま老人は一言も発しなかった。

 実は、この小説は昭和48年に出版されたもので第一部完となっていますが、第二部はなんとその33年後の2006年に刊行されました。二部を書くことは実際は困難だったのですね。私もざっと目を通しましたが、ディアスポラ後の日本人の生き方としては、ユダヤ民族が捕囚地で始めたシナゴークにおける祖国の伝統教育、そのための聖書編纂の仕事を示唆する程度で、最後は宇宙にディアスポラする話で終わっています。

(葵)日本人は今ある平和に感謝して、わざわざ民族分散なぞに挑戦する必要はないよ。ただし、日本が嫌いな人は、遠慮なさらずに脱出しなさい。
しかし、この平和ボケしている日本人に攘夷思想なんてあるのだろうか?
もしかしたらtikurin殿は、黒船騒ぎのあの時代から、タイムスリップしてきた人なのか?
なんとも、まー・・・不思議な御仁の考えることは、凡人の私には分からない。

(tiku)”攘夷思想くらい持ちなさい”と母親が息子を叱っているみたいですが、息子たちが平和ボケしている現代こそ、”他所の国にたたき出すべきでは・・・”。それがディアスポラのすすめ、という意味です。

 『日本人とユダヤ人』では、ベンダサンは、ユダヤ人のように祖国を失うようなことは決してしてはならないといい、ユダヤ人が受けた迫害の教訓から、朝鮮人との関係について、「朝鮮戦争は、日本の資本家が(もうけるため)、たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人に対して、「ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないとだれが保障してくれよう」といっています。

 そして、朝鮮戦争について、朝鮮人が「われわれが三十八度線で死闘をして日本を守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけぬくぬくともうけやがった」と考えるのは当然だが、たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない。・・・しかし同様なことを第一次世界大戦後のユダヤ人はドイツ人からいわれ、それがアウシュビッツにつづいたのである――前述の文化人さんよ。自分の子のためにも、このことを忘れないで欲しい。」といっています。

 この部分は、浅見氏をはじめ左翼の皆さんが、口を極めて山本七平を人種差別主義者だと非難罵倒している部分ですが、ユダヤ人(この本の著作には二人のユダヤ人が関与している)の経験から、日本人に人種(民族)問題の困難性を教えているのであって、こうした山本批判は当たらないと思います。いずれにしても、自らの政府を失うことは大変なことですから、ベンダサンは、民族・国家というものは、武力を使ってでも守るべきものだといっているのです。

 もとろん、私がディアスポラというのも、それは祖国喪失をすすめているわけではなくて、若者には、積極的に異国に出て行って、日本と異なる文化を体験してほしいといっているだけです。そうした経験を通じて、自らの民族的アイデンティティーを確認し、さらにその発展に努めて欲しいといっているのです。あるテレビ番組で兵役に代わる一年間の「徴農制」を提言していましたが、そんなことより一年間の「ディアスポラ」の方が効果的ではないかと思ったことでした。

>確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。

(葵)分からないついでに↑これ。
象徴天皇制は、かなの発明とは無関係であり、日本独自の文化ではない。
あれはGHQの発明じゃ!
難解な長文は山本七平流?その思想は山本教の教義なのかい?

(tiku)象徴天皇制をGHQの発明と考えているようでは、まだまだ山本学を理解したことにはなりませんね。これは源頼朝が創出した制度で、それを北条泰時が、これに抵抗した三上皇を島流しにした後に、法制度(貞永式目)上確立したものです。その後、後醍醐天皇の巻き返し(建武の中興)がありましたが、結局、後醍醐天皇は足利尊氏に追われて南朝となり、尊氏は”武家のために立てた天皇”である北朝を擁立し、南北朝合一で神器が南朝から北朝に譲られ、こうして天皇制は文化的「象徴天皇制」となったのです。

 この状態が、室町時代以降も続きますが、守護大名間の下剋上的争乱から戦国時代を経て家康による全国統一が完成すると、武力によらない秩序づくりが求められるようになりました。この時採用された思想が、中国の宋・明の時代に発達した朱子学(新儒教)で、これによって、天皇の正統性が「神武天皇は呉の太伯の子孫」という形で権威づけられました。さらに、その天皇により家康が将軍に任命されたことで、幕府政治の正統性が説明されたのです。また、朱子学の五常(仁義礼智信)・五倫(父子の親、君臣の義・長幼の序・朋友の信)の道徳哲学に基づく個人倫理の確立によって、幕藩体制下の身分秩序の安定が図られました。

 ところが、こうした中国思想の体制思想としての導入は、過度の中国文明の理想化を生み、その後、明が滅んで朱舜水をはじめとする多数の亡命者が日本に来るようになると、現実の中国は満州族に支配された「畜類の国」であって、日本こそ「真の中国」だというような考え方が生まれました。そして、これが、「根本枝葉花実説」(神道が根本で儒教は枝葉、仏教は花実とするもの)といわれる神道思想や、記紀神話に基づく萬世一系の天皇家の統治の正統性を主張する国学思想と習合したことによって、天皇を「象徴」に棚上げしてきた幕府政治の正統性を疑うものが出るようなりました。

 こうした考え方を鮮明にしたのが、山崎闇斎門下の浅見絅斎で、彼は、朱子の「正統の三原則」(1)夷狄、(2)賊后、(3)簒臣、を日本に当てはめ、幕府は天皇から政権を奪った「簒臣」であるから正統性はなく、政権は朝廷に返上さるべきだと主張するようになりました。また、こうした考え方をもとに水戸の彰考館などで日本史の再解釈がなされるようになり、天皇政治の復活を企図した後醍醐天皇の「建武の中興」を挫折せしめた張本人として足利尊氏が叛臣扱いされるようになり、他方、後醍醐天皇を支えて幕府軍と戦った楠木正成が忠臣と見なされるようになりました。

 こうして、鎌倉幕府以降、源頼朝や北条泰時によって確立された「象徴天皇制」に基づく二権分立的な日本の統治体制は、中国皇帝の一元的な統治体制をモデルとし、それを萬世一系の皇統において理想的に体現しているとされた、天皇による直接統治=親政に戻すべきだとする考えが生まれたのです。しかし、幕府の統治下でこれを公然と主張することはできないので、彼は、中国人の歴史上の人物の中から、こうした正統を絶対として、それを守るためには殉教も厭わない人物8人を選び出し、その評伝を『靖献遺言』という本にまとめて公刊しました。

 この本には、正統性を有しない政権への忠誠を拒否し、殉教をも厭わなかった忠臣・義士が紹介されており、これが幕末の志士達に「革命のエトス」を注入することになったのです。すなわち、幕府の存在を非合法とし、日本の歴史の過ちを正そうとする政治運動に参加して、例え幕府の法で処刑されるようなことがあっても、「それは正しい」とする個人的・絶対的倫理規範」に身を委ねるようになったのです。幕末になると、こうした思想が徐々に全日本に浸透していき、これが攘夷思想と結びつくことによって、尊皇の志士たちによる尊皇攘夷運動、そして尊皇倒幕思想へと発展していきました。

 明治維新とは、実は、この尊皇思想と攘夷思想とが結びつくことによって達成された日本初のイデオロギー革命だったのです。しかし、この思想は、日本の政治思想史の全体の流れからいえば、幕府政治が登場する以前の、天皇が名目上政治的主宰者であった時代の政治体制に逆戻りしようとするものでした。しかし、実際、幕府から天皇に大政奉還がなされ維新政府ができてみると、この復古思想で新政権を運営することは不可能である事が明らかとなり、そこで、政府は文明開化策に転換し、政治制度としては、イギリス流の立憲君主制が採用されることになったのです。

 この時、この尊皇思想という復古思想を思想的に精算し、あくまで歴史的産物として過去の申し送ることができていれば良かったのですが(まあ、無いものねだりですが)、この思想は西南戦争の敗戦によって西郷とともに地下に潜り、他方、教育勅語という形で理念化されたために、「明治憲法は天皇親政が建て前である」とする誤った憲法解釈を温存させることになりました。これが、昭和において、この教育勅語の国家観と明治憲法の国家観の矛盾対立として表面化し、天皇機関説問題を惹起することになったのです。

(葵)天皇機関説問題・・・ばからしい解説に苦笑した。

(tiku)この復古思想の昭和における噴出が、それまでの明治憲法下の立憲君主制下の「君臨すれども統治せず」の制限君主としての天皇制と、教育勅語に結晶した尊皇思想にもとづく、一君万民・家族主義的天皇制の衝突となって表面化しました。すなわち、前者を主張する美濃部達吉と、後者を主張する蓑田胸喜ら狂信的右翼思想家及び軍部との、天皇制の憲法解釈上の位置づけをめぐる対立、いわゆる天皇機関説問題として露呈したのです。

 ただし、美濃部達吉も少し甘かった。というのは、政治的には、天皇もあくまで日本国の統治機構の一機関と見なすことができるのですが、教育勅語に謳う家族的国家観に基づく道徳律の主宰者という天皇の位置づけについては、これを政府の一機関とすることができない、つまり、ここに二つの国家観の矛盾が胚胎していることに、この時初めて気づかされたのです。このことは現在の問題でもありますが・・・。。(『天皇と東大(下)』「天皇機関説論争が招いた二・二六事件」立花隆p169)

(葵)「日本教には仏性がありまして」と、平気でばかを晒す(仏性があるのは仏教徒。日本教とは山本の造語)そんな似非知識人の記事を参考にするから、頭が左巻きになっちゃうのだ!

(tiku)日本の思想は、弥生時代以来の卑弥呼に見られるような神祭りを中心とする祭儀の伝統に、大和朝廷の時代に導入された仏教(これは「儒・釈・道」の三教混合宗教だった)が重なり、日本的な「神・儒・仏」三教合一思想として発展したものです。従って、人間の良心に当たる心の作用を、人の心には仏の心(=慈悲の心)が宿っているという意味で仏教用語を充て「仏心」と名付けたのです。

 それが江戸時代になると、仏教が戦国時代の乱世に説得力を失ったことからその影響力が低下し、日本の思想の表現は、神仏習合から神儒習合へと切り替わっていきました。また、幕府が、切支丹排撃のため全国民を仏教徒として檀家制度に組み入れ、お寺にその戸籍管理をさせたことで、僧が公務員のようになり、僧の資質の低下をもたらし、仏教の庶民に対する宗教的影響力は一層低下しました。そんなことで「仏心」は、儒教用語で「(本)性」と呼ばれるようになりました。

 さらに、石田梅岩の心学が流行し、脱宗教化が一層徹底するようになると、その弟子の手島堵庵がそれを「本心」と言い換えたのです。この言葉は現代の私たちでも使いますね。「自分の本心に聞いて見なさい」といった具合に。

 つまり、「仏性」とは、仏教徒だけの「信心」についていったものではなく、人間の「良心」にあたる心的現象を仏教用語で説明したものなのです。だから、それが脱宗教社会といわれる江戸時代には、一般社会的には、より宗教臭くない「本心」という言葉で言い表されるようになったのです。

 この「本心」の持ち主は重ねていいますが、「仏教徒」だけのものではなくて、私たち日本人一般が持っている良心的観念のことを指していて、この心的現象の存在を担保しているものが、日本人独自の自然主義的宗教観念なのではないのか、という意味で、山本七平はそれを「日本教」と名付けたのです。

 以上、葵さんご自身の「本心」に照らして考えてみて下さい。もちろん、以上の説明が”左巻き”の仕業としか考えられなくても、私は一向にかまいませんが。

(葵)ネットという仮想空間で、著名な文化人の衣をまとってHNという匿名に箔をつけて誇示するさまは、私には哀れに見える。

(tiku)HNってなんのことかしら?

(葵)学歴と教養は同じではないよ。折角PCという素晴らしい百科事典があるのだから、分からない言葉や事柄は検索して調べなさい。ただし、歴史を本当に学びたいのならば、自虐も自慰もサヨクもウヨクも、その思想を知りなさい。そして自分の頭で考えて自分なりの真実を決めなさい。

(tiku)PCはすばらしい!葵さんも十分ご活用下さい。でも、それだけではダメですね。自分の頭で考えることが大切です。しかし、葵さんの場合は、まだ、ステレオタイプな歴史観から脱しておられないようですね。折角の粘り腰、奮起を期待します。

(葵)私は山本の戦争体験談を駄作と評したけど
大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。
従って「大本営の気違いども」といった言葉は、戦後のいわゆる軍部批判と同じではない。
↑この大事な山本の言葉を誤読しているキミたちの感想が山本文を駄作にしているのだが・・・わかるかなーわかんないだろうなー

(tiku)この言葉がどこに書かれているか私知っています。でも、葵さんに何がわかり、何がわかんないのか、私は皆目わかんない。良かったら、”わかんないだろうなー”なんてもったいぶらないで教えて下さいね。

 以上、いつもの長文で申し訳ありません。アップは、一知半解さんのブログでの紹介と私ブログ及び私HPとさせていただきます。葵さんのブログにはご自身でリンクを貼って下さい。

2010年3月27日 (土)

「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと3――浅見氏の山本批判について

*AP_09さんとの対話ですが、少々長くなりましたので、本文掲載とさせていただきます。

AP_09さんへ
 拙論(といっても山本七平の説を私なりに解釈したものにすぎませんが)を参考にしていただき光栄です。今後ともご意見よろしくお願いします。

 さて、浅見定雄氏の山本批判についてですが、山本は1988年6月22日号の朝日ジャーナルのインタビューを受けています。そこで浅見氏の指摘について問われ、あれはエッセーです。エッセーは楽しんでもらえればそれでよい。学術論文として扱われると問題があるのは当然で、私だってそのことはよく知っている、と答えています。また、ベンダサン=山本説については、この本の編集上協力したことは否定しないが著作権は持っていないと繰り返し、さらに、浅見さんの批判を無視するのかという問いに対しては、自分について書かれたことで自己弁護はしないと答えています。

 また、このことについて小室直樹氏は次のように浅見氏を批判しています。

 山本先生は本人が署名する場合は山本書店主と書いており、学者でないことは自他共に認めている。しかし、山本先生は学問的にはまったくの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものなのだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えばいろいろな点で欠点があるだろう。しかし、才能もあって一生懸命努力している人には、プロは助言して励ますべきものであって、細かいことで難癖つけてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である。

 事実、著名な聖書学者等の多くはそのようにしていますね。では浅見氏はなぜあのように敵意むき出しの山本批判をしたのか。実は、浅見氏は「山本ベンダサンのにせ知識と論理のでたらめさの指摘はダシのようなもの」で、「もっと心のわだかまっていたのは、『踏まれる側』の人間に対する彼の鈍感冷酷さと、『踏む側』の人間に対する彼らのへつらいや協力ぶりのことであった。こういう人が、日本の文化教育から『防衛』政策にまで影響力を行使している。この現象をあまり見くびってはいけないと思った。」と別著で述べています。(『聖書と日本人』浅見定雄P27)

 問題は、ここで『踏まれる側』と『踏む側』とは、どういう基準で分けられるかということですが、ここには氏の信仰(私にはイデオロギーのように見えます)が関わっていて、その最大のポイントは、氏の「象徴天皇制」に対する批判にあります。氏は①天皇が象徴であるというのは、天皇は私たち一般の人間とは異質だということである。②「その天皇が日本国及び日本国民統合の象徴であるというのは、国民以外の『よそもの』(朝鮮人や白人)は入ってはいけないということである」といっています。

 つまり、「このように天皇を別格視する考えと、日本国(民)が自分を特別な民族だと思い込む精神とは、根本でつながっている」というのです。そして、「天皇が日本の象徴だということは、裏がえせば、日本の『世界に比類ない』特徴はこの国があの天皇家によって支配されてきたきた点にある」といっています。つまり、日本民族の優越性と他民族に対する差別性は「天皇制」から生まれていると考えていて、究極的にはその廃絶を主張しているのです。(上掲書P175)

 では、こうした天皇制の基本的問題点を克服するための氏の基本的立場はどういうものかというと、「それは、あのガラテヤ人の手紙第三章二十八節に言いあらわされているような福音の真理・・・キリスト・イエスにあっては『もはや、ユダヤ人もギリシャ人』もなく(つまり日本人とか外国人とかの優劣はなく)、奴隷も自由人もない(つまり下層民とか天皇とかいうこともない)という、あの原則・・」つまり、こうした「人類普遍の原理」を国のすみずみまで生かしていくことだ、といっています。(上掲書P177~182)

 この本は1988年に出版されたものですが、一見して、浅見氏の天皇制の理解は当時の戦後左翼のそれと同じであることが分かります。これに対して『日本人とユダヤ人』は、鎌倉幕府以来の「朝廷・幕府併存」という政治体制が、統治における祭儀権と行政権を分立させたものであるとして、日本人を「政治天才」と高く評価しました。つまり、この段階で、天皇制は「象徴天皇制」に変化したと指摘していたのです。また、その背後には、「日本教」とでもいうべき「人間教乃至経済教」(政治は義の実現より経済的安定を指向する)があるともいっていました。

 浅見氏は、こうした論理による「象徴天皇制」の評価が許せなかったのでしょうね。しかし、浅見氏は『にせユダヤ人の日本人』の中では、この章にはほとんど触れていません。その代わり、他の章で、氏の聖書学がいかにインチキか、その日本人論がいかにでたらめか、氏の語学力がいかに低いかを執拗に攻撃しています。しかし、私は、氏の本当の山本攻撃のポイントはその天皇制論にあったのではないかと思います。しかし、ここに触れると、以上紹介したような氏の「象徴天皇制」否定のイデオロギーが露呈するのでそれを憚ったのかも・・・。

 しかし、この点では、私は、ベンダサンの「象徴天皇制」の評価の方が正しいと思います。このことは、その後の『ベンダサン氏の日本の歴史』や山本七平氏の『現人神の創作者たち』などによって、この「象徴天皇制」が、朱子学の名分論の影響で、中国皇帝をモデルとする一元的絶対主義的天皇制へと転化していったこと。これが尊皇討幕運動を生み明治維新へとつながっていったこと。しかし、新政府は攘夷は実行せず、立憲君主制に基づく開国策を取ったこと。一方、尊皇思想は教育勅語に結実するとともに、政治制度としては、西郷の「殉教」によって地下に潜り、そのマグマが、昭和の政治的・経済的混乱を契機に地上に噴出したこと等、これまで昭和史の”なぞ”とされてきたことが、思想史的に解明されたのです。

 その他、私は、浅見氏の「人類普遍の原理」による、民族や言葉の壁を越えた国際市民社会が実現するという考え方にも疑問を持ちました。また、宗教的信念に基づき、日本の「象徴天皇制」を「天皇特殊論」と断じ、それを差別の根源と批判するその思想の妥当性にも疑問を持ちました。まして、自分と異なる思想の持ち主を、『踏む側』の人間と決めつけ、『踏まれる側』の人間に対する鈍感冷酷さもつ人間と断罪することなど、はたして宗教家のやることかと思いました。

 ところで山本七平には、その縁戚筋に大石誠之助(大逆事件で処刑=冤罪)がいて、両親はそのことで故郷を追われ東京に住んだクリスチャンでした。山本自身は、先の大戦では21才で陸軍に入隊し23才から25才までフィリビンのジャングルで戦い、飢餓線上をさまよい、最後は捕虜となり戦犯容疑も受けています。

 そんな生い立ちと経歴から、氏は、次のようなことを『現人神の創作者たち』の「あとがき」で述べています。

 「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に「現人神」を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。」 

 また、氏は、復員後も戦争による後遺症に苦しみ、35才でようやく「社長兼社員」の山本書店を立ち上げ、その後、聖書学の専門図書を出版してきました。43歳の時、岩隈直氏が33年かかってまとめた「新約聖書ギリシャ語辞典」の出版を赤字覚悟で引き受けました(どの出版者も断った)。その出版費用の一部にでもと思ったのか49才の時『日本人とユダヤ人』を出版し、これが大ベストセラーとなったのです。その後、氏は多くの山本七平名の著書を世に送りましたが、その収益の大半は聖書学関係の本の出版費用に充てたといいます。

 そんな氏に対して、平和な時代に、自分の時間を自由に使え「聖書学」を学びそれで生計を立てている人が、どうして「鈍感冷酷さもつ人間」などと山本七平の人格攻撃ができるのか。もちろん学問的な間違いを指摘することは私も大切だと思います。しかし、私は、山本七平の本領はその「日本学」にあると思っています。その独創的で日本人にとって極めて示唆に富む研究成果が、こうした攻撃によってアクセスを妨げられている。私はこれは誠に残念なことだと思い、非力を承知でその紹介にあたっているのです。 

2010年3月22日 (月)

「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと2――攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

*「一知半解」さんのブログでの対話を再掲させていただきます。

自己絶対化を克服すること

 司馬遼太郎には昭和が書けませんでした。精神衛生上悪いといって・・・。山本七平はその昭和を、戦場の自分自身を語ることでその実相を伝えようとしたのです。それは自虐でも美談でもなく、戦争で露呈した日本人の弱点を言葉(=思想)で克服しようとする試みでした。

 そのポイントは”自己を絶対視する思想をいかに克服するか”ということで、そこで、尊皇思想における現人神」思想の思想史的系譜を明らかにしようとしたのです。氏の聖書学はそのためのヒントを与えるものでした。

 mugiさんは、浅見定雄氏を山本批判の切り札に援用されますが、浅見氏はmugiさんが最も嫌う”非寛容な一神教”クリスチャンで、思想的には”先鋭な”反天皇制、反元号、反靖国、反軍備、親中・朝論者です。 氏の著書を見ると、氏の意見に賛成なら”できの悪い”生徒でも及第点をもらえるが、その逆なら大変な目にあう、そんな恐ろしさが感じられます。

 この強度のイデオロギー性は教師としては問題ですね。確かに、氏の山本批判(ただし、ベンダサン=山本七平とは言えない)には肯首すべき点もあります。しかし、それを台無しにするものがある。上記の点もそうですが、その論述に憎悪が感じられる点学者としては不名誉だし、クリスチャンとしては致命的です。(同様の指摘は立花隆、小室直樹氏もしています。)

 そのため、氏は、山本七平の「日本人論」の優れた部分が全く見えなくなっている。もちろん、その動機はキリスト教左派(?)の立場からする日本の伝統思想批判ですから仕方ありませんが、これでは自虐どころか自国否定になりかねません。

 山本七平の日本人論の独創性は、こうした日本人の思想形成における自国否定とその反作用としての自国美化の非歴史的循環論からいかに脱却するかということ。これを日本思想史の課題として捉えることで、そのベースとなる伝統思想を思想史的に解明することにありました。

 私が山本七平を紹介するのは、その日本人論が、私たちが無意識的に生きている伝統思想を自覚的に把握し、それを対象化できるようにしてくれたと考えるからで、それが、次の時代の日本の思想的発展を考える際の議論の土台になると考えたからです。

「一知半解」さんのコメント

tikurin様

確かに、戦争などの極限状態においては、その民族の行動原理というものが、はっきりと露呈してしまうのでしょう。

山本七平はそれを自ら嫌というほど体験したが故に、日本人とは何かを追及し続けたのでしょうね。

ap_09さんのコメント

tikurin 様
自己の絶対視から、その裏返しともいえる自虐や自己否定へと、極端から極端へ振れ、中間が無いということなのでしょうか。なぜそうなるのでしょう、面白いですね。外国の人は、自分が一番の一本調子のことが多いように見えます。

ap_09さんへ(tikurinより)

攘夷思想よりディアスポラへの挑戦

 中間がないというより、自己の考えと他者の考えを相対的な関係において捉えることができないということですね。自己の考えはどうしてできているか。それは、その人の素質や育った環境、受けてきた教育(=歴史)などによります。同様に、他者のそれもその人に与えられたこれらの条件によります。このことは民族や国家についてもいえます。

 では、自己と他者の考えが現実問題の処理において対立した場合はどうするか。他者が圧倒的に勝っている場合は、自虐や自己否定に陥る。しかし、そうした心理状態は長くは続かないから当然反発心が生まれる。さらに、それを根拠づけようとすると自己の歴史の優位性を主張するようになる。それが行き過ぎると他者の存在を否定するようになる。

 では、こうした悪循環からいかに脱却するか。それは自己あるいは自民族や国家の存在を歴史的に把握するということですね。というのは、自分はもちろん民族や国家も一種の有機体で独自の根をもって成長しているから、その現在を理解するためには、それが受けた他の文化の影響も含めて、それを歴史的に把握する必要があるのです。

 日本の場合は、中華文明の圧倒的影響下にありましたが、海に隔てられていたおかげで安全を確保でき、独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明の影響力が圧倒的であっただけに、思想的には、それへの迎合と反発というパターンを繰り返さざるを得ませんでした。

 確かに、かなの発明による国風文化や、器量第一の武家文化や象徴天皇制など独自の文化の根を育てることができました。しかし、中華文明のもたらした仏教や儒教の思想的影響力は圧倒的で、それを自己の文化に取り込もうとする時、これらに対する迎合と反発というパターンの繰り返しから、完全に脱却することができなかったのですね。

 明治になると、その迎合の対象が中華文明から西欧文明に切り替わりましたが、従来の中華文明に対する劣等意識の反動で、中国に対する優越意識を持つようになりました。次いで、西洋文明への迎合が反発に変わり、ついに東洋文明のチャンピオンが日本が、西洋文明のチャンピオンであるアメリカと対決する、という風に民族意識が変化していったのです。

 同様の心理変化は戦後にも見られますね。最初はアメリカ民主主義に対する迎合、それからソ連共産主義、中国毛沢東主義へと次々に・・・。そして、それへの幻滅と反発、再び自己の歴史の正当化からその美談化へと・・・。それが現在の状況ですね。これを放っておくと、再び自己絶対化に陥ることになります。

 では、そうならないようにするためにはどうしたらいいか。それは、先に述べたように、自己及び自民族を歴史的に把握するということです。それができれば、他者の文化も同様に歴史的に把握することができる。その上で、今後自分たちが生きのびていくためには、どのように彼らとつき合ったらいいか冷静に考えることができるようになる。

 優れた中心文化に接ぎ木して生き延びるか、それとも自己独自の文化の芽を育てそれを発展させていくか。それは和魂洋才ということになるが、難しいのは、洋魂洋才が一セットであるということで、洋才だけ切り離して採り入れようとしても、洋魂の影響を免れ難いということです。

 この問題をクリアーするためには、自己の文化を和魂和才一セットで把握する視点を持つことが大切です。つまり、自己の思想形成を歴史的に把握するということです。その上で、洋魂洋才の文化から何を学ぶか。その文化的遺伝子の内どれを、日本文化の新たな創造的発展に取り込んでいくかを考えなければなりません。

 では、具体的にはどうするか。かっての「陸軍パンフ」は「たたかひは創造の父、文化の母である」といい国防国家建設を謳いました。これに対して美濃部達吉は、それは「国家既定の方針」(立憲君主制下の議会制民主主義=洋才)を無視するものであり、「真の挙国一致の聖趣にも違背す」と批判しました。このため美濃部は陸軍の怨嗟を受け、その後天皇機関説問題として糾弾されることになりました。

 この場合、確かに、「文化的創造」も一面「たたかひ」だと思いますが、それが単純に戦争の勝ち負けに還元されたことが問題でした。というのは、すでにこの頃、西洋文明は「戦争を外交の手段」としてそれを合理的に処理する思想を持っていたのです。これに対して軍部のこの思想は「一か八か」の”賭け”の域を出ませんでした。

 結論的にいえば、やっぱり、その思想の”「現実」コントロール能力が貧弱だった”ということですね。西洋文化は、戦争を外交という「国際社会の生き残り競争」の手段としてコントロールするだけの思想的したたかさを持っていたのです。では、日本人はこうした昭和の失敗の教訓から、何を学ぶことができたか。その思想を咀嚼しえたか。

 これについては、否というより、こうした思想を持つこと自体を拒否しているように見えますね。でも、徳川幕府による260年間の平和でさえも、各藩の軍事力を最小限にコントロールする思想によって維持されたのです。では、今日の国際社会はどうか。その平和を「公正と信義」に基づく言葉のみで維持できるか。

 それは、日本の江戸時代もそうであったように、現在の国際社会の平和を維持するためには、国連軍が各国の軍事力をコントロールする力を持たない限り無理だと思います。まして、宗教を異にする各部族、それも自己絶対化に陥りやすい部族や個人が大量破壊兵器を手にする時代の安全保障は、一層複雑かつ困難なものになると思います。

 こうした現実を”見ない”、というより、”逃避する”ような思想では、「たたかひは自虐の父、自滅の母」というようなことになってしまって、せっかく日本人が歴史的に創造してきた独自の文化の根を枯らしてしまうことにもなりかねません。その時は、接ぎ木もさせてもらえず、日本文化は立ち枯れる外なくなります。

 それは、結局、明治維新期に韓国や中国が陥ったような状況を、今度は逆のパターンで再現する事になるかもしれません。小松左京の小説に「日本沈没」と言うのがありますが、これは、日本人には一度ディアスポラが必要だというメッセージだとも言います。日本の若者には、攘夷思想なんかに陥らないで、ぜひ、このディアスポラに挑戦してもらいたいものですね。

2010年3月11日 (木)

「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つこと――政治家森恪の大罪

 前回、私は、「日本の安易な『アジア共同体思想』が日中戦争を引き起こした」ということを申しました。また、対米英戦争についても、その原因をアメリカに求めるのは無理がある、とも申しました。以前、私は、多母神さんの主張について私見を述べた時、日中戦争については”慢鼠、窮猫に噛まれる”。日米戦争については、アメリカは”窮鼠猫を(南方で)かませる”つもりだったが、油断していて真珠湾をかまれた”というのが、妥当なところではないかと申しました。(参照

 多母神氏は、”日中戦争、日米戦争とも、日本は謀略により戦争に引き込まれた”といっています。いわゆる「謀略史観」というやつですね。また、”日本は大東亜戦争においてアジア諸国の植民地解放といういいこともした”ともいっています。しかし、前者については、日中戦争の原因(満洲の謀略による軍事占領や華北分離工作など)を作ったのは日本ですし、日米戦争については、日本が中国との戦争を終息できず、逆に、米英の敵であるヒトラーと同盟して南方進出をはかったことがその原因です。

 そもそも、日本に、”アジア諸国の植民地からの解放”という大義が当初からあったのなら、なぜ日本は、中国と戦争するようなことをしたのか。確かに、中国が革命外交と銘打って、日本の満洲権益を閉め出そうとしたのは間違いでした。また、張学良のとった対日強硬策が満州事変の暴発を招いたことも事実です。しかし、国民党にそうした政策を採らせたのは、日本軍が三次にわたる山東出兵を行い、その間済南事件を引き起こして、蒋介石の中国統一を阻止しようとしたからです。また、張学良については、その父張作霖が日本の説得を受け入れて満洲に帰還したのに、関東軍の一部将校が奉天郊外で彼を列車ごとを爆殺したことが原因です。
 
  では、どうして日本軍はそのような行為に出たのか。それは、対ソ防衛という安全保障の問題に加えて、日本の人口問題や資源問題を解決するためには、満洲における権益拡大は、「日本の生命線を守る」という意味で不可欠の条件と認識されたからです。そのために、これを阻害する要因を武力で排除しようとした。これが、日中戦争を誘発することになった一次的原因です。(二次的原因は、こうした日本軍の行動を、日本人の安易な「アジア共同体思想」で正当化したことです。)

 こうした日本軍の独善的行動の水先案内をし、彼らを政治の世界に引き込んだ政治家が政友会の森恪でした。その象徴的な行動が第一次山東出兵直後に開催された東方会議です。この会議の後に満蒙に対する積極策を説いた「田中上奏文」が昭和天皇に上奏されたと中国が世界に宣伝しました。これが偽書であることは今日明白ですが、しかし、そこに「森の依頼により少壮軍人と少壮外務官僚が作り上げた」タネ本があったことは間違いないと思います。(『昭和史の怪物たち』畠山武p33)

 そこには、「満洲は中国領にあらず」とする主張や、ワシントン会議における九ヵ国条約や軍縮条約、さらに不戦条約に対する根本的批判がありますが、これは当時森が主張していたことでした。森はこれらの条約を廃棄し「東洋における日本人の自由活動」を確保することを主張していたのです。こうした森の主張を、独自の文明論で理論化しそれを正当化したのが石原莞爾でした。
 
 こうした森の活動は、朴烈事件に始まり、第二次南京事件における幣原喜重郎外務大臣に対する「軟弱外交」批判、三次にわたる山東出兵(それが済南事件を引き起こした)、その帰結としての張作霖爆殺事件、ロンドン軍縮条約締結時の統帥権干犯事件、幣原喜重郎(首相代理)に対する「天皇の政治利用」攻撃、満州事変、そして五・一五事件と続きました。その目的は、軍を政治に引き込んで軍・政一体の政治組織を作り、積極的な大陸政策を推進することでした。

 石原莞爾については、前回、その「最終戦総論」の一端を紹介しましたが、おそらく、その思想形成は、こうした森恪の積極的な大陸政策論を引き継ぐ形でなされたのではないかと思います。あえてその違いを指摘するなら、後者は、田中智学の影響で、それを東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式の中に、日本とアメリカをそれぞれのチャンピオンとして位置づけ、両者間の最終戦争を文明論的な宿命として論じている点です。

 実は、東京裁判が行われた時、満州事変から太平洋戦争に至る日本の軍事行動について、そこに、世界支配のための「共同謀議」があったのではないか、ということが問われました。結果的には、被告25名全員の共同謀議が認定され、東條英機外7名に死刑が宣告されました。しかし、不思議なことに、そのトータルプランナー兼初期実行者ともいうべき石原莞爾はその訴追から免れました。(森恪は昭和7年に死去しています)

 それは、東京裁判の時点では、満州事変が石原莞爾ら数人の関東軍参謀による謀略であることが、明らかになっていなかったことと、石原莞爾が廬溝橋事件の勃発に際して、不拡大路線をとったことによるのではないかと思います。しかし、この時彼が不拡大を唱えたのは、あくまで最終戦争に至る準決勝戦としての対ソ戦に備えるためであり、ここで中国と戦争すれば、持久戦となり国力を消耗する。それではアメリカとの最終戦争に備えることが出来なくなる、ということだったのです。

 こうした石原莞爾の見通しについては、確かに当たった部分もありますが、しかし、その最終目的がアメリカとの最終戦争に勝利することであった以上、中国における軍事資源の確保は日本軍にとって至上命令でした。そして、それを蒋介石が受け入れない以上、中国との戦争は避けられなかったのです。トラウトマン和平工作が失敗したのも、日本がその資源確保のため、華北からの撤兵を中国に対して約束できなかったことがその本当の原因です。

 そこで問題は、この石原莞爾の、このアメリカとの最終戦争を不可避とした思想が本当に正しかったのかどうかということですが、まず、その東洋=王道文明vs西洋=覇道文明という対立図式は必ずしも石原の独創ではなく、「日蓮主義者」の田中智学に学んだものでした。それは、それが尊皇思想と癒着していることからも分かるように、「満洲生命線論」を智学の「汎日本主義」によって粉飾しただけのものではないでしょうか。(修正6/4)

 つまり、実際は、満州事変は日本の植民地主義的な権益確保(というより石原の当初のねらいとしては領土確保というべき)が目的だったが、それを正当化するため、より大きな王道文明vs覇道文明という対立図式の中に、アジアと欧米諸国とを位置づけた。それによって、日本の満洲占領という植民地主義的行為を、東洋の王道文明という概念でオーバーラップし、それを正当化しようとしたのではないかということです。

 確かに、彼の最終戦争論は、武器技術の発達がその極限に達することによって、戦争そのものが出来なくなるという、今日の核時代における戦争抑止を予見したように見えます。しかし、それは、彼の戦史研究から導き出されたものであって、王道文明vs覇道文明という対立図式から生み出されたものではありません。つまり、この図式から日米戦争の必然性を導き出されたわけではないのです。つまり、彼の日米必戦論は彼の宗教的ドグマ(田中智学の宗論に依拠したもの)なのです。

 しかし、このドグマが、当時の軍人のアジア観やアメリカ観を規制し、それが、満洲に止まらず、中国の華北五省、さらには東南アジアへと、日本軍を進出させることになったのです。それだけでなく、この思想は、「満洲生命線論」を核として連鎖反応的に膨張していき、それが日本人の伝統的な尊皇思想と結びつくことによって、日本国民全体のアジア観やアメリカ観をも決定的に拘束することになったのです。

 先に述べたように、この石原莞爾が登場する前段において、彼ら軍人が政界に進出するための政治的条件を整えた政治家が森恪でした。おそらく彼がいなかったら、石原莞爾の出番はなかったでしょう。その意味では、彼こそ、「昭和の悲劇」をもたらした真正A級戦犯とすべきです。不思議なことに、そうした評は余り見かけませんが、日本の政治に軍を引き込み、統帥権という魔法の杖を彼らに渡したのは、犬養毅や鳩山一郎ではなく、この森恪こそがその元凶だったのです。

 さて、以上で、森恪及び石原莞爾の政治的・軍事責任が明らかになったと思いますが、では、なぜ、満州事変以降、それまで地下に眠っていたはずの尊皇思想が、青年将校だけでなく国民一般の間に呼び覚まされることになったのでしょうか。それは、その時代の客観状況と、その思想とが共鳴現象が起こらない限りあり得ない事でした。

 いうまでもなくその客観状況とは、関東軍の軍事行動によって満州領有が既成事実化したということでした。それと尊皇思想とが共鳴したわけですが、では、なぜ尊皇思想がこの客観状況に共鳴し、この時代の国民の意識を支配するようになったのでしょうか。

 それは、この尊皇思想が、当時の腐敗堕落した立憲君主制度下の政党政治に代わる、一君万民平等主義思想及び家族主義的国家観を持っていたことによります。同時にこの思想は、反近代主義的農本主義やアジア主義的・(西洋)攘夷主義的国家観をも合わせ持っていました。

 実は、この尊皇思想は、明治維新の指導的イデオロギーだったのです。しかし、明治新政府は、政権獲得するや否や攘夷ではなく開国政策に転じ、西欧近代文明の摂取に努めました。こうした政府の欧化政策に反対し、尊皇思想に基づく農本主義的国家を作ろうとしたのが西郷隆盛でした。しかし、これが西南戦争の敗北により挫折したために、この思想は、それ以降の日本の近代化の陰に隠れることになったのです。

 それを再び地上に「昭和維新」として蘇らせたのが満州事変でした。これ以降この思想は、隊付き青年将校を中心に広がりはじめ、5.15事件、天皇機関説排撃事件、国体明徴を経て、当時の国民思想を全体主義的に拘束するものとなりました。そしてついに、2.26事件において暴発し、その首謀者は処刑されましたが、軍はそうしたテロの恐怖を背景に、その政治支配力を強化していったのです。

 その後、昭和12年7月7日の廬溝橋事件をきっかけとして、8月13日には中国軍による上海の日本海軍に対する攻撃が行われ、日中戦争が始まりました。その後、幾度となく日本から講和の働きかけがなされましたが、ついに実を結ぶことはありませんでした。また、昭和14年には大政翼賛会の発足と共に政党は解散となり、それによって議会は有名無実となり、また、国民の間の言論統制も次第に厳しくなっていきました。

 結果的には、この尊皇思想による全体主義的思想統制が、立憲君主制下の政党政治や議会政治を窒息させ、国民から言論の自由を奪い、軍に対する盲目的献身を生むことになったのです。しかし、もし、明治以降、この思想のもつ先に述べたような諸相が自覚的に認識されていたならば、それを立憲君主制下の諸制度と矛盾しないよう思想的整理をつけることができたかもしれません。

 例えば、その家族主義思想は家族に返し、天皇は立憲君主制下の制限君主制として内閣の輔弼責任を明確にし、農本主義と近代主義の調和を図り、中国の主権を尊重しつつその近代化を支援すること、それをアジア地域に拡大し、自由貿易体制を推進すると共に、欧米の植民地主義の是正を求めていく。まあ、夢のような話ですが、この問題に気づいてさえいれば、尊皇思想を思想として過去に申し送る手がかりがつかめたのではないかと思います。

 このことは、現代の日本の政治についてもいえると思います。というのは、今日なお、「昭和の悲劇」をもたらした伝統思想と近代思想のミスマッチによる思想的混乱を精算できていないように見えるからです。日本人の伝統思想である一君万民平等思想・家族主義的国家論、反近代主義的農本主義、アジア主義的攘夷思想と、立憲君主制下の民主主義諸制度との相克関係、これを今一度整理し直すことが、今日求められているのではないでしょうか。

 その時関門となるのが、冒頭に記した日本人の歴史観の問題です。私は、日本国民一人一人が、「自虐」でも「美談」でもない「独立自尊」の歴史観を持つことが、今日求められていると思います。私は、福沢諭吉の「独立自尊」を支えた精神、あの明治維新期の革命的な社会変革を支えた精神をもってすれば、「昭和の悲劇」がもたらした思想的混迷を克服することも可能だと思います。

(3/11最終校正)

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