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2010年7月21日 (水)

「日の丸・君が代」論争について――思想信条の自由をもって「法」を否定するのは間違いだ

 以下、一知半解さんのブログで、「日の丸・君が代」論争(参照)がなされていましたので、論点整理のために敢えて、キンピーさんに私見を申し上げました。正直いって、キンピーさんの主張は、国旗国歌法自体が憲法の思想信条の自由に矛盾するので違法だといっているのか、その運用が個人の思想信条の自由を侵害するものだから違法だといっているのかはっきりしませんでした。後者なら、その運用の仕方、それを巡る当事者の反対行為の程度が問題になると思うのですが、キンピーさんは思想信条の自由の優越性を主張するばかり・・・。

 そこで、この問題が現在進行中の裁判の中でどのように論じられているかを見てみました。最高裁の最終判決がどうなるかまだわかりませんが、私見ではここに紹介した高裁判決の主要部分がそのままま支持されることになるのではないかと思っています。キンピーさんとの論争はこれで終了したいと思いますが、一応の論点整理はできたと思いますので、これまでの論争経過(参照)とも合わせて参考にしていただければ幸いです。

キンピー様へ
>「国旗,国歌に対し,宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張に基づいて,国旗に向かって起立したくない教職員,国歌を斉唱したくない教職員,国歌のピアノ伴奏をしたくない教職員がいることもまた現実である。このような場合において,起立したくない教職員,斉唱したくない教職員,ピアノ伴奏したくない教職員に対し,懲戒処分をしてまで起立させ,斉唱等させることは,いわば,少数者の思想良心の自由を侵害し,行き過ぎた措置であると思料する次第である。国旗,国歌は,国民に対し強制するのではなく,自然のうちに国民の間に定着させるというのが国旗・国歌法の制度趣旨であり,学習指導要領の国旗・国歌条項の理念と考えられる。これら国旗・国歌法の制度趣旨等に照らすと,本件通達及びこれに基づく若枝長の原告ら教職員に対する職務命令は違法であると判断した次第である。」

 以上の判決文は「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件 判決趣旨」(平成18年9月21日)のものでしょう。

 この裁判での主たる争点は
 「在職中の原告らは,都立学校の入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立して国歌を斉唱する義務を,また,音楽科担当教員である原告らは,国歌斉唱時にピアノ伴奏をする義務をそれぞれ負うか。本件通達及びこれに基づき学校長が原告らに対し発した職務命令は違法か」です。

 そして、これに対する判決は、
 「学習指導要領の国旗・国歌条項は,法的効力を有しているが,同条項から,原告ら教職員が入学式,卒業式等の国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務,ピアノ伴奏をする義務までを導き出すことは困難であるというべきである。」というもの。

 また、 校長の職務命令の適法性については、
 「都立学校の学校長は,校務をつかさどり,所属職員を監督する権限を有しており,所属職員に対して職務命令を発することができ,所属教職員は,原則として,学校長の職務命令に従う義務を負うものの,当該職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合には,これに従う義務がないものと解するのが相当である。」としています。

 そこで、当該職務命令に重大かつ明白な瑕疵があったかどうかということが問題になりますが、これについては次のようにいっています。

 「これを本件についてみてみると,原告ら教職員は,「教育をつかさどる者」として,生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うものと解されるから,入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは,上記義務に照らして許されないものといわなければならない。」

 しかし、このことは、原告ら教職員が思想・良心の自由に基づき、国旗に向かって国歌を起立斉唱することを拒否することを、上記の義務違反することにはならない。なぜなら、それは、式典の進行や国歌斉唱を妨害したり、生徒らに国歌斉唱の拒否を煽ったりするわけではなく、また、児童生徒に式典における国旗国歌に対する正しい認識をもたせ、これを尊重する態度を育てる教育目標を疎外する恐れもないから、というのです。

 また、音楽科担当教員が国家のピアノ伴奏をする義務があるかどうかについては、入学式、卒業式等の式典における国歌斉唱の伴奏はピアノ伴奏でなくてもその他の手段(例えばテープ)でもできるし、式典の進行等が滞るおそれもないので、当該音楽教師にピアノ伴奏の義務があるとはいえない、といっています。

 そして,そうした原告ら教職員の行為が,「これとは異なる世界観,主義,主張等を持つ者に対し,ある種の不快感を与えることがあるとしても,憲法は相反ずる世界観,主義,主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めているのであって,このような不快感等により原告ら教職員の基本的人権を制約することは相当とは思われない。」といい、

 結論として、「都立学校の学校長が,本件通達に基づき,原告ら教職員に対し,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せよとの職務命令を発することには,重大かつ明白な瑕疵があるというべきである。従って,原告ら教職員は,本件通達に基づく学校長の職務命令に基づき,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務,ピアノ伴奏をする義務を負うものと解することはできない。」としています。

 この結論だけを見れば、キンピーさんの言い分が認められているかのようです。しかし、キンピーさんの主張は、「憲法に矛盾するような法律はそもそも作れない」(7/17コメント)といい、ここでは国旗国歌法が問題になっているのですから、この法律自体が違法だといっているかのようです。また、その後「強制になるような国旗国歌法案は憲法違反になるからできない」ともいっています。これは国旗国歌法の運用が強制にあたる場合にはできないといっているようにも受け取れます。ここは、ap_09さんの言われるように、このいずれかをはっきりしてもらわないと議論はできませんね。

 これがもし前者なら、上記の判決文でも、下線部分のように、国旗国歌法も、その指導を行うことを規定した指導要領も適法であり、職員には、生徒に対して国旗掲揚、国歌斉唱に関する指導を行う義務があり、入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり、そのために必要な職務命令を出すことも全て適法となっていますので、キンピーさんの見解はこの判決文によって斥けられたことになります。

 これがもし後者なら、この裁判で争われているのは、「当該教職員の国旗国歌の掲揚斉唱に反対する行為の程度」であるという私の主張と同じことになりますから、同じ前提に立って議論を進めてもらいたいと思います。そうした場合、この判決では、もし、当該職員の行為の程度が「国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは,上記義務に照らして許されない」とはっきりいっています。

 つまり、この判決は、ごく少数の職員がその思想信条の理由から国旗国歌に向かって起立斉唱しなくても、式の進行にはほとんど影響ないから”大目に見るべきだ”といっているのです。しかし、もし当該校で、国旗国歌に反対する職員が多数を占めるようになった場合は、式典の円滑な進行ができないということにもなります(国旗国歌法の法制化以前はそのような事態が頻発していました)が、この場合は、そうした職員の行動は是認されない、というのでしょうか。

 以上、平成18年9月21日の東京地裁の判決文の概要を紹介しましたが、私は、この判決は常識的に見ておかしなところがあると思います。それは、教職員に下線部のような義務が課されていることを認めながら、教育委員会が校長に対して、これらの式典で教職員に国旗に向かい国歌を起立斉唱するよう指導よう求める通達を出したことを、職務命令を発する上での重大かつ明白な瑕疵と認定している点です。

 その理由は、「人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有するものであり,これを切り離して考えることは困難かつ不自然であり,入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立したくない,国家を斉唱したくない,或いは国歌を伴奏したくないという思想,良心を持つ教職員にこれらの行為を命じることは,これらの思想,良心を有する者の自由権を侵害しているというべきであ」るから、というのです。一読して、裁判官にもこんなバカげたことをいう人がいるのかと、あきれました。

 これについては、幸いというべきか、2008年2月 9日 (土)東京都「君が代」嘱託教職員再雇用拒否事件東京地裁判決では、次のようにこうした考え方を否定しています。

 「一般に、自己の思想や良心に反するということを理由として、およそ外部的行為を拒否する自由が保障されるとした場合には、社会が成り立ちがたいことは明らかであり、これを承認することはできない。

 本件職務命令は、卒業式等において国家成勝寺に国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを命じるものであって、原告らに対し・・・直接的に原告らの歴史観乃至世界観または心情を否定する行為を命じるものではないし、また、卒業式島の儀式の場で行われる式典の信仰上行われる出席者全員による起立・斉唱であることから、前記のような歴史観乃至世界観または心情と切り離して、不起立・不斉唱という行為には及ばないという選択をすることも可能であると考えられ、一般的には一般的には、卒業式島の国家制勝時に不起立行為に出ることが、原告らの歴史観乃至世界観または心情と不可分に結びつくものということはできない。」

 また、平成22年1月28日「君が代不起立」再雇用訴訟東京高裁判決では、原告の上告を棄却した上で、次のようにより厳密な判断を示しています。

 「憲法1 9条は,人の内心における思想及び良心の自由を保障するものであって,これに基づく外部行為の自由まで保障するものではないが,個人の内心の自由の本質又は核心にあるものときわめて密接な関係にあるとみるべき外部的な行為,すなわち,一般的に人の内心の自由と不可分に結び付けられたものと認められる外部的行為に限り,なお憲法19条の保障するところであると解されるべきことは,前示のとおりである。

 しかるとき,一審原告らは,教職員として卒業式等の儀式的行事において国旗に向かって国歌を斉唱することが全国民の間で価値中立的な存在となっていない以上,上記の起立・斉唱を強制してはならないという考えに基づき,卒業式等において不起立行為を行ったものであるが,上記の起立・斉唱というものは,教職員として高等学校学習指導要領に基づき行う儀式的行事における学校職員という社会的な立場における行動にすぎず,一般的に一審原告ら個人の内心における国旗及び国歌に対する特定の思想や信条と不可分的に結び付けられたものと認められる類型の外部的な行為ではない。

 したがって,一審原告らに対する本件職務命令が,一審原告らの思想及び良心そのものに対する直接的な侵害となる旨の主張と解される一審原告らの上記主張は,採用することができない。なお,本件通達は,校長に対して発せられたもので,一審原告らに直接何らかの義務付けをするものではなく,それ自体としては,一審原告らの思想及び良心の自由を侵害するものではない。

 一審原告らは,原判決が,本件職務命令が思想及び良心の侵害とならない理由について,一審原告ら自身の主観からみた思想及び良心と拒否行為との不可分性及び真摯性について考察することなく,「一般的には」との一言で思想及び良心と拒否行為との結び付きを否定したことを非難し,かつ,一審原告らは,自己の思想及び良心の領域が侵害されることを防衛するために,極めて消極的な拒否態様により自らの思想及び良心を防衛すべく不起立行為に及んだにすぎず,かかる行為は憲法1 9条の保障を受ける旨主張する。

 しかし,思想及び良心の自由と上記した外部的行為との不可分性について,当人の主観を考慮要素に入れて判断すると,その不可分性の有無が,結局,当人の判断に委ねられてしまい,各人が,自己の内心における思想や良心に反すると主観的に考えるか否かによって,当該外部的な行為について憲法1 9条違反の問題が生じ得るか否かが決定されることとなる。

 また,一審原告らは,そのような主観的要素として,真摯性を考慮すべきである旨もいうが,各人の内心における思想及び良心が真摯なものであるか否かの判断自体,当人の主観によるとするならば,結局,上記と同様の理となる。

 しかし,各人が,その内心における思想や良心に反するという主観的な理由から外部行為を拒否する自由が保障されるとした場合には,社会の秩序は成立し得ず,憲法1 9条がかかる趣旨の保障規定であると解することはできない。

 純粋に内心の自由の外においても,憲法1 9条の保障を認めるべきであるという判断は,自己の内心における思想及び良心の本質又は核心にあるものときわめて密接に関係するとみるべき類型の外部的な行為に属するかどうかという一般的,客観的な観点を中心として判断されるべきであると解するのが相当である。したがって,一審原告らの上記主張は,採用することができない。」

 なお、平成19年2月27日の最高裁第3小法廷における、東京都市立小学校の校長が音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた職務命令が憲法19条に違反しないとされた事例についての判決は、次のようになっています。

(裁判要旨)
 市立小学校の校長が職務命令として音楽専科の教諭に対し入学式における国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏を行うよう命じた場合において,

「(1)上記職務命令は「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる同教諭の歴史観ないし世界観自体を直ちに否定するものとは認められないこと,
(2)入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をする行為は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであり,当該教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難であって,前記職務命令は前記教諭に対し特定の思想を持つことを強制したりこれを禁止したりするものではないこと,
(3)前記教諭は地方公務員として法令等や上司の職務上の命令に従わなければならない立場にあり,前記職務命令は,小学校教育の目標や入学式等の意義,在り方を定めた関係諸規定の趣旨にかなうものであるなど,その目的及び内容が不合理であるとはいえないことなど判示の事情の下では,前記職務命令は,前記教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するということはできない。」

 以上、最終的な判決がどうなるかわかりませんが、いずれにしてもキンピーさんが内心の自由を主張されるならば、その内心の自由と外面的行為を直接結びつけようとする見解には反対するのが筋ではないかと思います。社会の秩序が保たれなくなれば内心の自由もなくなりますから。最後に、蛇足ながら、あらためて東京高裁の次の言葉をキンピーさんに捧げて終わりにしたいと思います。

 「各人が,その内心における思想や良心に反するという主観的な理由から外部行為を拒否する自由が保障されるとした場合には,社会の秩序は成立し得ず,憲法1 9条がかかる趣旨の保障規定であると解することはできない。」

以上

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コメント

通りすがりさん、コメント有り難うございます。

>問題なのは、何を担保にして思想・信条の自由を得るのか、という当たり前の合意が日本ではできていない。

 そのとおりだと思いますね。日本人の伝統的な倫理観は、私欲を抑えること、がその基本にあります。従って、日本における”自由”の概念は、どうしても”好き勝手=自分勝手”ということになります。

 欧米で生まれた民主主義は、個人の自律を前提にした政治制度ですが、その個人の自律を現実社会において行使するために、人間に与えられた自由意志というものは、あくまで神の恩寵によって与えられたもので、従ってその行使は、神の意志をこの世において実現するためにこそ使うべきだ、というのが、いわゆる西欧における思想信条の自由という観念を支えている(らしい)のです。

 これが絶対神の観念を持たない日本人には容易には理解できないのですね。どうしても人間同士のせめぎ合いの話になってしまって、結局、自己中心的な主張を抑制することが、人間関係をスムースに運ぶための要諦になってしまう。つまり自己主張をできるだけ控えるということになりやすいのです。また、その逆は”自分勝手”となるのです。

 かってマルクス主義の歴史的必然ということを学んだとき、歴史的必然なら人間のすることはないじゃないか、寝ていてもいいということか、と思ったものでしたが、マルクス主義の資本主義から社会主義へと言う歴史的必然の考え方も、同様の宗教的バックグラウンドの中から生まれたものだったのですね。

 さて、ではどうしたらいいか。一つには、民主主義社会における思想信条の自由とは、”自分勝手”と同じではないということを、その自由意志によって契約された法を遵守する、という義務感とセットで学ぶことでしょうね。その上で、”自分勝手”に陥らない、また空気支配の中で”言いたいことも言えない”そんな閉鎖的言論空間を打開していく必要があると思います。

 かって山本七平氏は、対立概念を使った思考法を提案していましたが、そうした多角的な思考訓練も必要になってくると思います。要するに、自己絶対化の罠に陥らないようにすること。その上で、ことばによって物事を理解し事実を解明する力を上達させること、これができるようになることが、日本の民主主義を定着させる上で必要なことだと思います。

まあ、君が代、国旗に限らず個人の自由云々を持ち出し過ぎては、どんな式も執り行えませんわな。
全員が納得できる曲や旗ってあるわけがないw

個人の思想信条に踏み込むのはNG、
だけど社会秩序を壊し過ぎるのもNG、

となると妥当な社会的な合意みたいのが前提に必要なわけで。

近代の国民国家なるものが、その手のイデオロギーから出発して、大枠の思想信条と、個人の思想信条とのバランスの上に成り立っていることをキンピーさんは知らないのではないでしょうか。

国歌も国旗も民主主義も、近代にできた産物なんですけだどね。そして全て補完的な関係にある。

極限すると、国歌・国旗みたいな大枠が生まれなければ思想・信条の自由も成り立たなかったわけです。

問題なのは、何を担保にして思想・信条の自由を得るのか、という当たり前の合意が日本ではできていない。

一方的に思想・信条の自由が享受できると、原始的かつ教条主義的に受け取っている人たちが多すぎる。

欧米の様に、手作りで社会で形成されていった思想信条ではなく、戦後のアメリカの教科書通りにやっている思想信条の解釈だから現実の運用面で問題が起きるのかと。

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