フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月29日 (日)

日本の固有法である「貞永式目」を創った北条泰時の思想はどのようなものだったか

 「幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その著『大勢三転考』において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名(みょう)の代」とした。・・・この区分は政権の交替ではなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。・・・

 彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血縁集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれば氏が血脈で姓は骨に相当し、その職務は、血縁的系譜の相承で子孫に受け継がれる。

 この「骨」は天武天皇十三年(684)に廃され「職の代」となる。いわば朝廷から「官職」を与えられてはじめて地位と権限とが生ずる時代である。・・・そして第三の「名」の代は文治元年(1185)、源頼朝が六十余州総追捕使に任じられた以降の時代で、「名」とは封建制下の大名・小名の時代である。

 以上の分け方を、別の言葉で表現すれば、古代固有文化の時代、中国からの継受法文化の時代、新固有文化の時代ともいえるであろう。もっともこの区分の時期には、それぞれの考え方があってよく、「法制」という面から「骨」と「職」の区分を大宝元年の『大宝律令』の完成交付(701年)、「職」と「名」の区分を貞永元年の「貞永式目」(関東御成敗式目)の交付(1232年)としてもよいであろう。(『日本的革命の哲学』p125~126)

 北条泰時は、この「職の代」から「名の代」の転換期に、日本に定着することなく形骸化してしまった、中国からの継受法(他国の政治制度をまねた法律)である「律令」に代えて、固有法である「貞永式目」を制定して、日本の政治に実質的に機能する法秩序を打ち立てたのです。それは革命ともいうべき政治的大転換であったわけですが、彼は、その革命を一体どのような政治思想に基づいて行ったのでしょうか。

 このことを考えるためには、まず、律令政治というものがどのようなものであったかを見ておく必要があります。

 律令制度の基本は「公地公民制」です。これは全ての土地人民は公の所有になったということ、つまり天皇家の所有になったということを意味します。そして、こうして公有された土地は、改めて「班田収受の法」に従って、戸籍に登録された正丁(21歳以上60歳以下男子)に口分田として支給され、また収容(死亡時に返還)されました。そして、人民は、支給された口分田について「租」(稲二束二把)を地方政府に、また、成年男子にかかる人頭税である「庸・調」(布・米・塩・綿など地方の特産物)を中央政府に納めました。

 ところが、この公地公民制は、表面上は「井田法」に見るように大変公平な制度のように見えますが、裏返せば、全てが利権に附属する「利権制国家」に変質していきました。というのは、「口分田をいかに勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、さまざまな不正を行いうる。これは、生産手段の集権的国有制に発生する構造的腐敗の体系というべき状態で、これは昔も今も変わりはない」からです。

 「こうなると地方官になったり官職についたりするのは一に利権のためとなるから、能力はどうでもいいということになる。・・・しかし、中央官僚は門閥に支配されているからはじめから無理となると、多くの者は地方官を志望する。そしてひとたび任官すれば「一国を拝すれば、その楽余り有り、金帛(きんぱく)蔵に満ち、酒肉案(=膳)に堆し、況んや数国を転任するをや」(平兼盛)」で、それは天下り官僚が公団等を渡り歩いて次々と何千万という退職金を手にする比ではない。」(上掲書p134)ということになりました。

 このように、律令制は一面では利権制であり、農地耕作者の勤労意欲も高まらなかったことから、次第に公地公民制は崩壊していくことになりました。というのは、この制度の基礎は口分田の支給であり、それを基にした租庸調という税制によって成り立っていました。また、その班田収受は戸籍を基にしています。しかし、戸籍に登録すれば土地は支給されるが税金もかかるし徭役も兵役もある。そのため、その対象となる男子は戸籍登録をしなくなり、戸籍はほとんど女子だけになりました。

 では、男子はどこで働いたかというと、第一が功田と腸田などの私有地です。また、開墾地の労働力として働きました。これらの土地の開墾は、人口の増加に伴う墾田の不足によって否応なく要請され、かつ、723年の「三世一身の法」から743年の「墾田永年私有法」を経て、開墾地の私有が認められるようになりましたので、彼等は、その私有地(=荘園)を有する領主のもとで作人として働くようになりました。

 こうして、律令制度は「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、如何ともしがたい様相を呈するようになったのです。そして、それへの対処療法は、明恵上人が言うには「打ち向かうままに賞罰を行い給はば、弥々(いよいよ)人心の姧(かたま)しくわわくにのみ成りて、恥をも知らず、前を治れば後ろより乱れ、内を宥めれば外より恨む。されば世の治まると云う事なし」というような無秩序な状態になりました。

 では、なぜそのようなことになるのかというと、病の根源を知らないからで、そのためにますます病気が重なって癒え難くなっているのだ。その病気の根源は「欲」であり、これが遍く万般の禍となっているから、これを療せんとするなら、まずこの欲心を棄て去ることが大事だ。そうすれば天下は自ずから令せずして収まるだろう。明恵上人は北条泰時にこのように言いました。この言葉は、以上述べたような、当時の律令制下の利権政治を念頭においたものだったのです。

 これに対して泰時は、「それはもっともですが、私自身は全力を尽くしてこの教えを守ろうと思いますが、しかし他人にこの教えを守れというのは難しい。どのようにしたらいいでしょう」と問うと、明恵上人は「それは容易なことです。ただ為政者としての貴方お一人が無欲になり切られたなら、その徳に感化されて、天下は容易に治まるでしょう。」と答えました。泰時は上人のこの言葉を肝に銘じ、心に誓ってこの教えを守ったといいます。
                                                                           
 泰時は、こうした明恵上人の政治哲学を胸にその後の政治を行ったわけですが、ではこの明恵上人の思想はどのようなものだったかというと、それは日本の伝統的な三教(神・儒・仏)合一論で、「(仏教の)大乗・小乗はもとより外道(それ以外の)説も孔老(孔子や老子)の教え」も融合した日本的な自然法的道徳思想でした。明恵上人自身は華厳経の僧侶でしたが、その理解の仕方は、以上のような日本的・仏教的解釈だったと言うことができます。

 この華厳経の基本的な考え方は、「広大な真実の世界を包含する仏(毘廬遮那仏)が、一切の衆生・万物とともにあり、さらに一切の衆生・万物も仏を共有しうる」というものです。ここから天台宗の「山川草木悉皆成仏」という考え方や、あらゆる衆生には仏性が備わっているという法華経の考え方が生まれました。しかしながら、この仏性は人間の「欲」によって曇る。従って、その欲心を去って「政をなすに徳をもってすれば」自然と社会の秩序は保たれる。明恵は泰時にそのように教えたのです。

 では明恵は、ただ「無欲で無為」であればいいといったのかというと、そうではありませんでした。彼は、浄土宗を激しく非難したように、「我に一つの明言有り、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にてあらんと申すなり。・・・現世にはとてもかくてもあれ、後世ばかり資と説かれたる聖教は無きなり。・・・仍て阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)と云う七字を持(たも)つべし。これを持つを善とす」といいました。これを泰時は固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいと考え、そして「法」もそのようなものであるべき、と考えたのです。

 これが、泰時の「法」に対する基本的な考え方となりました。「法」とは、その時代の現実をふまえ、その問題点を把握し、それを常識に照らして正していくためのもので、必要に応じて改廃すべきものとしました。そして、それを行う為政者は、まず第一に無欲であるべきで、自らの内心の「道理」にもとづく「理非の決断」ができなければいけない、としたのです。これが「貞永式目」という、当時の日本人の常識に根ざした固有法を生む事になり、これは、その後、武家社会だけでなく日本社会一般に広く浸透していくことになりました。

 その内容は概略次のようなものです。13世紀初頭の法律規定としては今日の私たちから見ても大変常識的であり、また民主的ともいうべき考え方が多く含まれていることにも驚かされます。

前書は、本法典全体の効力についての不遡及の原則の規定。

一、二条は神仏を敬い、神社・仏寺を修理し、祭祀仏事をおろそかにしないことの規定。

三条は守護の職務権限は大犯三ヵ条であり、これを超えて国司や地頭の職務を妨げるなど不正を働くようであれば解職するとの規定。

四条も守護の警察権限に関する規定で、事実関係や罪の軽重を糺さないなど理不尽な裁定をしてはならない。また、犯人を逮捕しても、田宅・妻子・雑具などを取ってはならない。白状より物証を重視せよなどの規定。

五条は地頭の年貢滞納の処分規定。規定に従わない場合は解職するなどの規定。

六条は国衙・荘園・神社・寺領は本所が裁判権を持つので、幕府は関与してはならないとの規定。

七条は不易法と呼ばれ、1225年(北条政子死去)以前の判決は再審を行わない事を定めたもの。

八条は所領の実効的知行の事実が20年を超えて継続した場合に、現知行者の最優位の所有権が成立する事を認めた、いわゆる知行年紀法を定めたもの。

九から十五条は各種刑事犯罪に関わる規定で、殺人を犯した場合、父・子・妻に共謀関係になければ罰してはいけないという、いわゆる縁座制の否定、仇討ちの禁止、さらに悪口・打擲・身代わり・偽造文書が罪に問われることなどの規定。

十六、十七条は承久の乱にかかわる問題で、京方に加わっていたことがばれないまま今日に至った場合、時効の考え方を適用する。また、父子で関東につくか京方につくかで分かれた場合、共謀関係がなければ別々に処置するとの規定。

十八~二十七条は民事訴訟にかかわる規定。御家人層の親子・夫婦・兄弟関係のあり方が財産相続問題を通して具体的に知られる。例えば、女子への贈与は「悔い戻し」しないとの規定をもって、親不孝は許されない。妻妾が科なく離別された場合は譲渡された所領を返さなくてよい。本領を継ぐ嫡子とは必ずしも長子ではなく親の意志に任される。その他女子が養子を迎えること。所領を子息に譲渡した後も不孝があった場合は親が「悔い戻し」できること、などが規定されている。

二十八~三十一条は裁判制度・訴訟手続きに関する規定。虚言・讒訴の罰則規定、二重提訴の罰則規定、裁判結果を尊重すべき事等の規定。

三十二~三十四条は、再び刑事犯罪規定で、犯人を匿うこと、強盗・窃盗、他人の妻と密通する事や女子を強姦する事の罰則規定。

以下五十一条に至るまで、各種の規定が混在する。四十一条は奴婢の所有および雑務沙汰の10年時効制の規定。四十二条は百姓の逃散に関する規定で、その居留については「よろしく民の意(こころ)に任すべき」との規定が見える。私HP『山本七平学のすすめ』「律令に代わる日本の固有法「貞永式目」はどのように制定されたか」参照。

 以上、北条泰時が日本の固有法「貞永式目」の制定したときの思想はどのようなものであったかについて説明しました。その特徴は、宇宙界における自然的秩序と、個人の内心における道徳的秩序と、それに社会秩序は基本的に一致する、という考え方にあります。こうした考え方の背後には、「広大な真実の世界を包含する仏(毘廬遮那仏)が、一切の衆生・万物とともにあり、さらに一切の衆生・万物も仏を共有しうる」という華厳経の「超越神(=仏)」の観念があったのです。

 つまり、この超越神(=仏)の観念が、人間の仏性=仏心の存在を担保していたのです。それは、我々人間が、完全な人格者=仏陀となるべき可能性をもっている事を教えるもので、それは、我々がその教えに従って修養努力していくことによって、その真理=仏性を理解し、それを体得実現していくことができる、とするものでした。

 注目すべきは、この時、泰時においてその帰依の対象となっていたものは、あくまでこうした超越神(=仏)であったということで、江戸時代の主君に対する忠心でもなければ、幕末のような天皇に対する忠心でもなかったということです。ここに、帰依あるいは忠誠という、人間の信仰心や自己犠牲に関わる観念が、江戸時代以降、それまでの広大無辺な宇宙的観念である「超越神」の枠組みから、社会的な組織的枠組みに跼蹐していった事実を見ることができます。

 なお、泰時において天皇制とは、後鳥羽上皇を配流ししても、それは天皇の政治を誤った道へと引き入れた側近に臣どもの責任で(これが「君側の奸」という考え方の基になった)、我々としては、その誤った政治を糺すためにやむを得ずやったことで、この場合、我々は、天子のみ位を改め申して別の方を天子のみ位におつけ申すだけであるから、皇室朝廷の守護神である天照大神や正八幡宮の神々からも何のお叱りがあろうか、という義時のいわゆる「湯武放伐」論に基づくものでした。

 泰時は、こうした考え方に基づいて承久の変を処したわけですが、その場合も、次のように「頭を下げて信心をこめて祈りつつ」事を処したと言っています。

 「この度の京都入りが道理に背いたものならば、この場で泰時の命を奪い取って来世をお救い下さい。もし天下のためともなって人びとの心を安んじ、仏心両道を興隆することができますならば、私に慈しみとあわれみを授けて下さい。凡夫にはわからぬが神仏はきっと見ていて下さるでありましょう。少しも私心をもっておりません」と。(『明恵上人伝記』平泉洸P276)

2010年8月25日 (水)

トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか――日中戦争のなぞを解く――はるさんの疑問に答えて

 はるさんから、エントリー「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問」についてのコメントをいただきました(参照)。この和平工作の失敗の原因については、一般的に、参謀本部の和平交渉継続、日中提携、持久戦争の回避の主張が正しく、それを拒否した政府、特に広田外相や近衛首相の責任を問う意見が大勢を占めています。しかし、私は必ずしもこの意見に賛成ではありません。

 そこで、この問題について、私は、2009年の4月から5月にかけて、「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問」というエントリーの下に、4回に分けて私見を申し上げました。今回、これについて、はるさんよりコメントをいただきましたので、改めて、この問題についてのより分かりやすい説明を試みて見ました。読者の皆さまには、先のエントリーの記事を参照の上、本論を読んでいただければ幸いです。

 はるさん、コメント有り難うございます。トラウトマン和平工作が失敗に終わった原因について、はるさんは、

> 仲介案が作られた時期と提示された時期のズレが、日支間で、加重される条件の認識の差となると思います。しかも、13日には南京が占領されてしまいます。
日本は、上海戦及び南京戦の結果(8/13~12/13)を加味し、支那は、11/2~12/7の結果と考えてもおかしく有りません。
(この認識のズレがそれまでの対日不信感に加えて、決定的に作用していくと考えます。)

 とおっしゃっておられます。これを見ると、はるさんは、日本側が条件加重したのは、上海戦から南京占領までの戦果を考えれば当然であるが、蒋介石がそれを受け入れなかったのは、広田外相の第一次和平案の提出時期(11月2日)が早すぎたためではないか。また、その案は広田外相と参謀本部等ごく一部だけで作ったものだったから、陸相・海相は条件加重や交渉打ち切りを主張したのではないか、と考えておられるようです。(筆者注:米内海相は条件加重に反対した)

 これについての私見は、「トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問(1~4)」に書いた通りですのでそちらをご覧いただくとして、私が、この問題を考える際の最重要ポイントと考えているのは次の二点です。一つは、この戦争は蒋介石の決然たる抗日戦争意志をもって始められたものだということ(といっても、蒋介石にそれを決断させた最大原因は日本側の「華北分離工作」にありました)。もう一つは、日本側は(軍部も含めて)中国と全面戦争するつもりはなく、ただ、中国が日本の東洋文明のリーダーとしての役割を認めさせるため”こらしめのために頭を殴った”程度の認識だった、ということです。

 ここに、なぜ、日本は上海での戦争継続中であるにもかかわらず、蒋介石に対して開戦前に策定された「船津案」に基づく寛大な和平条件を提示したのか、という疑問や、蒋介石は上海決戦に負けて南京に敗走し、さらに首都南京を日本軍に陥落させられながら、日本側の「寛大な」和平条件を受け入れようとせず、あれほど強気に振る舞ったのか、という疑問を解くカギが隠されているのです。

 しかし、もしそうだとすると、つまり、ほんとに日本に中国と本気で戦争する気がなかったのなら、なぜ日本は、トラウトマン和平工作において自ら提案した第一次和平条件を加重するようなことをしたのか。蒋介石がせっかく”それを基礎とする談判に応じる”と回答してきたのに、あえて条件加重すれば、和平交渉がぶち壊しになることは当然ではないか、という疑問が起こってきます。

 実は、政府は、蒋介石が交渉に応ずると回答してきたときには、この条件加重に慎重でした。しかし、軍はそれでは収まらず、12月20日の第二次和平条件の提示となりました。しかし、これに対する蒋介石の回答が遅延するのを見て、政府は次第に蒋介石の誠意を疑うようになりました。一方、参謀本部は対ソ戦略の観点から「日中提携論」に固執して、蒋介石との交渉継続を主張しましたが、政府を説得するには至りませんでした。

 それというのも、日本側にしてみれば、上海戦で不測の膨大な犠牲は払わされたことに加えて、首都である南京を陥落させたのだから、条件加重はやむを得ない。従って、日本側に寛大な和平条件を提示する用意があるとしても、あえて、中国側の意を迎えるような態度はとる必要はないと考えたのです。にもかかわらず、参謀本部は執拗に日本側の「真意」を中国側に説明し、和平交渉を継続することを主張する。それを見て政府は、その裏に、何かドイツなどとの密約が隠されているのではないかと疑ったのです。

 結果的には、中国側の第二次和平案に対する回答は、1月15日の期限までには届きませんでした。そのため政府は、これでドイツを仲介とした中国との和平交渉は打ち切りました。しかし、このことについて、後世、なぜ当時の政府は、参謀本部の和平交渉継続の主張を受け入れなかったのか、それをしていれば日中戦争の「どろ沼化」は防げたのではないか。日中戦争は、巷間言われるように軍が始めた戦争ではなく、文民が始めた戦争なのではないか、ということがいわれるようになったのです。

 しかし、ほんとにそうか。私見では、もし、第二次和平条件が「保障的条項」(中立地帯設置等)の解除や、梅津何応欽協定等の廃棄を含めて、中国側に正確に伝えられていたとしても、蒋介石が、これれを信用して、日本との和平交渉に応じるようなことにはならなかったと思います。この点では、おそらく、参謀本部より政府の見通しの方が正しかった・・・。

 しかし、問題はその後で、この時蒋介石が出てこなくても、日本側としては和平交渉の窓口は閉ざさないで、相手が出てくるまで辛抱強く待つ(その間は占領地に軍政を敷く=別宮暖朗)必要がありました。しかし、近衛首相は”蒋介石を対手とせず”という声明を発してしまいました。また、その一方では、華北や華中での親日傀儡政権造りが進められましたので、日中戦争は、あたかも日本が望んだものであったかのような印象でもって、世界に受け取られるようになりました。

 実際のところ、結果から見れば、そういわれても仕方がないような状況が現出したわけですが、ではなぜそのようなことになったのでしょうか。実は、 昭和12年1日に参謀本部が起案した「解決処理方針」には、「現中央政府否認の場合」の措置として、「北支に親日満防共の政権を樹立し之を更正新支那の中心勢力たらしむる如く指導」するとなっていました。これは、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明と似ていますね。

 また、「占領地域内においては画期的善導指導により・・・民衆をして抗日容共の非を悟らしめ、時と共に依日救国の大勢に順応するに至らしむ」として、日本が中国に傀儡政権を樹立することの道義的正統性も主張されていました。ということは、トラウトマン和平工作において交渉継続を主張した参謀本部の基本的な考え方は、このような日本の中国に対する優越的指導性をベースとするものだったのです。

 つまり、参謀本部が中国との和平交渉継続を執拗に主張したのは、決して中国の主権の尊重やその領土保全を約束するものではなかったということです。それは、東洋道徳文明vs西洋覇権文明という対立図式の中における世界の覇権争いにおいて、中国が、日本の東洋文明のリーダーとしての役割に理解を示すこと、特に戦略物資の調達において日本に協力することを求めるものだったのです。

 こう見てくると、日本が、自らは望まなかった日中戦争に引きずり込まれ、足が抜けなくなったその究極の原因は、以上紹介したような、日本人の「一人よがり」の文明論にあったことが分かります。それが、一方で中国に対して主権尊重・互恵平等を約束しつつ、他方で、華北五省(山東省、河北省、山西省、綏遠省、チャハル省)の国民政府からの分離工作を押し進めるという矛盾を犯させることになったのです。

 こんな言行不一致とも自己欺瞞ともつかぬ矛盾した行動を繰り返すくらいなら、始めから、植民地的経営に徹して、合理的に問題処理を図った方がよほどスッキリしていた。これが、日本が大東亜戦争から学ぶべき最大の教訓なのではないでしょうか。これは、この戦争が日中戦争に止まらず、太平洋戦争にまで拡大したという、その信じがたい不合理性を見れば、一目瞭然の結論ではないかと私は思います。

2010年8月19日 (木)

「日の丸・君が代」論争について3――キンピーさんとの論争、私なりの総括

saizwongさん、コメント有り難うございます。一応、私なりに、今回の「やりとり」を総括しておきます。長いので本文掲載とさせていただきます。

 キンピーさんのほんとに言いたいことは次のことでしょう。

>マルクス主義としては国旗国歌などいう抽象的なものに立脚せず、歴史文化に立脚し、新たな規範を構築しようとするのは当然です。

 しかし、本エントリーのコメントでキンピーさんと議論になったことは、基本的には「日の丸・君が代問題」を裁判(=法)に訴えることで解決しようとしてきた人たちに対する異議申し立てであって、公立学校における入学式、卒業式における国旗・国家の掲揚・斉唱において、教育委員会が教職員に「起立」(という外面的行為)を求めることが憲法19条の「思想及び良心の自由」を犯すことになるかどうか、という問題です。

 これに対してキンピー氏は、氏独自の「14世紀に天皇(制の)寿命はなくなった」という歴史観に基づいて「日の丸・君が代」(=天皇)=(日本国の)象徴という図式は成り立たないから、つまり、憲法上は、個人の「思想・良心の自由」の方が優先されるから、教育委員会がそのような歴史観をもつ教職員に「起立」を求めることは許されない、といったのです。

 この考え方は、「法」規範の確立によって、人間の外面的行為を規制し、それによって社会の秩序を保つと同時に、個人の内面における思想信条の自由をも保障しようとした、近代社会における法治主義の考え方を否定するものです。というより、キンピー氏は、その近代社会をマルクス主義に依って「ブルジョア社会」として否定しているのですから当然そうなるわけです。(従って、そこにおける公教育も否定することになりますから、議論しても無駄でなわけですが)
  
 要するに氏は、自分自身を、フッサールやハイデガーなどの現象学的認識論を加味してマルクス主義を創造的・発展的に継承している「最先端のマルクス主義者」と自負しているのです。

 で、そうした「マルクス主義」理解に立って、日本の歴史文化を分析して得た「氏独自の天皇制論」を展開し、その否定の上に立って「新たな規範」を構築しようと言うわけです。その際、「平泉氏が根無し草を日本の歴史の中にもう一度根付かせようと信念をもって行動された」ことについて、「私としては平泉史観に同意しないものの、その手法の正しさにおいて敬意を持っている」と言っているのです。つまり、平泉氏の行動哲学の上に「新たな規範」を打ち立てようとしているのです。

 ここで平泉史観とは、「皇国史観」のことで、この史観についてキンピー氏は「戦前戦後とその呪縛のせいで日本の中世史や文学が非常に薄っぺらいものになっている」「特に室町時代は近世・近代へ続く大切な準備期間なのですが、子供に日本史を教えるにあたり非常にマイナスに作用しております。」と批判しています。

 にもかからわず、「平泉先生の世界観は『日本=天皇の居る国』ですので、天皇制の崩壊後も『ありがたいことに天皇として居てくれる』まがい物系の天皇も崇拝しておりますが、これは単純に平泉先生の思想であって史実ではありません。ま、これがホントの独りよがりですが、平泉先生は覚悟をもって行動していらっしゃったので、そのあたりは共感しております。」とおっしゃる。

 ここでは、キンピーさん流の「思想」と「史実」の区別がなされています。要するに、皇国史観は平泉氏の「思想」であって「史実」ではなく、これは平泉氏の「独りよがり」だが、「平泉先生は覚悟をもって行動していらっしゃったので、そのあたりは共感しております」といっているわけです。しかし、通常人間は自らの思想に基づいて行動するもので、これでは、平泉氏をその思想とは関係のない「行動力」のみで評価していることになります。なにやら、「純粋であれば何をしても許される」という、皇道派青年将校の行動規範に心酔しているかのようですね。

 この”おかしな”平泉理解もさることながら、

>南朝正統は学者の一致したこと。
これは思想ではなく史実。
よって北朝を認めるか認めないかが思想の問題。
相変わらずズレてるね(苦笑

 などと平然というのですから困ったものです。南北朝正閨論は、そうした議論があったことは「史実」ですが、その中の「南朝正統」論はあくまでもそれを正統とする思想によるのであって、この思想=皇国史観によらずに「南朝正統」論が唱えられたわけではありません。では、この皇国史観はなぜ「南朝正統」としたか。それは第一に、孟子の易姓革命=湯武放伐論否定の論理によるのです。(山崎闇斎による。これを評価したのが平泉澄『歴史に観る日本の行く末』小室直樹p123以下参照)

 要するに、君主が暗愚であろうと不徳であろうと君臣の上下の身分秩序は絶対であって、臣下がそれを理由に叛逆して政権を奪うことは絶対に許されない、とする考え方です。「君、君たらずとも、臣は臣たり」ですね。これは中国の朱子学に発した正統論をさらに「純化」して日本の歴史に当てはめ、日本の神話をそのまま「史実」とし、その神々の系譜に連続している天皇による統治を「万世一系」として正統化し、その主宰者である天皇に対する、殉教をも辞さぬ絶対忠誠を求めたものが、平泉澄の皇国史観だったのです。

 そして、これが「南朝正統論」の思想的根拠になったのです。で、キンピーさん、これを「史実」とおっしゃる。そして、「北朝を認めるか認めないかが」思想とおっしゃる。これ、どちらも思想です。ただ、前者の思想(小室氏にいわせれば、これこそ日本教におけるファンダメンタリズム)が明治維新を可能にし(ということは明治維新は尊皇思想イデオロギー革命と言うこと)、また、それが昭和の悲劇をも生むことにもなったのです。

 このパラドックスをどう理解するか、ここに日本近現代史の「なぞ」が隠されていると思います。私自身は両者に違いについて、明治の指導者は(実質的に)尊皇思想における個人倫理と政治思想を区別し、後者については後期天皇制(=象徴天皇制)の知恵を継承して「立憲君主制」を採用した。しかし、昭和の軍部は、皇国史観に基づく「天皇親政」(=忠孝一体の家族的国家観)を利用して、天皇直属の「統帥権の独立」を盾に軍部独裁体制をしいた、という風に理解しています。

 キンピーさんは、この「なぞ」を、平泉澄のファンダメンタリズム→「純粋な動機に基づく殉教をも恐れない忠臣の絶対的行動規範」によって解こうとしているかに見えます。ただ、氏が殉じようとしている思想は「皇国史観」ではなく、氏の、「現象学的理解に基づく創造的・発展的マルクス主義?」というわけです。これは日本共産党にも異端視されたようですが、私には、「異端」の名に値しない、スジの通らぬ「独りよがり」の主張のように見えますね。

 このように、氏のマルクス主義理解は怪しいものですが、このことは、今までも縷々指摘してきたように、氏の天皇制理解が、「『大日本史』は、14世紀に天皇の寿命(南朝の?)がなくなったことを論証したもの」とか、さらに、平泉澄の純粋な「信念に満ちた行動力」を称揚するなど、訳の分からないものであったために、その思想的一貫性や論理・論証性が疑われるようになりました。

 にもかかわらず、なお、
>ネット右翼というカテゴリーに当てはまる人には、まず戦前の保守・右翼思想家達の文献を読むことを薦めているのですが、たとえば西洋と和の融合させた田邊元・西田幾太郎・和辻などから、皇国史観の平泉澄まで。また八紘一宇の概念。

 などと、自分は左翼思想だけでなく日本の保守・右翼思想にも通じていると、自慢げに人に吹聴するのです。まあ、間違った理解を勧められるのも迷惑な話ですが、それに惑わされた人は、これについてコメントされた方の中にはほとんどいなかったようですね。いずれにしろ、キンピーさんは「新」左翼的・陽明学的行動主義の持ち主のようですが、それなら、もう少し、武士道的「礼節・誠実・名誉」の観念を身につけられたら如何でしょうか。言い逃れしたり、人を笑殺したりすることは、武士道的には不名誉なことです。

>その中で平泉先生のことを何度も書いたのは、平泉氏が根無し草を日本の歴史の中にもう一度根付かせようと信念をもって行動されたからであり、私としては平泉史観に同意しないものの、その手法の正しさにおいて敬意を持っているからです。

 ここで平泉澄の「手法の正しさ」とは、繰り返しになりますが、要するに平泉氏のファンダメンタルな行動力を評価してのことでしょう。しかし、その同じ行動力において、それが武士道的道義心(=勇・仁・礼・誠・名誉・忠義)を欠くものであったこと、それ故に自己絶対化に陥ってしまったことが、昭和の軍部の最大の失敗の要因になったのです。キンピーさんには、是非、これと同じ轍を踏むことのないようご注意願いたいものです。

 なお、「日の丸・君が代」を義務教育においてどう教えるか、ということについては、キンピーさんが拠りどころとしている東京地裁判決でも、「原告ら教職員は,「教育をつかさどる者」として,生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うものと解されるから、入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは,上記義務に照らして許されないものといわなければならない。」」としています。

 それは、教育基本法によって(教育の目的)が、その第一条において「 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」と規定されていること、つまり、「人格の完成」と「国民の育成」という二つの柱を、公教育の目的としていることによります。

 その上で、国旗・国家をどのように子どもたちに教えるか、については、学習指導要領では、第1学年における共通教材として 「日の丸」を取り扱うこととしており、第3学年から「我が国や外国には国旗があることを理解させ、それを尊重する態度を育てるよう配慮すること。」とされ、各学年の音楽では「国歌『君が代』は、いずれの学年においても指導すること」。特別活動では「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」としています。先の判決文は、これらをふまえて、教職員が「国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負う」としているのです。

 では、これらを児童・生徒に指導するとき、その指導法はいかにあるべきか、ということですが、ここで留意すべきは、キンピーさんが尊敬される平泉澄氏の指導法――平泉氏は吉田松陰の指導法を理想としており、吉田松陰は玉木文之進の「スーパー厳格教育」法によって育てられた。そしてその吉田の教育法は、「幼児であるからといって少しも容赦しない」教育法だった――は、「教える者と教えられる者との同一化」をはかる教育法だったのです。(上掲書参照)

 残念ながら、今日の公教育(基本的には世俗教育)においては、教育基本法の中立条項や「中立法」等によって、「教化教育」は大変困難になっています。それは口先だけでない「行動」を要求しますし、そうなると特定の政治勢力の伸張または減退に手を貸すことになるからです。教育ではなく政治になってしまう。だから、公教育は「知識教育・技術教育」に止まるべきだとする福田恆存の論(『教育・その本質』)も出てくるのです。キンピーさんは、一見リベラルの風を粧っていますが、実は、ファンダメンタルな「イデオロギー教化」論者で、それは他者をあえて小馬鹿にし笑殺しようとする態度にも現れていると思います。

(特定の政党を支持させる等の教育の教唆及びせん動の禁止)
第三条  何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体(以下「特定の政党等」という。)の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて、学校教育法 に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む。)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。
 
>平泉先生ならば・・・、日の丸君が代の強制には反対するでしょうね。
ま、そういうこともネット右翼には分からないでしょう。

 以上説明しましたように、「新」左翼らしいキンピーさんの「日の丸・君が代の強制」反対の論理は、平泉のファンダメンタリズムで支えられているという、なんとも異様なものであることが明らかとなりました。もし、氏が、その論理を福田恆存あたりを引用して行っていれば、もう少しおもしろくなったと思うのですが・・・。しかし、”そういうことはキンピーさんには分からないでしょう。”よって、キンピーさんとの議論はこれで打ち止めとしたいと思います。

(最終校正8/21)

2010年8月12日 (木)

「日の丸・君が代」論争について2――キンピーさんの本当の思想を推測すると・・・

 キンピーさんの、一知半解さんのブログエントリー「『日の丸・君が代』強制問題は、決して思想信条の自由の問題ではない」での主張は、公立学校の儀典における国旗掲揚・国歌斉唱について、教育委員会が教職員に「起立斉唱を求めた」ことについて、それは憲法に保障された個人の思想信条自由を犯すものであり、憲法違反だとするものでした。

 私の主張は、もともとこの問題は、”「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法的根拠はないから、その掲揚・斉唱を教職員に強制できない”とする、特定のイデオロギーに基づく政治的行動に対する対抗策としてとられたものであって、それ以上のものではない。従って、国旗国歌法の制定によってこの問題は一応の終熄を見た。といっても、この法制化によって可能になったことは、件の儀式において教職員に「起立」という外面的行為を求める程度(斉唱の事実は証明不能)であって、それ以上のものではない、というものでした。

 これに対してキンピーさんは、”「日の丸」に向かって起立を求めることは、個人の外面的行為の規制に止まるものではなく、その思想信条の自由を侵すもので憲法違反だ”と主張しました。しかし、日本は法治国家であって、公立学校の教職員は公務員になった段階で、「国民全体に奉仕する」者として、法令の遵守を義務づけられているのですから、入学式や卒業式などの儀典において、その主宰者側にある教職員が国旗・国歌を起立(斉唱)をする程度のことは、本人の思想信条にかかわらず求められて当然でしょう。おそらく裁判もその方向で確定すると思います。

 ところが、キンピーさんは、先の自説を補強するために、「日の丸・君が代(天皇)≠象徴」という論理を持ち出しました。そしてその論拠として、”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”と主張しました。これで、キンピーさんの「日の丸・君が代」強制反対の論理の中心はここにあることが判りました。つまり、上述した彼の憲法の思想信条の自由を絶対視する主張は、彼にとっては必ずしも本筋ではないのです。

 そこで、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という認識が妥当かどうかが問題となります。これに対して私は、『大日本史』は、確かに南朝を正統とはしているが、南北朝合一によって北朝との葛藤関係は解消した(その正統の連続性を証する根拠として「神器論」や「君徳論」が論じられた)としており、その編纂者である徳川光圀も、その後の天皇について「本紀」に加えるよう命令を下していた、と指摘しました。

 また、キンピーさんは、平泉澄の研究でも”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった”ことが証明されていると言っています。確かに氏は、南朝の正統性を主張しましたが、しかし、天皇制の終焉を告げたわけではありません。その証拠に、彼が戦後に書いた『少年日本史』にも孝明天皇や明治天皇の事績が記されています。要するに、彼が求めた天皇制とは、尊皇史観に基づく「天皇親政」であり、平泉澄はそれを昭和において復活させようとしたのです。

 以上で、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という主張がいかに独りよがりで勝手な解釈であるかがわかります。

 さらに氏は、”皇国史観には賛同しない”といいつつ、”平泉先生は凛とした日本人というものが先にあって、そのイデオロギーとして天皇制を必要とした”などといっています。一体、「皇国史観なき平泉澄」って何?といった感じですが、”平泉先生”への私淑を隠していないところからすると、氏の本音の思想は、平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」なのでしょう。彼はその「ある思想」に依って、天皇制は14世紀に”終わっている”。従って、それを「象徴」とするのは”嘘”である。よって「日の丸君が代=国旗国歌=象徴」という図式は成り立たない、としているのです。

 そこで、キンピーさんの平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」とは、一体どのようなものか、ということが問題になりますが、それを、キンピーさんの次の言葉から探ってみたいと思います。

>しかし天皇の居ない日本なんて日本じゃない!という皇国史観の人々の我侭を満足させるために、あるいは國体護持で飯を食っているシロアリどものために、南北朝時代をタブーにし、「万世一系」「天壌無窮」などという嘘を戦前は教えてきたわけでしょうに。その系統にある「君が代」というものを、またぞろ教育現場で強制すれば反発があって当然だと思いますよ。

 これもまたとんでもない話で、”南北朝時代をタブーにし(後醍醐天皇の天皇親政の支離滅裂の指摘を避けていること?)、「万世一系」「天壌無窮」などという嘘を”戦前も戦後もつき続けたのは平泉澄その人でした。一体、キンピーさん、平泉澄のどこを見て、「平泉先生ほどの知性と礼節があり、日本人たることを自覚されている方であれば、日の丸君が代の強制などという反日的な考えには私とは別の文脈で反対されたでしょう」などという評価をされているのでしょう?。

 そんなわけで、キンピーさんの本当の思想は、”(平泉先生の)その姿勢は真に立派なものであると思っています。特に戦後の活動姿勢は、いわゆる「民主主義者」たちよりも支持しますね”や、しかし”皇国史観は支持しない”等の言葉からから類推するしかありません。ここからは彼が平泉澄を師表としていることは判ります。しかし、平泉澄から皇国史観を除いた「ある思想」とは一体何なのかはよく判りません。あるいは”14世紀に終わった天皇”以外の「何か」に殉忠を求める思想なのか、と思ったりしますが・・・。

 ちなみに、平泉澄は、確かに、2.26事件や終戦時の青年将校による軍事クーデターには反対しました。しかし彼は、戦局が絶望的になり、兵士たちには満足な武器も与えられず、食料補給も途絶えて餓死が相次ぐ中で、国民や兵士に対して玉砕・特攻精神を煽ったのです。その結果,「太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出」るという悲惨な結果を招くことになりました。

 平泉澄は、こうした日本民族の玉砕・特攻精神を、皇国史観に基づく天皇への絶対的忠誠を求める中で説いたのです。その結果、「国体明徴訓令」以降、日本の国論はこの思想一色に染め上げられることになりました。一方、その「天皇親政」を理想とする政治思想は、現実的には軍部主導の独裁政治を招くことになりました。彼はその体制下にあって、天皇に対する殉忠の美学を国民や兵士に説き続けたのです。

 ところで私は、この平泉澄の「天皇親政」を理想とする政治思想は、個人倫理と政治思想を一体化したところに最大の問題があったと考えています。つまり、そこでは、個人の思想信条の自由と、社会秩序を維持するための政治制度とが区別されていないのです。そのため両者は情緒的・心情的に一体化し、両者を媒介するはずの「法」が無視されることになりました。(実は、この問題を解決するための知恵が、後期(=象徴)天皇制に隠されているのです。)

 さて、こうした問題点をもつ平泉の思想に、キンピーさんはいたくシンパシーを感じておられるわけですが、この平泉の思想は、キンピーさんの先の主張、「個人の思想信条と、その外面的行為は不可分とする思想」と似ていると思いませんか。これは一見個人の思想信条の自由を最大限尊重している意見のように見えますが、一皮むくと、外面的行為より内面的思想の統制を重視する全体主義思想に転化する恐れがあります。

 「平泉澄の言動については、多くの人びとの証言がある。昭和の初め学生だった中村吉治は、平泉の自宅で卒業論文の計画を問われ、漠然と戦国時代のことをやるつもりだと答えると、平泉は『百姓に歴史がありますか』と反問したという。意表を突かれた中村が沈黙していると、平泉はさらに『豚に歴史がありますか』といったという(『老閑堂追憶記』刀水書房)。

 また昭和18年、学生の研究発表の場で、『豊臣秀吉の税制』を発表した斉藤正一は、『君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する叛逆である』と決められ、大目玉を食らった。」という。(『天皇と東大(下)』p208)

 また当時平泉の国史科の隣の西洋史研究室にいた林健太郎は、
 「ただ右翼的思想の持ち主だというのならまだよいが、この人は自分の塾をもっていて、そこで養成した学生でなければ助手その他のポストに就けないのである。これは大学という公器を私するもので誠に怪しからん話であるが、先生は吉田松陰のような救国の熱性に燃えているつもりだし、外部にはそれを応援する右翼勢力があるのだから始末が悪い。答案や論文の採点でもそのイデオロギーに合致しなければもちろんよい点はもらえないし、就職口など世話してもらえないという有様であった。」と回想しています。(『移りゆくものの影』)

 色川大吉はまた、『ある昭和史』(中央公論社)で、こんなエピソードを書いています。
「私は東京帝国大学の国史学科に入ってからも、主任教授平泉澄の弟子から『日本海軍の首脳たちが親英米派―で困っているのだ、いざというときは斬って捨てなければならぬ』という文句を聞いたが、これらの教師たちに共通していたことは、いずれも狂信的(ファナティック)で、ものごとを絶対悪と絶対善とに分けて考える思考態度であった。」(上掲書p214)

 とにかく、平泉が自分と異なる意見に対して寛容だったとてもいえませんね。思想信条の自由の絶対性を主張するキンピーさんなど、もし彼が氏の弟子だったら、よい点をもらうどころか、斬られていたかもしれませんね。

2010年8月 5日 (木)

菅首相の正体不明はどこから来るか2――民主政治を支える「市民的人間型」には民族も国家も関係ない?

 私は、エントリー「菅首相の正体不明はどこからくるか――日本の伝統文化を無視した市民政治理論の帰結」で、菅首相の信奉する松下圭一氏の市民政治理論における「近代的市民型」について、次のような問題点を指摘しました。

 「松下圭一氏のいう「自律性と自由」をもった「市民的人間型」とは、(ロックにおいては)「何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務」を負うという宗教(キリスト教)的人間像を措定していたのです。つまり、ロックが前提とした人間像は、こうした西欧社会の宗教的文化的伝統の上に措定されたものであって、そうした伝統を持たない日本に、そのような信仰に支えられた人間像を措定することは無理があるのではないか。」

 欧米の政治思想は、ホッブズの「万人の万人に対する戦い」にある自然状態から社会契約によって国家状態に移る、という社会契約説に始まります。ロックは、このホッブズの自然法思想を継承発展させ、当時の王権神授説を批判し、社会契約による人民主権を主張しました。モンテスキューは、ロックの権力制限の思想を受け継ぎ、三権分立の憲法理論を確立しました。ルソーは、社会契約上の「一般意志」を唯一最高とし、人民主権に基づく共和制国家の樹立を主張しました。

 こうした近代政治思想は、産業革命の時代を迎えて、ベンサムやミルなどによる「最大多数の最大幸福」をめざす功利主義倫理思想によって補強されることになりました。これによって、各種の法典整備や、刑罰規定の改正、救貧法の改正、地方自治法制定、教育制度改正など、中世の古い秩序の大胆な変革が精力的に取り組まれました。さらに、こうした考え方は、経済学的にはアダム・スミスの自由放任主義、社会学的にはスペンサーの社会進化論に発展していきました。

 こうした社会の近代化の流れの中で、特に重要なのが、近代民主主義の政治原理を確立したとされるロックです。彼は、人民主権の基本的な考え方のもとに、政治権力の正統性を人民との信託契約に求めました。また、権力の暴走を防ぐための権力分立の考え方や、政府が人民との信託契約に反した場合人民に抵抗権を認めること。また、宗教的には知性に基礎を置いた寛容論を説き、政治的な意味における信教の自由の確立に向けて、理論的な基礎づけを行いました。

 もう一人の重要人物が、今日の自由主義経済学の基礎づけをしたアダム・スミスです。彼は、「その経済学と道徳哲学との結合によって,不可侵の自己保存権(自然権)をもつ近代的個人の私益追求のエネルギーが、結果的に社会全体の利益増進に役立つ」ことを示しました。従って、「経済的には自由主義を主張し、国家は、有害な独占政策は行わないで、国防、司法、公共施設、教育という非営利的活動に自己を限定すべき」としました。

 このアダム・スミスの自由主義の考え方は、あくまで、「潜在する自由競争のエネルギーが、現実の市場において解放されうるような条件を整えよ」という意味でした。しかし、「それが19世紀前半のイギリス,同後半のアメリカなどでは,民間市場において自然発生した強力な独占体が強者の自由をほしいままにすることまでも含めて、勝手にやらせるべきだという主張であるかのように曲解され」ました。

 これが、自由放任主義と命名され、各人の利己主義を自由に発揮させても「神の見えざる手」の働きで、自ずから秩序と調和が生まれるとする考え方になりました。しかし、彼自身の道徳的な考え方は、「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉が良心に従った道徳的判断を選ばせること」が大切で、「このような心理過程を〈同感〉という概念で特徴づけ、それが安定的な社会集団の生成と維持にとって不可欠だ」と論じていたのです。

 このように、近代民主政治のあり方を論じたロックも、近代自由主義経済のあり方を論じたアダム・スミスも、それを支えるべき人間類型としては、「合理的かつ勤勉」であるとともに、宗教的・良心的な道徳観念を持つことを不可欠の条件としていたのです。しかし、その後の近代化の歩みは、社会進化論の優勝劣敗の考え方や、進歩主義的な啓蒙思想の影響もあって、植民地主義的な利益追求や帝国主義的な領土分割がなされるようになりました。

 そして日本も、こうした近代化の流れの中で自国の独立を確保するため、殖産興業、富国強兵策を採り、二つの大戦の勝利を経て、帝国列強の仲間入りをすることになりました。その時、最大の問題となったのが、この植民地主義的・帝国主義的な覇権争いにどう対処するか、という問題でした。日本は第一次世界大戦からこれに参加したわけですが、その後の世界的な軍縮の流れと、中国のナショナリズムへの対応に誤りを犯すことになりました。

 その原因は、確かに、殖産興業や富国強兵、そして近代的な法整備という点では成功を収めましたが、立憲君主制、複数政党による議会政治、民主政治の導入という面においては、必ずしもうまくいかなかった、ということです。というのは、立憲君主政治は「天皇機関説問題」を契機に天皇親政が唱えられるようになり、議会政治は政党の自主解散による大政翼賛会になり、普通選挙に支えられた民主政治は、軍の政治介入を許してしまいました。

 戦後は、こうした反省をふまえて、新憲法の下に、象徴天皇制、複数政党による議会政治、普通選挙(男女)による民主政治が行われるようになりました。しかし、象徴天皇制の意義は必ずしも国民に十分理解されているわけではなく、今なお、「君が代・日の丸」反対運動も続けられています。また議会政治も、55年体制以降、政権交代なき自民党一党支配が続き、官僚政治や派閥政治が批判の対象となり、普通選挙もポピュリズムの批判を受けることになりました。

 これらは一体、どこに原因があるのでしょうか。冒頭に述べた菅首相の「市民政治理論」からすれば、日本の国民が民主政治を有効に運営するだけの「市民的人間型」に成長していないから、ということになります。ではどうしたらいいか。そのためにはまず、そうした「人間型」への成長を阻害している日本人の伝統的な「政治的人間型」から脱却しなければならない。

 例えば、水戸黄門や大岡越前守さもなければ忠臣蔵。「ここでは農民や町人はこの政治的賢者にひれふす貧乏で無知な『田吾作』であり、武士は『忠臣』である。彼らを「自立性と自由」をもって主体的に政治に参加する『市民』へと生まれ変わらせなければならない」ということになります。おそらく菅首相も、そうした観点に立って、今日まで市民運動を続けてきたのかも知れませんが・・・。

 だが、これはどのようにして可能か。いや、果たしてこれは可能なことなのか。まさか、ロックの「何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務」を負うという宗教的人間像を措定するわけにもいかない。また、アダム・スミスの、「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉が良心に従った道徳的判断を選ぶ」も、その「自分自身の中の〈公平無私なる見物人〉」とは、「神の代理人」というイメージです。

 そうすると、日本において、その伝統的な政治的人間型を「市民的人間型」に造りかえるなど到底できないということになります。こうなると、貧乏で無知な『田吾作』や忠臣蔵の『忠臣』鹿生まなかった日本の伝統的政治文化が恨めしくなります。だが、翻って考えて見れば、それでは明治以降の日本の近代化とは一体何だったのかということになります。まさか、それは「近代化」ではなかったというわけにもいかないでしょう。

 で、月刊誌『正論』9月号の日下公人氏の「今こそ国家の根本を立て直せ」を読んでいたら、次のような不思議に一節に出会いました。

 「日本が保有する文明・文化の上に急いで増築した西欧的近代化の部分を、当時の日本人は『富国強兵』と表現した。中身は経済力の発展と軍事力の増強でそれ以外の近代化はほぼ一千年も前に完了していた。今日的表現を用いれば、民主主義的集団合議制、男女を通じた基本的人権、支配・被支配を超えた人間の尊厳と福祉社会、宗教と政治の分離、教育の普及、言論思想の自由、営利の自由、商業選択の自由、階級移動の容易等々は、すでに考えとしては存在し、ある程度は行われていた。近代化を完成したと自認している西欧との比較は分野ごとの程度問題でしかなく、日本は西欧に比べて遅れていたとか、封建時代のままだったとかは一概にいえない。」

 要するに、日本は、西欧の近代化の波を受ける前に、経済力の発展と軍事力の増強以外の近代化に必要な諸価値はほぼ身につけていた。確かにその軍事力の行使については失敗したが、それ以外の価値については、行き過ぎない程度にほどほどに実行してきた。だから、資本主義経済で成功しても、強欲資本主義や投機資本主義にも陥らず、平和で安全な文化的な国造りをすることができた。

 さらにいえば、日本は、「神は死んだ」といい人間の知性や理性を万能視する近代社会を迎えるにあたって、その神なしに人間(とりわけ権力者)に自己抑制あるいは自己犠牲を求める価値観を、育ててきたということができるのです。こうした観点から見れば、水戸光圀の善政や大岡越前の守の名裁判ぶりも、忠臣蔵の「忠臣」という価値観についても、決して”すてたもんじゃない”ということになります。(8/6挿入)

 まあ、私としては、このような日本に伝統的に積み上げられてきた価値観の積極的な評価に心がけつつ、また、西欧的な一神教文化の育んだ知恵にも学びつつ、日本の近現代史の問題を考えていこうと思っています。そこで次回は、先の日下氏の論中に紹介された、日本の近代化を可能にした諸価値について、それがどのように準備されていたかを、山本七平の論によって、具体的に検証してみたいと思います。

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

twitter

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック