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2010年9月

2010年9月29日 (水)

尖閣問題――中国の一党独裁国家としての欠陥が露呈したのでは?

 尖閣周辺海域で中国漁船が日本の巡視船に逮捕された事件について、政府のとった行動が、野党はもちろん政府内からも激しい抗議を受けています。私自身も、那覇地検が船長の釈放にあたって出した声明を聞いたときには、”検察がそういう外交判断をするものなのだろうか”と怪訝に思いました。また、それを政府首脳が当然のように追認するのを見て、これはどういう理屈になっているのだろうと思い、私HP「山本七平学のすすめ」の談話室に「尖閣問題、日本の最終的な外交目標は何?」をUPしました。

 それから、「極東ブログ」の関連コメントを見て、この問題が中国の内政問題にからんでいるらしいことも知りました。また、そのことに関連して、finalventさんは、「中国という国は、国内の権力争いに勝利するためには、外国をその政争に巻き込み政敵と戦争をさせてその漁夫矩を得るようなことも平気でする国だ、ということを実証する典型的な例として、岡田英弘氏の次のような「日中戦争=中国政治内紛説」説を紹介していました。

 「軍事的に追い詰められた中国共産党が、そこで思いついたのが反日運動キャンペーンの展開である。つまり、国民党政府のアキレス腱は日本であると見たわけである。放っておけば、国民党政府は日本との妥協を行うだろう。

 しかし、その前に中国大陸全土で、反日・排日の嵐が吹き荒れればどうなるか――国民党は日本との妥協を諦め、それどこか日本との直接対決の道を選ばざるをえなくなると、毛沢東以下、中国共産党の幹部たちは読んだのである。日本と国民党の戦争が始まれば、得をするのは共産党である――彼らにとって、当然の帰結であった。

 中国共産党は、大陸の各都市で執拗な反日キャンペーンを繰り広げさせた。さらに、それだけでは手ぬるいと判断して、彼らは日中両軍の軍事衝突さえ起こそうとした。それが昭和十二年の盧溝橋事件である。

 中国全土で行われた反日キャンペーン、そして盧溝橋事件によって、国民党政府を率いる蒋介石は窮地に陥った。前にも述べたように、蒋介石の本心は日本との和解にある。だが、ここまで反日運動が激化してしまえば、それを言い出すことは政治的死に繋がる。また、国民党からの反日の声をこのまま無視することも許されない。「弱腰」というレッテルを貼られた指導者についてゆく人間、なかんずく中国人などいないからである。

 蒋介石に残された道は、共産党の望むとおり、いや、共産党の望む以上の強攻策で日本と対決するしかなかった。そうしないかぎり、蒋介石政権の明日はない――これ以降の蒋介石は、以前の彼とは打って変わって、日本との戦争に躊躇しなくなった。日中戦争は、実はこのように始まったのである。」

「日中戦争勃発のそのものの発端は、中国共産党と国民党の内紛であり、そして蒋介石が政治家としての保身を図るために戦争を選んだという物語は、多くの日本人には信じられない話であろう。しかし、中国人にとっては、これが当たり前の話である。つまり、日本人と中国人では人生哲学が決定的に違っている。」

 以上のような岡田英弘氏の見解に対してfinalventさんは次のように言っています。

 「先ほどの日中戦争の話で言えば、もし、あのとき日本人が「中国人とは、こういう民族なのだから」という認識を持っていれば、あの不幸な戦争も起きなかったかもしれない。共産党が何を望んでいるかを知れば、戦争を避ける道は見つかったかもしれない。

 ところが、当時の日本政府首脳には、それが見えなかった。反日運動の激化を見て、日本人は憎まれているだけの存在と信じ込み、共産党の思惑どおりに戦争に突入していったわけである。日本人は気軽に、友好とか平和という言葉を使うが、真の友好、真の平和を願うのであれば、まず相手がどのような国なのか、どのような国民性なのかを知る必要がある。」

 私も、大筋でこの説に賛成します。ただ、ではなぜ、中国共産党が中国民衆に抗日意識を植え付けることに成功したかというと、その最大の原因は、満洲を日本に盗られたということでしょう。それでも蒋介石は共産党の方をより危険視していて、日本とは、「満洲問題を不問にする」することで妥協しようとしたのです。当時の日本首相であった広田もそれに異存はなかった。しかし、関東軍はこれ妨害するため、華北五省の傀儡化を強行した。(なぜか、関東軍は蒋介石を排除しない限り日中紛争の根本的解決はできないと考えていたから)

 そして蒋介石は、こうした日本軍の暴走を日本政府が抑えられないことを悟ったとき、早晩日中戦争は避けられないと覚悟を決めたのです。そこでドイツ軍事顧問団による中国軍の指導及び上海周辺の防御陣地の構築を中心として、日本との戦争準備をはじめました。そして、その体勢が整うまで、できるだけ日本との交渉を長引かせようと考えた。従って、広田との交渉決裂以降の外交交渉は、いわば中国の時間稼ぎで、蒋介石は本気で交渉をまとめる気はなかったと思います。

 では、このように中国が戦争準備を進める中で、日本はどのようなことを考えていたか。実は、日本は中国が戦争準備を始めていることに全く気づかなかった。これにようやく気づいたのは石原莞爾でした。しかし、なにしろ彼は、日本が東洋道徳文明のチャンピオンとして西洋覇権文明のチャンピオンであるアメリカとの最終戦争を、日本の文明論的使命といい、日本軍の満洲占領を理論的に正当化し、実際、謀略でもって柳条湖事変を引き起こして満州を軍事占領した人物です。従って、その思想的影響を受けて大陸政策を進める石原の後輩たちが、その説得に応じるはずもありませんでした。

 そんなところに、西安事件が起きて、蒋介石は「按内攘外」から「一致抗日」に舵を切ることを明言したわけですが、日本軍はこの危険性にもほとんど気づきませんでした。そんななかで昭和12年7月7日、廬溝橋事件が勃発したのです。そのきっかけとなった数発の銃声は、中国の宋哲元軍(第29軍)の兵士による偶発的発砲ということになっていますが、中国軍の方はやる気満々だった。これに対して、日本軍は、中国と戦争するつもりはなかったのですが、廬溝橋事件以降、中国軍の挑発的行為が次第にエスカレートするのを見て、中国人の目を覚まさせるため(つまり先に述べたような日本の文明論的使命を中国人に分からせるため)一撃を加える必要があると考えたのです。

 これに対して蒋介石は、廬溝橋事件が起こらなければ、上海周辺の防御陣地構築をはじめとする戦争準備が整うまで、後2年ほど時間が必要と考えていたようですが、日本軍が三個師団を中国に増派する政府決定(7.20)し、上海では大山事件(8.6)が発生するに及んで開戦を決意。その主戦場を、北支ではなく欧米の疎開地が集中する上海とし、8月13日の日本海軍陸戦隊への攻撃開始、14日には日本海軍艦艇に対する奇襲爆撃、15日蒋介石は陸・海・空三軍総司令に就任し全面戦争となったのです。

 つまり、確かにこの間、日本軍と蒋介石の国民党軍の妥協を阻止し、戦争状態に陥れるための中共の謀略があったことは事実ですが、まあ、戦争に謀略はつきものであって、日本軍もそれを盛んにやっていたわけですから、騙されたと文句を言っても始まらない。実際、日本軍と蒋介石軍が戦えば、共産党の”漁夫の利”になることは双方ともよく判っていた。それなのになぜ日中全面戦争を8年間も戦うことになったか。その原因はなんであったか、それが最大の問題なのです。

 そのヒントが、蒋介石が、日中関係の抜本的改善を呼びかけるために昭和9年12月に発表した「敵か友か?中日関係の検討」という論文に明瞭に示されています。以下、少々長いですがすごいですので・・・。

 「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。

 「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。

 この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」

 「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。

 戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。

 また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」

 このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。(筆者要約)

一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。

 日本側には、次の五つのあやまりがある。

一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。

二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。

三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。

四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。

五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。

 日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。

①国際連盟を脱退したこと。
②アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。
③自ら作り出した危機意識にとらわれていること。

 以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、
第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。
第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。
 第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。

 以上、誠にお見事というほかありませんが、今回の尖閣問題をめぐる中国の対応を見てみると、これらの、蒋介石が示した「過ちの指摘」は、そのまま、現在の中国についても言えるような気がしました。中国は、すでに、かって蒋介石が示したような堂々たる「大人」(たいじん)の気風を失ってしまっているのではないか。そんなことを考えた次第です。(参照「一党独裁国家としての欠陥が露呈したのでは」)

2010年9月25日 (土)

靖国問題について3――日本人の「死んだら仏(または神)になる」という考え方はどこから生まれたか。

 日本人閣僚の靖国参拝に対して中国や韓国が抗議行動をとることについて、日本人がこれに反論する時に持ち出す論理は、「日本人は死んだら仏(または神)になると考えるので、生前の「罪」をしつこく追求するようなことはしない」というものです。

 靖国問題というと中国や韓国の抗議を受けたことが発端であるかのような印象があり、上記のような反論がなされるわけですが、この問題のそもそもの発端は、1969年に自民党が靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとして靖国神社法案を提出したことによります。自民党としては、戦死者の慰霊を民間の一宗教法人に任せるのではなく、国家の責任で行うべきだと考え、この法案を国会に提出したのですが、これに反対する人たちは、これが憲法に定められた「政教分離」や「信教の自由」に抵触するとして反対運動を起こしたのです。

 この時、こうした反対行動を起こした団体の一つである日本のキリスト教系団体の行動のおかしさを最初に指摘したのがイザヤ・ベンダサンでした。氏は、これら日本のキリスト系教団体が、キリスト教徒の「英霊」が神道の霊廟である神社に奉祠されていることを戦後二十数年間放置しながら、これが政治問題として提起されるとにわかに反対運動起こしたのは、宗教教義義上極めて偽善的なことではないかと指摘したのです。

 といっても、ベンダサンは、これを日本人の宗教的な無節操さを示す例として指摘したのではありません。そうではなくて、日本という国は、実は日本教という無意識の宗教的条理に基づく「祭政一致」の国であって、そのため、宗教問題も政治問題になってしまう。また、それが政治問題となってはじめて、宗教問題も”政治的に解決される”ということを、事実の問題として指摘したのです。

 これは、日本においては、西欧的な意味における「政教分離」――宗教法と世俗法の分離を前提に、政党はあくまで世俗政策の実現を図る。宗教団体は教義の実現を政党を通じて行うようなことをしない(小室直樹)――という考え方がないことを示している。もし彼等が、自らの宗教教義に自覚的であったならば、戦死した信徒の霊が神道の霊廟に祀られていることを、これまで放置するはずがないではないか、というのです。

 しかし、実際は1969年までこれを放置した。浅見定雄氏は、こうしたベンダサンの指摘に対して、「信教の自由」とは公権力との関係ではじめて問題になるのであって、戦後、公権力から見放されて「鳴りをひそめた宗教など無視してやれば十分」といっています(『にせユダヤ人と日本人』)。要するに、政府から強制されなければ、キリスト教徒であっても、一宗教法人である靖国神社に信者が祀られていても、一向にかまわないといっているのです。

 なかば居直りに近い論理だと思いますが、この問題が、自民党が靖国神社法案を出して以降、はじめて憲法上の「政教分離・信教の自由」に関わる問題として、国論を二分する政治問題に発展したのは事実です。つまり、これが政治問題化してはじめて、社会的な関心を集めるようになったのです。当時の朝日新聞『天声人語』(81.8.1)は、自民党の靖国神社法案に反対する理由として、次のようなことを述べていました。

 「ふるさとの肉親や恋人のため、と信じて死んでいった兵士たちの霊を慰めること自体に異議をさしはさむものはいないだろう。」しかし、靖国神社の国家護持は、「英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、その事績をたたえる」ものであり、国民の「国防意識の高揚と結びついたものになる」。それは結局、「前大戦そのものを美化することになる。それがはたして無念の死をとげた無数の戦没者たちの鎮魂になるのだろうか。」

 つまり、ここで問題とされているのは、宗教団体の教義上の問題としてではなく、この法案が、前大戦を美化し、侵略戦争を肯定し、「日本を再び侵略戦争に駆り立てることになる」といったような、政治的問題に発展したということなのです。つまり、このように政治問題化されない限り、宗教教義上の問題など「キリスト教家族の側で忘れていさえすればなんのかかわりも生じない」(浅見前掲書p186)ものなのです。

 これは、ベンダサンの指摘する通り、日本人が宗教教義についていかに無関心であるか、そうした宗教教義上の問題が政治的問題に発展すると、なぜ、これほどの混乱を生じるのか、ということを解明する上での、格好の事例と言えるのではないかと思います。

 「例えば日本においては、死んだ人を仏という。これほど徹底した仏教の誤解は考えられない。死んでいようが生きていようが、覚りを開いて輪廻の因果法則に支配されなくなった人が仏である。そして、この「成仏」は容易なことで達せられるわけではなく、古来、そのためには、多くの宗教的天才すら苦闘した。そうでない人は断じて仏ではありえない。それを、死ねば自動的に成仏できるとまで考えたところに、日本人のぬきさしならぬ仏教の誤読がある」(「創価学会スキャンダルと日本の宗教的特性」小室直樹)

 つまり、本来の仏教の教えには、本エントリーの「死んだら仏になる」といったような考え方はないのです。確かに、日本では平安時代末から、在家者の救済を目的とした浄土宗による他力仏教が盛んになり、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けると教えました。しかし、浄土に行けば自動的に仏になれるわけではなく、浄土で仏道の修行を積むというのが「戒名」を授かる意味なのです。つまり、死と同時に出家し戒を授け仏道修行者の道を歩むと言うことなのです。(親鸞の場合は、阿弥陀仏への絶対的信仰を説き、そうした信仰を持てば浄土に行けると教えた。ここでは浄土に行くことより、そうした絶対的信仰を持つことの方が重視される)

 そもそも仏教は、現世を、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)を、生まれ変わり死に変わりして輪廻転生する「苦」の世界と教えています。従って、この輪廻の世界から脱出すること。そのためには現世の執着を脱する修行が必要である。で、その結果どこに行くかというと、別に浄土に生まれ変わるわけではなくて、あくまで現世の執着を断った「涅槃」の覚りの境地に達することを目標としているのです。(釈迦は死後の世界の有無を聞かれたとき、沈黙を守って応えなかった、つまり――考えるな――と言ったのだそうです。)(『仏教と儒教』ひろさちや)

 従って、もともとの仏教の教えでは、日本仏教のように、死んだ後に仏となって極楽浄土に行く、というような考え方はしないのです。また、日本人が一般的に考えているように、死者が霊魂となって、この世とあの世を行ったり来たりする(お盆など)とか、それを人間が慰めるといったような考え方もないのです。もともと仏教は葬式もしなくて、日本仏教が葬式をするようになったのは、江戸時代の寺請制度以降のことだといいます。現在でも奈良仏教の宗派(南都六宗)は葬儀をしません。(『仏教と神道』ひろ さちや)

 また、現在日本で行われている仏教式の葬儀では、僧侶の中心的な役割は読経をすることになっていますが、読経とは、本来、出家した僧に修行の一環として聞かせるものであって、参列者に聞かせるものではないそうです。だから何を言ってるか判らなくてかまわない!つまり、死んだときに出家したということにして、戒名を授け(つまり受戒させて)仏道修行の道に導き入れるている(これを「引導」という)わけですが、こうした日本仏教のやり方は、本来の仏教の教えからいえば大変おかしいということです。

 また、私たちは、お墓は死者を追憶するためのものだと思っていますが、インド人は火葬にした後、(釈迦のような聖職者を除いて)全部川に流します。しかし儒教では、先祖の墓をつくり、その墓に詣でます。また中国仏教では、儒教をまねて位牌をつくります。また、儒教の「孝」という観念を生きている親だけでなく、何代も先の祖先にまで及ぼして先祖祭祀を行います。日本の江戸時代の仏教が葬式を本業とするようになったとき(これを僧侶が検死の役人になったと酷評するものもいた。明治の排仏棄釈もこれを抜きには考えられないと言います)、同時に、この中国の墓や位牌、先祖供養という儒教の祭祀を取り込んで、仏教的習俗として定着させたのです。

 以上、日本仏教が、本来の仏教の教えからはかなり変質して、葬式がその本業になったかのような現状に堕していることについて説明しました。特に、その死者に対する供養の仕方は、中国の儒教の影響を受けていたものだということです。また、ここで注意しなければならないのは、こうした日本人の死生観に決定的な影響を与えているものは、こうした外来宗教ではなく、日本の伝統「宗教」である神道によるものだということです。エントリーに掲げた「人は死んだら仏になる(または神になる)」といったような考え方は、仏教というより、神道の考え方を反映しているのです。

 この神道の死についての考え方ですが、古代においては、死体と死者の霊魂とは区別されていて、死体は穢れ・恐れの対象となり、埋葬するときは、再び出て来て生者に害を及ぼさないよう、死体に石を抱かせたりしました。一方、この死体から遊離した霊が悪さをしないよう神社を造って祀ったりしました(菅原道真など)。こうした霊が一定の年月を経ることによって次第に浄化され、祖霊となり、最終的には氏神となって近辺の山中あるいは鎮守の杜に宿り、子孫や地域共同体を守護するという風に考えられたのです。

 これが、日本人の死後の世界観の根底にある無意識の考え方で(「千の風にのって」のイメージもそれ)、地獄・極楽という仏教の来世の考え方は、必ずしも日本人の間に受け入れられてはいないように思います。仏教では四十九日、一周忌、三年忌がありますが(この時点に来世での生まれ変わりが審査される)、それ以上の三十三回忌の「弔い上げ」という考え方になっているのは、仏教とは関係なく、霊魂が「集合霊」になったという、神道的な発想によるものだと、ひろさちや氏は言っています。三十三年も祀ればもう幽霊になって出て来ないというわけですね。

 そこで、以上のような日本人の霊魂観を考慮して、靖国問題を考えるとどうなるか、と言うことですが、私は、基本的には、先ほども申しましたように、戦死者の慰霊の方法は、それぞれの宗教によるべきではないかと思います。ただし、戦死者は、国家が行った戦争の犠牲者でもあるわけですから、国家がその霊を祀るための施設を設けることは当然だと思います。その意味では、かっての自民党が、その集合慰霊施設である靖国神社を国家護持しようとしたのは、決して非常識なことではないと思います。

 ただ問題になるのは、それが単に戦死者の慰霊を目的とするものではなく、つまり、「英霊に対する国民の尊崇の念を表す」「その遺徳をしのび、その事績をたたえる」ということが、自民党政府が、前大戦を美化し、侵略戦争を肯定し、「日本を再び侵略戦争に駆り立て」ようとしている、といったように政治問題化して解釈されることです。また、神道思想が祭政一致という、政教分離以前の統治イメージを払拭できないでいることも問題です。そのため、こうした疑念を取り除くためにとられた方策が、私的参拝であったり、参拝方式の非神道形式化であったわけです。

 その後、この問題は、中国や韓国からの抗議を受けるようになって、その問題の所在がどこにあったのかわからなくなってしまっていますが、そのポイントは、靖国問題を政治問題としてではなく、あくまで宗教問題として捉え、その問題解決をはかるということです。つまり戦死者の慰霊施設としては、神道の宗教的教義からは切り離して非宗教施設とすること。その上で国家が責任をもって運営するということです。引き続いて靖国神社をその施設とする場合は、これをどのように非宗教化するかが問題になります。

 こうした考え方に対して、戦死者の慰霊をそうした非宗教的施設で行うべきではないという考え方もあります。しかし、前述したように、その宗教的な慰霊の方法は、それぞれの宗教による他ないのです。実際、靖国神社についていわれる「死んだら仏(この場合は神)になる」といった考え方は、仏教の教義によるものでもなく、また、伝統的な神道の考え方とも微妙に異なっています。従って、そうした考え方に固執する必要はなく、新たに、日本の近代国家建設のために命を捧げた人びとを慰霊し顕彰するという目的を明確にして、それにふさわしい国立の慰霊施設を作ればいいのです。

 その施設として、現在の靖国神社を使うことも考えられますが、この件は、関係者が話し合って決めればいいと思います。いずれにしても、この施設を国家護持とするということは、宗教的にも政治的にも中立の立場を取ることになるわけですから、そのためには、その慰霊の形式はどのようにしたらいいか。また、特定の政治的イデオロギーによらない戦死者の慰霊・顕彰のあり方はどのようにあるべきか、ということについて、国民的な議論を行い合意を取り付けるよう努力する必要があると思います。

 最後に、日本の宗教団体のなすべきことについてですが、先に紹介したような、日本人の宗教感覚の怪しげな部分、つまり、その宗教混淆状態のもたらしている混乱状況をどう糺していくかということがあると思います。また、政治家の努めとしては、戦死者の慰霊・顕彰ということの意義について、国民が政治的立場を越えて共通理解が持てるようにするということ。そのためには、この問題を政治的に利用するようなことはしないこと。これらが、この問題を解決する上で、日本人が乗り越えなければならない重要課題ではないかと私は思っています。

2010年9月19日 (日)

靖国問題について2――一神道の本体は第一に生命力崇拝、第二に共同体守護(一読者様への返信)

 一読者様、大変参考になるご意見をお聞かせいただき誠に有り難うございます。自分の考えの整理になりますし、新たな勉強にもなります。今後ともよろしくお願いします。ご意見に対する私見については以下の通りです。読者の皆さまの参考になると思いましたので、本文掲載とさせていただきます。

>私は「富田メモ」報道は、誤報もしくは捏造に近いものだと考えています。・・・結論を先に言ってしまえば、徳川義寛元侍従長の記者会見ないし記者懇談会の備忘録的なメモの端切を、昭和天皇の発言であるかのように偽装した(勘違いした)とする説が、最も説得力があると思っています。

tiku 私は、「富田メモ」が、徳川義寛元侍従長の見解についてのメモであった可能性はあると思いますが、天皇自身のA級戦犯合祀についての考え方も同様のものであったのではないかと思っています。

 「『朝日新聞』2007年8月4日朝刊は、昭和天皇がA級戦犯合祀についての深く懸念を側近に語っていたことを示す新たな資料を報道した。記事の内容は、靖国神社へのA級戦犯合祀について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと昭和天皇の侍従長だった徳川義寛が語っていたことがわかった。歌人で皇室の和歌相談役を長年務めてきた岡野弘彦が退任後に、徳川の証言として昨年(2006年)末に出版した著書、『四季の歌』(同朋舎メディアプラン)で明らかにした。

同書によると、1986年秋ごろ、徳川が、岡野を訪れた。3 - 4ヶ月に一度、昭和天皇の歌が30 - 40首溜まったところで相談するため会う習慣になっていた。その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があった。岡野が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べた上で、「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は2つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明。さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。」wiki「富田メモ」

tiku ご紹介いただいたブログ主は、昭和天皇の戦犯に対する考え方について、「そもそもA級戦犯として処刑された方々は、昭和天皇の身代わりになったという側面もあるのですから、これを一括りにして昭和天皇が批判することはまず考えられません。昭和天皇が自身が戦犯として訴追、処刑される可能性があったことは昭和天皇も自覚していました。このように考えると、自らの身代わりになった方々をA級戦犯という括りで批判されている以上、昭和天皇の発言ではありえないと言えます。」

 と言っていますが、私は、昭和天皇は御自己の責任も含めて戦死指導者の責任について厳しい見方をしていたように思います。特に松岡や白鳥に対しては厳しかったですね。また、A級戦犯の靖国合祀については、「あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになる」ことを恐れていたわけで、つまり、合祀の基準を明治天皇の定められた通り「戦死者」に限る、とすべきと考えていたのではないかと思います。もちろん、1975年以降ご親拝されなくなったのは、三木首相の「私的参拝」で政治問題化したためだと思います。 

>また、昭和天皇がなぜ靖国へのご親拝を中断したのかについては・・・麻生氏はこれまで、天皇の参拝が中断した理由について、1975年に当時の三木首相が「私人としての参拝」を強調したことを理由として挙げてきたが、この日の会見でも「基本的に今もそう思っている」と断じた。』

tiku 私もこの見方の方が正しいと思います。

>まず、昭和天皇の個人的感情とA級戦犯合祀の是否は、直接関係がないということです。

tiku 私も同意見です。

>次に、A級戦犯合祀の是否とA級戦犯合祀を政治問題化させることの是否・・・A級戦犯合祀を政治問題化させることは、避けなければならない問題です。・・・なお、筑波藤麿宮司がA級戦犯合祀を見合わせた理由が、A級戦犯合祀の政治問題化への配慮にあるとするなら、是否はともかく一定の評価はできます。

tiku 私も同様です。

>中曽根元首相は戦後政治の総決算と称して終戦記念日に靖国への「公式参拝」を行い(この行為自体は靖国の政治利用ですが、その功罪は半々でしょう)、それが外交上の騒動になると、翌年から止めてしまうという大失態を演じています。

tiku 私も同意見です。

>・・・中国共産党は「暴虐なる」日本軍を中国大陸から追い払ったことを最大の(現在では唯一の)正統性の根拠としている以上、仮に日本のマスメディアのご注進報道がなかったとしても、この原則に抵触する日本の行為に中国が抗議するのは当然であること、そして、靖国参拝を中断することは、むしろ胡耀邦を批判していた保守派の主張に正当性を与えてしまうだけでなく、中国が抗議すれば日本側が簡単に折れるという先例を残すという意味でも、外交的な愚策と言うしかないからです。

 では、どうすればよかったのか。
 中国側の批判は当然としても、毅然として受け流すかあるいは無視して参拝を継続し、また、八月十五日の靖国参拝は一時的な政治利用であることを自覚して、翌年からは、以前のように春秋の例大祭時に参拝するという慣例に戻すことが正しいあり方ではなかったかと思います。

tiku 公式参拝+A級戦犯合祀が問題が問題を大きくし、そのため、A級戦犯合祀そのものも問題とされるようになった、ということですね。

>この点で、少し趣旨は異なりますが、中国の再三の要請にも拘わらず、日本がこれを毅然として受け流し一歩も譲らない、靖国問題と対比すると面白い論点があります。それは、いわゆる「一つの中国」と台湾の帰属に関する問題です。

tiku この件は知りませんでした。ご教示いただき感謝します。

>「分祀」という言葉は、もともと神道の用語としては存在しておらず、神道辞典に掲載されたのは平成十六年、意味は「分霊(わけみたま、ぶんれい)」と同じとされています。
・・・また「分祀」とは、神道上の「廃祀」もしくは「分遷」の意味であって、神道上の例がないわけではないとする説もありますが、ともに極めて特殊な事例のようです。

tiku 神道における分祀という言葉の定義がはっきりしない如く、「分霊(わけみたま、ぶんれい)」の定義も必ずしも教義上明確に定義されているわけではないのではないでしょうか。我が家にも戦死者がいますが、仏壇には位牌もあり先祖として祀っています。地区の共同墓地には戦死者の墓がまとめて墓地の正面におかれています。命日には護国神社からの祭礼の案内もあります。御霊祀りに関する神道の教義は融通無碍なところがよろしいのではないでしょうか?

> 戊辰戦争の結果、それまでの流動的な存在だった新政府が、なんとか内外に公認される政府になった。
 内実はまだ封建体制のままながらも、戊辰戦争の勝利によって〝新国家〟ができたと考えてよく、その新国家としては、日本における新しい〝公〟として、戦死者たちの〝私死〟を〝公死〟にする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は、〝公〟とも国家ともいえない存在になる。
 戊辰戦争がおわった明治二年、九段の上に招魂社ができたのは、そういう事情による。祭祀されるものは、時勢に先んじて、いわば〝国民〟のあつかいをうけた。さらにいえば、九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。(『この国のかたち 四』 招魂より P65〜71)

tiku 新政府のために死んだものを「公死」とするのが靖国神社の始まりである招魂社の目的だった、ということですね。

> そのあらわれが、九段坂上の招魂社だったといえる。
 設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。・・・まず仮殿をつくり、勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たちをよろこばせるつもりだった。大村も木戸も人ごみの中にまじって見物した。

 死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞といっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない(この招魂社が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる)。
 もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一祀堂にあつめ、国家が祈念する形をとったのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩させたつもりだったのにちがいない。・・・

 戦後の新憲法で、九段の招魂社の後身である靖国神社は、一宗教の〝私祀〟のようなあつかいをうけている。大村の素志、憐れむべしといわねばならない。(上掲書)

tiku 超宗教の形式で国が初版の死者を一祀堂に集めて祀る。それが招魂社→靖国神社の考え方だった。戦後はそれを”私祀”にした。・・・超宗教の”公祀”に戻すべきでは、ということだと思いますが、私もそう思います。

>(招魂社が靖国神社になり、神道によって祭祀されることになったこと)これに対しては、神仏分離令による廃仏毀釈等に見られるように、平田派の復古神道や水戸派の後期国学の影響を強調し、「国家神道」確立への動きとする見方の方が現在は主流かもしれません。ただ、私のように主として戦前を政治や法制度から見た場合、「国家神道」の内実は「国家管理の神社形式の施設があった=国家神道」と言っているだけ* にしか見えません。個人的には、「国家神道」という概念自体が戦後の左翼を中心に作られたドグマだと考えていますが、ナショナリズムや教育勅語、天皇主権の旧憲法も国家神道に含める考えなどを読むと、訳が分からなくなります。ある意味で、一種の「陰謀論」に近い考え方だろうと思っています。

tiku 神道の「教え」の本体について、石田一良氏は次のように説明しています。

 それは一に生産力崇拝、二はその生産力の発動と生産力の崇拝の封鎖制(この意味はその生産単位である共同体の利益・価値を守ること)である。その生産力を発揚するものが「よし」、それを阻害するものが「あし」、汚れ(罪)はその生命力を妨げ、人が神の創造力と一体になって生産力をあげることを阻むもの、原罪という観念は神道にはなく、「けがれ」は「みそぎ」で祓うことができる。つまり、「祓い」は生命力回復の呪術である。

 神道が「けがれ」を忌むのは、それが死と結びついた罪だったから。神道は生の宗教であって死の宗教ではない。神道は仏教やキリスト教徒習合しない限り、来世教的性質を持つことはなく、死者の魂の救済には全く関係がなかった。石器時代に、死者は葬られるとき胸の上に大きな石を載せられた。それは死者の魂が墓から出ることを恐れたためといわれている。

 日本の神は共同体(=氏族)の神であった。従って祭りは共同体の団結を更新強化するために行われた。こうした神を祀る生活においては、共同体への故人の埋没が倫理として要求された。神道のいう「誠」「正直」の徳は、近代道徳における個人的責任に関するものではなく「私のない心」=「けがれのない心」=「清明心」であって、畢竟それは全体に和順する心に外ならなかった。

 これが神道の「教え」のコアとなる本体で、それが時代時代のさまざまな思想の衣装を身につけて自己を表現してきた。「その『変わり身の速さ』――守旧性と適応性、持続と変化――の弁証法が私のいわゆる函数主義であって、これが神道思想史を特徴づける『着せ替え人形』的現象を生みだしたものである。」

 「したがって、神道が時代時代に身につけては未練もなく脱ぎ捨てていった衣装を本体だと思い――例えば戦前・戦中の国家主義を神道の本質だと思い誤って――神道を批判したり、またその批判に憤慨したりするのは、神道に対する的外れの中傷であり、また、贔屓の引き倒しというべきであろう。」」(『神道思想集』「神道の思想」解説p34~37)

tiku 一読者様の神道についての見解も、この石田氏の見解と同様のものではないかと思います。これは大変重要な指摘で、神道思想の”なぞ”を解明する時の第一の関門ですね。

 そこで問題は、では昭和において神道が身に纏った「思想」はどういうものだったか。なぜそれが「現人神」国体論に変貌し、軍の統帥権独立→天皇機関説排撃→国体明徴運動→政党解散→軍による大政翼賛議会の掌握→軍部独裁的政権の樹立へと進んだか、ということです。その究明に取り組んだのが山本七平の『現人神の創作者たち』(「創作者」から、「育成者」そして「完成者」まで記されるはずでしたが、創作者段階で止まった。)だったのではないかと私は思っています。

 まず、はじめは、江戸時代に入って、朱子学の正統論からそれに対する殉教思想が生まれたこと(浅見絅斎)。それが国学(本居宣長)との習合によって日本の万世一系の天皇による統治の正統性が「中朝事実」(山鹿素行、山崎闇斎)によって理想化されたこと。後期水戸学によってそれが忠孝一致の国体論(藤田東湖)に発展したこと。同時に、国学とキリスト教の習合(平田篤胤)によって日本神話の神々が絶対神化され、その子孫である天皇の「神格化」がなされるとともに、日本神話の世界宗教化が図られたこと。

 維新後は、このような平田篤胤による神道の「国家神道的理解」(これも衣装の一つ)によって神道の国教化が試みられた。神仏分離令(1968年)が出され(これが排仏棄釈運動に発展)神社の整理統合や祭祀の統一化が図られた。その後、政府は仏教と和解し大教院を置いて神仏合同の布教機関とした。布教の基準は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴、朝旨遵守)だったが、神道側の主導に反発した仏教側が「信教の自由」を楯に分離運動を起こしたため失敗。1875年に大教院は廃止された。

 この間、政治思想としては、藩の軛を脱した個人主義が富国強兵に結びつくという、福沢諭吉の「独立自尊」の思想を出発点として、明治20年代に入ると、個々人の民族的自覚の強調(陸羯南、三宅雪嶺)され、30年代は「家」を社会構成の単位として国家の基礎に据え直した「明治民法典」(穂積八束)が成立して、家制国家体制が樹立された。次の40年代は、そのイデオロギーとしての家制国家主義思想(井上哲治郎)が確立した。

 井上はこの家制国家体制を説明するのに、家族制度を個別家族と総合家族に二分し、個別家族の倫理である孝と総合家族である国家への忠が完全に統一されると論じた。こうして、忠孝一致、忠君愛国を国民道徳の中核とすること。家と国、孝と忠との結合を媒介するものとして、祖先崇拝をとり上げ、歴史と神話の結合を復活させ、これによって国家の神秘化(神国思想)、天皇の神聖観(神皇=現人神思想)が復活することになった。

 こうして、明治維新の思想的革命の「やり直し」としての昭和維新につながっていったのですね。そのポイントは、政教分離及び立憲君主制から、「現人神」である天皇による親政=祭政一致の国体政治に戻ることでした。教育勅語もこうした思想(尊皇思想)を背景にもっていたのですね。もちろん、そこに語られた徳目は儒教思想によるものでしたが、これらは「我が国体の精華にして教育の淵源亦実に此に存す」とされました。

>*戦前に神道の国教化を目指す勢力があったことと、国家が神道の国教化をはかることとは、まるで意味が違うということは、言うまでもないことだとは思いますが、一応附言しておきます。

tiku 参考までに日本史大事典「国家神道」より、
1869年 太政官の上位に神祇官を設けて神道の国教化を進める
1871年 伊勢神宮を頂点とし、他の神社を官弊社・国弊社(それぞれ大・中・小社)、府・藩・県社・郷社・村社に列格し、矮陋神祠の破却を命じた。神職は給録が支給され大教宣布に従事することになった。宮中でも仏事の全面廃止と神事の復興・新設がなされた。また宮中祭祀と神社祭祀の一体化が図られた。その後神社行政は教部省に移り、神職は僧職とともに大教院の教導職として活動するも、神道内部の対立や仏教界の離反もあり1877年教部省は廃止され内務相社寺局の管轄となる。
1901年 大日本帝国憲法は条約改正に関わって信教の自由を規定していたので、キリスト教公認と国会開設により国体が汚損されることを恐れた神社人は神社非宗教論を唱えた結果、神社局と宗教局が区別されるようになり、内務相は神社の祭式や神職の任用令を定め神社を統制した。
1907年ころより「神社合祀令」により日本の神社は無格社・村社・郷社・府県社ないし官・国弊社に合併・整理せられ、いずれも皇祖や皇祖神を祭神とすることになった。
1914年「官国弊社以下神社祭式」によって全国一律祭式に統一
1926年 神社法制定
1940年 神祇局設置
 
>また、仮に靖国神社が非宗教法人化して靖国社となったとしても、一定の神道的要素を残すべきではないかと考えた理由は、一つには、日本の伝統的な宗教感情との連続性を維持すること(この意味では、tikurinさんがおっしゃる祖霊信仰を考えることにも意味があるかもしれません。完全に宗教性を否定すると、当該施設が形だけのものとなって荒廃することは、古今東西の例が示しています。

> 要するに、簡単に「分祀」や「廃祀」を認めない方がよいということですが、宗教はもちろん伝統的文化や習俗であっても、現実の政治とは一定の距離を保つことが、近代以降の国家にとって必要とされる智慧ではないでしょうか。

tiku 靖国神社は神社本庁に属しない、戦没者を祀るための国家が管理する慰霊施設というのが本来の性格なのですから、その性質上「政治に巻き込まれないための政治的配慮」が必要であり、従って、靖国神社側がそうした「政治的配慮」をすべきではないか、というのが私の考えです。

>(遊就館について)麻生氏は次のように述べています。
『さらに靖国神社付設の「遊就館」は、その性質にかんがみ、行政府内に管理と運営を移すべきだろう。その後展示方法をどうするかなどの論点は、ここまで二に述べた「原点」に立ち戻りつつ、考えるべきである。』

tiku 私もこの意見に賛成ですね。作るなら記念館として「堂々たる立派なもの」を作っていただきたいですね。

2010年9月15日 (水)

岡田外相の「バターン死の行進」公式謝罪で、日本人が思い出さなければならないこと

 岡田外相は13日昼、第2次世界大戦中に日本軍がフィリピン・ルソン島で米軍などの捕虜約7万人を約100キロ歩かせ、多くの死者を出したとされる「バターン死の行進」(参照)で生き残った元米兵捕虜らと外務省で面会し、「非人道的な扱いを受け、ご苦労され、日本政府代表として、外相として、心からおわび申し上げます」と外相として始めて公式に謝罪しました。(2010年9月13日13時25分  読売新聞)

 へえ、この問題を何で今ごろと?と怪訝に思いましたが、おそらくこれはアメリカのルース大使が広島の原爆忌に参加したことに対する見返りなのかなあ、とも思いました。ルース大使は、8月9日の長崎の平和祈念式典はスケジュール上の都合で欠席しましたが、9月26日の長崎日米協会の40周年記念式典に出席し、長崎原爆資料館を視察し、献花する方向で調整しているとのことです。

 ただし、それはアメリカが原爆投下について日本に謝罪するということではなくて、核兵器のない世界というオバマ米大統領の構想を推進する目標を共有するためのものだということです。ルース大使の8月6日の「原爆忌」での声明も「未来の世代のために、私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、今後も協力していかなければならない」とするに止まっています。

 また、ルース大使の原爆忌への参加について、クローリー米次官補は自身のツイッターで「米政府代表の初出席を「日本との友好関係の表れ」と説明。「米国は第2次世界大戦後の日本の復興を助け、敵国を信頼できる同盟国に変えたことを誇りに思ってきた」と述べ、その上で「広島では、謝罪することは何もないが、戦争の影響を受けたすべての人々に配慮を示す」と強調しています。「時事ドットコム」(2010/08/07-11:03)

 そんな調子ですから、岡田外務大臣の「バターン死の行進」の生き残りである元米兵捕虜を外務省に招いてので公式謝罪が、いかにも唐突に見えたわけです。この謝罪に対して、日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳事務局長は「バターン死の行進については日本軍が米兵捕虜だけに非人道的扱いをしたかは評価がわかれている。米国が原爆投下などについて謝罪していない段階で、一方的に日本だけ謝罪する必要はない」と批判しています。

 私自身も、「バターン死の行進」といわれる事件については、山本七平氏の著作を通して、この事件の概要や問題点を把握していましたので、冒頭に述べたように何らかの政治的取引があったのではないかと思いました。しかし、それにしてもいささかバランスを失しているのではと思われました。また、日本国民には、この謝罪に至る説明が何もなされていませんので、国内的にはかなりの反発を生むのではないか、とも思いました。

 そこで、この機会に、この事件に関する山本七平氏の見解を紹介したいと思います。氏は、この事件を、当時の日本軍の「行軍」の問題と比較するとともに、味方の兵力に数倍する捕虜が現れた時の混乱、そして、日本軍の組織の命令系統を無視した一部参謀による「私物命令」の乱発、などの問題点を指摘しています。いずれも、戦後生まれの私たちには想像だにできない問題ですが、今回の唐突な外相公式謝罪を機会に、この事件の実相を伺うことも、あながち無駄ではないと思うからです。

(日本軍の行軍について)
 「有名な「バターンの死の行進」がある。・・・この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全行程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日二十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻正信・私物命令事件」を別にすれば――・・・だがこの行進だけで、全員の約一割、二千といわれる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。三ヵ月余のジャングル戦の後の、無地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。

 だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れ
ることは、はじめから計算に入っトル」と。

 こういう背景から出てくる本間中将処刑の受取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが”死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」

 当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。自動車だけでなく、国鉄・私鉄等を含めた広い意味の「車輛の社会」、この社会で育った人は、車輛をまるで空気のように意識しない。そして車輛なき状態の人間のことは、もう空想もできないから、平気で「来魔(くるま)」などといえても、重荷を負った徒歩の人間の苦しみはわからない。「いや私は山歩きをしている」という人もいるが、「趣味の釣り人」と「漁民の苦しみ」は無関係の如く両者は関係ない。否むしろ、山歩きが趣味になりうること自体、クルマ時代の感覚である。

 当時アメリカ人はすでにその状態にあった。従って彼らは、バターンの行進を想像外の残虐行為と感じたのであろう。しかし日本側は、もちろん私も含めて、相手がなぜ憤慨しているのかわからない。従って「不当な言いがかり、復讐裁判」という感情が先に立つ。だが同じ復讐裁判と規定しても、戦後の人の規定とは内容が逆で、前者は「これだけの距離を歩くことが残虐のはずはない」であり、後者は「確かにひどいが、われわれはもっとひどかったのだから差別ではなく、故意の虐待でもない」の意味である。

 一番こまるのは、同一の言葉で、その意味内容が逆転している場合である。戦無派と同じ口調で戦争を批判していた者が、不意”経験のないヤツに何がわかるか!”と怒り出すのはほぽこのケース。そこには、クルマ時代到来による、その面のアメリカ化に象徴される戦後三十年の激変と、それに基づく「感覚の差」があるであろう。
(『一下級将校の見て帝国陸軍』p339~343)

(味方の兵力に数倍する予想外の捕虜の出現がもたらす混乱)
 「捕虜の収容で一番困る問題は、それが終戦または停戦で不意に発生し、しかし何名になるか見当がつかないことである。「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。戦場では、善悪いずれの方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。」(『ある異常体験者の偏見』p151)

 「日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、経戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれた。

 米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱や赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、さらに炎天下で行進が行われたために、約60Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。」(wiki「バターン死の行進」「日本軍の捕虜護送計画の実態」)

(次は、奈良兵団連隊長今井武夫による、大量の「捕虜出現」の状況説明と、辻正信の発した「私物命令」への対処について)『支那事変』今井武夫著より

 「わが連隊にもジャッグルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を越えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。とくに、連隊長を指名した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予期し緊張して受話機を取った。附近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、『パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申出たが、、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者ははまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元にいる米日軍の投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ』というものである」と書いている。

 今井は、投降捕虜を一斉に射殺せよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ。だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
(中略)
 事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。ではその放言的「私物命令」の背後にあ、つたものは何であろう。・・・また何がゆえに、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取り消して廻るといった騒ぎまで起るのか。陸軍刑法第三条にははっきり「檀権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。

 第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権干犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。」(『一下級将校の見て帝国陸軍』p387~389)

 現在では、この私物命令の発令者が、大本営派遣参謀辻正中佐であったことが明らかになっています。彼は、「敗戦後、僧侶に変奏して逃亡・・・この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。1948年に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなった。

 戦後、旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋派に所属。石橋内閣時代に外遊をし、エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー、中国の周恩来、インドのジャワハルラール・ネルーと会談している。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で自民党を除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。

 1961年、参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。一ヶ月程度の予定であったにもかかわらず、5月半ばになっても帰国しなかったため、家族の依頼によって外務省は現地公館に対して調査を指令している。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオスの北部のジャール平原へ単身向かったことが判明したが、4月21日を最後に彼の其の後の足取りの詳細については現在でも判明していない。」(以上wiki「辻正信」)

 読者の皆さんは、以上をお読みになって、どのような感想をお持ちになったでしょうか。「日本軍の行軍」のこと、「自軍兵力に数倍する捕虜が出現したときの混乱」(山本七平はこの問題を、南京虐殺事件の一つとされる、「幕府山付近における山田支隊の捕虜収容とその後に発生したパニック状況」との関連で論じていました)、そして、日本軍の指揮系統を無視した「私物命令」で第一線部隊に捕虜殺害を督励して回った高級参謀「辻正信」の存在、それに抵抗した多くの部隊指揮官、そして最後に、戦中よりこうした数知れぬ虐殺行為の噂のあった辻正信を、戦後、国会議員に選び続けた日本人。

 なんかしらん、現代もあまり変わっていないような気もしますね。

2010年9月10日 (金)

靖国問題について――靖国神社は、日本人の伝統的な祖霊信仰に従って政治問題に柔軟に対処すべきだ

 一読者様の靖国問題についてのご意見を参考に私見を申し述べさせていただきます。
一読者様は、麻生元総理の著書『とてつもない国』から、麻生元総理の靖国問題の処理方法を紹介しています。

 「つまり、もともとは国家がなすべき戦死者の慰霊という仕事を、戦後日本は靖国神社という一宗教法人に、いわば丸投げしてしまった。宗教法人とはすなわち民間団体だから、今でいうところの「民営化」をした。それが現在の混乱した状況を招いている。」従って、この問題を抜本的に解決するためには、「靖国神社と全国五十二の護国神社を一体とした非宗教法人化と国家護持」が必要だ。

 これに対する一読者様のご意見は、
 「基本的にはそういう形にならざるを得ないのだろうと思わされます(もちろん検討の余地はあるでしょうが)。ただ、細かな点については、疑問に思える部分もあります。例えば、『宗教法人から特殊法人へという変化に実質をもたせるためには、祭式を非宗教的・伝統的なものにする必要がある』という点ですが、祭式からの神道色の完全な排除は現実的ではないだけでなく、妥当でもないような気がします。

 確かに、「国家管理の神社=国家神道」などと考える短絡的な向きには効果があるでしょうが、そもそも最高裁が採用する政教分離原則に関する審査基準である「目的効果基準」は、1970年代のアメリカで確立された判例理論であり、それをそのまま日本に導入するのは不都合ではないかと、私は以前から考えていました。
 例えば、地鎮祭自体はOKだが玉串料はOUTなどという判断は、判決文を読んでも意味がよく分かりません。

(参考)その目的効果基準とは
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 個人的には、多神教の国である日本の現実に鑑みて、政教分離原則の実質化または日本化を研究してみる必要があるのではないかと思っています。

 いずれにせよ、麻生氏の基本的なスタンスは、『「靖国を可能な限り政治から遠ざけ」て天皇陛下がご親拝できる環境を整える』というもので、伝統的な保守系政治家の正統的な立場と言っていいでしょう。天皇陛下がご親拝しなくなったのはA級戦犯を合祀したからだという俗説がありますが、本質的な理由は『靖国の政治化』にあることは間違いないことですから。」

 以上の意見に私も賛成です。特に「多神教の国である日本の現実に鑑みて、政教分離原則の実質化または日本化を研究してみる必要があるのではないかと思っています。」という見解には賛同します。

 ここで一読者様は、このA級戦犯合祀について、「天皇陛下がご親拝しなくなったのはA級戦犯を合祀したからだという俗説がありますが、本質的な理由は『靖国の政治化』にあることは間違いないことですから。」と言っています。私もその通りだとは思いますが、富田メモの昭和天皇の言葉(1988年頃)に「A級が合祀されその上、松岡や白取(鳥)までもが」とあるように、昭和天皇が「戦争指導者の責任」ということを強く意識していたことも事実ではないかと思います。

 もちろん、この言葉は、1975年の三木首相の靖国参拝の私的参拝、1978年A級戦犯合祀、1985年の中曽根首相の公式参拝という流れの中で、中国が中曽根首相の公式参拝に抗議するようになって後の1988年頃の言葉です。昭和天皇のご親拝はこれ以前1975年までは断続的に行われてきましたが、それ以降、国内における政治問題化を考慮したのかなされていません。それは「内閣の助言」によったとの意見もあります。

 靖国神社へのA級戦犯合祀は、1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会で決定されていますが、宮司であった筑波藤麿は、慎重にA級戦犯を合祀することを見合わせました。しかし、次に宮司となった松平永芳(元海軍少佐・一等陸佐)が1978年に「易々と」(昭和天皇の言葉)合祀したため、翌1979年4月19日に新聞報道され一般に知られるところとなり、国内的に政治問題化することになりました。そのため、昭和天皇はご親拝を控えられるようになり、さらに、これが中曽根首相の公式参拝以降外交問題となって、問題がさらにこじれたことを嘆いておられました。

 以前私は、この靖国問題の解決策として、次の様な私見を申し上げました。(『自民党「保守の思想」、鳩山首相「友愛思想」は、歴史認識問題にどう関わるか』参照

 「問題は、A級戦犯の合祀であって、私は、本当は、これは靖国神社の方でそうした政治的事情を考慮すべきだと思います。というのは、これを総理大臣が指図することは憲法上できないわけですから、そうしない限り、首相や閣僚が靖国神社に参拝して戦死者の慰霊をすることが、政治的理由でできなくなってしまうからです。本来は、日本政府が村山談話を踏襲することを表明している以上、戦死者の慰霊を日本がどのように行うかは、あくまで日本の内政問題であって、他国の干渉すべきことではないと思うのですが、そうならないのは、これらの国のお国柄というほかありません。」

 ここでは、こうした外国からの干渉という問題は一先ず措いて、これを国内問題として考えて見ます。つまり、この問題を国内問題として考えて見た場合何も問題はないかということです。というのは、靖国神社の場合は、宗教的理由で合祀を拒む遺族がいたとしても、第二次大戦で戦死した全ての日本人を祀っています。そして、一度祀られた霊は分祀できないといっています。しかし、靖国神社や護国神社をつくった国家神道という考え方自体が「分祀」を前提にしていたのではないでしょうか。

 というのは、私たち日本人の素朴な死後の世界観は、仏教が教えるような地獄や極楽とかいうものではなくて、次のような神道的「山中他界観」ではないかと思われるからです。

 「神道では、死の直後の死者の霊を”死霊”と呼びます。この死霊は個性を持ち、死穢をもっています。子孫がこの死霊を祀ることによって、死霊はだんだん個性を失い、死穢がとれて浄化されていきます。一定の年月が過ぎて、完全に浄化された死霊は、”祖霊”となります。死霊の段階では山の低いところにいるのですが、これが昇華、浄化されて祖霊となるにしたがって、山も高いところに登っていくわけです。高山の上に昇るにつれて、死霊は少しづつ穢れや悲しみから超越して、清い和やかな神(祖霊)になります。民俗学者の柳田国男は、そのような祖霊の山上昇神説を展開しました。この祖霊がされに昇華されると、祖先神になります。それが氏神です。」(『仏教と神道』ひろ さちやp60)

 つまり、人は死んでもその霊は「墓の中で死んだまま」になっていたり、「十万億の仏土を隔てた西方浄土」に行くのではなくて、近くの山(つまり自然の中)にいて、年とともに穢れや悲しみから脱して、子孫を守る祖先神や地域の共同体を守る氏神になる(それを祀る場所が鎮守の森)という考え方です。例の「千の風にのって」の唄が多くの日本人に受け入れられたのも、こうした神道的な死後観が、日本人に心の中に無意識的に共有されていたからではないでしょうか。お盆の行事も仏教ではなくてこうした祖霊信仰が生んだものだといいます。

 つまり、靖国神社は、このように、もともとは故郷の神社などで祀られるべき霊を、国家の行った戦争による戦死者の霊を祀るために、わざわざ国が建てた神社に分祀することで出来たものなのです。それを今さら”分祀できない”と言うのは、それは神道を国教化しようとした明治の考え方の名残であって、実際にはそれは不可能だったのですから(参照)、私は、靖国神社が戦死者の霊を占有するようなことはできないと思います。従って、宗教上の理由から合祀を拒否する人の要望には応じるべきでしょう。

 もちろん、靖国神社は、明治維新以降の日本が近代国民国家として成長する過程で行った戦争における戦死者の霊を祀るために設置されたものです。つまり、その戦争は国家の責任で行ったものなのですから、その戦争で戦死した人の霊の慰霊は、当然国家の責任で行うべきです。ということは、その慰霊の方法は、どの宗教でも受け入れられるものでなければならないということです。

 この点、靖国神社は、宗教施設ではなく日本民族の習俗施設であるという解釈をしているようですが、そうであればなおさらのこと、特定の「教義」にこだわる必要はなく、柔軟に対処すべきではないかと思います。また、以上述べたように、戦死者の慰霊は基本的には国家の責任で行うべきことですので、政治的配慮を避けることはできない。であれば、A級戦犯の合祀ということは、外交上の問題だけでなく、国内においても戦争責任の問題はいまだ決着していないのですから、慎重に対処すべきではなかったかと思います。

 その配慮が靖国神社にあれば、天皇陛下の御親拝も可能であったし、首相外閣僚の靖国参拝もあれほど政治問題化することはなかったと思います。率直に言って、靖国神社のこの問題に対する対処の仕方を見ていると、いささかイデオロギッシュな感じがしますね。それは国家神道が、宗教と政治を一体化した「祭政一致」という考え方をしたことの名残だと思いますが、近代国家は政教分離が原則ですから、戦死者の慰霊施設である限り、靖国神社に非宗教化が求められるのは当然だと思います。

 その代案としては、アメリカのアーリントン墓地のような施設を作るとか、現在の千鳥ヶ淵墓園を拡充してそれに充てるとか、いろいろな策が検討されています。しかし、私は、日本人の伝統的な宗教混淆的宗教観のベースになっているのは、先ほど紹介したような祖霊信仰だと思いますので、靖国神社における戦死者の慰霊はそれに添った穏やかな形式を採用すべきだと思います。従って、合祀を望まないものを無理に合祀する必要はなく、政治的に問題があればA級戦犯の合祀も見合わせるべきなのです。

 こうした考えに同意せず、独自の祭政一致の国家観に立った歴史観を主張しようとするなら、戦死者の慰霊施設であることは断念し、独立した宗教施設かあるいは政治団体の道を選ぶべきだと思います。そうした硬直した教義性やイデオロギー性を超越した穏やかで柔軟な信仰態度こそが、神道の独自の持ち味なのではないかと、私は思うのですが・・・。

2010年9月 6日 (月)

鳩山前首相「トロイカ+1」の「怪」、小沢氏民主党代表選出馬の「怪」、その帰結は?

 鳩山元首相が菅首相と小沢元幹事長の間をとりもとうとして提唱した「トロイカ+1」とは、どんな政治体制のことだったのでしょうか。

 一般的には、菅首相が「小沢氏にはしばらく静かにしていてもらいたい」といって、小沢閥を人事的に疎外しているので、小沢氏はそれに強い不満を持っている。しかし、これを放置しては党内の融和が保てないので、「友愛」を信条とする鳩山前首相が、菅首相に9月の代表戦で菅氏を支持する条件として、以前のトロイカ体制、つまり、菅氏、鳩山氏、小沢氏の三者に輿石氏を加えた、四者による民主党の集団指導体制を取るよう提案した、という風に理解されています。

 これに対して菅首相は、8月30日、鳩山氏との会談で、小沢一郎前幹事長を加えた「トロイカ+1」体制を重視して政権運営を進めることで一致し、小沢氏と31日に会談をもつこととしました。その際、31日の会談には、鳩山氏と輿石参院議員会長も同席することとしました。

 「しかし、首相は31日午後、国会内で岡田克也外相、前原誠司国土交通相、枝野幸男幹事長ら小沢氏と距離を置く閣僚・党幹部らと会談した際、小沢氏との対決を回避する『話し合い解決』への批判を受け、小沢氏との対決姿勢に再びかじを切った。」(菅首相は31日の鳩山、小沢、輿石会談には出席せず、鳩山氏と電話でやりとりし、下記の人事案を前提とするトロイカ体制を拒否した)

 このことについて、「首相は出馬会見で『できるだけ融和を図ろうという姿勢で臨んできたが、小沢さんは選挙は選挙として戦おうということだった』と、交渉決裂の経緯を説明。挙党態勢の認識については『全党員が参加できる党こそがまさに挙党態勢』と述べた。」とされます。

 一方、小沢氏は「(首相側から)『話し合いを持つことは密室批判を受けかねないので、やりたくない』という趣旨の話があった」と舞台裏を暴露。「話し合いをして、挙党一致の態勢を作るような形はとるべきでないというお考えだったようだ」と述べました。

 これらのマスコミ報道だけでは意味がよく分かりませんが、要するに「小沢側は幹事長の役職、つまりカネの割り振りをする権限をよこせ、といっている。それに菅直人はNOを出したわけです。だから立候補する、となったわけです。」(『内憂外患』「上杉隆×高野孟 小沢一郎はなぜ、代表選に出馬したのか(上)」高野談)ということだったのでしょう。

 ところで、この鳩山氏が菅氏に提案したトロイカ体制とは、一体、どのようなものだったのでしょうか。これは、もともとは次のような、ソ連のスターリン死後にできた集団的国家指導体制を指す言葉でした。

 「1953年にソ連でスターリンが死去すると、ゲオルギー・マレンコフが党第1書記、首相を兼任し権力を掌握した。しかし集団指導体制を目指すマレンコフは党第1書記をニキータ・フルシチョフに譲った。最高会議幹部会議長にはクリメント・ヴォロシーロフが就任しトロイカ体制が成立する。」(WIKI)

 この伝で行くと、首相は菅首相だが、党第一書記にあたる民主党幹事長は小沢氏、それに鳩山氏と輿石氏を加えて「最高会議幹部会」のようなものを作り、その議長に鳩山氏を据える、といったものであったことがわかります。

 しかし、これでは、民主党の実権は、金(政党助成金300億円の配分)や、組織(議員の公認権や党及び政府の人事権)を、全て小沢氏に牛耳られることになってしまいます。また、「最高会議幹部会」においても、小沢派が3対1で会議を支配できますので、菅首相は実質的な権力を失ってしまうことになります。

 従って、菅氏が、鳩山氏との会談で「小沢一郎前幹事長も加えた「トロイカ+1」体制を重視して政権運営を進めることで一致した」というのは、あくまでも「全党員が参加できる党こそがまさに挙党態勢」ということで、決して、上記のような人事を前提とした「トロイカ体制」を認めたものではなかった、と思います。

 もし、一部マスコミがいうように、菅首相は、30日段階ではそうした「トロイカ体制」を一度は認めながら、翌日になって、伸子夫人あるいは前原氏や仙石氏らの反対にあって変身した、というのが本当なら、この人の政治信条とは一体何か、首相に居座りたいだけか、ということになってしまいます。

 それにしても、この間のトロイカ体制の復活から小沢氏の代表立候補に至る経緯を見てみると、小沢氏の、民主党の金と組織を掌握しようとする権力意志がどれほどすさまじいものであるかわかります。一方、鳩山氏があの辞任会見で見せた「潔さ」は、とんだ”食わせ物”であったこともわかります。

 ガルブレイズによると、権力の源泉とは、「個人的資質」、「財力」そして「組織」といいます。つまり、これらの権力の源泉を掌握することによって、始めて、威嚇権力(公認外し、人事差別など)、報償権力(威嚇の反対)、そして条件づけ権力(たとえば”豪腕”という伝説を人びとに条件反射的に信じさせること)を操作でき、権力を行使することができるのです。

 ではなぜ小沢氏は、これほど幹事長職にこだわるのか、それは、一に、権力の源泉である民主党の金(=「財力」)と「組織」を握るためで、それによって、日本国の政治権力を我がものにすることができるからです。まあ、政治家なら権力闘争をするのは当たり前、という人もいるでしょう。だが、小沢氏にとっては、今、そういった権力闘争をすることは極めて危険である事も事実です。

 それは、氏の政治家としての「個人的資質」が、現在、その政治資金の集め方、使い方をめぐって、国民の強い疑念にさらされているからです。従って、本当なら、このようなタイミングでは「首相」に立候補すべきではない。もし、氏が、本当に、自分の潔白の証明に自信があるなら、まずそれに全力をあげるべきなのです。しかし、それはできない。

 なぜか。それは自分が再び権力を掌握しない限り、自分に懸けられた先ほどの疑惑を突破することはできないと考えているからです。従って、今回の代表戦で菅氏に「小沢外し」を撤回させることができなかったら危ない。だから、まず、鳩山氏に「トロイカ+1」体制の復活を菅首相に持ちかけさせ、それに同意しないならば代表戦に出るぞと脅しをかけたのです。

 しかしうまくいかず、やむなく代表戦に出馬することになった。そうなれば、氏は、もともと権力を握るためなら、以前の言動と矛盾することでも平気で言う人ですし、民心への迎合も、政敵との野合も平気です。権力さえ握ればどうにでもなると考えている。それは、氏の『日本改造計画』後の豹変ぶりを見れば一目瞭然です。若い人はそれを知らないだけです。

 最近( 2010/08/25(水)小沢氏は、「日本のあらゆる分野で精神の荒廃、劣化が急速に進む」という講演を行っています。恐るべき厚顔無恥だと思いませんか。また、全特に迎合する一方「行政の無駄を徹底的に省く」とか、政治主導の徹底を叫んで「官僚批判」を盛んにしています。前者は票、後者は、その主たる標的が検察であることはいうまでもありません。

 まあ、菅氏としては、政権を手放すわけにはいかないから、例え代表戦で勝っても、小沢氏を敵に回すようなことはしないでしょう。小沢氏はその菅氏の権力欲につけ込んで組織の実権を握ろうとするでしょう。両者とも権力を握ることが目的だから・・・。その結果、政策的には今後とも漂流が続くことになると思います。この点は、保守も事情は似たりよったりですからね。

 では、もし小沢氏が勝ったらどうなるか。私は、こちらの方が小沢氏にとってははるかに危険だと思います。となると、前者の形が、裏舞台での落としどころとなるのでは?代表戦公示後のお二人の演説を聴いていると、なんとなく、そんな思惑が透けて見えるような気がしました。もしこれが、西岡氏が言うように本物の権力闘争となるなら、一歩前進だと私は思うのですが・・・。

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