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« 靖国問題について3――日本人の「死んだら仏(または神)になる」という考え方はどこから生まれたか。 | トップページ | 小室直樹と山本七平 »

2010年9月29日 (水)

尖閣問題――中国の一党独裁国家としての欠陥が露呈したのでは?

 尖閣周辺海域で中国漁船が日本の巡視船に逮捕された事件について、政府のとった行動が、野党はもちろん政府内からも激しい抗議を受けています。私自身も、那覇地検が船長の釈放にあたって出した声明を聞いたときには、”検察がそういう外交判断をするものなのだろうか”と怪訝に思いました。また、それを政府首脳が当然のように追認するのを見て、これはどういう理屈になっているのだろうと思い、私HP「山本七平学のすすめ」の談話室に「尖閣問題、日本の最終的な外交目標は何?」をUPしました。

 それから、「極東ブログ」の関連コメントを見て、この問題が中国の内政問題にからんでいるらしいことも知りました。また、そのことに関連して、finalventさんは、「中国という国は、国内の権力争いに勝利するためには、外国をその政争に巻き込み政敵と戦争をさせてその漁夫矩を得るようなことも平気でする国だ、ということを実証する典型的な例として、岡田英弘氏の次のような「日中戦争=中国政治内紛説」説を紹介していました。

 「軍事的に追い詰められた中国共産党が、そこで思いついたのが反日運動キャンペーンの展開である。つまり、国民党政府のアキレス腱は日本であると見たわけである。放っておけば、国民党政府は日本との妥協を行うだろう。

 しかし、その前に中国大陸全土で、反日・排日の嵐が吹き荒れればどうなるか――国民党は日本との妥協を諦め、それどこか日本との直接対決の道を選ばざるをえなくなると、毛沢東以下、中国共産党の幹部たちは読んだのである。日本と国民党の戦争が始まれば、得をするのは共産党である――彼らにとって、当然の帰結であった。

 中国共産党は、大陸の各都市で執拗な反日キャンペーンを繰り広げさせた。さらに、それだけでは手ぬるいと判断して、彼らは日中両軍の軍事衝突さえ起こそうとした。それが昭和十二年の盧溝橋事件である。

 中国全土で行われた反日キャンペーン、そして盧溝橋事件によって、国民党政府を率いる蒋介石は窮地に陥った。前にも述べたように、蒋介石の本心は日本との和解にある。だが、ここまで反日運動が激化してしまえば、それを言い出すことは政治的死に繋がる。また、国民党からの反日の声をこのまま無視することも許されない。「弱腰」というレッテルを貼られた指導者についてゆく人間、なかんずく中国人などいないからである。

 蒋介石に残された道は、共産党の望むとおり、いや、共産党の望む以上の強攻策で日本と対決するしかなかった。そうしないかぎり、蒋介石政権の明日はない――これ以降の蒋介石は、以前の彼とは打って変わって、日本との戦争に躊躇しなくなった。日中戦争は、実はこのように始まったのである。」

「日中戦争勃発のそのものの発端は、中国共産党と国民党の内紛であり、そして蒋介石が政治家としての保身を図るために戦争を選んだという物語は、多くの日本人には信じられない話であろう。しかし、中国人にとっては、これが当たり前の話である。つまり、日本人と中国人では人生哲学が決定的に違っている。」

 以上のような岡田英弘氏の見解に対してfinalventさんは次のように言っています。

 「先ほどの日中戦争の話で言えば、もし、あのとき日本人が「中国人とは、こういう民族なのだから」という認識を持っていれば、あの不幸な戦争も起きなかったかもしれない。共産党が何を望んでいるかを知れば、戦争を避ける道は見つかったかもしれない。

 ところが、当時の日本政府首脳には、それが見えなかった。反日運動の激化を見て、日本人は憎まれているだけの存在と信じ込み、共産党の思惑どおりに戦争に突入していったわけである。日本人は気軽に、友好とか平和という言葉を使うが、真の友好、真の平和を願うのであれば、まず相手がどのような国なのか、どのような国民性なのかを知る必要がある。」

 私も、大筋でこの説に賛成します。ただ、ではなぜ、中国共産党が中国民衆に抗日意識を植え付けることに成功したかというと、その最大の原因は、満洲を日本に盗られたということでしょう。それでも蒋介石は共産党の方をより危険視していて、日本とは、「満洲問題を不問にする」することで妥協しようとしたのです。当時の日本首相であった広田もそれに異存はなかった。しかし、関東軍はこれ妨害するため、華北五省の傀儡化を強行した。(なぜか、関東軍は蒋介石を排除しない限り日中紛争の根本的解決はできないと考えていたから)

 そして蒋介石は、こうした日本軍の暴走を日本政府が抑えられないことを悟ったとき、早晩日中戦争は避けられないと覚悟を決めたのです。そこでドイツ軍事顧問団による中国軍の指導及び上海周辺の防御陣地の構築を中心として、日本との戦争準備をはじめました。そして、その体勢が整うまで、できるだけ日本との交渉を長引かせようと考えた。従って、広田との交渉決裂以降の外交交渉は、いわば中国の時間稼ぎで、蒋介石は本気で交渉をまとめる気はなかったと思います。

 では、このように中国が戦争準備を進める中で、日本はどのようなことを考えていたか。実は、日本は中国が戦争準備を始めていることに全く気づかなかった。これにようやく気づいたのは石原莞爾でした。しかし、なにしろ彼は、日本が東洋道徳文明のチャンピオンとして西洋覇権文明のチャンピオンであるアメリカとの最終戦争を、日本の文明論的使命といい、日本軍の満洲占領を理論的に正当化し、実際、謀略でもって柳条湖事変を引き起こして満州を軍事占領した人物です。従って、その思想的影響を受けて大陸政策を進める石原の後輩たちが、その説得に応じるはずもありませんでした。

 そんなところに、西安事件が起きて、蒋介石は「按内攘外」から「一致抗日」に舵を切ることを明言したわけですが、日本軍はこの危険性にもほとんど気づきませんでした。そんななかで昭和12年7月7日、廬溝橋事件が勃発したのです。そのきっかけとなった数発の銃声は、中国の宋哲元軍(第29軍)の兵士による偶発的発砲ということになっていますが、中国軍の方はやる気満々だった。これに対して、日本軍は、中国と戦争するつもりはなかったのですが、廬溝橋事件以降、中国軍の挑発的行為が次第にエスカレートするのを見て、中国人の目を覚まさせるため(つまり先に述べたような日本の文明論的使命を中国人に分からせるため)一撃を加える必要があると考えたのです。

 これに対して蒋介石は、廬溝橋事件が起こらなければ、上海周辺の防御陣地構築をはじめとする戦争準備が整うまで、後2年ほど時間が必要と考えていたようですが、日本軍が三個師団を中国に増派する政府決定(7.20)し、上海では大山事件(8.6)が発生するに及んで開戦を決意。その主戦場を、北支ではなく欧米の疎開地が集中する上海とし、8月13日の日本海軍陸戦隊への攻撃開始、14日には日本海軍艦艇に対する奇襲爆撃、15日蒋介石は陸・海・空三軍総司令に就任し全面戦争となったのです。

 つまり、確かにこの間、日本軍と蒋介石の国民党軍の妥協を阻止し、戦争状態に陥れるための中共の謀略があったことは事実ですが、まあ、戦争に謀略はつきものであって、日本軍もそれを盛んにやっていたわけですから、騙されたと文句を言っても始まらない。実際、日本軍と蒋介石軍が戦えば、共産党の”漁夫の利”になることは双方ともよく判っていた。それなのになぜ日中全面戦争を8年間も戦うことになったか。その原因はなんであったか、それが最大の問題なのです。

 そのヒントが、蒋介石が、日中関係の抜本的改善を呼びかけるために昭和9年12月に発表した「敵か友か?中日関係の検討」という論文に明瞭に示されています。以下、少々長いですがすごいですので・・・。

 「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。

 「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。

 この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」

 「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。

 戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。

 また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」

 このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。(筆者要約)

一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。

 日本側には、次の五つのあやまりがある。

一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。

二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。

三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。

四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。

五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。

 日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。

①国際連盟を脱退したこと。
②アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。
③自ら作り出した危機意識にとらわれていること。

 以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、
第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。
第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。
 第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。

 以上、誠にお見事というほかありませんが、今回の尖閣問題をめぐる中国の対応を見てみると、これらの、蒋介石が示した「過ちの指摘」は、そのまま、現在の中国についても言えるような気がしました。中国は、すでに、かって蒋介石が示したような堂々たる「大人」(たいじん)の気風を失ってしまっているのではないか。そんなことを考えた次第です。(参照「一党独裁国家としての欠陥が露呈したのでは」)

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