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2010年9月10日 (金)

靖国問題について――靖国神社は、日本人の伝統的な祖霊信仰に従って政治問題に柔軟に対処すべきだ

 一読者様の靖国問題についてのご意見を参考に私見を申し述べさせていただきます。
一読者様は、麻生元総理の著書『とてつもない国』から、麻生元総理の靖国問題の処理方法を紹介しています。

 「つまり、もともとは国家がなすべき戦死者の慰霊という仕事を、戦後日本は靖国神社という一宗教法人に、いわば丸投げしてしまった。宗教法人とはすなわち民間団体だから、今でいうところの「民営化」をした。それが現在の混乱した状況を招いている。」従って、この問題を抜本的に解決するためには、「靖国神社と全国五十二の護国神社を一体とした非宗教法人化と国家護持」が必要だ。

 これに対する一読者様のご意見は、
 「基本的にはそういう形にならざるを得ないのだろうと思わされます(もちろん検討の余地はあるでしょうが)。ただ、細かな点については、疑問に思える部分もあります。例えば、『宗教法人から特殊法人へという変化に実質をもたせるためには、祭式を非宗教的・伝統的なものにする必要がある』という点ですが、祭式からの神道色の完全な排除は現実的ではないだけでなく、妥当でもないような気がします。

 確かに、「国家管理の神社=国家神道」などと考える短絡的な向きには効果があるでしょうが、そもそも最高裁が採用する政教分離原則に関する審査基準である「目的効果基準」は、1970年代のアメリカで確立された判例理論であり、それをそのまま日本に導入するのは不都合ではないかと、私は以前から考えていました。
 例えば、地鎮祭自体はOKだが玉串料はOUTなどという判断は、判決文を読んでも意味がよく分かりません。

(参考)その目的効果基準とは
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 個人的には、多神教の国である日本の現実に鑑みて、政教分離原則の実質化または日本化を研究してみる必要があるのではないかと思っています。

 いずれにせよ、麻生氏の基本的なスタンスは、『「靖国を可能な限り政治から遠ざけ」て天皇陛下がご親拝できる環境を整える』というもので、伝統的な保守系政治家の正統的な立場と言っていいでしょう。天皇陛下がご親拝しなくなったのはA級戦犯を合祀したからだという俗説がありますが、本質的な理由は『靖国の政治化』にあることは間違いないことですから。」

 以上の意見に私も賛成です。特に「多神教の国である日本の現実に鑑みて、政教分離原則の実質化または日本化を研究してみる必要があるのではないかと思っています。」という見解には賛同します。

 ここで一読者様は、このA級戦犯合祀について、「天皇陛下がご親拝しなくなったのはA級戦犯を合祀したからだという俗説がありますが、本質的な理由は『靖国の政治化』にあることは間違いないことですから。」と言っています。私もその通りだとは思いますが、富田メモの昭和天皇の言葉(1988年頃)に「A級が合祀されその上、松岡や白取(鳥)までもが」とあるように、昭和天皇が「戦争指導者の責任」ということを強く意識していたことも事実ではないかと思います。

 もちろん、この言葉は、1975年の三木首相の靖国参拝の私的参拝、1978年A級戦犯合祀、1985年の中曽根首相の公式参拝という流れの中で、中国が中曽根首相の公式参拝に抗議するようになって後の1988年頃の言葉です。昭和天皇のご親拝はこれ以前1975年までは断続的に行われてきましたが、それ以降、国内における政治問題化を考慮したのかなされていません。それは「内閣の助言」によったとの意見もあります。

 靖国神社へのA級戦犯合祀は、1970年(昭和45年)に靖国神社の崇敬者総代会で決定されていますが、宮司であった筑波藤麿は、慎重にA級戦犯を合祀することを見合わせました。しかし、次に宮司となった松平永芳(元海軍少佐・一等陸佐)が1978年に「易々と」(昭和天皇の言葉)合祀したため、翌1979年4月19日に新聞報道され一般に知られるところとなり、国内的に政治問題化することになりました。そのため、昭和天皇はご親拝を控えられるようになり、さらに、これが中曽根首相の公式参拝以降外交問題となって、問題がさらにこじれたことを嘆いておられました。

 以前私は、この靖国問題の解決策として、次の様な私見を申し上げました。(『自民党「保守の思想」、鳩山首相「友愛思想」は、歴史認識問題にどう関わるか』参照

 「問題は、A級戦犯の合祀であって、私は、本当は、これは靖国神社の方でそうした政治的事情を考慮すべきだと思います。というのは、これを総理大臣が指図することは憲法上できないわけですから、そうしない限り、首相や閣僚が靖国神社に参拝して戦死者の慰霊をすることが、政治的理由でできなくなってしまうからです。本来は、日本政府が村山談話を踏襲することを表明している以上、戦死者の慰霊を日本がどのように行うかは、あくまで日本の内政問題であって、他国の干渉すべきことではないと思うのですが、そうならないのは、これらの国のお国柄というほかありません。」

 ここでは、こうした外国からの干渉という問題は一先ず措いて、これを国内問題として考えて見ます。つまり、この問題を国内問題として考えて見た場合何も問題はないかということです。というのは、靖国神社の場合は、宗教的理由で合祀を拒む遺族がいたとしても、第二次大戦で戦死した全ての日本人を祀っています。そして、一度祀られた霊は分祀できないといっています。しかし、靖国神社や護国神社をつくった国家神道という考え方自体が「分祀」を前提にしていたのではないでしょうか。

 というのは、私たち日本人の素朴な死後の世界観は、仏教が教えるような地獄や極楽とかいうものではなくて、次のような神道的「山中他界観」ではないかと思われるからです。

 「神道では、死の直後の死者の霊を”死霊”と呼びます。この死霊は個性を持ち、死穢をもっています。子孫がこの死霊を祀ることによって、死霊はだんだん個性を失い、死穢がとれて浄化されていきます。一定の年月が過ぎて、完全に浄化された死霊は、”祖霊”となります。死霊の段階では山の低いところにいるのですが、これが昇華、浄化されて祖霊となるにしたがって、山も高いところに登っていくわけです。高山の上に昇るにつれて、死霊は少しづつ穢れや悲しみから超越して、清い和やかな神(祖霊)になります。民俗学者の柳田国男は、そのような祖霊の山上昇神説を展開しました。この祖霊がされに昇華されると、祖先神になります。それが氏神です。」(『仏教と神道』ひろ さちやp60)

 つまり、人は死んでもその霊は「墓の中で死んだまま」になっていたり、「十万億の仏土を隔てた西方浄土」に行くのではなくて、近くの山(つまり自然の中)にいて、年とともに穢れや悲しみから脱して、子孫を守る祖先神や地域の共同体を守る氏神になる(それを祀る場所が鎮守の森)という考え方です。例の「千の風にのって」の唄が多くの日本人に受け入れられたのも、こうした神道的な死後観が、日本人に心の中に無意識的に共有されていたからではないでしょうか。お盆の行事も仏教ではなくてこうした祖霊信仰が生んだものだといいます。

 つまり、靖国神社は、このように、もともとは故郷の神社などで祀られるべき霊を、国家の行った戦争による戦死者の霊を祀るために、わざわざ国が建てた神社に分祀することで出来たものなのです。それを今さら”分祀できない”と言うのは、それは神道を国教化しようとした明治の考え方の名残であって、実際にはそれは不可能だったのですから(参照)、私は、靖国神社が戦死者の霊を占有するようなことはできないと思います。従って、宗教上の理由から合祀を拒否する人の要望には応じるべきでしょう。

 もちろん、靖国神社は、明治維新以降の日本が近代国民国家として成長する過程で行った戦争における戦死者の霊を祀るために設置されたものです。つまり、その戦争は国家の責任で行ったものなのですから、その戦争で戦死した人の霊の慰霊は、当然国家の責任で行うべきです。ということは、その慰霊の方法は、どの宗教でも受け入れられるものでなければならないということです。

 この点、靖国神社は、宗教施設ではなく日本民族の習俗施設であるという解釈をしているようですが、そうであればなおさらのこと、特定の「教義」にこだわる必要はなく、柔軟に対処すべきではないかと思います。また、以上述べたように、戦死者の慰霊は基本的には国家の責任で行うべきことですので、政治的配慮を避けることはできない。であれば、A級戦犯の合祀ということは、外交上の問題だけでなく、国内においても戦争責任の問題はいまだ決着していないのですから、慎重に対処すべきではなかったかと思います。

 その配慮が靖国神社にあれば、天皇陛下の御親拝も可能であったし、首相外閣僚の靖国参拝もあれほど政治問題化することはなかったと思います。率直に言って、靖国神社のこの問題に対する対処の仕方を見ていると、いささかイデオロギッシュな感じがしますね。それは国家神道が、宗教と政治を一体化した「祭政一致」という考え方をしたことの名残だと思いますが、近代国家は政教分離が原則ですから、戦死者の慰霊施設である限り、靖国神社に非宗教化が求められるのは当然だと思います。

 その代案としては、アメリカのアーリントン墓地のような施設を作るとか、現在の千鳥ヶ淵墓園を拡充してそれに充てるとか、いろいろな策が検討されています。しかし、私は、日本人の伝統的な宗教混淆的宗教観のベースになっているのは、先ほど紹介したような祖霊信仰だと思いますので、靖国神社における戦死者の慰霊はそれに添った穏やかな形式を採用すべきだと思います。従って、合祀を望まないものを無理に合祀する必要はなく、政治的に問題があればA級戦犯の合祀も見合わせるべきなのです。

 こうした考えに同意せず、独自の祭政一致の国家観に立った歴史観を主張しようとするなら、戦死者の慰霊施設であることは断念し、独立した宗教施設かあるいは政治団体の道を選ぶべきだと思います。そうした硬直した教義性やイデオロギー性を超越した穏やかで柔軟な信仰態度こそが、神道の独自の持ち味なのではないかと、私は思うのですが・・・。

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時事問題」カテゴリの記事

コメント

>…靖国神社や護国神社をつくった国家神道という考え方自体が「分祀」を前提にしていたのではないでしょうか。

 「分祀」という言葉は、もともと神道の用語としては存在しておらず、神道辞典に掲載されたのは平成十六年、意味は「分霊(わけみたま、ぶんれい)」と同じとされています。
 そして、この場合の「分祀」とは、「ある場所に祀られている神を、別の場所でも祀ること」を意味し、元の場所で祀られていた神がそのまま新しい場所にも鎮座し、双方に同じ神が鎮座することになるとされています。つまり、A級戦犯の分祀とは、靖国だけでなく他の場所でもこれを祀るという意味になり、一般の理解とは異なる結果になるようです。どうも「分祀」は、政治ないしマスコミ用語として使われたのが最初らしく、そのこと自体が混乱の根本的な原因になっているように思われます(また「分祀」とは、神道上の「廃祀」もしくは「分遷」の意味であって、神道上の例がないわけではないとする説もありますが、ともに極めて特殊な事例のようです)。

 そこで、ここでは、靖国神社(招魂社)の歴史・由来を見てみたいと思います。

 まず、麻生氏の該当する部分を引用します。

『山積みする問題解決のためにまず必要なのは、宗教法人でない靖国神社になることだ。
 ただし、その前に次の二点について触れておかねばならない。
 靖国神社は創立当初、「招魂社」といった。創設の推進者だった長州藩の木戸孝允は、「招魂場」と呼んだという。「長州藩には蛤御門の戦いの直後から藩内に殉難者のための招魂場が次々につくられ、最終的にはその数二十二に達した」(松村剛「靖国神社を宗教機関といえるか」)という。
 靖国神社は、古事記や日本書紀に出てくる伝承の神々を祀る本来の神社ではない。したがって、その設立趣旨、経緯から、靖国は神社本庁に属したことがない。伊勢神宮以下、全国に約八万を数える神社を束ねるのが神社本庁だが、靖国神社はこれに属していないのだ。戦前は陸海軍省が共同で管理する施設だった。また、靖国神社の宮司も、いわゆる神官ではない。
 第二に触れておかねばならないのは、このような設立の経緯、施設の性格、現状の問題点を含め、全国に五十二社ある護国神社は靖国神社と同じ性格を持っているということだ。つまり、靖国神社が変わろうとする場合、護国神社と一体で行なうことが、論理的にも実際的にも適当である。』

 次に、司馬遼太郎氏の文章を引用します。

『西暦一八六八年は、いうまでもなく明治維新のとしである。・・・このとしのことを、ふつう、
「戊辰」
と十干十二支でいう。戊辰戦争とよばれる革命戦争は正月の京都南郊の戦いではじまり、翌明治二年五月の五稜郭開城でおわる。
 革命軍は〝官軍〟と称した。
 ・・・
 軍費の調達が新政府のなやみのたねだった。京都の本願寺や大阪・江戸の富商から寄付させたりしたが、各藩の軍費は原則として自前であった。自前は戦国以来の風で、たれもあやしまなかった。士卒も、自分の軍装を原則として自前でととのえた。いざ出陣というときのために、先祖代々お禄を頂いてきたのだから当然といっていい。
 戦死者についても、それらの家ごとに供養した。かれらは家々の家名のために出征し、戦死したわけだから、伝統的な〝法解釈〟でいうと、その死はあくまでも私的なものだった。
 さらにいうと、封建の武士が世襲する禄は将来の戦死をふくむ戦場の働きを見越して主君が与えるいわば前渡金であって、家臣として武功をたてるか、討死することで貸借対照表がゼロになる。
 しかし戊辰戦争の場合はすこし事情がちがう。この戦いでの戦死は藩主のためというよりも、あたらしく成立しようとしている新国家のためだったといえる。ただ、武士たちはその新国家から恩禄をもらったことがなかった。戦死の場合、いわば封建的貸借のない死で、無償の死ともいえるし、恩借なき死ともいえる。人によってはむだ死と考えるかもしれない。
 幕藩時代、幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば、法的に〝私〟であった。大名領は〝私領〟とよばれたりした。この〝法理論〟でいえば、越後や東北の山野で屍を曝した官軍諸藩の死者たちは、私的な存在になる。極端にいえば、藩同士の私戦による私死という解釈も成り立ちかねない。
 戊辰戦争の結果、それまでの流動的な存在だった新政府が、なんとか内外に公認される政府になった。
 内実はまだ封建体制のままながらも、戊辰戦争の勝利によって〝新国家〟ができたと考えてよく、その新国家としては、日本における新しい〝公〟として、戦死者たちの〝私死〟を〝公死〟にする必要があった。でなければ、あたらしい日本国は、〝公〟とも国家ともいえない存在になる。
 戊辰戦争がおわった明治二年、九段の上に招魂社ができたのは、そういう事情による。祭祀されるものは、時勢に先んじて、いわば〝国民〟のあつかいをうけた。さらにいえば、九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる。

 発議者は、長州の大村益次郎であった。ついでながら、かれはこの発案をふくむ国民国家(藩の否定)思想に反対する激徒のために、この年のうちに暗殺される。
 ・・・
 大村は、農民の出でもあって、諸藩の士がもつ藩意識には鈍感で、むしろ新国家の敵と心得ていた。
 武士をさえ、尊敬しなかった。
 たまたま幕末、長州藩に騎兵隊など諸隊とよばれる庶民軍が特設された。この部隊が、幕末の藩内のクーデタさわぎのときも正規武士団を圧倒したし、幕長戦争のときも、幕軍をいたるところで敗走させた。
 かれが、諸藩を真向から否定して、四民による志願制の国軍を建設しようという〝危険思想〟を抱いたのは、自然なことだった。
 そのあらわれが、九段坂上の招魂社だったといえる。
 設けるについては、木戸と相談し、場所を九段坂上にきめた。・・・まず仮殿をつくり、勧進相撲や花火大会を催したりした。死者たちをよろこばせるつもりだった。大村も木戸も人ごみの中にまじって見物した。
 右の創設は、明治二年六月のことである(三ヶ月後に、大村は遭難する)。
 死者を慰めるのに、神仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったのは、前代未聞といっていい。大村は公の祭祀はそうあるべきだとおもっていたにちがいない(この招魂社が、十年後の明治十二年別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀されることになる)。
 もう一つ大切なことは、招魂社を諸藩から超越させたことである。当時、まだ二百数十藩が厳然と存在したこの時代に、諸藩の死者を一祀堂にあつめ、国家が祈念する形をとったのは、前例がない。大村にすれば、統一国家はここからはじまるということを、暗喩させたつもりだったのにちがいない。
 ・・・
 歴史は巨細に見なければならない。その後、ただの思想になる国民国家思想でさえ、明治二年の段階では、政治家一人が死ぬほどの危険な思想だったのである。
 戦後の新憲法で、九段の招魂社の後身である靖国神社は、一宗教の〝私祀〟のようなあつかいをうけている。大村の素志、憐れむべしといわねばならない。(この国のかたち 四 80 招魂 P65〜71)』

 少し補足します。
 大村益次郎は、大阪の適塾出身の町医者で福沢諭吉の先輩にあたる人物です。適塾では医学を学ぶ前提となる語学の学習のために、オランダ語の政治・軍事の本を使用しており、ここで学んだことが、後に大村が木戸に見出されるきっかけになります。大村は、国民国家(国民皆兵)思想だけでなく、西欧には戦死者を追悼する国家的施設があることも当然知っていたでしょう。
 この意味では、靖国神社の前身である招魂社は、日本の近代化とともに始まったということができます。

 他方で、「死者に官軍も賊軍もあるものか」と言ってすべての戦死者を弔った清水次郎長の例もあるように、庶民が敵味方の区別なく戦死者を弔ったり、あるいは祀った例が少なくなかったことは、最近よく知られるようになってきました(とくに神道式に祀られた場合は、祖霊信仰というよりは、行き倒れや戦死者を神として祀ることで、祟り神ではなく土地神とする古神道に由来するものでしょう)。そのうちの一部が、後に靖国神社に統合されることになったことは、tikurinさんのおっしゃる通りです。

 この点から考えれば、招魂社が靖国神社になり、神道によって祭祀されることになったことは、明治維新の革命的熱気がいくぶんか和らいだことで、伝統的な神道儀礼の型枠に嵌め込まれる(日本人の伝統的な宗教感情と融合する)ことになったと言うことができるかもしれません。
(これに対しては、神仏分離令による廃仏毀釈等に見られるように、平田派の復古神道や水戸派の後期国学の影響を強調し、「国家神道」確立への動きとする見方の方が現在は主流かもしれません。ただ、私のように主として戦前を政治や法制度から見た場合、「国家神道」の内実は「国家管理の神社形式の施設があった=国家神道」と言っているだけ* にしか見えません。個人的には、「国家神道」という概念自体が戦後の左翼を中心に作られたドグマだと考えていますが、ナショナリズムや教育勅語、天皇主権の旧憲法も国家神道に含める考えなどを読むと、訳が分からなくなります。ある意味で、一種の「陰謀論」に近い考え方だろうと思っています)
*戦前に神道の国教化を目指す勢力があったことと、国家が神道の国教化をはかることとは、まるで意味が違うということは、言うまでもないことだとは思いますが、一応附言しておきます。

 私が、政教分離原則の実質化または日本化を研究する必要があると思ったのも、こうした歴史学その他の混乱が判決にも影響していると感じたからですが、その場合は、憲法学者だけではなく、歴史学・宗教学・民俗学などの学者の協力も得て、日本なりの決着点を見つけることが大切でしょう。

 また、仮に靖国神社が非宗教法人化して靖国社となったとしても、一定の神道的要素を残すべきではないかと考えた理由は、一つには、日本の伝統的な宗教感情との連続性を維持すること(この意味では、tikurinさんがおっしゃる祖霊信仰を考えることにも意味があるかもしれません。完全に宗教性を否定すると、当該施設が形だけのものとなって荒廃することは、古今東西の例が示しています。なお、アーリントン国立墓地について「宗教性はなしとなっているが、それは墓地内に教会があって墓石に十字が切ってあって、見れば一目瞭然という意味である」とされていることも参考になるでしょう)と、もう一つは、その時々の政治的な容喙を簡単に認めないようにするには、効果的ではないかと考えるからです。

 要するに、簡単に「分祀」や「廃祀」を認めない方がよいということですが、宗教はもちろん伝統的文化や習俗であっても、現実の政治とは一定の距離を保つことが、近代以降の国家にとって必要とされる智慧ではないでしょうか。

 最後に、「遊就館」についてですが、その展示物について、大東亜戦争聖戦史観などとレッテルを貼って非難する人もいるようですが、個人的にはあまり問題だとは思っていません。
 「草の根レベルでは、アジア『解放』のスローガンを正面から信じ、—それはあるいは、自己の存在理由としてどうしてもそう信じ込まずにはいられなかったのかもしれないが、—それなりの理想をもって心底挺身した人が少なくなかった」(倉沢愛子「日本占領下のジャワ農村の変容」)とあるように、遊就館に展示されているものも、歴史の一断面であり、事実であることに変わりはないからです。

 ただ、麻生氏は次のように述べています。
『さらに靖国神社付設の「遊就館」は、その性質にかんがみ、行政府内に管理と運営を移すべきだろう。その後展示方法をどうするかなどの論点は、ここまで二に述べた「原点」に立ち戻りつつ、考えるべきである。』

 tikurinさん、私の拙い意見を取り上げて下さってありがとうございました。

 以下では、いくつかの点への反論と、若干の補足説明をさせて頂こうと思います。

>富田メモの昭和天皇の言葉(1988年頃)に「A級が合祀されその上、松岡や白取(鳥)までもが」とあるように、昭和天皇が「戦争指導者の責任」ということを強く意識していたことも事実ではないかと思います。

 私は「富田メモ」報道は、誤報もしくは捏造に近いものだと考えています。当時はネットでも話題になり様々な角度から検証され、一部の週刊誌でも取り上げられましたが、結論を先に言ってしまえば、徳川義寛元侍従長の記者会見ないし記者懇談会の備忘録的なメモの端切を、昭和天皇の発言であるかのように偽装した(勘違いした)とする説が、最も説得力があると思っています。

 一例として、下記のまとめサイトをご覧下さい。

・捏造された天皇発言(前編)*
http://sky.ap.teacup.com/deep/186.html
*全6回のシリーズで、この後に下記のエントリーが続きます。
 捏造メモ(中編)—紙質の奇跡、筆跡鑑定で捏造を暴く—富田メモ(後編)、偽造説を追う(1)—頓挫した出版計画、偽造説を追う(2)—メモの構造、偽造説を追う—最終回
(ただし、私は完全な偽造とまでは言えないと思っています。)

 もともと「富田メモ」は、それぞれ一冊のメモ帳に相当数のメモの端切が挟まったものをゴム輪で束ねてあったものだったようですが、それを見た記者か誰か(日経側は遺族が貼付けたと主張している)が、昭和天皇の発言であるかのように利用したというのが真相に近いように思われます。
 いずれにせよ、一部の歴史学者や多くの一般人の要求にも拘わらず、遺族感情を盾に、未だに原本が公開されておらず科学的な調査が行なわれていないこと(この数年前に、ドイツでヒットラーのメモの新発見と騒がれましたが、接着剤の科学的鑑定の結果、明らかに戦後に偽造されたものであることが判明した事件との対比からも重要です)や、出版計画も頓挫したままであることからも、ある程度は想像できるかもしれません。

 もっとも、マスメディアがこうした誤報・捏造報道をすることは決して珍しいことではありません。
 ただ、この「富田メモ」事件で見苦しかったのは、日経が「富田メモ研究委員会」なるお手盛りの組織を自ら作って検証させたことと、新聞業界が新聞協会賞を与えて一致してこれを擁護した点でしょう。
 この委員会に参加した秦郁彦氏は、後に「富田メモの原本を見たのは最初だけで、それ以外は日経側が用意した資料をもとに検証した」などと言い訳をしていましたが、この人の一次資料の読み込みの甘さは、「南京事件」の執筆以来、あまり変わってはいないようです。

 また、昭和天皇がなぜ靖国へのご親拝を中断したのかについては、以下のサイトに麻生氏(当時外相)の発言が紹介されていました(ただ、これに対応する記事は見つかりませんでした)。
・いわゆる「富田メモ」について
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_d393.html
『…麻生氏は記者会見で、昭和天皇の発言メモが明らかになったことについて質問されると「天皇陛下のお話を政治に巻き込みたいという意図が感じられることについてお答えすることはない」と斬り帰した。
 また、麻生氏はこれまで、天皇の参拝が中断した理由について、1975年に当時の三木首相が「私人としての参拝」を強調したことを理由として挙げてきたが、この日の会見でも「基本的に今もそう思っている」と断じた。』

 おそらくこの見方の方が正しいでしょう。
 首相が「私的参拝」を強調してしまうと、事実上私的立場が存在しない天皇陛下は、ご親拝が実質的には不可能になってしまいます。これが終戦記念日の三木首相の「私的参拝」の三ヶ月後、以前から予定されていた秋の例大祭時を最後に、昭和天皇が靖国へのご親拝を中断された大きな理由の一つであることは間違いないだろうと考えています(ただ、この問題に絡めて、昭和天皇の内心をあれこれ詮索することが不適当であることには変わりがありません。いずれにせよ、A級戦犯合祀問題が政治問題化することを気にしておられたことは確かだとは思いますが)。

 少し問題を整理します。
 まず、昭和天皇の個人的感情とA級戦犯合祀の是否は、直接関係がないということです(一つは、昭和天皇の内心を詮索することは不適当ということと、仮にそれが分かったとしても、それにA級戦犯合祀の是否の判断を絡めるのは不当、という二重の側面があります)。
 次に、A級戦犯合祀の是否とA級戦犯合祀を政治問題化させることの是否は、局面が異なるということです。私の立場からは、A級戦犯合祀の経緯・手続にとくに問題があるとは思えません。この場合に、一部の遺族の感情や一定の歴史観に基づいてその是否を問う意見も見かけますが、こうした問題は100%一致することがあり得ない以上、思想統制国家でもない限り、分けて考えるのが適切です。ただし、A級戦犯合祀を政治問題化させることは、避けなければならない問題です。この場合、メディアの問題もありますが、一義的には政治家の態度が厳しく問われることになると思います(なお、筑波藤麿宮司がA級戦犯合祀を見合わせた理由が、A級戦犯合祀の政治問題化への配慮にあるとするなら、是否はともかく一定の評価はできます。しかし、それ以外の価値判断に基づくものであった場合には、むしろ問題が生じるでしょう)。


 その後、中曽根元首相は戦後政治の総決算と称して終戦記念日に靖国への「公式参拝」を行い(この行為自体は靖国の政治利用ですが、その功罪は半々でしょう)、それが外交上の騒動になると、翌年から止めてしまうという大失態を演じています。
 その理由を回顧録では、「盟友関係にある胡耀邦氏の政治的立場を慮ったため」などと書いていますが、素人の趣味によるチャイナ・ウォッチャーでしかない私から見ても、その認識の甘さには首を傾げたくなります。

 そもそもいかに開明的な人物であろうとも、中国共産党の主席である人物とレーガン大統領と同様の個人的関係を構築できると思っていたこと、しかも中国共産党は「暴虐なる」日本軍を中国大陸から追い払ったことを最大の(現在では唯一の)正統性の根拠としている以上、仮に日本のマスメディアのご注進報道がなかったとしても、この原則に抵触する日本の行為に中国が抗議するのは当然であること、そして、靖国参拝を中断することは、むしろ胡耀邦を批判していた保守派の主張に正当性を与えてしまうだけでなく、中国が抗議すれば日本側が簡単に折れるという先例を残すという意味でも、外交的な愚策と言うしかないからです。

 では、どうすればよかったのか。
 中国側の批判は当然としても、毅然として受け流すかあるいは無視して参拝を継続し、また、八月十五日の靖国参拝は一時的な政治利用であることを自覚して、翌年からは、以前のように春秋の例大祭時に参拝するという慣例に戻すことが正しいあり方ではなかったかと思います。

 この点で、少し趣旨は異なりますが、中国の再三の要請にも拘わらず、日本がこれを毅然として受け流し一歩も譲らない、靖国問題と対比すると面白い論点があります。それは、いわゆる「一つの中国」と台湾の帰属に関する問題です。

 「日中共同声明」の二項では『日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する』とし、いわゆる「一つの中国」を日本が承認するという形になっています。
 ところが、三項は『中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する』としています。つまり、中国側が一方的に「台湾はうちの領土だ」と宣言したのに対して、日本側はその立場を十分理解し尊重するが、「ポツダム宣言第八項」は日本の台湾領有権の放棄に関するもので台湾がどこに帰属するかについては触れていないため、必ずしも承認はしないと読むこともできる形になっています(実はこの日本の態度は台湾の国民党政権にとっても不都合で、国民党の台湾支配の正統性をも失わせる可能性もあるため、しばしば台湾からの批判の対象にもなります)。

 しかし、この条項は、想像以上に日本の台湾問題をめぐる対中問題処理に関して、柔軟なスタンスを取り得る余地を残しており、たとえば、今後さらに台湾の民主化が進展し、憲法を改正して「中華民国」の国名を「台湾国」に改めた場合、日本は「台湾国」を承認するだけでなく、アメリカを介した軍事同盟を結んだとしても、理論上は「日中共同声明」に反しないと言い得る余地が残ります(もっとも中国はいまだ台湾の武力解放を放棄していない以上、現実的には困難でしょうが。なお、アメリカも日中共同声明における日本の態度を参考に、同趣旨の声明を出していたと思います)。

 そのため、中国は過去30年間、ことあるごとにあの手この手を使って、日本(およびアメリカ)に中国の主張を承認させようと働きかけてきましたが、日本は一貫して「日中共同声明」の立場を堅持すると言うのみで、中国の要請を受け流してきたのです。少なくともこれまではそうでした。

 では、なぜ純粋な国内問題に過ぎない靖国問題に関して、同様の(あるいはより強硬な)態度をとることできなかったのか。

 マスメディア等の国内的な事情もあるでしょうが、結局のところ、戦前と同様に現実の中国を見極めようとせず、日本側が描いた中国像に勝手に感情移入をして右往左往し、あるいは物事の本質を把握せずに一時的にマスメディアに迎合して一貫した態度をとることができないポピュリスト政治家達(および一部の国民)が、靖国問題を悪化させてきたと言ってよいのではないでしょうか。


 なお、前述の「富田メモ」ですが、仮に徳川元侍従長の発言であったとしても、歴史的な資料価値はあると思うので、ぜひ公開して科学的調査を経た後で、出版されることに期待しています。
 あれを徳川元侍従長の発言とした場合、尾張徳川家の末裔である徳川侍従長の、幕末の四賢公と言われた松平春嶽公の末裔である松平永芳宮司に対する物言いは、歴史好きには面白いシチュエーションですし、松平宮司と旧皇族の筑波藤麿宮司の態度を比較してみるのも興味深いかもしれません。

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