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2010年10月

2010年10月27日 (水)

幣原外交の再評価をめぐって4――満州事変は幣原「軟弱外交」の帰結か?

健介さんへ(以下、満州問題に関する私見をまとめておきます)

R・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』に次のような記述があります。

 「もし革命の早い時期に、一次的にしろ、永久的にしろ、満洲朝廷が古の満洲の郷土に隠遁する決意を固めていれば、支那の革命主義者によって追い出されたかどうか、又満洲が中華民国の一部を構成する名目上だけの領土と化していたかどうか、非常に疑わしい。今までも、これよりひどい事態に陥ったことは一度もない。

 もし満洲人が満洲に退き、しかもシナでの満洲人の権力が最終的に完全に崩壊したと判明すれば、十七世紀前半に君臨した王朝と同じように、シナから完全に独立した満洲君主制の再興を目にすることも決してありえなかったわけではない。

 そうなれば数多くの有能な皇帝支持者が、そのような君主制の下で官職に就くだろう。また共和国の状況に不満を抱く、あらゆる階級のシナの人びとも数多くその後に続くだろう。そのような君主制が樹立されれば、やがて熱河や残る内蒙古の地方も合流していたかもしれないのである。

 シナでの革命が危険なものに思われはじめた時、満洲朝廷は満洲へ隠棲する可能性を見過ごしていたわけではない。それどころか、この問題は真剣に議論されたのであり、シナと満洲の多数の帝国主義者は、これこそ追求すべき最も賢明な方策だと主張したのである。

 ところが最終的に摂政と多くの親王が北京に残留することを決断したのは、袁世凱が優待条件の中で彼等のために確保した条項を、彼らが、愚かにも、そしておめでたくも、すばらしいと信じたからである。」(上巻p191)

「帝室が満洲に逃避して、革命主義者と妥協しなかったとしても、地方の軍閥(中でも張作霖はすでに傑出していた)や地方政府が帝室に敵意を抱いたり、反対するとは到底考えられない。それどころか、大清朝のもとに「満蒙」帝国がシナから完全に独立することを宣言しそれを成功裏に維持することも決してありえないことではない。・・・満州国は、他の公国の有無にかかわらず、1932年ではなく、(その地位を疑問視する国際連盟誕生していない)1912年に生まれていたであろう。

 もしシナが、分離国家としての満蒙帝国の安定を脅かすような態度をとれば、満洲帝国はますますもって日本と密接な提携関係にいった公算はすこぶる高い。そうなれば、それからちょうど二十年後にシナや世界が直面した状況(日満議定書の調印のこと)と酷似した状態になっていたことだろう。」(下巻p62)

 いずれにしても、満州国が満洲人の意志として誕生する歴史的条件は相当にあったと言うことです。ただ、「最終的に摂政と多くの親王が北京に残留することを決断したのは、袁世凱が優待条件の中で彼等のために確保した条項を、彼らが、愚かにも、そしておめでたくも、すばらしいと信じたから」だった、ということなのでしょうが・・・。

 その後の満州国成立の機会としては、張作霖がシナの皇帝となることを諦めて奉天に帰還することになった昭和3年が考えられます。しかし、この時は、田中首相の意図に反して、関東軍が張作霖爆殺という「わけの分からない事件」を引き起こしたために、全てが狂ってしまいました。

 これが、結局、昭和6年の満洲事変へと発展していったのですが、この首謀者であった石原莞爾と、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)との、「満蒙独立論」についての興味深い対談がありますので次ぎに紹介します。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)

 石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」

 小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」

 石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」

 小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」

 石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」

 小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」(『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』松本健一p160)

 この段階では、満洲帝国の再興というアイデアは、すでに現実的なものではなくなっていたのですね。この時、小沢開作ら満州青年同盟が唱えた「満蒙独立論」の思想は、決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなく、それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」(上掲書p150)とするものでした。しかし、こうした小沢らの慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります。

 というのは、石原ら関東軍参謀が満州事変を起こしたそもそもの動機は、もちろん「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動」を援助するためではなく、(表向きには)あくまで満蒙権益擁護のためだったからです。ここで(表向きには)といったのは、実はこれさえ建前に過ぎなくて、その本音は、次のようなものでした。  

 「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。

 満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。

 之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」

 この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。

 「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。

 「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ

1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。

2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。

3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。(以上『満州問題私見』石原莞爾s6.5)

 つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。

 ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いないのです。

 一方、この満州事変を、かって日本の支援を得て北京政府の実権を掌握したことのある段祺瑞はこれをどう見ていたか、これをを示す興味深い対談がありますので最後に紹介しておきます。対談の相手は溥儀を天津より連れ出した土肥原賢二、時期は満州事変が発生した直後です。

 段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁(張作霖)が反対したので、遂に爆死させたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。

 君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。
(土肥原無言、談話は続く)

 段 君達は、中国が長く分裂することを望んでいるかも知れないが、中国は統一している。君達は、現実を正しく見つめようとしない。問題に遭遇しても、南京政府(蒋介石)と交渉しようとせず、ただ地方(東北)で攪乱し、大したこともない人物を推し立てて既成事実とし、益々問題をこじらせ、その解決を困難にしている。

 土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。

 段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。
(中略)
 段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。

 土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅大市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。

 段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。
 昔の人の言葉に「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」ということかありますが、これは確かに道理に叶っている言葉です。

 中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。

 もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。」         

 以上、満州国が成立する歴史的条件について、満洲人あるいは中国人の立場から見てきました。日本人はこの問題に、日清戦争、日露戦争をこの満州の地で戦ったことからコミットすることになったわけですが、その際、何が一番問題だったか。以上の会話における次の段祺瑞の言葉は、その問題点を見事に喝破しているように私には思われます。

  「皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである」

 つまり、最大の問題は、日本人が勝手に抱いて中国人に押しつけようとした「幻想」にあるというのです。これが、「中日両国の将来を誤まらせ」「第三国に漁夫の利を得さ」せるであろう、その根本原因だというのです。

 この場合の日本人の「幻想」とは、石原の「東西文明論」に象徴されるものであり、今日ではそれはいかにも荒唐無稽な幻想のように思われますが、こうした考え方が当時の日本人の考え方を支配していたことは紛れもない事実なのです。幣原喜重郎はこの日本人の「幻想」に支配された外交の危険性を誰よりも熟知していたわけですが、「軟弱外交」という批判を受け退陣を余儀なくされたわけです。その結果「中日両国の将来を誤まらせ」「第三国に漁夫の利を得さ」せるる事になったわけですが、そのことを預言するかのような文章を最後に紹介しておきたいと思います。

  「欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?

 一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。」(『従軍五十日』岸田国士 昭和14年p108)

2010年10月21日 (木)

幣原外交の再評価をめぐって3――一読者さんとの対話

一読者さん、コメント有り難うございます。

 戦後幅を利かしてきた「左翼的歴史観」、例えば、戦前の日本史「真っ暗史観」や、いわゆる「自虐史観」は、ソ連の崩壊や中共の「文革」の失敗などで、その幻想性が明らかとなりました。国内でも司馬遼太郎の歴史小説などが多く読まれ、また、南京事件等の検証が進められる中で、随分と修正されてきたように思います。最近の雰囲気としては、むしろ、「自尊史観」を支持する人の方が多くなっているのではないでしょうか。

 問題は、こうした「左翼的歴史観」から免れている人たちに間で、昭和史の「修正主義史観」をめぐって意見が対立していることで、田母神氏の論文をどう評価するかが、そのメルクマールになっている観があります。田母神論文についての私見は、私HP「山本七平学のすすめ」の「田母神論文から有事教育のあり方を考える」(参照)でも述べましたが、正直いって、自衛隊の空軍最高司令官の情報処理能力がこの程度とは”がっかり”です。

 渡部昇一氏が、その論文の選考にあたったとのことですが、氏の書かれた近現代史ものでは、私が先に紹介した『日本史から見た日本人 昭和編』がバランスよく書かれていて説得力があると思っています。その視点からすれば、田母神氏のそれは、昭和軍閥の大陸政策を、アジアの植民地解放のためと弁護し、日中戦争や日米戦争は全てコミンテルンの謀略とする、いわゆる”謀略史観”の域を出ないもので落選のはずです。

 もちろん、歴史的事件についての解釈に、新資料の発見によって修正が加えられることは大変いいことで、おっしゃる通り、今後、旧ソ連や中国からの一次資料の公開が期待されます。とはいえ、最近の中露共同声明に「中露は(日本による)第二次大戦の歴史歪曲(わいきょく)を断固非難する」とあるように、自国に不利な資料を両国が出すかどうか、極めて疑わしく、まあ、当面は国内での議論に精密を期すべきではないでしょうか。

 そこで、ご紹介の新説についての私見を申し上げたいと思います。

>◇「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成22年(2010)7月8日(木曜日)弐
・張作霖爆殺事件の犯人はソ連だった
・廬溝橋事件も、中国共産党が日本と蒋介石軍双方に発砲したことが明らかに

(以下、宮崎雅弘氏の記事とそれに対する私の反論です――『昭和史の謎を追う(上)』『現代史の争点』秦郁彦、『張作霖爆殺』大江志乃夫外参照)

宮 「従来の定説・河本大佐犯行説の裏付けとされているものは、殆ど全部が伝聞資料」とした中西輝政の主張を引く筆者は、「それも、相当の年月が過ぎた後、誰それから聞いた、関東軍の参謀から聞いたなど、歴史学で言えば資料価値がゼロのものばかりだ」と言う。

tiku 以下、張作霖爆殺事件の調査経過を記します。

 この事件の第一報は、事件直後奉天に急行し事件現場を視察した予備役中将貴志弥次郎より、爆薬の量と質(後250Kピクリン酸(黄色火薬)と判明)が便衣の少数工作員が携帯する程度のものでないこと、爆破スイッチの電線を敷設した痕跡(電線が日本軍の監視所に引き込まれていた)を確認して、日本軍人が関係していたに相違ないと、田中首相に報告した。

 第二報は、河本謀略の第二段階の爆弾騒ぎによる攪乱の実行組として謀略事件に関与した大陸浪人から、その知人を介して小川平吉鉄道大臣につうじ、6月10日に小川から田中首相と白川陸相に事件の要点が報告された。
(以上は間接情報)

8月5日 張作霖葬儀(張学良は混乱防止のためその死を秘匿した)

9月7日 田中首相は「本件は国際的重大事件である。若し日本人の所為ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。就ては本件を取り調べよ」といい、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長らに共同調査を命ずるとともに、白川法相をして峯幸憲兵司令官を奉天に派遣し、取り調べを行わせた。

 峰幸は「朝鮮・竜山での聞き込みで目星をつけた点火者の龍山工兵隊の桐原工兵中尉を尋問、証拠を固めたのち関東軍に乗り込み河本大佐・東宮大尉から全貌を聞き出した。」

10月23日 西園寺は、田中に対して断固処罰、綱紀維持、それが国際的信用を維持する所以と説いた。

11月24日 田中は参内し天皇に事件について内奏した。その内容は、『昭和天皇独白録』(1991)では、「田中総理は最初私に対し・・・河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである」と言った、となっている。

11月28日 陸軍首脳が事件の公表と処分に反対する決議を行う。

12月8日 田中は小川鉄相より、真相上奏はかまわないが、処置については必ず閣議にかけるよう力説されこれに応諾した。

(この間、後の軍部クーデターの主役となる二葉会(一夕会)など陸軍中堅将校の横断的圧力団体が「河本を守れ」と圧力をかける。独白録には「聞くところに依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取りやめになった」とある。閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説き回り「閣僚全員反対」(『小川秘録』)へ持ち込んだ。)

昭和4年3月末 陸軍が真相不公表、河本らは行政処分という結論を出す。

5月20日 田中は軍法会議での処分を諦め「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸軍報告を呑んだ。

6月27日 田中は午後参内し天皇に拝謁、準備してきた(上記内容の)上奏文を読み上げた。これに対する天皇の反応は、
「此日陛下は初めより龍顔常に変わらせられ給いしが、首相の朗読終わるや励声に、先の上奏と矛盾する、深く考慮すると仰せられ、首相より此議に付てはご説明も申しあぐれば分明すべしと言上せるに、陛下は説明を聞く必要なしと仰せられ、且つ首相の朗読せる書面の留置を命ぜられ・・・」(退出した首相が語るのを聞いた小川鉄相の秘録による)という具合だった。

7月1日 村岡関東軍司令官――依願予備役編入、河本大佐――停職、斉藤前関東軍参謀長・水谷独立守備隊司令官――譴責、という処分発表

7月2日 田中内閣総辞職

9月29日 田中義一狭心症で死去

 以上の経過の中で、憲兵が行った調査によって得られた資料が全部伝聞資料で、「歴史学で言えば資料価値がゼロのものばかり」などとは、私はとてもいえないと思います。そんな薄弱な資料しか集まらなかったとすれば、なぜ陸軍はこれをもみ消そうとしたのか。

 次に、この事件が河本らの犯行であることを証明する証拠で、今までに明らかになっているものを示します。

1.『文藝春秋』昭和29年12月号に掲載された「河本大作の手記」については、河本大佐自身の筆によるものではなく、義弟平野零児氏による聞き取りであり、平野は思想的に左翼で、戦後山西収容所に入れられた「中帰組」の一人で信用ならないと宮崎氏は言います。

 しかし、この原稿は、敗戦前に、平野が、昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に「河本大作の伝記」の依頼を受けて、「主として張作霖爆死事件を秘録として書いた」ものです。

 「そのコピーは、伝記の依頼者であった・・・高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌(文藝春秋)に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋新社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。」(平野零児『戦争放火者の側近』より )

 これが事実であれば、資料的価値が薄いとは言えませんね。

2.河本大作が、満洲占領の早道として張作霖の抹殺を決意したのは昭和2年末頃とされますが、その決意を示す、在京の親友磯谷大佐宛ての書簡が、岡田芳政氏によって磯谷家資料の中から発見されました。書簡の消印は昭和3年4月18日です。(『昭和史の謎を追う』「張作霖爆殺事件」秦郁彦)

 「経済的抗争は支那人の労力を基礎とせる満洲の施設では、日本側が負けをとるが必然・・・このような拙作ははやくやめ、武力的弾圧を加えねば駄目なり・・・二十年来の総決算をやる覚悟で臨まねば満蒙の根本的解決は得られない。張作霖の一人や二人くらい、野タレ死しても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る。・・・僕は唯々満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」

3.2006年8月11日NHK特集「満蒙開拓団はこうして送られた」で、NHK取材班は、河本と共に張作霖爆殺事件の実行犯であった東宮鉄男大尉(奉天独立守備隊)の日記を発見しました。(参照

 「東宮は、まず28年4月17日に、「京奉線クロス遮断準備計画」を提出したと記しています。爆殺事件は、京奉線と南満州鉄道が立体交差する地点で起きたもので、この「遮断計画」が爆殺計画であることは明らかです。さらに事件直前には、いつ張作霖が引き上げてくるか分からず緊張したことや、東宮が現場を視察したことも記録されています。」

 さらに、翌29年7月2日、田中内閣が総辞職したとき、東宮は次のように書いています。
 「事件の最大責任者はもとより余一人にあり。ただ余が言を発すればことさらに重大を加う。……特に軽挙を慎まざるべからず。」(この日記は、「8月21日、NHKの林デレクター、パオネットワークの後藤さん、同じく藤枝さんの三方が、過日ドキュメンタリー制作に必要だ」と訪れた際、遺族がNHKに貸し出したものだそうです。遺族としては大変苦慮されたとのことですが、「しかし、敗戦後の開拓民の悲惨な惨状を思うとき、その責任の…出すしか…封印しっぱなしと言う訳にもいかず、自問自答」しながら貸し出しに応じたものといいます。)

 いずれにしても、この事件は、全く”わけの分からない”バカげた事件ですので、誰かが、日本を窮地に追い込むために仕組んだ「謀略」ではないか、と思いたくもなります。しかし、残念ながら、以上の調査経過やその後得られた資料による限り、関東軍参謀河本大作大佐、奉天独立守備隊東宮鉄男大尉、龍山工兵隊の桐原工兵中尉らによる犯行であったことは間違いありません。これによって分かること、それは、こうした考え方は決して彼等だけのものではなく、当時の関東軍とりわけ若手将校らの共通認識だったということです。上記の「河本大作の手記」がその雰囲気をよく伝えています。

 なお、ロシアの歴史作家プロホロフのインタビュー記事については、秦郁彦氏は「プロホロフ自身が第一次資料を見たのではなく、誰かに聞いたという話でしょう。それを定説と両論併記にしろなんてとんでもないですよ。歴史が定説になるまでには、何千人という人が何万時間という時間をかけて議論を深め、史実を詰めて、そして結論に到達するわけですから」と、西尾幹二氏の主張に対して反論しています。(『諸君』2009.4「田母神俊雄=真贋論争を決着する」)私は秦氏を支持しますね。

>また、以前コメントした2005年の米国の資料公開の研究の結果、いくつかの点で成果が出てきているようです。

tiku 731部隊の実態については「十余人の中国抑留者の供述」(洗脳による)に基づくものが多いといいますね。特攻隊の成功率については、『特攻 極限の戦いのすべて』(発行イカロス出版)では、硫黄島戦までは至近命中を含めて27%、沖縄戦では13%、トータルでは16%となっています。こうした特攻攻撃は、例えば山本七平も「待ち伏せ方式」といって、フィリピンのピタグ隘路の崖に横穴を掘り、そこに潜み「ふとん爆弾」(ダイナマイトを詰めふとん状にしたもの)を抱えて戦車を待った」(参照)のですから、これも特攻といえば特攻です。幸い、米軍は迂回戦術をとったため、山本は生き残ったわけですが・・・。

>今回のエントリーで紹介されている幣原喜重郎については、個人的には、宮沢喜一元首相とイメージがダブって仕方ありません。・・・幣原喜重郎は欧州大戦(第一次世界大戦)そのものとその後の国際情勢の変化に対する判断および対応を誤り、不必要な対中融和策と相俟って、かえって日本の国際的立場を悪化させた(日英同盟破棄)人物という印象を持っています。

tiku 要するに、ワシントン体制に信を置きすぎた幣原が悪い、というご意見だと思いますが、ワシントン会議に参加したアメリカの外交官、ジョン・マクマリーは、ワシントン会議での条約と決議の意義について、それは、「極東問題(つまり中国)に関する一連の協定に関する諸国の同意を得るためのもの」で、日英同盟がこれに悪影響を与えているので、それを無難な形で終わらせることによって、「太平洋地域における安全と平和の体系の確立」しようとしたものだ、といっています。(以下『平和は如何にして失われたか』参照)

 ところが、その後中国は次第に態度を変え、「ワシントン会議が条件付で中国に認めたものは当然のものとして要求しつつ、ワシントン会議の諸条約や諸決議は目覚めた中国の受容や要求にこたえていないとして、その妥当性を否定するようになった。」しかし、「1926年秋までの期間、中国以外のワシントン条約加盟国は、会議の目的達成と伸張に向けて、異例とも言える緊密な協力をした。変革期中国の背信と偏狭にかかわらず、各国はワシントンで中国の同意を得た計画と期待の成就に向け、信託に沿って努力したのである。」

 しかし、1927年に蒋介石が国民党の支配権を握って中国の統一に向けた北伐を開始するようになると、アメリカではそれが独立時の愛国精神と二重写しになり、蒋介石のキリスト教改宗もあって氏への同情が高まるようになった。また、各国は中国の非妥協的な敵意を前にして妥協的な態度をとるようになり、特に米国と英国(中国を訂正10/21)は、自国の方が他の国より従順なことを中国に示そうと躍起になるありさま。そんな時、日本では田中内閣が山東に出兵し、中国人の敵意を一身に引き受けることになった。

 つまりマクマリーは、ワシントン体制が5年も経たずに崩壊した原因は、主として米国政府が、ワシントン体制のめざした国際協調の理想を実現するための努力を抛棄してしまったためとしているのです。だからといって、日本の満州事変以降の侵略路線は支持も許容もできないが、しかし、日本をそのような行動に駆り立てたものは、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」禍だとわれわれは解釈しなければならない、といっています。

 私は、幣原が、「太平洋地域における安全と平和の体系の確立」のために、ワシントン体制による国際協調路線を選択したことについて、その責任を問う気にはなれませんね(岡崎久彦氏は同盟と集団安全保障の違いを指摘していますが、これは後に分かったこと)。この点では、むしろアメリカやイギリスの責任を問うべきだと思います。しかし、それは他国のことであって、もし「日本において自由主義と国際協調を信ずる政治家が、中国での安定した状態と連携して国内の主導権を引き続き掌握していたならば、中国の主権を認めるような方法で、満洲における日本の最終目標を再検討することが可能であった」(『平和和如何にして失われたか』p74)のではないかと私は思います。

 なお、上記のパラグラフ末尾の「 」内の記述は、マクマリーが1935年に書いたメモランダムに、アメリカ海軍大学のアーサー・ウォルドロン教授がつけた解説の結論部分の文章です。まさに私が言いたかったことで、よく日本の事情をつかんだものだと驚きました。さらにこの文章は、次の一文をもって締めくくられています。「特に当時の日本国内に、きっちりした政治の均衡が確保されておれば、マクマリーが想定した通りの緊密な国際協力は効果をあげただろう。」

 まさにその通りだと思います。

2010年10月19日 (火)

幣原外交の再評価をめぐって2――健介さんとの対話

 前エントリーで大正デモクラシーについて触れました。戦後は――とりわけ昭和の軍国主義教育を受けた世代の人びとにとって――昭和以前の日本の歴史も、戦前の昭和と同様”暗黒の時代”に見えたようです。しかし、実際には、大正デモクラシーの時代は、日本に民主政治を定着させるための政治的・経済的・社会的諸条件が整いつつあった時代で、思想的には、資本主義、自由主義、民主主義、社会主義、国家主義そして国粋主義などの思想が相克しつつ混在する、混沌とした時代だったのです。

 岡崎久彦氏は、この時代のことを次のように描写しています。

「日本の文明は、明治の愛国主義と同じように、大正時代にも、日本人が誇りをもって回帰することのできるもう一つの精神的原点を持っているのである。

 むしろ私は、大正デモクラシーが近代日本の政治、社会の原点であると思っている。それは明治維新以来、日本人が自らの手によってつくりあげた一つの飽和点であったからである。

 軍人は、日清、日露の戦いを勝ち抜き、国家の干城であるという誇りを持っていた。外交官は、日英同盟のもとに日本の安全と繁栄を盤石の基礎の上に導いた自負があった。そして経済官庁も財界も民間も、明治以来の近代化は自らの手で成し遂げたという自身があった。

 そして政党は、明治の自由党以来、何十年もの藩閥との苦闘の結果として、ついに政党政治を達成し、軍人、官僚の上にあって日本における権力の頂点に立っていた。

 つまり、それぞれが自らの血と汗で築いた自分のものをもっていて、それが政党政治の優越のもとに、チェック・アンド・バランスが機能していた時代であったのである。

 近代化の完成の自信のもとに、明治以来の日本の見直しも自由に行われた。・・・明治の世代に反逆して、自由主義、民主主義、社会主義という言葉が「臆面もなく」使われたのがこの時代である。」(『幣原喜重郎とその時代』p364)

 だが、この大正デモクラシーの混沌の中から、昭和のファナティックな国粋主義が擡頭してきたのも事実で、このナゾを解明することが、昭和史を理解する上でのキーポイントになっているのです。本稿の主題である幣原喜重郎の外交政策についていえば、氏の、国際協調を基調とした対支外交が、国民の「国辱外交」「軟弱外交」という批判を招き、ひいてはそれが満州事変を招く元凶となった、というのもその解釈の一つといえます。

 ただ、私はこの解釈は間違っていると思います。確かに幣原外交の問題点として、アメリカの対日警戒心を甘く見ていたことや、中国人のナショナリズムへの同情心から、国際共産主義の影響力を軽視したことなど問題点はあったと思います。しかし、では、そのアンチテーゼとして登場した田中(森恪)外交が、こうした問題に有効に対処し得たかというと、幣原外交よりはるかに拙劣であって、外交の基盤そのものを破壊する致命的失敗を犯したと思います。

 つまり、このどちらの責任がより重大か、といえばいうまでもなく後者で、なぜなら、彼等の真のねらいは、満州における日本の条約上の合法的権益を擁護することではなくて、その本音は、「来るべき対ソ戦争に備える基地として、満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること。そして対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する」ことだったからです。(『それでも日本は「戦争」を選んだ』加藤陽子p286)*森恪は軍と共謀してそのための政治的手引きをしたという意味=筆者

 だから、満州事変の前後に起こった日本の金融恐慌、金解禁、アメリカ発大恐慌による経済的混乱とか、東北地方の冷害・凶作による飢饉・人身売買などの農村疲弊の問題は、軍にとっては「満洲占領」の正当化を図るためには好都合だったわけです。当然のことながら、外交交渉によって満州問題の解決を図ろうとした幣原の存在は目障りであり、それゆえに、日本の生命線である日本の満洲権益が危殆に瀕するようになったのは、幣原「軟弱」外交のせいだと責任転嫁したのです。

 そこで、以上の所説をさらに分かりやすく説明するために、前回の記事にコメントをいただいた健介さんとの対話を試みて見たいと思います。

 健介さん、コメント有り難うございます。

>幣原外交は理念としては優れていたが、外交としては、だめだろう。
 何がだめかというと、支那に対する認識である。
 幣原外交こそ長い目で見るとわが国破滅への第一歩であった。
 支那の歴史の無知が示した外交に過ぎない。無知というより幻想をもっていた。

 それが、一般的な幣原外交に対する理解の仕方ですね。それに異を唱えるために私は前回の記事を書いたのですが・・・。重ねて言いますが、幣原外交と比較すべき外交は田中(森恪)外交です。当時の支那の情況が同じだとすれば、それに対応する外交方針及び外交政策として、一体、どちらがより犠牲少なく日本の国益を守ることにつながったか、ということです。

 ap-09さんへのコメントにも書きましたが、なぜ済南事件が、「共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路」となったかというと、それは、これによって、”日本人は満州における権益擁護のためには、中国の統一を妨害することも厭わない”ことが、中国民衆の目に明らかになったからです。(少なくともそう受け取られた)
 
 つまり、いかに日本の満洲における権益が合法的であるといっても、それはあくまでも、中国との合意に基づく条約上の権利なのですから、”日本が中国の宿願である全国統一を妨害した”となれば、日本の条約上の権益が尊重されなくなるのも当然です。それだけでなく関東軍は、その権益拡張のきっかけを得るために、当時中国の元首的地位にあった張作霖を爆殺した。また、政府は、その事実を把握しながら犯人を行政処分にとどめ、事件の真相を隠蔽した。(世界にはミエミエでしたが)

 これが外交的に成功したといえるでしょうか?さらに軍は、この犯人をヒーロー扱いしました。なぜか。それは「満州を武力占領すること」を軍の共通目標としていたからです。つまり、上述したように、軍は決して満洲の条約上の権益を守ろうとしていたわけではなかったのです。だから、満洲が混乱状態に陥ることは、日本軍の出動の口実を得る上ではむしろ好都合であり、済南事件もこうした思惑が招いた結果と見ることができるのです。

 また、日本は、この満洲占領→満州国という既成事実の上に、その後の問題を処理しようとしました。以上の理屈は日本人には当然であっても、他国から見るとやはり無理があった。とりわけ中国人にとっては、以上のような経緯で武力占領された満洲を、「満州国承認」という形で、自らの宗主権を放棄することは、蒋介石にもできなかったのです。革命外交の誤りを反省して”不問に付す”ところまでは妥協したのですが。

>幣原氏は一体何を支那に求めたか?
 それがわからない。

 幣原の対支外交の基本は、中国の主権を尊重するということで、日本の満洲権益はあくまで外交上の問題として処理するということでした。従って、中国も、この幣原の外交方針を踏み外さない範囲で冷静に対処すべきでしたが、それができなくて、結果的に日本の満洲武力占領を許してしまったのです。では、その後、中国はどう行動すべきであったか。幣原は、昭和7年11月頃、支那に対する忠告として次のようなことを、北京に行く友人に語ったそうです。(『幣原喜重郎』(幣原平和財団)p504)

 満州事変が起きた時、私は支那との直接交渉によって、日本は正当の権益を収める。しかし同時にこれ以上満州事変を拡大することを抑えるということは一身を賭してなさなければならないと考えていた。「若しあのとき、支那の要人が私の誘いに乗って満州問題の満足な回答を与えたならば、支那は其後の凡ての戦火を免れたであろう。それをしなかった支那要人の阿呆さにあきれる。」

 「今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、国際連盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消そうなどということは理論の遊技として面白いかもしれぬが、最早実際政治の領域のものではない。実際政治家の要は、この現実の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。・・・満洲が独立国になった所で、支那の出様さえよければ、もともと血が繋がっているのだから、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取り消しなどに騒ぐ支那の政治家の気が知れないよ」

 この幣原の言葉はあくまで伝聞であり、その言葉遣いがこの通りであったかどうかは定かではありません。これを見ると、その理想主義的外交官としての穏当なイメージとは違って、幣原の現実政治家としての側面が露出しているように見えます。このあたりが、戦後の幣原外交に対する評価を難しくしている原因のようですが、私は、ここに幣原のが現実政治家としての真骨頂が現れているのではないかと思います。(このことは、幣原のマッカーサーとの新憲法制定時の「戦争放棄」条項の取り扱いについても伺われる)

 というのは、この幣原の忠告が、昭和9年12月の「敵か友か?中日関係の検討」という蒋介石の次の反省の弁と、その後の「満州問題不問」の広田内閣への提案に反映しているように思われるからです。

(蒋介石の反省の弁)
一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 おそらく、この三の認識――「日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった――において、蒋介石は、広田外交に最後の望みを託したのだと思います。しかし、それが無理だと分かった時、蒋介石は日本との戦争を決意した。広田は、その「和協外交」に対する軍の妨害に屈した。私は、この時点が、日中戦争を止めうる最後のターニングポイントだったと考えています。

>つまり(幣原は)支那を知らなかった。それに尽きる。
頭がいい、誠実なおろかな人間だろう。政治家としては。

 厳しくいえば、そういうことも言えるかもしれませんね。でも、
(軍部は)支那を知らなかった。それに尽きる。
頭がいい、不誠実でおろかな人間だろう。軍人としては。
 とも言えますね。

 私は、上述したように、幣原の政治家としての力量は軍部のそれにはるかに勝っていたと思います。しかし、当時の日本人には、軍のトリックも読めず、田中(森恪)外交の失敗も知らず、それに資本主義に対する信頼が揺らぐという時代状況も重なって、幣原外交への信頼を失ってしまいました。その結果、軍の満洲占領を熱狂的に支持するに至ったのです。当時の東大生の88%が、「満蒙に武力行使は正当なりや」の問いに「はい」と答えていたそうです。(前掲書p260)

 以上、日本人の歩んだ戦前の昭和の歴史を日本の宿命と見るべきか。当時の日本人にとっては、議会制民主主義や政党政治に対する信頼はまだ固まっていなかった。そのため、大正デモクラシー下の政党政治に対する幻滅が先行し、軍部の主導する、皇国史観に基づく天皇親政をダミーとする国家社会主義思想に身を委ねる事になってしまった。といっても、民主主義にはこうした危険性はつきものですから、私たちとしては、こうした経験をふまえて、民主制度の適切な運営に努めなければならないわけです。

 しかしながら、失敗はしたけれども、明治維新以来の日本の近代化の歩みの集大成として、大正デモクラシーを持ったことは、戦後民主主義復活の基盤になりました。歴史においては「無から有は生じない」といいます。その点、日本の民主主義の基盤は、必ずしも明治以降の近代化の中だけに求められるのではなくて、鎌倉時代以来の「一揆」の伝統にも根ざしています。こうした日本の歴史的・文化的伝統を再認識することが、今後の日本の民主主義の発展を図る上で極めて大切になってくる。私はそう思っています。

2010年10月15日 (金)

尖閣問題を機に国際協調・善隣友好を目指した幣原外交を再評価すべきでは?

 渡部昇一氏の本に『日本史から見た日本人 昭和編』があります。この本では「昭和の悲劇」を生んだ諸事情について、私たち戦後の日本人が読んでも”なるほど、そういうことだったのか”と納得できるような「ニュートラルな論述」(谷沢永一氏評)がなされています。その中でも、特に私が感銘を受けたのは、いわゆる昭和15年戦争に突入する以前の日本に「幣原外交」が存在していたということでした。

 この幣原喜重郎の外交について、渡部昇一氏は次のように評しています。 
 「大正時代から昭和5年までの日本政府が誠実に、否、誠実すぎるほど国際協調路線を採ろうとし、日本人の利権を犠牲にすることは、そのためには止むを得ないという努力をしたことについては、疑う余地がない。したがって、国際環境さえよかったならば・・・統帥権干犯問題は暴走しないですんだ公算がすこぶる高い。」(従って、その後の「昭和の悲劇」も起こらなかったはずである)

 「しかし、西の方、アメリカでは排日移民法が成立し、さらにアメリカのホーリー・ストーム法によって全世界的不況と世界経済のブロック化が生じ、しかも日露戦争以来の大陸の利益まで排日・侮日運動で危うくなるに及んでは、国際協調外交の基盤は失われたと言ってもよく、最も文明的に進んだ幣原外交――第二次世界大戦後の世界の先進国外交の原則――も、情況音痴の外交とか時代錯誤の政策とか見られてしまうに至ったのである。」

 実際、幣原の外交政策は、国際協調、恒久平和、共存共栄、対外不干渉等一連の理念を信条として推進されました。こうした氏の外交政策は、第一次世界大戦後の軍備縮小を求める一般的潮流とも合致していて、それ故に、この時代を表象する最も崇高、適切なる外交として国内外で高く評価されました。氏自身、自らの外交理念を「世界人類とともに戦争なき世界の創造」といい、こうした外交理念こそが国際社会に平和をもたらすものであると信じていました。

 では次に、幣原の行った外交の主なものを見てみましょう。

 まず、1921年11月から翌年2月まで行われたワシントン会議において幣原が全権として担当した外交交渉について説明します。その第一は、日、英、米、仏四ヵ国条約を成立させたことです。これは、日本が第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことに対して、アメリカが日本脅威論を唱え始めたことから起こったもので、日英同盟に代わるものでした。

 その内容は、西太平洋地域に権益を持つアメリカ、日本、イギリス、フランス間の、太平洋における領土と権益の相互尊重、諸島における非軍事基地化を取り決めたものです。これにより、日本は実質的にこれらの海域における制海権を持つことになりました。しかし、この条約には同盟的性格はなく、そのため安全保障条約としては全く機能せず、結果的には、日本の国際的孤立化を招くことになったとされます。(岡崎久彦氏はこのことを幣原の訓令違反と厳しく批判しています。)

 また、九ヵ国条約では中国の門戸開放政策が確認されました。これにともなって、日本の1914年以来の懸案だった山東還付問題について日中間の条約が成立し、日本は山東から撤退しました。この交渉の結果、支那側の幣原に対する信頼感は非常に濃厚となり、支那側の全権であった王寵恵は「実は私は日本をひどく誤解していました。今度の会議で日本を理解し得たのは私の大きな所得です。今後全力をあげて両国国交の改善のために尽くす決心です」と述べたとされます。

 また、幣原は例の「21ヵ条要求」の処理にあたって、満蒙権益以外は大幅に譲歩して、その内容を常識的に中国が満足するところまで修正しました。その上で、中国に「支那の内政にわれわれは関与しない。日本は支那の合理的な立場を無視する行動はしない。と同時に、支那も日本の合理的な立場を無視するがごときなんらの行動をとらないことを信ずる」と述べました。また、この九ヵ国条約の調印にともない、「中国における日本の特殊利益」を承認した石井・ランシング協定が廃棄されました。(これが軍の幣原外交批判の端緒となった)

 続けて、幣原の外相時代の外交事績を見てみます。(『幣原喜重郎』幣原平和財団刊参照)

一、加藤内閣外相時代(大正13年6月11日~大正15年1月19日)
・大正13年9月、対支不干渉政策宣明(奉直戦争が発生した際、それが満州に及ぶことを恐れられ出兵が求められたが幣原は「合理的権益の合理的擁護」の原則の下にこれを抑えた。大正14年の郭松齢事件の時も同様の政策を堅持し出兵を抑えた)

・日ソ国交の調整(日ソ基本条約及び議定書に調印し、久しく途絶していた対ソ国交の開始を見た)

・中国関税自主権の確認(支那の合理的立場を尊重し、同情的且つ友好的にその国家的飛躍への道を図るため、支那の関税自主権の確認に協力した)

・支那治外法権撤廃への努力(支那における治外法権撤廃に関する委員会招集について協力した)

・対支文化事業の推進(文化事業日支共同委員会を設置して上海に学術研究書、図書館を設立するなどするなどして、日支両国の文化方面の連携・協力を図った)

二、第一次若槻内閣時代(大正15年1月30日~昭和2年4月20日)
・支那の通商条約改定要求応諾(支那政府より一方的な日支通商航海条約及び付属文書の改定提議がなされたが、終始対支親善の態度をもって臨み、支那側の信頼を深からしめた)

・大正15年9月、治外法権委員会の勧告(北京における治外法権委員会で署名された報告書第四部勧告を容認)

・経済外交の展開(大正15年5月、日華事業協会の兒玉謙次に中国実業団を日本に招待させるなど、日支経済関係の緊密な連携を図った)

・英国の大使共同出兵要求拒絶(昭和2年3月、南京事件勃発し、次いで同年4月漢口に暴動が起こった際、英国は日本に共同出兵を求めたが、幣原はこれに応じなかった。また、北京外交団は蒋介石に対し共同通牒を発し武力的圧力を加えようとしたが幣原はこれにも反対し結果的にこれを阻止した。しかし、これが幣原外交反対派に非難攻撃のための口実を与えることとなり、ついに第一次若槻内閣総辞職となり、田中積極外交に取って代わられることとなった)

三、浜口内閣時代(昭和4年7月2日~昭和6年4月13日)
 幣原は、浜口内閣成立とともに四度目の外相に就任したが、それまでの田中内閣の対支積極外交の失敗(三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件、東方会議の開催、さらに張作霖爆殺事件さらにその犯人隠蔽工作等)により、日支関係改善の基礎的条件はほとんど失われていた。

・ロンドン海軍軍縮会議(ワシントン海軍軍縮条約で主力艦比率(米10英10日6)を受け入れたのに引き続き、補助艦総トン数対米比率10対6.97で調印した。これに対し軍部、右翼、政友会は条約調印は軍の統帥権干犯だとして反対運動を繰り広げ、このため浜口首相狙撃事件が起こった。こうして、幣原は五奸七悪の一人にあげられ、その外交は「軟弱外交」と目され、身辺を刺客に狙われるようになった)

・支那の革命外交との苦闘(蒋介石の南京国民政府が安定するに従い支那の革命外交はますます強力に推進されるようになった。同時に満州の張学良による排日・侮日政策がとられたため、幣原外相の対支政策は苦境に陥ることとなった)

四、第二次若槻内閣時代(昭和6年4月14日~昭和6年12月13日)
・満州事変の勃発(幣原は国際協調外交を基調として国民政府との間で満洲問題の解決を図ろうとしたが、関東軍はこの問題の武力解決の謀議を進めた。しかし、この間万宝山事件、中村大尉事件が発生し、事態は急転直下悪化の一途をたどり、ついに昭和6年9月18日柳条湖事件の勃発を見た。その後も軍は政府の不拡大方針を無視して軍を進め、ここにおいて幣原外交は完全に破綻し退陣を余儀なくされた)

 以上、幣原外交を全体的に見てみると、ワシントン会議以降、満州事変に至るまでの日本対支外交の基調は、田中内閣の一時期を除いて、極めて国際協調的であり、支那の合理的立場を尊重し、かつ、その主権回復に向けた努力に対しても、同情的且つ友好的なものであったことが判ります。懸案となっていた満州における日本の合理的権益についても、幣原は、そうした友好的基盤の上に、外交交渉によって解決可能であると信じていたのです。

 だが、こうした幣原の対支融和的な外交姿勢は、日本国内の軍部や右翼、さらには政友会やマスコミなどによる「屈辱外交」「弱腰外交」といった激しい反発を招くこととなりました。渡部昇一氏は、昭和5年の統帥権干犯事件の発生も、こうした幣原外交に対する反発がもたらしたものと見ています。まあ、政治は結果責任ですから、幣原の責任は免れないとは思いますが、幣原の責任ばかり追及するのは私はバランスを欠いていると思いますが・・・。

 渡部昇一氏はまた、前述した通り、こうした幣原外交が失敗した外的要因として、一、アメリカの人種差別政策、二、ホーリーストーム法(米国で1930年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向、三、支那大陸の排日・侮日問題を指摘しています。

 確かに、一は1924年の「排日移民法」につながるものであり、日本人に激しい反米感情を巻き起こすとともに、その人口問題の解決を満洲に求める一つの契機となりました。二は、アメリカの大恐慌に端を発するもので、資本主義・自由主義経済に対する信頼を根底から揺るがし、日本人をして満州進出さらにはアジアのブロック化へと突き動かす原因となりました。三は、日本がアメリカの画策によって日英同盟を破棄され国際的に孤立したことが、中国の日本に対する排日・侮日政策を招く原因になったとされます。

 といっても、これは、あくまで外的要因であって、それが日本人のナショナリズムを刺激し対支強攻策を採らせる一因となったことは否めませんが、だからといって、それで日本人の主体的責任が免除される訳ではありません。そこには、以上紹介したような幣原の外交理念や政策に執拗に反対し、幣原の国際協調路線を妨害し、帝国主義的な領土拡張策を押し進めた人たちがいたわけで、その彼等が、最終的に国民の支持を獲得し、日本の政治・外交を支配し、日本を破滅の道へと導いたのです。

 つまり、ここで問題とすべきは、このように日本を破滅の道に導いた人たちの思想はどのようなものだったか。それを大多数の国民が支持したのはなぜか、ということなのです。確かに、この時代の日本は、渡部昇一氏が指摘する通り、厳しい国際的環境の中に置かれていました。では、現代の日本人が同様の環境の中に置かれたとしたらどうか。多分、同じような選択をする?というのでは、日本人はこの経験から何も学ばなかったことになります。

 確かに幣原外交は失敗しました。では、そのアンチテーゼとして昭和2年に登場した田中内閣の外交政策は成功したか。三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件(中国の国民革命への武力干渉をしたと理解され、中国の反日民族意識を決定的なものにした)、東方会議(張作霖の排斥を含む対満蒙強硬策が提出された。結局採用されなかったが、しかし、その周辺の資料をもとに「田中メモランダム」(=偽書)が作られ、日本の帝国主義的侵略意図が国際社会に宣伝された)、そして張作霖爆殺事件の発生(その息子張学良が日本を恨むのは当たり前)、さらにその犯人の隠匿(国際的信用の失墜)・・・、まさに、”むちゃくちゃ”外交というほかありません。

 この結果、日支間の関係改善を図るための外交的基盤はほとんど失われました。だから、私は、何も幣原がそれを引き継ぐことはなかった!と思うのですが、それをこだわらずに引き受けたところが、幣原の偉いところなのだろうと思います。しかし、結局、張学良との交渉は進展せず、幣原としては”堅実に行き詰まる”外なくなりました。すなわち、国際社会の理解を得ることに努めつつ、最終的には国民党幹部と協力して張学良を満洲から排除するとか、あるいは限定的な武力行使をも視野に入れていたのではないかと思われます。

 実際は、その前に、関東軍の一部参謀の謀略による「柳条湖事件」が発生し、満洲全土の武力占領が独断専行的に進められました。幣原外相としてはなすすべもなく、退陣に追い込まれたわけですが、その結果責任を幣原に負わす訳にはいきません。この間の外交責任を問うとするならば、私は、田中内閣の一連の外交政策を取り仕切った政友会の森恪の責任を追及すべきだと思います。(不思議なことに、岡崎氏なども、この森恪の責任を重く見ていませんね)

  彼は、南京事件における幣原の外交政策を「国辱外交」として批判し世論を煽ったことを皮切りに、田中内閣の事実上の外務大臣(外相は田中首相が兼摂、森は外務政務次官)として、上述の東方会議を仕切り、軍と協力して対満強硬手段を画策しました。さらに、蒋介石の北伐開始にともない、田中首相を脅して山東出兵を強行しました。第一次出兵は北伐の中断によって事なきを得たものの、再北伐にあたって行った第二次山東出兵は、済南事件という痛恨の悲劇を生むことになりました。さらに、それに引き続く張作霖爆殺事件も、張作霖の満洲帰還を機に満洲問題を武力解決しようとした森らの画策がもたらしたものでした。

 このことについて森恪の伝記である『森恪』は次のように総括しています。

 「而して第二次出兵は、田中外交の功罪を決するとともに、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったものである。」(同書p619)「若し、田中内閣の時代に、森の政策(張作霖排除を機に満州問題を武力解決すること)を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も・・・その姿は余程趣を異にしていたであろう。」(上掲書p643)

 つまり、満州事変は、昭和6年ではなく森恪が画策した通り、昭和3年の張作霖爆殺事件の際に強行しておれば、当時はまだ蒋介石の革命が中途であり、内には共産党との抗争、旧軍閥との対立があったのだから、もっとうまくいっていたはずだ、と言っているのです。

 この森恪の政治家としての行動で特に問題なのは、彼が以上紹介したような政治的主張をし、それを実現させようとする過程において、軍を政治に引き込み、その政治的・軍事的圧力で政策実現を図ろうとしたということです。東方会議然り、山東出兵然り、張作霖爆殺事件然りです。そして、そのハイライトとでもいうべき軍人抱き込み策が行われたのが、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における統帥権干犯問題でした。

 「森がロンドン条約の否決に努力した理由は、単純な倒閣熱からでは勿論なかった。何時でも彼の言行の根幹をなす所の大陸政策の危機を防ぐためであった。即ち彼は、先ず支那大陸から米軍の勢力を駆逐するにあらざれば到底日本の指導権を確立する事が出来ぬと考えていたし、(米国の野心を)」防ぐには海軍力の確保以外に途はないと信じていたからである。

 要するに対米七割の海軍力を保有することの政治的意義は満蒙生命線を保有することことになるのである。・・・海軍と歩調を合せて、森がその成立阻止に渾身の努力を費やしたことは、世の常の人の如く便乗でもなければ単に内政上の倒閣運動でもなかったのである。」(上掲書p671)

 「森は、専ら宇垣陸相と、軍令部方面に働きかけ、一方国民大会を開いて秘訣倒閣の方向を辿った。」「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。・・・それが大陸政策の形で、現実に政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内政治運動として勢力を擡げはじめたのはロンドン条約の問題からである。

 森によって、あるいは森の政治活動を機縁にして、政治に現実の足取りを取り初めた日本の大陸政策と国家主義思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、いわゆる革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森恪に発しているといっても敢えて過言ではあるまい。」(上掲書p673)

 以上の記述は、山浦貫一という「森恪」伝記作家が、昭和16年7月に発行した本からの引用です。しかし、この本は森恪の思想と行動を称揚するために書かれたものであり、森恪の思想を知る上では最も参考になる資料ではないかと思います。何しろこの本の「序」は近衛文麿が書いていますし、その他、その「反響編」においては、発起人として、小畑敏四郎、鈴木貞一、十河信二、白鳥敏夫、それに鳩山一郎など、当時のそうそうたる人物が名を連ねています。

 以上、この時代の日本を支配した思想がどういうものだったかということを一言でいうと、それは「帝国主義的・国家社会主義」だったと言うことになります。その思想は、幣原の国際協調主義、平和主義、内政不干渉主義とは対蹠的で、反自由主義、反資本主義、反政党主義に立ち、日本政治の全体主義的支配を目指すものでした。そして、その本性を隠すダミー思想として、天皇親政に基づく一君万民的平等主義、忠孝一致の家族主義的国家観を唱え、国民に天皇に対する滅私奉公的忠誠を求めたのです。

 で、なんで、当時の国民は、以上のような軍のトリックにひっかかり、本気で国のために自らの命を捧げる気になったのか。不思議な話ですが、実は、日本人の伝統思想は、皇国史観によって形成されたもので、その統治イメージは「天皇親政に基づく一君万民的平等主義、忠孝一致の家族的国家観」を理想とするものだったからです。これが、国家社会主義思想の統治イメージと重なるところがあって、そのため、この思想に尊皇思想の仮面をかぶらせることで国民を全体主義的に統治することが可能になったのです。(10/15 11:00書き換え)

 といっても、日本人がこのダミー思想に絡み取られ、「無自覚なバカ集団」のようになってしまったのは、大正デモクラシーの後・・・昭和に入って以降、とりわけ満州事変以後のことでした。司馬遼太郎はこの時代を、「日本史における異胎」と呼びましたが、これに対して潮匡人氏は、”昭和は当然、明治、大正に連続している”と激しく反発しています(『司馬史観と太平洋戦争』)。実際その通りなのですが、「異胎」としかいいようがないほど、昭和のこのダミー思想がリアリズムを欠いていたことも事実です。

 実は、平成元年8月に、山本七平と吉本隆明氏が「天皇、その位置を考え直す」というタイトルの対談でこの問題を論じています。吉本氏は戦中、先に述べた「天皇親政に基づく一君万民兵藤主義、忠孝一致の家族国家論」、いわゆる日本の伝統的国体論において、自ら天皇を現人神と信じ、そのために命を捨てようと思っていたことを告白しています。そして、山本七平が、天皇は自らを立憲君主と規定していて、二・二六事件の将校を逆賊とした、と言っていることに対して、自分はそれは承伏できない、と反発しています。

 確かに、当時の私は世界認識の方法を知らず、バカだったと言えるが、人間はそうした共同幻想を求めるのであって、その中に入ってしまえば、どんな冷静で理想的な人でも、バカなことをやるのではないか。当時の私たちは、平等な社会、貧困をなくする社会をどう実現するか、やはり天皇はそのままにしておいて、その中間を排除すればいいんだというふうな考え方をしてそれで納得していた。だから、それを”騙されていた”といわれても、ちっとも納得できないと言うのです。

 これに対して山本七平は、私は大正生まれで、つまり大正自由主義時代の子で、かつクリスチャンの家庭だったこともあり、はじめから天皇制など投げたところにいた。実は、昭和の初めは、そんなに天皇絶対主義じゃなかったのだ。大正時代もそうじゃない。大正天皇が自転車に乗ってぐるっと皇居の周りを一巡したとかそんな話がいっぱいあった。それがある時から急に現人神みたいになった。だから、むしろそっちがなぜかということが問題になる、といっています。

 さらに「一木喜徳郎とか美濃部達吉のような、ああいう考え方が当たり前だった時代で、天皇というのはそれでいいんだという、あの時代の常識が大正時代にはなんとなくあったんです。国務大臣は天皇が憲法に違反しないようにする義務があるんで、憲法に違反した命令が出たときは、国務大臣はこれを執行しない責任を有す、これが一木喜徳郎でしょう。こういうことが大正時代ですと、ごく当たり前なんですね。つまり現人神じゃないんです。」

 「大正時代でも、宇垣軍縮なんて四個師団廃止してしまうなんてことも旧憲法下でできたわけなんで、あながち旧憲法が悪かったからとも言えないんです。ああいうことができた時代もあるし、ロンドン条約、ワシントン条約どおりに、出来た軍艦を沈めていることもあるわけなんで、われわれはそういう時代を多少知っているもんですから、現人神というのが出てきた時に、へえーってなった。」

 「これは昭和一桁世代の、あるディレクターの方から聞いたことですが、終戦の時に何が一番ショックだったかといえば、大正生まれの兵隊が、ああ、大正時代に戻るんだなといったのが何よりもショックだったっていうんですね。自分たちはずーっと日本はこうだ、天皇は現人神だと思っていた、いつもそう教えられていた。そうしたら、なんだ、それは案外短い期間だったのだなというおどろきです。」(『仏教』別冊21989.11)

 結局、”教育とは恐ろしい”と言うことなのかもしれませんが、このような昭和の教育を受けた人たちが、吉本隆明氏の言う共同幻想を必要としたのは、この時代にはずっと戦争が続いていて、いつ何時、自分が戦場に送られて死ぬかわからなかった。そのため、そうした自分の運命を自分なりに納得する必要があった。そこでそうした「死の美学」を説く尊皇思想に多くの若者が囚われてしまった、ということではないかと思います。実際、そうでなければ戦って死ぬことはできなかったのだ。だから、それを騙されていたと簡単にいうな、と吉本氏はいうのです。

 それにしても、このように国民を共同幻想の中に閉じこめ、国民を「死ぬこと」以外考えさせないようにしておいて、その一方で”訳のわからない”日中戦争を8年間も継続し、あまつさえ、当初から”勝つ見込みのない”対米戦争に、一か八かで泥縄式に突入していった軍人たちの「ほんとうの思想」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。山本七平は日本軍が同胞に犯した罪悪の最大のものとして、日本人から「言葉を奪ったこと」をあげています。言い替えれば、それは国民の「思想・信条の自由を奪った」ということでしょう。

 少なくとも大正時代には――確かにこの時代は明治の富国強兵策が一段落し、資本主義は爛熟期を迎えたが貧富の差は拡大し、政党政治は達成されたが金権腐敗を極め、思想的には功利主義、自由主義、そして社会主義が風靡した。また、米騒動が起こるなど社会不安も増大し、労働組合が組織され争議が頻発し、エロ・グロ・ナンセンスと言われた退廃的文化が栄えた、といったような混沌とした時代でしたが――言葉はあった、つまり思想的自由はあった、ということではないかと思います。だから天皇についても自由に考えることができ、平和を維持することができた・・・。

 そこから私たちが学ぶべきこと、それは、右からであれ左からであれ、人からその言葉を奪うようなことはしてはならない、ということだと思います。そのように考えれば、幣原外相の外交方針が、当時の軍や国民のナショナリズムの感情に受け入れられなかったとしても、それは基本的に”言葉による問題解決”を目指していた訳で、そのことは改めて評価されるべきではないかと思いました。その後、軍や国民のナショナリズムに迎合して破滅した近衛文麿のことを知って見れば、そのことは自明なのでは・・・。

2010年10月 4日 (月)

日本政治思想の課題――本当の国家に対する忠誠は国民の自由意志から生まれる

*エントリー変更、末尾三パラグラフ書き換え(10/5 0:15)

 明治維新は尊皇思想に基づくイデオロギー革命だったといわれます。尊皇思想とは、後期水戸学によって確立された国体論(従来の藩中心の武士意識を忠孝一致の道徳論によって天皇中心の民族的家族的国家意識に高めたもの)と、国学者の説いた復古神道(記紀などの古典に立脚した、日本古来の万世一系の天皇による祭政一致の政治の尊厳を称揚したもの)とが合流したものです。これが幕末期の攘夷論と結びついて尊皇攘夷運動となり、それが大政奉還、明治維新へと発展したのです。

 では、この明治維新のイデオロギーとなった尊皇思想は新政府によってどのように扱われたのでしょうか。言うまでもなく復古神道は、儒教や仏教の影響を受ける以前の日本固有の神道のあり方を理想としていましたので、それ以前の神仏混合的な神道のあり方を否定しました。そのため、こうした復古神道の影響の強かった地域(会津、水戸、岡山など)では、維新前より神仏分離が行われていました。明治政府はこうした流れを受けて江戸時代の仏教檀家制度を否定し神道国教化政策を進めました。

 その一環として発布された法令が1868年「神祇事務局ヨリ所社ヘ達」を嚆矢とする一連の神仏分離令でした。これは神仏習合のため「別当」「社僧」と呼ばれていた僧侶の還俗・神官への転職、神体に仏像を用いているものの廃棄、仏式の葬儀をやめ神道式の祭儀を行うことなど、神社から仏教的要素を排除することを目的としていました。しかしこれが拡大解釈され、神仏分離から排仏棄釈運動にまで発展し、この時期に全国の寺院の約60%は破却され、仏像の多くも棄却されたといいます。

 また、天皇家も、四条天皇以降その菩提寺を京都東山区の泉涌(せんにゅう)寺としていましたが、これ以降、仏事の全面的廃止と神事の復興、新設が続き、重要な神事は天皇の親祭とされました。1871年になると、天皇の祖先神の墓(宗廟)は伊勢神宮とされ、これを頂点として、他の神社を官弊社・国弊社・府・藩・県社・郷社・村社に列格し矮陋神祠(わいろうしんし)の破却が命じられました。その一方で、宮中祭祀と神社祭祀の一体化が進行しました。神社祭神の記紀神名化も進められました。

 また、神道国教化政策の具体的な現れとしては、1869年(明治2年)に太政官制を敷き太政官の上に神祇官を復興させ教化政策を展開しましたが行き詰まりました。また、廃仏毀釈に対する仏教界の反発もあって、それまで退けてきた儒教、仏教も取り込んだ形で民衆教化を行うことにしました。そこで明治5年に神祇官を廃止して教部省を発足させ、神官、僧侶を教導職に任じて教化の担い手とし、「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨遵守」の三条教則を発布し教化体制の整備を進めました。

 仏教各宗もこれに呼応する形で、その教員養成機関として大教院の設立を建議し翌明治6年に大教院が設立されました。ところが、教部省の薩摩系官僚は西郷隆盛の影響もあり平田派神道に傾斜していましたので、結局神道宗教化路線が継続することになりました。また、大教院での講義も「神仏大混淆をなし。・・・袈裟にて神前に魚鳥を供せしが如き奇態」が生じ、その一方、儀式は明らかに神主仏従となって仏教側の反発を招き、その結果真宗の大教院分離運動が起こることになりました。

 結局、神仏合同で国教をつくるという試みは失敗したと言うことですが、この間、どのような教化政策が採られたかというと、先の三条教則の教化指針を具体化するため十一兼題(明治6年2月)や十七兼題(明治6年10月)という教導職用のテキストが発行されました。十一兼題の項目とその内容の概略は次のようになっています。

1.神徳皇恩ノ説 神徳は五行(儒学に言う万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水)の如く、皇恩父母の如し(皇国史観に基づく家族的宗族的国家観が現れている)
2.人魂不死ノ説 皇国は神国なり、心霊を祭祀し玉うは御国の皇掟にして霊魂はひとえ不死とこそ確定すべし(民俗学的な心霊観を反映している) 
3.天神造化ノ説 乾坤は則ち造化の具にして、神は則ち天地の司令なり(諸説あることを紹介しつつ古学の説を採用するとしている)
4.顕幽分界ノ説 昼夜あるが如し(所説を紹介しつつ、一世中の顕幽二界と解釈し、仏教的な輪廻説や地獄・極楽などの二世説を否定している)
5.愛国ノ説   僻地幽谷の一村民もその住所を慕うが如し(自分の故郷を思慕する如く国を愛せよ、ということ)
6.神祭ノ説   一家の祖を祭るもその情を忘れず、その恩を失わず、礼を家族に伝う、天下の至礼を民に示すなり(家族の祭礼と同じように国家の祭礼が大切であることをいう)
7.鎮魂ノ説   魂を鎮めるは己が心を清くして永く情を忘れず(鎮魂の心を持つことの大切さを教えるもの)
8.君臣ノ説   我が国天の日嗣の大王たる所以は、その帝一なり(我が国は万国の中でも最も優れた国であるということ)
9.父子ノ説   父子の情人各々知るところ、知らざる人は孝教を見るべし(五倫五常の教えなど、必ずしも儒教の教えを排斥しないということ)
10.夫婦ノ説  この情男女の性による曾て定め難し、聖賢の教えは情実の正道を言うのみ(夫婦のあり方はまず男女の性によるもので、規範化は大切だが難しいということ)
11.大祓ノ説  時々お祓いあるは世代を清め穢れを佛うなり、毎朝己が身を清めるが如し(毎朝祓いを行い身を清めることの大切さをいう)

 ここには、平田神道の天神造化説や神国思想は見えるものの、死後の審判を伴った幽冥信仰などは影をひそめています。また、国学者流の強引な儒仏排斥の態度も取られていなくて、家族道徳を説いた中国の経書を見ることが勧められています。つまり、こうした日本の伝統的な神儒仏混合のなかで出来上がった庶民の平均的な神仏観をもとに、新たに日本の国教を定め国民の教化を図ろうとしたわけです。十七兼題ではこれに文明開化的・啓蒙的内容が加えられましたが、こうした各宗教教派の教説を溶かして一つの合金を造るようなことは宗教においては所詮不可能な事だったようです。

 一方、こうした国教の創出による国民の教化を目指すこととは別に、普通教育の実施による国民の育成が重視されるようになりました。こうして、宗教と教育の分離を目指す運動が起こるようになりました。また、欧米に視察した真宗僧侶島地默雷による宗教混淆の愚の指摘に続いて、政教分離や信教の自由が唱えられるようになり、ついに明治8年5月には大教院からの真宗の分離が決定され、大教院は解散となりました。その後、明治8年11月には信教の自由の口達がなされ、明治10年には教部省が廃止されました。

 こうして、日本の国教創出の取り組みは挫折することになったのですが、他方、国民教育の分野においては、1872(明治5)年に学制発布、1879年には地方分権的な教育令が発布されました。また、この年には「教学聖旨」が出され、維新後の教育が開化の末に走り、仁義忠孝の精神をないがしろにしているので、以後「祖宗の訓典に基づき、専ら仁義忠孝を明らかにし、道徳の学は孔子を主とすべき」ことが説かれました。こうして、1780年の改正教育令以降教育内容の全国統一と、教育を通じた国家統括の基礎作りが目指されるようになったのです。

 次いで、1890年地方朝官会議の「徳育涵養ノ義ニツキ建議」をうけて同年「教育に関する勅語」が発布されました。これは、天皇の建国、天皇の徳治と臣民の忠節を「国体の精華」とする皇国史観を前提に、日常道徳として孝、友、和、恭謙、博愛、義勇、奉公など15項目の徳目を列挙するものでした。これは、井上毅の主張を受けて、形式上は「君主は臣民の心の自由に干渉せず」の建前から天皇の社会的著述としての体裁を採っていましたが、そのため、この「天皇の個人的著作」が逆に法制を越える権威を持つことになったとされます。

 こうして、政府は勅語謄本を全国の学校に配布し、天皇、皇后の写真の拝礼と勅語奉読を核とする学校学校儀式の強制や、修身はじめ各教科の内容編成は勅語の趣旨に基づいて行なうこととしました。こうして教育勅語は、以後の日本の教育を完全に規制することとなりました。その最大の問題点は、その道徳論が皇国史観を前提にしていたことで、そのため、その後の天皇の神格化、歴史研究への干渉、教科書の皇国史観に沿った書き直しなどがなされるようになり、国民の思想統制が次第に強化されていきました。

 以上のことを総括的に述べるならば、明治維新をドライブした尊皇思想は、維新後の神道国教化政策の中では、日本人の神儒仏混合という宗教的伝統に妨げられて「国教」となることはできなかった。しかし、それは世俗教育たる学校教育において、国民の徳育涵養の指針として生き残りが図られた。その結果、その思想の持つ祭政一致の国体観念が、軍部によって政党政治打破のイデオロギーとして活用されることとなり、ついに超国家主義思想として相貌を露わにするに至った、ということになります。

 さて、こうした日本における神道国教化政策の挫折と、その国民教育の中における復活そしてその破綻の歴史から、我々は一体何を学ぶべきでしょうか。私は、それは、日本の宗教的伝統の中において、政教分離・信教の自由の原則をいかに確立するかということなると思います。確かに祭政一致の政治思想は国民の国家に対する忠誠を約束する。しかし、国家に対する国民の自由は認めない。しかし、本当の国家に対する忠誠はそうした国民の自由意志の中から生まれるのではないか。

 このことを可能にする伝統思想の思想的発展こそ、私たちは求めるべきではないか、私はそう思っています。

(以下追記10/5 11:00)

 おそらく教育勅語を作ったそもそもの動機は、維新後開化政策が進められる中で国民の伝統的モラルが失われることを恐れたためで、その主眼は、後期水戸学によって確立された忠孝一致の道徳規範を国民に明示することにあったのではないかと思われます。だから、それが明治憲法の立憲君主制と矛盾するとは必ずしも認識されなかった。つまり、まさか教育勅語が、明治憲法に定められた立憲君主制を打倒し、祭政一致を名目とする軍による「独断専攻政治」に道を開くとは思われなかった・・・。

 山本七平は、この尊皇思想のもつ祭政一致の政治思想について、それに明治憲法が採用した立憲君主制(=制限君主制)にる思想的決着をつけておかなかったことが、昭和の悲劇をもたらしたと繰り返し指摘していました。この時、政教分離(=政治と道徳の分離)・信教の自由の大切さがどれほどのものかに気づくべきだった。だって、日本にはすでに鎌倉時代にそうした近代的政治思想に通じる考え方が生まれていて、日本の政治に定着しつつあったのですから。明治維新の成功がもたらした陥穽と言うべきでしょうか。

2010年10月 1日 (金)

小室直樹と山本七平

 小室直樹氏が9月4日、心不全のため東京都文京区の病院で死去(77歳)という報が流れました。私も、氏にはその著書を通じて多くのことを教えていただきました。心から感謝申し上げますとともに、ご冥福をお祈りいたします。

 小室直樹氏の伝説的な秀才ぶり、日本だけでなく世界の碩学び続けたその輝かしい研究歴、学問的業績等については、wiki「小室直樹」にも詳しく紹介されていますので、ここでは、氏と山本七平氏の関係について、紹介させていただきます。

 平成3年12月10日に山本七平氏が亡くなり、12月26日に告別式が千日谷会堂で行われました。私も、その告別式に参列していたのですが、その時小室直樹氏が――氏はその頃海外にいて、テープに弔辞を吹き込んで送ってこられ、それが会場で流されました――次のような弔辞を述べられました。

預言者・山本七平への弔辞

• 山本七平は,神に選ばれた人間である。私は,その確信を終始,持っておりました。この確信を体で感じたことに関して,私は感謝いたします。

• 日本資本主義の精神を解明したのも,山本七平さんです。資本主義の精神がなければ,資本主義はできない。いまのロシアなんて,それがないからどうしようもないんです。資本主義になるというのは,資本と技術があるからではありません。もっとも大事なのは資本主義の精神です。そう言ったのはマックス・ウエーバー,解説したのはタルコット・パーソンズと大塚久雄。とは言うものの,日本において資本主義の精神がどうなっているかということを解明されたのは,山本七平です。

• 近代日本の天皇システムの基礎を築いたのは浅見絅斎です。その基礎に崎門の学,即ち山崎闇斎の学問があります。このことは丸山真男先生が強調なさることですけども,丸山先生の弟子共は無能怠慢で研究しておりません。これほど難しいことをおやりになったのは,山本七平先生です。

 実はこの文章は割とスッキリしていますが、実際の音声は録音状態も悪く、おそらく酒を飲んで録音されたのではないかと思われたほどでしたが、極めて昂奮した調子で、氏独特の甲高い声で叫ぶように以上の弔辞を述べられました。

 その最初の言葉が”山本七平は,神に選ばれた人間である。”でしたから、私もその言葉を感激を持って聞いたわけですが――というのは私も山本七平氏を「日本教の預言者」と思っていた――、氏はその後も、山本七平氏をいつも「山本先生」と「先生」をつけて呼んでおられました。

 その山本七平氏は、小室直樹氏のことを、確か「永遠の学生」?と評しておられたと記憶します。その生活態度は破天荒で、あのソ連の崩壊を預言したとされる『ソビエト帝国の崩壊』も、そのきっかけは、病気で入院した際の費用の捻出に困ったためと言われていて、友人の渡部喬一弁護士や山本七平などがサポートしたとされています。

 私は今も、時折氏の著作を参照させていただいておりますが、最近、とても勉強になったのは、次の日蓮の教説に関する氏の解説でした。

 「彼の説は決して革命的ではなく復古的である。・・彼の説を一言で要約すると、大日教重視によって密教化した天台宗の傾向を是正して、伝教大師にかえり、天台智顗にかえれ、というわけである。・・・彼の独創的な点は、実践において仏教の宗教社会学的意味を180度転回し、すぐれてこれを政治的なものにした点にある。ここにこそ日蓮の革命的意味がある。そして彼は、この革命的意味転換において、そのための媒介項として、仏教にファンダメンタリスティックな性格を付与することになった。」(「創価学会スキャンダルと日本の宗教的特性」)

 昭和の戦争期における二人の預言者的人物は北一輝と石原莞爾ですが、この二人とも熱烈な日蓮信奉者であったことはよく知られています。その彼等の超国家主義思想が昭和の悲劇を生んだわけですが、その信仰の中心は、実は天皇ではなくて――それは全体主義的統制のためのシンボルに過ぎなかった――日蓮その人だったのです。

 なぜ、日蓮が昭和の超国家主義思想の宗教的バックボーンとなり得たのか、小室氏の解説は、その”なぞ”を見事に解き明かしているように私には思われました。

(追記) それにしても、これら超国家主義者たちは、国民には祭政一致=天皇に対する絶対的忠誠を説き、その思想を体制内に閉じこめておきながら、自分たちは、その体制の外にある日蓮の思想に生きていた。つまり、彼等はその思想によって自らの行動を正当化していたわけで、つまり、その思想のもとに天皇を「機関説」扱いしていたわけです。ここに、かれらの思想の最大の欺瞞性があったのではないかと思います。

 小室氏の言を借りれば、昭和の超国家主義とは、「一切皆苦」の現世からの解脱を説いた仏教思想を、180度転回し、それにファンダメンタリスティックな性格を付与して現世の革命思想とした、日蓮の思想の国家主義的表現だった、ということになります。その意味では皇国史観は、彼等にとっては道具に過ぎなかった。あるいは、宗教思想は日蓮で、そのもとでの政治イデオロギーが皇国史観だったと見ることもできます。

 いずれにしろ、日本の思想に「政教分離・信教の自由」の考え方をいかに確立するかが今後の課題だと思います。以前のエントリーで紹介した北条泰時の思想(参照)においては、こうした考え方が当然とされていたようですし、それが「貞永式目」にも反映していました。山本七平氏は、”歴史は直線的に進むものではない”と言われていましたが、同じ失敗を繰り返さないためにも、こうした思想的課題をしっかり認識しておくことが必要だと思いました。  

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