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2010年11月

2010年11月28日 (日)

日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」と言った佐藤尚武外相

 前回、せっかく蒋介石が、結果的に、満州事変を惹起せしめた満州における「国権回復政策」の行き過ぎを反省し、日中親善の友好関係を図ろうとして、中国側三原則を示したのに、陸軍が、中国の対日態度転換は欺瞞だとして、外務省の対華親善政策を批判し、華北自治運動を押し進めたことを紹介しました。その最も露骨な現れが、日本の傀儡政権である冀東防共自治委員会(後冀東防共自治政府と改称)の設立でした。

 廬溝橋事件が発生した二十日後の昭和12年7月27日、通州事件(邦人朝鮮人260名が殺害された)が発生し、日本国内で中国人の暴虐事件として報道され、これが南京事件の一因になったとも言われます。実は、この通州は上記の冀東防共自治政府の所在地で、そこに自治政府の保安隊が置かれていました。この事件は、この保安隊を日本軍が誤爆したために発生したとされますが、問題は、この時期、この保安隊にも一触触発の反日感情が渦巻いていたと言うことです。

 この冀東防共自治政府の存在こそが、日支間の国交調整を不可能にしている最大原因で、これを解消することが、両国の関係改善を進める上での第一歩と主張したのが、廬溝橋事件が発生する四ヶ月前まで林銑十郎内閣の外務大臣の任にあった佐藤尚武でした。彼は、今回のエントリ「日中戦争、これに直面するもしないも『日本の考え方如何によって決まる』」といい、日中戦争の本質を的確に見抜いた人物でしたので、次ぎに、彼の言葉を紹介したいと思います。

危機は日本しだい

 昭和十二年の三月十二日、衆議院本会議での、外交方針にかんする緊急質問として、立憲民主党の鶴見祐輔、政友会の芦田均両君の、外務大臣たる私にたいしての質問に答えた演説・・・その最後の一節。

 「最後に、外交の国策の根本方針について、政府の所見をご質問になりました。なるほど、わが国は現時の状態においては、八方ふさがりのように見えるかもしれませぬ。また、芦田君のいわれるところでは、現時においては平和か戦争かという岐路に立っておって、国民は迷っておるというご説明でございました。日本内地で当時よく唱えられたことばでありますが、三十五、六年の危機ということが常に人の口に上ったのであります。

*「三十五、六年の危機」とは、海軍が、ロンドン海軍軍縮条約の期限切れ後の1935、6年頃に「米国が皇国に対し絶対優勢の海軍を保持せんとするは、皇国海軍を撃滅し得べき可能性ある実力を備へ、之によつて米国の対支政策を支援し強行せんが為めである」として危機を訴えたもの

 三十五、六年を経て、しかして現今からこれを顧みて見まするに、はたしてどうであったか。危機ということばは何を言い表わすか、もしその危機なることばが戦争を意味しておったということであれば、私は当時三十五、六年にいたっても戦争はない、したがってその意味の危機ならばありえないというふうに考えて、また当時日本に帰っておりまして、各方面でその話をいたしました。

 もしその危機なることばが、国際関係の逼迫であるという意味に解すべきものならば、それは三十五、六年をも待たず、満州事件以来、常に日本は危機にひんしておるのである。しかしそれは日本ばかしの特殊の問題ではない。ヨーロッパにおいては毎日危機であります。国と国との境を接し、飛行機のごときはて二時間を争うという、そういう地理的状況において、国際間の関係に融和を欠き、互いに軍備を整えておるという今日においては、その危機は毎日毎時刻に存在しておるのでありまして、何も日本に限ってそれを気に病んで、焦燥な気分になるという必要は一つもないということを、私は申し上げました。(拍手)

 その後三十五、六年を経て、いま現在三十七年になってこれを考えて見まするのに、私は国際間の危機というものをそういう意味に解するならば、しかしてまた、戦争というものが目の前にぶら下がっておるというような意味に解するならば、私の申しましたことが、理屈があったというふうに感じるのであります。私は日本国のような国がらは、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくすということが最も必要なことと思います。(拍手)

 もちろんそのためには、国策というものを立てまして、これを明らかにし、国民の帰趨を示す、国民のおもむくところを示すということが必要であるのも、全くご名論と思いまする。私は国民に、こういうことを了解してもらいたいと思うのであります。ほんとうの意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのもしないのも、私は日本自体の考えいかんによって決まるのであるというふうに考えるのであります。(柏手)

 もし自分が、その意味の危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで。その危機はいつでも避けられると確信いたします。(拍手)

 諸君、私は弁舌にはなはだ拙でございまして、明らかに自分の意向を表明することができぬかもしれませぬけれども、私は今日の日本、それは七十年の歴史、努力をもって、ここまで築き上げたこの日本が、なんの必要あって、堂々たる態度をとって、堂々たる道を歩きえないのか、それを私は不審に感ずるのであります。(拍手)

 今日まで進みました日本は、私の考えでは、きわめて公明なる方策を立てまして、権謀術数などということは、頭の中から全く去ってしまって、しかして国際間に処しまして、だんだんたる道を大手を振って歩けば、私はよろしいと思うのであります。

 かくすれば、国民もその外交政策なるものにたいして、じゅうぶんなる了解を持ちえましょうし、また国際間に処しましても、だれしもわれわれの国策、外交政策というものにたいして、危惧の念をいだくべきはずがないのでありまして、この大なる国策を背に背負いまして、世論の力をもって、しかして自分たちの前に開拓しましたる明らかなる大道を、自分たちの目的に向かって澗歩していきたいと思うのであります。(拍手)

 これはきわめて陳腐なことを申し上げますので、何も新奇をてらったわけでもなんでもないのであります。私は外交なるものに新奇をてらうことは、大きな間違いだと思います(拍手)。きわめて普通の考えから、きわめて単純なる道を、自分の持っている常識によって判断して、その道をただ進んで行けばよろしい、というように考えるのでありまして、かくしてこそ初めて、国民もいっしょになることができましょうし、いわゆるわれわれの欲する挙国一致の外交政策というものが、立ちうるのであると思います。

 私は議会はもちろんのこと、政府、軍部、実業方面、新聞、その他、皆このきわめて了解しやすい国策に向かって、一致の態度をとって、しかしてこのまとまった国論に導かれて、しかしてわれわれに与えられるこのまっすぐな道を進んで行きたいのであります。これが私のとらんとする方策でございます。(拍手)」

(注)昭和十二年三月十二日衆議院速記録第二十号「外交方針に関する緊急質問」による。速記録のかたかなと旧かなづかいを、ひらかなと新かなづかいに改めた。

 その後の、佐藤尚武外相の外交方針についての説明は次のようなものでした。

 「かくしている間にも、私は支那との平和づくの談判を行なわんとして着々準備を進めていった。これは以下詳述しておきたいと思うのであるが、この準備工作の間、議会の無責任な連中の相手となって、そして正面から衝突するということは、私としてはぜひ避けなければならぬことであると考えた。実を言えば、議場の演壇の上から私の心底を吐露して国内の健全な世論に訴え、そして公の場所でこの連中のロを封じてしまいたかったのは、やまやまである。しかし私は、自ら求めて争いを大きくするということは、いまの場合、私の大切な仕事を事前にこわすことになるので、虫を殺して衝突を避ける決心をした。私の始めた仕事は、大約次のとおりである。

 当時、日支の間の紛争は日ソ間の関係以上に悪化し、かっ急迫していた。それは、その前年あたりから殷如耕を首班とする翼東政権なるものが建設され、そして南京政府とは独立に、翼東地区の行政に当たるという形をとってから、一層両国間の関係が激化したのである。南京政府はこれにたいして翼察政務委員会なるものを作り、宗哲元をして主宰せしめ、殷如耕の翼東政権の向こうを張り、わが北支駐留軍にたいする障壁としたのである。私はもちろん、支那国内に翼東政権のごときものを作ったことには、大なる反対を持っていた。しかしてこれがある間は、目支間国交の円滑化はとうてい不可能であると断じていた。

 すなわち、国交の調節を図らんとするならば、かくのごときやり方は、根本から変えなければならぬことになる。しかし、すぐさま翼東政権解消というのでは国内的に非常な困難に遭遇するのは当然であって、これを無理押しに乗り切ることは、すこぶる危険である。よって私は、日支聞に国交調整の一般的会談を始めて、そして紛争の比較的容易な問題から片づけてゆくという方針をとった。一問題を解決すれば、次の問題に移る。かくして度を重ねてゆくうちに、自然と良好なふんいきができてきて、国民も平和的解決に望みを嘱することになり、漸次、むずかしい問題にも及びうるわけである。もちろんこれがためには、両国互譲の建て前でゆかねばならぬことは明らかであるが、かく平和的解決の筋道がつけば、両国とも譲歩がしやすくなるわけである。しかして最後は、どの道、翼東政権解消にまでこぎつけねばならぬと決心したのである。

 しかしながら、これを実行するには、まず国内において、軍部と一心同体にならなければならぬ。すなわち軍部を説き、彼らをして全部われわれの考えを容れしめ、協心協力、事にあたるように仕組まなけばならぬ。これなくしては、とうてい平和交渉はできるわけのものでない。また幸い。国内的に話がまとまりえたとしても、出先の軍部をして中央の方針を体して、同一の態度をとらせなければならぬ。しからざれば出先は個々別々の態度をとり、これまた話をぶちこわす方に導くばかりである。そこで私は、軍部大臣と密接な連絡をとる一方、当時の『外務省アジア局長森島守人君(現社会党代議士)に嘱して陸軍省の軍務局と極秘のうちに交渉を行なわしめたのである。

 当時の軍務局長は後宮少将(後に大将)軍務課長は柴山大佐(後に中将で陸軍次官になった人)などであった。この両責任当局は、われわれとほとんどその所見を一にしていた人たちであったため、陸軍、外務両省の意見は漸次接近することを得、大綱において、合意ができたのは幸いなことであった。参謀本部もこれに異議を唱えず、米内海軍大臣も、もちろん賛成であった。このうちわの交渉には、まる二ヵ月の短かからぬ時間を要したのであるが、私はそれでも満足せず、いぜん出先を説きつける必要を痛感しておったので、陸、海、外の三省から同時に、かつ別個に特使を出して、出先軍部にたいして中央の意向の徹底を図らしめたのである。

 陸、海両省もこの案に賛意を表して、陸軍からは柴山軍務課長、外務省からは森島守人局長、海軍からも相当の人を出してくれて、この三人はまず上海に渡り、ついで天津に出、それぞれ出先軍部にたいして中央の方針に励力を求めたのであるが、上海、天津ともよくその意を諒として、中央がその方針なれば、われわれも当然、協力を惜しまないものであるとして賛同してくれた。三人の特使はそれから新京に到着した。ここでも同じ話をしたのである。しかし新京の空気は全く別個のものであって、中央の意見にたいして反抗の意識が明らかであった。

 そしてそのような手ぬるい方針をとったところで、あたかも。”仏を作って魂を入れぬ”と選ぶところがないという意見であった。それもそのはずで、冀東政権を熱心に支持していたものの一人は関東軍であったのである。

 かくして、三人の人たちが新京ですったもんだやって、三日間を過ごしたときに、林内閣はにわかに、総辞職をすることになってしまった。それは五月の三十一日のことであった。朝、閣議に臨時招集を受けた各閣僚は、一人一人首相の事務室によばれ、そして首相から総辞職の意図を聞いたのである。突然の決意に一同、非常に意外に思ったのであるが、だれも異議を唱える者はなかった。その前の晩までは、最後まで戦う、という申し合わせをしたくらいであった。・・・かくして林内閣の存在、わずか四ヵ月、私が外相に就任してから満三ヵ月にして、六月三日、桂冠したのである。その結果、私の企てたこともすべて、半途にして挫折してしまった。」

 では、佐藤は冀東政権解消の後何をしようとしていたのか。

日支関係の打開

 「人はよく、私の政策にたいして反対する言いぐさとして、そのような手ぬるいことをやったのでは、支那はどこまでもつけあがってくる、といって非難した。私からいわしても、この心配は一理ある。従来の日支関係のいきさつから見て、そういう懸念をいだくのは、当然といってもいい。しかし、問題の焦点は、そりいう点ではないはずであり、世界の世論に照らして、日本の言いぶんが正しいかどうかということである。

 もちろん平和づくの交渉であれば、両国互譲の精神をもって談判するほかなく、支那も譲れば日本も譲る、互いに相手の要求をよく理解して、その間に妥協点を発見するのが交渉の道である。そして、日本はさきにも述べたとおり、ついには翼東政権解消というところまでゆかなければならなかったのである。そのさい、支那がはたして図にのってきて、失地回復すなわち満州の返還をさえ要求するようになったとしたならばいかん。

 この佐藤がいかに軟弱外交の標本であったにしろ、日本としての譲歩にはもちろん一定の限度がある。この限度に達しない前に、話し合いが成ればそれでよし、日本は最小限の利益を確保して、支那との間に平和を築くことができるわけである。もしこの最後の一線をさえも、越えざるをえないはめになったとしたならば、そのときは談判破裂であらねばならぬ。何人にも最後の一線は越えられないはずである。

 しかしてその一線は、私からいわせれば満州問題である。すなわち支那の失地回復問題である。満州国の独立は日本の名誉にかけて断行したところであって、これはもはや、日本の存続する限り撤回のできない問題である。これを譲るがごときはとうてい考えられない。

 満州問題が突発してからすでに六年、日本はそのために、連盟から脱退さえも敢えてして、自己の主張を堅持してきたのであるが、はや欧米各国とも、日本の決意牢固たるを見て、漸次、反対の態度を断念する方向に進んできている。アメリカのごときも、公にこそいわぬが、内々もはや満州問題はやむをえないとして、われわれに打ち明け話をしていたむきもある。してみれば、国際的にも日本の地位は決して絶望的のものではなかったはずである。日本は国際世論の前に立って、このたびこそは堂々と、態度を鮮明にすることができる。

 すなわち、緊張した日支間の関係を平和づくの談判によって解決せんとするのが日本の態度である。そのためには、これも譲り、あれも譲っている。ただ日本の譲りえない最後の一事、すなわち満州問題をさえ、支那は言い出してきている。これだけは日本の生死をとしても、譲歩のできないところであることは世界各国といえども、承認せざるをえないはずである。

 しかも、支那がこれを強要するゆえんのものはすなわち、支那に日本との平和維持の誠意のない証拠でなければならぬ。かくなるうえは日本と支那のいずれに正があり、邪があるか、世界の世論自らこれを判断すべきである。日本は堂々と天下に向かって自己の主張を突っ張りうる。かくして支那の強要のため、交渉は破裂して不幸戦争勃発するにいたった場合といえども、国際世論は明確な日本の態度を是認せざるをえないであろう。また日本国民自身も、なにゆえに支那との戦争か避けられなかったかということについて、じゅうぶんの理解を持つたであろう。

 もちろん、談判破裂と同時に外務大臣は当然、ことの成り行きを詳細、国の内外に発表しなければならぬ。この発表を見て、日本国民は憤然として決起したであろう。また、幸いにして、ことが窮迫せず、最後の問題に触るることなくして支那との間に交渉がまとまったとしたならば、それはすなわち戦争を避けるということであって、東亜の平和のために、大いに賀すべきことであらねばならぬ。

 もちろん一部の世論は、これにたいして大なる不満をいだくであろう。支那にたいしては、絶対に譲歩すべからずとする連中が多多ある。これらは、和平成るを見て一騒動起こすことになるかもしれない。しかし、それは国内の一波乱で済むのであって、両国間の和平はできた方がよかったということになるのはもちろんである。

日ソ関係の打開

 支那との問題は実際、私の目にも急迫して見えたのであるが、ソ連との関係は当時、まだそれほどではなかった。もちろん、昭和十一年の防共協定以来、両国関係が非常に悪化したのは事実であるが、まだ戦争の危険は私には感じられなかった。ただ両国の感情がいかにも疎隔してきたので、なんとかこれをまとめる必要があった。また、私自身もそれを願っていたのである。ここにも、世論の一部を排して断行する決意を要したのは当然である。

 当時私は、貴族院の本会議で大河内輝耕子爵の質問に答えて、ソ連関係について述べた中に「ソビエトが共産主義の国であるということにたいしては、それはソビエトの国内問題であって。われわれはなんら口出しの権利もなければまた、その必要もない。しかし、ソビエト国内に世界革命を旗印とする国際共産主義(コミンテルン)の本拠がありとすれば、他の国々が不安を感じ、疑惑をいだくことになるのも、当然であり、国交に影響するところも大である。もしソ連が口でいうがごとく、ソ連が国際共産主義の組織とは直接関係がないというのであれば、この組織をソ連領内においておく必要はないはずである。ソ連自らこの組織を国外に追放するということにでもなれば、外国との関係は明朗化するであろうし、日本との関係においても大いに、やりよくなると思われる」という意味のことを述べた。

 私の言ったことの裏を返せば、コミンテルンとソビエトはまさに唇歯輔車の関係にありというべく、前者の組織をソ連以外に移すなど、とうてい考えられないことであり、それが不可能とすれば、したがってソ連との国交調整も容易なことではないといわざるをえないということになるわけである。しかるにその後六年(一九四三年)戦時中に、コミソテルソは自発的に突然解消することになり、私の不可能視していたことが表面上は、実現することになった。このあたりの事情や経過については、後日一言の機会をうるであろう。

日英関係悪化の打開に努力

 ここで、対英政策のことについても一言しておかなければならない。前にも述べたとおりオタワの帝国会議以来、日本とイギリスとは経済問題で犬猿ただならない間がらになってしまった。日本は綿布でも雑貨でも、安くこしらえてどしどし海外へ売り出そうというのであり、また品質も安い割り合いにはだんだん良くなってきたので、日本品の進出は非常な勢いで発展しつつあったのである。これにいちばん脅かされたものは、なんといっても海外貿易で立っていくイギリスであったのは当然なことで、国際市場獲得の争いから日本とイギリスとはどうしても、かたき同士にならざるをえなかった。イギリスは、自分のいままで持っていた市場を蚕食されるのを、極度に忌みきらったのである。

 この経済上の争いは、当然両国の民心に好ましからぬ影響を与え、これが政治問題にも影響して、両国の間には摩擦がふえるばかりであった。もっとも、マクドナルド内閣のときに、彼は日本の大使にたいして、経済問題で日英両国が戦わなければならぬということはありえない。。自分は経済問題では、断じて日本と戦うことをしない、と言ったことがある。それはたしか、一九三〇年のロンドン海軍制限会議当時のことであった。しかしそれにもかかわらず、両国関係は悪くなる一方であり、そこにまた、満州事変から引き続いて北支、中支問題が起こるにいたり、支那各地に大なる権益を持っていたイギリスとは、ことごとに衝突せざるをえないはめになった。

 振り返ってむかしのことを考えてみると。一九一〇年ごろ、まだ日英同盟花やかなりし時代に、たまたま私がロンドンで、ある学友に語ったことを思い出すのである。そのとき私は、いまでこそ日英の間は間然するところなき友好関係にあるが、それはまだ支那における日本の勢力が大したものでないからであって、日露戦争後に満州に根拠を占めた日本が、他日その経済勢力を北支に延ばし、さらに進んで長江にまで及んだ暁には。きょうの友は必ず、あすの敵になる”ことを忘れてはならない――と言った。

 私は何も、予言者めいたことを言ったわけではないが、同盟関係で両国が固く結んでいた時代には、およそ、そういう考えは日本人の頭に去来しえなかったところである。それから時を経ること二十余年、私の杞憂は支那においてまさに現実の事態となって現われてきた。そのころまでに、日本の商品は世界的にはびこって、至る所でイギリスの権益と衝突するのであった。一九三四、五年にいたってこの両国関係はいちだんと緊張を見るにいたった。それは北支にたいする日本の実力の進出が、イギリス政府にたいして多大の脅威を与えることになったためであるが、現に北支には有名な開灤炭鉱のほか、古くからイギリス人の占めていた権益がある。

 もっとも、私が外相の地位につくまでの間、日本政府としてもいくどかイギリスとの関係を改善すべく試みたのであったが、いつも不成功に終わった。それは外務省の考えが、次から次へとこわされていったために、イギリス政府では日本政府の真意がはたしてどこにあるかを捕えるに苦しんだのであって、つまり日本の政策が一途に出なかったためである。

 こういう情勢のうちに私は、外相の印綬を帯びることになったのであるが、まず軍と話し合いを遂げ、支那問題の和平解決に乗り出し、かつソビエトとも戦争を避けて、平和的に国交を調整する方針を立て、そして国内的に重要方針につき、軍部その他と万端打ち合わせを遂げたあとで初めて、対英問題の調節に乗り出したのである。それが就任以来、ニカ月余を経た後のことであった。そして支那問題にたいする日本政府の方針を詳細に、ときの在英大使吉田茂君に電報してイギリス政府に安心を与え、しかしてこの方針に即してイギリス政府との間に、諸般の誤解解決に当たるよう訓令を発したのである。

 吉田大使は、この新たなるやり方にたいし大なる満足を感じ、さっそくイギリス政府外相のイーデン氏を訪問し、佐藤外相より、いい訓令を受け取ったと前置きして、帝国政府の見解を詳細に説明してくれたのである。これにたいして、イーデン外相も大いに安心したもようであって、日本政府の方針がかくのごとくである以上、イギリス政府としてもこれに呼応して協調的態度をもって、日本政府と交渉することが可能となるわけであるとして、欣快の情を表わしたということである。

 当時の日本は満州事変以来、もっぱらイギリスと利害の衝突をきたしていたのであって、アメリカとはまだそれほどのことがなかった時代である。であるからイギリスとの国交調整ができれば自然、日米関係にも好影響を及ぼすことになっていた。これすなわち私が、イギリスの問題をまず取り上げたゆえんであって、これに成功すれば当然、アメリカとの交渉にも手をつけるつもりであった。・・・」

 これが、佐藤外相の見た日中戦争を避けるための外交方針であり、対ソ、対英・対米の国交調整策であったわけです。その第一歩が、冀東政権の解消であり、次ぎに華北分治策の抛棄だったのです。そして最後の一線として日本が守るべきは、満州国の独立だといったのです。そして日本がこのようにその外交方針を明確にすれば、イギリスとの国交調整は可能であり、自然、アメリカとの調整も可能になるとしたのです。

 もちろん、石原莞爾らが主導した満州事変は、柳条湖事件という謀略を端緒とするものであり、決して公にすることのできないものでした。おそらくこの”負い目”が、関東軍をして、中国に「満州国の独立」の承認を執拗に迫る心理的動機になっていたのではないかと思われます。しかし、いずれにしても、政治的には「満州国」が現に存在しているという事実から支那との国交調整交渉を開始せざるを得なかった。

 この点については、満州事変当時外務大臣であった幣原喜重郎も同様で、「支那の出方一つで満州国の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから本家と分家の関係位に見て居ればよい」「それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れない」と言っていました(昭和7年11月頃の幣原の談話)。おそらくこうした観点が、その後の支那の、日中親善の友好関係を求める三原則の提示につながったのではないかと思われますが・・・。

 また、以上紹介した佐藤尚武外相の外交方針は、明らかに、この中国側三原則を踏まえて日中国交調整を図ろうとするものであり、それ故に、彼はそれは「日本の考え方如何によって決まる」と言ったのです。つまり、「危機を欲するならば、危機はいつでも参ります。これに反して、日本は危機を欲しない、そういう危機は全然避けてゆきたいという気持ちであるならば、私は日本の考え一つで、その危機はいつでも避けられる」と言ったのです。

 それ故に、危機だ危機だと騒ぎ立てることは、却って戦争を招き寄せるようなことになる。従って、「日本のような国柄では、できるだけ国民を落ち着けて、この焦燥気分をなくす」ことが最も必要だ、と言ったのです。その上で、先に述べたような対支政策を取りさえすれば、オタワ協定以来のブロック経済が引き起こしているイギリスとの貿易摩擦も解消出来るし、自然にアメリカとの関係も調整出来ると言ったのです。

 こう見てくれば、石原莞爾の説いた「最終戦総論」(=東洋王道文明のチャンピオンたる日本と西洋覇道文明のチャンピオンたるアメリカが、宿命的に文明史的最終戦争を戦うというもの)が、いかに、現実政治を処する上で途方もないものであったかということが判ります。石原は、日中戦争を食い止めるため華北分治を抛棄し「満洲の経営に専念すべき」ことを説きました。しかし、この「最終戦争論」については、その後、それを抛棄したという形跡は見あたりません。

 この、一種終末論的な宗教的危機意識の創出とその蔓延とが、日本軍及び日本人を金縛りにし、幣原喜重郎や佐藤尚武らの言う外交交渉による、対支国交調整、さらには対英・対米国交調整を不可能にしたのではないか。そのため、中国はついに日本との「抗日全面戦争」を決意し、上海事変に始まる長期時給戦争を戦うことになった。この間、日本人は何のために中国と戦争しているのか分からず、しきりに和平工作を繰り返した。しかしうまくいかず、しまいには、その原因を米英の中国支援に求めることになった。

 これが、日本が米英との戦争に突入した際、多くの日本人が、この戦争の意義を、「弱いものいじめ」の居心地悪さから、植民地主義的帝国主義への挑戦へと、大転換し驚喜した心理的メカニズムだったのです。不思議なことに、ここでは「『中国』がいかなる意味でも問題にされて」いなかった(亀井勝一郎)。それ程、当時の日本人は「東洋王道文明」のチャンピオンとして自らを自負し、中国の独立国家としての体面は無視していたのです。

 石原の保持したこうした思想が、決して彼一人のものではなく、当時の日本人一般の気分を代表するものであった、ということがこれで判ります。

2010年11月23日 (火)

日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか

健介さんへ

 知識の整理のため、少々長くなりますが、日本軍の華北分離工作の「おさらい」をしておきます。

>支那事変(父親は北支事変と呼びました)が起きる前に、「日本軍の華北分離工作にあった」(といいますが、日本は)これを画策しましたか?成り行きでそれがおきたに過ぎないのではないですか。

tiku 7月7日に廬溝橋事件が発生した当初の日支の武力衝突を日本は北支事変といいました。しかし、それが上海に飛び火して日中の全面戦争に発展したため、政府は9月2日これを日支事変と呼び変えました。

 で、日本軍の華北分離工作についてですが、案外これが知られていないのですね。多母神氏の論文では、華北分離工作どころか満州事変にも触れていなくて、ただ、満洲における日本の条約上の権益が張学良に侵害されたことばかり言っています。こんなことでは、公正な議論ができるはずがありません。

 確かに、国民政府の革命外交はやり過ぎでした。張学良は日本の意に反して易幟(エキシ)を行い、国民政府に合流し排日運動を繰り広げました。なにしろ彼は、父親を日本軍に爆殺されたことを心底恨んでいましたからね。だが、そうした行動が、満州事変を引き起こす口実を日本に与えたことは否めません。

 蒋介石は、昭和10年至ってそのことを反省し、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。

 これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進す」る必要があるとしました。

 そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。

 こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。

 これに対して広田三原則が示される事になったわけですが、次に、その三原則についての外務省案(7月2日)と、それに対する陸軍省案(三項)及び海軍省案(六項)を比較して見てみたいと思います。

(前文) 
外:日満支三国の提携共助に依り東亜の安定を確保する・・・
陸:「日本を盟主とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す
海:「日本を中心とする」を「日満支三国の・・・」の前に付す

外:(一)支那側に於て排日言動の徹底的取締を行ふと共に、日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め(経済的文化的方面より着手す)且更に進むで満支関係の進展を計ること。

陸:(一)「・・・の徹底的取締を行はしめ」の後に、「欧米依存より脱却し」を挿入するとともに、「日支両国は東亜平和の確保に関する其の特殊の責任に基き、相互独立尊重及提携共助の原則に依る和親協力関係の設定増進に努め」という、中国側三原則に対応する文言を削除した。

海:(一)「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とするも、支那が帝国以外の強国の助力に拠りて其の統一又は分立を遂行せんとする場合あらばこれを阻止するに努めること」とした。ここで、海軍は「帝国は支那の統一または分立を援助若は阻止せざることを建前とする」ことを強調しており、この点については、外務省も付属文書で、「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」としていました。

外:(二)右満支関係の進展は支那側に於て満洲国に対し正式承認を与ふると共に、之と雁行し相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とするも、差当り支那側は少く共接満地域たる北支及察哈爾(チャハル)地方に於て満洲国存在の事実を否認することなく、反満政策を罷むると共に進んで満洲国との間に事実上経済的及文化的の融通提携を行ふこと。

陸:(二)満州国については外務省案に「満州国存在の事実を認め」という文言を挿入している。また、(一)と同様、中国側三原則に対応する「相互独立尊重及提携共助の原則に依り、日満文三国の新関係を規律すべき必要なる取極をなすことを以て結局の目標とする」という文言を削除した。

海:(二)支那側の排日言動の取締り、欧米依存からの脱却、対日親善政策の採用を述べている。

外:(三)外蒙等より来る赤化脅威が日満支三国共通の脅威たるに顧み察哈爾其の他外蒙の接壌方面に於て少く共日支間に特に右脅威排除の見地に基く合作を行ふこと

陸:(三)外務省案にほぼ同じ

海:(三)日満支の経済的・文化的和親協力関係の進展並びに日本の軍事的勢力の扶植に努めることを述べている。

*海軍案は三項目を六項目としたため、次の四、五、六がある。
海:(四)満州国について、ほぼ外務省案と同じ
海:(五)外務省案の(三)にほぼ同じ
海:(六)「日満支間の相互独立尊重提携共助の原則による和親協力の設定」は、日本が支那の日満両国との和親提携の態度が確認し、且つ支那が満州国を承認した後、となっている。
 なお、陸軍案も、この海軍と同様の内容の条件文を後文として付している。

 最終的には、三省協議の結果「広田三原則」(昭和10年10月4日)は概略次のようになりました。
前文の冒頭には「帝国を中心とする」が付され、
(一)支那側をして平日限道の徹底的取締、欧米依存政策からの脱却、対日戦前政策の採用する
(二)支那側をして満州国に対し究極においては正式承認を与えしむる事必要なるも、差当たり満州国の独立を事実上黙認し反満政策を罷めしむる・・・
(三)支那側をして外蒙接壌方面において赤化勢力の脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむる・・
 後文として、以上の日満支提携に関する支那側の誠意が確認されれば、日支間の親善協力関係の設定に関する包括的取り決め等を行う、という条件が付されました。

 総括的に言えば、この「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えました。

 この三原則に対して中国側はつぎのように答えました。
(一)今後、両国の親善関係を実現するため、中国は各国との関係につき、日本を排除しあるいは妨害するようなことはしない。
(二)満洲の現状については、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことはしない。
(三)北辺一帯の赤化防止については、日本が「中国側三原則」を実行するならば、之に関する有効な方法を協議する。

 この中で最大の問題が、満州国承認の問題で、日本側の「事実上の承認」と中国側の「不問に付す」(蒋介石)という見解にはなお距離のあることが明らかになりました。中国側の言い分としては、現状において「満州国承認」をすることは国内政治上持たないということで、この問題は将来の問題として棚上げするほかない、と考えていたのではないかと思います。事実、この交渉の中国側担当者であった王兆銘はこの交渉の後、対日融和を図ったと言うことで狙撃されています。

 その後、中国はイギリスの支援で幣制改革を断行しました(昭和10年11月4日)。これに対して日本陸軍は、「国民政府の幣制の統一は、ひいては同政府による政治的統一をもたらすことになる」としてこれの妨害を試みました。しかし、この改革は、約一ヶ月後には成功と認めざるを得なくなりました。そこで陸軍は、これを「満州事変以来の日本軍の行動に対する英国側の反撃ととらえ」華北自治運動を急速に展開したのです。

 外務省は、こうした陸軍の華北自治工作には批判的でしたが、陸軍側に押しきられて軽度の自治宣言を出すというその主張を承認してしまいました(11月18日)。有吉大使はこうした自治工作を軍事力を背景に強行することは、「支那全国の世論をあおり、両国の全面的関係を悪化せしめ、蒋介石はもとより、何人もこれを収拾し難き事情にたり至らしむる」として粘り強く反対しました。

 結局、日本の出先陸軍による華北自治運動は挫折しましたが、陸軍は、この際何としても「華北自治」を実現しようとして、日本の傀儡であることに甘んじている殷汝耕に通州で自治宣言をさせ、同時に「冀東防共自治委員会」を設置させました(11月25日)。これに国民政府は激しく反発しましたが、国民政府としては、こうした華北の自治運動に先手を打つために、冀察政務委員会を発足させました(12月18日)。

 このように華北の政治状況が混迷を深める中、日本国内では、昭和11年2月26日、二・二六事件が勃発、岡田啓介内閣が崩壊し広田弘毅が新内閣を組織することになりました。この時、関東軍参謀長であった板垣は、外相予定者であった有吉に対し「国民政府を否定し、日中親善工作を不可能視し、広田三原則を空文だと断定し、中国の分治工作を説」きました(昭和11年3月18日)。

 こうした主張は、陸軍が年来持っていたものですが、この時板垣は、こうした中国の分治工作の必要性について、それは満州国の健全なる発達を図るだけでなく、早晩衝突する運命にある対ソ戦に備えるためのものである、と述べています。また、国民党はソ連と友邦関係に入る公算が大であり、帝国と親善関係に入る能わざる本質を持っているので、華北を分立し、それと日満支提携する必要があると説いています。

 ところが、昭和10年8月1日に参謀本部作戦課長に石原莞爾が就任すると、陸軍中央部もようやく、従来の場当たり的国防計画から、長期的・組織的な計画(「重要産業五ヵ年計画」など)を持つようになりました。その結果、「第二次北支処理要綱」(昭和11年8月11日)では、「支那領土権を否認し、または南京政府より離脱せる独立国家を育成し、あるいは満州国の延長を具現するを以て帝国の目的たるが如く解せらるる行動は厳にこれを避」けるという文面が見られるようになりました。

 そうした方針転換の背後には、「まず、対ソ戦争を防止するに足る戦備の充実を図ること。そのためには、日本と華北の経済合作が不可欠であり、中国との経済的合理的提携を図らなければならない。そうすることによって日・満・支の総合国力の充実を図り、三十年後に予想される日米の一大決戦に備えるべきである」という、石原莞爾の「最終戦総論」に基づく考え方があったのです。

 上記の「第二次北支処理要綱」の付録二には、「華北の国防資源中、すみやかに開発を図るべきものの例として、(一)鉄鋼(竜烟鉄鉱河北省内の有望な諸鉄鉱の開発)、(二)コークス用炭鉱(河北省井陘炭鉱を日本合弁とし山東省、淄川・博山炭鉱など付近一帯の小炭鉱の統合経営を誘導し、開ラン炭鉱は究極において、日・英・華三国の合弁事業とするよう指導する)」等があげられていました。

 こうした中、広田内閣は、川越茂(駐華大使)・張群(外交部長)会談を継続することによって中国との国交調整に努めましたが、昭和12年1月23日、軍部の攻勢に屈して総辞職しました。その後、組閣の大命は宇垣一成に下りましたが、陸軍側の強硬な反対を受けて組閣を断念、大命は一転して林銑十郎に降下、2月2日林内閣が成立しました。外相には佐藤尚武が迎えられました。

 この内閣では、従来の対華政策に反省が加えられ、華北分治策の抛棄と冀東政府の解消が説かれ、ここに石原構想が対華国策をリードするようになりました。それは、ソ連の脅威に加えて、綏遠事変の失敗、西安事件の結果としての国共合作がなされたことによります。また、国防力の充実を図るため、前年の「重要産業五ヵ年計画」に引き続いて「軍需品製造工業五年計画要綱」が決定されました。 

 日本の対華方針がこのように見直されつつある一方で、中国政府はそれまでの対日宥和政策から次第に高姿勢に転じるようになりました。石原はこうした一蝕即発の日中関係を改善すべく、上述したような考えに基づき部内の思想統一に努めました。しかし、中国全土に広がった抗日の風潮は止めがたく、一方、日本軍内には「暴支膺懲」の「一撃論」が擡頭するようになり、そんな中でついに7月7日、廬溝橋事件が発生したのです。

 ところで、この時の石原の対支政策の転換が、関東軍はじめ陸軍省や参謀本部の幕僚軍人になぜ十分な説得力を持たなかったか、ということですが、私は、それは、石原が掲げたような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式、その中で日本が東洋王道文明のチャンピオンであり、日本は中国を導いて西洋覇道文明に対決しなければならない、といったような考え方が彼らに共有されていたからではないかと思います。

 そのため、中国を対等な独立国と見る視点を失ってしまった。同時に、イギリスやアメリカを、無意識的に西欧覇道文明と決めつけたために、それとの平等・互恵の国交関係を樹立することができなくなってしまった。さらに、そうした対立図式を持つ思潮が日本の伝統思想である尊皇思想と結びついて、当時の日本の社会を蔽ってしまったために、それから抜け出すことができなくなってしまった。

 どうも、そのようなことではなかったか、と私は思っています。つまり、石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかったのではないか。それゆえに、石原の言は十分な説得力を持ち得なかったのではないか、と思うのです。もちろん、そこには満州事変以来の下剋上的体質や軍人特有の功名心もあったでしょう。しかし、日本が先に紹介したような袋小路の思想に陥らなければ、当時の日本が直面した数々の困難を乗り越える術はいくらでもあった。広田もそれを知る一人であったはずですが・・・。

(健介さんの次のご意見)
>(終戦に向けて陸軍の面子を立てるためには)極端な話、内閣がポツダム宣言を受諾したといえば、それで案外と収まったと思います。

tiku 陸軍の”面子”と言うことをいうなら、唯一考えられるのは、アメリカがなぜ「無条件降伏」ということを言い出したか、ということがありますね。『幻の終戦工作』(竹内修司)によると、この言葉が戦い続ける双方を呪縛した、といいます。後日、勉強してみたいと思います。それで早く戦争を止められたら、原爆やソ連参戦に伴う犠牲も避けられたわけですからね。 

『太平洋戦争への道3』『日本外交年表 竝 主要文書(下)』『現代史資料8日中戦争1』参照

2010年11月20日 (土)

日中戦争は海軍の上海派兵が原因か、また、終戦の「聖断」はどのようになされたか

健介さんへ

>(米内が上海への陸軍派兵を要請したことについて)これはお答えいただきましたが、第二次上海事変が始まったときに、即座にそれを言うなら分かります。当時中国大陸における兵力配置すら知らなかったでしょうか。少し時間がたってから態度を変えています。
 その間に何があったのかです。居留民保護を目的とするにしても、引き上げる判断も可能であったというのは後知恵ですが、私はもっと言うと国際社会の支持を得るには、ある程度、邦人の犠牲が出てから、行動をする判断が必要ではなかったかと思います。
 別に彼等の陸軍嫌いが事変拡大の大きな原因ではなかったかという視点も必要ではないですか?

tiku まず、北支事変が上海事変に発展していった歴史的経過をより詳しくたどってみたいと思います。 

 石原は「上海出兵は海軍が陸軍を引きずっていった」ものと回顧しています。確かに、上海の第三艦隊などに全面戦争を想定した作戦計画があったことは事実です。しかし、それはあくまで、華北の紛争が全中国に波及した場合に備えるもので、それを望んだわけではありません。従って、北支事変を「最も真剣で寛大な条件による政治的収拾」を試みた東亜局が示した「船津案」(1933年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄するもの)に海軍は全面的に同意していたのです(この交渉は大山事件で挫折)。

 一方陸軍はどうか、石原は三省(陸・海・外)協議を経て「船津案」にそった停戦交渉案および国交調整案をまとめました(8月4日外務省から現地の船津に打電)。しかし、陸軍部内の大勢、特に中堅層以下は徹底膺懲論が横行しており、戦争指導課の「北支処理要綱」(8月9日総長決裁)は冀察を改変した華北の現地政権樹立をいい、特に、関東軍は「対時局処理要綱」(8月14日上申)で、華北五省・自治政府の樹立、南京政府の解体を説き、外交交渉による戦争の終結に反対していました。

 この間、上海周辺への中国軍の軍隊集中が顕著となり、8月にいると閘北(ザホク)方面で保安隊が連夜演習を行い不安が増大したので、上海総領事は8月6日上海居留民に租界への退避命令(婦女子は日本に引き揚げ)、さらに揚子江全流域の居留民に引き揚げ命令を発しました。8月9日大山巌事件が発生、8月10日閣議で上海居留民の現地保護方針を確認、12日米内海相が陸軍に派兵を提議、これまで不拡大を希望してきた天皇も「かくなりては外交にて収ることはむずかしい」と述べ、13日内地二個師団の上海派遣が決定しました。

 13日夜、日中両軍(中国軍4~5万、陸戦隊2,500)の間で戦闘開始、翌14日、中国空軍は上海停泊中の第三艦隊に先制攻撃、15日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し全面戦争に突入しました。8月19日増援の特別陸戦隊2,400名が上海到着、その後陸戦隊は、8月23日に内地二個師団が上陸を開始するまで、十倍ほどの中国軍の精鋭を相手に闘い抜きました。これによって内地師団の上陸がようやく可能になったのです。蒋介石はこの陸戦隊との初戦で日本軍を消滅できなかったことを悔やんでいます。

 しかし、中国はすでに前年末より上海方面を決戦場と定め兵力を集中していたため、その後の上海やその周辺における戦闘は激烈を極めました。そのため、先に派遣された第三、第十一師団の戦力は半減しました。しかし、石原は、この時期に至ってもなお戦局の拡大に反対し、苦戦する上海への増兵を容易に許可しませんでした。ようやく9月9日になって第九、第十三、第百一師団ほかの動員を下令、22日から上海上陸が開始されました。石原はこの増員の決定と共に辞任、後任には下村定少将が就任しました。

 その後も中国軍は次々と兵力を投入し(一日一個師約一万人といわれる)激しく抗戦したため、上海での戦いは旅順攻略戦に比するほどの膨大な犠牲を生むことになりました。これについては同盟通信の松本重治が「上海の戦いは日独戦争である」と書いたように、中国軍はドイツ軍の訓練を受けた精鋭がドイツの兵器で戦っていたのです。そこで、下村定少将は上海南方60キロの杭州湾に第十軍(第六、第十八、第百十四師団ほか)を上陸させました。これを機に中国軍は総退却に転じ、11月9日日本軍は上海を封鎖しました。

 この約三ヶ月の戦闘で日本軍は戦死者10,076名、戦傷者31,866名、あわせて41,942名の戦死傷者を出しました。一方、中国軍の被害も大きく、この間の戦死傷者は約30万に達したと言われます。一方、華北戦線はその後どうなっていたか。ここでの戦闘は、8月11日から河北省とチャハル省の境界線の山岳地帯から始まりました。関東軍参謀長の東條英機はチャハル兵団を編成し、軍司令官に代わり指揮をとって西進し、27日張家口、9月13日大同、24日平地泉、10月14日綏遠を占領し、10月17日包頭(パオトウ)まで進出して内蒙古の占領を完了しました。

 また、8月31日に編成された北支那方面軍の第一軍は平津戦沿いに、第二軍は津浦戦沿いに南下しました。その総兵力は八個師団約十万に達しました。また、チャハル省に入った第五師団は関東軍と呼応しつつ、山西省北部に突入しました。これに対し、参謀本部は対ソ危機に備える理由でこれら現地軍の積極論をおさえましたが、現地軍は9月20日頃から華北五省占領論に傾き、南京戦後の12月14日には早くも北平に中華民国臨時政府を立ち上げるほどの手回しの良さを見せています。(以上『太平洋戦争への道4「日中戦争(下)」』、『日中戦争はドイツが仕組んだ』参照)

 以上、廬溝橋事件後の日本軍の戦線拡大について見てきましたが、蒋介石は、昭和10年の広田弘毅外相との交渉の経過から見て、日本はすでに二重政府状態に陥っており、日本軍が華北分離工作を止めることはなく、従って、抗日戦争は不可避と見ていました。そこで、昭和11年頃からその主戦場を上海と見定め準備を進めていたのです。廬溝橋事件の発生はその準備完了までにはいささか早すぎたわけですが、中国国民の抗日意志の高まりには抗し難く、ついに全面戦争を上海戦より本格発動することになったのです。上海の陸戦隊はこの攻撃に対する応戦を求められたわけです。

 この時海軍が、居留民及び陸戦隊の全員引き揚げと決意していれば、確かに上海戦も南京事件も起こらなかったでしょう。しかし、その結果、上海だけでなく揚子江沿岸の全日本権益は消滅したでしょう。これは日本にとっては完全敗北、中国にとっては戦わずして大勝利ですから、中国はその余勢を駆って華北に攻め込んでいる北支那方面軍や関東軍との決戦に臨んむことになったと思います。いずれにしても、中国との全面戦争は避けられなかった。というのは、日中戦争の根本原因は、日本軍の華北分離工作にあったからで、これを止めない限り、日中戦争を止めることはできなかったと思うからです。

>>誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)を意識するようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。

>現象はそれでしょうが、内実は異なると思います。陸軍は自分の面子を立ててくれれば、即座に賛成でしたでしょう。その証拠に終戦後において、軍人が抗戦をしましたか?天皇陛下の命令で、それまでの言動を停止しています。自らの目的で始めた戦争ならそれと対比して行動ができますが、異なるからではないですか。要するに対米戦争は後ずけということです。(要するにしかけられた戦争と言うこと?=筆者)

tiku いわゆる「聖断」で戦争を止めることが、どういう方法あるいはタイミングで可能だったか、ということですね。よく「聖断」で戦争を止められたのだから、対米英開戦の止められたのでは?ということが言われます。しかし、天皇の国政総覧の大権は、明治憲法によって内閣の補弼及び軍の補翼によることとなっており(前者は大臣の副署を要し、後者は陸軍の参謀総長、海軍は軍令部総長が実質的権限を持っていた)、天皇がそのルールを例外的に踏み外したのは、二・二六事件の時と終戦の時の二回だけだと天皇自身が言っています。前者は首相が殺された(実際は不明)という緊急非常事態への対応、後者は、御前会議で行われた最高戦争指導会議の評決が三対三となり、最後の「聖断」が天皇に求められたためです。

 この点、軍が天皇機関説を排撃し国体明徴を訴えたのは、天皇の勅命の絶対性を主張していると見せながら、その真のねらいは、その勅命の大義名分を重臣、内閣、議会から奪い取るためだったのです。その一方で軍は、天皇が軍の意に沿う存在であることを当然とし、その「期待に背く『玉』はいつでも取り替える」としていたのです。「特攻戦法の創始者である大西軍令部次長は(天皇の「聖断」に対し)『天皇の手をねじりあげても、抗戦すべし』」と言っています。8月15日自刃した阿南陸相は14日午前7時の梅津との話し合いでも梅津にクーデターを呼びかけています。

 それというのも、終戦時、陸軍は、いまだ国内外に550万の兵力を擁しており、もし、ソ連参戦や、原爆による一般国民の大量殺傷という事実に直面していなければ、徹底的な「敗北感」を持つことが出来ず、クーデターを起こして天皇をすげ替え「一億玉砕」の本土決戦に突入したかもしれないのです。軍人の多くが、天皇の「聖断」に対して個人的には「抗戦→絶望→虚脱の過程をたどって既成事実を受容する心境に至った」とされるのも、天皇の「聖断」の重みと、そうした「現実」の重みが重なったからではないでしょうか。(『昭和史の謎を追う(下)』「終戦史再掘(上)聖断の構造」参照)

 ところで、健介さんの言われる「陸軍の面子を立ててあげたら即座に(ポツダム宣言受諾に?)賛成した」というその「陸軍の面子」とは何でしょう?また、「自らの目的で始めた戦争ではない」と言うなら、これは日米戦争より日中戦争について言うべきで、確かに、日中戦争は何のために始めた戦争か分からなかったから、戦争の目的達成と言うこともなく、だらだらと8年間も中国と戦い続けることになったのです。その戦争目的の不明確さがひいては日米戦争を止められなくしたというなら、それはその通りというほかありません。

(以下追記11/21)

 欧米各国は、日本の戦争目的を「満州国を中国に承認させること」と理解していたという。そして、広田外相が駐日独大使ディルクセンに日本の和平条件(ほぼ船図案に沿った内容)を提示したのが11月2日、これが駐華大使トラウトマンを通じて蒋介石に伝えられたのが11月5日。蒋介石はその約一月後の12月2日にこの提案を基礎に日本と和平交渉に入ることを伝えた(12月7日)。ところが、日本はその交渉に入ることなく中支那派遣軍は12月10日南京城の総攻撃を開始した。

 一方、南京城を守備していた中国軍は降伏しないまま12月12日まで抗戦を継続した。ところが12日夜、司令官唐生智は守備隊約3.5万に「各隊各個に包囲を突破」することを命令して、自らは揚子江北岸に約1.5万の兵と共に逃走した。このため、約3.5万の中国兵が武器を棄てて安全地帯に潜り込んだり、南京城周辺で日本軍に殲滅されたり、大量の捕虜になったりした。

 日本軍はこうした混乱の中で、これらの中国兵の多くを敗残兵あるいは便衣兵として処理したが、これが、欧米各国の記者の目には、「南京城総攻撃の意味不明」とともに日本軍の残虐性を印象づけるものとなった。それが中国の国民党宣伝部の工作もあって、軍人ではなく一般婦女子の虐殺・強姦事件にすり替えられ、東京裁判で「南京大虐殺」として喧伝されることになった。  

2010年11月18日 (木)

日本はなぜ繆斌工作、ダレス工作ではなく、ソ連に講和の仲介を依頼したか

*前エントリーに対する健介さんとの対話ですが、大事な観点が含まれていますので本文掲載とします。

健介さんへ

>>日中戦争による数百万に及ぶ戦死傷者の被害もさることながら、これら対日協力者が戦後の”漢奸裁判”において悲惨極まる犠牲を強いられたことについて、私たち日本人は一体どれだけ自覚的であるか、そんな深刻な疑問を抱かされたことでした。

>これは日韓併合以後わが国に協力した朝鮮人に対する扱いと同じでしょう。

tiku 中国や韓国における「漢奸」や「対日協力者」に対する扱いの過酷さは日本人の想像を絶するものがあります。政治的救済が道徳的救済になる儒教文明の問題点だとは思いますが、日本人の場合はおっしゃる通りあっさりしているというか、自らが引き起こしたこうした悲劇にどう対処すべきかという、そうした観念自体があまりないような気がしますね。中国で反日感情の最も強い人たちは、実は「民主化運動」を推進している人たちだ、ということを聞いたことがありますが、こんなところにも原因があるのかも知れません。

tiku 健介さんの米内光政評についてですが、それは多分、『米内光政と山本五十六は愚将だった』三村文夫著を参考にされたのではないかと思います。三村氏は、ポツダム宣言が出たとき鈴木首相が天皇に受諾の聖断を求めていれば、原爆もソ連来襲もなしに和平に至ることが出来たであろう、と言っていますね。また、ダレス工作の可能性についても言及しています。

 まず、ダレス工作についてですが、この工作を行った藤村義朗海軍武官がドイツ人ハックを介してダレスと接触したのは昭和20年5月23日頃で、彼はさかんに海軍省に交渉に応じるよう働きかけますが、海軍省は陸・海の離間を策するものではないかと疑い、7月20日頃にはこの交渉は外務省に移管されました。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub10.htm参照

 これとは別に、スイス陸軍武官の岡本清福と国際決済銀行理事北村孝治郎、同為替部長吉村侃、外務省(加瀬公使)による、国際決済銀行のヤコブソンを介した「ダレス工作」が7月10日頃開始されています。この時の日本側の意向に対するダレスの回答は、

1,国体の護持については、アメリカとしては了解するが、他国への思惑もあるから、明言は出来ない。
2,朝鮮、台湾問題に就いてはノーコメント
3,ソ連の参戦前に話をまとめなければ、全てはご破算になる。
だったと言います。

 しかし、この頃は大本営、政府は、ソ連を仲介にする和平を進めており、加瀬が東郷外相宛送った電報に対しては「ダレス機関との接触に関しては、出来るだけ情報を送れ」というだけで、別段の指示は与えませんでした。

 では、なぜ政府は以上のようなアメリカとの直接交渉に乗り出そうとしなかったかと言うことですが、簡単にいえば、米英との交渉では、まず、無条件降伏以外には考えられなかったからで、軍部、特に陸軍が絶対承服しない事は明白だったからです。つまり、ソ連であれば、戦後アメリカがあまり強大になることは望まないだろうし、日本が、日露戦争以前にソ連が持っていた権益を返還するなどの条件をつければ、あるいは仲介に応じてくれるのではないかという淡い期待を持ったのです。

 最終的には、近衛が特使としてソビエトに行くことになりましたが、ご存じの通り、ソビエトはヤルタ会談で、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦、さらにソ連が旅順口を海軍基地として中ソ合同で使用すること、東支鉄道と南満州鉄道が「中国長春鉄道」の名の下に、三十年間は中ソの共同管理下に置かれる外、南樺太、千島列島のソ連への引き渡し等という秘密協定をルーズベルトと交わしていました。対日参戦の方がソ連にとっては魅力的だったわけで、”知らぬは日本ばかりなり”なのでした。

 なお、このソ連を仲介とする和平工作に、徹底抗戦を叫ぶ陸軍以外の和平派といわれた人たちが、それにどれだけの期待を寄せていたかと言うことですが、「そのほとんどが対ソ交渉は極めて危険な綱渡りで、できるならば米英との直接交渉のほうがよいと考えていた」ようです。しかし、陸軍が同意した仲介が唯一ソ連だったため、それにかけざるを得なかったわけです。(『日中戦争史』中巻参照)

>彼等は何かを画策していたとしか思えない。海軍外務省宮廷この三派は何かをしていたのではないか。陸軍大臣阿南が<米内を切れ>と述べたというがそれは其の事、つまり何かを画策していたことをいうのではないか?

tiku 米内は和平派に属していましたからね。阿南はポツダム宣言受諾の御前会議の評決で三対三となり天皇聖断を仰ぐことになったことについて、海軍を和平派に与させた米内が許せなかったのではないでしょうか。また、ポツダム宣言が出された段階で天皇聖断を仰ぐことが可能だったとは思えませんし、仮にあったとしても成功したとは到底思われません。

 誠に残念なことですが、陸軍が一億玉砕の徹底抗戦から敗戦(無条件降伏)やむなしと考えるようになったのは、原爆とソ連参戦の後だったということです。今考えれば、何とバカな!と言うことになりますが、これも当時の軍が”死して悠久の大義に生きる”といったような死生観も持っていて、玉砕、特攻をよしとしていたことを思えば、これはありえないことではなかったのです。
 
>(米内は)とにかくおかしな人で、第二次上海事変のときも最初は自制をしていたが、それからは陸軍が渋るのを押し切って派兵を主張している。この変化はどのような判断だろうか。

tiku この件は前回述べた通りです。

>ミョウヒン工作が実現するようなら支那事変はとっくの昔にまとまっている。

tiku 繆斌工作の和平条件として鈴木氏が紹介している内容は確かに分かりにくいですね。より正確に言うと次のようなことだったのではないでしょうか。 

・満州処理問題については別に協定す
・日本は支那から完全に撤兵す
・重慶政府はとりあえず南京に留守府を設置し3ヶ月以内に南京に遷都す
・前項、留守府は重慶系の人物をもって組織す
・現南京政府の要人は日本政府において収容す
・日本は米英と和を構ず
(『葛山鴻爪』小磯国昭*一次資料は現在捜している所です。)

 こうした条件で、蒋介石が日本との講和を考えたその動機としては、
 「満洲の争奪戦は明らかに中共側に歩があった。(その上)重慶側としては、何よりも先ずソ連の満洲侵入を防止しなければならなかった。華北においては、延安を中心とする中共軍に対する包囲作戦が完成されねばならなかった。この二つとも日本軍の協力なしには到底実現出来ない現状にあった。」ということでした。(『日本終戦史』中巻参照)

 繆斌は『満洲と華北はなかなか複雑です。重慶側からあべこべにに日本側にもう少しいて下さいとたのむようになりますよ』と言ったといいます。(上掲書参照)

 こう見てくると、蒋介石の繆斌工作とアメリカの「ダレス工作」とは相通ずるものがあったということになりますね(そういうことなら、蒋介石が繆斌を消す必要もなかった、ということになりますが・・・)。しかし、残念ながら、それは日本が降伏することを前提にしていましたから、軍部がそれを受け入れ、つまり敗北を認めて、支那から完全撤兵するなどということは現実問題としてはあり得ないことでした。

 このような日本の政治状況について繆斌は、この工作を仲介した日本側の朝日新聞特派員田村真作に対して次のようなことを言ったといいます。

 「日本の政治家は豚頭です。中国の民衆は、納得がいかないことは政府の言うことでもききません。日本の民衆はおとなし過ぎます。日本の指導者は、世界中で一番楽でしょう。日本の民衆は気の毒ですね。」(上掲書p46)さもありなん!というべきか。

2010年11月16日 (火)

鈴木明が伝える繆斌(ミョウヒン)工作の真相

*「山本七平学のすすめ」「談話室」より再掲

 日中戦争において日本が行った和平工作は、上海事変直前まで続けられた船津工作に始まり、トラウトマン和平工作、宇垣・孔祥熙工作、王兆名工作、桐工作(中国特務機関による謀略)、銭永銘工作(松岡外相発案)、その他、スチュアート工作(アメリカ仲介)、セイヤー工作(アメリカ仲介)、「蘭」工作、リッペントロップ工作、閻錫山工作(田中隆吉交渉)そして最後の繆斌(ミョウヒン)工作があります。

 まさに日中戦争の初めから終わりまで和平工作ばかりしていた観がありますが、これは、それだけ日本にとって中国との戦争は”不本意だった”ということです。一方、中国も中国共産党に対する警戒心から、できれば日本との戦争はやめたかったわけですが、満州国承認問題や日本軍の支那本土からの撤兵問題、さらには王兆名政権の扱いなどがネックとなって、ついに実を結ぶことなく、アメリカにハルノート(中国からの完全撤兵、王兆名政権否認)を突きつけられるに及んで、対米英戦争を決意するに至るのです。

 この対米英戦に突入後の唯一の対中和平工作が、日本の敗戦間際に行われた繆斌工作ですが、これについて、鈴木明氏は著書『新・南京大虐殺のまぼろし』で、その”ねらい”を次のように紹介しています。

 この繆斌工作について、wikiでは次ぎのように説明しています。

「1945年(民国34年)3月、繆は重慶国民政府の密命を受けて訪日し、日本軍撤退などを条件とする全面和平交渉を小磯國昭内閣と行った。この交渉は、日本側では小磯國昭や国務大臣・情報局総裁緒方竹虎らが主導した。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案している。しかし外務大臣重光葵、陸軍大臣杉山元、海軍大臣米内光政は、繆は「和平ブローカー」で蒋介石には繋がっていないなどと批判し、繆の招致に反対した。小磯はあくまで交渉の続行にこだわり、4月2日には昭和天皇拝謁に際して繆を引き留めることを進言した。しかしこれがかえって天皇の不興を買うことになる。結局繆は成果をあげることなく南京に引き返し、この騒動が主因となって小磯内閣は総辞職となった。
 戦後南部圭助(頭山満の腹心)は、蒋介石に繆斌工作が蒋自身の指示で行なわれたことを直接確認したとしており、繆斌の長男である繆中も同工作が正式な和平工作であったことを証言している」

 このとき「繆斌が日本に持っていった和平条件は”日本は偽満州国を取消し、全中国から日本軍を撤退させる。そのかわりに、日本は中国で経済上の優遇を受ける。汪・南京政府はただちにこれを取り消し、その間は別の仮政府を南京に作って、国民党政府がこれを接収する”というものでした。敗戦必至の情勢にあった日本首相の小磯、東久邇などはこの案で和平を成立させたい、といったが、軍部は絶対反対を唱え、繆斌はむなしく上海に帰ってきた。

 戦争が終わったとき、上海での”漢奸粛正”は9月27日にはじまり、続々大物が捕まりました。繆斌は捕まることはなかったが、アメリカ軍が東京に進駐してきて、”佐藤事件”(佐藤は繆斌が日本に来たとき使った偽名)が一部の人びとの噂に上るようになると、蒋介石は、この中国の単独和平工作がマッカーサーの耳に入っては大変だ、ということで、ただちに繆斌を捕らえ(1946.4.3)最初の漢奸裁判にかけて処刑しました。(5.21)

 では、この繆斌工作はなぜ行われたか――「ヤルタ協定」(1945.2.11)で連合国の戦後処理が決められた後に、なぜこのような中国単独の対日和平工作が行われたかということ――について、鈴木明氏は次のような仮説を提示しています。

 ヤルタ協定はルーズベルトチャーチル、スターリン三人が連合軍の戦後処理について決めたものだが、この秘密協定の中に、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦、さらにソ連が旅順口を海軍基地として中ソ合同で使用すること、東支鉄道と南満州鉄道が「中国長春鉄道」の名の下に、三十年間は中ソの共同管理下に置かれることが決められていた。

 蒋介石はこの秘密協定に関する情報を入手したが、これは蒋介石にとって対共産党政策からいって致命的なものであり、国家としても勝手に自国の主権が「米ソ」によって売買された、屈辱的なものであったろう。ここで蒋介石は、これを機会に日本と「名誉の単独講和」という手段を取ることが最上の策と考えたが、この場合「大物」を出して失敗したら「世界」に対して弁解も出来ず、そうかといって「小物」では日本から相手にされない・・・。
 そこで、繆斌であれば汪政府の上級幹部でもあり、失敗してもどうということはない。つまり、繆斌は文字通り「日中間のゲームのピエロ」として、双方が利用し、利用されたのである、というのです。

 国際政治の非情さ垣間見る思いが致しますが、それにしても、これだけ繰り返し和平工作を行いながら、ついに中国からの撤兵問題を自らの意志で決断することが出来ず、その責任追求から逃れるためか、さらなる強硬策を採り、次第に深みにはまっていった日本軍の姿を見ると、やはり”これは弁解の余地はないな”と思わざるを得ません。

 また、鈴木明氏は、この本で、こうした日本軍が中国各地で傀儡政権を造り、自治政府という名目で対日協力者を作ってきたことが、戦後行われた中国の”漢奸裁判”において数多くの犠牲者を出したこと、このことの紹介に多くの項を割いています。

 日中戦争による数百万に及ぶ戦死傷者の被害もさることながら、これら対日協力者が戦後の”漢奸裁判”において悲惨極まる犠牲を強いられたことについて、私たち日本人は一体どれだけ自覚的であるか、そんな深刻な疑問を抱かされたことでした。

2010年11月13日 (土)

「南京大虐殺」の実相1――蒋介石の始めた第二次上海事変が南京事件を生んだ?

 南京大虐殺論争は、今日まで「虐殺派」「中間派」「まぼろし派」が相拮抗して論争を続けてきました。しかし、この間の議論を通じて、この事件の実相を見極めるための一次資料もほぼ出尽くし、主要な論点も整理されてきましたので、そろそろ、その実態について、日本人の共通認識をもつことが出来るようになったのではないかと思います。

 一次資料としては、次のようなものが挙げられます。
1,南京国際委員会がまとめた『南京安全地帯の記録』
2,『南京事件の日々』ヴォートリン
3,『南京の真実』ラーベ
4,『南京事件資料集1アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会
5,『南京事件資料集2中国関係資料編』第一編、第二編 南京事件調査研究会
6,『日中戦争史資料9』(「戦争とは何か」(ティンパーリ)、「南京地区における戦争被害」(スマイス)含む)
7,南京戦史
8,南京戦史資料集1
9,南京戦史資料集2
10,各地区「連隊史」他

 以上の一次資料に記された南京事件に関する個別データは、日本南京学会の冨沢繁信氏によってデーターベース化され、事件の種類や様相ごとに分類・集計・分析がなされていますので、それによって事件の全体像をつかむことが出来ます。もちろん、一次資料本文や他の資料を参考にすることで、個々のデータの意味を、読み取っていくことが必要です。

 以下、これらの虚実入り交じった南京大虐殺事件関係資料の中から、南京事件の核となる事実関係を取り出し、出来るだけ簡潔にその実相を描出して見たいと思います。あわせて、これらの事件がなぜ起こったかについても、考えて見たいと思います。

◎ 南京事件を引き起こした上海事変はどのようにして起こったか。

*以下の文章は、健介さんとの対話で紹介したものですが、南京事件を考える上での最重要ポイントですので再掲させていただきます。なお、これは『ケンブリッジ(ハーバード大学)中華民国史』ロイド・イーストマン著(アメリカ学会の中華民国近代史研究の第一人者)からの引用で、『新・南京大虐殺のまぼろし』の著者鈴木明氏が、現在中国でも市販されている図書として紹介しているものです。鈴木氏自身による要約文です。) 
 
 「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。

 南京にいた国民党戦略家から見ると、上海派中国軍にとって後方からの補給が容易であり、攻撃を受けた日本軍は華北のほかに、上海にも兵を割かなければならない。そしてもし上海を堅守出来れば、1932年のときのように、中国民衆の世論は政府に有利に働くであろう。

 その上、上海での作戦は外国人居留区と目と鼻のところで行われるので、このことは西側勢力の関心と同情を呼ぶことが出来るし、ことによればその介入もあり得るかも知れない。

 現在でも一部の国民党よりの学者たちは、この時蒋介石が行った大きなギャンブルは””空間を時間にかえた」大きな勝利であったと思っているが、実際にその作りだした結果は、最初に蒋介石が予想した最悪の状況よりも、遙かに悲惨な結果であった――」

 なお、蒋介石は、「上海を中日の戦いの主戦場」とするにあたって、昭和9年頃より軍の近代化(兵員の訓練・装備の近代化)と、上海・南京間の陣地構築を急ピッチで進めていました。これを指導していたのがドイツ軍事顧問団で、この関係は、日本がドイツと日独防共協定を締結した1936年11月25日以降も2年間にわたって続きました。(『日中戦争はドイツが仕組んだ』阿羅健一参照)

 つまり、日本軍は、上海事変においては、ドイツ軍事顧問団の指導によって上海周辺のクリーク地帯に幾重にも張り回らされたトーチカ群に拠り、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けた中国軍と戦っていたのです。ただし、この時点は、中国が1936年に着手した、ドイツ式の近代装備を持つ60個師団を編成する三ヵ年計画の途上にあり、蒋介石は対日戦がいずれ不可避だとしても、もう少し先に延ばしたいと判断していました。(『南京事件』秦郁彦P58)

 この第二次上海事変に投入された兵力は、日本側は海軍陸戦隊約4,500名(増派後の数字)、8月23日呉淞(ウースン)および川沙口に上陸した第三師団(名古屋)、第十一師団(四国善通寺)、さらに、9月22日から10月1日にかけて上海に上陸した第九(金沢)、第十三(仙台)、第百一師団(東京)、野戦重砲兵第五旅団など(ただし、第十三、第百一の両師団は予後備兵からなる特設師団)で、総兵力は19万に達していました。9月19日からは、渡洋爆撃に続き上海の陸上航空基地(公大飛行場)からの南京爆撃が開始されました。

 一方、中国軍は、まず(8月13日以降)、訓練された蒋介石の親衛部隊である三十六師、八十八師、八十七師の三つの部隊約3万が、上海の日本海軍陸戦隊に攻撃をかけました。しかし攻め落とすことができないまま、8月23日には日本の増援軍が上海に上陸、そこで、蒋介石は直系軍の指揮下に第一五、第八集団軍などを次々に投入し、この頃の総兵力は30万(『南京事件』秦郁彦)に達しました。

 中国軍の総兵力は、上海戦末期には最大八十三ヶ師60万(wiki)に達しました。しかし、ドイツより購入した近接戦闘兵器における火力は日本軍をしのぐものがあったものの、日本軍の持つ戦車、飛行機、軍艦などの近代兵器に乏しく、上海戦における戦死傷者は日本軍約4万1千より遙かに多い15~20万(wiki)に達しました。

 その後、日本軍は、上海への兵力増強を拒む石原莞爾少将を9月27日に更迭。代わった下村定少将は、第十軍〈(第六(熊本)、第十八(特設、北部九州)、第百十四師団(特設、宇都宮)、国崎支隊(福山、久留米)〉総兵力約6万(?)を編成し、11月5日杭州湾に上陸させました。また、重藤支隊を台湾から、第十六師団(京都)を北支から抽出して11月13日白茆江に上陸させ、第十軍の作戦に策応させました。日本軍の最終兵力は約25万(wiki)に達しました。

 それに先だって、上海方面の戦局は急速に動き始めていました。10月26日、大場鎮が落ちると中国軍の防衛体制は崩れ落ち、さらに中国軍統帥部は、第十軍の杭州湾上陸・北上を知ると、側背から包囲されるのを恐れて西方への全面退却を下令しました。すでに浮き足立っていた中国軍は、上海西方地区での包囲殲滅はなんとか免れましたが、組織的な防御態勢をとる暇なく敗走を重ねることとなり、日本軍の南京追撃を招くこととなりました。

つづく

2010年11月 3日 (水)

二人のA級戦犯刑死者の人生観とその思想――悲劇はこのどこから生まれたか

*私HP「山本七平学のすすめ」談話室記事再掲です。

(東條英機について)

 戦争責任の話が出る時真っ先にやり玉に挙げられるのが東條英機です。読売新聞が行った「戦争責任検証委員会」の報国でも、「東條元首相に最大の責任、国際感覚なき開戦」としています。

 東條英機が昭和の歴史に登場するのは昭和3年で、革新派のエリート軍官僚が作った「木曜会」の主力メンバーとしてであり、永田鉄山、岡村寧次らと共に「長州閥の打倒、国家総力戦体制、統帥権確立」をめざし、そのためには満洲の確保が必要と考えていました。

 その満洲では、昭和35年から38年まで関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長を務め、当時参謀次長だった石原莞爾に「上等兵程度の頭脳」と酷評されています。昭和12年の日中戦争開始時には強硬論を唱え、内蒙古制圧の指揮を執っています。この時多数の中国人を処刑したとされます。

 第二次近衛内閣では陸相として入閣――陸軍の悪弊であった「下剋上」を押さえ込み統制を回復させたことが評価されたためとされる――したときも、中国からの撤兵を拒否して対米強硬論を吐き、近衛内閣を退陣に追い込みました。結果、その後継内閣を組織することになりました。

 その後の対米交渉では、天皇より前回御前会議における対米戦決定の白紙撤回の要請をうけて「戦争回避」に努めましたが、陸軍も海軍もアメリカ軽視で知米派の人材を追い出していたこともあり、対米交渉はうまくいかず「人間一生のうちに一度は清水の舞台から飛び降りる」覚悟で日米開戦に踏み切りました。

 その決断を下すまでに、最も問題になったのが、アメリカに8割を依存していた石油の確保ができるかどうかでした。日本は昭和12年に昭和18年までに人造石油200万キロリットルを生産する目標を立てていましたが、昭和16年に達成できたのは月に一万キロリットルがやっと。従って、昭和16年6月21日にアメリカが対日石油輸出全面禁止した後は、日本は日支事変だけでも2年で石油はなくなってしまう。そこで陸軍省燃料化の担当者は、このことを、当時陸相だった東條に報告し、早急に蘭領インドシナの石油資源確保の手を打つ必要のあることを訴えました。

 「したがいまして、一刻も早く御決断を・・・」。これに対して陸相は「泥棒せい、というわけだな」といい、「人造石油」が駄目だったとの報告を受けた後次のように言ったそうです。
 「この切羽詰まった時になって、(人造石油が)役に立つとは思えません、とぬけぬけといいおる。自分たちのやるべきことをおろそかにしておいて、困ったからと人に泥棒を勧めにくる。いったい、日本の技術者は何をしておるのだ!」。続けて、すごすごと引き下がる担当者に向かって、「泥棒はいけませんよツ!」といったそうです。(『油断の幻影』髙橋健夫)

 東條は、憲兵を使っての政敵押さえ込み、言論弾圧、特攻の称揚、過度の精神主義が批判されます。しかし、その一方、大変な努力家であり、律儀・勤勉、それは「東条メモ」(徹底した情報処理・情報管理)によって、身内の女性関係にも厳しく、賄賂や贈り物は一切受け付けなかったそうです。

 そうした生真面目さが、一方で、愛憎の強い偏狭な性格を形成していたのでしょう。また、その人生観も、昭和17年の東京帝大の卒業式の訓辞で「自分も・・・努力して総理大臣にまでなった。諸君も悲観することはない」といって学生の失笑を買うほどのものでした。

 戦後は、自殺未遂の後「責任は全部自分で負い、悪者となって終わる考えなりき・・・勝者は敗者に対し全能の神なり」といい、敗戦の原因としては統帥権の独立と陸軍の下剋上を挙げ、アメリカの戦力を過小評価したことは認めましたが、太平洋戦争は自存自衛の防衛戦争であったという信念は曲げませんでした。

 そうして、二年半続いた裁判で、多くの被告が投げやりな態度を見せる中で、生来の勤勉さと綿密さを発揮して、法廷で丹念にメモをとる東條の姿は際だっていたと言います。冒頭に紹介した「泥棒はいけませんよツ」という言葉は、そうした氏の性格を象徴しているように思えました。(『昭和史の軍人たち』秦郁彦「東條英機」参照)

(広田弘毅について)

いわゆる東京裁判で死刑判決を受けた7名の被告のうち唯一の文官が広田弘毅でした。この広田弘毅の運命を同情的に書いている本が城山三郎の『落日燃ゆ』ですが、その末尾には次のような他の死刑囚との会話が印されています。

 処刑はまず、東条・松井・土肥原・武藤の組から行われた。
 Pマークの付いたカーキ色の服を着た四人は、仏間で花山(教誨士)の読経を受けたが、そのあと、だれからともなく、万歳を唱えようという声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場に入った。

 広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声をきいた。
 広田は花山にいった。
「今、マンザイをやってたんでしょう」
「マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」
 仏間に入って読経のあと、広田がまたいった。
「この読経のあとで、マンザイやったんじゃないか」
 花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」といい、「それでは、ここでどうぞ」と促した。
 だが、広田は首を横に振り、板垣に、
「あなた、おやりなさい」
板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。

 著者の城山はこれを広田の「最後の痛烈な冗談」といっています。

 「土肥原、板垣の両大将は、満洲(満州事変、溥儀担ぎ出し外)・華北(華北分離を進めた土肥原・秦徳純協定外)・内蒙古(内蒙古分離を進めた綏遠事件)で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。

 武藤中将は、(広田の2.26事件後の)組閣本部に乗り込み、外相候補吉田の追放など要求(自由主義者だという理由)、広田内閣の組閣を妨害した男である」

 東条大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諫止論に耳を貸そうとしなかった。木村大将は、その東条の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下軍隊を統制できず(その南京進撃を主張したのも彼)、結局、広田にまで「防止の怠慢の罪」(南京事件のこと。ただし、その実相は謀略宣伝が中心だった)をかぶせる結果になった将軍である。(括弧内は筆者補注)

 そうした彼等と同罪の罪に問われ、同じ屋根の下で、死刑執行される間際の「万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突き崩してやまなかった悪夢の声である。」その万歳!の果てが鬼畜米英が行った戦争裁判による死刑執行、”あなた、それは万歳!ではなくてマンザイなのではないか”」
 広田はそういいたかったのではないかと思います。

 そうした自己の運命について、広田は法廷で一切弁明しようとしませんでした。また、「検事側が軍と外務省との喧嘩を望んでいる。その手に乗ってはいけない」ともいったそうです。花山氏との最後の面接の言葉は「日本のどこかに、静かに世界の動きを見る人がなければいけませんね。このいそがしい時代に一々世界の動きなど考えている人はないから」でした。

 この広田の運命を決したもの、それは、日本が軍の統帥権独立の主張により、ほとんど二重政府状態に陥り、外交の統一性も一元主義も損なわれ、自らの主張する外交政策が全く行えない状況に立ち至った。広田はこの現実を誰よりも痛切に知りながら、あえて斉藤内閣、岡田内閣で外務大臣を務め、2.26事件後は首相を引き受け、さらに近衛内閣で外務大臣を務め、最後は、軍に同調する近衛首相のもとで「成行き委すより仕方がない」状態に陥ったことです。

 ”そうした危険が当然予測されたのに、なぜ火中のくりを拾ったか”。西園寺ら自由主義者に説得され「誰かが、軍に正面から反対して暗殺されるようなことを避けつつ、その地位に止まり、またある程度軍と妥協しつつ、軍の無謀な行動を抑制し善導していく。その苦業を引き受けた」(守島伍郎)という。そして、次第に「成行き委すより仕方がない」状態に陥った。

 そのために、東京裁判で死刑判決を受けたばかりでなく、国内でも、日独伊防共協定(あくまで防共が目的で広田は同盟には強く反対した)、軍部大臣現役武官制(その代わり大臣指名を三長官会議ではなく首相指名とした)、トラウトマン和平工作の失敗の責任(軍部の条件加重が原因)を負わされ、日中・日米戦争の元凶とまで目されるようになったのです。

 広田に死刑判決を下した東京裁判の形式論の”ひどさ”もさることながら、国内の広田評がこのようなことではいけない”私はそう思います。広田の最大の失敗は、近衛内閣の外務大臣を引き受けたことで、本人もそう言っていたようですが、それだけ”自分の運命を甘受する”性格だったのでしょう。では、誰か外に日本の運命を転換できる人がいたか。おそらくこの段階では誰にもできなかったのではないかと思います。

 幣原喜重郎は、こうして戦犯となった広田を弁護するため、マッカーサー総司令官あて嘆願書を書きました。広田はその在任中、「対外侵略の国策を立案し、軍部と共謀して右国策実行の準備を完遂した」ように外面的には見えるけれども、「本人の真情は之に反し、かかる陰々たる策謀に参加せずして、却って極力阻止せんと努めたにかかわらず、時利あらずしてその努力がむくいられなかったのが実情である」と訴えました。

 その幣原は、戦争末期、吉田茂から鈴木首相に早期和平を説得するよう依頼されましたが拒絶しています。「幣原の観点から言えば、軍が徹底的に敗北感を抱かない前に、外交官が和平に乗り出すのは責任の所在を曖昧にして将来のため危険だ」というものでした。(『日中外交史研究』臼井勝美P183)

 問題は、こうした軍の行動を、なぜ多くの国民が支持したかということです。この観点を飛ばして、昭和十五年戦争を反省したことにはならない。山本七平はこの不可思議な問題の解明に生涯をかけたのでした。

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