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2010年12月

2010年12月23日 (木)

統帥権が悪いのではなく、統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥ったということ(2)

(前便より続く)

 こうして、「関東軍の推進する軍の北支工作は、政府の外交方針とは全然無関係に、且つこれを無視して、秘密の間に遂行せられ、外交当局も政府も、その実相を窺い知ることは出来」ませんでした。

 「外務省の立てた前記の大局的外交方針には、軍中央部においては、表面これに賛成しながらも、その実行については、中央においても出先き軍機関においても、猛烈に反抗した。外務省が、政府において予て決定されていた所に従って、支那公使を大使に昇格して、その地位を強化して、新しい政策を強力に遂行せんとした試みに対して、軍部は、外務省がこの際更めて大使昇格を陸軍省に協議しなかったことを、脅迫をもって抗議し、外務当局に対し激しく反感を表示した。

 軍部は、すでに満洲問題は勿論、支那問題そのものを、外務省の手より引き離して、軍部の手によって処理する底意を持っていたのである。これがため軍部は北支工作は勿論、支那に関する問題は、外務省その他より掣肘を受くべきものでないとして、軍部限りにて大胆に処置し、政府自身もこれを制することを敢えてしなかった。

 在支陸軍武官磯谷少将は、しばしば日本の名において声明を発表して、列国の支那における態度を誹膀し、日本軍部の支那問題処理の決意を表明し、支那政府を罵倒し、鋭く夷国を攻撃して、政府の外交方針とは正反対の立場を取り、軍中央部またこれに呼応したため、支那及び列強の世論を沸騰せしめた。日本の実権者としての軍部の態度は、当時内外より重要視されていたので、事態は益々悪化し、政府の外交政策の統制は、愈々失われて行った。

 この軍の態度は、北支工作の進行とともに、共産党の絶好の宣伝材料となり、せっかく好転し来たった空気を混濁せしめ、満洲問題を外交的に収拾せんとする試みは、事毎に破壊された。当時、中国共産党の勢力は、蒋介石の討伐に遭って、後退を余儀なくされていたが、日本軍部の支那本土における工作に関連し、国際共産勢力か反日風潮を利用した攪乱策動は、最も有効に且つ隠密に行われておった。

 ソ連の参加後、共産分子の多くなった国際連盟は、衛生部長ライシマン(ポーランド・ユダヤ人、共産党員)を、当時日本攻撃の有力な材料であった阿片問題調査を名として、支那に派遣した。彼は、遂に支那政府の顧問となり、最も効果的に、支那政府の内部より共産党のために働いていた。ソルゲ諜報団もまた久しく支那、日本にわたって活動していた。

 コミンテルンは、世界的組織をもって日支の紛争を国際的に拡大すべく、全力を挙げていたのであった。欧米諸国におけるソ連第五列の政治上の力が、十二分に利用されたことは云うを俟たぬ。かくして、米国の対日態度は、スティムソン主義の下に、益々硬化して、理想的門戸開放政策の実行を強硬に日本に迫って、些細なことにまで、抗議と反対とを繰り返し、日本軍部を刺戟し、ついに日本当局の実現せんとした、満洲事変解決の方策を結実し能わざらしめた。

 若し、米英が日本の平和主義者の考案を是認し、日本が東亜における安定勢力たることを承認し、政治的活眼を以て支那を中心とする東亜の政局を、一応安定せしめる方針に出でていたならば、世界の情勢は、おそらく今日の如く危険なものとはならなかったであろう。」(『昭和の動乱』p104~105)

 こうして蒋介石は、日本の政治が「二重政府」状態に陥り、対支政策が軍部に主導される現実を見て、また、国内における抗日世論の激発に押される形で、安内攘外の「剿共」路線から、抗日全面戦争へと舵を切ることになったのです。こうした日本の「二重政府」状態は、二・二六事件以降も、確かに健介さんが言われるように、政府も議会も残ったのですが、日中戦争が始まってからは戦時体制に突入したこともあって、日本の政治はただ軍の決定を「翼賛」するだけのものになったのです。

 こうした状態に陥ったそのはじまりが、統帥権をテコにした「二重政府」の創出であったわけで、そして、そうした状態を、当時の政治家が党利党略で招いたのですから、昭和の悲劇の原因を、全て軍人に負わせるわけには行きません。といっても、その元凶ともいうべき政治家は、実は犬養毅でも鳩山一郎でもなく、特に前者は、森恪の要請で統帥権問題で政府批判演説は行ったものの、実際は、極力、森恪の暴走を抑制しようとしていたのです。そのため犬養は五・一五事件で暗殺されてしまいました。

 蒋介石は、中国が列強の圧力に耐えて生き残り、近代化を果たすためには、国家統一によって軍と予算を政府の下に一元化することがどれだけ重要であるか、このことを学ぶためには、日本の明治維新を御手本とするとよい、といい、次のように部下将兵たちを諭しています。
  
 「開会にあたって私は、日本の維新史の中から、長州、薩摩、土佐、肥前の四雄藩が当時自ら処した道、彼らの軍制改革の経過と彼らの改革精神を詳しく述べて、われわれ軍事同志の参考としたい。

 日本はわが中国にたいし侵略政策を実行している。われわれは日本のことを話すたびに憤慨にたえない。特に済南惨案(済南事変)発生後は国をあげて日本を仇敵としている。しかし、いたずらに憤慨するだけでは、何にもならない。

 われわれは日本がなぜ中国を侵略することができるかを知らねばならない。・・・その理由は、日本が維新の初めに健全で穏固な統一政府を組織し、現代的な国家の完成に努力したからである。

 現代的な国家を作るには、どのような条件が必要であろうか?それは一に『統一』であり、二に『集中』である。徳川幕府の末期、長州、薩摩、土佐、肥前の諸藩の中堅は連合軍を組織して、悪戦苦闘の末、ついに幕府を倒した。これはわれわれ各集団軍が一致協力して極悪な北洋派を打倒したことに、すこぶるよく似ている。

 討幕成功の後、日本の歴史の先例では、薩長の二藩が徳川氏に代って興隆すべきところだったが、長州、薩摩らは決然として大政を朝廷に捧げた。

 全国の統一が成っても、日本の朝廷には一人の兵もなかった。各藩の兵はみな藩主と君臣の関係で結ばれていた。このとき維新の諸傑は困難を恐れず、藩兵をすべて国軍に改編した。彼等は各藩の兵力を制限し、天皇の護衛に親兵(近衛兵)を置いた。さらに彼等は藩ごとの境界をとり除いて、混合、改編し、鎮台を分設、集中訓練を施した。こうして国軍の基礎は確立し、全国の統一は成った。

 日本の軍人は六十年前に封建制度を打破したが、中国の軍人は逆に封建思想に固執して、私兵をふやし、地盤を拡張しようとしている。一省を獲得するとさらに数省に割拠しようとし、数省を手に入れると、武力で国内を統一し、中央を掌握しようとした。

 これは北洋軍閥の老祖袁世凱を先例とし、段祺瑞、呉佩孚が衣鉢を受けてやって来たことである。彼等の大事な仕事は、政変のたびに地盤の分配に心を労することであった。中華民国を私有財産として分割したのである。

 日本の薩摩、長州その他は、討幕の功に居据わることなく、祖先伝来の土地を朝廷に奉還した。われわれは日本を見習わねばならない」(『人われを漢奸と呼ぶ』p172~173)

 あーあ!この明治維新が「私」を棄てて成し遂げた国家統一を、昭和の政治家と軍人たちは壊してしまった。このことの責任を、東條英機も、極東軍事裁判における統帥権乱用の訴因に反論して、それは自分たちの責任ではなく、大日本帝国憲法の統帥権の規定によって、政府の権限が国務と統帥に分立していたためだといい、次のようにその責任を転嫁しています。

 「第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。

 従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持だなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。その結果一度、作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む柳なき状態を呈したことも少しと致しません。

 然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。

 又私が一九四四年(昭和十九年)二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。

 斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。」(『東條英機歴史の証言』渡部昇一p509~510)

 なんですか?日本を「二重政府」状態に陥れたのは、自分たちの責任ではなくて、明治憲法のせいだと言うのですか。ウソおっしゃい!確かに、当時の国際政治環境や経済状況が困難を究めていたこと、それは判ります。そうした中で権力奪取を図ったのが軍だった。そして、そのために統帥権を利用し、まんまとそれに成功し政治権力を握った。なら、その権力奪取以降は、統帥権の解釈をもとに戻せばいいじゃないですか。身内のことだし権力も武力もあなたたちが持っていたのですから・・・。

 本当は、あなたたちはあなたたちなりの思想を持っていて、それで政権奪取を図った。そして、その思想に基づいて大陸政策を強権的に押し進めた。しかし、それは誤っていた、そういうことではないのですか。つまり、統帥権が禍したのではなくて、あなたたちの思想及び政策が誤っていたのではないですか。私は、あなたたちが抱懐したその思想こそ問題としたい。従って、あなたたちが統帥権の問題を言うなら、それは、それを悪用して政権奪取したその「屁理屈」によって自縄自縛に陥った、ということではないですか。

 軍が統帥権という「魔法の杖」を手に入れ、満州事変を起こし、それが最高の栄誉をもって国に遇されるようになって以降の軍の行動は、山本七平の言葉を借りれば、あたかも「日本軍人国」が「日本一般人国」を占領したかのような「二重政府」状態となりました。そこにおける最大の問題は、彼らが、「世論に惑はす、政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守り・・・」という明治以来の日本軍の訓戒を踏みにじって、ある「思想」に基づき、日本の政治を引きまわしたことにあったのです。

 言うまでもなく、石原莞爾の思想もその一つであったわけですが、彼のは所詮借り物ですからね。その基底にあったオリジナルの思想を、しっかり把握する必要があります。

11/24 00:06 最終校正

統帥権が悪いのではなく、統帥権を悪用して政権奪取を図った軍部が自縄自縛に陥ったということ(1)

健介さんへ

 思わぬことで一週間ほど入院したため、返事が遅れてしまいました。

tiku 私は前々回のエントリーで次のように述べました。
>>日本軍はトラウトマン和平工作後も、大東亜戦争に突入するまで和平工作ばかりしていました。一部の人々は、日中戦争の原因に気づくようになるのですが、それが最終的な政治判断に結びつかない。総合的判断を断固として行う意志決定のポイントが、失われていたのです。内閣の規定もなく首相権限が弱い明治憲法の欠陥だという指摘もありますが、日本が二重政府状態に陥っていたことも大きな原因でした。

 これに対する健介さんの質問
>この二重政府という事はどのような意味ですか。将軍と執権という事ですか?
 曲がりなりにも議会がありましたから、この議会の議員が行動を起こせば、それで何かができたのではと思います。
 首相は大命降下の擬似天皇親政で議会は選挙という民主体制と理解は可能ですが、そもそも、そのようには理解すらしていないような気がします。

tiku 日本が二重政府状態に陥ったのは、政府が、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦保有量総括比率対米英6割9分7厘(要求7割)等の内容で妥結調印した事に対して、軍部が、これは憲法第11条及び第12条に定める天皇の統帥権を犯すものだと激しく攻撃したことに端を発します。

(軍の統帥権)                                   第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む

(政府の統治権)                               第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行ふ                                   第55条 1国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す                        2 凡て法律勅令其の他国務に関る詔勅は国務大臣の副署を要す

(議会の協賛権)                               第5条 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ
第64条 第1項 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし                                                                                     2 予算の款項に超過し又は予算の外に生したる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す

 要するに、この天皇の統帥大権を補翼するものは軍(海軍では軍令部、陸軍では参謀本部)であるから、政府がこの統帥権に属する軍の編成に関わる軍艦の保有量を、軍令部の反対をおして決めたのは、天皇の統帥大権を犯すものだというのです。しかし、政府には海軍大臣も陸軍大臣もいるわけで、彼等は軍政の観点から政府の統治権に参画しているわけですから、当然、軍も政府の決定に従うべきなのです。

 ところが、折しも中国では、国民党による国権回復運動に基づく排日政策がとられ、満洲では張学良が易幟(国民政府に服すること)を行ったことによって、日本の大陸における立場が極めて不安定になっていました。そこで一部の政治家や軍人・右翼は、これらは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等等を定めたワシントン体制に原因があるとして、この体制下での国際協調外交を推進した幣原外相を激しく攻撃していました。

 つまり、こうした幣原外交に対する不満を、民政党浜口内閣の倒閣に結びつけようとして、政友会の森恪が中心となり、軍人を巻き込んで統帥権干犯問題を政治問題化させたのです。まさに党利党略というほかない愚行で、これによって政府の統治権は国務と統帥に分立させられ、さらには議会の立法権も予算協賛権(=審議権)も軍の行動には一切口を出せず、これに追随するほかなくなってしまうのですから、「二重政府」は政治家がもたらしたといっても過言ではありません。

 この「軍の統帥権」について石原は「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権の下に、皇国の大理想に対する絶対的信仰を以て三軍を叱咤する将帥必ず埋まるきを確信す」といっています。司馬遼太郎は、軍がこの統帥権をどのように解釈していたか、それを記した『統帥綱領』(昭和3年)と『統帥参考』(昭和7年)という本を紹介しています。(『この国のかたち(一)』)

 この本は、参謀本部刊で特定の将校にしか閲覧を許されなかった最高機密の本で、もとは二冊しかなかったそうで、敗戦時一切焼却されたとされていましたが、偕行社が奇跡的に残った本を入手し復刻したものです。そこには次のような統帥権の超法規的な権限が規定されていました。

(統帥権独立の必要)
 「二、・・・統帥権の本質は力にして、其作用は超法規的なり。・・・統帥権の補翼及び執行の機関は政治機関より分離し、軍令は政令より独立せざるべからず」

(統帥権と議会の関係)
 「三、・・・統帥権は其の(国務の)補弼の範囲外に独立す。従て統帥権の行使及び其結果に関しては、議会に於て責任を負はず。議会は軍の統帥・指揮並にこれが結果に関し、質問を提起し、弁明を求め、又は之を批評し、論難するの権利を有せず」

 こうした軍による極秘の統帥権解釈を政治問題化し、浜口首相暗殺というテロ事件を惹起させ、それによって誰も手を触れることのできない公然の解釈とさせたのが、この昭和五年のロンドン海軍軍縮条約締結の際に提起された「統帥権干犯問題」であったわけです。そして、この「霊妙なる統帥権」をつかって石原が起こした事変が、柳条湖の鉄道爆破に端を発する満州事変であったわけです。

 では、この事件がどういう構想の下に実施されたものであったかを、当時幣原外相の下で外務次官を務めていた重光葵の記述によって見てみましょう。(『昭和の動乱』p94)

「満洲国と関東軍
 国家改造計画と国防国家
 もともと、満洲事変は、日本革新運動と同根であって、大川周明博士等満鉄調査部の理論が、多分に採用せられていた。五族協和とか、王道楽土とか、財閥反対とかの左傾右傾の革新精神が、関東軍の幕僚によって、唱導せられ実行されて行った。「ナチ」に倣って、一党一国を目指す協和会も組織せられた。また、日満経済提携の協定は成立し、後には、日産を中心とした満洲重工業会社が出来て、満鉄と相列んで、満洲の経済的経営に当ることとなった。

 関東軍の頭脳は、当初より満鉄の調査部であって、後藤満鉄総裁時代に出来たこの調査部は、大連及び東京に大規模の機構を有っており、政治経済の各般にわたる調査立案に従事し、大川博士は、久しく同部を指導しておった。関東軍の幕僚が、この調査機関を利用して作成した、内外にわたる広汎詳細なる革新計画がある。これが革新の種本であって、軍部革新計画者の間に、所謂「虎の巻」と称せられるものであった。その製作者の性質に鑑み、その内容は、極度に拡大せられ、理想化せられたナチ的のものであって、内に向っては、純然たる全体主義的革新の実行を目的とし、外に対しては、極端なる膨脹政策を夢見たものであった。

 この虎の巻の全貌は、数名の中心人物(中堅将校)のみの知るところであって、これを同志の潜行的連絡によって、政府その他の機関をして、その所管内において個々に実行せしめ、全体を綜合して国家改造を実現し、革新の目的を達成せんとしたもので、目的の実行には左翼的戦術を用いていた。関東軍は、満洲事変の直接の爆発点でもあったが、日本改造運動の震源地でもあったのである。」

 つまり満州事変とは、単に「日本の生命線」である満洲を軍事的に制圧することを目的とするものではなかったのです。それは、満洲を、日本の政治体制を全体主義体制に強引するための前衛基地たらしめるものでもあったのです。そのため石原は、一時、満洲に居留する日本人の日本国籍離脱を提起したほどでした。さすがに、この提案は受け入れれませんでしたが、こうした経緯から、満洲国を内面指導する関東軍は必然的に、本土の日本政府に対して、もう一つの政府であるかのような性質も持つことになりました。

 そうした現実を象徴するような情景が同じ重光葵によって記されています。

 林総領事及び森島代理は、(満洲)事件の真相を逐一政府に電報した。総領事及び代理等は事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東軍の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。軍人はすでに思い上っていた。森島領事は、一旦軍が行動を起した以上何人の干渉をも許さぬと云う返事を得て、止むなく帰った。その時、関東軍は、事実上石原次席参謀の指導の下にあって、全機能を挙げて突進していたのである。

 張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上か風をなし、関東軍は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党拡反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。

 若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍を従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府か軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出るにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫し、若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。

 関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」(上掲書p63~65)

 こうして、日本は、統帥権干犯問題の提起と、それに続く満州事変を経て、あたかも双頭の分裂国家であるかのような「二重政府」状態に陥ったのです。日本外交は全く首尾一貫しないものとなり、日本国の国際的信用は地に墜ちました。重光葵は「満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。(『昭和の動乱(上)』p188)

 日本がこのような「二重政府」状態に陥っていることについて、中国の顔恵慶は1932年7月29日の国際連盟理事会で次のような日本政府非難演説をしています。

(日本代表が「支那を以て崩壊と無政府の状態にある」と述べたことに対して)
「日本代表は能く組織されたる国家のことを云はれたが、政府の統制を破りつつある陸海軍を有する日本の様な国が組織力ある国家であるかどうかを疑ふのである。日本の外交官が理事会に出席し、現実に種々の約束をなすに拘らず、而も翌日にはその約束が守られないと云ふのではそれは能く組織された政府を代表してゐると云ふべきであらうか。日本は二三の大国に対し錦州を侵略せずと明かに約束したに拘らず、数日ならずして錦州に入ってゐる。これでも能く組織されてゐる政府と云ふことが出来るであらうか。」(『日本外交年表列びに主要文書』下p202)

 そして、こうした日本の「二重政府」状態が、二・二六事件を契機とし、さらに日中戦争の勃発によって日本の政治が実質的に軍の統制下に置かれるまで続いたのです。もちろん、この間、このような「日本の政治機構の破壊」状況を憂える外務省をはじめとする良識派の人びとが、全く手をこまねいていたわけではありません。その代表的人物が実は広田弘毅であったわけで、彼は「ある程度までは軍と妥協しつつ、軍部の無謀な行動を、あるいは抑制し、あるいは善導していく」苦心惨憺たる「苦行」を引き受けていたわけです。「軍部に正面から反対すればただちにその職から退けられるか、最悪の場合は暗殺され」ましたから。(『昭和の動乱と森島悟郎の生涯』p94)

 こうした広田の苦行は、まず、関東軍をして北支分離工作を断念させ、満州国の経営に専念させることによって、日中親善の外交関係を確立することを、その目標としていました。しかし、残念ながら「広田三原則」においてもそれは骨抜きにされてました。このことは、その「三原則」の付属文書(一)で、「わが方が殊更に支那の統一又は分立を助成し、もしくは阻止する目的を持って以てこれを行うは、その本旨にあらず」としていたにもかかわらず、その付属文書(三)で、北支分離工作を決めた昭和9年12月7日付けの「外務、陸海軍主管意見一致の覚書」も、「これに代わるべきものの決定を見るまで」広田三原則と平行してこれを有効とする規定が挿入されていたからです。(上掲書p83)

つづく

2010年12月13日 (月)

トラウトマン工作で、参謀本部の多田次長と堀場参謀は、ほんとに蒋介石との和平を実現できたか2?

健介さんへ
> 多田参謀次長は、このままでは日本は破滅すると自覚をして、ことに望んだが、それに対して近衛と広田と米内はなぜそれを取り入れなかったのか。つまりここで収めないとわが国が破滅するという共通の認識を持たなかったのか?

tiku 今回のエントリーでの私の結論は、「この時点で戦争をやめることは誰にもできなかった」です。そのことについての論証は、私なりに尽くしたつもりですが、十分ではないようですので、関連資料を紹介しておきます。

 この間の経緯を最も正確に記録していたのが、当時内閣書記官長だった風見章です。以下、その説明を箇条書きにしてみます。(『近衛内閣』風見章参照)

・昭和7年中日中華民国大使蔣作賓が近衛を訪れ次のように語った。「日本軍部は支那の各小軍閥をたたき合わせ支那の統一を妨害しようとしている。しかし、支那の統一機運は蒋介石を中心に強固に成長している。従って、目下軍部が行いつつある蒋介石打倒をやり続けると、支那は捨てばちになって反抗するに至る、と真剣に説いた。」近衛はこれに共鳴した。

・しかし、日本の軍部は、中国が強固なる統一政権下に措かれるのを嫌い、蒋介石が統一政権として実力を拡充しつつあるのを見て喜ばず、反蒋地方政権の援助にすこぶる熱心だった。

・しかし、昭和11年後ごろになると、日本軍部が反蒋政権として育て上げようとしてきた西南地方政権のごときも、それまでの親日的態度をなげうち、逆に反日的存在に寝返るようになった。

・こうして国民政府のと中国統一機運が勢いを示し出すと、日本の軍部は、せめて華北地方だけでも日本の勢力圏として保存しようと頻りに画策した。1935年の冀東自治政府という傀儡政権をつくったのもその一環であった。華北における国民政府的勢力と、それをはねかえさんとする日本の勢力が激しくきしりあい、どうにもならなくなったところに廬溝橋事件が起きた。

・この間、中央における主流は、国民政府を相手にする方針であった。しかし、現地軍は新政権の成立に期待をかけようとしていた。この相容れざる二つの潮流が対立したまま日中全面戦争に突入することになってしまった。第一次近衛内閣は、この二つの対立する潮流がきしり合って巻き起こす波の上を、あたかも、舵なき船の如くただよわされるごとくであった。

・日中戦争が起こって後、最初の和平交渉であるトラウトマン和平交渉が本格化したのは南京陥落後の12月13日で、この日、大本営・政府連絡会議が開かれた。しかし、早くも蒋介石の国民政府ではなく、日本が樹立する新政権を相手にすべきで、蒋介石との交渉は無用とする意見が生まれていた。

・しかし、近衛は熱心に、この和平交渉に時局収拾の機会を得ようとしていたので、この交渉無用論には耳を傾けなかった。ところが、12月14日には王克敏の「中華民国臨時政府」が成立した。近衛はこのことを新聞で初めて知って憤り、これが和平交渉の邪魔になることを恐れた。

・近衛としては、陸相も華北を第二の満洲にしないと固く約束してくれていたので、まさか、和平交渉の片が付くまで、そんな事がなされるはずがないと思ってもいたが、実は、陸相も知らされていなかいようだった。それほど、当時の陸軍の統制は失われていたのである。

・12月14日には第二回大本営政府連絡会議が開かれ和平条件の審議に入った。この時の審議の様子は、外務省の石射猪太郎の記すところでは「参謀本部の多田次長外、末次内相、賀屋蔵相、杉山陸相の意見によって次々に条件加重されることになった」。多田が条件加重派に回ったことに石射は驚いている。

・これに対して、末次内相が「かかる条件で、国民が納得するかネ」と発言。これに対して、近衛が、末次氏の方に向き直りすこぶるあらたまった口調で「どんな条件にせよ、国民のため、これが最善のものだとあれば、政府としては、国民の間にどんな不平不満があろうとも、あくまでこれを断行しなければならぬ」といいきった。

・次いで風見が発言し「こういう条件では、和平は到底成り立つまいと思うが閣僚諸君はどう思うか」とたずねた。問題は華北における特殊権益確保の件で、風見はこのことを問題にした。彼は、当時の情勢から判断して、和平を成り立たすためには、満州国の承認と、抗日政策の抛棄ぐらいの大まかな条件で片付けておくべきで、華北の権益問題にふれたのでは交渉は駄目になると考えていて、まして、華北新政権が生まれるような状況では話にならないと考えていた。

・この問いに、広田はちらと風見の顔を見ただけですぐには口を開かない。するとやにわに米内海相が「ぼくは、和平成立の公算はゼロだと思う」といった。これを引き取る形で広田は「まあ、三、四割は見込みがありはせぬか」といった。陸相は「四、五割は大丈夫だろう、いや五、六割は見込みがあろう」といった。

・広田としては、前内閣である広田内閣当時の対中国政策要領で「華北の特殊権益はあくまでこれを確保する」としていたので、和平条件の決定に当たっては、これを取りのけるわけにはいかなかったのではないか。また、首相も、この決定に納得しないわけにはいかなかった。こうして和平条件は12月18日の臨時閣議で決定された。

・この和平提案は12月22日に広田からディルクセンに伝えられた。しかし、年内には回答はなく、翌年になっても回答は届かなかった。その一方で、和平交渉無用論がものすごい勢いで頭をもたげてきた。このころ、すでに華中においても華北にならって新政権を樹立しようとする工作が進められていて、外務、海軍もこれに賛同し、1月7日には川越駐華大使が「国民政府を相手にしない方がいい」という意味の意見を発表した。

・もっとも、中国通といわれた民間人たちの多くは悲観論で、国民政府との講和促進論が定論だった。しかし、後のたたりが恐ろしいという時勢であり、弾圧もひどくなっていたので、戦争反対の声はおおっぴらにはあがらなかった。

・こんな雰囲気の中で和平交渉無用論が圧倒的になり、近衛も陸海外三省がそれを妥当とするに至ったので、それに従うことになった。1月9日に政府大本営連絡会議が開かれ、政府統帥部共に「和平交渉打ち切り」に賛成し、こうして方針の切り替えがなされるに至った。

・そうした方針の切り替えがなされたのは、
(1)国民政府は重慶に移っており、やがて国民の信頼を失い地方政権に転落するに違いない。
(2)長期抗戦を叫んでいるが、それは滅び行くものの悲鳴で、日本が長期戦に引きずり込まれる心配はなくなった。
(3)新政権をもりたてることで、日本の要求を貫徹するという時局収拾の道が自ずから開かれる。
 という認識があったからです。

 言うまでもなく、こうした政府の認識は完全に間違っていました。というのは、蒋介石は(1)のような状態に陥っても、中国国民の支持を失うことはなく、さらに日本が取った(3)の方針は、中国の主権を破壊する行為として、中国に対する国際社会の同情と支持を集めることとなり、その結果、中国は(2)とは逆に、日本軍を長期戦に引きずり込むことが出来たのです。

 では、参謀本部の多田や堀場は、こうした認識の誤りから免れていたか。この件については、高田万亀子氏は次のような見解を提示しています。

(堀場について)
 「和平派として、もっともはっきり奮闘したのは戦争指導班の堀場少佐だが、その彼も自身の主観とは裏腹に、和平促進にはむしろマイナス効果さえ演じたようである。

 彼は石原イズムの観念論で、道義戦争を確信しながら、人の心理の洞察に欠け、客観的には現実味のない独善が過ぎたと思う。石射は「陸軍でともに語るに足る唯一の人」としで柴山軍務課長を挙げ、堀場を全く顧みていないが、それは理解できる。例えば堀場の和平のための「按兵不動策」――「南京攻略戦を行い、しかも攻略はせずに兵を城下に止め、戦争指導当局が勅使を奉じて城内に乗り込み、直接蒋介石と会談して双方の真意を交換し、蒋を和戦究極の決定に導く」

 「奔馬の勢」で敵首都に殺到した軍隊を城下で抑え、不動の包囲をしくことなど容易なことではない。まして中央命令違反が常習の現地軍に期待できることなのだろうか。彼らは功名にはやり、しかも現地補給で進撃しているのである。・・・

 按兵不動策は実際には部内の強い反対で潰れたが、堀場も熱心に提唱した南京攻略戦の方は、多田次長の反対も及ばず発令され、果たして提唱した堀場の意に反する実際の攻略をもたらしてしまった。これか強硬派をさらに勢いづけたのはいうまでもなく、堀場は自分で自分の足を引っ張ったことになる。

 また堀場は、蒋介石に日本の真意を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできると判断したというのだが、大軍で城下を囲み、武力威圧しながら和戦の応否を聞くという態度に、敗者か肝胆相照らせるものであろうか。

 しかも日本の真意とは、「過去の一切を清算して日支両国が互いに主権領土を尊重し、混然融和して、日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」というものである。

 堀場は本気だったろうし、日本はそれでいいだろう。だか蒋介石側はその最も嫌う満州国との友誼を強制される。散々ぶん殴り、ひったくって(満州国)、それを取り上げたまま、「さあもうおしまい。みんなで仲良くやりましょう。しかしいやだというならば」と大きな拳を振り上げているのである。だが堀場はそれに気が付かない。武力威圧されては国民の手前もあり、蒋介石はますます強くならなければならない側面もあったのにその考慮もない。

 蒋介石が差し当たって最も望んだのは、常に「まず停戦」なのである。米内が事が起こった時常に提唱するのも、両軍まず兵を引いて交渉に当たれということだった。だが「和平折衝中軍事行動を続ける」ことは、事変勃発当初から戦争指導班の一貫した方針である。

 南京攻略を唱導した堀場は、和平を的確にするためこれと並行する広東作戦さえ提唱した。蒋側から仲介受諾の回答を受けた後も、広東作戦・山東作戦を進めようとした参謀本部である。・・・広田も「和議を申し込むと同時に山東を撃つとどういう結果になるか、問題になる」と言ったが、戦争指導班といえどそうしたことは考えないようだった。」(『静かなる楯 米内光政(上)』p202~204)

(多田について)
 「統帥部・近衛・米内折角の和平交渉を挫折させた責任は、単に打ち切りの罪を論じて済むものではなく、その前、部内を統制できず、見込み不能の苛酷案を主張した多田の参謀本部と、これになす術がなかった政府がともに負うべきものではないだろうか。

 多田は、華北の中央化を否定し、次々に条件を強化していく部内強硬派を全く抑えることができなかった。「打ち切った場合の蒋否認」も承認し、自分でも見込みの少ないと思う陸軍案を主張しつつ交渉継続を迫った。彼の言動は、強硬派と堀場の双方に突き上げられ、揺れ動いている感が強い。そして最も熱烈な和平推進派の堀場もまた、その主観とは裏腹の、和平に遠いことしかできなかったと私は思う。

 「統帥部謙虚なるに」とはどこをついても言えそうもない統帥部だった。陸軍の政治力の大きさは厳然として他を圧している。新対華策が採用されたのも、船津工作、トラウ
トマン工作が推進されたのも、また対英米親善方針が嵯鉄したのも、折角あったイギリスの仲介を蹴ったのも、すべて陸軍の意向がそうだったのである。つまり陸軍の意向で国の方向は決定するのである。

 他が情けないことはともかくとして、そうした陸軍だっただけに、多田がもう少し強い次長、真に識見ある次長として部内を統御できたら、トラウトマン工作はもう少し違った展開になったろう。残念なことにそうはならなかった。

 しかも彼らは持久戦不利のことはいったが、その理由を説明することには十分でなかったらしい。それを不満がる閣僚等の言葉がもし本当なら、面子がそうさせなかったのであろう。

 そして統帥部の和平熱意は、政府宮廷筋に共感でなく不審を与えた。
 「なぜあんなに急ぐのか、危険でたまらない」
 それは天皇を含む彼らの一致する見解だった。たとえ説明がなくても察すべきであるし、彼らに認識不足があったことは弁明できないが、しかし参謀本部の方にもそう言わせるだけのものはあった。

 まず見え見えなのか対ソ戦志向である。中国との間に和平をもたらしても、それは決して平和のためではなく、次のソ連戦に備えるための和平である。対ソ戦志向の対華和平では、うかうかと乗っていけないと思うのも無理はない。それに軍人外交だから、今も見てきたようにいかにも強引で拙劣である。

 木戸は、参謀本部か外務省に任せず、自分で交渉の内容のみならず、方法にまで干渉するのを不審がり、「陸軍とドイツとの間に了解があるのではないか。ドイツ自身のために利用されるのではないか。対ソ同盟でも話し合っているのではないか」と疑っている。

 ドイツはついこの間まで親中国で、大幅な軍事援助も与えていた。上海の大苦戦には、ドイツが指導した最新式の防衛陣地を知らずにいて、ひどく面食らった点も大きく原因したという。そのドイツがここへ来て転換したのである。

 参謀本部とドイツの接近に日独同盟の青写真がなかったとは言えない。
「主敵ソ連という利害の共鳴現象がトラウトマン工作をもたらしたのではないか」
「外務省から見ればトラウトマン工作が軍部の謀略として警戒されたであろうことは想像に難くなく、このような外交二元化への広田の反発は、トラウトマン工作に本当に熱心にならない結果を招き、失敗の一因となった。そのこと自体外交を正道へ戻すことになるが、トラウトマン工作ではこの態度が不利に作用した。この点での広田の評価は一方的には論じにくい。」とはトラウトマン工作研究の先達三宅正樹氏の言葉である。その通りであろう。

 だがそれはそれとして、近衛首相や広田外相としては、軍が乗っているこの機に一気に和平に持っていく機略こそあってほしかった。(中略)トラウトマン工作は中国側の態度からみて、最も順調にいっても成功したかどうかは疑問もあるが、多田と近衛の責任は、統帥部と政府のリーダーとして誰よりも大きいであろう。

 その点米内が、連絡会議で石井の説明する「大乗的」な外務案に忠実に支持したのは、和平への大筋を誤っていない。彼も加重条件を全く否定したわけではなかったが、和平交渉のポイントが華北の中央化にあることは認識していたし、和平交渉中の停戦は持論である。ところが陸軍は南京戦を進めてこれを陥れ、華北に傀儡の北京臨時政府を樹立して、まだ交渉も始めないうちに、先の和平条件を裏切ってしまった。」(『静かなる楯 米内光政(上)』p210~214)

 私は、こうした高田氏の指摘は当たっていると思います。つまり、トラウトマン工作が、参謀本部の多田や堀場の主張が受け入れられて継続していたとしても、停戦も行われず、華北新政権が樹立されるような状況では、蒋介石がこれに応ずることはなかった。 

 つまり、中国との和平交渉が成功するための条件は、まず、和平交渉に入る前提として停戦すること。その上で、満洲及び内蒙の処理は後日の協議に譲り、長城以南の中国の領土主権の確立と行政権の完整を期す中国の原則的立場を認めること、だったのです。そのことは、その後数多く試みられた和平工作の失敗を見れば明らかです。

 日本軍は、ついに、この誤りに気づかなかったのですね。ちなみに、昭和天皇は、トラウトマン和平工作の交渉打ち切りに反対し交渉継続を主張する参謀本部の意見具申に対し、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったじゃないか」と言っています。日支間の戦争がなぜ起こったか、昭和天皇はその原因をしっかり見ていたのです。

2010年12月 7日 (火)

トラウトマン工作で、参謀本部の多田次長と堀場参謀は、ほんとに蒋介石との和平を実現できたか?

 偕行社の「南京戦史」をベースに、最新の研究成果も合わせて、「南京事件の実相」について書こうと思っていました。ところが、健介さんとの対話で、その前に、日中戦争の真の原因について再論することになりました。私は、このことについて、石原莞爾の思想(=王道思想)が内包した二つの問題点を指摘したわけですが、かなり大づかみの話でしたので、あるいは半信半疑の方もおられるのではないかと思います。

 そこで、今回はそのまとめとして、石原イズムの熱烈な信奉者であった、参謀本部戦争指導課(後に戦争指導班となる)の堀場一雄の日中和平論の点検をすることで、より具体的に、石原イズムの問題点を指摘したいと思います。

 といっても、この石原の思想については、すでに五十年程前に秦郁彦氏が綿密な分析を行っています。ところが、こうした先行研究が十分踏まえられていないせいか、いまだに、石原莞爾の思想をロマンチックに語る人が多いようです。それによって、日中戦争における日本側の「善意」を正当化できると思っているようですが、私はそれは大きな間違いだと思います。

 では、まず、秦郁彦氏の石原評を見ておきます。(『軍ファシズム運動史』「第九章 評伝・石原莞爾」より)

「失われた独裁者の座
 日本ファシズムは、ついに一人の独裁者をも生み出すことがなかった。そればかりでなく、「資本主義世界の命がけの飛躍」であった大戦争の操舵を預る指導者も持だなかった。しかし「厖大な無責任の体系」に貫かれた昭和ファシズム史のなかで、しいてその候補者を求めるとすれば、いぜん北と石原はもっとも可能性をはらんだ存在であったと言っていい。

 とりわけ石原の場合、彼の人気が絶頂に達した昭和十一年から十二年にかけて、彼をそのような地位に押しあげる現実の諸条件は、順調に成熟しつつあった。しかし決定的に重要な時点で、彼および彼の幕僚たちは、微妙な戦術上のバランスを狂わせてしまった。そして機会は永久に失われてしまったのである。しかも後に石原路線の復活を要請する客観情勢が訪れた時でさえ、彼は軍部主流への復帰を一度も許されなかった。このことは、彼が参謀本部を追われた時、すでに完全な政治的破産をとげていたのを意味する。

 石原に、このような急角度の転落を強要した要因は色々あるが。ここではすでに各所で部分的にとりあげた諸点を総括しつつ、彼の性格にひそむ二つの特徴点とむすびつけて追及してみよう。

 一つは、石原の性格が極端な二面性から構成されていることである。たとえば彼の中には、イデアリストとレアリスト、非政治的人間と政治的人間、粘着性と淡白性ともいうべき正反対の側面が常に併立している。石原の人物論において、しばしば正反対の評価が見られるのは、おそらくこの点に原因があろう。

 もっとも、一見矛盾する二要素を巧妙に操作できるのは、それ自体有力な政治技術になることであるし、実際にファシストたちにとって、デマゴギーは不可欠の武器なのである。石原においても、イデアリズムとレアリスムの立場は、後者における組織論の貧弱が日立つとしても、かなり見事な使い分けがなされている。

 少なくも西欧ファシズム理論にみられる、むき出しの闘争主義、征服論はなく、民族協和思想の外皮が、冷たいパワー・ポリティックスを包んでいた。そして権力の座からすべり落ちた石原が、レアリストの感覚を忘れ、イデアリズムからミスチシズムヘの方向をたどって行った時、皮肉にも、その民族協和、東亜連盟論は、インテリや異民族の青年をもひきつけうる有力な思想戦の武器として活用され、苛烈な占領地統治の罪過をいく分なりとも中和する機能を果したのである。

 しかし、転じて生きた現実政治の場に臨む彼は、政治を志向しつつ、政治を否定するジレンマに落ちこんだまま、最後まで脱出できないという致命的な弱点を露呈する。天皇制ファシズムのもとでは、統帥権をふくむすべての政治権力は、タテマエとして天皇の一身に独占されていたから、政治に志向する人間は、大なり小なり、偽装された論理の抜け道を工夫しなければならなかった。天皇大権を侵す行為が、君側の奸臣を討つとか、天皇機関説を打倒するという名目で、堂々と横行していた事実は、多くの例が示すところであり、軍人の政治干与を禁止する軍人勅諭の趣旨が、その時々によって、都合よく解釈されてきたのも、さきに見たとおりである。

 ところで石原の生活態度は軍務にたいする精励、公生活と私生活の峻別、金銭関係についての清潔さ。酒や女を近づけないという諸点で模範的軍人とされ、軍人の政治活動についても彼自身はこれを否認する発言をくり返してきた。

 しかし石原がたどった経歴は、決して、彼がさきのようなイメージに直結する非政治的軍人ではなかったことを証明している。したがって、「軍閥とは、勅諭の精神に反し、政治に干与する軍人のことである」と明快な定義を下し、退役の挨拶状でも、口を極めて勅諭精神の遵守を強調する石原が、満州事変を強行し宇垣内閣の成立を阻止し、林内閣を作りあげ、板垣内閣を夢想するという最大級の政治干与に眼を閉じていたのは、何としても説明のつかない矛盾であったと言わねばならない。ライバルである梅津美治郎や武藤章につけこまれる弱味も、ここにあった。

 もっとも、純粋の軍人であろうと念じつづけてきた彼の主観的信念にはねかえり。知らず知らずのうちに、その後ろめたさが、彼の中に廉潔ではあるが、権力への意志に欠け、理想主義的ではあるが、説得力の足りない非俗的性積を形成し。彼の政治計画の実現にブレーキをかけたと見ることもできよう。

 そればかりでなく、石原が描いた大軍事国家の構想が、中途でもろくも破産したのは、このように彼および彼の側近者達に致命的に欠けていた政治的粘着力と政治技術によるところが大きかった。

 もともと石原のように、奔放なひろがりを持つ政治計画をすすめる場合には。いたる所で天皇制の張りめぐらしたタブーにつきあたる危険を内包している。日蓮への入信自体、この宗派が天皇の世俗的権力を積極的に認めている点にあったし、最終戦への過程も、終極的に天皇が世界の盟主として君臨する最終目標から割りだされていた。

 すべてを自己中心に解釈する天動説的思索は、また同時に天皇を世界の中心にすえねば止まぬ同心円的構造に拡大されていた。この絶対の前提は。客観情勢がどのように変っても、動かせないものであったから前記の危険を避けつつ、政策路線を撰択しようとすれば、その範囲は狭まって行く一方であり、したがってミスチシズムに逃避するほかなくなってくるのである。この点で、。石原もまた二・二六青年将校団とは別の意味で、天皇制軍事官僚として迷いこんだ袋小路から脱け出せなかったのである。

 最後にもう一つ付け加えておきたいのは、彼の思考様式における突然変換の特徴である。すでに見てきたように、中国観の変遷、満州国独立、対ソ戦略への転換、二・二六事件の処理、さらに戦後の非武装中立論への転向と、彼の思想は思い切った鋭角的な屈折を重ねている。なかには百八十度の急速変換と言うにふさわしい場合もあった。

 それは、良く言えば環境の変化にたいして敏感な機動的性格になるし、逆にオポチュニズムと誤解されやすいもので、この点は「英雄は頭をめぐらす」と揚言した松岡洋右に似かよっている。しかも天才にありがちの自信過剰で、せっかちで妥協性に乏しく、他人に納得させるだけの説明を尽くさないので、第一級のエリートたちから敬遠されるようになり、周囲には、彼を教祖と仰いで、その「神託」に盲従するいわゆる「石原信者」だけしか残らなくなった。加えてパラドックスに富んだ痛烈な皮肉とば倒は、しばしば人に不快感を与え、不要の敵を作りがちであった。

 また彼は、秀れた着想を個人的な発想の場から既成組織の事務手続にのせて、定着させる根気のいる努力を怠り、満州事変と同じように、少数の同志だけで専行しようというくせが抜けなかった。永田鉄山、梅津、武藤、あるいは東条のような、適材を、適所で活用する包容力が望まれたのである。

 しかし、晩年の石原には、かっての烈しい鋭鋒はようやく影をひそめ、長所だけが伸びて、近寄る人々の胸に深い感銘を与えていたのも事実であった。死の少し前に写され、今では石原の代表的肖像になっている斜横からの表情は、毅然とした精神的姿勢のなかに、高僧の晩年を思わせた慈愛にみちた暖かさと懐しさを秘め、見る人に忘れがたい印象を残す。石原莞爾の一生は、やはりそうした両面性の稀な結晶だったのであろう。」

 客観的な石原の評伝を書くとするなら、以上の叙述に尽きると私は思います。しかし、石原の思想は、石原個人の人生を左右しただけのものではありませんでした。それは、謀略に始まる満州事変の真実を隠蔽し、それを正当化しただけでなく、米国との最終戦争を予言することによって、日本軍に、満洲さらには華北の資源も不可欠と思わせるに至りました。そうした日本の行動が、中国の反発を生み、日中全面戦争を引き起こす主因となったのです。

 ところが、石原自身は昭和11年末になってようやく、日本軍の華北分離工作の危険性に気づき、関東軍にこの工作を断念させようとしました。しかし、彼等は、そうした石原の意見には従おうとしませんでした。なぜなら、それで石原の「最終戦争」論が抛棄されたわけではなく、中国に対して同様の観点に立った協力を求めるなら、蒋介石にはその見込みはなく、従って、別の親日政権を打ち立てるしか道はない、と考えられていたからです。

 また、中国人の民族性に対する認識の違いもありました。確かにシナ屋といわれた軍人たちは、中国人のナショナリズムについての認識を決定的に誤まりました。といっても、石原の協和思想も多分に、日本人の尊皇思想に淵源する一君万民的統治観念によるものであって、現実の中国人にとっては、それは日本を盟主とする思想の押しつけに過ぎなかった。それが抗日運動に火をつけることになったわけですが、日本政府はそれを中国政府の反日宣伝の結果と見て、その取り締まりを執拗に求めました。

 そんなわけで、石原の政策転換は、省部、統帥部における幕僚軍人の支持を受けることができず孤立してしまいました。こうした石原の思想的矛盾は、上記の面に現れただけでなく、華北への出兵容認といった形にも現れ、さらに、蒋介石の意志によって開始された第二次上海事変への対応についても、増派をしぶって戦力逐次投入の愚に陥り、また、ようやく増派した兵力も、あえて予備・後備役を充てるなどして、日本軍に多大な犠牲をもたらしました。

 げに、思想的混乱ほど恐ろしいものはないと言うことになりますが、同様の問題は、トラウトマン和平工作における、参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀の言動にも見ることができます。よく、この和平工作において、昭和13年1月15日以後、中国との和平交渉を継続すべきか否かを巡り、参謀本部が交渉継続を主張したのに対し、政府が交渉打ち切りを主張したことについて、日中戦争の戦争責任を、軍人ではなく文民政府に求める意見が多く見られます。

 しかし、私は、この論は間違っていると思います。なぜか。堀場参謀らがほんとうに日中戦争を終結し和平に導きたかったなら、そのための唯一の方策は、国民政府の華北の行政権は犯さない。中国に満州国承認を強要せず、当面満洲経営に専念する、という二条件を、軍全体の了解事項とする必要があったからです。そうすれば、それは広田からトラウトマンに示された第一次和平提案の中身でもあり、これについては、蒋介石も12月7日、トラウトマンに、この条件を基礎として和平交渉に応ずる、と回答していたのです。

 といっても、蒋介石はこの回答に付け加える形で、12月6日にトラウトマン大使に対して、次のような「付加条件」を示していました。

 「日本は信用できない。条約を平気で違約し、言動も常に信じられない。われわれはドイツと友好関係にあるのだから、われわれはドイツと友好関係にあるのだから、ドイツの誠意は信じているし、感謝もしている。そこで大使閣下に、特に日本に報告していただきたい点が二つある。それは中日談判に当たって、ドイツは終始公平な仲裁者として徹底してもらいたい。次ぎに華北の行政権は、絶対に中国側で確保しなければならない、の二点である。さらに日本側が戦勝国の態度で臨んだり、この条件を持って最後通牒としないことである」

 こうした蒋介石の強気の言い方に対して、トラウトマン大使は「中国政府は現実を良く認識して、分に過ぎた要求はせず、ここのところは我を張り通さぬ方が良いであろう」と忠告しました。これに対し蒋介石は、「それでは同じことである。現在のように激しい戦いが行われている最中に、調停など成功するはずがないのであるから、ドイツがまず日本に対して停戦させることを望む」

 こうした蒋介石の回答は、先に見た通り12月7日に、駐日独大使ディルクセンから広田外相に伝えられたのですが、日本側は蒋介石が求めた停戦に応じることなく、12月9日には南京城に降伏勧告のビラをまき、10日の応答期限までに中国の意思表示がなかったとして、同日から南京城の総攻撃を開始し、12月13日には南京城を陥落させこれを占領しました。

 そして、南京陥落後の12月14日、中国側に示す日本側の和平条件が、大本営政府連絡会議において検討されたのですが、参謀本部の多田次長外、末次内相、賀屋蔵相、杉山陸相の意見によって次々に条件加重されることになりました(近衛首相、広田外相は無言、米内海相は加重に反対)。

 こうして条件加重された案は、外務省東亜局長の石射猪太郎によれば、まず、①華北の中央化を妨げない趣旨が特殊地域化に変わり、②塘沽協定を始め諸軍事協定の解消、冀察及び冀東政府の解消が削られ、③上海周辺の非武装地帯が華中占領地に拡大され、④損害賠償も加えられ、さらに、⑤これに基づく和平協定成立後初めて停戦協定に入るなど、中国に屈服を強いるものでした。石射は「日本は行く処まで行って、行き詰まらなければ駄目と見切りをつけ」「これで蒋介石が講和に出てきたら彼はアホだ」と慨嘆しています。

 つまり、この条件では、蒋介石が講和に出てくる可能性は、全くなかったのです。そこで堀場は、①や③の条件については、日本があらたに示す9項目(参照)の講和条件を一旦すべて受け入れ、「日支両国提携共助の我方理想に真に協力」する態度を示せば、その段階でこれらの条件は解除する、という意味の保障条項とし、②は講和成立後に解消する、とするなど、陸軍内の強硬派との折衝によって条件緩和をはかり、これを、中国側に示す第二次和平案としました。(このあたりの詳しい経過は「トラウト万和平工作をめぐる10の疑問」参照

 さらに、堀場は、昭和13年1月11日の御前会議で決定された、次の「支那事変処理根本方針」前文に見るように、日満支による東洋平和の枢軸形成(=協和思想に基づく渾然融和の国交の樹立)という理念を、前文で高らかに唱いあげることによって、日本の支那事変処理の根本精神を明らかにしました。堀場は、このように日本側の真意を蒋介石に示すことによって、支那事変を講和に持ち込むことは可能だと信じていたのです。

(御前会議議題)
 帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり、右の国是に基き今次の支那事変処理に関しては、日支両国間過去一切の相剋を一掃し、両国国交を大乗的基礎の上に再建し、互いに主権及び領土を尊重しつつ、渾然融和の実を拳ぐるを以て窮極の目途とし、先づ事変の再起防遏(あつ)に必要なる保障を確立すると共に左記諸項を両国間に確約す

(一)日満支三国は相互の好誼を破壊するが如き政策、教育、交易、其他凡ゆる手段を全廃すると共に右種の悪果を招来する虞ある行動を禁絶すること

(二)日満支三国は互に相共同して文化の提携防共政策の実現を期すること

(三)日満支三国は産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基き共同互恵を約定すること

 だが、中国側は15日の回答期限の前日に、ディルクセン大使を通じて「日本側提示の条件は漠然として詳らかならず、もっと具体的に明示されたし」と回答してきました。これに対して1月15日、大本営・政府連絡会議が開かれ、交渉継続か交渉打ち切りか巡って激しい議論が交わされました。総理以下政府側は、陸軍の杉山陸相を含めて交渉打ち切りを主張し、参謀本部の多田次長は交渉継続を主張しました。

 この時、広田外相が「私の永い間の外交官生活の経験からみて、中国側の態度は、和平解決の誠意のないことは明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と言った。米内海相はこれに同調し、「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないということは、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と言った。

 これに対し、多田参謀次長は「明治天皇は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田次長が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず、最後の賭として、天皇上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛首相によって、参謀本部の試みは阻まれた、とされます。

 これをもって、日中戦争が泥沼の持久戦に陥ったその責任は、参謀本部にではなく、文民政府が負うべきだ、とする意見が大勢を占めることになったのです。しかし私は、こうした意見には賛成できません。というのは、仮に、多田参謀次長や参謀本部戦争指導班が言うように、この時交渉が継続されていたとしても、それは、まず中国が日本に屈服することを前提とするものであり、それを蒋介石が飲む可能性はほとんどなかったからです。というより二重政府状態に陥っている日本政府を蒋介石は全く信用していなかった。(下線部修正12/8)

 そうなれば、参謀本部は、「支那と提携して東洋平和の枢軸を形成」するため、占領地に親日自治政府を擁立するほかなくなったでしょう。実際、その後、堀場参謀が策定した「日支関係調整方針」(昭和13年4月頃)を見ると、「北支及び蒙彊における国防上及び経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の建設」を主眼としており、これは「石原イズム」を前提とするものであり、結局、これでは、政府の選択と変わるところはなかった、ということになります。

 もちろん、交渉打ち切りを主張した政府側に、和平実現に向けた有効な案があったわけではありません。とりわけ近衛首相の「蒋介石を対手とせず」という声明が、愚劣であったことは言うまでもありません。広田も含めて政府は、華北の新政権樹立が成功?したこともあって、「この形勢変化には策の施しようなしとして自然の成り行きに任せ、当分国民政府を相手にしない」(『廣田弘毅』)こととしたのです。しかし、これでは華北新政権の容認したことになり、中国の主権を否認したことになります。(下線部修正12/8)

 しかし、政府としては、第二次上海事件で4万人を超える膨大な犠牲者を出した上に、相手国の首都南京を陥落させた後の講和条件が、事変発生前の条件に戻るようなことは、到底できなかったでしょう。まして、第二次上海事変は蒋介石のイニシアティブで始められた戦争ですからね。近衛首相は、参謀本部がどうしても講和したいというなら、政府を納得させるだけの説明をすべきであり、「閣僚も其説明により真に能く事情を了解するに至らばいかなる譲歩も之を忍び局を結ぶことに全力を注ぐことと成るべし」と言っていましたが・・・。

 つまり、参謀本部の、中国との持久戦争を避けるとか、ソ連との国境が心配だなどという理由は、日本が中国と和を結ばなければならない絶対的根拠を示すものとは認められなかったのです。政府としても、その主張は判るが、しかし戦勝国である日本が、なぜ今この時点で、自らの膝を屈するような形で、蒋介石に和を請わなければならないのか。なにかそんなに慌てなければならない理由があるのかと疑問に思ったのです。そのため、参謀本部の早期講和の意図を、ドイツと共謀してソ連を攻める裏取引でもあるのではないかと疑ったほどでした。

 まあ、結論を言えば、この時点で戦争をやめることは誰にもできなかった、ということですね。では、そのターニングポイントはどの時点か?(挿入12/8)

 第一には、満州事変に無理があったと言うことですね(石原の戦争責任その1)。その無理を帳消しするために「満州国の承認」を中国に強硬に求めることになった。さらに、その無理から来る対米英摩擦を、東洋王道文明vs西洋覇道文明という対立図式に基づく「最終戦争」論で宿命づけた(石原の戦争責任その2)。そのため、自ら創出した脅威論によって自らが呪縛されることになった。その結果、満洲だけでなく華北の資源も不可欠だと考えるようになり、中国に対してそうした考えを押しつけようとした。しかし蒋介石はそれを拒否したので、やむをえず、華北に親日政権を樹立することを目指した。それが日中戦争を不可避なものにした・・・。

 この流れの中で、第二のターニングポイントを探すとすれば、それは、満州事変はやむをえなかったとしても、華北に手を出すようなことは絶対にしない、ということでした。できたら満洲の宗主権を中国に認めて、当面、満洲経営に専念する、それくらいの知恵と余裕を持てば、その後の悲劇は避けられたかも知れません。残念ながら、それだけの知恵を、当時の日本人は持たなかった、ということですね。

 第三のターニングポイントは、船津工作を成功させることでしたね。ただ、8月7日頃には蒋介石は最終的に全面抗戦を決意していたと言います。船津が上海に到着したのが同じ8月7日ですから、間に合わなかったのですね。ただ、これで、日本の陸海外三省には、中国と戦争する意志は全くなかったと言うことが判ります。せめてもの救いですね。(12/10挿入)

 それにしても石原の戦争責任その1、その2は、看過できるものではありません。多田や堀場は、その思想の内包する矛盾に翻弄されただけ、ということが言えのではないでしょうか。

12/11 1:45 最終校正

2010年12月 4日 (土)

石原莞爾及び日本人一般の「一人よがり」の王道思想が日中戦争を招いた

 「蒋介石が、その高級官僚をすべて集め「全面抗戦」を決定したのは、(昭和十二年)八月七日のことである。ここで、蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは、華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。」(『ケンブリッジ中華民国史』ロイド・イーストマン)

 ここに至るまでの蒋介石の、日本との国交調整の歩みについては、エントリー「日本はなぜ満洲に満足せず、華北分離工作を始めたか、また、石原はなぜそれを止められなかったか」に見た通りです。昭和10年初めには、蒋介石は、日本側に日中親善「三原則」を示し、同年9月には、満州国の独立について「これを不問とする」ところまで妥協しました。これに対して日本政府は「広田三原則」で答えようとしましたが、陸軍はこれを中国の「三原則」を無視するものに変えてしまいました。

 それだけでなく、関東軍は、こうした日中親善を目指す政府の外交交渉を妨害するため、1935年半ば頃から、武力による威嚇を背景に、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を中国に押しつけ、華北分離工作を開始しました。こうした日本軍の行動に対して、中国では抗日世論が激高し、そのため蒋介石は、1935年の末頃には、国内優先の政策(掃共、地方軍閥整理、自身の指導力強化、経済建設)から、「対日戦争準備」に転換せざるを得なくなりました。

 こうした蒋介石の政策転換に、日本側は何時気づいたか。大方は、第二次上海事件が勃発して以降だと思いますが、石原莞爾も、昭和11年8月の「戦争計画」では、「(中国の)政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐・・・用兵の範囲は北支、山東、要すれば中支、やむを得ざれば南支」などという楽観的な認識を示していました。ところが、綏遠事件の失敗や西安事件を機に、石原は急角度にそうした認識を改め、昭和12年1月には「侵略的独占的態度」を是正し「北支分治工作は行わざること」と従来の政策を急転回させました。

 その直後に成立した林銑十郎内閣の外相に就任したのが、前回のエントリー「日中戦争、これに直面するもしないも「日本の考え方如何によって決まる」・・・」で紹介した佐藤尚武でした。彼は、対支再認識論を説いて、冀東政府の解消を初めとする北支工作の停止を骨子とする「北支指導方策」(37年4月)をまとめ、中国政策の転換を図りました。それを実質的に支えたのが石原莞爾だったわけですが、こうした政策転換に正面から抵抗したのが関東軍参謀長だった板垣征四郎でした。

 結局、石原は、関東軍を初めとする軍内の対支強硬派を説得出来ないまま、日中全面戦争突入した後の1937年9月に、参謀本部第一部長の職を辞すことになりました。ではなぜ、石原は、自分の古巣である関東軍のかっての同僚や部下たちを説得出来なかったか。これについては、私は前前回のエントリーの末尾で、「石原と彼に反対した中堅幕僚との違いは、目的や手段の違いではなくて、単なる手順の違いに過ぎなかった」ためではないか、ということを申しました。

 どういう事かというと、実は、関東軍の将校たちは、石原の唱えた日米「最終戦争」論の観念的継承者であったということです。つまり、彼等にとって日中親善とは、あくまでも、当面は対ソ、最終的には対米戦争に備える資源確保のためであって、もし中国がそれに応じないなら、華北分治もやむを得ないと考えていたのです。彼等は蒋介石がそうした日本の要求にすんなり応じるとは思えられなかった。従って、彼等には、対支再認識論を唱え華北分治工作の転換を迫る石原のやり方が”手ぬるい”ものに見えたのです。

 実際、石原は、「満州事変前すでに最終戦の観点から、満蒙の資源だけでは十分でない」と考えていて、満州事変後は「山西の石炭、河北の鉄、華南、山東以南の綿」が必要と考えるようになりました(「満蒙問題に関する私見」)。また、昭和10年8月に参謀本部作戦課長となって策定した「重要産業五ヵ年計画」を達成するためには、華北の「神話的資源」は不可欠と考えていました。そのため、昭和10年半ば頃から関東軍が始めた華北分離工作を容認してきたのです。(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p234)

 その後、石原は、昭和11年半ば頃になって、ようやくその危険性に気づくようになり、一転して「華北資源不要論」を唱えるようになりました。そこで、満洲資源の再調査して必要な報告を提出させ、部内の思想統一をはかったのですが、上記のような理由で、彼等を説得することはできなかった。といっても、華北分治を進める彼等が中国との戦争を望んでいたわけではなく、まさか、中国が日本に対して全面戦争を挑んでくるとは思っておらず、反抗するなら膺懲=懲らしめる、程度にしか考えていなかったのです。

 こうした「迂闊な」考え方をどうして日本軍がしていたのか。それは、次の松井石根の「日中戦争論」を聞けば、その特異な性格が分かると思います。言うまでもなく、松井石根は、第二次上海事変勃発に際して上海派遣軍司令官に任命された人物であり、任命当初から、南京を落とすことをその戦略目標としていました。

 「そもそも日支両国の闘争は、いわゆる『亜細亜の一家』における兄弟喧嘩であり、日本が当時武力によって、支那における日本人の救援、危機に陥った権益を擁護するのは、真にやむを得ない防衛的方便であることは言うまでもなく、宛も一家の内で、兄が忍びに忍び抜いてもなおかつ乱暴を止めない弟を打擲するに等しく、決してこれを憎むためではなく、可愛さ余っての反省を促す手段であることは、自分の年来の信念であった。」(東京裁判における松井石根の宣誓供述書の一節)

 つまり、日本と中国の関係を、「亜細亜の一家」における兄と弟の関係と見なしていたのです。そして、その「亜細亜の一家」の中で、アジア復興という使命にいち早く目覚めた長男が日本で、そうした使命をなかなか自覚できず、兄である日本に対して反抗し乱暴し続ける弟が中国である。そこで、日本は、中国にアジア復興のために奮闘しているの日本の使命を正しく認識させるために、心ならずも弟である中国に「愛の鞭」を振るったのだ、というわけです。

 こうした「一人よがり」な日本の態度を見て中国は、昭和10年1月に中国側「三原則」を日本側に示しました。その言わんとするところは、次のような事だったと思います。

 「中国は独立国家であり、日本とどのような関係を結ぶかは、中国自らが主体的に考えるべきことである。日本が、そのような中国の独立国家としての主権を尊重し、日中間の問題をあくまで外交交渉によって解決すると約束してくれるなら、中国としても、日本が直面している資源問題や人口問題さらには経済問題などの解決に、できるだけの協力をするつもりである・・・」

 要するに蒋介石は、日本に対して、まず「中国を独立国家として認めること」を要求していたのです。しかし、当時の日本人は、松井石根の「亜細亜の一家」論に見るように、東洋「王道文明」VS西洋「覇権文明」という対立図式を自明のものとし、そうした図式の中で中国を位置づけていたために、上記のような中国の要求が、兄である日本が立てた「アジア復興」プログラムに従わない、「自分勝手な」行動に見えたのです。

 ところで、ここに言う「王道文明」VS「覇道文明」における「王道」とか「覇道」とはどういうことか。ブリタニカ国際百科事典によれば、王道とは、孔子や孟子の唱えた「徳を政治原理とする政治」のあり方で、仁政によって人民の経済的安定を図るとともに、人民を徳化することで社会秩序を維持しようとする考え方。一方、覇道とは、春秋時代の覇者の行った武力による権力政治のことで、利や武力を用いて社会秩序を維持しようとする考え方、だそうです。

 こうした「王道」、「覇道」という考え方は、言うまでもなく中国の儒教思想に基づく考え方ですが、では、松井石根の「亜細亜一家」という考え方は、こうした儒教の考え方とどのように関わっているのでしょうか。実は、この、国家を家とを同定する考え方は、儒教思想の日本的変容と言うべきもので、つまり、家族倫理としての「孝」と政治倫理としての「忠」を一体化し、「忠孝一致」とすることによって、国家を家族の延長と見る考え方なのです。

 言うまでもなく、こうした「忠孝一致」の国家観は、日本の幕末期に、後期水戸学が生み出したもので、尊皇思想に基づく「一君万民」思想が生み出したものなのです。それは、一君である天皇を一家の家長(=大和民族の宗族の長)に見立て、その臣民を赤子として、両者の関係を「忠孝一致」の親子関係と見なす「家族的国家観」なのです。当時の日本人は、こうした国家観を「王道文明」に基づくものと考え、それを中国にも当てはめ、中国に「亜細亜の一家」となることを求めたのです。

 そうした日本人の「一人よがり」の思想に基づく「善意」が、どれだけ満洲人や中国人、あるいはフィリピン人を傷つけたか、『炎熱商人』の著者深田祐介氏は、佐高信氏との対談で、次のような指摘を行っています。

 日本人は「アジアは一つ」と言った。しかしそれは日本人の独善的な思い込みに過ぎなかったのではないか。

 「フィリピンはカトリックだし、ビルマ(ミャンマー)は仏教(それも日本の仏教とは相当に異なっている=筆者)、インドネシアはイスラム教ですからね。宗教一つをとってもアジアは一つではない。あのスローガンはどれだか誤解をもたらしたか・・・」

 「内面指導は日本人を解く大きな鍵ですね。とにかく日本人は内面指導が好きなんですよね。満州国に行って、先ず日本人による行政機構を作る。この機構の次官クラスが満洲人を手取り足取りああせいこうせい『内面指導』する。」

 「主観的な善意を平然として押しつける。その思い込みの善意が相手のプライドをいかに傷つけるか、と言うことが日本人には分からない。他民族のプライドを考えられなかった、というのが戦前、戦時中の日本人の致命的欠点だったんじゃないか。満州国建国のニュース映画を見ても、建国の式典でまず最初にやるのは『大日本帝国万歳』とか『天皇陛下万歳』で、最後に『満州国万歳』をやっている。仮にも独立国の式典でしょう。常識で言ったらあり得べからざる話ですね。・・・吉岡中将が溥儀を説得して、『満州国の建国神は天照大神』にしてしまうんですね。信仰の問題に就いても内面指導をしているのだから驚きますね。」(『黄砂の楽土――石原莞爾と日本人が見た夢』佐高信P215~216)

 では、こうした日本人の内面指導の弊から石原莞爾は免れていたでしょうか。満州において五族協和を説き、進んで、東亜連盟という王道思想に基づく連合国家構想を説いた石原の理想主義は、はたして、満洲に住む各民族の精神的自由を保障するものだったか。また、石原のいう東亜連盟は、世界最終戦を経て八紘一宇という天皇を中心とする世界家族国家を想定していましたが、果たしてそれは、この連盟を構成する各国家の主権を保障するものであったか。

 このように見てくると、石原の思想には二つの重大な欠陥があったと見ることができます。一つは、彼の「東洋王道文明」VS「西洋覇道文明」という対立図式は、実は日本独自の「家族国家」思想から生み出されたものであり、いわば日本の被害者意識が生み出した幻想に過ぎなかったということ。そして、そうした図式の中で中国や英米との関係を位置づけようとしたことが、結果的に、中国の独立国家としての主権を犯すことになり、さらに、英米の自由主義国家を敵に回すことになった、ということです。

 もう一つは、石原の民族共和の思想は、決して普遍思想となり得るものではなく、実は、儒教思想の日本的変容である尊皇思想に基づく「忠孝一致」思想だった、と言うことです。石原は、その思想を田中智学を通して八紘一宇の世界家族思想として普遍化しました。しかし、それに基づく国家観が幻想であった如くに、「忠孝一致」という個人倫理も、それはあくまで、日本の思想の歴史的発展の中から生まれた日本の固有思想であって、アジアの国々の人びとに一般的に適用できるものではなかったのです。

 こうした石原の唱道した思想が、戦前の(昭和における)日本人を金縛りにしたことが、当時の国際関係の中で、日本が、現実的・合理的・理性的な対応ができなくなった第一の原因ではないかと思います。では、そうした思想的伝統を持ちながら、どうして日本は明治維新以降の近代化に成功し、大正デモクラシーの時代まで到達し得たか。それは、「忠孝一致」の尊皇思想の、さらにその基層には、武家文化が育てた「器量第一」=実力主義的の伝統文化があったからではないかと思います。それが、近代化の求める諸課題への機能的な対応を可能にした・・・。

 また、それが昭和の「一人よがり」の世界観や、はなはだしい人命軽視に陥らなかったのは、西欧文化に学ぼうとする姿勢が、自ずと人びとを謙虚にしたということ。また、人びとが、江戸時代の身分制から解放されて、「独立自尊」という自己責任の世界で生きるようになったとき、自ずと、理想と現実の緊張に耐えて生きることを学ばざるを得なかったということ。さらに言えば、その理想と現実の緊張に耐える武士的な個人規範が、まだその時代には生きていた、ということではないかと思います。

 それらが昭和に入ると失われた。まず、西洋文化に学ぶ姿勢より、それに対する被害者意識の方が強くなり、むしろ、日本文化、東洋文化の方が優れていると自惚れるようになったこと。「独立自尊」の精神が、次第に社会組織が安定し固定化するにつれて、組織に依存する体質が優位を占めるようになり、個人倫理としての規範力が弱まったこと。さらに決定的な問題は、大正自由主義の時代に続く社会的・経済的混乱を経て、自由主義的観念が次第に忌避されるようになったと言うことです。

 こうして、日本は、英米など自由主義国家に対する病的なまでの警戒心を抱くようになりました。そこで、日本が、こうした自由主義国家群が覇権を握る国際社会の中で生き残っていくためには、満洲は日本の「生命線」であり、「持たざる国」である日本はそれを領有する権利がある、と考えるようになった。こうして満州事変が起こり、さらに華北分離工作が行われ、ついに、蒋介石をして抗日全面戦争を決意させるに至ったのです。この間の日本人の思想的変遷の軌跡をたどる上で最も参考になるのが、石原莞爾の思想というわけです。

 この石原莞爾の思想の中に、日本人がなぜ、思いもしなかった日中戦争を8年間も戦い、さらには、「鵯越」「桶狭間」「川中島」を合わせたような、一か八かの対米英戦争に突入することになったか、その不思議の原因が隠されているように思います。

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