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2011年1月

2011年1月26日 (水)

日本人はなぜソ連に終戦工作の仲介を依頼したか。その背後にあった日本人の無意識の思想は?

歴史学徒さんへ

>大本営がソ連の満州侵入を考え、それと共同歩調をとっていたのだと思う。ソ連と同盟してアジアからアメリカを撃退する計画があったと思う。

tiku 大本営会議は、天皇、参謀総長、軍令部総長・参謀次長・軍令部次長・参謀本部第1部長(作戦部長)・軍令部第1部長・参謀本部作戦課長・軍令部作戦課長によって構成されました(陸軍大臣と海軍大臣は会議に列したが発言権はなかった)。このように、大本営の組織には内閣総理大臣、外務大臣など政府側の文官は含まれない(例外として、小磯内閣期に首相が大本営のメンバーとなったことがある)ので、大本営と政府との意思統一を目的として大本営政府連絡会議が設置されました。

 では、終戦工作はどのようにして行われたか。これは、沖縄戦以降戦局が絶望的となり、4月5日、日ソ中立条約不延長通告(失効まで1年)、さらにドイツ降伏(5月7日)の後、政府は、なお国力のある内に終戦工作に着手すべきであるとして、最高戦争指導会議(1944年8月4日大本営政府連絡会議で設置が決められた)の構成員(鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長(五月末豊田大将に代わる)でもって六者首脳会談を持ち、終戦工作を協議することとしたのです。この会談は終戦の際まで続行され、終戦に関する重大事項はすべてこの会合で協議されました(協議内容は一切厳秘とされた)。

以下、『大東亜戦争収拾の真相』松谷誠著参照

 次ぎに、この会議に於ける協議の経過を見てみると、最初の会議は5月11日、12日、13日と三日にわたって開催され、そこでは、ソ連の利用度いかんが問題として取り上げられました。東郷外相は、対ソ施策はもはや手後れで、軍事的にも、経済的にも、ほとんど利用しうる見込みはないと主張しました。しかし、陸海軍側はなかなかそれを承知しえず、そこで鈴木首相が中間をとり、ともかくソ連の腹を探りつつ事を運んでみよう、ということで次の三つの目的を持って対ソ交渉を開始することにしました。

(一)ソ連の参戦防止
(二)ソ連の好意的態度の誘致
(三)戦争終結につきソ連をして有利なる仲介をなさしめる。

 この内三項については、東郷外相は、ソ連は英米と組んで利益を得んとしていると思われるので、対ソ代償を考えておく必要がある。その代償としては、日露戦争以前の状態への復帰を承認する必要がある、と述べましたが、阿南陸相が「日本が負けた形で終戦条件を考えることは反対だ」として意見が対立したため、とりあえず第一項、第二項でもって対ソ工作を進めることとし、第三項は暫時留保しておくことになりました。

 この間の協議を通して、陸海両相の戦争観の違いが明らかになりました。すなわち阿南陸相は「一度勝ちどきをあげて、その上終戦に持っていきたい」と主張したのに対し、米内海相は「このままでは国体の護持もおぼつかなくなる恐れがあるから、一日も早く講和すべき」という考えでした。ところで天皇は、この六者首脳懇談会に出ていたわけではありませんが、東郷外相の説明を受け、五月初め頃から「早期終戦の思し召しがはっきりしてきた」といいます。

 一方、沖縄戦以後の戦争の進め方については、当初は「沖縄決戦か、本土決戦か」の議論を巡って軍首脳間で激論が交わされていました。海軍が前者を主張し、4月7日、豊田連合艦隊司令長官は戦艦大和を基幹とする残存艦艇でもって特攻攻撃を命令しました。これに対して、陸軍部内においては沖縄決戦論は入れられず、本土決戦が断然大勢を圧していました。しかし、4月下旬、沖縄戦況が悪化し、その奪回が不可能となると、海軍も陸軍の本土決戦に追随するようになりました。

 その結果、6月8日、御前会議において次のような「戦争指導の基本大綱」が決定されたのです。そこでは「国力の現状」について次のような認識が示されていました。

 「敵の空襲激化に伴い物的国力の充実極めて困難なる状況にありと雖も、これが最大の隘路は生産意欲並びに敢闘精神の不足と国力の戦力化に関する具体的施策の不徹底なるに存す。之が為国民の戦意特に皇国伝統の忠誠心をいかんなく発揮せしむると共に、戦争遂行に必要なる最小限の戦力維持を可能ならしむる如く、八、九月頃までに完了せしむるを目途とし強力なる各具体的施策を講ずるの要あり。」 
 
 そして、その方針は「七生報国の信念を源力とし地の利人の和を以てあくまで戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を保衛し征戦目的の達成を期す」となっていて、以下、本土決戦のための要領が列挙してありました。これは、先の六者首脳会談の協議内容とは雰囲気が随分違いますね。東郷外相、米内海相、木戸内府などはこの決定を甚だ不満としたそうですが、当時の空気としては、こうした陸軍の強気?の主張が大勢を制しており、これを正面から押さえることは不可能だったのでしょう。

 一方、先の六者首脳会談における終戦工作についてですが、ソ連が4月5日、日ソ中立条約不延長通告をしてきたにもかかわらず、なぜソ連を仲介とする終戦工作を選択したのでしょうか。その理由としては次のようなことがあげられていました。

一、大正末期(ワシントン会議)以来の、陸軍の英米を嫌う思想的潮流があり、その後、陸軍の中国大陸進出に伴い、米英勢力と間接的に衝突する結果になったこと。

二、米英首脳が昭和18年1月、カサブランカ会議で枢軸側の無条件降伏を声明したため、米英との有条件での和平交渉は不可能と考えたこと。

三、スエーデン、スイス、バチカン等を仲介とする場合も無条件降伏という回答以上には出ないと予想されたこと。

四、ソ連については、対日参戦の公算大であるが、他面、日ソ中立条約は破棄されたもののまだ約一年の有効期間があり、また、終戦後の米英ソ間の相克が予想されるので、その施策よろしきを得れば。無条件降伏以上の講和も不可能ではない、と考えられたこと。

 こうして、東郷外相も対ソ工作に期待をかけるようになったのです。もちろん、その場合は、先に紹介したような代償を供与する必要があると考えていたのです。(当時、日本は、昭和22年2月に結ばれたヤルタ秘密協定によって、ソ連が領土的権益と交換に対日参戦を約していたことを全く掴んでいなかった。)

 この間、日本の海外出先機関による和平工作がいくつか試みられています。その中で最も熱心に取り組まれたものが、いわゆるダレス工作です。これは、在スイス日本公使館付海軍武官であった藤村義朗・日本海軍中佐を介するルートと、在スイス陸軍武官岡本清福中将およびスイス国際決済銀行の北村理事、吉村為替部長等を中心とするルートの二つがありました。

 いずれも、当時、当時、アメリカの戦時諜報機関OSS(CIAの前身)のスイスベルン支局長を務めていたアレン・O・ダレス(国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟、アイゼンハワー政権の冷戦外交に大きな影響を与えた人物で、後にCIA長官となった)に働きかけたものした。これは、ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦によって極東に地歩を固めようとしていることに対するアメリカの警戒心を喚起することで、日米直接和平交渉の道を切り開こうとしたものでした。

 しかし、この工作に対しては、軍令部も参謀本部もまた外務省も、上述したようにソ連を仲介とする和平工作に期待をかけていたため乗り気を示さず、単に情報入手のためこれを利用する程度に止まりました。もちろん、アメリカ内部も、日本を降伏させる方針を巡る意見の対立がありましたし、また、連合国全体における意見の食い違いもありましたので、時間的に見ても、この工作が成功する見込みはほとんどなかったと、私は思っていますが・・・。

 ただ、その後、ダレスは、この工作の失敗について、次のように述懐したといいます。「あの交渉が成功していたら、今日中国やインドシナにまでソ連の勢力が伸びてくるようなことはなく、アメリカは、こんなみじめな目に遭うこともなかっただろう」(『日本終戦史(中巻)』p82)これは、朝鮮戦争が真っ最中だった頃の話だそうですが、その後のアメリカはもっとひどいことになりましたね。

 さて、先の六者首脳会談の決定に基づき、東郷外相は広田元首相に、マリク駐日ソ連大使に対する働きかけを依頼しました。広田は6月3,4の両日マリク大使と非公式会談。6月18日には、六者首脳会談で正式にソ連の斡旋による終戦交渉に着手する決定を見たので、6月24日、広田・マリク正式会談を行いました。その際、マリク大使は日本側の条件を要求したので、日本側は6月29日の会談でこれを示し、マリク大使はこれを本国に取り次ぐことを約束しました。しかし、その後、広田の会談申し入れにもかかわらず、マリク大使は病気と称して応じませんでした。

 7月7日、天皇は鈴木総理を召されて対ソ交渉の経過を聞かれ「腹を探るといっても、期を失してはよろしくないから、この際端的に和平仲介を頼むことにし、親書を持たせて特使を出すことにしてはどうか」と言いました。これを受けて7月10日、六者首脳会談において特使派遣が正式に決定され、特使には近衛元首相が選ばれました。このことは7月13日に佐藤大使を通じてソ連側に伝えられましたが、ソ連首脳部はポツダム会談に出かけるため返事は遅れるとのことでした。

 7月16日から、米英ソの三巨頭によるポツダム会談が始まりました。日本はポツダム会談後では時機を失するとして、ロゾフスキー次官を通してソ連に、近衛特使の派遣の目的はソ連政府による和平斡旋である旨伝えましたが、ソ連は、日本の特使派遣には応ぜず、その裏で急遽対日作戦準備を始めました。7月26日、日本に無条件降伏を要求(ただし、日本民族の奴隷化、又は国民として滅亡せしめんとする意図は有さない)とするポツダム宣言が発せられました。このため、特使派遣による日ソ交渉はなくなりました。

 なお、このポツダム宣言に対して鈴木首相は、これについて「ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂にあくまで邁進するのみである」と語りました。鈴木首相としては、ノーコメント程度のつもりだったそうですが、陸海統帥部の要求――ポツダム宣言は軍の士気に関わるので、無視する態度を発表するよう政府に求めた――を容れて「黙殺」という言葉を使ったのです。

 それというのも、実は、5月半ば以来の対ソ外交交渉による終戦工作は、陸軍では陸軍大臣と参謀総長のみが関与しただけで、参謀次長以下には全く知らされていませんでした(そうしない限り終戦工作はできなかった)。そのため、上記のような統帥部の政府に対する強硬な申し入れとなったわけですが、これがとんでもない結果を生みました。それは、8月8日、佐藤駐ソ大使がモロトフ外相を訪問した際、モ外相は、「日本がポツダム宣言を拒否したことにより、日本のソ連に対する調停申し入れは基礎を失った」として、佐藤駐ソ大使に対して、調停案どころか対日宣戦文を手渡したのです。

 その後の、天皇の二度の「聖断」による終戦・・・つまり「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解」のもとに、ポツダム宣言を受諾するに至るまでのドラマは、皆さん周知のことですので割愛するとして、最後に、では、なぜ日本は、こんな”ひどい”ソ連に対して、その危険性を察知しながら、なぜ、あれほどナイーブな淡い期待を寄せ続けたのか、と言うことについて、考えたいと思います。

 次の文章は、昭和20年4月頃から、参謀本部戦争指導課が、政治、経済、思想、報道等の各方面の識者数人を集めて作成した「終戦処理案」(『大東亜戦収拾の真相』松谷誠著所収)です。ここには、彼等がなぜソ連に戦争終結の仲介を依頼しようとしたか、その理由が書いてあります。先に、六者首脳会談による四項目のソ連に和平工作の仲介を依頼した理由を紹介しましたが、ここでは、より率直に、彼等のソ連に対する思想的親和性が表明されています。

 和平転移の方法
(4)七、八月の間、ソ連がわれに対する和平勧告の機(を作ってくれる)ことに期待する理由

A スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立ちており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。

B ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。

 ただし上層部の考えるが如き形式的国体護持論では、スターリンの心を打たず、かつ将来危険なり。したがって国体護持が国民生活に深く根ざしあることを、対ソ外交の衝にあたる者がスターリンに話すとともに、国内的にもそれを確立する如き政治施策を行なうを要す。

C ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん。すなわちソ連は従来大陸国防国家なりしも、航空機の発達と将来米英に挟撃さるる危険とは、ソ連に大陸海洋国防国家たることを要請しつつあり。しかるが故に、西にありては、国防外核圏を拡張せんがためにフィンラソド、ポーランド、ドイツ、バルカン方面に親ソ国家を建設せんとするとともに、バルト海地中海への出口を求めつつあり。南に対しては、ペルシャ湾への出口を求めつつあり。さらに東に対しては、東ソの自活自戦態勢の確立のために満州、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として、日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。

D 戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。

E 米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん。

F 対ソ折衝とともに、補助手段として対英接近を図るべし。右理由は、ソ連の一方的弾圧を回避せんがためと、米ならびに重慶は、国体否定の空気強けれど、英はしからざる故なり。

 これが、上述したような日本の終戦工作の中枢にあった参謀本部中堅軍官僚及びそれに協力した識者のソ連認識だったわけですね。私は、歴史学徒さんがおっしゃるような、「大本営がソ連の満州侵入を考え、それと共同歩調をとっていた」というようなことはなかったと思います。しかし、この「終戦処理案」に見るように、当時、終戦工作に携わった少壮軍人や識者たちの多くが、米英をはじめとする自由主義体制よりも、ソ連の共産主義国家体制の方を選択しようとしていたことも事実のようです。

 このことは、上述したような卑劣極まるソ連の対日参戦、さらに60万の日本人をシベリアに拉致し強制労働させるという恐るべき暴虐をやった、その後においても、日本人のソ連に対するナイーブな期待に変化はなかった、この事実を想起するだけでも、こうした日本人の思想的傾向の不可思議さは、十分驚くに値するものではないかと思います。

>現在の共産党の委員長志位和夫は大本営参謀の志位正二の甥である。

tiku 志位正二は大本営参謀の経歴はなく、関東軍参謀のようですね。

>蒋介石との和平工作は無に帰したのではないと思います。戦後賠償請求権を放棄した蒋介石の「恨みに報いるに徳を以ってなす」の政策を引き出すのに何かつながっていると思います。

tiku 『蒋介石秘録』等で蒋介石の言葉を読むと、中国における「大人」という言葉にふさわしい悠然たる風格と知性を感じますね。それにしても、中国の国民が、「不念旧悪」「与人為善」という蒋介石の呼びかけによく従ったものだと驚きます。こうした蒋介石の「以徳報怨」の態度は、旧軍人を含めた多くの日本人を感動させました。しかし、蒋介石がやったことはそれだけではなかった。ソ連による日本の分割占領を阻止しようとしたことや、また、対日賠償請求放棄を率先し戦後日本の復興を可能ならしめたのも氏でした。このことを、日本人は決して忘れてはならないと私は思います。

2011年1月23日 (日)

「昭和の悲劇」をもたらした日本における「悪魔」は実は「空気」だった!という”はなし”

健介さんへ

> この領域は素人ながらいろいろ考えましたが、西洋では暴君という個人だがわが国はそれがことなり、それこそ空気でしょうか。

 日本とドイツの戦争指導者を比べて見てわかること、それは、ヒトラーのような「悪魔」的人間は日本には一人もいなかったと言うことです。竹山道雄の『昭和の精神史』に東京裁判で判事を務めたオランダのローリング氏との会話が紹介されています。竹山氏が Among the accused who impress you? と聞いたら、氏がAll. といい、被告の中の二人は小人物だが、他の人びとについては、その個人的能力を高く評価した、といいます。

 この小人物というのは、28人のA級戦犯のうち誰のことだろうと思って調べて見ましたが、『正論』2010年12月号に「危険な思想家 竹山道雄」という平川祐弘氏の論考があり、その中で、氏がそれを竹山氏から聞き出し『竹山道雄著作集』第八巻の年譜にその名を書いたところ、竹山氏がその文章に手を入れそれを消した、とありました。

 ローリング判事は1977年にイタリアの法学者アントーニオ・カッカーゼに東京裁判の思い出を語っており、その日本語訳が『ローリンク判事の東京裁判』という題で1996年に出版されています。その中で、ローリングは「独日両者の差異は、ニュールンベルグの被告は国家ではなく自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのに対して、日本の被告は個人の運命についてはあまり腐心せず、国家、天皇、日本の名誉を法廷において守ることを主眼においていた」と語っています。

 それは、「ナチス・ドイツの場合はユダヤ人やジプシー虐殺の背後にいた人物を守ることなど誰にも出来なかったからだ」とローリングはいい「日本では事情が違っていました。日本人は、アジアと世界で、亜細亜を開放し、世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護した」と、日本側の弁護団の主張に一定の理解を示しています。ドイツの場合はヒトラーの狂気は誰の眼にも明白だったが、日本の場合はアジア開放の大義はあった、と言っているのです。

 こうしたローリングの日本の行動を擁護する論調の背後には、彼の故国であるオランダが植民地所有国であるということについての反省がありました。それは、いわゆる「もてる国」が植民地政策をとってきたこと。その政策は人種的偏見に支えられていたこと。恐慌以降「もてる国」はブロック経済による資源の囲い込みを行うなど、「持たざる国」であるドイツや日本の発展を阻害したことに対して、批判的な見解を持っていたのです。

 実はこの論理は、近衛文麿の論理と同じなのですね。従って、前々回のエントリーで紹介したように、もし日本が、日米諒解案の線でアメリカと「諒解」に達することができれば、日本も名誉ある撤兵ができたと思います。しかし、その後、日本が、独ソ開戦に便乗する形で南進政策を取ったために、この「持たざる国」の論理が、「基本的人権を尊重する民主主義国家」対「人間侮蔑に立脚するヒトラーのファシズム国家」との戦いという図式に転化してしまったのです。そのため、日米交渉の最終段階になって、日本はアメリカに甲案、乙案の両案を提出し、日米諒解案に戻ろうとしたにも拘わらず、アメリカはこれをはねつけ、ハルノートによる最後通牒を日本に突きつけたのです。

 これは、日米諒解案を歓迎した当時の日本の指導者たちにとっては、予想だにしない展開でした。しかし、当時、多くの日本人がヒトラーを賛美し、三国同盟をバックに東亜に進出することによって、援蔣ルートを遮断して日中戦争に勝利し、南方の資源地帯を押さえて英米に対抗しようとしたことは紛れもない事実です。また、日本がそのような方向に進むであろうことは、日本が日米諒解案を拒否した時点で明らかになった、とアメリカは見たのです。

 この時、「持たざる国」である日本は、恐慌に伴う混乱を経て自由貿易体制に復帰しようとしていた英米の自由主義を選ぶべきだったのです。しかし、当時の日本人は、英米中心の自由主義を敵視する一方、ナチスの全体主義を支持しました。この点は、近衛も、ヒトラーの仮装をしたことがあったように、ナチスの思想の危険性には気付いていませんでした。気づいていたのは、幣原を初めとするごく少数の人たちだけでした。

 つまり、この頃の日本には、ヒトラーのような独裁者がいたわけではなくて、また、そのような強力な指導者がいなかったからこそヒトラーを――彼に二度までも騙されながら――讃仰し続けたのです。こう考えれば、この時代の日本を導いたのは、ヒトラーを讃仰したこの思想、というより、この時代の「空気」だったわけで、この意味で、日本における独裁者は、実は「空気」だったということができるます。

 では、当時の日本にその「空気」を充満させた責任は誰にあるのか。丸山真男はこれを天皇制に求めました。しかし、では、天皇制をなくせばこの問題は解消するのかと言えば、そんなことはなく、別の「偽天皇」が独裁的権力を振うだけです。こうした認識は、天皇を「象徴」とした「後期天皇制」(北朝以降の天皇制)の意義を没却するもので、実は、明治政府が採用した立憲君主制は、この「後期天皇制」の伝統を引き継ぐものだったのです。

 昭和のエリート軍人たちは、この「後期天皇制」における「象徴」天皇を玉(ぎょく)として担ぎ、その権威をカサに来て、自分たちが思い通りに国を引き回すことができると考えた。これが、彼等における「統帥権」の意味でした。つまり、これによって自分たちを絶対化しそして失敗した。その心理的補償としてヒトラーを讃仰した。そして当時の日本人の多くも、同様の心理的陥穽に陥りました。
  
>しかし欧米派とドイツ派に日本人が分かれた日本側の原因は何でしょうか。

 岡崎久彦氏は、日本が日英同盟を廃棄するまでは、日本の海軍はイギリスやアメリカに武官を留学させていた。また、アメリカや英国から外交上の支援やアドバイスを受けていた。ところが、ワシントン会議で幣原が日英同盟を廃棄し、これを四ヵ国条約に代えたために、海軍までドイツに留学するようになり、こうして陸海共に親独派の将校を大量に生むことになった、といっています。

 この時、日本に日英同盟の廃棄を迫ったのは中国とアメリカで、イギリスは何とかこれを維持しようとしました。この点、アメリカの了簡も狭かったのでしょうし、幣原も理想主義に流れたと言えると思います。岡崎氏はこの点で幣原を批判しています。といっても、この頃は、同盟に比べて集団安全保障体制が無力であることは判っていなかったわけですし、アメリカも急に反日になったわけではありません。

>>この、「人間性」に対する日本人の無条件の信仰こそ、日本人は疑ってみる必要があるのかもしれませんね。それが、日本人における昭和の戦争を反省する第一歩ではないかと私は考えています。

>人間には皆仏性があるという浄土宗の考えですね。これには賛成です。なぜ神は悪魔を作りたもうたかに通じる問題ですが、「これについては知人と話した事がありますが、”そんな面倒くさい事はやめようぜ”でした。

 「仏教では、一切の人々が仏性を持っているから、どんな人間でも尊重しなければならない」と説いているわけですが、「しかし、ただ仏性を具えているから人間を尊重する原理が見出されるかというと、そうではなく、人間は修業すれば必ず仏になれる」(『法華経を読む』鎌田茂雄P427)としているわけですね。

 われわれの内には真理、つまり、人間は他人と共感し、心を通わせることによってのみ、愛情のある豊かな心を持つことができることを理解し、それを体得実現しようとするする力=能力がある、仏教ではその能力を仏性と言っているのです。つまり、それはあくまで可能体なのであって、その真理を体得実現しようとする努力があって初めて身につくものだ、と言っているのです。

 では、この「真理を体得実現する」ためにはどうしたらいいか、ということですが、その要諦は”自己を絶対化しない”ということで、そのことを知るためにこそ、絶対の存在である仏(あるいは神)への信仰が説かれたのです。では悪魔とは何か。山本七平氏によれば、それは神の傍らにあって人間の罪を告発するようなもの――一種の検事のような・・・――であり、ただし、その告発の動機は「愛」の反対の「憎悪」だと言っています。

 つまり、「仏性」はあくまで絶対者である仏(あるいは神)によって与えられるものであって、それを実現体得しようとする努力があって初めて身につくものなのです。そうした信仰なしに「人間性」を絶対化しようとすると、結局、それは自分自身を絶対化することになる。まあ、平和の時には何とかなっても、危機の時代には通用しないと言うことですね。

 ところで先に、「日米交渉の最終段階になって、日本はアメリカに甲案、乙案の両案を提出し、日米諒解案に戻ろうとした」と言うことを申しました。この甲案は、「米国側の同意を取り付ける前に、先づ我が連絡会議通過せしむること頗る容易ならざる形勢」にあった。そこで、この甲案が成立しない場合でも、なお戦争の危険を防止するため、極めて必要なる数項目だけの協定を作り、以て平和を維持したいという考えから用意されたものです。

一、日米両国政府は孰れも佛印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行はざることを確約す。
二、日米両国政府は蘭領印度に於いて其必要とする物資の獲得が保障せらるゝ様相互に協力するものとする。
三、日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし。米国政府は所要の石油の対日供給を約す。
四、米国政府は日支両国の和平に闘する努力に支障を与えるが如き行動に出でざるべし。
五、日本政府は日支間に和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は現に佛領印度支那に派遣せられ居る日本軍隊を撤退すべき旨を約す。
 日本国政府は本了解成立せば現に南部佛領印度支那に駐屯中の日本軍は之を北部佛領印度支那に移駐するの用意あることを闡明す。                    (備考)
(一)必要に応じ本取極成立せば日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は日本軍隊を撤退すべき旨を約し差支なし。
(二)必要に応じては甲案中に包含せらるゝ通商無差別待遇に関する規定及び三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす。

 実は、この乙案は、「幣原元外相が局面収拾の方策として立案せしものなりとて吉田(茂)元大使が持参したもので、自分はこれに若干の修正を加えると共に、支那関係の一項を追加して乙案とした」というものでした。(『時代の一面』東郷重徳)つまり、幣原は何とか日米諒解案の線に戻ることで、日米戦争を回避しようとしたのですね。「また吉田茂の語るところによると、11月26日付けのハルノートなども幣原に見せて最後通牒とせず、何とか切り抜ける方法はないか懇談した」といいます(『幣原喜重郎』p527)。

 では、この幣原は、日独伊三国同盟や日ソ中立条約をどのように見ていたのでしょうか。
まず、「日独伊三国同盟」について、
    
 「近来我国に於いて欧洲戦争の経過に徴し独伊に依存して我国利の伸張を図らむとするの説を耳にすること有之、其性質上所謂自主自力主義を抛棄するものと解せられ候。然るに、第一に英国現下の立場は果して独逸の強襲に対し絶望的なりや、今日迄交戦国側より発表せる情報は双方とも多分に宣傅の目的を含むものと思はれ、戦況の真相を判断するに十分ならず、

 第二に、往年「ヴェルサイユ条約は独逸の軍事的復活を予防せむが為独逸領土内に於ける各種武器の製造を禁止したるも、独逸は此条項の適用を免れんが為露領内に於て右武器の製造及使用練習を行ひ、数年間にして英佛の軍備を凌駕し遂に今日の戦勝を得たる先例に鑑み、今回若し英国が屈服の已むなき場合に至るとも、英本国の締結する講和条約は当然其自治領を拘束するの効力なきを以て、自治領内並に米国内の資源及工業能力を極力利用し、右独逸自身の先例に倣ひ、数年を出でずして独逸に対抗し得べき軍備充実を整ふることあるべきを覚悟せざるべからず、
(中略)

 小生は昭和二年一月外交当局者として帝国議会に於ける講説中、「我々の目標とする所は領土に非ずして経済上に於ける利害共通の連鎖である」と声明したること有之、此根本方針は目下の時局に当たりても何等変更すべき謂はれあるを認め難く候。」(昭和15年7月24日付)

 次ぎに「日ソ中立条約」について
 日「ソ」両国が中立条約を締結せる各自の目的(幣原喜重郎稿 昭和16年5月5日)

 近年「ソヴィエット」政府の外交は他の諸國をして互に相戦はしめ、鷸蚌(いっぽう)の争いに乗じて自ら漁夫の利を収めむとするの方針を一貫するものと認めらる。此の目的を達せむがため、他国間の紛争に付ては紛争国の一方に対し、

 一、或は其後顧の憂を除くに足るべき中立又は不侵略条約を締結し、
 二、或は戦時財政経済の遂行に資すべき通商便法を協定し、
 三、或は精神的又は物質的の後援を暗示するが如き好意ある態度を声明し、
 以て他の一方の紛争国に對する抗戦の決意を促がすを常とす。

 昭和十四年八月[ソ]聯邦は独逸と不侵略条約を締結し、之が為独逸は世界大戦当時に於けるが如き東西両面作戦の難局に立つの虞なきを見て、直に意を決し、対英佛作戦に邁進せり。又今回独逸は対英作戦の遂行上「バルカン」方面に進出するの必要を認め、其目的の為逐次「ルーマニア」、「ブルガリア」、「ユーゴスラビア」等の協力を求めて、枢軸国同盟に參加せむことを迫るや。此等の諸国は当初何れも狐疑して去就に惑ひたるが、「ソ」連邦は隨時右諸国に同情ある態度を声明したるのみならず、「ユーゴスラヴィア」とは特に不侵略条約を締結し、以て暗に独逸に対する抗争を使嗾し、結局英独戦争の拡大を策せり。

 然るに「ルーマニア」及「ブルガリア」は先づ独逸の圧迫に屈して枢軸国同盟に参加し、[ユーゴスラヴィア]亦一たび同趣旨の協定に調印したるも、俄然政府の革命あり、前政府は新政府の政策を否認するに及んで独逸は直ちに兵を同国に進め、一挙にして之を攻略するに至れり。何れの場合に於てもソ連邦は一切他国間の戦争に加はることなく、徐ろに戦局の経過を察し、或は勝勢歴然たる交戦国に対しては之と結んで戦敗国の領土を分割し、或は交戦国双方共に長期戦に依りて疲弊するを観望し、其間「ソ」連邦自国の国防強化と国力充実に全力を挙ぐるの方針を執り来れり。                

 最近締結せられたる日[ソ]中立条約は「ソ」連邦に於て左の二大目的を有するものと認めらる。

一、日本が米国よりの軍事行動の対象となる場合には「ソ」連邦に於て米国に加膽せざることを保障せる結果、日本の対米立場は強化せられ、勢の赴く所、遂に日米戦争を惹起せしむるの可能性ある事。
二、「ソ」連邦が独逸よりの軍事行動の対象となる場合には、日本に於て独逸に加膽せざることを保障せる結果、「ソ」連邦の対独立場は強化せられ、日独伊同盟条約に対しても「ソ」連邦に有利なる影響を及ぼすこと。

 右第一の目的に付ては日本は「ソ」連邦の期待に反し、極力米国との開戦を避くる方針を執るものゝ如し。果して然らば、日「ソ」中立条約は両国互に相背馳する動機に出でたるものと謂はざるべからず。
(中略)

 次に日ソ中立条約は日本の為如何なる目的を達すべきや。査するに日本が米国よりの軍事行動の対象となる場合には、ソ連邦に於て中立を守るべきことを保障する日ソ条約は一見日本に取りて有利なるやに感ぜらるゝも、事実上に於ては日米両国が互に軍事行動の対象となるが如き事態は、
一、日本の武力に依る南進政策に対し、米国亦武力を以て之を阻止せむとする場合、又は二、日本が独逸より日独伊同盟条約第三條の規定に基く援助の要求を受けて参戦する場合の外、発生の可能性ありとも思はれず。

 然るに右二個の場合に於て日米戦争発生するときは、日ソ条約は果してソ連邦の中立維持を保障するものと解釈せらるべきや、条文の趣旨必ずしも明確ならず。若し日ソ条約は日本に取りて日米戦争発生後の事態に備ふるよりも、寧ろ其発生を予防せむが為、主として日ソの親善を誇示し、以て米国に威嚇的姿勢を執るの目的に出でたるものとせば、一方に於て斯かる威嚇的姿勢は、米国の反省を促がすに足らずして却て其反発を激成することあるべく、

 他の一方に於いてソ連邦が日ソ条約上約束せる義務の性質は前述の如く明確を缺く所あるのみならず、同政府の条約を尊重する態度も亦従来幾多の実例に徴するに深く信頼し難きものあり、之を要するに日ソ中立条約は、ソ連邦の為重要なる価値を有すること明瞭なるも、日本の為には事実上何等有利なる目的を達すべきや、少くとも疑問として今後局面の発展を注視するの外なし。

 ソ連邦政府の中立及不侵略条約を無視せる事例
 「ソヴィエット」連邦が従来中立又は不侵略条約を結せる対手国はアフガニスタン、支那、エストニア、フィンランド、仏蘭西、独逸、伊太利、ラトヴィア、リストニア、イラン、ポーランド等の諸国にして、今回日ソ間にも中立条約締結せられたり。

 ソ連邦は以上条約の対手国中エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リストニア、ポーランドの五国に対しては、何れも全然条約上の保障を無説して侵略行動に出で、結局此等五国領土の全面的併合又は部分的奪取を行ふに至れり。(後略)

 いずれも、三国同盟、日ソ中立条約締結当時における幣原の所感です。また、例のハルノート発出直前の11月22日の書簡には、

 「政府は日米関係につき米国と交渉して平和的解決を図るの方針を累次声明せるに拘わらず、本邦各新聞紙挙って国内の人心を煽動し、又外国の世論も挑発するを黙認するは全然矛盾の措置と謂わざるを得ず。斯かる言論は対外交渉の雰囲気を荼毒(とどく)して現実の平和的解決を阻害するものと相信じ候。小生は今尚帝国の威信権益を確保して和局を成立せしめ得べき望みを絶たざると共に、我が国に於いて正しく対外認識を誤るもの多きを痛感し、私に浩嘆に勝へず候」とあります。また先に紹介した如く、ハルノートさえも最後通牒としないよう知恵を絞っています。

 「空気」支配から自由でありさえすれば、これだけ透徹した外交的認識が可能になると言うことです。近年「K・Y」という言葉がはやっていて、これは「空気読めない」という意味だそうです。この点幣原は、この時代の「空気」が読めず「軟弱外交」を行い失脚した人、と言うことになりそうです。だが事実は逆で、「空気が読めなかった」のではなく、読めたからこそ、その危険性を誰よりも的確に把握し、事態を冷静に認識することができたのです。

 このような「空気」支配に屈しない言論空間の構築こそ、昭和の歴史が私たちに残した最大の教訓と言えるのではないでしょうか。

2011年1月18日 (火)

戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか。また、その日本人をヒットラーはどう見たか?

健介さんへ

>大東亜戦争はアメリカもわが国もよくさず、ドイツがもくろんだという見方はいかがでしょうか。

 ドイツというより、ヒトラーに”いいようにあしらわれた”ということでしょう。彼の思想の本性がどのようなものであったかと言うことは、小林秀雄が「ヒトラーと悪魔」で見事に描出しています。これを見ると、日本の軍部がなぜ暴走したか、その心理的メカニズムが解りますね。

 まず、ヒットラーの心性の基礎にあったものは、

第一、「徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さ」であり、「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。」という確信だった。

第二、そして「人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。」では、「勝つための手段」をいかに講ずるか

第三、それは、勝つ見込みのない大衆をいかに「屈従」させ「味方」につけるかということ

 「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択に任すと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。」

第四、そのためのもっとも効果的な方法は、プロパガンダを繰り返すこと。それを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせること

 「大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
 これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。」

第五、また、勝つための外交はどうあるべきか。

 「外交は文字通り芝居であった。党結成以来、ヒットラーの辞書には外交という言葉はなかった。彼には戦術があれば足りた。戦術から言えば、戦争はしたくないという敵国の最大弱点を掴んでいれば足りたのである。重点は、戦術を外交と思い込ませて置くところにある。開戦まで、政治に基づく外交の成功という印象を、国民に与えて置く事にある。」

第六、そして、死んでも嘘ばかりついてやると固く決心すること

 「彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、およそ言葉というものを信用しなかった。・・・彼は死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味でプロパガンダを遂行した男だ。」

第七、その時の彼は、人性は自分も含めて獣物であり、それなら一番下劣なものの頭目になってみせる、と決意していた。

 「彼が体得したのは、獣物とは何を措いてもまず自分自身だということだ。これは、根底的な事実だ。それより先に行きようはない。よし、それならば、一番下劣なものの頭目になって見せる。興奮性と内攻性とは、彼の持って生まれた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。」

第八、しかし、これらが成功するためには、経済的・政治的混乱などの外的事情がないといけない。もちろん、その前にヒトラーの自立的エネルギーがあったわけだが・・・。

 「ザールの占領、インフレーション、六百万の失業者、そういう外的事情がなかったなら、ヒットラーはなすところを知らなかっただろう。だが、それにもかかわらず、彼の奇怪なエネルギーの誕生や発展は、その自立性を持っていた事を認めないのはばかげているだろう。」

第九、最後に、以上のような自分の本心を糊塗するため、汎ドイツ主義とか反ユダヤ主義を標榜すること

 「おそらくヒットラーは、彼の動かす事の出来ぬ人性原理からの必然的な帰結、徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向かって集中するエネルギーの、信じがたい不気味さを、一番よく感じていたであろう。だからこそ、汎ドイツ主義だとか反ユダヤ主義だとか言う狂信によって、これを糊塗する必要もあったのであろうか」

 「もし、ドストエフスキィが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼はこういうであろう。正銘の悪魔を信じている私を侮ることは良くないことだ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか移らぬのも無理のないことである、と。

 この最後のパラグラフは、小林秀雄のこのエッセイの結語ですが、「自分自身のことも含めて、正銘の悪魔を信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があるだろうか。諸君の怠惰な知性は・・・」といっているのです。自分を善人と思っている人ほど始末に困るものはないと言うことですね。

 そこで、昭和期の軍人たちの心性をこのヒットラーの思想に照らして概観して見ると次のようになります。

第一、「人性に対する憎悪」ということでは、彼らには、大正デモクラシー下の軍縮の流れの中で、軍を軽視した「社会に対する憎悪」があった。

第二、「勝つための手段」としての満洲占領は戦術的には大成功だった。

第三、大衆を「屈従」させ「味方」につけることにも成功した。

第四、プロパガンダを「敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神」と思わせることにも成功した。ただし、成功しすぎて後に退けなくなった。

第五、「戦争はしたくないという最大弱点」を逆に敵国に掴まれていた。

第六、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決心する」どころか、いつも戦争をやめようと和平交渉ばかりしていた。

第七、「人性は自分も含めて獣物」という冷酷な自己認識を持っていたわけではなく、自分の支那に対する善意を信じていた。(下線部修正1/19)

第八、当時の時代状況としては、資本主義の発達に伴う貧富の差の拡大、インフレ、昭和の恐慌に伴う大量失業、東北地方の冷害、政党政治家の金権腐敗、大正デモクラシー下の退廃文化等の経済的・政治的・社会的混乱があった。

第九、以上の事を糊塗するため、大東亜共栄圏や八紘一宇を標榜した。

 つまり、彼らは、ヒットラーのような徹底した「人性に対する憎悪」を持っていたわけではなく、軍縮などに端を発する当時の社会に対する不満(かなり強度)があり、一方、自分たちは政党政治家や財閥よりも正しく、潔癖さも時代を読む力も勇気も実力も持っていると考えていた。そこで、支那の排日・侮日、米英に抗して国力を海外に伸張できるのは自分達であり、その目的は、東洋の王道主義に基づく大東亜共栄圏さらに八紘一宇の新世界秩序を建設すること、と盲信した。

 これを、ヒットラーの先の九原則に照らして見ると、第一は、人性に対する憎悪ではなくむしろ自己絶対化だった。第二は、戦術的には大成功だったが思想的には不徹底で後の失敗の原因となった。第三の世論操作には成功したが、第四のプロパガンダの結果としての対米英戦争に耐えるだけの実力はなく、第五、「戦争をやめたい」本音を敵に掴まれ、第六、そのため絶えず和平交渉を繰り返したが失敗した。第七、その原因は何よりも自己認識が甘かったからで、中国との戦争を、兄弟げんか程度にしか見ていなかった。第八は、昭和初期の経済的・政治的・社会的・思想的混乱があり、それを自由主義の結果と見てこれを攻撃した。第九、以上の行為を正当化する全体主義的スローガンを、尊皇思想という伝統思想に求めた、といったところではないでしょうか。

 これを総合採点すると、成功した項目が、第二、三、八、九の四項目、失敗した項目が、第一、四、五、六、七の五項目、総合判定四対五で失敗!ということになりますね。ただ、ここで成功したという項目は、あくまで戦術的なものです。一方、失敗した項目は、まず、自己認識の不徹底、それから、自己絶対化、自分は何のために戦っているのか目的意識の不明確。中国への一方的感情移入と反発の繰り返し。戦争終結できない事へのいらだちと自信喪失。それを埋め合わせるためのヒットラー賛美。ドイツとの同盟に恃んで南進。その結果対米英戦争。最後は一億玉砕ということで、どうやらこれらは思想的な問題に帰着するようです。

 では、これらの問題点は、日本人の思想のどこに胚胎しているのか。その人間性信仰の不徹底に原因があるのか。というのは、これはもともと、本性→仏性と遡及する宗教的概念だったわけで、脱宗教化の過程で仏抜きの「人間性」となったものだからです。

 この、「人間性」に対する日本人の無条件の信仰こそ、日本人は一度疑ってみる必要があるのではないだろうか。それが、日本人における昭和の戦争を反省する第一歩ではないか、私はそう考えています。

 なお、ヒットラーとの比較で摘出された第一の自己認識の不徹底ということですが、これについては、その憎悪の哲学から何を学ぶかということが大切ですね。悪魔が信じられなければ天使も信じられないといいますから。

(1/19 2:45最終校正)

2011年1月16日 (日)

日本の政府・統帥部首脳は松岡を除き「日米諒解案」を支持した。しかし、ヒトラーを賛美する時代の空気がそれを拒否した

健介さんへ

>>一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。

>この日米了解案は野村大使が持ち込んだものでしょうがこれはアメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いたとありましたが、これについてはいかがでしょうか

 この了解案ができた経緯ですが、昭和15年11月末、米人カトリック神父ドラウトから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)に日米関係改善についての会見申込み(クーン・レープ商会のシュトラウスの紹介状持参)があり、井川は、r陸軍軍務局長武藤章等と協議の上会談に応じました。井川はその内容を近衛首相に逐一報告。ドラウトは日本側との話し合いで、日米交渉の可能性があると判断、帰国してルーズベルト大統領やハル国務長官と協議した結果、同意を得たので日本側にその旨報告しました。

 これを受けて、昭和16年2月11日、野村大使ワシントン着、井川も野村と前後して渡米、3月6日には陸軍軍事課長の岩畦豪雄も渡米。近衛、東条らは井川らの渡米に非常に好意的でしたが、外務省は冷淡かつ妨害的だったといいます。これは、松岡外相が、陸軍が外務省を出し抜いて日米交渉をやろうとしていると邪推したためだと言います。

 4月に入って、日米諒解案の起草がはじまり、日米双方当局の検討を経て(日本側は野村大使、若杉公使、磯田陸軍武官、横山海軍武官、井川、岩畦で検討)日米諒解案(第二案)がまとまりました。その結果、これを基礎として日米交渉が進められることになり、まず日本政府の訓令を得ることになりました。

 この日米諒解案のポイントですが、次の七つの項目に整理されています。(一部要約、抜粋)

一 日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念について
 米国が日本に民主主義への塗り替えを強要するようなことはせず、相互に両国固有の伝統に基く国家観念、及び社会的秩序、並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持することを認め、相互の利益は之を平和的方法により調節するとした。
 
二 欧洲戦争に対する両国政府の態度について
 日本の三国同盟の目的は防衛的なものであって攻撃的なものではないこと。米国の欧洲戦争に対する態度は、一方の国(イギリス)を援助して他方(ドイツ)を攻撃するものではないこと。(それは「自衛権の発動」という考慮において決せられるとした)

三 支那事変に対する両国政府の関係について
 米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本政府がこれを保障したるときは、米国大統領は之に依り、蒋政権に対し平和の勧告を為すべし。
(イ)支那の独立
(ロ)日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
(ハ)支那領土の非併合
(ニ)非賠償
(ホ)門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国間に於て、協議せらるべきものとす
(ヘ)蒋政権と汪政権との合流
(ト)支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
(チ)満洲国の承認

 蒋政府に於て米国大統領の勧告に応じたるときは、日本国政府は、新に統一樹立せらるべき支那政府、又は該政府を構成すべき分子を相手として、直ちに直接に和平交渉を開始するものとす。

 日本国政府は、前記条件の範囲内に於て、且つ善隣友好、防共共同防衛、及び経済提携の原則に基き、具体的平和条件を直接支那側に提示すべし。

四 太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係について
 日米両国は、太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て、相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及び航空兵力の配備はしない等。

五 両国間の通商及び金融提携について
 今次の諒解成立し、両国政府之を承諾したるときは、日米両国は各その必要とする物質を相手国が有する場合、相手国より之が確保を保証せらるるものとす。又両国政府は、嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き、正当の通商関係への復帰のため、適当なる方法を講ずるものとす。

 両国間の経済提携促進のため、米国は日本に対し、東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及び日米経済提携を、実現するに足る金クレディットを供給するものとす。

六 南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動について
 日本の南西太平洋方面における発展は、武力に訴うることなく、平和的手段によるものなることの保証せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び獲得に関し、米国側の協力及び支持を得るものとす。

七 太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針について
(イ)日米両国政府は、欧洲諸国が将来東亜及び南西太平洋に於て、領土の割譲を受け又は現在国家の併合等を為すことを、容認せざるべし。
(ロ)日米両国政府は、比島の独立を共同に保障し、之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法につき、考慮するものとす。
(ハ)米国及び南西太平洋に対する日本移民は、友好的に考慮せられ、他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談について
(イ)日米両国代表者間の会談は、ホノルルに於て開催せらるべく、合衆国を代表してルーズヴェルト大統領、日本を代衣して近衛首相により開会せらるべし。代表者数は各国五名以内とす。尤も専門家、書記等は之を含まず。
(ロ)本会談には、第三国オブザーヴァーを入れざるものとす。
(ハ)本会談は、両国間に今次諒解成立後、成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
(ニ)本会談に於いては、今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす。具体的議題は両国政府間に協定せらるるものとす。

 この諒解案の要点は、日本は、三国同盟における参戦義務を実質的に骨抜きにする。米国は(イ)から(チ)の条件で中国に和平を勧告する。米国は日本が必要とする物資の確保を保障し、日米通商条約を回復する。米国は、南太平洋における日本の石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び確保に協力する。日米両国は将来東亜及び南西太平洋における領土の割譲・併合を容認しない。米国及び南西太平洋に対する日本移民は差別しない、というものです。

 これは、従来、日本の軍部や近衛が、「持たざる国」の論理を日本の満州事変や東南アジア進出の正当化に使っていたことに対応したものだということができます。つまり、米国は満州国を承認する。その代わり、日本軍は無賠償・非併合で支那領土から撤退する。また、日本の人口問題や資源問題に対応するため、日本が平和的に東南アジアに進出する際の資源の確保にアメリカは協力する。また、移民についても他国民との差別扱いはしないなど。

 では、この諒解案に対して日本側はどのような反応を示したでしょうか。 

 「大橋(外務次官)は、前夜からその朝にかけて野村大使から電報が入って来たこと、尚暗号解読中だが、世界の迎命を左右する様なものだと、狼狽した喜び様であった。大橋は午後四時半に電報の解読を待って、寺崎アメリカ局長を伴って再び近衛を訪れた。

 近衛首相は、問題の重要性に鑑み、即夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から近衛首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部から杉山参謀総長、永野軍令部総長が出席し、武藤、岡の両軍務局長、富田書記官長も加わって、米国からの提案を協議した。近衛手記によると、次の様な意向が表明された。

一、この案を受諾することは、支那事変処理の最捷径である。即ち汪政権樹立の成果挙らず、重慶との直接交渉も非常に困難であり、今日の重慶は全然米国依存である故、米国を中に入れねば何ともならぬからである。

二、この提案に応じ日米の接近を図ることは、日米戦回避の絶好の機会であるのみならず。欧洲戦争が世界戦争にまで拡大することを防止し、世界平和を招来する前提になろう。

三、今日わが国力は相当消耗しているから、一日も速かに事変を解消して、国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されている南進論の如き、今は統帥部でも準備も自信もないという位だから、矢張り国力培養の上からも一時米国と握手し、物資等の充実を将来のため図る必要がある。

 というので、大体受諾すべしという論に傾いた。ただその条件として、ドイツに対する信義から、三国同盟と抵触しないことを明瞭にする要があるとか、若し日米諒解の結果、米国は太平洋から手が抜けるので、対英援助を一層強化することになると、日本としてはドイツに対する信義に反するし、全体の構想が低調になって面白くないから、日米協同して世界平和に貢献するという趣旨を、もっとハッキリさせ、英独間の調停まで持って行きたいとか、内容が少し煩雑に過ぎるとか、旧秩序に復帰する様な感じを与えるから、新秩序建設という積極面をもっとハッキリ出したいとか、迅速に事を運ぶため、外相の帰国を督促する要があるとか、種々の意見が出た。又この事をドイツに通報すべきや否やについても、信義の上から通報に賛成の説と、諒解成立を切望する見地から、内密にしようという説とがあった。

 要するに種々意見はあったが、皆が交渉に賛成であった。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。陸海軍とも「飛び付いた」というのが真情であった。そこで直ぐにも、「主義上賛成」の返電を出せという議があったが、大橋次官は、もう二、三日で帰国する松岡外相の意見を聞いてからにすべきだというので、近衛もそれに同意した。それなら一日も早く、松岡に帰国を促そうということになり、満洲里宛てで、首相が至急通話したい旨を松岡に伝えた。」(『近衛文麿』矢部貞治p546)

 これを見ると、近衛を初めとする政府首脳(松岡は独ソ訪問から帰途中で不在)、それに陸海の省部並びに統帥部の首脳は一致して、この諒解案を歓迎したことが判ります。ということは、彼等には米英と戦争してでも東亜新秩序を作り上げてようとする決意はなかった、ということになります。とりわけ近衛首相にとっては、この諒解案は、自ら過誤を犯したと認める日中戦争の終結を可能にし、また、中国や蘭印等からの必要資源の調達や移民の自由も保障されるのですから、氏の持論である「持たざる国」論が認められたことにもなり、大歓迎であったわけです。

 そもそも、近衛首相が三国同盟を結んだのは、ソ連も加えてそれを四国同盟とし、その圧力で対米英戦争を抑止あすることを目的としたものでした。その約束が、独ソ開戦によって反古にされたのですから、諒解案において、アメリカが欧州戦争に参戦した場合の日本の参戦義務が骨抜きにされてもかまわないわけです。また軍も、昭和15年3月30日の支那事変処理に関する参謀本部提案になる陸海省部最高首脳会議において、昭和15年中に支那事変が解決されなかった場合、昭和16年初頭から逐次撤兵を開始することを決定したほど、支那事変を持て余していました。(『大本営機密日誌』p32)

 こうした判断に対して、これは米国が対独作戦を進める上での二正面作戦を避けるための時間稼ぎであり、これを受け入れることは米国への屈服を意味するという味方もありました(大島浩駐独大使)。確かに、この頃、日本が三国同盟を結んだことや仏印に進駐したことで日米間に緊張が高まっていました。しかし、実情は、米国人は極東のことには関心が薄く、欧州に重点を置いていて、「戦争を支持する者もしない者も、眼中に置いていたのはヒットラーであって日本ではなく」、対日強硬論の多くは経済制裁程度しか考えていなかったのです。

 また、1941年8月に行われた「大西洋会談」でも、チャーチルが日本の南進に対応して米国の軍事介入を要請したのに対し、ルーズベルトは確約を与えませんでした。また、会談直後に発表された大西洋憲章は、次のように国際社会における政治経済的な原則を列挙して、枢軸国の追求する世界像に代わりうる、理想的な国際社会の構造を提示していたのです。つまり、米国は、世界恐慌から立ち直る過程で、もう一度、ワシントン体制に代わるような国際主義原則に戻って、アジアと太平洋における経済発達を図ろうとしていたのです。

 そのため、この憲章では、「全ての国による経済的提携」がうたわれ、世界のすべての人びとは恐怖感や欠乏感から解放されることこそ、平和への道だ」と説き、すべての国は世界のあらゆる地域における市場や資源の恩恵に、「平等な条件の下で」浴すべきだと宣言していました。その上、そこには、あらゆる人びとは地球のいたるところに渡航する権利を有する、というような、日本がパリ講和会議当時に提案した「人種平等宣言」を思わせるような項目まで含まれていたのでした。(『日米戦争』入江昭p46)

 では、これが本当なら、どうして11月16日の「ハルノート」が出されるようなことになったのでしょうか。だって、この諒解案に執拗に反対し、独ソ開戦後も三国同盟を堅持しようとしたした松岡外相は近衛により解任されたわけですし、近衛はルーズベルトとのトップ会談によって日本に対する米国の誤解を解くことができると信じていたからです。近衛は陸軍が拒んでいる撤兵についても、それで日米妥協が図れるとなったら、電報で木戸にそのことを知らせ、陛下に撤兵の「聖断」を出してもらう。それをやれば「殺されるに決まっている」が「生命のことは考えない」と言い切っていたのです。

 これだけ近衛が腹を決めていたにも拘わらず、なぜアメリカは日本を信じなかったか。結局、アメリカは、日本軍において枢軸を支持する勢力は強力であり、たとえ天皇の支持があったとしても近衛はこれを抑えることはできない。そのことは、諒解案以降の交渉過程で確認された、としていたのです。つまり、日本が三国同盟を堅持し独伊と共に世界新秩序建設に邁進する方向を選択することを断念させるためには、力による対決しかない。そうした強硬姿勢を姿勢を取ることによってしか、日本に方針転換させることはできないと考えたのです。

 つまり、撤兵問題とは、日本があくまで枢軸側に立って世界新秩序建設に向かうか、それとも、大西洋憲章に述べられたような、米英中心の新たな国際協調主義に戻るかの二者択一を迫る「踏み絵」だったのです。従って、日本に支那からの撤兵を求めるということは、力で日本に後者の側に立つことを求めるものであり、日本がこれを拒否すれが、それは日本はあくまでヒトラーと共に世界新秩序建設に向かうことを意味したのでした。つまり、そのことを瀬踏みするためにこそ、日本に諒解案がぶつけられたのでした。

 つまり、日本がこの諒解案を拒否した段階で、日本に後者の選択をさせるためには、力による強制しかないことが明らかになったのです。だって、日本の名誉ある撤兵は、アメリカが中国に日本との和平を勧告することによってしか実現できませんから。それを日本が拒否したということは、アメリカ仲介による名誉ある撤兵はしないということ。それは日本は中国が降伏するまで戦争を続けるということ。しかし、中国はアメリカが支援する限り降伏しない。結局、日本はアメリカとの戦争を決意せざるを得ない・・・。

 こう考えれば、アメリカが、たとえ天皇が近衛を支援したとしても、軍のこうした行動を抑えることはできないと判断したのも当然、ということになります。つまり、日米諒解案こそ、日本が枢軸側に立つか米英側に立つかを判断する試金石だったのです。そして、日本の政府や軍の首脳は一致してそれを受け入れようとした。しかし、松岡の妨害に会って逡巡する間、独ソ開戦後のヒトラーの快進撃に便乗する下僚軍人・官僚、マスコミの強硬姿勢に引きずられ、ついにハルノートという「踏み絵」を突きつけられることになった・・・。

 なお、日米諒解案は「アメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いた」と言うご意見について。この諒解案には、ルーズベルト大統領と近衛首相の会談が予定されていて、そこでは「今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす」と明記されていました。従って、これをアメリカの正式提案でなかったと言うことはできません。ただ、この諒解案が、日本に、米英中心の新たな国際協調主義に立つことを求めていたことは明らかで、これを枢軸側から見れば、これがアメリカの謀略に見えたのは当然です。

 結局、日本は、本音では松岡を除く政府、統帥部の首脳部がほぼ一致してこの諒解案受諾に賛成しながら、その時代のヒトラー崇拝の空気に支配され、結局、枢軸側の武力による世界新秩序建設の道を選択することになったのですね。それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。

2011年1月11日 (火)

満州事変は日本が、日中戦争は中国が欲した。では日米戦争は誰が・・・?

健介さんへ

>満州事変は日本が、支那事変は支那が欲(ほっ)した。そして対米戦争は?でしょう。

tiku ハルノートは実質的な最後通牒ですから、日米戦争を欲したのはアメリカということになります。これに対して日本側は、日米了解案――中国側が満州国を承認し、蒋介石と王兆銘の政府を合体させ、日本軍は協定に基づいて撤兵し、非併合、非賠償の条件の和平を結ぶことを米大統領が蒋介石に勧告するというもの〈昭和16年4月16日〉――がまとまった時点ではっきりしたように、政府、陸海軍、統帥部の上層部はいずれも、この案に全員賛成で、まさに「飛びついた」というのが実情でした。ここまで見れば、戦争を欲したのはアメリカだった!ということになります。

 ところが、その後の交渉経過を見ると、この了解案に松岡外相がつむじを曲げて賛成せず、これを「ぶち壊す」が如き強硬案に修正し5月11日アメリカにぶつけた。こうする間、この了解案の内容がドイツなどから漏れ、これに対して陸海軍の中堅以下の将校たちが猛烈に反対するようになりました。なぜか?実はこの頃は「支那事変を聖戦と呼び、暴支膺懲を東洋平和のために必要だといい、数々の軍国美談をつくり、何十万の犠牲を払ってきて、急に対米協調のためにシナから撤兵するといっても、軍だけでなく、国民全体が収まらない状態ができていた」からです。(『重光・東郷とその時代』p355)

 このため、春には日米了解案を歓迎していた東条が、11月中旬対米交渉のため急派された来栖三郎大使に対し、「撤兵の問題だけはこれ以上譲歩できない。もし、あえて譲歩すれば、自分は靖国神社の方に向いて寝られない」などと言うようになり、海軍も、日米交渉の土壇場になっても、総理一任といい、本心では戦争回避なのに自ら戦争反対といえないような状況が生まれたのです。井上成美はこうした状況の変化について、「省部の下僚は・・・対米戦を突然の宿命の如き観念に支配され・・・省部首脳までがこれを制御する勇気も才覚もなく、一歩一歩危機を作成せり」といっています。(『重光・東郷とその時代』p356)

 一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。その解釈は、上述した通り、アメリカは松岡の「ぶち壊し」の交渉態度や、その後の軍の強硬路線への復帰を見て、また日本政府がそれを制御できないことを見て、戦争は不可避であると判断した。また、アメリカの世論を欧州戦争(イギリス側に立ってドイツと戦う戦争)に導くため、ドイツと同盟を結ぶ日本との戦争を挑発した。あるいは、ハルノートを起案したホワイト財務次官がソ連のスパイであり、国際共産主義運動の一環として日米間の戦争を謀略的に挑発した等々。

 これらは、それぞれ一半の真理を含んでいると思いますが、重要なことは、こうした国際政治的環境の下で、日本がこれらの問題についてどのように主体的に判断し問題解決しようとしたか、ということだと思います。了解案以降のことについて言えば、松岡のようなお粗末な人間が外務大臣だったということ。この人事を周囲の忠告を無視して行った近衛の責任は重大です。もう一つは、省部及び統帥部における陸海軍の首脳が、下僚の強硬意見や国民世論に引きずられて責任ある決断をなし得なかったということ。

 つまり、その頃は、日米の国力差をまるで無視した「聖戦」思想に基づく宿命論的日米戦争論が軍内及び世間に風靡し、そうした空気には誰も逆らえなくなっていた、ということなのです。これがナチ的国家社会主義への共鳴現象をもたらし、また、もともと日独伊三国同盟はソ連も加えて米国のアジア及びヨーロッパの戦争への参戦を抑止するはずのものだった?のに、独ソ開戦によってそれが画餅に帰した後も、なおドイツ勝利を妄信する態度を生んだのです。さらにこれが、南部仏印進駐という、タイ、シンガポール、蘭印など英米蘭権益地帯への侵攻を意味する政策を執らせることにもなりました。

 以上を総合的に勘案して、日米戦争は誰が欲したか、ということですが、それは主体的な観点から言うなら、この時代の「漠然たる、強硬を是とし、軟弱を否とする傾向であり、その背後にあったのは空想的と言っても良い拡張主義、世界再分割思想」を是とした」軍人・政治家及びそれを支持した日本人、ということになると思います。それを陸海軍首脳も制御し得ず「一か八かの戦争」に訴えることになってしまった。ここでも山本七平の言う「空気支配」(その場の空気に支配されて本当に考えていることが言えなくなること)が決定的な役割を演じたのです。

 こうした軍内の「下剋上」的風潮と、それに拘束され身動きのとれなくなった日本の政治的リーダーシップに対する不信が、次第にアメリカをして戦争不可避論へと導いた。さらに、日本がナチスの快進撃に幻惑され、「バスに乗り遅れるな」とばかり、南部仏印に進駐して東南アジアの資源地帯を制圧する姿勢を見せたことが、アメリカの対日不信を決定的なものにし戦争を決意させることになった。それに、国際共産主義運動に関わる勢力が謀略的にハルノートを発出させ日本を挑発した・・・そんなところではないかと思います。(1/12下線部挿入)

>それは日米は戦う運命であったという認識でしょう。ルーズベルトがといいますが、アメリカは選挙で変わりますから、この要素に対する外交的配慮がまったく無い事は不思議です。

tiku この件で興味深いエピソードを紹介しておきます。
 一九八四年の夏頃、岡崎久彦氏が牛場信彦氏を訪問したとき、「お前か?真珠湾を攻撃しなければ、硫黄島で戦争が終わっていただろう、といったのは?」と訊かれた。氏は、「最近になって遂に思い至ったこととして、ベトナムでテト攻勢があったり、レバノンで二、三百名のアメリカ兵が死んだりすると、さっさと引き揚げてしまうアメリカであるから、もし日米戦争が、真珠湾でない形で(奇襲でなく、開戦に至る文書を公開しての正々堂々たる宣戦布告の形などで)始まっていたならば、硫黄島でもう休戦交渉に入っていただろうと思う」といった。これを聞いて、牛場大使は、今までに見たこともないような沈痛な表情をされて「そうだったか!」と悔しそうに膝を打たれた、というのです。(『日米開戦の悲劇』ハミルトン・フィッシュ、「まえがき」)

 まあ、後知恵だとは思いますが・・・。当時、それだけの政治的知恵があれば大したものでしたが・・・。この日本人のこのカッとなる性格、これはなかなか直らないでしょうね。岡崎氏にしても気がついたのは敗戦から30年後のことだったのですから。といっても、本来、海軍が想定し訓練を重ねていた対米戦闘方法は、西太平洋で米海軍を迎え撃つ邀撃作戦で、真珠湾奇襲作戦は山本五十六が強硬に主張して採用させたものです。この作戦は山本の「ばくち好き」を反映していたのでは、などど言われていますが・・・。

 つまり、国力に圧倒的な差があることは判っていたわけですから、列強の植民地主義やブロック経済を非難しつつ、日本は資源確保、のためと称して、徹底的な防衛的戦争を行うべきだった。そうすれば自存自衛という戦争目的に合した戦い方ができたはずです。といっても、これもまた後知恵で、そもそも満州問題の解決について防衛的に対処できなかったことが、事の始まりですからね。口ではそういいつつ、日中戦争でも防衛戦に徹しきれず、中国の主要都市の大半を占領する結果になったわけですから。そうした思考法が敗戦を招いたということですね。(1/12下線部追記)

>近衛氏の思想は思想といいうるものでは無いと思いますが、これは明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象で、其のひとつとして昭和の動乱を見るという見方ももっていますが、これは手に負えない問題です。西洋思想の影響を受けた日本人の精神の変容を知る必要があります。おそらく昭和前期の政府が二重政府であったように、各人の頭のなかが二重になっており、其の行動も二重になっているという事でしょう。しかもそれを自覚していない。其の上それは外国から見ると昭和の日本の外交がさっぱりわからないように、その人以外から見ると同じように見えるということでしょう。

tiku 近衛文麿の思想は次回詳しく検討したいと思います。彼の思想が最もよく当時の日本人の思想を代表していると思いますので。

 また、「明治以降の西洋文明と苦闘した漱石鴎外の苦闘と同じ質の政治的思想的経済的苦闘が大正以降の現象」として昭和の政治に表面化した、というのはその通りですね。この問題に思想的な決着をつけられなかったこと。それが、昭和初期の政治的経済的混乱期の革新思想として、明治維新期の尊皇思想(一君万民・天皇親政という家族主義的国家観に基づく政治思想)を呼び覚ますことになったのです。明治はこの思想を西郷と共に地下に埋め、見ぬふりをして近代化を進めてきたわけですが、この思想が昭和になって不死鳥のように復活し、明治の近代化思想とそれに基づき組み立てられた政治機構を破壊することになったのです。自らはそれを「近代の超克」と自負していたわけですが・・・。(1/1212:30最終校正)

2011年1月10日 (月)

幣原喜重郎の「国際協調」「不干渉主義」外交は、どのようにして帝国主義的武力外交に取って代わられたか。

 幣原「国際協調」「不干渉主義」外交は、今日ではあたかも定説であるかのように批判の対象とされます。しかし、私は必ずしもそれは正しいとは思わない。確かに、それは、共産主義思想の台頭、支那の革命外交の推進、資本主義経済恐慌の発生、それに引き続く保護主義的傾向、これらへの対処と、それに、国内ナショナリズムへの配慮に欠ける面があった、ということはできると思います。

 しかし、いずれの政策も万全では有り得ないのであって、臨機応変の対応をしていけばいいのです。幣原外交にそうした柔軟な対応ができなかったとは、私は決して言えないと思います。それが失敗したのは、それに対抗しこれを葬ろうとする思想、及び政府のコントロールを脱した非合法的武力行使があったからであって、もし、これを日本国民及び政治家がコントロールできていたら、その後の昭和の悲劇は決して起こらなかった、と思うのです。

 このことを理解するためには、こうした幣原外交批判の発火点となった第二次南京事件とはどういうものであったかを知らなければなりません。そこで、今回は、健介さんの反論への回答も兼ねてこの事件をより詳しく見ておきたいと思います。

健介さんへ

>>砲艦が攻撃するかどうかの判断は、統帥事項であって外務大臣の介入できることではなかったのです。

>これは変ではないですか。自衛という条項が発動されるかもしれないが、軍事攻撃は外交問題になるわけですから、外務省を無視するわけにはいけない。

tiku 明治憲法における統帥権の慣習的な解釈は、天皇が軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさしていました。従って、第二次南京事件のような居留民が突発的な暴行略奪事件に会ったときの軍事的な対処は、当然、統帥権に基づいて軍の判断で処置されるのであって、外務省に判断を仰ぐべきことではないのです。

 従って、この時は艦長の判断で砲撃を止めたのです。しかしこの処置は、暴行を受けた領事館警備の海軍警備隊員(11名)に耐え難い屈辱感をもたらし、その責任を取って隊長の荒木亀男少尉(海軍)は自刃し(未遂)、それがマスコミの彼に対する同情と政府に対する憤激を招くことになったのです。こうした日本側の処置が適切であったかどうかについて、幣原は次のように言っています。

 この事件は、大正15年の夏、国民革命軍が北伐を開始して漢口に進出して以降、蒋介石が共産党排斥に転じたことに危険を感じた共産党員が、蒋介石の国内・国際的な評価を貶めるため意図的に引き起こした事件だった。この頃の日本人居留民は十数万もいたらしく、それは英米に比し圧倒的に多数だったので、前回説明したような事情で艦長は砲撃を控えたのでした。

 「この時の海軍将校の苦衷は寔(まこと)に諒察に余るあることを認めなければなりませぬ。何れにするも、政府より支那に於ける文武官憲に対し、無抵抗主義を指示したと云うが如きは途方もなき憶測でありまして、若し果たして無抵抗主義なるものがあったならば、当時政府は疾くに(いち早く)在支居留民全部の引き揚げを断行したでありましょう。何を苦しんで揚子江方面に空前の警備隊を配置したでありましょうか。」(慶應義塾大学での講演)

 次ぎに、この事件に関する『東京日日新聞』(弓削南京特派員三月二十九日発)の詳細な報告記事です。

 「(昭和二年三月)二十四日午前五時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約二千名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た、市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、

 われ等在留日本人は南軍が入った以上もう大丈夫だと安堵の胸を撫でていた矢先き六時半頃平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如わが領事館に向って一斉射撃を行い餓狼の如く闖入して来た、

 そしてピストル、銃剣をつきつけてまず第一に現金を強奪し眼鏡や時計、指輪をはじめ身に着けたものは着物まで剥ぎ取った入り代り立代り入って来る国民軍兵士、それに勢を得た群衆まで交って手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った、かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた、

 国民軍の闖入と同時に御真影は金庫の中に奉安したがこれを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負いさらに右横腹を突かれた病気で臥床中の森岡領事は二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった、また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った、

 かくて領事館内の日本居留民は一まず領事館舎の西側窪地に落合い種々善後策を講じたが下関との連絡は断たれ妙案の出るわけもなかった

 その間国民軍の兵士は数回銃を擬して迫って来て身体検査を行い金を出さねば 皆殺にすると威嚇する、全く生きた心地もなくその二十分ばかりは千秋の思いだった十一時過ぎ党代表蒋継、戴岱二氏がやって来て兵士の無礼を謝すと共に今後は十分取締ることを誓い数名の警備兵を残して日本人保護に当たらせた、

 そこでやっと蘇生の思いをして領事館舎の一部に表を剥ぎ取られた畳を敷き一まず籠城の覚悟を決めた、しかし下関との連絡は依然として断たれている思案に余ったわれ等は支那人二名を買収して下関の海軍に至急来援を乞う旨いい含めて派遣した、

 そのうちに領事館外にいた者も追々集まって来た、朝から飯も食わず飲むものもなく辛うじて主人の身の上を気遣ってやって来た各自の使用人にまんじゅうを買わせお互にこれを一つずつかじって飢をしのぐことが出来た、この時領事館にあった者は男二十六名、女二十三名、子供五十二名でその外駆逐艦の乗組員荒木大尉以下十一名、合計百十二名である、

 檜の乗組員は二十二日上陸、領事館で通信その他警備の任に当たっていたのであるが事余りに急なると 危険の増大を慮り発砲等は一切しなかった、万一発砲して支那側を一名でも殺したら第二のニ港事件を演出しわれ等日本人は一名残らず惨殺されたことであったろう、

 あくまで隠忍自重してしまったのは実に幸であって負傷者二名を出したに止まったのはむしろ奇跡だ、畳八枚を敷き暗い別室に婦人、子供、負傷者を収容し一夜を明さねばならぬ、しかも病人は四名あってそれは皆刻々悪くなって行く、子供は泣く、寒気は強し、裸体にされた者は使用支那人の物を一枚、二枚分けて貰って着るという始末、実に悲惨の極みだ、

 午後五時頃下関より砲撃が開始された、さては列国協調の作戦に出たなと思い日本陸戦隊の来援を待ちに待った、この間三時間砲声を聞きながら一同希望の色をうかべたがこれも八時半頃にはやんで何の便りもない、いよいよ夜に入った、寒気は一層加わって来る、夜具は毛布一枚さえなくふるえながらお互いの体温で暖をとる、なかなか興奮と不安とで眠られない、男は馬小屋から藁を持出しその中にもぐり込む、かくして不安のうちに二十五日の夜はあけた

 あくればまた朝飯が一心配だ、二十五日支那側から糧食を持って来るといっていたがそれは一時の御世辞に過ぎない、自給するより外ない、しかし領事館外には一歩も踏み出せぬ、下関の海軍にやった使はどうなったか、まだ返事が来ぬ、警備に来てくれている国民軍兵士のすごい顔を見れば依然として不安は募るばかり、二十六日午前十一時五十分突然 戸を破って躍り込んだ一隊がある、

 これは第二十四駆逐隊長吉田中佐が決死隊三十名を率いて駆つけて来たのである、吉田中佐は「皆無事か」と叫びながらわれ等と握手した、もう救われたと思った瞬間うれし涙が止め度もなく流れる、共に相擁して泣く、この時の感謝と喜びは一生を通じて忘れることは出来ぬであろう、大日本帝国万歳を三唱した、

 吉田中佐は浅賀書記生と共に第六軍長程潜氏の司令部に談判に赴く、午前十一時より軍艦へ引揚を開始し辛うじて手に入れた二台の自動車で病人、負傷者、婦女子を積んで先発さした、しかしガソリン欠乏のため引つづき輸送することは出来ぬ、

 午後辛うじて被害を免れた二つの金庫の破壊に取りかかった一つには御真影と領事館の重要書類がある他の一つには会計書類と現金三千元が入っているのだ、二時頃御真影は無事領事の居間に奉安した、三時頃吉田中佐は第六軍の楊第十七師団長を伴い来った楊氏は日本陸軍大学出身で流暢な日本語で今回の不始末を陳謝し領事館内を見廻り日本人引揚に要する乗物を周旋することを約束して帰った、

 赤十字会から間もなく自動車、馬車を周旋して来たので全部これに分乗し前代未聞の惨害を跡に艱難辛苦数十年を費して築き上げた地盤も今は無一物に帰し、寂しい別れを告げ二十四駆逐隊檜、桃十八駆逐隊浜風の三隻に分乗した今回の掠奪は共産党南京支部の手引によるもので全然排外行為である、

 ゆえに日本は勿論英、米、仏その他の外国人は全部惨澹たる被害を受けた、外人側の死傷者は英国総領事ヂャイルス氏が脚部に重傷を被り、四名射殺、負傷者数多、米国側は金陵大学長が射殺され、数名負傷、五百名の在留民中二百名は生死不詳という有様である」

 その後、蒋介石は列国に対する謝罪、加害者の処罰(死刑)、賠償費の支払いを行い事件の後始末をしました。また、この時の艦長は荒城二郎で揚子江流域の警備に当たる第一遣外艦隊司令官で、事件後その責任を取って進退伺いを提出しましたが、時の海軍当局(岡田啓介海相、左近司政三軍務局長)に受理されませんでした。

 また荒城が帰還拝謁した際には、荒城は、日本中の世論が激高する中、お若い陛下にご理解が得られないのではないかと思っていましたが、昭和天皇は「今回の司令官の役目たいそうご苦労であった」とねぎらわれたとのことで、その時のことを三十数年経った後、ある機会に子息の荒城義朗氏に伝えられたとのことです。(『昭和天皇と米内光政と』p2~8)

 この事件をとらえて政友会の森恪は、「四月七日松岡洋右氏と共に、青山會館の演説會で南京事件に関して、大に輿論の喚起に努めた。その演説は「幣原外交の價値」といふ題で要旨は次の如きものでした。

 「幣原外交なるものは如何なる利害得失、如何なる信念の下に國民の訓利を計って居るものであるかを此の際明白にしたい。私の眼に映じて居る支那は。支那人自身の活動に依っては今日以上に好くなることも悪くなることも出来ない。支那は支那の力に他の或る力が加はった時に、こゝに大なる衝動変化が起る。若し列國か不干渉、傍観的態度を守って居れば、支那の形勢は変化することはない。過去数年間、殊に幣原外相に至ってから極めて厳密にこの不干渉主義が行はれたのであるが、南京に於ける暴動に依って領事館の菊の御紋章は破壊され、國旗は引き裂かれたのである。・・・

 私共は支那の學生が國民運動を過信して今日の悲惨なる事態を惹起したことを断じて許すことは出来ない。殊に若い軍人が丸腰で領事館に行き、自分の責任を行ふことか出来ずして、荒木大尉は自殺したではないか。而してこの丸腰を以て在支國民を保護せよと命じた政府常局の非を私共は断乎として責めなければならぬ。(中略)支那の如く生活上最も恵まれたる土地は宜しく世界人類の為に解放せられなければならぬ所である。我々は彼等が真面目なる政洽的行動に出るといふならば敢で反對する者ではないが、世界革命を以てその終局の目的とするソヴイェツト政府が背後にあつて、その革命運動をやつてゐる以上、我が日本國民は断じて安閑たることを許さない。」(『森恪』山浦貫一p553)

 ここに森恪の、後に日本軍人さらには一般国民に共有されることになった、蔑視的な「支那人観及びその土地・領土観」が現れているでしょう。実は、森恪が幣原の国際協調外交、対支不干渉外交を非難したのは、こうした思想的背景があったからで、これが、田中義一内閣(森恪は外務次官、外務大臣は田中首相が兼任していたため、森恪が実質的な外務大臣だった)の時の、三次にわたる山東出兵、その間に発生した済南事件、その約一月後の張作霖爆殺事件へと続いていったのです。こうした急進的な軍の行動の背後に、森恪がいた事実を、多くの史家は軽視しすぎていると思います。 

>(艦長の判断で砲撃をするか市内か判断できるとすると)これだと出先機関が勝手に戦闘を始めることになります。満州事変がそれでしょうが、問題は尼港事件はロシアであり、南京事件は支那です。この違いを認識しない事が事の問題だと思います。

tiku 満州事変は、ロンドン軍縮条約締結時の「統帥権干犯」事件以降、先に紹介した慣習的な統帥権解釈に止まらず、憲法第一二条の軍の「編成権」まで統帥権に含まれるかの如き解釈がなされたことによって発生した、ということができます。また、支那とロシアにそれほどの違いがあるとは思えませんが・・・。

>昭和の動乱は私は結果だという見方も持っています。それは日露戦争の処理のしくじりと、辛亥革命以降の支那の行動、具体的には革命外交に対する対応を間違えた事が大きいと思います。藤原氏の見方は歴史的には事実関係が異なりますが、それが流布しているという事が世の中を動かす。この要素の対するわが国の外交的視点が無い事が大きな問題のひとつです。これは簡単では無いですが、その名人は支那人でしょう。

tiku 要するにシナ人の宣伝上手、日本の宣伝下手を云っているのでしょうが、問題はそうした宣伝を行う際のそのベースにある国家戦略、情報戦略がどれほどしっかりしているか、ということではないでしょうか。中国はそれがしっかりしていたということも言えるわけですが、私見では、南京大虐殺の謀略宣伝を今だにやり続けているのは、全くの失敗だと思います。その内大ウソがバレバレになって恥をかくこと必定です。

 一方、日本人についてですが、昨日のNHKの番組で指摘されていたことは、そうした国家戦略が分裂していて、有田八郎の防共協定工作(中国、イギリス、オランダ等世界各国にこの赤化防止協定を呼びかけることで、日本の国連脱退以降の国際孤立から脱却しようと画策したこと)についても、所詮、満州事変で犯した「国際法」の流れ――帝国主義的秩序から民主主義的秩序への流れ――を無視したその「無理」が、この工作を挫折せしめた、というものでした。

 なお、この番組の一番の問題点は、日中戦争は日本ではなく中国が欲した戦争であった、という事実がほとんど閑却されていたことでした。まだ、中国が恐いのですね。

2011年1月 7日 (金)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(1)

 前回、私は、昭和の悲劇をもたらしたものは、統帥権という制度のせいではなくて、その統帥権を悪用して政府の統治権を奪い、勝手に軍事行動を起こして日本を強引した、その当時の軍部の思想及び政策に原因があったのではないか、ということを申しました。

 次の記述は、敗戦後10年経った昭和30年、「どうしてああいう不思議な戦争になったのだろう」という疑問について、竹山道雄氏が自らの考えを述べたものです。(『昭和の精神史』p112)

 「多く問題にされた統帥権の独立は、その歴史的由来にはあるいは封建性の温存かあっだのかもしれない。おそらく日本か英米仏のような近代民主国家として出発しなかったことを反映しているのだろうが、それはその出発当時の条件からきたことであって、軍が独立して政策を遂行するという規定をしたものではなかった。

 これが意識の中に顕在化したのは、軍縮問題以来のことであって、それまではいはば眠っていた。あれこれの現象はあっても、それは歴史をうごかす力ではなかった。それ以後、政治化した軍人はこの「兵力量の決定と統帥権の独立」といふ難問題を活用した。そして、これを手がかりにして覇権を握った。

 総力戦時代の現代では、戦闘力のための統帥権といふことを拡大解釈すれば、どこまでも拡張できた。統帥権の独立をもって、ただちに旧体制がファッショだったということはできない。もし軍があのやうに政治化しなかったら、たとえ統帥権が独立していようとも、またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、問題はなかったろう。

 しかし、軍があのようなや団体精神に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、、ああなるほかはなかったであらう。統帥権の問題が日本の命取りとなったのは、それか原因だったのではなく、むしろ結果だった。決定的だったものは、制度という前提條件ではなくて、そこにはたらいた意志だった。」

 私も、この通りだと思いますね。つまり、「軍があのようなや団体精神(右とも左ともつかない日本独特の超国家主義イデオロギー=筆者)に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、ああなるほかはなかったであらう」ということです。

 広田弘毅も、そして近衛文麿も、軍がこのような団体精神に憑かれて政府を強引した時期に、必死になって、その要求を容れつつ軍をなだめ、その暴走を食い止めようとした。そしてそれに失敗した。その結果、軍の暴走を止められなかったという結果責任を一身に負うことになった。彼等の悲劇は、このように理解することが出来ると思います。

 広田については、いわゆる「広田三原則」以降、軍に対する抵抗力を次第になくしていったと評されます(秦郁彦)。また、近衛自身も、当初の威勢の良さは次第に影を潜め、軍のロボットとして利用されることに不満を述べ、頻りに辞任を口にするようになります。次の言葉は、広田が第一次近衛内閣で外務大臣を務めた時に漏らした述懐です。

 「外務大臣というものは内閣の方針に従い、これを実行して行くのが常道である。ところか今日の情勢は決してそうではない。内閣の方針などというものはほとんど認められず、軍部の独断専行で行なわれている。したがって外務大臣としてはそんな無軌道なことに対してまで責任をとらねばならぬということはどうかと思う。もっと根本から正さねばならぬ。

 自分にいわせれば、外交の統一性も一元主義もしっかりした正しい軌道があってこそ大臣の責任も論議され、大臣の責任もあるわけだが、今日のような無茶苦茶な事態に対しては力で対抗するか、ないしは成行きに委すより方法はないのではないか。自分はこういう考えであるから、閣議では力の限り正しく善戦するけれども、事実はどうすることもできない。」(『広田弘毅』広田弘毅伝記刊行会p318)

 同様の言葉は後述するように近衛も度々漏らしていますが、しかし、広田があくまで外交官としての筋を通そうとしたのに対して、近衛の場合は、満州事変以降の軍の行動を、思想的あるいは心情的に是認していました。それ故に、軍の支持を受けたわけですが、近衛としては、そうした自らの思想(=持たざる国の現状打破を正当化する思想)に沿って、むしろ積極的に「先手」を打ち、日本の「運命の道」を切り拓くことで、政治の主導権を軍から取り返そうとしたのです。

 そのため、廬溝橋事件が発生し、事態収拾のため華北に三個師団を派兵することが閣議決定された7月11日には、周囲がビックリするような強硬な中国非難の声明を発しました。さらに、北支事変が上海へと飛び火した8月15日には、次のような政府声明を発しました。

 「帝国は夙に東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せる事久しきに及べり。然るに、南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合して反日侮日愈々甚だしく、以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり」
(中略)
 「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく、全支に亙る我居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を贋懲し、以て南京政府の反省を促す為め今や断乎たる措置をとるの巳むなきに至れり」

 言うまでもなくこのような、日中戦争についての理解は、日本側の勝手な言い分に過ぎません。中国側にしてみれば、満洲ばかりでなく旧都北平(北京)がある北支も満洲化され、これを許せば首都南京もまた北平と同じ運命を辿る、という危機感から、犠牲を恐れず、抗日全面抗戦を決意しているのです。従って、このような近衛の言辞は、中国にとってみれば「何が東洋永遠の平和か、日支両国の親善提携か」まして「暴支膺懲とは何事か」ということになります。

 実は、この声明文は、陸軍大臣杉山元が案文を持ち込んだもので、閣議ではさしたる議論もなくすんなりと通ったということですが、近衛としては、蒋介石との直接会談で紛争の解決を図ろうとして陸軍に阻止され、また、船津工作も「大山事件」で頓挫し、さらに、思いもかけず、蒋介石が上海を主戦場とする抗日全面戦争に打って出たために、事態を冷静に認識することが出来ないまま、陸軍の主張を受け入れたということなのではないでしょうか。
 
 この時近衛は、軍の主張に乗ってしまった。その上次のような言わずもがなの演説をした。「(中国に)反省を求めるため我が国が断固一撃を加える決意をなしたことは、帝国自衛のためのみならず、正義人道の上からも極めて当然のことと確信する。今日我が国の取るべき手段は、できるだけ速やかに中国軍に「徹底的打撃」を加えて、その戦意を喪失させるほかにはない。そうしてもなお、中国が反省せず、あくまで抵抗を続ける場合には、我が国は長期戦争をも辞するものではない。」(昭和12年9月第72議会施政方針演説)

 このような近衛の陸軍や世論に対する迎合的な言辞が、翌年昭和13年1月16日の近衛の「蒋介石を対手とせず」声明にも繋がっています。もちろん、この時点では、参謀本部が主張したような和平交渉を継続されたとしても、蒋介石がその時の条件で和平交渉に応ずることはなかったと思います。しかし、この声明では、事変勃発当初、陸・海・外三省間で決定した「北支は絶対に第二満洲にしない」という紛争解決のための基本方針が、完全に放擲されています。

 ではなぜ近衛は、このような失敗を犯すことになったのでしょうか。実は、近衛の政治思想は軍のそれと共鳴するものがあり、そのため彼は、満州事変以降の軍の行動を肯定的に評価していたのです。といっても、彼は、それが日中全面戦争に発展するとは夢にも思っていませんでした。そのため、日本が「強硬な戦意」を誇示すれば中国は折れてくると思っていた。だが、この問題は、先に述べたように、中国にとっては「必死の問題」であり、「駈け引きの問題」ではなかったのです。

 その頃、蒋介石は、抗日全面戦争を持久戦で戦う覚悟を決めており、その主戦場に上海を選んで必要な準備を着々と進めていました。そのため、上海戦における日本軍の被害は、日露戦争の旅順攻囲戦に次ぐ膨大な犠牲を生むことになり、さらに、戦線は南京へと拡大しました。一方、こうして戦線が拡大するにつれて日本の和平条件も加重されることになり、華北新政権の樹立の他、占領地における国策会社の設立も決定されるに至りました(12月6日)。

 こうして、日本軍は、泥沼の長期持久戦にはまっていくことになりました。この頃近衛は、天皇に対して次のような愚痴を述べたとされます。「ただ空漠たる声望だけあって力のない自分のようなものが何時までも時局を担当するということは、甚だ困難なことでございます。」「どうもまるで自分のような者はまるでマネキンガールみたようなもので、(軍部から)何も知らされないで引っ張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、誠に申し訳ない次第でございます。」

 近衛は、自分が知らないうちに、軍によって次々に既成事実が積み上げられ、後戻りできないような事態に陥っていくことにすっかり嫌気がさし、やる気を失っていました。その後、戦線はさらに拡大、昭和13年4月から徐州作戦(5月19日まで)、9月武漢作戦(10月末まで)、10月広東作戦と続きました。この間、近衛は内閣改造を行い、内相に末次信正を迎え右翼を制御しようとし、陸相には板垣征四郎、外相に宇垣一成を迎えて、陸軍を事変収拾に協力させようとしました。(末次と板垣の登用は大失敗)

 宇垣は、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明に囚われず、「宇垣・クレーギー会談」でイギリスの援蔣政策の放棄を求めたり、英国斡旋による和平交渉を模索したりしました。また、中国との間でも「宇垣・孔祥熙交渉」に取り組みました。宇垣は満州国の独立の他、領土的野心のないこと、中国の主権行政権の独立を望むこと、蒙彊、北支に防共施設置くこと、日満支経済・文化合作等の和平条件を提示しました。しかし、これに対して、日独伊枢軸強化論をとなえる陸軍や右翼が反対運動を展開し、交渉は頓挫、宇垣は就任4ヶ月で辞任してしまいました。

 その後、昭和13年の秋頃から汪兆銘工作が取り組まれました。これは、日本の帝国主義的侵略を早く止めねばならぬと考える松本重治(上海同盟通信支局)らと、梅思平ら国府側の和平派が話し合い、参謀本部の影佐偵昭と連絡を取り合って正式の交渉ルートにのせたものです。その内容は、国民党の和平派である汪兆銘らを国民政府から離脱させて和平政府を樹立させ、日満中の政治・経済・文化にわたる提携協力関係を確立しようとしたものでした。この工作の進展をバックに、近衛は11月3日、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済提携の実現を図るという「東亜新秩序声明」を発しました。

 といっても、汪が和平政府を樹立するとしたその真意は、「日本との間に和平提携の生きた模範を作り、重慶政府及び一般民衆に、抗戦の無意味なことを証明して、全面和平に導こう」というものでした。「従って汪の政権が、一次的に重慶と対立しても、結局は合体すべきもので、そうでなくては全面和平できない。また事実上新政府はいかに強化されても、真に中央政権たり得るものではなく、和平運動は決して単なる反蒋運動ではない」。故に「この運動が成功する根本条件は、日本がこの運動を、独立国たる中国の愛国運動として尊重する」ことだと力説しました。(『近衛文麿』矢部貞治p404)

 この工作の結果、「日華協議記録」及び「同諒解事項」が調印され、また、「日華秘密協議記録」が作成されました。その要旨は次のようなものでした。

(日支協議記録)
一、両国は共産主義を排撃するとともに、侵略的諸勢力より東亜を解放し、東亜新秩序建設の共同理想を実現せんがため、相互に公正なる関係に於て軍事、政治、経済、文化、教育等の諸関係を律し、善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げ、強固に結合する。

そのため
(一)日華防共協定を締結する。これは日独伊防共協定に単ずるもので、又この目的で日本軍の防共駐屯を認め、内蒙を防共特殊地域とする。
(二)中国は満洲国を承認する。
(三)中国はその内地での日本人の居住、営業の自由を承認し、日本は治外法権を撤廃し、且つ租界の返還も考慮する。
(四)互恵平等の原則に立って、密に経済合作の実を挙げ、日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用に関しては、日本に特別の便利を供与する。
(五)中国は事変のため生じた日本居留民の損害を補償する必要があるが、日本は戦費の賠價は求めない。
(六)協約以外の日本軍は、平和克復復即時撤退を開始する。中国内地の治安恢復とともに、二年以内に完全に撤兵する。中国はこの期間に治安確立を保障し、駐兵地点は双方合議の上で決める。
(七)日本政府が右条件を発表したら、汪精衛(兆銘)ら中国同志は直ちに蒋介石との絶縁を闡明し、東亜新秩序建設のため日華の提携と、反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立する。

 なお、これに附属する「諒解事項」で、(一)の防共駐屯は平津地方とし、期間は日華防共協定の有効期間とすること、(四)の優先権というのは、列国と同一条件の場合のことなること、日本は事変による難民救済に協力することを決めました。

 また、「秘密協議記録」は
一、両国は新秩序建設のため、相互に親日親華教育と政策を実施する。
二、両国はソ連に対し共同の宣伝機関を設け、軍事攻守同盟を結び、平時には情報を交換し、内蒙とその連絡線を確保のため、必要な地域に日本軍を、新疆には中国軍を駐屯させ、戦時には共同作戦を実行する。
三、両国は共同して東洋を半植民地的地位から漸次に解放し、日本は一切の不平等条約の撤廃のため中国を援助する。
四、東洋の経済復興のため合作する。これは南洋等にも及ぼす。
五、右条項実施のため必要な委員を置く
六、なるべく両国以外のアジア諸国を、この協定に加盟させることに努める。
 となっていました。

 影佐と今井武夫は、この協議事項を携えて帰京し、これを基に、11月25日に御前会議、28日の閣議を経て11月30日「日支新関係調整方針」が策定されました。

 これら協議記録の内容は、この時期の和平条件としては立派なものです。しかし、これについて陛下は、こうした工作について、「謀略などというものは、当てになるものではない。大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議な位だ」と言いました。また、西園寺は、汪の行動について、その「意のある所はよく判る。しかし軍部の協力は決して過信できない。軍部は傀儡政権をつくる常習犯だ。汪氏ほどの人を、そういう破目に陥れることにでもなったら、洵に気の毒だ」(『近衛文麿』矢部貞治p375)と言いました。

 残念ながら、その後の経過は、このお二人が危惧した通りのものなってしまいました。
(つづく)

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