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2011年1月 7日 (金)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(1)

 前回、私は、昭和の悲劇をもたらしたものは、統帥権という制度のせいではなくて、その統帥権を悪用して政府の統治権を奪い、勝手に軍事行動を起こして日本を強引した、その当時の軍部の思想及び政策に原因があったのではないか、ということを申しました。

 次の記述は、敗戦後10年経った昭和30年、「どうしてああいう不思議な戦争になったのだろう」という疑問について、竹山道雄氏が自らの考えを述べたものです。(『昭和の精神史』p112)

 「多く問題にされた統帥権の独立は、その歴史的由来にはあるいは封建性の温存かあっだのかもしれない。おそらく日本か英米仏のような近代民主国家として出発しなかったことを反映しているのだろうが、それはその出発当時の条件からきたことであって、軍が独立して政策を遂行するという規定をしたものではなかった。

 これが意識の中に顕在化したのは、軍縮問題以来のことであって、それまではいはば眠っていた。あれこれの現象はあっても、それは歴史をうごかす力ではなかった。それ以後、政治化した軍人はこの「兵力量の決定と統帥権の独立」といふ難問題を活用した。そして、これを手がかりにして覇権を握った。

 総力戦時代の現代では、戦闘力のための統帥権といふことを拡大解釈すれば、どこまでも拡張できた。統帥権の独立をもって、ただちに旧体制がファッショだったということはできない。もし軍があのやうに政治化しなかったら、たとえ統帥権が独立していようとも、またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、問題はなかったろう。

 しかし、軍があのようなや団体精神に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、、ああなるほかはなかったであらう。統帥権の問題が日本の命取りとなったのは、それか原因だったのではなく、むしろ結果だった。決定的だったものは、制度という前提條件ではなくて、そこにはたらいた意志だった。」

 私も、この通りだと思いますね。つまり、「軍があのようなや団体精神(右とも左ともつかない日本独特の超国家主義イデオロギー=筆者)に憑かれた以上は、たとへ統帥権かどこにあらうとも、また軍部大臣が文官であったとしても、ああなるほかはなかったであらう」ということです。

 広田弘毅も、そして近衛文麿も、軍がこのような団体精神に憑かれて政府を強引した時期に、必死になって、その要求を容れつつ軍をなだめ、その暴走を食い止めようとした。そしてそれに失敗した。その結果、軍の暴走を止められなかったという結果責任を一身に負うことになった。彼等の悲劇は、このように理解することが出来ると思います。

 広田については、いわゆる「広田三原則」以降、軍に対する抵抗力を次第になくしていったと評されます(秦郁彦)。また、近衛自身も、当初の威勢の良さは次第に影を潜め、軍のロボットとして利用されることに不満を述べ、頻りに辞任を口にするようになります。次の言葉は、広田が第一次近衛内閣で外務大臣を務めた時に漏らした述懐です。

 「外務大臣というものは内閣の方針に従い、これを実行して行くのが常道である。ところか今日の情勢は決してそうではない。内閣の方針などというものはほとんど認められず、軍部の独断専行で行なわれている。したがって外務大臣としてはそんな無軌道なことに対してまで責任をとらねばならぬということはどうかと思う。もっと根本から正さねばならぬ。

 自分にいわせれば、外交の統一性も一元主義もしっかりした正しい軌道があってこそ大臣の責任も論議され、大臣の責任もあるわけだが、今日のような無茶苦茶な事態に対しては力で対抗するか、ないしは成行きに委すより方法はないのではないか。自分はこういう考えであるから、閣議では力の限り正しく善戦するけれども、事実はどうすることもできない。」(『広田弘毅』広田弘毅伝記刊行会p318)

 同様の言葉は後述するように近衛も度々漏らしていますが、しかし、広田があくまで外交官としての筋を通そうとしたのに対して、近衛の場合は、満州事変以降の軍の行動を、思想的あるいは心情的に是認していました。それ故に、軍の支持を受けたわけですが、近衛としては、そうした自らの思想(=持たざる国の現状打破を正当化する思想)に沿って、むしろ積極的に「先手」を打ち、日本の「運命の道」を切り拓くことで、政治の主導権を軍から取り返そうとしたのです。

 そのため、廬溝橋事件が発生し、事態収拾のため華北に三個師団を派兵することが閣議決定された7月11日には、周囲がビックリするような強硬な中国非難の声明を発しました。さらに、北支事変が上海へと飛び火した8月15日には、次のような政府声明を発しました。

 「帝国は夙に東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せる事久しきに及べり。然るに、南京政府は排日抗日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と苟合して反日侮日愈々甚だしく、以て帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり」
(中略)
 「此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく、全支に亙る我居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍其の限度に達し、支那軍の暴戻を贋懲し、以て南京政府の反省を促す為め今や断乎たる措置をとるの巳むなきに至れり」

 言うまでもなくこのような、日中戦争についての理解は、日本側の勝手な言い分に過ぎません。中国側にしてみれば、満洲ばかりでなく旧都北平(北京)がある北支も満洲化され、これを許せば首都南京もまた北平と同じ運命を辿る、という危機感から、犠牲を恐れず、抗日全面抗戦を決意しているのです。従って、このような近衛の言辞は、中国にとってみれば「何が東洋永遠の平和か、日支両国の親善提携か」まして「暴支膺懲とは何事か」ということになります。

 実は、この声明文は、陸軍大臣杉山元が案文を持ち込んだもので、閣議ではさしたる議論もなくすんなりと通ったということですが、近衛としては、蒋介石との直接会談で紛争の解決を図ろうとして陸軍に阻止され、また、船津工作も「大山事件」で頓挫し、さらに、思いもかけず、蒋介石が上海を主戦場とする抗日全面戦争に打って出たために、事態を冷静に認識することが出来ないまま、陸軍の主張を受け入れたということなのではないでしょうか。
 
 この時近衛は、軍の主張に乗ってしまった。その上次のような言わずもがなの演説をした。「(中国に)反省を求めるため我が国が断固一撃を加える決意をなしたことは、帝国自衛のためのみならず、正義人道の上からも極めて当然のことと確信する。今日我が国の取るべき手段は、できるだけ速やかに中国軍に「徹底的打撃」を加えて、その戦意を喪失させるほかにはない。そうしてもなお、中国が反省せず、あくまで抵抗を続ける場合には、我が国は長期戦争をも辞するものではない。」(昭和12年9月第72議会施政方針演説)

 このような近衛の陸軍や世論に対する迎合的な言辞が、翌年昭和13年1月16日の近衛の「蒋介石を対手とせず」声明にも繋がっています。もちろん、この時点では、参謀本部が主張したような和平交渉を継続されたとしても、蒋介石がその時の条件で和平交渉に応ずることはなかったと思います。しかし、この声明では、事変勃発当初、陸・海・外三省間で決定した「北支は絶対に第二満洲にしない」という紛争解決のための基本方針が、完全に放擲されています。

 ではなぜ近衛は、このような失敗を犯すことになったのでしょうか。実は、近衛の政治思想は軍のそれと共鳴するものがあり、そのため彼は、満州事変以降の軍の行動を肯定的に評価していたのです。といっても、彼は、それが日中全面戦争に発展するとは夢にも思っていませんでした。そのため、日本が「強硬な戦意」を誇示すれば中国は折れてくると思っていた。だが、この問題は、先に述べたように、中国にとっては「必死の問題」であり、「駈け引きの問題」ではなかったのです。

 その頃、蒋介石は、抗日全面戦争を持久戦で戦う覚悟を決めており、その主戦場に上海を選んで必要な準備を着々と進めていました。そのため、上海戦における日本軍の被害は、日露戦争の旅順攻囲戦に次ぐ膨大な犠牲を生むことになり、さらに、戦線は南京へと拡大しました。一方、こうして戦線が拡大するにつれて日本の和平条件も加重されることになり、華北新政権の樹立の他、占領地における国策会社の設立も決定されるに至りました(12月6日)。

 こうして、日本軍は、泥沼の長期持久戦にはまっていくことになりました。この頃近衛は、天皇に対して次のような愚痴を述べたとされます。「ただ空漠たる声望だけあって力のない自分のようなものが何時までも時局を担当するということは、甚だ困難なことでございます。」「どうもまるで自分のような者はまるでマネキンガールみたようなもので、(軍部から)何も知らされないで引っ張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、誠に申し訳ない次第でございます。」

 近衛は、自分が知らないうちに、軍によって次々に既成事実が積み上げられ、後戻りできないような事態に陥っていくことにすっかり嫌気がさし、やる気を失っていました。その後、戦線はさらに拡大、昭和13年4月から徐州作戦(5月19日まで)、9月武漢作戦(10月末まで)、10月広東作戦と続きました。この間、近衛は内閣改造を行い、内相に末次信正を迎え右翼を制御しようとし、陸相には板垣征四郎、外相に宇垣一成を迎えて、陸軍を事変収拾に協力させようとしました。(末次と板垣の登用は大失敗)

 宇垣は、近衛の「蒋介石を対手とせず」声明に囚われず、「宇垣・クレーギー会談」でイギリスの援蔣政策の放棄を求めたり、英国斡旋による和平交渉を模索したりしました。また、中国との間でも「宇垣・孔祥熙交渉」に取り組みました。宇垣は満州国の独立の他、領土的野心のないこと、中国の主権行政権の独立を望むこと、蒙彊、北支に防共施設置くこと、日満支経済・文化合作等の和平条件を提示しました。しかし、これに対して、日独伊枢軸強化論をとなえる陸軍や右翼が反対運動を展開し、交渉は頓挫、宇垣は就任4ヶ月で辞任してしまいました。

 その後、昭和13年の秋頃から汪兆銘工作が取り組まれました。これは、日本の帝国主義的侵略を早く止めねばならぬと考える松本重治(上海同盟通信支局)らと、梅思平ら国府側の和平派が話し合い、参謀本部の影佐偵昭と連絡を取り合って正式の交渉ルートにのせたものです。その内容は、国民党の和平派である汪兆銘らを国民政府から離脱させて和平政府を樹立させ、日満中の政治・経済・文化にわたる提携協力関係を確立しようとしたものでした。この工作の進展をバックに、近衛は11月3日、東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済提携の実現を図るという「東亜新秩序声明」を発しました。

 といっても、汪が和平政府を樹立するとしたその真意は、「日本との間に和平提携の生きた模範を作り、重慶政府及び一般民衆に、抗戦の無意味なことを証明して、全面和平に導こう」というものでした。「従って汪の政権が、一次的に重慶と対立しても、結局は合体すべきもので、そうでなくては全面和平できない。また事実上新政府はいかに強化されても、真に中央政権たり得るものではなく、和平運動は決して単なる反蒋運動ではない」。故に「この運動が成功する根本条件は、日本がこの運動を、独立国たる中国の愛国運動として尊重する」ことだと力説しました。(『近衛文麿』矢部貞治p404)

 この工作の結果、「日華協議記録」及び「同諒解事項」が調印され、また、「日華秘密協議記録」が作成されました。その要旨は次のようなものでした。

(日支協議記録)
一、両国は共産主義を排撃するとともに、侵略的諸勢力より東亜を解放し、東亜新秩序建設の共同理想を実現せんがため、相互に公正なる関係に於て軍事、政治、経済、文化、教育等の諸関係を律し、善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げ、強固に結合する。

そのため
(一)日華防共協定を締結する。これは日独伊防共協定に単ずるもので、又この目的で日本軍の防共駐屯を認め、内蒙を防共特殊地域とする。
(二)中国は満洲国を承認する。
(三)中国はその内地での日本人の居住、営業の自由を承認し、日本は治外法権を撤廃し、且つ租界の返還も考慮する。
(四)互恵平等の原則に立って、密に経済合作の実を挙げ、日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用に関しては、日本に特別の便利を供与する。
(五)中国は事変のため生じた日本居留民の損害を補償する必要があるが、日本は戦費の賠價は求めない。
(六)協約以外の日本軍は、平和克復復即時撤退を開始する。中国内地の治安恢復とともに、二年以内に完全に撤兵する。中国はこの期間に治安確立を保障し、駐兵地点は双方合議の上で決める。
(七)日本政府が右条件を発表したら、汪精衛(兆銘)ら中国同志は直ちに蒋介石との絶縁を闡明し、東亜新秩序建設のため日華の提携と、反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立する。

 なお、これに附属する「諒解事項」で、(一)の防共駐屯は平津地方とし、期間は日華防共協定の有効期間とすること、(四)の優先権というのは、列国と同一条件の場合のことなること、日本は事変による難民救済に協力することを決めました。

 また、「秘密協議記録」は
一、両国は新秩序建設のため、相互に親日親華教育と政策を実施する。
二、両国はソ連に対し共同の宣伝機関を設け、軍事攻守同盟を結び、平時には情報を交換し、内蒙とその連絡線を確保のため、必要な地域に日本軍を、新疆には中国軍を駐屯させ、戦時には共同作戦を実行する。
三、両国は共同して東洋を半植民地的地位から漸次に解放し、日本は一切の不平等条約の撤廃のため中国を援助する。
四、東洋の経済復興のため合作する。これは南洋等にも及ぼす。
五、右条項実施のため必要な委員を置く
六、なるべく両国以外のアジア諸国を、この協定に加盟させることに努める。
 となっていました。

 影佐と今井武夫は、この協議事項を携えて帰京し、これを基に、11月25日に御前会議、28日の閣議を経て11月30日「日支新関係調整方針」が策定されました。

 これら協議記録の内容は、この時期の和平条件としては立派なものです。しかし、これについて陛下は、こうした工作について、「謀略などというものは、当てになるものではない。大体出来ないのが原則で、出来るのが不思議な位だ」と言いました。また、西園寺は、汪の行動について、その「意のある所はよく判る。しかし軍部の協力は決して過信できない。軍部は傀儡政権をつくる常習犯だ。汪氏ほどの人を、そういう破目に陥れることにでもなったら、洵に気の毒だ」(『近衛文麿』矢部貞治p375)と言いました。

 残念ながら、その後の経過は、このお二人が危惧した通りのものなってしまいました。
(つづく)

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