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« 満州事変は日本が、日中戦争は中国が欲した。では日米戦争は誰が・・・? | トップページ | 戦前の日本人はなぜヒットラーを賛美したか。また、その日本人をヒットラーはどう見たか? »

2011年1月16日 (日)

日本の政府・統帥部首脳は松岡を除き「日米諒解案」を支持した。しかし、ヒトラーを賛美する時代の空気がそれを拒否した

健介さんへ

>>一方、アメリカはなぜ4月に一旦、日米了解案で妥協しようとしたのに、11月26日ハルノートを出すことになったのでしょうか。

>この日米了解案は野村大使が持ち込んだものでしょうがこれはアメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いたとありましたが、これについてはいかがでしょうか

 この了解案ができた経緯ですが、昭和15年11月末、米人カトリック神父ドラウトから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)に日米関係改善についての会見申込み(クーン・レープ商会のシュトラウスの紹介状持参)があり、井川は、r陸軍軍務局長武藤章等と協議の上会談に応じました。井川はその内容を近衛首相に逐一報告。ドラウトは日本側との話し合いで、日米交渉の可能性があると判断、帰国してルーズベルト大統領やハル国務長官と協議した結果、同意を得たので日本側にその旨報告しました。

 これを受けて、昭和16年2月11日、野村大使ワシントン着、井川も野村と前後して渡米、3月6日には陸軍軍事課長の岩畦豪雄も渡米。近衛、東条らは井川らの渡米に非常に好意的でしたが、外務省は冷淡かつ妨害的だったといいます。これは、松岡外相が、陸軍が外務省を出し抜いて日米交渉をやろうとしていると邪推したためだと言います。

 4月に入って、日米諒解案の起草がはじまり、日米双方当局の検討を経て(日本側は野村大使、若杉公使、磯田陸軍武官、横山海軍武官、井川、岩畦で検討)日米諒解案(第二案)がまとまりました。その結果、これを基礎として日米交渉が進められることになり、まず日本政府の訓令を得ることになりました。

 この日米諒解案のポイントですが、次の七つの項目に整理されています。(一部要約、抜粋)

一 日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念について
 米国が日本に民主主義への塗り替えを強要するようなことはせず、相互に両国固有の伝統に基く国家観念、及び社会的秩序、並びに国家生活の基礎たる道義的原則を保持することを認め、相互の利益は之を平和的方法により調節するとした。
 
二 欧洲戦争に対する両国政府の態度について
 日本の三国同盟の目的は防衛的なものであって攻撃的なものではないこと。米国の欧洲戦争に対する態度は、一方の国(イギリス)を援助して他方(ドイツ)を攻撃するものではないこと。(それは「自衛権の発動」という考慮において決せられるとした)

三 支那事変に対する両国政府の関係について
 米国大統領が左記条件を容認し、且つ日本政府がこれを保障したるときは、米国大統領は之に依り、蒋政権に対し平和の勧告を為すべし。
(イ)支那の独立
(ロ)日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
(ハ)支那領土の非併合
(ニ)非賠償
(ホ)門戸開放方針の復活。但し之が解釈及び適用に関しては、将来適当の時期に日米両国間に於て、協議せらるべきものとす
(ヘ)蒋政権と汪政権との合流
(ト)支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
(チ)満洲国の承認

 蒋政府に於て米国大統領の勧告に応じたるときは、日本国政府は、新に統一樹立せらるべき支那政府、又は該政府を構成すべき分子を相手として、直ちに直接に和平交渉を開始するものとす。

 日本国政府は、前記条件の範囲内に於て、且つ善隣友好、防共共同防衛、及び経済提携の原則に基き、具体的平和条件を直接支那側に提示すべし。

四 太平洋に於ける海軍兵力及び航空兵力並びに海運関係について
 日米両国は、太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て、相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及び航空兵力の配備はしない等。

五 両国間の通商及び金融提携について
 今次の諒解成立し、両国政府之を承諾したるときは、日米両国は各その必要とする物質を相手国が有する場合、相手国より之が確保を保証せらるるものとす。又両国政府は、嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き、正当の通商関係への復帰のため、適当なる方法を講ずるものとす。

 両国間の経済提携促進のため、米国は日本に対し、東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及び日米経済提携を、実現するに足る金クレディットを供給するものとす。

六 南西太平洋方面に於ける両国の経済的活動について
 日本の南西太平洋方面における発展は、武力に訴うることなく、平和的手段によるものなることの保証せられたるに鑑み、日本の欲する同方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び獲得に関し、米国側の協力及び支持を得るものとす。

七 太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針について
(イ)日米両国政府は、欧洲諸国が将来東亜及び南西太平洋に於て、領土の割譲を受け又は現在国家の併合等を為すことを、容認せざるべし。
(ロ)日米両国政府は、比島の独立を共同に保障し、之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法につき、考慮するものとす。
(ハ)米国及び南西太平洋に対する日本移民は、友好的に考慮せられ、他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談について
(イ)日米両国代表者間の会談は、ホノルルに於て開催せらるべく、合衆国を代表してルーズヴェルト大統領、日本を代衣して近衛首相により開会せらるべし。代表者数は各国五名以内とす。尤も専門家、書記等は之を含まず。
(ロ)本会談には、第三国オブザーヴァーを入れざるものとす。
(ハ)本会談は、両国間に今次諒解成立後、成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
(ニ)本会談に於いては、今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす。具体的議題は両国政府間に協定せらるるものとす。

 この諒解案の要点は、日本は、三国同盟における参戦義務を実質的に骨抜きにする。米国は(イ)から(チ)の条件で中国に和平を勧告する。米国は日本が必要とする物資の確保を保障し、日米通商条約を回復する。米国は、南太平洋における日本の石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産及び確保に協力する。日米両国は将来東亜及び南西太平洋における領土の割譲・併合を容認しない。米国及び南西太平洋に対する日本移民は差別しない、というものです。

 これは、従来、日本の軍部や近衛が、「持たざる国」の論理を日本の満州事変や東南アジア進出の正当化に使っていたことに対応したものだということができます。つまり、米国は満州国を承認する。その代わり、日本軍は無賠償・非併合で支那領土から撤退する。また、日本の人口問題や資源問題に対応するため、日本が平和的に東南アジアに進出する際の資源の確保にアメリカは協力する。また、移民についても他国民との差別扱いはしないなど。

 では、この諒解案に対して日本側はどのような反応を示したでしょうか。 

 「大橋(外務次官)は、前夜からその朝にかけて野村大使から電報が入って来たこと、尚暗号解読中だが、世界の迎命を左右する様なものだと、狼狽した喜び様であった。大橋は午後四時半に電報の解読を待って、寺崎アメリカ局長を伴って再び近衛を訪れた。

 近衛首相は、問題の重要性に鑑み、即夜八時から政府統帥部連絡会議を招集した。政府から近衛首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官、統帥部から杉山参謀総長、永野軍令部総長が出席し、武藤、岡の両軍務局長、富田書記官長も加わって、米国からの提案を協議した。近衛手記によると、次の様な意向が表明された。

一、この案を受諾することは、支那事変処理の最捷径である。即ち汪政権樹立の成果挙らず、重慶との直接交渉も非常に困難であり、今日の重慶は全然米国依存である故、米国を中に入れねば何ともならぬからである。

二、この提案に応じ日米の接近を図ることは、日米戦回避の絶好の機会であるのみならず。欧洲戦争が世界戦争にまで拡大することを防止し、世界平和を招来する前提になろう。

三、今日わが国力は相当消耗しているから、一日も速かに事変を解消して、国力の恢復培養を図らねばならぬ。一部に主張されている南進論の如き、今は統帥部でも準備も自信もないという位だから、矢張り国力培養の上からも一時米国と握手し、物資等の充実を将来のため図る必要がある。

 というので、大体受諾すべしという論に傾いた。ただその条件として、ドイツに対する信義から、三国同盟と抵触しないことを明瞭にする要があるとか、若し日米諒解の結果、米国は太平洋から手が抜けるので、対英援助を一層強化することになると、日本としてはドイツに対する信義に反するし、全体の構想が低調になって面白くないから、日米協同して世界平和に貢献するという趣旨を、もっとハッキリさせ、英独間の調停まで持って行きたいとか、内容が少し煩雑に過ぎるとか、旧秩序に復帰する様な感じを与えるから、新秩序建設という積極面をもっとハッキリ出したいとか、迅速に事を運ぶため、外相の帰国を督促する要があるとか、種々の意見が出た。又この事をドイツに通報すべきや否やについても、信義の上から通報に賛成の説と、諒解成立を切望する見地から、内密にしようという説とがあった。

 要するに種々意見はあったが、皆が交渉に賛成であった。東条陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいでいた。陸海軍とも「飛び付いた」というのが真情であった。そこで直ぐにも、「主義上賛成」の返電を出せという議があったが、大橋次官は、もう二、三日で帰国する松岡外相の意見を聞いてからにすべきだというので、近衛もそれに同意した。それなら一日も早く、松岡に帰国を促そうということになり、満洲里宛てで、首相が至急通話したい旨を松岡に伝えた。」(『近衛文麿』矢部貞治p546)

 これを見ると、近衛を初めとする政府首脳(松岡は独ソ訪問から帰途中で不在)、それに陸海の省部並びに統帥部の首脳は一致して、この諒解案を歓迎したことが判ります。ということは、彼等には米英と戦争してでも東亜新秩序を作り上げてようとする決意はなかった、ということになります。とりわけ近衛首相にとっては、この諒解案は、自ら過誤を犯したと認める日中戦争の終結を可能にし、また、中国や蘭印等からの必要資源の調達や移民の自由も保障されるのですから、氏の持論である「持たざる国」論が認められたことにもなり、大歓迎であったわけです。

 そもそも、近衛首相が三国同盟を結んだのは、ソ連も加えてそれを四国同盟とし、その圧力で対米英戦争を抑止あすることを目的としたものでした。その約束が、独ソ開戦によって反古にされたのですから、諒解案において、アメリカが欧州戦争に参戦した場合の日本の参戦義務が骨抜きにされてもかまわないわけです。また軍も、昭和15年3月30日の支那事変処理に関する参謀本部提案になる陸海省部最高首脳会議において、昭和15年中に支那事変が解決されなかった場合、昭和16年初頭から逐次撤兵を開始することを決定したほど、支那事変を持て余していました。(『大本営機密日誌』p32)

 こうした判断に対して、これは米国が対独作戦を進める上での二正面作戦を避けるための時間稼ぎであり、これを受け入れることは米国への屈服を意味するという味方もありました(大島浩駐独大使)。確かに、この頃、日本が三国同盟を結んだことや仏印に進駐したことで日米間に緊張が高まっていました。しかし、実情は、米国人は極東のことには関心が薄く、欧州に重点を置いていて、「戦争を支持する者もしない者も、眼中に置いていたのはヒットラーであって日本ではなく」、対日強硬論の多くは経済制裁程度しか考えていなかったのです。

 また、1941年8月に行われた「大西洋会談」でも、チャーチルが日本の南進に対応して米国の軍事介入を要請したのに対し、ルーズベルトは確約を与えませんでした。また、会談直後に発表された大西洋憲章は、次のように国際社会における政治経済的な原則を列挙して、枢軸国の追求する世界像に代わりうる、理想的な国際社会の構造を提示していたのです。つまり、米国は、世界恐慌から立ち直る過程で、もう一度、ワシントン体制に代わるような国際主義原則に戻って、アジアと太平洋における経済発達を図ろうとしていたのです。

 そのため、この憲章では、「全ての国による経済的提携」がうたわれ、世界のすべての人びとは恐怖感や欠乏感から解放されることこそ、平和への道だ」と説き、すべての国は世界のあらゆる地域における市場や資源の恩恵に、「平等な条件の下で」浴すべきだと宣言していました。その上、そこには、あらゆる人びとは地球のいたるところに渡航する権利を有する、というような、日本がパリ講和会議当時に提案した「人種平等宣言」を思わせるような項目まで含まれていたのでした。(『日米戦争』入江昭p46)

 では、これが本当なら、どうして11月16日の「ハルノート」が出されるようなことになったのでしょうか。だって、この諒解案に執拗に反対し、独ソ開戦後も三国同盟を堅持しようとしたした松岡外相は近衛により解任されたわけですし、近衛はルーズベルトとのトップ会談によって日本に対する米国の誤解を解くことができると信じていたからです。近衛は陸軍が拒んでいる撤兵についても、それで日米妥協が図れるとなったら、電報で木戸にそのことを知らせ、陛下に撤兵の「聖断」を出してもらう。それをやれば「殺されるに決まっている」が「生命のことは考えない」と言い切っていたのです。

 これだけ近衛が腹を決めていたにも拘わらず、なぜアメリカは日本を信じなかったか。結局、アメリカは、日本軍において枢軸を支持する勢力は強力であり、たとえ天皇の支持があったとしても近衛はこれを抑えることはできない。そのことは、諒解案以降の交渉過程で確認された、としていたのです。つまり、日本が三国同盟を堅持し独伊と共に世界新秩序建設に邁進する方向を選択することを断念させるためには、力による対決しかない。そうした強硬姿勢を姿勢を取ることによってしか、日本に方針転換させることはできないと考えたのです。

 つまり、撤兵問題とは、日本があくまで枢軸側に立って世界新秩序建設に向かうか、それとも、大西洋憲章に述べられたような、米英中心の新たな国際協調主義に戻るかの二者択一を迫る「踏み絵」だったのです。従って、日本に支那からの撤兵を求めるということは、力で日本に後者の側に立つことを求めるものであり、日本がこれを拒否すれが、それは日本はあくまでヒトラーと共に世界新秩序建設に向かうことを意味したのでした。つまり、そのことを瀬踏みするためにこそ、日本に諒解案がぶつけられたのでした。

 つまり、日本がこの諒解案を拒否した段階で、日本に後者の選択をさせるためには、力による強制しかないことが明らかになったのです。だって、日本の名誉ある撤兵は、アメリカが中国に日本との和平を勧告することによってしか実現できませんから。それを日本が拒否したということは、アメリカ仲介による名誉ある撤兵はしないということ。それは日本は中国が降伏するまで戦争を続けるということ。しかし、中国はアメリカが支援する限り降伏しない。結局、日本はアメリカとの戦争を決意せざるを得ない・・・。

 こう考えれば、アメリカが、たとえ天皇が近衛を支援したとしても、軍のこうした行動を抑えることはできないと判断したのも当然、ということになります。つまり、日米諒解案こそ、日本が枢軸側に立つか米英側に立つかを判断する試金石だったのです。そして、日本の政府や軍の首脳は一致してそれを受け入れようとした。しかし、松岡の妨害に会って逡巡する間、独ソ開戦後のヒトラーの快進撃に便乗する下僚軍人・官僚、マスコミの強硬姿勢に引きずられ、ついにハルノートという「踏み絵」を突きつけられることになった・・・。

 なお、日米諒解案は「アメリカの正式な提案ではなかった事を松岡が見抜いた」と言うご意見について。この諒解案には、ルーズベルト大統領と近衛首相の会談が予定されていて、そこでは「今次諒解の各項を再議せず、両国政府に於いて予め取り決めたる議題に関する協議、及び今次諒解の成文化に努めるものとす」と明記されていました。従って、これをアメリカの正式提案でなかったと言うことはできません。ただ、この諒解案が、日本に、米英中心の新たな国際協調主義に立つことを求めていたことは明らかで、これを枢軸側から見れば、これがアメリカの謀略に見えたのは当然です。

 結局、日本は、本音では松岡を除く政府、統帥部の首脳部がほぼ一致してこの諒解案受諾に賛成しながら、その時代のヒトラー崇拝の空気に支配され、結局、枢軸側の武力による世界新秩序建設の道を選択することになったのですね。それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。

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日本近現代史をどう教えるか」カテゴリの記事

コメント

まるきよさんへ
「近衛声明の後に中国に傀儡政府を作ったので、念願の華北分離工作を続けた」
まさにその通りですね。これも支那駐屯軍や関東軍が勝手にやったことで、近衛も当初は嘆いていましたが、トラウトマン和平工作の条件加重後、蒋介石が交渉引き延ばしを計っているとみて、また中華民国臨時政府の王克敏の要望を受ける形で「蒋介石を相手とせず」声明を出したのです。これが大失敗だったことは本人も認めているわけですが、あくまで和平交渉の対手は蒋介石と見切る力があれば良かったですが世論受けを狙う近衛はつい口が滑った?この反省に立って宇垣一成を外務大臣に登用し蒋介石との交渉を再会しますが、ここでも宇垣を支えきらず和平交渉は頓挫します。その後汪兆銘担ぎ出しさらには日中戦争の再定義東亜新秩序と進んで英米と対決することになるのです。

結局、近衛声明の後に中国に傀儡政府を作ったので、念願の華北分離工作を続けたということになりますね。

ですから領土要求はしてないから侵略ではないという一部の知識人の主張は通らないということになります。

何度か中国から撤退する案が軍内部から出されたにも関わらず「英霊に申し訳ない」という一言で一蹴されたようですね。負けるが勝ちとはよく言ったものです。

まるきよさんへ
お久しぶりです。昭和史講座をコミセンでやっていて50回が先日終わりました。こちらの方が一段落したら、ホームページを完成させたいなあと思っています。

「華北分離工作を知らない人が多いと感じます。満州国建国の後はすっ飛ばしていきなり盧溝橋事件が始まると思っている人が多い印象です。」

tiku
華北分離工作をなぜやったかがなぜ日中戦争になったかを理解する鍵ですね。満州事変自体は塘沽停戦協定で一応終息していますし、蒋介石も満州問題の処理を誤ったことを反省して、日本政府との妥協を模索していました。蒋介石としては共産党との戦いを優先させたかったからです。

こうした動きを華北分離工作で妨害したのは関東軍で、関東軍は独自の大陸政策を持っていて政府が蒋介石の呼びかけに応じて対中国外交の主導権を握るのを阻止しようとしたのです。

ではその大陸政策とはどのようなものだったかというと、これは石原莞爾の最終戦争論的な東洋と西洋の文明論的対立論の影響下にあり、資源のない日本としては中国に親日政権を樹立し満州承認と同時に華北の資源を獲得しアメリカに対抗しようというものでした。

一方軍中央は、鈴木貞一の回想にによれば永田鉄山は満州は対ソ戦略体制の整備のためであって支那に兵を使ってはいかんという考えだった(皇道派は逆のことを言うが)。しかし、永田は石原莞爾を参謀本部に呼んだその日に相沢中佐に惨殺されてしまった。

その石原は中国の抗日運動の高まりを見て華北分離工作をやめさせようとしたが、石原イズムの信奉者からすれば中国に親日政権を樹立し資源を獲得することは正しい。このため石原は武藤章ら若手軍人達の冒険主義を抑えることができなかった。

これが抗日運動を激化させ蒋介石をして抗日戦争を決意させるに至った、ということです。


「もう一つは日中戦争は侵略ではないという主張をする人が原因をソ連に求める論を展開していることではないでしょうか。重要な点が抜けているのですが、なぜそういう結論になるのか理解に苦しみます。」

tiku
こうした見解はユン・チアンの『マオ』の記述によるものです。それは華北で日支軍の衝突が起こったとき日本が破竹の勢いで華北を席巻し中国が日本の支配下に置かれる恐れが出てきた。

スターリンはもしこんなことになれば満州に接するソ連国境が危うくなるのでこれを阻止すべく、張治中に命じて上海で日本軍を挑発し蒋介石を日中全面戦争に引き込むべく工作した、と言うものです。

当然その可能性はありますね。また、蒋介石も抗日全面戦争となればその主戦場は華中だと考えていて、ドイツの指導の下に上海、南京間に一大防御陣地を構築しつつありました。といっても、すぐ全面戦争に訴えるつもりだったわけではなく、まあ準備中だったと言うことです。

華北で日中両軍の衝突が起こったとき、日本政府は何とかしてこれを局地紛争に止め、これが日中全面戦争に発展しないよう船津工作と言われる和平工作を行いました。

これは日本軍が華北分離工作で獲得した華北権益を全部放棄することで和平を計ろうとするものでしたが、8月9日に上海で大山事件が発生し頓挫しました。

日本としては、華北での紛争が上海に飛び火することを怖れていた。石原はそのために事件発生後も上海への派兵を渋っています。しかし、張治中の全面戦争の意図は明白で、結局、日本は受けて立たざるを得ない状況に追い込まれました。

日本としては中国と連携してソ連あるいはアメリカに対抗するつもりだったのに、中国と戦争になってしまった。これは何としても和平に持って行かなければと言うことで取り組んだのがトラウトマン和平工作でした。

これに最も熱心に取り組んだのが石原イズムの信奉者であり、華北分離工作を進めた多田参謀次長らで、その打ち切りを主張したのが船津工作を進めた近衛や広田ら政府側であったことは皮肉でした。

ではなぜこんな逆転現象が起きたかというと、私は、上海事変が中国側の先制攻撃で始められたこと、その日本側の犠牲者が南京陥落まで六万人に達したためだと思います。

その落とし前を付けなければならないという気持ちが政治家に働いたのは当然で、それがs12.12.14に北京に成立した中華民国臨時政府(日本の傀儡政権)を支持し、蒋介石政権を相手にせず、とする近衛声明になったのです。

昭和天皇は多田参謀次長が和平交渉継続を主張したとき、華北に手を出さなければ良かったではないか、と言っています。華北分離工作さえやらなきゃなあ、と言う反省が生まれる由縁ですね。

tikurinさん、お久しぶりです。まるきよです。

tikurinさんが以前におっしゃっていましたが、華北分離工作を知らない人が多いと感じます。満州国建国の後はすっ飛ばしていきなり盧溝橋事件が始まると思っている人が多い印象です。

ひとつの理由として日中戦争の分かりやすい初心者向けの書物が少ないことが原因だと思います。探してもなかなかありません。

もう一つは日中戦争は侵略ではないという主張をする人が原因をソ連に求める論を展開していることではないでしょうか。重要な点が抜けているのですが、なぜそういう結論になるのか理解に苦しみます。

私も全然詳細は分かりませんが、日本人が日中戦争について全くと言っていいほど知らないのは歴史の教訓を得られないことを意味するので非常に問題だと思います。

>それが、今回の、「日米戦争を欲したのは誰か?」という疑問に対する私の答です。この決定をした日本における独裁者は、東条でもなく、もちろん近衛でもなく、その時代の「空気」だった、と言うことになりますね。山本七平の『空気の研究』が名著たる所以です。

確かに空気の研究は名著です。これを読んで空気の反対語水を調べて、これを時と場合において使う事は、わが国日本において有効でしょう。
 大東亜戦争はアメリカもわが国もよくさず、ドイツがもくろんだという見方はいかがでしょうか。
 思うにわが国はワシントン軍縮体制を単なる軍事条約とだけ見ていたことが大きな誤りではなかったと思いますが、理系が文系(そもそも文系理系などという分類自体がおかしな事ですが)より優れているという見方がある世界では無理かもしれません。
 はっきり物事を考えないつまり哲学という伝統が無いということは致命的でしょうか?
 今回北朝鮮問題においてアメリカは
>米人カトリック神父ドラウト
のような特使を派遣しましたが北朝鮮はわが国の対米交渉をよく研究していますから、上手に核武装をアメリカに認めさせるかもしれませんね。
 もっともそれはわが国の態度にかかっていますが、それは大東亜戦争前の当時の指導者に覚悟が無かった事と同じようでは、無理ですか。
 空気のほかに社会現象、交際関係を自然現象のように見る感覚が文化的には大きな問題と見ています。
 これは人工とは何かという哲学的問題に通じます。
 つまり人がいるから生じている事でも自然現象のように認識する気質というか世界観というかもおきな問題でしょう。
 

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