フォト

おすすめブログ・サイト

twitter

無料ブログはココログ

« 昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2) | トップページ | 日下公人「さあ、新しい政治の話をしよう」がおもしろい! »

2011年2月11日 (金)

蒋介石の「以徳報怨」をどう評価すべきか――ap-09さんとの対話

*私HP「山本七平学のすすめ」談話室より転載

ao-09さんへ

>この蒋介石の「以徳報怨」からなのでしょうが、父が戦後処理について中国は懐が深いというようなことをよく言っていました。でも彼(蒋介石)は国民党を率いていたので、現政権の中国共産党からすれば敵ですね。これをもって現在の国のあり方としての中国を論ずるのは難しいところがあるような気がします。中国共産党はしたたかですから、この蒋介石の行動をもってプロ中国、反日に欧米社会にアピールすることには大変成功していると思います。日本の分は悪いです。

tiku 戦後、日本人が蒋介石に対して抱いた「恩義」について、①蒋介石がカイロ会談において「天皇制」の存続を支持したこと、②日本敗戦時「以徳報怨」の東洋道徳に基づき「対日賠償の放棄」と日本人兵民の「無条件送還」を実行したこと、③ソ連による「日本の分割占領」を阻止したことなどが指摘されます。

 これらに対して、それは「蒋介石神話」であって、実際は、ソ連の対日参戦により、ソ連と中国共産党が結びつくことを恐れた蒋介石が、日本軍の国民党軍に対する武装解除を円滑に行うことによって、その後の中国共産党との戦いを有利に進めようとした政治的判断に基づくものであった、とか、健介さんが指摘されたような批判があります。

 が、いずれにしても、こうした蒋介石の大局的な判断が、当時の日本人を心底揺り動かすものであったことは事実でした。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次は、大陸における戦闘においては日本軍は中国軍に対して連戦連勝と自負していましたが、天皇の玉音放送1時間前に放送された蒋介石の「以徳報怨」の演説を知って初めて「完全な敗北」を実感したと言います。

 これは、いわば日本人の心情的な反応と言えますが、以上の蒋介石の下した判断が、日本が戦後の国際政治情勢の変化の中で生き残っていく上において、決定的に重要な政治的判断であったことは疑いを容れません。そして、そうした判断を導いたものが「以徳報怨」の東洋道徳であったとすれば、東洋道徳も捨てたもんじゃないと言うことになります。

 では、こうした蒋介石の発言は当時の中国人にはどう受け止められたのでしょうか。当時の英米の各新聞はこれを「世界史に類例のない・・・最も寛容で、哲学的な格調高いもの」と評しました。しかし、「北京の知識人層にはその高い理念に感動し支持するものも少なくなかったが、一般的には大きな不満の声があがった」といいます。

 ”それは当然だろう”と思いますが、日本兵130万、居留民80万人の中国からの引き揚げが、終戦の年11月から約10ヶ月で終了した。それも他の地区からの引き揚げ者は裸同然だったのに、中国本土からの引き揚げ者は「衣料品等も一通りは当分の生活に困らない程度に荷物を持って帰ってきた(一人30キロまで許された)」というのは、蒋介石の指令なしには考えられません。

 もちろん、占領地における日本人の統治能力が中国人よりも高かったということ。確かに日本軍に協力することを忌避する中国人は多かったわけですが、その治安維持能力、組織管理能力、経済運営能力が高かった(日本軍支配下にあった華中では「ほとんどインフレにならず、物価も上昇しなかったという)ために、中国人の日本軍に対する怨みはそれほど強くならなかった、ということ言えるのではないかと思います。

 これに比べると、蒋介石ら国民政府が重慶から戻ってきて、「敵区」(日本軍の占領地区)や「淪陥区」(親日の王精衛政府に支配地域)を管理するようになると、却って、民衆は過酷な経済的略奪や搾取を受けるようになり、そのため、「多くの民衆は仕方なく中国共産党に新たな期待するようになった」といいます。台湾でもそんなことで、一般民衆の反発を招き、それに対する弾圧がなされ、蒋介石の神格化が行われました。

 ところで、この蒋介石の「以徳報怨」の演説に対し、最も激しく反発したのが、国民政府と敵対し、戦後の大陸においてその勢力拡大工作を一気に展開していた中国共産党でした。この蒋介石の演説を、周恩来は次のように激しく批判しました。

 『日本軍が中国に与えた損害の賠償として500億ドル(当時の日本円で約18兆円)を要求すると共に日本国内の鉱工業施設をすべて接収し、これを大陸に移すべきである。同時に中国に残留する日本軍人及び一般人200万人はそのまま抑留し、中国が戦争以前の姿に復旧するまで労務使役すべきである』」(『白団』中村祐悦p60)

 では、日本人に対する、この蒋介石と毛沢東の差はどこから生まれたのでしょうか。それは、端的に言えば、両者の思想あるいはイデオロギーが違いと言うことになりますが、実は両者の思想は、単なる違いで済まされるものではなく、中国思想をどのように発展させていくかという点において、根本的に相容れない対立関係にあったのです。

 蒋介石の思想は、儒教における「礼義廉恥」の道徳規範の徹底を図ることでした。しかし、それは伝統的村落秩序=地縁的・血縁的人間関係が一切を支配する社会関係に基礎を置くものだったために、私的・個別的利害の蔓延、村落の上下秩序関係の強化となり、底辺農民に対する一層の搾取・重圧として跳ね返ることになった。特に徴兵体制は拉致の色彩を帯び、兵の士気や規律の低下は避け難かったといいます。

 これに対して毛沢東の思想は、儒教の「牧民的」政治観が生んだ、政治をつねに「運命あるいは天命として甘受する農民の心性」を、土地の平等分配や租税の減免、汚職・腐敗の摘発などを通して、イデオロギー(マルクス・レーニン主義)的精神統一を図ろうとするものでした。これが兵士や農民の生産活動を促すものとなり、また、その安全や利益を保障するものとなって、彼等を味方につけることが出来たのです。(『蒋介石と毛沢東』参照)

 そんなわけで、国共内戦においては、中国共産党が次第に勢力を伸ばすことになったわけですが、いうまでもなく、そのイデオロギーはマルクス・レーニン主義に基づくものであり、儒教思想は階級イデオロギーに過ぎず、日本は帝国主義国家という位置づけでしたので、それは撲滅の対象にしかならない。それが先の周恩来による対日賠償要求に現れていたのです。

 では、この蒋介石の「以徳報怨」という考え方をもたらした儒教道徳と、毛沢東の、一定のイデオロギーに基づく「思想改造」を強制する思想とは、どちらが優れているかということですが、確かに後者は、前者の「牧民的」政治思想を「民主的」に改造しようとした点では一定の成功を収めましたが、政治権力が個人に思想改造を強要するに至った点では、儒教道徳より退化したと言えます。

 言うまでもなく、儒教思想は、政治的救済が道徳的救済となるという点において、大きな問題点を抱えています。つまり、政治が道徳の理想を体現することになっているために、結局、政治権力が理想化され批判が許されなくなる。だからこそ儒教では、政治権力者=統治者自身に孔孟的治者規範が求められたのです。だが、毛思想の場合は、この権力行使を規範化する道徳がない、というか否定した。

 これが、毛思想が、その後露呈したような儒教思想に及ばない点なのですね。では、これに対して日本思想はどうなのか、ということですが、結局、問題は思想における「義=正義」の観念の絶対化をいかに防ぐか、ということにあります。この「義」は社会に秩序を維持するためには絶対必要だけれども、同時に、その絶対化を避ける、特にそれが政治権力の絶対化に結びつかないようにするということが大切です。

 では、日本の思想は、この思想の絶対化を防ぐものを持っているか、ということですが、これは、日本人が「人間的」という言葉で表すところの、究極的には「もののあはれ」という言葉で言い表される、人間と自然(=絶対者)との対話の中から生まれた「あはれ」の感情なのではないかと思います。これが儒教に対するバランス装置としての国学の思想的ベースになっていたと思います。

 だが、これは一つの感情であって、七情(喜・怒・哀・苦・愛・悪・欲)に惑わされやすい。だから、できるだけこれらを抑えて、「即天去私」の平静かつ純粋な心的態度を保持すべきだ。これが江戸時代における儒教の日本的解釈の到達点だった。幕末になると、ここにおいて人間がそれに即して生くべき「天」のメッセージを具体的に伝えるものとして、尊皇思想が生まれ、これが明治維新という抜本的な体制変革を可能にした。

 こうして、明治における時代精神は、「即天(皇)去私」となったのです。また、この時天皇自身は、後期天皇制の伝統を受け継ぎ、立憲君主制における「君臨すれども統治せず」と親和した。また、国民は去私の精神で国の近代化に尽くした。こうして、日本は文明開化、富国強兵、殖産興業による近代化に成功したのです。ところが、この( )の中に、何を容れるかで事態は変わってくる。

 昭和は、ここに国家社会主義思想と親和した尊皇イデオロギーが挿入され、その「尊皇」と「軍」とが統帥権独立によって一体化したことによって、思想の絶対化→政治権力の絶対化という現象が生まれたのです。これも、儒教文化に起因するものと言えますが、日本の場合は、折角、それを抑止する後期「去私」天皇制を持っていたのに、それを伝統思想として思想史に組み入れ国民の共有財産としていなかったために、その知恵を生かすことができなかった。

 では、この時、本来、思想の絶対化を防ぐべきはずの「もののあはれ」はどのように作用していたのでしょうか。これは日本軍の玉砕、特攻精神に現れたように思います。問題は、それに殉じた人たちよりも、それを命じた指導者たちにあったのではないか。彼ら自身の「もののあわれ」を感じる心はどうなっていたか、ということが問われるべきではないでしょうか。一億玉砕を命じたその精神は、はたして「無私」といえるものだったか。

 以上の事を、日本の思想史的文脈の中で解明する必要があると思っています。

(参考までに、蒋介石の「「以徳報怨」の演説の概要を紹介しておきます)

蒋介石総統のメッセージ
「全中国の軍官民諸君」-全世界の平和を愛する諸氏!-
(重慶にて。1945年8月15日)「台湾建国応援団」サイトより転載

 「我々の抗戦は、今日勝利を得た。正義は強権に勝つという事の最後の証明をここに得たのである。
我々に加えられた残虐と凌辱は、筆舌に尽くし難いものであった。しかしこれを人類史上最後の戦争とする事が出来るならば、その残虐と凌辱に対する代償の大小、収穫の遅速等を比較する考えはない。この戦争の終結は、人類の互諒互敬的精神を発揚し、相互信頼の関係を樹立するべきものである。 
 我々は『不念旧悪(1)』及び『与人為善(2)』が、我が民族の至高至貴の伝統的徳性であることを知らなくてはならない。我々はこれまで一貫して、敵は日本軍閥であり、日本人民を敵とはしないと声明してきた。
 我々は、敵国(3)の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。彼等がナチス軍閥(4)に愚弄され、駆使された事に対し、むしろ憐憫の意を表し、錯誤と罪悪から自ら抜け出せる様にするのみである。銘記すべき事は、暴行を以って暴行に報い、侮辱を以って彼等の過った優越感に応えようとするならば、憎しみが憎しみに報い合う事となり、争いは永遠に留まる事が無いという事である。それは、我々の仁義の戦いが目指すところでは、決してないのである。

(1)「旧悪を念ぜず」 (2)「人と善を為す」 (3)日本を指す(4)日本の軍部を指す

« 昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2) | トップページ | 日下公人「さあ、新しい政治の話をしよう」がおもしろい! »

日本近現代史をどう教えるか」カテゴリの記事

コメント

ap-09さまへ

 次の文章は小松真一氏(陸軍専任嘱託として徴用されガソリンの代用となるブタノールを製造する技術者として昭和19年にフィリピンに派遣され、終戦を迎え、戦後は捕虜となった。その間に戦争中の自らの体験を八冊の手作りの手帳に記した)の日記の一節です。

「人間性悪説

 平地で生活していた頃は、人間性悪説等を聞いてもアマノジャク式の説と思っていた。ところが山も生活で各人が生きるためには性格も一変して他人のこと等一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるというような所まで見せつけられた。そして殺人強盗等あらゆる非人間的な行為を平気でやるようになり良心の呵責さえないようになった。

 こんな現実を見るにつけ聞くにつけ、人間必ずしも性善に非ずという感を深めた。戦争も勝ち戦や短期戦なら訓練された精兵が戦うので人間の弱点を余り暴露せずに済んだが、負け戦となり困難な生活が続けばどうしても人間本来の性格が出るようになるものか。支那の如く戦乱飢餓等に常に悩まされている国こそ性悪説が生まれたのだと言うことが理解できる。」

 日本人には性善説が常識ですが、中国では荀子など性悪説に立つ思想家も多いようです。また、性善説と言われる孔子でも「教えなければ禽獣に近し」で、人間の本姓をよりリアルに見ているように思います。

 もちろん、人間も生物学的限界を超えた環境に置かれれば、中国人でも日本人でも「性悪」な人間の本性の一面を露呈するわけで、その点、中国の方が日本より遙かに厳しい政治的環境に置かれてきたと言うことが言えると思います。

 翻って日本のことを考えれば、日本人の性善説はまさに絶対的かつアンタッチャブルな観念となっていて、かって日本人が学んだ中国の「教えなければ・・・」の常識からも乖離していっているように思います。

 安易な人間性の幻想に陥らず、人間の本性のリアリズムに根ざした思想の形成こそ、現代の日本人には求められているのではないでしょうか。

 

 

ap-09さまへ

ap-09 蒋介石は伝統的な儒教的モノの考え方なので、民衆をかえりみず、その点で民衆の支持が共産党に向かい、現政権の中共に負けたというお考えだと伺いますが、中共はうわべは民衆のための政治をプロパガンダしても、やはり本質は蒋介石と50歩百歩の差だと思うんですね。

tiku 蒋介石と毛沢東の思想の違いとそれをどう評価するかという問題ですが、私は、このエントリーで次のように書いています。

 「この蒋介石の「以徳報怨」という考え方をもたらした儒教道徳と、毛沢東の、一定のイデオロギーに基づく「思想改造」を強制する思想は、どちらが優れているかということですが、確かに後者は、前者の「牧民的」政治思想を「民主的」に改造しようとした点では一定の成功を収めましたが、政治権力が個人に思想改造を強要するに至った点では、儒教道徳より退化したと言えます。

 言うまでもなく、儒教思想は、政治的救済が道徳的救済となるという点において、大きな問題点を抱えています。つまり、政治が道徳の理想を体現することになっているために、結局、政治権力が理想化され批判が許されなくなる。だからこそ儒教では、政治権力者=統治者自身に孔孟的治者規範が求められたのです。だが、毛思想の場合は、この権力行使を規範化する道徳がない、というか否定した。

 これが、毛思想が、その後露呈したような儒教思想に及ばない点なのですね。・・・結局、問題は思想における「義=正義」の観念の絶対化をいかに防ぐか、ということにあります。この「義」は社会に秩序を維持するためには絶対必要だけれども、同時に、その絶対化を避ける、特にそれが政治権力の絶対化に結びつかないようにするということが大切です。」

tiku つまり、私の意見は、中国における思想的発展と言うことを考えた場合、 毛思想は「政治権力行使を規範化する道徳がない」という点で、儒教思想に及ばない部分があるのではないか、というものです。

ap-09個人的な経験では、中東からでも世界の他のどの発展途上国(たとえ独裁政権下であっても)からアメリカに来る人でも、アメリカで勉強して国に戻って自国のために貢献するという意識のある方が必ずおられます。中国人にはそういう人はいません。中国という国は、それほど非情なのだろうと推察しています。

tiku それは「現体制」のもたらす非情なのか、「中国文化」のもたらす非情なのか、どちらだとお考えですか。反日意識は、民主化運動を進めている中国人が最も強い、と言う記事をどこかで読んだことがありますが、これが事実だとすれば、それは「現体制」の非情に向けられた言葉のような気がしますが・・・。

ご意見末尾の劉震雲氏の言葉について
 「それでは、この問題を、まさに餓死しようとしているわれわれ被災者の目の前に置いてみよう。この場合、質問は次のように変わってしまう。
 飢え死にして中国の鬼(JOG注: 亡霊)になるのがいいのか?
 それとも、飢え死にせずに亡国の徒(JOG注: 売国奴)となるのか?
 そして、われわれは後者を選択したのだった。」

 山本七平は氏の日本軍論において、この「飢え」の問題を繰り返し指摘しています。

 「人間は自らのうちに、絶対的と言える確定要素を持っているのであって・・・その決定的な要素の一つは食料であって、(日本軍は)この絶対的な確定要素の計算を無視した・・・その結果が飢えであり、餓死と降伏であった。」(戦後はこの事実を忘れて)左は毛沢東を引用して(精神力を持った)「人だ、人だ」といい、右は、「国を守る気概を持て」と言っている。しかし、冷厳な事実として指摘しなければならないことは、近代戦における「軍備とは何か、それは食料だ」ということだ・・・。

 蒋介石も、抗日戦において、同様の問題点に直面したのですね。軍と民衆の食料のどちらを優先的に確保するかということで・・・。同様のことは戦争末期の日本においても起こっています。ただ、この問題への対処は、少なくとも戦中は、蒋介石より毛沢東の方がうまく処理し、一般民衆を味方につけることに成功したように見えます(例えば略奪の禁止など)。ここには共産主義的平等主義が儒教の階級思想を克服した側面があったように思われます。しかし『マオ』などを読むと、これも多分にプロパガンダによるもののようですね。

すみません。名乗るのを忘れてました。

tikurinさま


蒋介石は伝統的な儒教的モノの考え方なので、民衆をかえりみず、その点で民衆の支持が共産党に向かい、現政権の中共に負けたというお考えだと伺いますが、中共はうわべは民衆のための政治をプロパガンダしても、やはり本質は蒋介石と50歩百歩の差だと思うんですね。

伊勢雅臣氏の記事を下にコピペしました。全文引用なので著作権に引っ掛かってしまうのかもしれませんが、引用もとのウェブサイトがみつけられなかったので、すみません。

それにしても、蒋介石は、残虐というか、庶民のことは虫けら程度としか感じていないようですね。こういう人がいくら立派な著作を残して大人(たいじん)を装っていたとしても、どうも私にはいただけません。

中国人の個人に関してはそうでない立派な人もたくさんおられるのでしょうが、中国の支配者は常にこのようだし、その支配権は、現在安定かつ拡張していっており、今後も変わらないと思います。欧米世界は中東や他の国には武力介入しますが、中国には何も言いませんしできませんね。個人的な経験では、中東からでも世界の他のどの発展途上国(たとえ独裁政権下であっても)からアメリカに来る人でも、アメリカで勉強して国に戻って自国のために貢献するという意識のある方が必ずおられます。中国人にはそういう人はいません。中国という国は、それほど非情なのだろうと推察しています。

伊勢氏の記事自体もかたよりがあるのかもしれませんが、tikurinさんのご意見を伺えると幸いです。


■1.「飢え死にが出た年はたくさんありすぎるんでね」

 中国で数々の文学賞を受賞している作家・劉震雲(リュウ・チェン・ユン)は、92歳になる母方の祖母に尋ねた。
「おばあちゃん、50年前、大干ばつで、たくさんの人が餓死したんですってね!」
 祖母は言った。
「飢え死にが出た年はたくさんありすぎるんでね、いったいどの年のことをいってるんだい?」
 劉はイナゴを持ち出した。1942(昭和17)年の大干ばつの後、天をさえぎり、太陽をおおうイナゴが発生したのである。
「それは知っているよ。イナゴが飛んできたあの年のことだね。あの年にはたくさんの人が死んだよ。イナゴが畑の作物をぜんぶ食い尽くしてしまった」
「たくさんの人が死んだでしょう?」と聞くと、おばあちゃんはちょっと考えて、「何十人も死んだだろうね」と答えた。一つの村で何十人だから、河南省全体では300万人が餓死したとされている。
 死ななかった人は、西の山西省に逃げたという。そこも同じように貧しい地方なのだが。

■2.「緑色の顔や生気のない目」
 河南省での飢餓の状況を取材した当時の記事には、こう書かれている。[1,p29]
_________
 夏に入ると、全省で三ヶ月間雨が降らず、秋に雨が降ったものの、その後は全く降らず、大干ばつとなった。・・・

 毎日、われわれの食事時になると、いつも十数人から二十数人の被災者が、入り口で首を長くし、号泣しながら物乞いする。その緑色の顔(毒草を食べたため)や生気のない目は、誰しも見るに耐えないが、誰も彼らに残飯を与えることさえできなのだ。・・・

 河南では、原始の物々交換の時代に戻った。女子どもを売ろうとしても買い手がないので、自分の若い嫁や15、6歳の娘はロバの背中に乗せて、河南省東部の駄河、周家口、界首などの人売りの市場まで連れて行き、娼妓として売った。一人売っても、四斗の穀物も買えない。・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 飢餓の原因は、天災だけではなかった。アメリカの中国在住外交官ジョン・S・サーヴィスが本国に送った報告書には、「河南の被災者の最大の負担は、絶えず重くなる実物税と軍糧の徴収である」として、40万人の軍隊を養うために、農民は総収穫の30パーセントから50パーセントを徴収されること、また各部隊が兵員数を水増しして、必要以上に軍糧を徴収し、私利を貪っていたことを指摘している。

 さらに餓死が発生し難民逃亡が続いても、食糧徴発の計画は変えずに実行され、また政府の役人や、悪徳商人、地主等らが農民の田畑を低価格で買いあさっていた。


■3.「行列が見渡す限り延々と続いていた」
 米国の週刊誌『タイム』の記者セオドア・ホワイトも、被災地を訪れ、その状況を世界に知らせた。
 ホワイトは、丸一日、線路に沿って「行列が見渡す限り延々と続いていた」と述べている。

 もう一つの方法は、汽車につかまって移動する事である。しかし、これは非常に危険だ。ホワイトはたくさんの血まみれの死者を目撃した。一つには日本軍の砲撃によって、汽車が爆破されて命を失ったもの。また、車両につかまっていたのだが、夜に手先が凍えて握力を失い、転げ落ちて、汽車に轢かれてしまった者。

 ホワイトは、こうした流血を見ることよりも、目の前の光景が、いったいどういうわけなのか、はっきりわからないのが、耐え難く苦しかったと記している。このように組織も規律もなく、人々が大移動するなんて、政府は何をしているのだ?

 しかし、劉は言う。「この言葉はホワイトが中国の国情についてよく理解していなかったことを意味している」

 ホワイトはこの旅の途中で、河南省の役人から、鶏肉、牛肉、魚など贅を尽くしたメニューでもてなされた。それは、これまで口にしたなかで、もっともすばらしい宴会だったと、ホワイトは語っている。同時に、飢え死にしつつある民衆を思うと、食するにしのびないとも言った。

「ただし、我が故郷の役人は、ホワイトのように気おくれしてはいなかった」と、劉は確信している。


■4.「人もまた、狼の本性にもどった」

 道端には死人があふれたが、気候も寒いなかで、人々は、屍を埋める穴を掘る気力もなく、大量の屍が野晒(のざら)しにされ、飢えた犬に食べ物を提供することになった。

 ホワイトは洛陽を出発して東に向かったとき、小一時間もたたないうちに、雪の上に横たわった年若い女の屍を、野犬とタカが引き裂いているところを、その目で見た。ホワイトはこのような状況を多くの写真に残した。

 人もまた、狼の本性にもどった。この世の中に、もう食べるものが何ひとつなくなったとき、人は犬のように人を食い始めた。しかも、死者の肉を食うならまだ理解できるが、生きた人間が生きた人間を食い、身内が身内を食ったのだ。

 ホワイトは、母親が二歳の子どもを煮て食うのを見た。父親が、自らの命を守るために二人の息子を絞め殺し、その肉を煮て食べた。
 政府に対して「誰ひとり蜂起せず、ただ身内のあいだで共食いをする民族には、いかなる希望も見いだせない」と劉は語っている。


■5.「あなたは他の人からデタラメを聞かせれていたのですよ」

 ホワイトは被災地区を見た後、記事を電報でニューヨークに送った。当時の蒋介石による重慶政府の規定では、新聞報道は中央宣伝部の検閲を受けなければならなかったが、ホワイトは何らかの手段でそれを逃れたようだ。

 ホワイトの特ダネは、『タイム』を通じて欧米社会に広まった。おりしも蒋介石の妻・宋美齢が、アメリカを訪問していた。ホワイトの英文記事を読んで、怒り心頭に発した彼女は、『タイム』の発行者ハリー・ルースに対して、ホワイトの解雇を要求した。この中国流の要求は、当然ながら拒絶された。

 ホワイトは、正義感の強いアメリカ人らしく、被災者の救済に重慶政府を当たらせようと、政府要人に面会して、事態を訴えた。中国国防部長は、こう答えた。「セオドア・ホワイト先生、もしあなたがデタラメを話していないとすれば、あなたは他の人からデタラメを聞かせられていたのですよ。」

 他の高官は、ホワイトに忠告した。これらの人物に助けを求めても無駄であり、ただ蒋介石が口を開いてこそ効果がある、と。


■6.ホワイトの誤解

 そこでホワイトは、何日もかけて、蒋介石との面会にこぎ着けた。蒋介石は薄暗い執務室で、痩せた長身をしゃんと伸ばし、こわばった面持ちで握手をしてから、ホワイトの話を聞いた。

 その時、明らかに蒋介石は嫌悪の表情をしていた、とホワイトは記している。蒋はくだらなそうに聞き、しかたなく、ただ、副官に向かって、「彼ら(被災者の民衆を指す)は外国人を見ると、どんなことでも話すだろう」と言った。

 また、人が人を食べている状況まだ発生していることを話すと、「ホワイト君、人が人を食うことなど中国ではありえない!」と言った。

 ホワイトは次のように書いた。「明らかに、彼は、現在起きているこれらの事情をまったく知らない」。劉は、これはホワイトの誤解だと、断言している。

__________
 蒋がどうして信じないことがあろうか? きっと、ホワイトよりももっと早く、もっと詳しい河南被災地区の状況を知っていたにちがいない。ただ、それは手元にある重要なことがらではなかっただけなのだ。[1,p85]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 蒋介石にとっては、いかに日本軍と戦い、また共産党を抑えて、政権を維持するか、が最重要の事柄だった。どれほどの民衆が飢え死にしようが、犬に食われようが、共食いしようが、さしたる事ではなかった。ただ、さすがに3千万人が死線を彷徨っていることを、外国人記者の前で「小さな問題だ」とは言えなかったのである。

 しかし、ホワイトが、野犬が屍を食べている数葉の写真を見せると、蒋は「これ以上、ごまかせない」と瞬時に判断したようだ。すぐに態度を180度転換し、ようやく状況が分かったというふりをして、ホワイトを今まで彼の政府が「派遣したどの調査員」よりもすぐれた調査員であるとお世辞まで言った。


■7.難民救済の実態

 蒋介石の指示により、河南での難民救済が始まった。しかし、その内容は、いかにも中国流だった。河南では1万袋の米と2万袋の雑穀が配られたが、飢えた3千万の河南人民にとって、それは一人あたり平均1ポンド(約450グラム)に過ぎなかった。

 数ヶ月後に中央政府が発給した2億元の救済金のうち、一部が河南に届けられたが、役人らはこれを省の銀行に預け、利息を受け取るようにした。いくつかの地域ではそれを村に分配したが、村の役人はそこから農民が支払うべき税金分を控除してしまったので、農民に渡ったのはいくらもなかった。

 農民に渡った紙幣は100元札だったが、食糧を買いだめしていた者との取引には、5元札や10元札が必要で、その両替のために銀行に行くと、17パーセントもの手数料をとられた。

 蒋介石は欧米社会に対して救済活動をしているというアピールをしたのだが、それはこのような茶番劇に過ぎなかった。

__________
(救済がはじまっても)農民は相変わらず死のまっ只(ただ)なかにあった。彼らは道路で死に、山地で死に、汽車のホームの脇で死に、自分の泥小屋のなかで死に、荒れ果てた田畑で死んだ。[1,p102]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■8.「日本人が来た」

 1942年の大干ばつの翌年、今度はイナゴの大群に襲われた。天をさえぎり、陽を隠して、遠くからブーンブーンという低い唸りが聞こえたかと思うと、一斉に急降下して、農地を覆い尽くし、2時間もすると、作物の大部分は食い尽くされていた。

 しかし、河南の農民は絶滅を逃れた。なぜか。

__________
 日本人が来たからである。----1943年、日本人は河南の被災地区に入り、わが故郷の人々の命を救ったのだ。

 日本人は中国で甚だしい大罪を犯し、ほしいままに人を殺し、流血は河となった。われわれと彼らは、共存するわけにはいかなかった。だが、1943年冬から1944年春までの河南の被災地区においては、この大量殺戮を犯した侵略者が、ぼくの故郷の多くの人々の命を救った。彼らはわれわれにたくさんの軍糧を放出してくれた。われわれは皇軍の軍糧を食べて、生命を維持し、元気になった。[1,p113]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

日本軍の河南進攻を好機として、農民たちは立ち上がった。

__________
 数ヶ月来、彼らは災害と軍隊の残忍な巻き上げに、苦しみ耐えてきたのだ。いまや、これ以上、我慢はできない。彼らは猟銃をとり、青竜刀や鉄の鍬を用いて自らも武装したのだ。

 当初、彼らは兵士の武器をとりあげるだけだったが、最後には、中隊毎につぎつぎと軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘では数週間に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 日本軍は6万の勢力で、わずか3週間以内に30万の中国軍を全滅させることができた。それは日本軍に助けられた農民が、中国軍に対して立ち上がったからである。


■9.「民衆が死んでも、土地はまだ中国人のもの」

 ホワイト記者に横暴な苛斂誅求を非難されたある中国軍将校は、こう答えたという。「民衆が死んでも、土地はまだ中国人のものだが、もし兵士が餓死すれば、日本人がこの国をわがものにして管理するだろう」

 まさに政権維持のためには、餓死しつつある民衆のことなど、重要な問題ではなかったのである。この言葉を、劉震雲はこう考える。
__________
 それでは、この問題を、まさに餓死しようとしているわれわれ被災者の目の前に置いてみよう。この場合、質問は次のように変わってしまう。
 飢え死にして中国の鬼(JOG注: 亡霊)になるのがいいのか?
 それとも、飢え死にせずに亡国の徒(JOG注: 売国奴)となるのか?

 そして、われわれは後者を選択したのだった。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 蒋介石の「以徳報怨」をどう評価すべきか――ap-09さんとの対話:

« 昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2) | トップページ | 日下公人「さあ、新しい政治の話をしよう」がおもしろい! »

Twitter

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のコメント

最近のトラックバック