フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011年2月

2011年2月24日 (木)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(3)

 「昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2)で、近衛文麿の思想を、大正7年に彼が書いた「英米本位の平和主義を排す」によって見てみました。

 大著『近衛文麿』の著者矢部貞治は、「この論文の重大さは、後に近衛の言行がいろいろ変転を示しているに拘わらず、彼の生涯を貫く基本思想がここに現れていると思われる点にある」と言い、彼が「第一次近衛内閣を組織する際、『国際正義と社会正義』をその指導原理として高唱したのも、あるいは彼が満州事変に同調したのも、日独伊三国同盟への悲劇的な道を行くことになったのも、更には日本の降伏後英米の裁判を拒否して悲劇的な死を選んだのさえも、この論文の思想を背景にして、初めてよく理解し得るものがあろう」といっています。

 そこで、彼が「英米本位の平和主義を排す」でなした主張を、今一度、分かりやすく見てみたいと思います。

① 第一次大戦後、民主主義や人道主義が唱えられているのは、その根底に人間の平等主義が求められるようになったからだ。そこで、この平等主義を国際社会において実現し、後進国の生存権を保障するためには、まず、欧米先進国の政治上の特権や経済上の独占を排除することが必要である。また、後進国が政治的・経済的に発展していくための機会均等が保障されなくてはならない。

② ところで、この平等主義は、教育勅語に「古今に通して謬らず中外に施して悖(もと)らぬ」と唱われているような我が「国体」の道徳規範の指し示す方向と一致している。むしろ、英米人の言う民主主義、人道主義こそ「自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断」するものであり、その背後に潜む「利己主義」こそ見落とすべきではない。

③ では、この人道主義と利己主義が対立する場合はどうすべきか。言うまでもなく、これからの世界に通用すべき思想は平等主義・人道主義である。従って、もし、日本が平等・人道的に扱われず、その正当なる生存権が不当に脅かされる場合には、「飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」である。即ち「正義人道」のためには時に平和を捨てなければならぬこともある、ということである。

④ 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和であって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は、独逸を「専制主義軍国主義、人道の敵」と非難し、今次の戦争は、「専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり」などと言うが、「正義人道」に合するか否かを言うなら、まず、この現状の正体をこそ問うべきだ。

⑤ また、欧洲戦前の世界の現状は、英米から見ればあるいは最善であったかも知れないが、「正義人道」に照らして見れば、決して最善の状態とは認め難い。英仏等がいち早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占したからこそ、「独り独逸とのみと言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態」になっているのである。

⑥ つまり、こうした現状は「実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」であり、「正義人道」に反するものである。確かに、ドイツのやり方には非難すべき点はあるが、それは、そうせざるを得ない環境にあったということであり、そのドイツと同じ環境にある日本人が、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈であり「正義人道」に反するものである。

⑦ また、国際連盟が真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、その成立を祝するに吝(やぶさ)かではないが、しかし連盟は、「動(やや)もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れ」なしとしない。そうなれば、日本の立場からも「正義人道」の立場からも、誠に忍ぶべからざることというほかはない。

⑧ 従って、この国際連盟の結成に当たって日本がまず主張すべきは、「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」である。つまり、「正義人道」を害するものは、独り軍国主義のみならず、国民平等の生存権を脅やかすものであり、「黄金富力を以てする侵略と征服」もそうであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じであり、当然否認されなければならない。

⑨ しかしながら「この戦争で最も多くを利した英米」は、「国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになる」だろう。彼等はすでに「自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じている」。しかし、もしそういうことになれば、「領土狭く原料に乏しい日本などは、『自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得なくなる。」

⑩ そこで、日本人が講和会議において特に主張すべきは、白人の黄色人に対する人種差別の撤廃である。彼等は、この差別感から「あらゆる差別待遇を設けつつ」あり、これは人道上許し難いことである。従って、日本人はこの人種差別の廃止を、「正義人道」の上から主張すべきである。講和会議は、人類が「正義人道」に基づく世界改造の事実に堪うるものであることを示すべきである。

 以上の論理を、さらに箇条書きに簡潔にまとめると次のようになります。

①は、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張。

②は、その「平等主義」は、日本の「国体」の理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは、その背後に「利己主義」が潜んでいるという指摘。

③ 従って、もし、日本の「平等主義」と欧米先進国の「利己主義」が対立する場合は、「正義人道」のため平和を捨てる覚悟が必要だ。

④ 実際、欧米先進国の言う平和人道は「自己に都合よき現状維持」をするための方便である。

⑤ また、それは「人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすもの」である。

⑥ 従って、日本は、現状の不平等を打破しようとしたドイツの立場を理解すべきであって、英米本位の平和主義にかぶれるのは卑屈千万であり、それは「正義人道」にも反する。

⑦ また、国際連盟もこれら大国の利害を優先しがちであることを忘れるべきではない。

⑧ 従って、来る(ベルサイユ)講和会議では、こうした現状を改めるよう、欧米先進国に対し「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」を求めるべきである。

⑨ というのも、彼等はすでに殖民地の門戸閉鎖を始めようとしており、こうなると日本などは自己生存のため現状打破の挙に出ざるを得ないからである。

⑩ そこで、講和会議では、こうした現状を打破するため、まず、白人による黄色人に対する人種差別の撤廃を求めるべきである。

 では次に、この論理の妥当性を検証してみます。

①は、理念としてはこの通りで、その具体化は、講和会議に引き続くワシントン会議で列国が参加して協議が行われました。

②は、日本の平等主義は、その「国体」観念と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものであるといい、結果的に、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めています。

③④⑤は、その西欧先進国の「利己主義」に対する後進国の現状打破を求める戦いを、「正義人道」の名のもとに正当化しています。

⑥は、英米よりドイツとの連帯を主張するもの。

⑦は、国際連盟に対する不信を表明するもの。

⑧⑨⑩は、日本は、欧米先進国に対して「経済帝国主義の排斥と黄白人の無差別待遇」を求めるべき、というものです。

 ここにおける第一の問題点は、①の理念、つまり、国際社会における政治的・経済的「平等主義」と「機会均等」の主張が、その後開催されたワシントン会議では、どのように具体的に処理されたかということ。さらに、それに対して、近衛はどのような評価を下し、とりわけ満州問題について、中国との利害関係を、その「平等主義」「人道主義」の観点からどのように調整しようとしたか、ということです。

 第二の問題点は、②の日本におけるの平等主義は、日本の「国体」観念が理想とする方向と一致するが、欧米先進国のそれは「利己主義」に基づくものといい、日本の「平等主義」に道徳的優位性を認めている点について、果たして、これが妥当であったかどうかという問題です。もしこの認識が誤っていたとするなら、③以下の西欧先進国に対する批判は説得力を欠くことになります。(「失うことになります」を訂正3/2)

 以上二つの問題点についての具体的な検討作業は次回に回しますが、そのポイントは、第一の問題点については――これはワシントン会議において問題になったことですが――中国を巡る日本と西欧先進国間の政治・経済分野における「平等主義」と「機会均等」をどのように実現するかということ。とりわけ、中国の「領土保全」及び主権の尊重を列国がどのように保障するかということになります。

 第二の問題点については、実は、日本は、西欧先進諸国との関係においては、確かに西欧先進諸国を「経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇」の観点から批判する立場に立ち得たわけですが、こと中国との関係においては、逆に、「中国、とりわけ満州における日本の特殊権益の主張と、中国に対する日本の民族的優位性」を主張する立場に立たざるを得なかった、ということです。(下線部挿入2/26)

 こうした近衛の論理に見られる矛盾を解く方法はあったのでしょうか。実際に採られた方法は、日本と中国を東洋文明(=王道文明)という枠組みの中で一体的にとらえることによって、西欧文明(=覇道文明)に対し、日本と中国が共同して対抗しようとするものでした。だが、中国にしてみれば、そうした考え方に基づく日本の行動こそが、中国の主権を踏みにじる帝国主的侵略行為に見えたのです。

 つまり、この東洋王道文明vs西洋覇道文明という対立図式は、日本が、西欧先進国の平等主義・人道主義を利己主義に基づくと批判する一方、中国に対しては、その主権を無視しても領土・資源を求めざるを得ないという日本の「宿命的」な矛盾を、自己欺瞞的に回避しようとするものだったのです。このことに近衛も、そして日本国民の大部分も気が付かなかったように思われます。

 とすると、日中戦争のその根本的な原因は、日本人自身の意識構造にあった、ということになります。もちろん、ここに森恪などの煽動政治家や昭和の青年将校などの思惑が絡んでいたことも事実です。次回は、このあたりの事情を、ワシントン会議以降、幣原喜重郎、森恪、そして近衛文麿などが、どのような外交方針・政策を以て乗り切ろうとしたかを具体的に見てみたいと思います。

2011年2月17日 (木)

日下公人「さあ、新しい政治の話をしよう」がおもしろい!

*私HP「山本七平学のすすめ」『談話室』より再掲 

『正論』3月号に、日下公人氏が「さあ、新しい政治の話をしよう」というエッセイを書いています。「一年半前に民主党政権が誕生して、あなたはよかったと思いますか?」という問いかけから説き起こしているのですが、なかなかおもしろいと思いましたので、その「見方」を紹介しておきます。

一、普天間のこと

 「むしろこのままゴタゴタが続けば、いっそのこと飛行場はやめて日本も航空母艦を持ったらどうかという話になる。米軍も沖縄は中国に近すぎると考えているし北朝鮮は遠すぎると考えている。その問題に向けて新しい展開がもう始まっているんだから、国民はその解説を求めている。」

 ぜひ、その解説を聞きたいものです。

二、尖閣諸島沖中国漁船体当たり事件のこと

 「この時の政府の対応は近年まれにみる外交的勝利をもたらした。」なぜか、「中国側は、ちょいと脅かせば日本は折れるだろうとタカをくくっていた」が、「民主党政権が予想以上にもたもたして何も決断できずにいたため、業を煮やした中国側は・・・しなくてもいい強硬手段を取らされるはめになったのだ。それをみて世界中が中国への警戒感を強めた。アメリカもそれまでの中国よりの態度を改め、再び日本に擦り寄ろうとする。引くに引けない中国は脅かしを一層強めて中国人船長を釈放させるのだが、それが却って日本の大衆の目を覚まさせる結果になった。とんだ藪蛇である。

 つまり民主党政権の、一見して杜撰きわまりない弱腰外交は中国という覇権国家からその本質と手の内をすべて吐き出させるという成果をもたらした。」

 自民党であれば、「最初から中国人船長を逮捕せず、逮捕したとしても起訴せずさっさと国外追放にした」事は間違いありません。

三、日本の大衆が「新しい政治の話を聞きたい」と思うようになったこと

 「日本が世界に誇れるのは古来より大衆の持つ常識の力である。各国の知識人はみんな腹の底では日本のインテリ層をバカにしているが、日本の大衆には歯が立たないと思っている。・・・ところが昭和期に入り官僚らインテリ層(おそらくエリート軍人もこの中に入る=筆者)が政治の実権を握るようになる頃から雲行きが怪しくなる。二進も三進もいかなくなって戦争に突入したのも、無能な官僚たちがルーズベルトの策略にまんまと引っかかったからだ。・・・

 しかしここでも、大衆で組織された下士官兵の驚異的な粘りにアメリカ軍はさんざん手こずらされる。中でも特攻隊の出現は前アメリカ将兵にとって衝撃だった。このため戦後のアメリカが何より重視したのは日本の大衆の力を弱めることで、セックス、スポーツ、スクリーンの”3s”を広めて大衆を娯楽漬けにし、無能な官僚組織はそのまま温存して漬け物石の役割をさせようとした。それでも大衆の力は押さえがたく、日本はたちまち経済大国となった。

 日本の大衆の力を恐れるのはアメリカだけではない。中国もまた、日本の大衆が目覚めやしないかとビクビクしている。そこで大衆に罪悪感を植え付けて自信を喪失させようと教科書の内容にまで口を出す。アメリカが日本の官僚を子飼いにしたように中国は日本のマスコミを手なづけた。ところが民主党政権の誕生により、とうとう日本の大衆が目覚めてしまった。これから日本の政治は全く新しいものへと向かうだろう。

 民主党に政権をわたしてみてとてもよかったと思う。」

 という内容です。では、その新しい政治とは何か、ということが問題ですが、要するに「これからの政治は、お江戸八百八町一般行政、司法、治安を一手に握る町奉行の配下にいたのは与力二十五旗、同心百二十人、たったこれだけの人数で、後は町民を信頼して任せていた江戸時代に倣って、政府は外交と防衛に専念し、生活のことは大衆に任せてあれこれ口をはさまないことだ。官僚の数はうんと少なくする。特殊法人は全廃である」と言っています。

 その第一歩として、まずは民主党政権にこういってみたらどうか。「お疲れ様でした。本当に有り難う」と。

 これを私流にいえば、いわゆる「空体語」を振り回すことで飯を食ってきた政治家や、また「実体語」しかなく「空体語」を手段として使ってきた政治家のインチキぶりが白日の下にさらされたということ。それに、特捜検察という超エリート官僚さえも、常識に欠けたものはいくらでもいるということ。さらに、郵政民営化を阻止しようとした元エリート官僚の馬脚も、そろそろ顕れようとしている等々・・・。

 ここから、日本人の大衆が歴史的・伝統的に積み上げてきた常識の力を、エリートたちの振り回す「空体語」の幻惑からさめて、どれだけ回復できるかが、問われているわけですね。そこで、上述した「実体語」と「空体語」の関係ですが、ベンダサンはこの言葉を「てんびんの論理」として説明したわけですが、この論理の最大の問題は、「空気支配」に陥りやすいということです。

 で、ここに期待されている大衆の常識の力とは、言葉=思想を「実体語」に即して組み立てる力のことだと思います。民主党のリーダーは、「実体語」のリアリズムから浮き上がった「空体語」を、その時の「空気」の力を頼りに政治をしてきたわけで、そのインチキ論理と手法が、政権を取ってリアリズムに直面させられた破綻した、ということだと思います。

 そんな地道な思想的営為が必要だと思いますね。「空気」におもねらない長い歩みになることと思いますが・・・。  

2011年2月11日 (金)

蒋介石の「以徳報怨」をどう評価すべきか――ap-09さんとの対話

*私HP「山本七平学のすすめ」談話室より転載

ao-09さんへ

>この蒋介石の「以徳報怨」からなのでしょうが、父が戦後処理について中国は懐が深いというようなことをよく言っていました。でも彼(蒋介石)は国民党を率いていたので、現政権の中国共産党からすれば敵ですね。これをもって現在の国のあり方としての中国を論ずるのは難しいところがあるような気がします。中国共産党はしたたかですから、この蒋介石の行動をもってプロ中国、反日に欧米社会にアピールすることには大変成功していると思います。日本の分は悪いです。

tiku 戦後、日本人が蒋介石に対して抱いた「恩義」について、①蒋介石がカイロ会談において「天皇制」の存続を支持したこと、②日本敗戦時「以徳報怨」の東洋道徳に基づき「対日賠償の放棄」と日本人兵民の「無条件送還」を実行したこと、③ソ連による「日本の分割占領」を阻止したことなどが指摘されます。

 これらに対して、それは「蒋介石神話」であって、実際は、ソ連の対日参戦により、ソ連と中国共産党が結びつくことを恐れた蒋介石が、日本軍の国民党軍に対する武装解除を円滑に行うことによって、その後の中国共産党との戦いを有利に進めようとした政治的判断に基づくものであった、とか、健介さんが指摘されたような批判があります。

 が、いずれにしても、こうした蒋介石の大局的な判断が、当時の日本人を心底揺り動かすものであったことは事実でした。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次は、大陸における戦闘においては日本軍は中国軍に対して連戦連勝と自負していましたが、天皇の玉音放送1時間前に放送された蒋介石の「以徳報怨」の演説を知って初めて「完全な敗北」を実感したと言います。

 これは、いわば日本人の心情的な反応と言えますが、以上の蒋介石の下した判断が、日本が戦後の国際政治情勢の変化の中で生き残っていく上において、決定的に重要な政治的判断であったことは疑いを容れません。そして、そうした判断を導いたものが「以徳報怨」の東洋道徳であったとすれば、東洋道徳も捨てたもんじゃないと言うことになります。

 では、こうした蒋介石の発言は当時の中国人にはどう受け止められたのでしょうか。当時の英米の各新聞はこれを「世界史に類例のない・・・最も寛容で、哲学的な格調高いもの」と評しました。しかし、「北京の知識人層にはその高い理念に感動し支持するものも少なくなかったが、一般的には大きな不満の声があがった」といいます。

 ”それは当然だろう”と思いますが、日本兵130万、居留民80万人の中国からの引き揚げが、終戦の年11月から約10ヶ月で終了した。それも他の地区からの引き揚げ者は裸同然だったのに、中国本土からの引き揚げ者は「衣料品等も一通りは当分の生活に困らない程度に荷物を持って帰ってきた(一人30キロまで許された)」というのは、蒋介石の指令なしには考えられません。

 もちろん、占領地における日本人の統治能力が中国人よりも高かったということ。確かに日本軍に協力することを忌避する中国人は多かったわけですが、その治安維持能力、組織管理能力、経済運営能力が高かった(日本軍支配下にあった華中では「ほとんどインフレにならず、物価も上昇しなかったという)ために、中国人の日本軍に対する怨みはそれほど強くならなかった、ということ言えるのではないかと思います。

 これに比べると、蒋介石ら国民政府が重慶から戻ってきて、「敵区」(日本軍の占領地区)や「淪陥区」(親日の王精衛政府に支配地域)を管理するようになると、却って、民衆は過酷な経済的略奪や搾取を受けるようになり、そのため、「多くの民衆は仕方なく中国共産党に新たな期待するようになった」といいます。台湾でもそんなことで、一般民衆の反発を招き、それに対する弾圧がなされ、蒋介石の神格化が行われました。

 ところで、この蒋介石の「以徳報怨」の演説に対し、最も激しく反発したのが、国民政府と敵対し、戦後の大陸においてその勢力拡大工作を一気に展開していた中国共産党でした。この蒋介石の演説を、周恩来は次のように激しく批判しました。

 『日本軍が中国に与えた損害の賠償として500億ドル(当時の日本円で約18兆円)を要求すると共に日本国内の鉱工業施設をすべて接収し、これを大陸に移すべきである。同時に中国に残留する日本軍人及び一般人200万人はそのまま抑留し、中国が戦争以前の姿に復旧するまで労務使役すべきである』」(『白団』中村祐悦p60)

 では、日本人に対する、この蒋介石と毛沢東の差はどこから生まれたのでしょうか。それは、端的に言えば、両者の思想あるいはイデオロギーが違いと言うことになりますが、実は両者の思想は、単なる違いで済まされるものではなく、中国思想をどのように発展させていくかという点において、根本的に相容れない対立関係にあったのです。

 蒋介石の思想は、儒教における「礼義廉恥」の道徳規範の徹底を図ることでした。しかし、それは伝統的村落秩序=地縁的・血縁的人間関係が一切を支配する社会関係に基礎を置くものだったために、私的・個別的利害の蔓延、村落の上下秩序関係の強化となり、底辺農民に対する一層の搾取・重圧として跳ね返ることになった。特に徴兵体制は拉致の色彩を帯び、兵の士気や規律の低下は避け難かったといいます。

 これに対して毛沢東の思想は、儒教の「牧民的」政治観が生んだ、政治をつねに「運命あるいは天命として甘受する農民の心性」を、土地の平等分配や租税の減免、汚職・腐敗の摘発などを通して、イデオロギー(マルクス・レーニン主義)的精神統一を図ろうとするものでした。これが兵士や農民の生産活動を促すものとなり、また、その安全や利益を保障するものとなって、彼等を味方につけることが出来たのです。(『蒋介石と毛沢東』参照)

 そんなわけで、国共内戦においては、中国共産党が次第に勢力を伸ばすことになったわけですが、いうまでもなく、そのイデオロギーはマルクス・レーニン主義に基づくものであり、儒教思想は階級イデオロギーに過ぎず、日本は帝国主義国家という位置づけでしたので、それは撲滅の対象にしかならない。それが先の周恩来による対日賠償要求に現れていたのです。

 では、この蒋介石の「以徳報怨」という考え方をもたらした儒教道徳と、毛沢東の、一定のイデオロギーに基づく「思想改造」を強制する思想とは、どちらが優れているかということですが、確かに後者は、前者の「牧民的」政治思想を「民主的」に改造しようとした点では一定の成功を収めましたが、政治権力が個人に思想改造を強要するに至った点では、儒教道徳より退化したと言えます。

 言うまでもなく、儒教思想は、政治的救済が道徳的救済となるという点において、大きな問題点を抱えています。つまり、政治が道徳の理想を体現することになっているために、結局、政治権力が理想化され批判が許されなくなる。だからこそ儒教では、政治権力者=統治者自身に孔孟的治者規範が求められたのです。だが、毛思想の場合は、この権力行使を規範化する道徳がない、というか否定した。

 これが、毛思想が、その後露呈したような儒教思想に及ばない点なのですね。では、これに対して日本思想はどうなのか、ということですが、結局、問題は思想における「義=正義」の観念の絶対化をいかに防ぐか、ということにあります。この「義」は社会に秩序を維持するためには絶対必要だけれども、同時に、その絶対化を避ける、特にそれが政治権力の絶対化に結びつかないようにするということが大切です。

 では、日本の思想は、この思想の絶対化を防ぐものを持っているか、ということですが、これは、日本人が「人間的」という言葉で表すところの、究極的には「もののあはれ」という言葉で言い表される、人間と自然(=絶対者)との対話の中から生まれた「あはれ」の感情なのではないかと思います。これが儒教に対するバランス装置としての国学の思想的ベースになっていたと思います。

 だが、これは一つの感情であって、七情(喜・怒・哀・苦・愛・悪・欲)に惑わされやすい。だから、できるだけこれらを抑えて、「即天去私」の平静かつ純粋な心的態度を保持すべきだ。これが江戸時代における儒教の日本的解釈の到達点だった。幕末になると、ここにおいて人間がそれに即して生くべき「天」のメッセージを具体的に伝えるものとして、尊皇思想が生まれ、これが明治維新という抜本的な体制変革を可能にした。

 こうして、明治における時代精神は、「即天(皇)去私」となったのです。また、この時天皇自身は、後期天皇制の伝統を受け継ぎ、立憲君主制における「君臨すれども統治せず」と親和した。また、国民は去私の精神で国の近代化に尽くした。こうして、日本は文明開化、富国強兵、殖産興業による近代化に成功したのです。ところが、この( )の中に、何を容れるかで事態は変わってくる。

 昭和は、ここに国家社会主義思想と親和した尊皇イデオロギーが挿入され、その「尊皇」と「軍」とが統帥権独立によって一体化したことによって、思想の絶対化→政治権力の絶対化という現象が生まれたのです。これも、儒教文化に起因するものと言えますが、日本の場合は、折角、それを抑止する後期「去私」天皇制を持っていたのに、それを伝統思想として思想史に組み入れ国民の共有財産としていなかったために、その知恵を生かすことができなかった。

 では、この時、本来、思想の絶対化を防ぐべきはずの「もののあはれ」はどのように作用していたのでしょうか。これは日本軍の玉砕、特攻精神に現れたように思います。問題は、それに殉じた人たちよりも、それを命じた指導者たちにあったのではないか。彼ら自身の「もののあわれ」を感じる心はどうなっていたか、ということが問われるべきではないでしょうか。一億玉砕を命じたその精神は、はたして「無私」といえるものだったか。

 以上の事を、日本の思想史的文脈の中で解明する必要があると思っています。

(参考までに、蒋介石の「「以徳報怨」の演説の概要を紹介しておきます)

蒋介石総統のメッセージ
「全中国の軍官民諸君」-全世界の平和を愛する諸氏!-
(重慶にて。1945年8月15日)「台湾建国応援団」サイトより転載

 「我々の抗戦は、今日勝利を得た。正義は強権に勝つという事の最後の証明をここに得たのである。
我々に加えられた残虐と凌辱は、筆舌に尽くし難いものであった。しかしこれを人類史上最後の戦争とする事が出来るならば、その残虐と凌辱に対する代償の大小、収穫の遅速等を比較する考えはない。この戦争の終結は、人類の互諒互敬的精神を発揚し、相互信頼の関係を樹立するべきものである。 
 我々は『不念旧悪(1)』及び『与人為善(2)』が、我が民族の至高至貴の伝統的徳性であることを知らなくてはならない。我々はこれまで一貫して、敵は日本軍閥であり、日本人民を敵とはしないと声明してきた。
 我々は、敵国(3)の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。彼等がナチス軍閥(4)に愚弄され、駆使された事に対し、むしろ憐憫の意を表し、錯誤と罪悪から自ら抜け出せる様にするのみである。銘記すべき事は、暴行を以って暴行に報い、侮辱を以って彼等の過った優越感に応えようとするならば、憎しみが憎しみに報い合う事となり、争いは永遠に留まる事が無いという事である。それは、我々の仁義の戦いが目指すところでは、決してないのである。

(1)「旧悪を念ぜず」 (2)「人と善を為す」 (3)日本を指す(4)日本の軍部を指す

2011年2月 4日 (金)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(2)

 本エントリーは、1月7日の「昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(1)」の続きです。この記事の冒頭でも紹介しましたが、近衛文麿の戦争責任を指摘する意見が大半であり、それはほぼ定説に近いと思います。これらの意見を総まとめにしたような意見が、次の、読売新聞社が行った『検証 戦争責任Ⅱ』の記述です。(*各パラグラフ冒頭の番号は、論理の整理上私が付したものです)

「近衛、軍部独走許す

① 昭和戦争は、主に中国とアメリカという二つの大国を相手にした戦争だった。とくに日米戦争は、日中戦争のもとで進行した日本国家の変質なしには考えられなかった。それは、国際秩序への挑戦であり、立憲体制の崩壊だった。さらには、軍官僚主導による国策決定であり、国家総動員体制の確立だったのである。これらに深く関与した政治家が近衛文麿だった。

② 近衛の政治思想は、一九一八年(大正七年)に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」にうかがうことができる。植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破することは正当だ」という論旨だった。

③ 近衛は満州事変で積極的に軍部を支持した。欧米が、国際連盟規約や不戦条約を根拠に、日本を非難する資格はない、とする近衛の強硬論は、軍部を勢いづかせ、国民的人気も高まった。近衛は、これらに後押しされる形で三七年(昭和十二年)六月、首相になる。

④ 第一次近衛内閣発足後間もなく、盧溝橋事件に直面した近衛は、揺れに揺れながら、陸軍の要求に屈して派兵を認めた。終戦のチャンスだったトラウトマン和平工作も打ち切って、「国民政府を対手とせず」とまで言い切る。近衛は当時、軍部官僚に引っ張られ続ける自分は「何も知らされていないマネキンガールだ」と、天皇に自嘲気味に話していた。

⑤ 近衛は、軍官僚をコントロールできないだけではなかった。軍が目指してきた国家総力戦体制づくりに法的な根拠を与えてしまった。三八年四月に公布された国家総動員法であり、[戦時]または「戦争に準ずべき事変」など非常時の際、政府に国民統制面でフリーハンドを与える内容だった。

⑥ 三九年(昭和十四年)一月、近衛は、外交、内政ともになす術なく内閣総辞職する。後見役の西園寺公望は、「近衛が総理になってから何を政治しておったんだか、自分にもちっとも判らない」と漏らした。

⑦ 四〇年七月発足した第二次近衛内閣の課題は、引き続き日中戦争の解決にあった。松岡洋右を外相にし、日独伊三国同盟をステップに、ソ連も加えた「四国協商」を構築して、米国を交渉のテーブルにつかせる計算だった。しかし、この構想は独ソ戦の開始で破綻した。

⑧ 南部仏印進駐でも、近衛は米国が石油の禁輸で応じるなどとは考えていなかった。近衛は、松岡を更迭して第三次内閣をつくり、ルーズベルト米大統領との直接交渉で妥結をめざした。だが、中国での駐兵継続を譲らぬ東条陸相との対立が解けず、四一年十月、万事休した。

⑨ 木戸幸一内大臣は「(開戦決意の)九月六日の御前会議決定を成立させたのは貴下(近衛)ではないか。あの決定をそのままにして辞めるのは、無責任である」と忠告していたが、近衛はまたも政権を投げ出した。

⑩ 近衛は、軍部や官僚組織を抑え、これに対抗できる政治力結集を思いついたこともあった。近衛を党首とする「一国一党」の新党組織で、モデルはナチスだった。これは、大政翼賛会として結実するが、天皇の立場を乗っ取る「幕府」の復活だとする批判や、近衛暗殺の噂が飛び交うと、たじろいだ。

⑪ こうして近衛の試みが挫折するたび、日本は対米戦へと着実に歩を進めていったのである。」

 ここでは、①が全体の結論部分で、以下、氏の事績を時系列的に説明しています。つまり、この結論部分で、”日米戦争は、近衛が首相の時に始まった日中戦争のもとで、日本が、国際秩序に挑戦する軍官僚主導の総動員体制を取る国家に変質したためであり、その変質に深く関与したのが政治家近衛文麿だった”と氏の戦争責任を追求しているのです。

 私は、この結論部分には多くの間違いが含まれていると思います。第一に、日本が国際秩序に挑戦する国家に変質し始めたのは、日中戦争になってからではなくて、これはワシントン会議以来のこと。満州事変ですでに国際秩序に挑戦すべく「ルビコン川」を渡っています。また、日中戦争が始まったのも近衛の責任とは言えず、その後軍官僚主導の国家体制となったのも近衛の責任ではない。また、総動員体制を取ったのも総力戦下ではやむを得ないことで・・・ということになると、これではとても近衛の戦争責任は問えない、ということになります。

 では次ぎに、②以下の記述について、順次、その妥当性を点検して見ましょう。結論部分がおかしいですから、ここにも多くの間違いが含まれているに違いありません。

 ②は、近衛の最初の論文「英米本位の平和主義を排す」(大正7年)についての記述です。この論文の主旨は、植民地国家である英米の言う平和とは、「英米に都合のよい現状維持」であり、日本のような後発国が「膨張発展すべき余地がない状況を打破しようとするのは正当だ」というものでした。

 この近衛の論文は、ベルサイユ会議当時ミラード・レビューという英字紙に訳出され、「かかる反英米、反国際連盟の論をなす者が、この平和会議への全権の随員中にいるのは、甚だけしからぬ」という非難を受けました。しかし、その論旨は、植民地を持つ国にとっては確かに不都合だったでしょうが、日本やドイツにとっては必ずしも不当といえるものものではありませんでした。

 実は、ここに表明された近衛の思想が、その後の彼の行動を基本的に支えたものだったのです。そして、こうした近衛の思想が、軍部にとって大変都合の良いものであったために、彼は、満州事変以降軍部の支持を受けることになり、日中戦争直前に首相に就任して以降日米戦争に至るその直前まで、三度、内閣を組織することになったのです。

 では、その近衛の思想とは一体どのようなものだったのでしょうか。軍部がこれを支持したということを申しましたが、近衛を支持したのはなにも軍部だけではありませんでした。戦前において、国民一般、マスコミ、政治家、官僚、元老までを通して、一貫した支持を集めた政治家は、彼を置いて他にいなかったのです。

 それだけに人気を博した彼が、戦後の評においては、泥沼の日中戦争から無謀極まる日米戦争までの道を用意した、無気力、無定見、無責任な政治家の典型とされているのです。

 では、こうした悪評紛々の彼の政治家としての行動をもたらした彼の思想とはどのようなものだったか。それを彼が大正7年に書いた「英米本位の平和主義を排す」に見てみたいと思います。(『近衛文麿』矢部貞治著p84~87)

 「近衛はこの中で、戦後の世界に民主主義、人道主義の思想が旺盛となるのを予想し、これらの思想は要するに人間の平等感から出るもので、自由民権や、各国民平等の生存権や、政治上の特権と経済上の独占の排除や、機会均等などの主張の基礎をなし、このような平等感は人間道徳の永遠普遍な根本原理であって、古今に通じて謬らず中外に施して悖(もと)らぬものであるとし、

 従ってこれをわが国体に反する如く考えるのは、固陋偏狭の徒に過ぎず、むしろこれらの思潮を善導して発達せしめることは、わが国のため最も希望すべきことだとしているが、「唯茲(ただここ)に吾人の遺憾に思うは、我国民がとかく英米人の言説に呑まるる傾ありて、彼等の言う民主主義、人道主義の如きをも、その儘割引もせず吟味もせずに信仰謳歌する事是なり」というのである。

 彼はバーナードーショーがその『運命と人』の中で、ナポレオンの口を籍りて英国人を批評させている、「英国人は、自己の欲望を表すに当たり、道徳的宗教的感情を以てすることに妙を得たり。しかも自己の野心を神聖化して発表したる上は、何処までもその目的を貫徹するの決断力を有す。強盗略奪を敢えてしながら、いかなる場合にも道徳的口実を失わず、自由と独立を宣伝しながら、殖民地の名の下に天下の半を割いてその利益を壟断しつつあり」という一句を引き、

 この言やや奇矯に過ぎるけれども、少くとも半面の真理を穿っているとし、近頃の日本の論壇が、英米政治家の華々しい言葉に魅了されて、「彼等の所謂民主主義、人道主義の背後に潜める、多くの自覚せざる、又は自覚せる、利己主義を洞察し得ず」に、自ら日本人たる立場を忘れて、無条件無批判に英米本位の国際連盟を謳歌し、それを正義人道に合すると考えるのを「甚だ陋態」だと慨嘆、「吾人は日本人本位に考えざるべからず」というのである。

 しかし近衛によれば、日本人本位というのは、「日本人さえよければ他国はどうでもかまわぬという利己主義Lのことではない。このような利己主義は誠に人道の敵であって、新世界に通用しない旧思想である。日本人本位に考えるとは、「日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、飽く迄もこれと争うの覚悟なかるべからず」ということである。即ち人道と平和とは必ずしも同じことではなく、人道のためには時に平和を捨てなければならぬこともあるというのである。

 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは、「自己に都合よき現状維持」の平和のことであって、それに人道の美名を冠したものに過ぎない。彼等は口を開けば、「世界の平和を撹乱したるものは、独逸の専制主義軍国主義なり、彼等は人道の敵なり、吾人は正義人道の為にこれを膺懲せざるべからず、即ち今次の戦争は、専制主義軍国主義に対する民主主義人道主義の戦なり、暴力と正義の争なり、善と悪との争なり」という調子で論ずる。

 もとより第一次大戦の主動原因がドイツにあったことや、戦争中のドイツの行動に正義人道を無視した暴虐残忍の振舞いの多かったことは、近衛も認めて「深甚の憎悪」を表明しているが、しかし彼は、英米人が「平和の攪乱者を直ちに正義人道の敵なりとなす狡猾なる論法」には断じて承服しない。なぜなら平和の攪乱が直ぐ人道の敵だというには、「戦前の状態が、正義人道より見て最善の状態なりしことを前提として、初めて言い得る」ことだからだという。そして「知らず欧洲戦前の状態が最善の状態にして、この状態を破るものは人類の敵として膺懲すべしとは、何人の定めたることなりや」と論ずるのである。

 近衛から見れば、第一次大戦は現状維持国と現状打破国との争いであった。正義人道に合するか否かは、平和主義か軍国主義かにあるよりも、むしろこの現状の正体にかかっている。この現状が正義人道に合する最善の状態であったのなら、これを打破しようとした者はなるほど正義人道の敵であろうが、現状がそうでなかったなら、これを打破しようとした者が必ずしも正義人道の敵ではないし、そのような現状を維持Lようとした平和主義の国とて、必ずしも正義人道の味方として誇る資格はない。

 而して欧洲戦前の現状は、英米から見れば或は最善であったかも知れないが、公平な第三者として正義人道に照らして見れば、決して最善の状態とは認められない。英仏等が逸早く世界の劣等文明地方を占領して殖民地化し、その利益を独占して憚らなかったからこそ、「独り独逸とのみ言わず、凡ての後進国は獲得すべき土地なく、膨脹発展すべき余地を見出す能わざる状態にありしなり。

 かくの如き状態は、実に人類機会均等の原則に悖り、各国民の平等生存権を脅やかすものにして、正義人道に背反するの甚しきものなり」と言わねばならぬ。だからドイツが、このような状態を打破しようとしたのは、誠に正当の要求であって、そのやり方は非難すべきであったとしても、事ここに至らざるを得なかった環境に対しては、特に日本人として深厚の同情なきを得ないというのである。

 彼は、要するに英米の平和主義は、「現状維持を便利とするものの唱う事勿れ主義」で、正義人道とは関係がないとする。然るに国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべき筈の日本人が、英米人の美辞に酔うて英米本位の平和主義にかぶれ、国際連盟を天来の福音の如く渇仰する態度は、「実に卑屈千万にして正義人道より見て蛇蝎視すべきもの」だという。

 しかし彼も妄りに連盟に反対するのではなく、もしそれが真に正義人道の観念に基いて組織されるなら、「人類の幸福の為にも、国家の為にも、双手を挙げてその成立を祝するに」吝(やぶさ)かなるものではないが、しかし連盟は、「動もすれば大国をして経済的に小国を併呑せしめ、後進国をして永遠に先進国の後塵を拝せしむるの事態を呈するに恐れがないとは言えない。そうなれば日本の立場からも正義人道の立場からも、誠に忍ぶべからざることだというのである。

 そこで彼は、「来るべき講和会議に於て、国際平和連盟に加入するに当りい少くとも日本として主張せざるべからざる先決問題は、経済的帝国主義の排斥と黄白人の無差別的待遇是なり。蓋し正義人道を害するものは、独り軍国主義のみに限らず、・・・国民平等の生存権を脅やかすもの、何ぞ一に武力のみならんや」と喝破する。彼によれば、黄金富力を以てする侵略と征服もあるのであって、そのような経済的帝国主義は武力的帝国主義と同じく、当然否認されねばならぬ。

 然るに正にこの経済的帝国主義の鋒ぼうを露わして来る恐れのある英米を、立役者として開かれる講和会議で、どこまでこの経済的帝国主義を排除できるかに、彼は多大の疑懼を抱いている。しかしそれを排除できないなら、この戦争で最も多くを利した英米は、一躍して「経済的世界統一者」となり、国際連盟や軍備縮小などを現状維持のために利用し、以て世界に君臨することになり、他の国々は、「恰もかの柔順なる羊群の如く、喘々焉として英米の後に随う」のほかないことになろうと憂うるのである。

 彼は英国などが早くも既に自給自足政策を唱え、殖民地の門戸閉鎖を盛んに論じていることを指摘し、もしそんなことになれば、領土狭く原料に乏しい日本などは、どうして国家の安全な生存を保ち得ようかと心配し、「かかる場合には、我国も亦自己生存の必要上、戦前の独逸の如くに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らむ」やも図り難いとし、これは日本のみならず、同じく貧しい国々の等しく陥れられる運命であるから、経済的帝国主義の排斥と各国殖民地の開放ということは、これこそむしろ正義人道に基く各国民の平等生存権の確立のため、絶対に必要だと論ずる。

 彼は又特に日本人の立場から、黄白人の差別待遇の撤廃を主張すべきことを強調し、米国、濠洲、カナダその他が黄色人種を排斥し、あらゆる差別待遇を設けつつあることを指摘し、これは「人道上由由しき問題にして、仮令黄色人ならずとも、苟も正義の士の黙視すべからざる所」とし、一切の差別待遇の廃止を、正義人道の上から主張しなければならぬというのである。

 かくて最後に、「想うに来るべき講和会議は、人類が正義人道に本づく世界改造の事実に堪うるや否やの一大試錬なり。我国亦宜しく妄りにかの英米本位の平和主義に耳を籍す事なく、真実の意味における正義人道の本旨を体して、その主張の貫徹に力むる所あらんか、正義の勇士として、人類史上永久にその光栄を謳われむ」と結んでいる。

 以上は、『近衛文麿』の著者矢部貞治の要約ですが、この近衛の論文について、次のような評を下しています。

 「近衛はこの論文のことを、後にハウス大佐の「国際ニューディール」論に応答するときプリントにするに際し、『思想も極めて未熟且措辞も甚だ当を得ざるものあるも、当時を追憶して今昔の感に堪えず』と述べているが、とにかく第一次大戦でドイツが完敗し、その軍国主義、帝国主義が世界的に痛烈な非難を浴びていた当時の情勢の中で、これだけの論陣を張り得たということは、その論旨に対する賛否は別とし、彼が既に一介の凡庸な貴族でなかったことを示すものであろう。

 少くとも大学卒業後一年で既に、学生時代の文学青年からは遙かに脱皮している。しかもこの中で、講和会議檜舞台で日本として堂々提唱すべき方策を論じているのは、彼が既に一家の信念と経綸を持つ政治家の資質を現わしているとも言えるであろう。後に国際連盟の果した役割については、彼の憂慮が決して根拠のないものでなかったことを、示していると言ってもよかろう。」

 近衛と言えば、上記の③以下の記述に見たように、③満州事変で軍を積極的に支持し、国際連盟を批判し、そのため軍の支持を受けて首相となり、④日中戦争においては軍部官僚に引きずられて戦争を拡大し、⑤「国家総動員法」を可決、⑥昭和14年1月には行き詰まり辞任、⑦第二次近衛内閣では、日独伊三国同盟にソ連を加えて「四国協商」とし、米国と有利に交渉しようとしたが独ソ開戦で挫折、⑧第三次近衛内閣では、軍の南部仏印進駐を認めたためアメリカの石油全面禁輸を招き、対米交渉で中国からの撤兵を要求され、これを陸軍に拒否され、再び内閣を投げ出した、と言う具合で、無気力、無定見、無責任な首相の典型のように見られています。

 しかし、ここに紹介したような近衛の思想を見る限り、とても、彼が、「無気力、無定見、無責任」な人物であったとは思われません。では、なぜ、その彼が、上記③から⑧に述べられたような批判を受けることになったか、それは、その思想に欠陥があったと言うことなのか。思想は正しかったが行動に適切を欠いたということなのか。軍部に利用されただけなのか・・・等々、次回はこのナゾについて考えて見たいと思います。

つづく

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

twitter

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック