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2011年4月

2011年4月25日 (月)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(7)

 前回は、南京占領後のトラウトマン和平工作の取り扱いを巡って、政府と参謀本部が意見対立し、政府がその打ち切りを主張したのに対して、参謀本部が継続を主張したことについての私見を申し上げました。

 これについては、一般的に、政府が交渉打ち切りを主張したことを慨嘆する意見が多く、これをもって、日中戦争が泥沼化したことについて、軍部より政府(=近衛首相)の責任を追求する意見が大半を占めるようになっています。しかし、私は、それは軍内部の意見が割れたためであって、かつ、多田等は少数派に過ぎず、軍内の多数派は交渉打ち切りを主張していたこと。従って、もしこの時、多田等が本当に和平交渉を継続することによって日中戦争の拡大を阻止したかったのなら、まずやるべきことは、北支那方面軍等が推し進めている華北の新政権樹立をなんとしてでも阻止することだったのです。

 従って、この件をもって、統帥権のオールマイティーを否定する論拠とすることはできない。司馬遼太郎は「軍部がうまく統帥権を使い、国家の中にも一つの暴力的国家を作った。それによって日本は滅びた」と言ったのですが、この認識は間違ってはいない。問題は、統帥権自体にそんな力があったわけではなくて、大正時代でも、前回紹介した近衛の参謀本部論に見るように、それは政治のコントロール下に置かれるべきものとされていた。それがなぜ、昭和になって統帥権が拡大解釈され、手のつけられないものになったか、その真因を探ることが大切なのです。

 そこで、その真因についてですが、半藤氏は前回紹介した立花隆ゼミの学生との対談の中で次のように言っています。

 「ところが昭和になって、北一輝という右翼思想家が統帥権の魔力に気がつき、軍隊は政治の外側に独立するもので政治が文句を言う筋合いはないんじゃないか、と言い始めた。」さらに「北は、統帥権についてまず軍をたきつけ、陸軍は野党の政友会を利用した。ロンドン軍縮会議の時に鳩山由紀夫さんのおじいさんの鳩山一郎や犬養毅らが、議会で『統帥権干犯』と騒ぎ出した。政治が海軍の兵力を削減するのは、天皇の統帥権を侵すものというんだね。つまり、今でいう『政局』に利用したんです。この時から、『統帥権』が、ものすごい力を持つ政治的な道具になってしまった。軍部の政治進出のキッカケとなった。」

 これも一般的に言われていることであって間違いではありませんが、では、鳩山一郎や犬養毅という政治家が「統帥権を手がつけられないもの」にした元凶かというとそうとは言えないと思います。実は、この統帥権干犯問題には伏線がありました。その伏線を敷いたのは政友会田中義一内閣で外務次官(田中首相が外務大臣を兼任したので実質的には外務大臣)を務めた森格で、彼は、この田中内閣にあって、それまでの対中不干渉主義を基軸とした幣原外交に対するアンチテーゼとしての大陸積極政策を、田中を強いる形で押し進めました。

 まず、昭和2年5月、蒋介石の第一次北伐に際して、山東の日本人居留民を現地保護すると称して第一次山東出兵(約4000人)を行いました。この時は、北伐が途中で中止されたためで9月に撤兵しました。しかし、この間、森格は大陸積極政策を日本の統一政策とするため、「軍部との提携に努め、また、官界、財界の各方面に人材を求めて、それを糾合、網羅」することに努めました。

 この間の事情を、当時参謀本部作戦課にいた鈴木貞一は次のように語っています。

 東方会議の前に、森が会いたいというので会った。どういうことかと聞くと、森は政治家と軍が本当に一体にならなければ、この大陸問題の解決は難しい。自分は東方会議を開いて積極的大陸政策を日本の統一政策とするつもりだが、あなたの意見を聞かせてくれという。そこで、私は、「日本の現在の状態は、一遍○○○○なければ大陸問題の解決は困難だ。」そのために私は軍内の歩調を固めるため、参謀本部、陸軍省の若い連中(石原完爾や河本大作など)と会い、次のような方針を得ている。(○部分は伏字だが、おそらくその後の軍による政治クーデターにつながる内容のものだろう)

 それは、「満州を支那本土から切り離して、そうして別個の土地区画にして、その土地、地域に日本の政治的勢力を入れる。・・・これがつまり日本のなすべき一切の、内地、外交、軍備、その他庶政総ての政策の中心とならなければならない」というもの。しかし、これを急にやろうとしてもなかなか難しい、というと森は直ちにこれに同意しそれで行こうということになった。その後森は、奉天総領事の吉田茂やアメリカ大使の斉藤博と相談し、この計画を、元老や重臣、内閣や政界が承諾しやすいものとするため、これをオブラートに包む方策として東方会議を開催することになった、と。

 結果的に東方会議では、満蒙における日本の特殊利益を尊重し、同地方の政情安定に努める親日的な指導者はこれを支持するとか、万一動乱が満蒙に波及し治安が乱れて、満蒙の我が特殊の地位や権益の侵害の恐れがある場合には、その脅威がどの方向から来るかは問わずこれを防護する、などの比較的穏当な「対支政策要綱」を提示するに止まりました。しかし、森等の真のねらいは、この後者の防護策において、武力を用いた積極的大陸政策を推進することに公認をとりつけることでした。その結果、三次にわたる山東出兵や済南事件、さらには張作霖爆殺事件を引き起こされることになったのです。

 とりわけ、この済南事件における日本軍による済南城攻撃は、居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものでした。こうした軍の行動の背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え(注1)、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのです。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、張作霖軍を武装解除するなどして下野に追い込もうと、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。

(注1)済南事件当時、陸軍側の軍事参議官会議が開かれており、その会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。

 「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」

 こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったか。このことは、田中首相の「不決断」で「計画」が水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。この時、関東軍斉藤参謀長は日記に「現首相の如きはむしろ更迭するを可とすべし」と書き、「村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示」し、これを察知した河本が「張抹殺は私が全責任を負ってやります」と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させた、といいます。(『昭和史の謎を追う(上)』「張作霖爆殺事件」秦郁彦)

 言うまでもなく、この張作霖爆殺事件は、こうした軍の大陸政策にかける思いが関東軍の青年将校たちにいかに強烈だったかを物語るものです。河本は張作霖爆殺後、関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛部隊と交戦しようとしましたが、参謀長斉藤恒が(連絡不足から)これに阻止命令を出したため、この事件は不発に終わりました。河本は、もしこの時「緊急集合が出ていたら満州事変はあのとき起きていただろう」と語ったとされます(田中隆吉証言)。それにしても、なぜ、時の首相の方針を無視したこんな暴虐な行動が一参謀に執れたのでしょうか。それは、先の東方会議における森の秘密「計画」なしには考えられません。

 ここで確認しておくべきことは、この森と、首相であった田中義一との関係ですが、一般的には、幣原外交が不干渉主義であったのに対して、田中外交は実力行使の積極主義外交と理解されています。しかし、この田中外交は、森と軍の青年将校とが組んだ新体制運動と、張作霖支援を基本とする田中の満州開発論とに分裂していました。この思想的混乱を是正できなかったことが、張作霖爆殺事件を生み、さらにその隠蔽工作となり、そして張学良を後継者とし、その挙げ句の果てに、張学良による中国国民党への易幟へとつながることになったのです。まさに森は、田中にとって「獅子身中の虫」というべき存在でした。

 本稿では、森格資料として『東亜新体制の先駆 森格』を重用しています。この本は、昭和14年に出版されたもので、日本の満州事変以降の大陸政策を形作ったものは森格であるということを論証し、それでもって昭和7年12月に病死した森格の事績を称揚するために書かれたものです。従って、森格の行動の真意を知る上では格好の参考資料となっているわけですが、この本の中では、田中首相と森との葛藤関係は次のように説明されています。

 「田中男は東方会議の当初、『おら決心したから、世界戦争もあえて怖れない』と断固たる決心と態度を示した。その東方会議で決定した政策を、愈々、実行に移す瀬戸際に立つと、卒然として『一時中止』の裁断を下して些かも矛盾を感じなかった。その結果大陸政策の遂行上、千載の好機を逸したことになった。

 田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は、華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。

 我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋に於ける二大国が血みどろになって相克抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」  
                      
 要するに、済南事件の後に引き続き満州事変を起こすべきであったと言っているわけです。しかし、済南事件で日本が武力でもって中国の統一を阻止し、かつ、張作霖を倒して満州を武力占領するというようなことが、この時点で可能だったとはとても思えません。中国問題はあくまで華府会議で定まった九カ国条約に基づいて処理する他なく、これを無視して、帝国主義時代に逆戻りするようなむき出しの武力占領をやったとしても、中国はもちろんのこと、それを当時の国際社会が受け入れたはずがありません。

 こうした森等の考え方は、いうまでもなく、当時の、国際社会秩序であるワシントン体制を破壊しようとするものであり、国内的には、そのワシントン体制を支持する政党政治を転覆させ、政治家と軍が一体となって、独裁的「新体制」を確立しようとするものでした。しかし、こうしたもくろみは、張作霖爆殺事件の不発によって挫折しました。しかし、森格等は、この事件の真相を隠蔽することで、その背後にあった「計画」を温存し、田中内閣崩壊後の浜口内閣では、「統帥権干犯問題」を持ち出して倒閣を画策する一方、その背後で、例の「計画」のクーデター的実行を予定していたのです。

 いうまでもなく、それが満州事変だったわけですが、これについて、森は、それは中国が「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」国だからであり、「こういう暴力団を相手に協調外交、譲歩外交、フロックコートを着て馬賊に対するような国際正義外交を日本が一方的にやってみたところで何の効果もない。所謂外交では今や全く絶望状態なのである」といい、あたかも、日中間の条約や国際条約を無視したのは中国であるとの欺瞞的宣伝を国民に対して行ったのです。

 また、この満蒙問題を解決することが世界史的にどれだけ重要な文明史的意義を秘めているかを次のように宣伝しました。

 「満蒙は世界的にいかなる地位を占めているか。即ち欧亜大陸の東の関門である。西反面に爛熟せる欧亜の文化は東反面の新たなる力によって、刷新復興さるべき運命を担っている。この新興勢力の通過する道が満蒙である。」これに対し「積極的態度を持し断固としてこれに臨めば、世界平和の発祥地となり、世界文化増進の関門となるべき運命を有している。」

 その一方で次のような本音も漏らしています。

 「満蒙に於ける事端はその何れを捉えても日本の生存権と密着し、離すべからざる因果関係を有しているのである。古往今来、何れの国を問わず事故生存権のためにする努力は絶対的のものであって、外来の圧迫、環境の如何、条約の拘束もこれを左右することは不可能である。死ぬか生きるかの境に立ったものの叫びは真実であり絶対である。

 このことを判然と認識しなければならない。これを解せぬ腰の弱いハイカラ一点張りの軟弱外交は、日本の存立権を自ら犯すものであって、危険千万といわねばならぬ。」(『森格』p709~710)

 このあたり、近衛文麿の「持たざる国論」との接点も見えてきますね。これが、近衛文麿の満州事変に対する肯定的評価にもつながっていくわけですが、こうした森格の言説はまさに黒を白と言いくるめるもので、どうも近衛にはそれが見えていなかったようです。というのも、森の「日本との間に損する一切の条約・約束・信義を無視し、・・・国際信義も隣邦親善も何ら彼らの眼中には存在していない」という中国に対する批判は、実は、彼の山東出兵以来の軍と一体となった秘密の「計画」行動がもたらしたものだったからです。

 で、この森格の草稿は次のような結論で結ばれています。

 「さて結論に於いて、私は先日政友会に報告した通り、支那の排日指導方針の下に悪化せる満蒙支那の解決のためには、国力発動以外の道がないと断ぜざるを得ないのである。

 国民個々の統一なく連絡なき努力では如何とも効果の奏しようがないからである。ただ国力の発動とは、具体的に何を指すか、私個人としては勿論案を有しているが、今日はまだ公表し実行しうる時期に到達していないから、諸君の解釈に一任しておくより仕方ないのである。」

 この草稿は、満州事変勃発直前の昭和6年9月6日に執筆されたもので、昭和6年10月号の「経済往来」に掲載されたものです。これで、森格が、石原完爾等の引き起こした満州事変というクーデター計画にどれほど深く関与していたかが判りますね。森格はそうした関東軍一部将校による行動を、文明論的に、また日本の生存権に関わる問題としていかに正当化するか、その宣伝工作に邁進していたのです。

 そして、この宣伝に日本国民は見事にだまされたわけで、以後、日本人は満州事変に於ける日本軍の行動を「報償」(国際的不法行為の中止や救正を求めるための強力行為と定義される)と理解し、それを強く支持するようになりました。

 最近は、これと同じ理屈で満州事変を正当化する人たちが出てきていますが、幣原外交から田中内閣における森格の行動をつぶさに観察してみれば、これが誤魔化しであることは一目瞭然です。私は、やはり、幣原外交の方が正しかったと思うし、これが継続されていれば、国際社会における日本の信用は保持され、その後の中国の革命外交と称するものが、当時の国際社会において容認されることもなかったと思います。さらに、満州における国権回復運動もそれが行き過ぎれば、当然それに対する「報償」的軍事行動も、幣原外交の元で選択されたと思います。

 以上、田中内閣のもとで森格が何をやったかということを紹介してきましたが、彼は、例の「計画」に基づく行動を、犬養毅が政友会総裁となった時にも行ったのですね。それが、本稿の冒頭で紹介した、犬養毅と鳩山一郎を「統帥権干犯問題」追求の矢面に立たせた行動に現れているのです。この時、犬養も鳩山も思想的には議会政治を否定するような気持ちは毛頭なかった。ただし、政友会vs民政党という二大政党制の中で、森格に慫慂され党利党略的な行動をとった、というのが事の真相だと思います。

*この二大政党制下の党利党略という問題は、現在の民主党政権下でも露骨に現れています。

 こうして森は、「統帥権干犯問題」を議会政治に持ち込み政争の具とすることによって、田中首相に続き浜口雄幸という政党政治家をテロの標的としました。さらに、犬養が政友会総裁であった時には幹事長として、また、犬養内閣の時は書記官長として、例の「計画」を裏で推進し、ついに、満州事変の処理を巡って、またもや犬養という政党政治家を海軍軍人によるテロの標的にさらすことになりました。

 この日本の政党政治にとってまさに元凶というべき政治家森格の評価について、今日もそれが極めて曖昧なままに放置されていることについて、私は大きな疑問を持っています。

 ところで、この森格も、ワシントン会議当時は、これについてまともな論評を下していたことを、本稿(5)で紹介しました。また、満州問題の処理についても――長くなるのでその紹介は次回に回しますが――割と常識的な考え方をしていたのです。同様のことは近衛についても言えますね。ではなぜ、森が、以上紹介したような、日本の政党政治を自滅の道に追い込むような役割を演じることになったか。また、あれだけ正論を吐いた近衛が、なぜ森の思想を認めることになったか。この辺りの事情を、次回はさらに詳しく探ってみたいと思います。

2011年4月17日 (日)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(6)

 今月号(5月号)の文芸春秋の記事に「東大立花隆ゼミが半藤さんに聞いた昭和の歴史――戦争を知らない平成世代は過去から何を学ぶのか」が載っています。興味を持って読んだのですが、その中に近衛文麿に関する次のようなやりとりがなされていました。

 学生 日中戦争が拡大し、泥沼の戦争になるきっかけとなった近衛文麿首相の「爾後国民政府を対手とせず」という声明を、近衛が「後から直せばいいと思っていた」ということにも驚きました。

 半藤 あれは、昭和史の大失言中の大失言ですね。これも統帥権が魔法の杖ではない、という一つの論拠として本の中で紹介しましたが、あのとき陸軍の参謀本部は日中戦争の拡大にむしろ反対だったんです。多田駿参謀次長は拡大派の広田弘毅外相や杉山元陸相と大ゲンカになり、最後は大元帥への「帷幄上奏」権まで使って、拡大を阻止しようとしますが、結局間に合わず近衛さんが「国民政府を対手とせず」とやっちゃうんだね。だから陸軍だけを悪役にすることは出来ないと思いますよ。

 半藤氏はここで、南京陥落後、トラウトマン和平工作の打ち切りを主張したのは近衛首相をはじめとする政府であり、これに対して参謀本部は交渉継続を主張した。しかし、この時参謀本部は統帥権を「魔法の杖」のように使えず、その主張を押し通すことができなかった。もしそれができていれば和平交渉は継続され日中戦争の拡大は防げたかもしれない・・・。このことを考えると、司馬遼太郎が言うように「統帥権を魔法の杖のように振り回した軍部」によって日本が滅ぼされたとは言えない。日中戦争拡大の責任はむしろ政府にあったのではないか、と言っているのです。

 こうなると、この時の首相であった近衛の戦争責任は、統帥権を振り回した軍部より重いと言うことになります。確かに「国民政府を対手とせず」声明が余計だったことは近衛自身も認めています。しかし、これは近衛自身の発想というより、南京占領直後の12月14日に北平に発足した中華民国臨時政府の王克敏の要請に基づくものだったのです。ということは、それは、華北に親日的な政権を打ち立てることで蒋介石の国民党政府を否認しようとした軍の大方の意思を反映するものだった、ということです。

 こうした軍の北支新政権樹立の構想を時系列的に示すと次のようになります。

 「まず北支那方面軍特務部は10月28日付『北支政権樹立に関する研究』で、『北方に樹立すべき新政権は北支地方政権とすることなく、南京政府に代わるべき中央政府とし、日本軍の勢力範囲に属する全地域にその政令を普及せしむること』を提唱した。」

 「陸軍省の軍務課も特務部の華北政権の中央政府化案と同様の意見を持っていた。『北支政権を拡大強化し、更正新支那政府たらしむるごとく指導し、あわせてこの地域における産業の開発、貿易の促進、治安の回復・安定をはかり、以て支那の更正を北支より全市に及ぼすごとく施策す』(10月13日)」

 「参謀本部・支那課の見解もまた軍務課とほぼ同様であった。同課の11月18日付の『北支新政権樹立研究案』の結論も、『この際、自然発生の気運にある防共親日政権を方針とする北支新中央政権の結成を速やかに援助するを適当とする』とあり、新政権は『支那の真正中央政権』とし、政体は大統領制を適当とすると判断していた。」

 「関東軍はもとより新政権樹立には賛成であり、11月29日付の関東軍東条参謀の上申にも『すみやかに蒋政権と交渉を絶ち、各地樹立の政権を培養し、所在にまずこれと提携し新中央政権の成立の気運を促進し、その成熟するや、機をみて日満を以てまずこれを承認し』とあった。」(以上引用『太平洋戦争への道4』p131)

 つまり、このような「華北政権樹立・新中央政府・国民政府との絶縁というコース」は、北支那方面軍、陸軍省軍務課、参謀本部支那課、関東軍の間で一致していた見解だったのです。では、トラウトマン和平工作において蒋介石との交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀は、こうした陸軍の華北親日政権樹立の構想についてどう考えていたのでしょうか。

 確かに、多田参謀次長は、上海事変が拡大し日中戦争が長期持久戦となることを恐れて戦線を上海地区だけに止めようとしました。しかし、現地軍の要望に押される形で、南京へと潰走する中国軍に対する追撃を許可しました。ただし、11月7日には蘇州―嘉興線、11月24日には無錫―湖州線と二度に渡って進出限界線を設定しました。しかしながら、このいずれも現地軍の要望を受け入れる形で撤回し、11月28日には南京攻略を許可しました。

 また、参謀本部戦争指導班の堀場少佐は、石原イズムの観念的信奉者で、上海制圧後は松井石上海派遣軍司令官と同様南京攻略を唱道しました。ただし、「攻略はせず兵を城下に止め、蒋介石との直接会談によって蒋を和戦究極の決定に導く」という「按兵不動策」を提唱しました。しかし、これは部内の反対でつぶれ、結果的には、堀場の意図したところとは全く違って、いわゆる「南京事件」につながる悲劇的な南京占領をもたらすことになったのです。

 その後、多田と堀場は、南京占領後のトラウトマン和平工作の展開における第二次和平条件の策定において、陸軍内の強硬派の主張――典型的には、北支における「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」の設置――を、講和が成立するまでの保障条項として押し込めることに成功しました。これによって、堀場は「蒋介石に日本の真意(日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に相提携すること)を通達し、肝胆相照らせば必ず大乗的解決はできる」と判断していたのです。

 だが、蒋介石はこれを信じませんでした。というのは、満州を武力で奪われた上に、北支にはすでに「特殊権益及之が為存置を必要とする機関」であるところの、王克敏を行政委員長とする日本の傀儡政権=中華民国臨時政府が北支派遣軍により樹立されている。そして、これが解消されるためには、まず日本が提示した11条からなる「半植民地的」講和条件を呑まなければならない。また、それを呑んだとしても保障事項は講和後もそのまま残り、中国が日本の理想実現に真に協力的だと日本が認めた時に初めて解除される、という代物だったからです。

 そもそも、蒋介石が抗日戦争を決意したのは、済南事件以降の日本との交渉を通して、(とりわけ満州事変以降)日本が政府と軍部との間で二重権力状態に陥り、かつ日本政府が軍を制御できなくなっていると見たからでした。軍は、武力を背景に既成事実の積み上げることで日中間の領土・経済問題を解決できると考えている。また、そうした軍の行動を支えているのは、自分勝手な東洋王道文明思想であり、それに基づいて日満支一体の政治・経済・文化圏構想を抱いている。それが、満州事変以降の日本軍の行動となって現れ、今日、それは、華北分離からさらに進んで、華北新政権を樹立しそれを中央政権化しようとしている。

 蒋介石はそう考えていたのですから、仮に多田や堀場の主張が通って蒋介石との和平交渉が継続されていたとしても、蒋介石がそれに応ずることはなかったと思います。その結果、北支に成立した中華民国臨時政府を日本政府が承認し、蒋介石政権を否認するという同じ結果になったに違いありません。ということは、多田や堀場がこの局面において、日中戦争を泥沼化しないために取るべき措置は何だったかというと、それは、まず軍の統制を回復し、北支に日本の傀儡政権を樹立するようなことは絶対に阻止する、ということだったのです。

 半藤氏は、以上述べたようなトラウトマン和平交渉の経過について、参謀本部が統帥権を行使できず、政府の交渉打ち切り方針に従った点を捉えて、軍の統帥権が絶対なものでなかったことの根拠としています。しかし、それは軍の意見が、多田や堀場等一部参謀本部員と、その他の軍人(=参謀本部支那課、陸軍省、出先軍、関東軍)との間で分裂し、かつ、多数派は交渉打ち切りを支持しており、多田や堀場の主張は、軍内では少数派に過ぎなかったことの結果にほかなりません。

 一方、近衛や広田はなぜ、日中戦争を泥沼の持久戦争に陥れかねない、中華民国臨時政府の承認と、その必然的結果である蒋介石政権の否認という、軍の華北分離工作を追認するかのような施策をとったのでしょうか。彼らは、蒋介石が和平交渉に応ずる絶対条件が「(国民党による)華北の行政権が徹底的に維持されること」だったことを知っていたはずです。だから、盧溝橋事件が起こった時、戦争拡大を防止するため、この事変を「第二の満州事変たらしめないこと」「北支にロボット政権を作らないこと」を軍に約束させていたのです。

 それがどうして、このようなことになったか。いうまでもなく、広田も近衛も戦争拡大には反対だった。しかし、軍は自らを統制できないまま南京を占領し、その既成事実の上に講和条件を加重して蒋介石を屈服させようとした。しかし、蒋介石にそれを受け入れる意思がないことが明らかになった後も、多田は自ら講和条件の加重に荷担しておきながら交渉を継続すべきと主張した。広田や近衛はこの参謀本部の主張の”おかしさ”について、あるいは独逸のヒトラーとの間に密約でもあるのではないかと疑った。そのため、1月11日の御前会議ですでに決定されていた通り、蒋介石との交渉打ち切りを選択した。その結果として、政府も軍が華北に樹立した新政権を容認することになり、さらに、その延長で蒋介石政権を否認する声明を出すことになってしまった・・・そんなところではないかと思います。

 このあたり、広田も近衛も先に紹介したような蒋介石の決然たる抗日意思――抗日戦争を不可避と見て、これに勝利するためには持久戦争に持ち込むほかないと考えていたこと――を読み違えていたと思います。というより広田の場合は、その頃既に日本外交を壟断する軍部に対する消極的な抵抗しかできなくなっていましたし(軍のやったことは軍が自ら責任を負うべきだ、といった考え)、近衛の場合は、軍の先手を取ることで軍を思想的に掌握しそれを善導できると考えていたが、実際には、軍に担がれ利用されるだけで、その焦慮感から、世論に対して迎合的な態度を取ることになったのだと思います。

 こうした近衛の失敗は、評論家的な批評はできても、それだけでは現実政治を動かす力とはなりえないことを示していると思います。もちろん、この時、近衛は首相の職に在ったのですから、その政治責任は免れないと思います。しかし、政治の実権を実質的に軍が掌握している現実の中で、軍の意思が二つに分裂し、多田等少数派の主張が容れられなかったことについて、その責任を近衛や広田に帰すのは無理があると思います。先述した通り、多田や堀場の主張が蒋介石に受け入れられるはずはなかったわけで、それは、彼らが軍の統制に失敗した結果であり、所詮身から出たさびというほかないからです。

 なお、先に「近衛の失敗は、評論家的な批評はできても・・・」と言うことを申しましたが、ここで、近衛の「軍のあり方」に関する考え方を、彼の講演記録の中に見てみたいと思います。

 近衛に対する一般的なイメージとしては、北支事変の際の「派兵の決定や、当初の不拡大方針を事実上転換した「暴支膺懲声明」、トラウトマン和平工作(で)、国民政府との交渉を閉ざしたこと、第一次近衛声明(「国民政府を対手とせず」)などの重大局面で判断を誤ったことが指摘されます。(『検証戦争責任Ⅱ』p212)要するに、軍のお先棒担ぎで、軍に利用され担がれただけの意志薄弱かつ無責任な人物、という人物評が通り相場になっているのです。

 確かに、こうした評価は、政治家としてはやむを得ないと思いますが、しかし、彼の本来の軍に対する考え方は、決して半端ななものではなく、その主意は、いかにして軍を政治のコントロール下に置くか、そのためにはどのような政治勢力の結集が必要か、ということだったのです。ただ、お公家さんであって、それだけの政治力の結集や胆力の発揮ができなかった、ということなのですが・・・。

 次に、近衛が、第一次世界大戦後の日本及び参謀本部の有り様を論じた「参謀本部排撃論」と題する大正10年の講演内容を紹介しておきます。(『近衛文麿』矢部貞治p104~105)

近衛の「参謀本部排撃論」

 近衛は大正十年十月国際連盟協会の理事として、亀井陸朗、加藤恒忠らとともに愛媛県に遊説。十一日夜松山市の公会堂で風邪を押して演壇に立ち、「国際連盟の精神について」一場の講演をした。

 彼は歴史的な連盟規約の調印式を親しく見て来たことから説き起し、パリに集まった列国は依然として国家的利己心を脱却せず、「痩犬が餌を漁るような醜態を暴露して、肝腎の国際連盟は誠に骨抜同様のものと化し」たとして、現実の連盟が不完全であり、「或は無効となる日があるかも知れない」というが、しかしこの連盟の生れた精神は、国際関係を律するに「暴力を以てせずして正義を以てせんとする」ことで、これは永久にわれらが深く了得すべきことだと論じている。これらの論旨は既に前に出したことと大差ないからここでは省くが、そこから近衛はわが国の軍国主義を非難するのである。

 彼によれば、日本人は十九世紀から二十世紀にかけて、列国のアジアにおける帝国主義侵略主義を経験して、「人を見れば泥棒と思え」という警戒心を植えつけられたが、日露戦争に勝ってからは、「今度は人が泥棒したのだから、己が泥棒をして宜い」という方針になったとし、そのため「日本の軍国主義、侵略主義は、日露戦争後二十年間極東の舞台を事実上支配して、その結果は今日の如き八方塞がり、世界的孤立の状態を誘致するに至った」というのである。

 彼はこの孤立がパリの平和会議の時如実に現われたのだとし、「当時彼地に居った我々は実に四面敵の重囲に陥って、楚歌を聞くの感があった」と言い、これを「光栄ある孤立」などと言った者もあるが、当時のごうごうたる悪声怒罵の中で、「日本は決して侵略主義の国に非ず、支那人のプロパガンダの如きは、全然事実を謡うる甚しきものである」と、キッパリ断言し得る者は一人もなかったとし、誤解や誇張もあったけれども、「我々の如き従来わが軍閥の支那西比利亜に対する所謂ブンナグリ、ヒッタクリの方針に対し眉をひそめつつあった者は、かかる批難攻撃に対して、実は心中甚だ忸怩たらざるを得なかった」と告白している。

 そこで日本が今後国際舞台で局面を展開するには、列国をしてわが国を批難攻撃せしめるような原因を除くことが根本だが、その一つとして近衛は参謀本部制度を指摘している。

 要するに我国の参謀本部というものは、独乙を学んだものであって、独乙軍閥亡びて後の今日は、世界に於て唯一無二の制度であります。故に我国を目して軍国主義侵略主義の国であるとし、第二の独乙であるとする人々に取って、此の参謀本部の制度というものは、有力なる例証を提供しつつあるのであります。

  一体我が参謀本部は、国防及用兵の事を掌り、其の職能は軍令事項の範囲に限られて居るべき筈であるにも拘らず、参謀総長は往々軍政事項にも干渉する。そこで参謀総長と陸軍大臣とが衝突するという様な例も、最近に起ったのでありますが、参謀本部は更に外交上にも干渉して、外務省と衝突する。所謂軍人外交、軍国主義の批難は、主として参謀本部が外務省に掌肘を加える処から生ずるのであります。陸軍大臣の方は、一方に於て帷幄上奏という如き甚だ非立憲的な行動を許されて居るけれども、他面に於ては閣議によって拘束せられるし、又議会からも糾弾せられるのであります。然るに参謀総長に至っては、議会に対しても閣議に対しても何等責任を負う所がなく、又之を負わせる道が絶対にないのであります。

 そこで日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これでは到底議会政治、責任内閣の発達を遂げる事は出来ぬのであります。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の批難を免れる為には、是非とも此の参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何よりの急務であると信ずるのであります。と頗る激烈である。

 近衛は、根本問題は、日本国民全体が国際関係に対し、もっと進歩的な自覚を持つことだし、日本の教育が一旦緩急の場合、一身を国に捧げるというようなことを重んじて、「平和的なインターナショナル・シティズン」の養成を忘れていると非難し、支那や加州での排日を憤る前に、先ず自ら深く反省の要があるとし、「私は国民の国際関係に対する思想が今日の如き状態であるに乗じ、狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する様な場合を想像して見ますと、誠に慄然たらざるを得ぬ」といい、それだから国際連盟の精神を、広く一般人に理解体得せしめることが、極めて大切なのだと説いているのである。

 近衛のこの講演は、聴衆に多大の感銘を与えたようである。同地の新聞が皆感激の調子で報じているが、一新聞(海南新聞)は、「真率にして偽らず、直言して諱まず・・・公が軍閥の弊を決剔し、軍政の陋習を指摘すること峻烈にして、毫も仮借する所なかりしは近来の快事」と評している。又一般に近衛が華族特権階級の子弟でありながら、旧慣を打破し因襲より脱却して、社会的に有為の活躍をしていることを取上げて、讃辞を呈している。

 この点は地方新聞のみならず中央でも同じで、大正十年三月二十六日の東京朝日新聞など、「公卿華族の社会的特権を奉還して、一平民となりたい希望を漏らした華冑界の新人近衛文麿公」と書いているし、どこでも近衛は、「華冑界の新人」とか、「新人公爵」とか、「華冑界の新思想家」などともてはやされ、一躍時代の寵児となった感があった。

 これは、その後の軍の統帥権問題の発生と、その結果日本が陥ることになった二重政府状態の危険性を、その10年前に予言したものと言うことができます。そして、こうした日本の参謀本部の有り様が、国際社会をして日本を「軍国主義・侵略主義」と見なす根拠になっていると指摘しています。あわせて、そうした国際社会の批判に乗ずる形で、日本において「狂熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、之を煽動する」状況が生まれていることに対し、鋭い警鐘を鳴らしています。

 当時、これだけの言論を展開し得た人物は政治家にはいなかったわけで、その彼がどうして、彼が危惧した通りの現実に際会する中で、その透徹した見識と決然たる意思を示すことができなかったのか、次回はこの謎を森格との関わり合いの中で探ってみたいと思います。

(最終校正4/19)

2011年4月12日 (火)

大前研一氏「福島第一原子力発電所炉心溶融事故」についての卓見(2)

2011年4月 9日 (土)

大前研一氏「福島第一原子力発電所炉心溶融事故」についての卓見

  大前研一氏が「福島第一原子力発電所放射能漏れ事故」について、事故後二日の3月13日、一週間後の3月19日、二週間後の3月27日とyoutube上で見解を表明しています。また、BPNETでも二本の記事を書いています。大変参考になりますので紹介しておきます。

 この件については、使用済み核燃料貯蔵プールあるいは原子炉本体が破損していなければいいがと祈るような気持ちでしたが、残念ながら、最悪の事態に陥っていたようですね。このことは注入する水の量で判っていたはずですが、始めから圧力容器ごと水浸しにするつもりだったのでしょうか。

 この辺りの保安委員や東電の説明は、電源が回復して原子炉の冷却機能が回復しさえすれば、それで冷温停止に持ち込めるかのような説明でした。従って、炉心の溶融、原子炉及び圧力容器の破損、高レベルの放射能の流出などという事態は何とか避けられると思ったのですが・・・隠蔽体質と言われても仕方ないですね。

 この点、大前氏の見通しは、事故の初期段階から極めて正確であることが証明されました。また、今後の処理方法についての提言も懇切丁寧で、アメリカの提案(石棺)?についても自説を述べるなど、極めて説得力に富んでいます。かって原子炉の設計にも携わっていたそうですが・・・。

 なにより、激することなく理路整然と自説を展開されるそのスマートさに驚かされました。また、言葉使いも周到で、政治的センスも相当なものだと思いました。ぜひ、これからの日本のリーダーとして活躍していただきたいと思いました。できたら、今回の事故の始末も含めてお願いしたい。

(YOUTUBE)

3月13日(事故後2日)

http://www.youtube.com/embed/U8VHmiM8-AQ

3月19日(地震発生から一週間)

http://www.youtube.com/embed/2RztR0sRWk8

3月27日(地震発生後2週間)

http://www.youtube.com/embed/5mBlngPiaSY

(BPNET記事)

福島第一原発で何が起きているのか――米スリーマイル島原発事故より状況は悪いhttp://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110315/263842/

炉心溶融してしまった福島原発の現状と今後http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110404/265766/?ST=business

2011年4月 4日 (月)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(5)

 前回の本エントリーで、「大正期における日本外交の最大の失敗とされる『対華二十一箇条要求』問題は、実はワシントン会議において、このように双方納得いく形で円満に処理されていた」と述べました。といっても、これがワシントン会議の中心議題であったわけではなくて、一つは、第一次世界大戦後の軍縮問題、もう一つは、極東及び太平洋地域における国際関係の調整及び安全保障体制の再構築という問題でした。
                            
 もともとは、ワシントン会議が海軍軍縮会議と言われるように、海軍軍縮問題がその中心議題だったわけですが、それに付随して日英同盟の存続(1921年更新)が新たに問題となりました。なぜかというと、第一次世界大戦中、日本は日英同盟に基づき対独参戦し、膠州湾及び山東のドイツ軍を攻撃・占領し、次いで中国に二十一箇条要求を突きつけ、さらに赤道以北のドイツ領諸島を占領したことに対して、アメリカが警戒心を持つようになったからです。

 アメリカは、将来これらの地域において日本との対立が生じるようになった場合に、日英同盟がアメリカに不利に働くことを警戒したのでした。ただ、正面から日英同盟破棄を主張することはできないので、軍縮会議のために招待する日・英・仏・伊の他に、支那と極東に関係のあるベルギー、オランダー、ポルトガルを加えて九カ国を招き、極東及び太平洋問題を議題とする会議を開くことにしたのでした。

 これに対して日本は、軍縮問題はいいとしても、極東及び太平洋問題で何を議題とするか判らないので参加保留としました。日本としては、二十一箇条問題を中国との直接交渉で何とか解決しようとしていたのですが、中国はこの問題を国際社会に訴えることで廃棄に持ち込もうとしていたのです。そこで幣原(駐米大使)は、ヒューズ(アメリカ国務長官)にこの問題についてアメリカが公平不偏の態度を取ることを求め、ヒューズはこれに応じたので、幣原は日本政府に会議參加を進言しました。
                           
 この会議における日支交渉の経過については前回紹介しましたので、ここでは、極東問題(=支那問題)の具体的解決策となった九カ国条約と、日英同盟に代わる安全保障枠組みとなった四カ国条約について述べたいと思います。 

 まず九カ国条約ですが、その基本的性格はその第一条にほぼ尽くされています。

第一条 支那国以外の締約国は左の通り約定す
(1)支那の主権、独立並びにその領土的及び行政的保全を尊重すること
(2)支那が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為、最も完全にしてかつ最も障碍なき機会をこれに供与すること
(3)支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各々尽力すること
(4)友好国の臣民又は人民の権利を滅殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那における情勢を利用することを、及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控ふること

 これをわかりやすく言うと、(1)は、支那の主権を尊重し、内政干渉しない。(2)は、支那に安定した統一政府が樹立されるよう協力する。(3)は、支那における商業・工業上の機会均等に努める。(4)は、支那の情勢を利用して自国の排他的・特権的利益を求めない、となります。

 ワシントン会議において、このように、支那をめぐる列国間の外交的原則が確立されたことについて、後年日本ではこの会議を「失権会議」と呼び、これを推進した幣原外交を「軟弱外交」として非難する声が高まりました。

 曰く、この会議の結果「日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定がアメリカのルート四原則によって破壊された。支那に対する九カ国条約、四カ国条約によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果となり、日英同盟は破棄された。また、海軍軍縮会議では日米英間に五・五・三の屈辱的条約が結ばれる等、日本の「失権会議」に終わった。せっかく伸びかけた日本の芽は摘まれた」と。

 しかし、このワシントン会議が開催された当時の日本外交が直面していた課題は、第一次世界大戦以降、欧州各国の間に軍国主義打破の気運がみなぎる中で、日本を第二のドイツ、東洋における軍国主義国なりとする疑念を、いかに払拭するかということにあったのです。とりわけアメリカの対日警戒心をいかに和らげるかが、日本外交の中心課題となっていました。

 そのため、日本政府の「華盛頓会議帝国全権委員に対する訓令」の一般方針の重要事項には、次のようなことが述べられていました。

(一)世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進は帝国外交の要諦であるから、この目的達成のため努力すると共に、我が国に対する従来の誤解誤謬を釋(と)くよう努力すること。

(二)今回の会議は先づ軍備制限問題を討議し次いで太平洋及び極東問題の討議に移るよう主張すべし、もし会議の情勢上右主張貫徹し難き場合は両問題を平行討議するよう措置すること。

(三)太平洋極東における恒久平和の確立を主眼とする日英米三国協商案を提唱するに便なる形勢を誘致するに努力すること。

(四)日米英三国協商と関連して日英同盟存続の問題考量せらるるにおいては日本はこれを猶存続せしむるも妨げなし(後略)

(五)米国をして国際連盟に参加せしむるよう努力すること。

  そして、太平洋及び極東方面における一般平和を確保するために、太平洋方面における列国領土の相互尊重、列国領土に商業及び産業上の機会均等主義を適用すること。支那問題については、一、中国の政情安定を図りかつ将来の福祉の増進のため文化及び経済両方面よりその平和的進歩の助成をはかること。二、中国の領土保全、門戸開放、機会均等主義を尊重すること等が必要であるとしていました。

 こうした訓令を受けて、日本はワシントン会議に臨んだわけですが、この会議に先立ち、幣原は、アメリカのカレント・ヒストリーという月刊雑誌の求めに応じて、この会議に臨む日本側の立場と政策を次のように説明し、アメリカ人の対日警戒心の払拭に努めました。

 「先きごろの世界大職は、米國の地位を金城鐵壁にした。どの國民も國家的自滅の危瞼をおかす勇気なしに、米國に向って戦争しかけることが、出来るものではない。欧羅巴は二千五百哩はなれた米國に何等の威嚇を與へてをらぬ。欧羅巴諸國は、この恐るべき疲痺の際に、緊急に必要とする救援を、米國に待望しているといふ事実を片時も忘れるものではない。國家的な力は拡大した軍備の力に存するのてはなくて、産業組織の完成と進歩の中に存する。米國こそはその事実の巌然たる生きた標本である。

 然らば日本はどうか。その人口を養なふのには余りに國土が狭く、いまや工業國へ転換の過渡期に直面していて、その市場も、原料の供給も外國に依存している。だが米國大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか。

 然し取り越し苦労性の人間はまたその先きを考へている。日本は比律賓の攻撃ができるのではないかといふのだ。が日本は少しも比律賓を望まない。香港、佛領印度支那、その他西洋諸國の領有してゐる東洋各地に對しても同様である。然り、日本はそれらを望まない。只もしそれか敵の手に落ちるならば日本に對する威嚇として考へるであらうが、然しそれらの國が、日本に對する攻撃計画を立てぬといふ保障を輿へてくれるなら、それで満足する。

 然かるに反日的批許家はまた、日本が支那を廣大なる黄禍計書の中に織りこむ意図があるといって攻撃する。「黄禍」といふ悪意に充ちた造語は米國人士の記憶にも新たなる通り、独逸のウイルヘルム二世の発明にかかり、吾々の間を反目させ、米國の目を彼の戦争から外らせようと企てて失敗したものである。もしそんな考へが未だに米國に残っているなら、それは日本が、そんな野望は達成が不可能てあることを明白に認めているのに、米國ではそのことを認識していないことを証明する。

 第一、それを達成しようと企てるなら、すでに極東に大きな権益を持つ全ての諸國民と、日本は正面衝突せねばならぬ。第二に、中國を組織し直し、訓練するばかりか、政治的にも統治するなどといふことは、到底手に合うものでない。それが不可能である事は、幾代の歴史が証明している。支那はたびたび侵略され、また征服せられた。然し乍ら何日でも、さうした冒険の終局は、征服者の方が中國の大衆の中に同化させられてしまっているのである。さうでないにしても、征服された國民が戦争の利得の一部をなす筈は決してない。日本が欲しているのは平和と友愛である。戦争と敵ではない。

 支那が安定し、繁栄して生産がゆたかになり、購買力が旺盛になることは、日本にとって大きな恵福となるであらう。支那の門戸開放や機會均等は、日本にとってたとへ現実の救ひとならぬとしても、経済的意味がある。支那資源の開発に注がれる何百萬のドルもポソド、スターリングも、フランも、直接に同量の円の節約になる。それは支那にとっては購買力生産力が増加する繁栄を意味し、日本にとっては出費の減ることを意味する。つまり日本にとってもグッド・ビズネスである。

 支那に於ける日本の目的 然し支那を助けるための機會均等、そしてそのやうにして吾々自身を助ける道には、日本も參加を拒否せらるべきではないのである。吾々は豊富な資源を持つ米國のやうに、自立は出来ない。又吾々は世界中に足場を持つ英國のやうに、自由に自分の要求を充たし得る帝國でもない。日本の廣さは米國のモソタナ州とほぼ同じで、そこに六千萬の人口を擁している。英國と同じく食糧を海外に求め、生産物は外國市場に売り捌かねばならぬ。支那の市場と資源は他の國々にとっては、ただ貿易を増やすといふ意味を持つだけだが、日本に取っては死活に関する必要である。

 日本も、我々の生存を確保するためには工業化せねばならぬ発達段階に達した。亜細亜大陸は、我等の貿易のための材料に富んでいる。我等はそこに機會均等の権利を要求し、他國との競争に於いては地理的地位以上に何の特権をも必要とせぬことを保証する。我等は関係諸國みんなに「生活し、そして生活せしめる」といふ方針の採用を望むだけのことである。

 非難者の言に従へば、日本は支那の資源と市場の開発に於いてその國有の諸権利を支那から剥奪するといふ事になる。が、実際はその正反對である、日本であらうと叉英國や米國であらうと、その企画と投資の結果、開発さへされるなら利得する者は支那なのである。正直にいふと、どこの海外貿易者にもあり勝ちなのだが、支那貿易の従事者の間には実に手のつけられぬ無法者がいる。不正直の競争者はどこの國にでも多いので、ひとり日本の独占ではない。無組織の後進國は自國の叉他國から渡来したこれらの人物の犠牲とされる。然し亜細亜大陸は、外國人によって可能ならしめられる農工業によって、多くの恵福を受けることが第一である。

 たとへば南満鍼道線に就いていふと、そこは日本があの鍼道を支配する以前は、あの辺りの住民は匪賊の被害で困りぬいたものである。今やそれが支那から一掃され、秩序と法の制度が生命と財産を安定させる状態になったので、支那人はこの新らしい繁昌地に、きそって集りつつある。荒涼たる蒙古の大砂漠の一角をなして、人が住みつかうとしても死滅の脅威にさらされていた地方にも、今や農業が繁栄して、収獲の季節になると、農業労働者がなだれを打って集る状態である。そして数十萬の支那人が毎年山東と直隷を越えて、収穫期が過ぎると南方の家郷に冬を楽しく暮すため、その賃金を持って帰って行く。

 開発の計画されるところ、その結果は必ず全世界を利する。現在米國は支那との多くの仕事を、屡々日本と共にしている。支那の國土と天然資源はそれらを容れて余る程厖大である。支那に於いては米國は英國向けの維貨品貿易のある部分を失ったかかも知れない。その代り紡織機械の仕事を獲得した。(『幣原喜重郎』幣原平和財団p239~241)
(以下、山東問題に移るが、この部分は前エントリーで紹介したので省く)

 これを見れば、ワシントン会議当時、日本に向けられた国際社会の猜疑の目がいかに厳しいものであったかがわかるでしょう。日本は山東問題で中国と対立し、シベリア問題も撤兵はしたもののソ連との関係は険悪であり、アメリカからはその軍事力増強(八八艦隊の建造計画など)を警戒され、日英同盟は効力を失いつつあって、華盛頓会議では日本のみが被告席に立たされるのではないかと危惧されていたのです。

 こうした国際社会の猜疑を招いた従来の日本の外交方針を「世界恒久平和の確立並びに人類福祉の増進」という方向に転換しようとしたのは、実は、日本初めての政党内閣首相となった原敬でした。彼は、日本の外交政策に対しては、従来往々「誤解誤謬」があるので、この機会に帝国の真意を闡明にし、国際間の信望を増進することに努めること。特に米国との親善円満なる関係を保持することは帝国の特に重きを置くところであり、ワシントン会議においてもその関係をますます強固にするよう力を尽くすことを日本全権団に求めていたのです。(『本懐・宰相原敬』参照)

 こうして日本は、軍縮条約に調印すると同時に、九カ国条約によって、中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等を約束し、山東問題については中国に大いに譲歩し、二十一箇条問題に関しては第五号案の留保を放棄したのみならず、多年東洋平和の主柱とされた日英同盟条約の廃棄に同意しました。ただし、これに代わって成立した四カ国条約には、軍事的な相互援助の規定は何も設けられていませんでした。(このことに関する批判については別の論じる)

 従って、これを批判的に見ると、いかにも米国に都合の良い極東新秩序の押しつけに屈したかに見えます。しかし、これによって日本は、従来の世界的な孤立状態から脱却し、世界の平和秩序の維持に責任を有する世界三大国の一つに列せられることになったのです。また、一見日本が譲歩したかに見える事柄についても、山東や満州における日本の条約上の権益はしっかり確保されており、その上で中国における日本の資本的発展と商品市場の獲得が保証されれば、地理的・経済的・技術的条件からいって日本が不利になるはずはない、と考えられていたのです。

 従って、こうしたワシントン会議の結果については、確かに、国内的には部分的に種々なる批判はありましたが、国家としてはもちろん、多数の有識者も何ら不満を感じなかったのみならず、また外国専門家の批評においても、寧ろ日本は多大の成果を収めたという意見に一致していたのでした。こうしてワシントン体制は、その後暫くの間、世界の平和維持機構の中核となったのです。

 幣原は、1922年2月4日の第6回国際連盟総会で次のようにこの会議に臨んだ日本の態度を闡明しています。

 「日本は條理と公正と名誉とに抵触せざる限り、出来得る丈けの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だとは思はない。日本はその提供した犠牲が國際的友情及好意の大義に照して、無益になるまいといふ考への下に欣んでいるのである。日本は支那に急速なる和平統一が行はれ、且その廣大なる天然資源の経済的開発に對し、緊切なる利盆を持つものである。

 日本が主として原料を求め叉製造品に對する市場を求めねばならないのは実に亜細亜である。其の原料も市場も支那に善良安定の政府が樹立され、秩序と幸福と繁栄とが光被するに非らざれば得られない。日本は支那に数十萬の在留民を有ち巨額の資本を投下し、然も日本の國民的生存は支那の國民的生存に依存すること大なる開係上、他の遠隔の地に在る諸國よりも遥かに大なる利害関係を支那に有つことは当然である。

 日本が支那に特殊利盆を有つといふことは単に明なる現実の事実を陳ぶるに過ぎない。それは支那若くはその他の如何なる國に對しても有害な要求または主張を仄めかすものではない。日本は支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図にも動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。どうして日本は公正且正直に行はるる限り、支那市場に於いて外國の競争を恐れるのか。日本の貿易業者及実業家は地理上の位置に恵まれ、叉支那人の実際要求に付ては相当の知識を有って居る。従って彼等は別に優先的若くは排他的福利を有たずとも、支那に於ける商工業及金融的活動に於いて十分やって行けるのである。

 日本は支那に領土を求めない。併し日本は門戸開放と機會均等主義の下に日本のみならず、支那にも利害ある経済的活動の分野は之を求める。日本は國際関係の将来に對し、全幅の信頼を抱いて華盛頓に来た。然して今やその信念を再確保して華盛頓を去らんとしている。日本はこの会議が善い結果を齎らすと思ふた。然して賓際よい結果を齎らした。

 今や國民的福祉を破滅し、国際平和に有害なる海軍軍備の競争は過去のこととなった。海軍軍備の制限、野蛮な戦争方法の禁止、支那問題に関する政策の確定を規定する諸協定の成立のよって緊張は解けた。本會議は亦太平洋の委任統治に関する困難なる問題並に更に困難なる山東問題を解決する機會を与へた。」(上掲書p254)

 これを、先の幣原のカレント・ヒストリーに載せた主張とも合わせてみると、この時代の日本の要路における外交的知見がいかに格調高いものであったか判ります。これを、当時の国際政治あるいは支那の現実を無視した理想論だったと批判することは簡単です。しかし、当時の世界が、帝国主義的な国際関係から外交交渉に基づく平和的な国際関係へと転換を図ろうとし、日本もそれに全面的に協力しようとしたことを軽視すべきではありません。

 この点は、本論の主題である近衛文麿についても同様です。彼は当時、憲法研究会なるものを少壮議員と共に組織し、政党政派を超えて時事問題を研究しており、太平洋問題については次のような見解を表明していました。

 「太平洋問題について会合したところ、色々な議論が出たが、我我は今度の太平洋会議は、列国の我に対する誤解を解き、信用を恢復して、国際的の関係に一新生命を開く絶好の機会であると思っている。そこで我政府に希望するのだが、この機会に日本の公明な立場を宣明して貰いたい。シベリア出兵とか、山東省に於ける軍事的施設とか、幾分なりとも列国から疑いの目で見られている障碍があるなら、会議に先だって之を除いて貰いたい。列國の我を中傷する原因あらば、之を悉く除いて会議に臨んで貰いたい。

 かくて我が自由と公正とを列国に明瞭にせねばならぬ。このほかこの機を利用して、対内的にも国民の国際関係に対する進歩せる自覚を起させることが肝要である。桃太郎主義に就ても、他国を侵略し自分独りお山の大将になるというような国民性が我にありはしないか、若しありとせばかかる国民性では、今後の国際政局に立って行く事が出来ぬという教訓を与える絶好の機会である。又縷々聞く軍人政治とか、軍閥政治とかの批評に対しても、深く自ら反省する要がありはしまいか。若しかかる疑いの目を以て見らるる制度ありとせば、速に改革すべきである。

  我々の希望としては、米国、濠洲、印度、支那その他各方面に対して、門戸を開放せんことを望むものであるが、これは一朝にして達する事は困難であろう。されど支那に対しては絶対的の機会均等、門戸開放を望むものである。或論者は、米国が今日の如き態度を取っている以上、無条件で支那の門戸開放に応ずることは出来ぬというが、我々は飽迄も機会均等で、特殊の利権に膠着するのは宜しくないと思う。近時の形勢を見るに支那に対しては漸次共同管理の傾向が見えるが、我国としてはあくまで支那の主権を尊重し、列国と力を合せて支那の開発に努むべきものである。」(『近衛文麿』矢部禎吉p99~100)

 また、驚くべきことに、後年、幣原外交を「軟弱外交」と批判して若槻内閣を退陣に追い込み、山東出兵を強行して蒋介石の中国統一を妨害し、さらに、張作霖事件を引き起こして日中間の外交的基盤を崩壊させ、他方で東方会議を主催して日本の大陸政策を軍事的強行路線に引き戻した政友会代議士森格も、大正12年頃には、ワシントン会議の結果について次のような評価を下していたのです。

 「(上略)又我々は國力の実際と國際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ國策を議するは頗る危瞼であります。世には國力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるか如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓會議を以て我現下の國力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政會の諸君は大なる失敗なり、米國の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。

 諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三國干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ國力足らざる結果であります。仮に憲政會の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。

 我々は米國を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本國民の堪ゆへからざる處であります・我國の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米國に買われるのであります。米國と國際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬梱の生糸は売る場所かなくなります。

 この結果は我か農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我國の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米國より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績か大部分休業するに至ったらば如何なる結果が國民生活に来るでありませうか。國家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。

 幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友會の力を率いて能く國論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく。内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(闘東大震災)に遭遇し、國家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく國威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。

 是れをしても外政上の大成功といはすして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、國力の賓際に無理解なりし國民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まっで国民が当時の國力の実際と國際開係を理解するに及び、この講和條約が能く國家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」(『森格』前掲書p458)

 ああ、森格がその後党利党略に走ることなく、この常識を維持し、近衛が、彼の影響を受けることなくその人道主義的見識を維持していたならば、幣原がかって一笑に付したような愚かな選択――日本と米国大陸との間には太西洋に二倍する大海原か横たはっているのだ。たとへ日本が米國を攻撃するといふことを考へたとしても、事情がかうなのである。そんな無謀を企てるほど日本人を愚鈍だと、米國人は考へているのだらうか――が現実のものとなることはなかったろうに・・・。

 ではなぜ、このような「常識の恐るべき転換」が日本国民に起こったのか、次回はこの点について考えてみたいと思います。

2011年4月 2日 (土)

趙無眠著『もし、日本が中国に勝っていたら』から学ぶべきこと

 ap-09さんに紹介いただいた『温故一九四二』と『もし、日本が中国に勝っていたら』を読みました。後者の方がよりおもしろかったですね。この本は中国国内の中国人向けに書いたもので、こと国家の経営・管理能力という点においては――台湾統治や満州経営の他日本が中国の各都市を占領していた時も含めて――日本は極めて優れた能力を発揮した。中国人もこのことを認めるべきであり、それに学ぶべきである、というものです。

 「反省を込めて言えば、もしわれわれがそうでなければ(=国家の経営・管理能力という点で劣っていなければ―筆者)、なぜ人□にしてわずか数千万の小国に手も足も出ないまま国が滅びる寸前まで追い詰められてしまったのだろうか。」

 こうした反省と同時に、筆者は、日本の欠点を指摘することも忘れていません。

 「同じように日本の欠点も深刻だ。もしそうでないのなら、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになるだろうか。」 

 そして、氏自身の同胞に訴える言葉として次のように述べています。

 「日本がしたことは筆舌に尽くしがたいことだが、その一方で彼らがわれわれに与えてくれたものはとても貴重だ。われわれはそれを得るために血の代価を支払った。これを簡単に捨て去ってしまうというのであれば、それは民族にとって最高の不幸であろう。」

 この本の著者趙無眠氏は、現在中国では、「日本鬼子」を再評価したとして、”四大漢奸”に列せられているそうですが、実は、氏の論文は中国の言論界では既にかなり有名で、大きな論争を巻き起こしているとのことです。「事実」を「事実」として見る目が、中国でも、政府の政治的思惑とは別に次第に育ってきていると言うことですね。

 では、この「事実」を私たち日本人自身はどう評価すべきでしょうか。

 この場合も、中国人の場合と同様に、「事実」を「事実」として見る目を持つことが必要ですね。それと同時に、”なぜ、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになったか”を、徹底して反省する必要があります。

 それは、組織の経営・管理能力には優れているが、それをより長期的な戦略思想の元にコントロールすることが出来ない。つまり、日本人の行動を支える思想的基盤が弱いため、状況の変化に左右され、一貫性のない場当たり的行動となりやすい、ということです。

 では戦後は、この日本人の弱点=思想的基盤の弱さがいくらかでも克服されたでしょうか。この点は、むしろ戦前より悪くなったのかも知れませんね。戦前の日本を”日本鬼子”とすることで自分を正当化、あるいは平気でいられる日本人がたくさんいましたから・・・。

 これでは、伝統思想が引き継がれ、欠点が是正され、その新たな思想的発展が期されているとは言えません。こんなことでは、以下、この本で高く評価されているような”日本人の長所”といえるものさえも、失われてしまうことになりかねません。

以下『もし、日本が中国に勝っていたら』より

【日本統治下の中国】
 日本はまず朝鮮を占領した後、台湾を占領し、次に満州、そして華北、華東、華南と占領した。これらの被占領区では、戦闘状態が終わり社会に一定の安定が回復されると、まだゲリラやレジスタンスとの争いは続いていながらも、土地の人々は基本的に占領者がどのようにこの地を治めるのかを見てみようという態度を見せるものだ。

 台湾は五十年の割譲を経て、再び中国に戻り、すでに五十年を超えた。現在、老人世代の台湾入には日本統治時代を懐かしむ者が少なくない。日本人は法を重んじ、国民党のような「白色テロ」を行うこともない。教師と警察は日本時代には最も尊敬される市民の職業であり、李登輝は「二十二歳までは日本人」を自称し、日本からの訪問者を熱烈に歓迎する。彼はもしもこうした老人世代が存在しなければ台湾の民主の基礎はとっくに失われていたはずだと考えているほどだ。

 日本の台湾統治時代、島では科学的で合理的な管理法が持ち込まれ、銀行が設立され、鉄道がしかれ、基隆や高雄などの港が拡張・整備され、ラジオ局が生まれ、上下水道やガスが整備され、一時は台湾経済の六割を占めた製糖業の基礎が築かれたのである。

 また、アジアに誇る潅漑、排水、冠水防止設備をもつ嘉南大川、桃園大川も整備された。産業研究を行う「台湾総督府中央研究所」がつくられ、都市計画や数々の法規も整い、台湾の交通、衛生、治安、経済の質が向上し生活レベルの底上げが起こったのである。このことは国民党統治下で現代化が進められるときの基礎となり青写真となった。

 このころ、台湾の一部産業には、日本本土よりも進んでいたものもあったのである。一九四〇年、台湾の工業生産の総額は農業のI・四倍となり、台湾の工業化は実現されたのである。(楊永良『日本統治時代の台湾建設』)

 われわれは、日本の台湾建設を批判することはできる。その「出発点」(目的)が悪い、その手段と態度もあまりに専横的で強引であったと。しかしその結果、台湾には近代国家としての基礎が築かれたのである。一人の作家の言葉を借りれば、「日本は台湾に近代化の卵を産ませるために、やせ細った鶏を太らせた」(伊藤潔=劉明修『謎の島、台湾』)ということになるのだろう。

 満州は清朝の発祥地である。もともと彼らは漁猟や遊牧を主な生活手段にしていたため、広大な農業処女地が長い間放置されてきた。そのため、中国の農民たちにとって新たな開墾地として”山海関外への入植”は大きな魅力であった。

 しかし、日本が降伏したときには東北部はすでに重工業の集積地とさえ言われるほどであった。そのことは数字の上から見ても明らかで、単に全中国の重工業の八〇%を占めるだけでなく、質的にも最高レベルの産業基地へと変貌を遂げていたのである。

 ソ連の紅軍が東北を”解放”したとき、彼らは無数の工業設備を解体し、持ち去ってしまったのだったが、それでも東北全域に張りめぐらされた鉄道路線はどうすることもできなかった。この鉄道網の密度は、いまもなお中国で最も充実しているほどである。

 大連は同じように居住地として中国で最も良い都市の一つだが、ここにも日本人が行った数十年計画の布石の痕跡がみつかるのである。

 海南島は、中国にとっての。天涯海角(辺涯の地)である。古くは犯罪人を流刑に処した荒れ果てた島だった。

 日本に占領されて以後、日本は第二の台湾をつくりだすために建設的に治め、コントロールを緩めて土地の人々の手による鉄道経営を進めた。

 日本人は村を回り、衛生面での検査を行い、子供たちに甘い飴を配った。彼らは満州でもこうした。”小恩小恵”という日本人の習慣を持ち込んでいたのである。

 東側はゲリラの活動が活発で戦争状態にあり軍民の関係は緊張し悪かった。唯一つ西線(鉄道)は日本人が手掛け、また鉱山の開発も行われた。

 共産党が取り戻して以後は、海南島は省から格下げされ、何も新しい建設がされない一方で、掠奪式の破壊的な資源の持ち出しだけが続いた。それは、もともと自分たちのものではなく、いつか誰かに取られてしまうものであるかのように大陸に持ち出されたのだった。こうした状況は、改革・開放によって海南島が大特区になるまで続けられた。

 フランスの作家アルフォンスードーデの「最後の授業」は世界文学のなかの名作として知られているが、侵略の苦味を腹いっぱいに味わったことのある中国人にとってこの作品は切実な感動を与えてくれる。

 作品は普仏戦争で領土を奪われるフランス人の怨み――教師はドイツに占領されるという最後の日に、明日からは許されなくなるフランス語で授業を行う――を描いている。

 この視点から見れば、中国の被占領区はまだ幸運だった。日本の占領者は中国語の授業を禁止したことはなかったどころか、かなりの程度は寛容であったからだ。向学心のある学生には、日本の占領区を離れて国民政府が管理する地域へ学びにいくことも許されていた。

 八年にわたる抗日戦争中に、最も早く日本の手に落ちた北平(北京)を例に取れば、日本の敗戦が決まったとき、多くの著名な大学の設備も図書の数も非常に充実していた。抗日戦争前の一九三六年、中国の高等学校の数は百八校しかなかったが、一九四五年の終戦時には、高等学校は百四十一校になっていた。高等学校の教師も七千五百六十人から一万一千百八十三人に、学生は四万一千九百二十二人から八万三千九百八十四人へと倍増したのである。(屈徹誠『現代物理学が中国で主導的に発展した原因』)

 たくさんの新しい大学――上海交通大学や上海医学院、ドイツ医学院、雷士徳工学院、上海商学院、上海音楽院など抗日戦争勝利後に政府によって取り潰された六つの偽学校――も被占領区で設立された。

 愛国者の視点から言えば、もし被占領区に学校がなければ、青少年は学ぶ場所を奪われ、中国の復興に貢献することもできなかったはずだ。張春橋の”たとえ・・・であったとしても、決して・・・を選択することはない”論は、彼の独創的な考えでもなければ、もちろん、彼が初めて語ったというわけでもない。

【日本から「学び方」を習う】
 もちろんこうした日本人の”業績”は彼らの侵略による破壊を相殺するものではない。だが、このなかから彼らの経営、管理能力を見て、彼らのどこが中国人よりも優れているのかを知ることはできるのではないだろうか。

 長い間、多くの出版物が中日それぞれの民族に対して文化上の比較を行ってきた。一般的には、どちらにも勝っている面とそうでない面があるはずだ。しかし、ある種の文章では民族感情をむき出しにして日本民族を嘲笑し侮辱することで愛国を表現しようとするものもあった。

 私は、これには賛成できない。

 戦場での激烈な力比べはもちろん、平和な状況下での競争であっても、脅したり罵ったりすることなど、戦いではない。われわれは抗日戦争を戦った将軍たちの回想録を読み、その中身や行間に、はたしてそ(ど?)れほど程度が低く軽薄なことをわめき散らすだけの愛国が描かれているかを見なければならない。

 人類には必ず弱点がある。一つの民族には必ず積年の弊害もある。中国人には中国人の醜さ、日本人には日本人の醜さ、アメリカ人の醜さ、フランス人の醜さ、イギリス人の醜さ、ドイツ人の醜さ、イタリア人の醜さ、ロシア人の醜さ、アフリカ人、ラテンアメリカ人、アラブ人、ユダヤ人・・・。

 なぜ、醜さがあるのか。それは相対的にみなが認める美しいものが存在するからである。 二十世紀のはじめに魯迅は、最も中国人の特徴を備えたモデル的人物を作品に描いて見せた。それが「阿Q正伝」である。正直に言えば、阿Qの醜さは際立っている。そして、これは疑うことなきわれわれ中国人の姿である。

 反省を込めて言えば、もしわれわれがそうでなければ、なぜ人□にしてわずか数千万の小国に手も足も出ないまま国が滅びる寸前まで追い詰められてしまったのだろうか。

 同じように日本の欠点も深刻だ。もしそうでないのなら、あのように横暴を極めて、兵力を乱用して弱らせ、どこまでも戦線を拡大し、最後には無条件降伏を受諾するまでになるだろうか。

 ただし、日本はそうした欠点の裏側に非常に優秀である面も備えている。日本人は努力を惜しまず、積極的で向上心があり、仕事に誠実で研究熱心で、その上いい加減なことをしないので相手として手ごわい。新しいものに対して敬意を持ち、謙虚に学び、よく模倣して吸収し、犠牲を惜しまず、団結している。私的な争いはしないが、公的な戦いには勇敢である。こうした特徴には、中国人が学ぶべき値打ちのあるものも多い。

 日本人はミッバチのようであり、組織の結束が固く、一糸乱れず、高効率で、小さな狭間にも生きがいを見つけ、脅威を感じれば命を惜しまない特攻的な攻撃性を敵に対して発揮する。最後の部分を除けば、すべて現代であっても重要で社会に適した特徴である。

 日本があれほど短い時間のなかで工業革命を達成し、そして戦後はまた凄まじいスピードで回復を遂げ、経済と科学技術で強国の列に並ぶことができたのは、国民全体にあるこの素質を抜きに語ることはできないだろう。

 一つの民族は他の民族から学ばなければならないが、とくに敵からはよく学ばなければならない。

 古代、中国は日本の恩師であったが、近代の日本は中国の恩師であった。日本は中国を侵略し、われわれの家をメチャクチャにして損失を与え多くの血を流し深い恨みを残したのに、まだ恩師なのか? と問う者もいることだろう。だが、それでもやはり日本は恩師である。恩は恩、仇は仇である。相殺することも、ましてや抹殺することもできない。

 日本がしたことは筆舌に尽くしがたいことだが、その一方で彼らがわれわれに与えてくれたものはとても貴重だ。われわれはそれを得るために血の代価を支払った。これを簡単に捨て去ってしまうというのであれば、それは民族にとって最高の不幸であろう。

 一世紀も前から、われわれはイギリスにも学び、フランスにもソ連にもユーゴスラビアにもシンガポールにも学ぼうとした。そしていま、最も多くを学んでいるのがアメリカであるが、最も長くかつ最も深く学んだ相手といえば、やはり日本である。

 実は私自身もこの一点について認めたくはない。しかし、受け入れようと入れまいと、これは厳然たる事実なのである。

 イギリスから学んでも、われわれが工業革命を完成させることはない。フランスから学んでも、われわれの社会が自由を獲得することはない。ソ連に学んだわれわれは、失敗例を積み上げただけであった。アメリカから学ぼうとすればアメリカとの距離の遠さを思い知ることとなった。そして最後に日本から学んだわれわれは、ついに日本を打ち負かすことができたのである。

 日本はとくに学習熱心な国である。中国を学べば、できるかぎり中国人に近づこうとし、西洋から学べば脱亜入欧へと向かい、「体」とするか「用」とするかの際限なき議論のためにいたずらにエネルギーを消費するようなことはしない。

 現在、われわれが日本をちょっと眺めてみれば、彼らの近代化のレベルがすでに世界で最も近代的な国家支局を並べるほどになっていることが分かるはずだ。またその一方では、彼らの伝統文化の備える正真正銘さは、われわれのようなこの悠久の歴史を持つ国家でさえも、恥ずかしくさせるに足るものなのである。

 同時にまた西洋から学ぶことは、日清戦争という一つの試験で、中日はそれぞれ優劣のはっきり分かれる答えを出した。

 日本海軍は人数も装備も中国には及んでいなかったため、戦争で勝つ自信があったわけではない。しかし戦争前、北洋艦隊が日本を訪れ、日本人が艦上に登ると、そこには怠惰な水兵とその家族までが艦上で暮らし、いたるところで着物を陰干ししてあるのを見て、訝るのを通り越してひそかに喜んだとされる。彼らは、こんな軍隊なら戦っても問題ないと考えたのだ。

 中国は欧米からの学習に失敗した後、日本から「学習の方法」を学び、やっと少しずつ現代化へと社会変革を始めることができるようになったのである。(後略)

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