フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

2011年5月30日 (月)

尾崎行雄の自由憲法擁護論――憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し

 前回、尾崎行雄の「天皇三代目説」を紹介しました。この中で尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法といい、これを盾に東条内閣下の翼賛選挙を憲法違反であると批判しました。ところで、この「明治憲法は自由主義憲法」と言う尾崎の言葉は、戦後生まれの私たちには意外な感じがします。そこで、尾崎がこの言葉をどういう考えのもとに使ったか。これを、1942年4月の翼賛選挙において、尾崎が選挙人に対して訴えた言葉に見てみたいと思います。

 以下、引用文中――→   ←――で囲った部分は、検閲により削除された部分です。なぜ、この部分が削除されたかを見れば、当局がなにを怖れたかもよく分かります。なんだか見え見えでおかしな感じもしますが・・・。 

 最後のご奉公につき選挙人諸君にご相談(1942.4)尾崎行雄
     憲法のためとしあらば此堂を枕となして討死も好し
                       (新議事堂にて)

 私は少年の頃より、民選議院建設の為に尽力し、憲法実施後は、幸ひに諸君の御推薦に頼て五十余年間衆議院議員を勤めました。モハヤ余命幾何もない今日となって最後の御奉公の仕方を考へなければなりませんが、外に、君国の為にモツト有効な勤め道があれば、私は議員を止めても好いのです。然し一生を憲法の為に捧げて来た私としては、最後の御奉公も、矢張り衆議院議員として致す事が、最も有効だらうと考へてゐます。これが四囲の形勢太だ不利なるを知りつゝ、進んで第廿一回目の総選挙に出陣する所以であります。

 然らば「御奉公の目的」はと問ふ人あらば、私は「帝室の尊栄と人民の幸福を保全増進すべき根本法、即ち帝国憲法を擁護育成するに在り」と答へます。此他の万づの国務は、此二大目的を完成する手段方法にすぎないのです。

 源平以後、北条、足利、徳川時代は云ふに及ばず、其以前の藤原、蘇我時代と雖も、――→皇室は常に御尊栄←――なりしと申上ることは出来ません。まして人民の方は、斬捨御免の世に生活し、其生命財産の権利すら保証されて居なかったのです。此政治体制を革新し、上は皇室の御尊栄を保全し、下は人民の生命財産を安全ならしむる道は憲法政治の外にはありません。――→然るに此大切な憲法政治が漸次紊乱して斬捨御免の独裁政治を称賛するものすら現出するやうになりました。←――私としては明治大帝が畢生の御心労を以て、御制定遊ばされた憲法政治の為に、身命を擲つのが最善にして且つ最後の御奉公だと信じます。然し選挙人多数の賛成を得なければ、此御奉公を致すことはできないから、打開けて御相談に及ぶ次第です。

 近来我選挙区にも、(一)自由主義者、(二)個人主義者、(三)民主々義者、(四)平和主義者、(五)親米英派、(六)軍縮論者、(七)翼賛運動反対者等の臭味ある者をば、選出す可からずと勧説する者があるさうです。是れは――→尾崎には投票するなと云ふに均しい言行です。もしそれが直接と間接とを問はず租税や官僚の援助を受る者の所作であるならば明白な選挙干渉で、憲法及選挙法等に違背する行為です。←――明治廿五年の――→大干渉←――にすら屈せずして、私を選挙した諸君ですから、――→此位の干渉は物の数←――でもありますまいが、余り辻褄(つじつま)の合はない申分ですから、一応弁明いたします。

 第一こんな事を流布する人々は、自由主義を我儘勝手に私利私益のみを追及するものとでも誤解して居るのでせう。帝国憲法は、第一章に於て、天皇の大権を規定し、第二章に於て、臣民の権利義務を規定してゐますが、兵役納税の義務に関する第二十条と第二十一条を除けば、其他の十一条は悉く臣民の権利と自由を保証したものであります。――→故に帝国憲法は自由主義←――の憲法だと申しても差支ないのです。

 帝国憲法第十九条は、日本臣民は(中略)均しく文武官に任命せられ及其他の公務に就くことを得と保証し、
 第二十二条は居住及移転の自由を保証し、
 第二十三条は身体の自由を保証し、
 第二十四条は正当なる裁判官の裁判を受るの権利を保証し、
 第二十五条は住所の侵入及捜索を拒む権利を保証し、
 第二十七条は所有権を保証し、
 第二十八条は信教の自由を保証し、
 第二十九条は言論集会及結社の自由を保証し、
 第三十条は請願権を保証してゐます。
――→此の如き明文あるにも拘らず自由主義を排斥する人々は我が憲法を非認し、明治大帝の御偉業に反対する←――のでせう乎。――→自由の反対は非自由で奴隷生活監獄生活のやうなものだが真に之を好む者がありませうか、物は少し考へて云ふべきだ。曾て自由主義の英国と同盟条約を結んだ時、明治大帝は大いに之を嘉賞し時の内閣大臣をば一人残らず叙爵又は昇爵せしめ給はりました。大正天皇は秩父宮殿下を自由主義の英国に留学せしめ給はりました。←――今日英米と開戦したからと申しても、此等の事実は、消滅しません。――→口を極めて自由主義を悪罵することは明治大帝や大正天皇の御行為を誹節する事にもなりはしますまいか。←――

 第二、私は強ち個人主義者ではないが、我が国も古昔と違ひ今日は家に職と禄を与えず、個人の能否に応じて百官有司を任命する以上は、或る程度まで、個人主義を実行しているのです。一概にこれを排斥するわけには参りません。

 第三、民主々義はデモクラシーの反訳(ほんやく)語で、民本主義民衆主義などと訳する人もあるが、要するに――→輿論公議を尊重する←――政治形体、即ち独裁専制の反対で、――→明治天皇が御即位の初めに当り「万機公論に決す」と誓はせ給ひたる我が皇道政治と異語同質のものであります。←――之を兎や角言ふものは、文字の末に拘泥して、其本義を解し得ない人でせう。

 第四、平和主義者を排斥せよと言ふ人があるが、それは開戦以前に述ぶべき意見であって、既に宣戦の大詔が下った以上は、我が帝国臣民中には、一人も之に反対して、平和を主張するものはありません。現に衆議院が全会一致で、二百数十億円の戦時予算を可決した事が何よりの証拠です。
 然るに米英と開戦後既に四ヶ月を経過し、平和主義者も一人残らず大詔を遵奉して、銃後に奉仕して居る今日に於て、之を排斥せよなどと言ふのは盛夏に於て炬燵を撤去せよと騒ぐが如き季節後れ意見です。ソンナに騒がずとも春暖になれば、炬燵は疾くに廃止されてゐます。

 第五、親英米派、私は漢字と英語で学問をしたのですから、独伊よりも寧ろ支那や英米の事情を多く知ってゐます。然し帝国が既に独伊と同盟して英米と開戦した以上は、私は全力を尽して此国策に奉仕してゐる、又国家的見地より云へば、独伊派の奉仕よりも――→英米派の銃後奉仕の方が一層有効な筈←――ではありますまい乎。(味方の賛成は、当然だが、――→敵方の賛成は国策遂行上一層有効な筈)然るに今回の選挙に限り此奉仕者を排斥せんとするは公私顚倒の言行のやうに思はれる。←――

 第六、――→私の軍備縮少論、私は「国防を強化する方法を以てすれば軍備は成るだけ縮少した方が善い」と確信してゐます。←――而して強弱は相対的のものだから、対手国が我よりも多く縮少すれば、国防は軍縮のために強化します。
 現に往年の華府会議に於ては、我海軍は、――→既成未成を通じて約四十万トン、米国は約八十万トン、英国は約六十万トン縮少したから五、五、三の比率となり我海軍は、縮少のため英米に対して強化したのである。←――経費を減少し、国防を強化するのが、ナゼ悪い乎、真誠の愛国者は静慮熟考すべきである。

 第七、翼賛運動反対者、明治大帝は立憲政体の詔書(明治八年四月十四日)に於て、翼賛の二字を御使用遊ばされ又憲法制定の御告文に於て「外は以て臣民翼賛の道を広め」と仰せられ、又憲法発布の際にも「其翼賛に依り」云々と宣はせられました。故に翼賛の二字は大帝の御用語であって、帝国議会は陛下の翼賛会であると、私共は確信してゐます。而して一朝事あるに於ては日清の役にも、日露の役にも、又支邦事変に際しても、私共は何人の勧誘をも待たず、平生の対立抗争を一擲して、挙国一致銃後奉仕の実を挙げました。歴代の政府は何れも叙勲其他の方法を以て、帝国議会の忠誠を表彰した。今回の支那事変に於ける帝国議会の翼賛行動を、前の二役に比べて、寧ろ優るとも劣る所はありません。――→然るに近衛内閣以来の政府は明治大帝の御用語たる翼賛の二字を借用して自分等の公事結社に転用し、ついに租税と官僚の力を借りて以て新たな翼賛議会を製造せんと称している。明治大帝の建設し給ひ而も五十余年の歴史ある翼賛議会と異なる所の新翼賛議会を創造せんとするが如く見える←――翼賛会が悪い乎、之に反対するものが悪い乎。挙国選挙人の公正な判断を待つ。

 第八、――→翼賛会関係者の候補者推薦は挙国一致体制を破壊す。←――支那事変以後内閣は、幾たびも更迭したにも拘はらず、帝国議会は、各種の派別を一擲し全会一致して、日清戦争に百倍する予算其他の議案を可決した。政府は之に大満足を表すべき筈なるに、却て別に翼賛会を設け、――→其関係者をして議員候補者に推薦せしむるの方針を執った。推薦に漏れた候補者は勢ひ之と対戦せざるを得ないだらう。従って候補者も選挙人も翼賛会派と其反対者とに分離して抗争することにならざるを得ない。全体主義とか一億一心とか言ひながら全国民を政治的に二分するわけになるが、それが戦時の国家に有利だと考へるのだらうか。←――

 第九、愛憎に由て事実を顛倒してはならぬ。独伊の独断専制主義は、今回の戦争には、奇功を奏してゐる。ソ聯の共産主義も、前回の帝政時代に比すれば、大に戦争に効果があるやうだ。然し之を見て、直ちに共産主義や独裁政治に心酔してはならぬ。特に我が国体は、全く独、露、伊に異ってゐるから、之を真似ることは出来ない。
 又英米の自由国は、現在は戦争に負けてはゐるが、――→此二国が非常な強大国になったのは自由主義時代の仕事であることを忘れない方が善い。目前の事態のみに眩惑して前後を忘れ、味方となれば痘痕をエクボと誤認し、敵になればエクボも之を痘痕と認定するが如きは、愛国者の最も警戒すべき所である。況や同盟や戦争は幾十年も継続するものではない。←――国家と憲法は万世不易のものなるに於てをや。

 第十、最後の御奉公、私は既に予想外の高齢に達してゐるから、政界を隠退し、余生を風月の間に送って好い筈ですが、私が身命を賭して、其育成に尽力した所の――→立憲政治は漸次衰退して遂に官選議院を現出せんとするに至った。此儀に放任すれば明治大帝が畢生の御苦心を以て設定し給った政体も、遂に有名無実にならんとする恐れがある。←――故に私としては成敗を問はず憲政擁護の大旗を掲げて最後の御奉公のために出陣せざるを得ないのです。
   正成が陣に臨める心もて我は立つなり演壇の前
                                     宇治山田市中島町一六一
                                    配布責任者 阿竹斎次郎

 これを見ると、日本の立憲政治確立のために半世紀をかけて戦ってきた政党政治家と、近衛文麿のような三代目の政治家との違いが分かりますね。前者には、日本の立憲政治は自分たちが作ってきたという自負があり、それ故に、彼らには、憲法や議会政治や政党政治などの民主的政治制度の価値や、それが国民自由の観念と密接に結びついていることを知っていました。しかし、三代目には、これらの制度が国民の自由の観念と結びついていることが分からなかったのです。

 尾崎が生まれたのは、安政5年(1858年12月24日)、大日本帝国憲法が制定されたのは明治22年(1889年2月11日)です。翌、明治23年(1890年11月)には帝国議会開設に伴う第1回衆議院選挙が行われ、尾崎は三重県選挙区より出馬し初当選しています。それ以後、なんと63年間、連続25回の当選(これは世界記録)を果たしたわけですが、その彼の演説(=言論)を聞いていると、明治憲法下でこれだけの言論をなしえたことに驚かざるを得ません。

 尾崎が、この演説を選挙人に向けて行ったのは、日本が対米英戦争に突入し、初戦の快進撃が続き、世論が沸き立っていた頃でした。こんな時期に、よくこれだけのことが言えたものだと感心しますが、その後ろには、彼を議会に送り続けた人々がいたわけで、これにもまた少なからず驚かされます。一体、どうしてこんなことができたのか・・・。先に私は、尾崎には、立憲政治を自分たちの力で作ってきたという自負があった、と申しましたが、やはり、あてがいぶちではダメだ、ということなのかもしれませんね。

 なお、なぜ軍が尾崎行雄の言う「新翼賛議会」をもって旧議会に代えようとしたか、ということですが、それは、昭和5年の統帥権干犯攻撃によって、軍の編成権を内閣から奪い、それによってどれだけ兵力量が必要かということについて、内閣には一切口を出させないようにした。もちろん軍事行動については首相にも一切知らせず統帥部限りの判断で行った。しかし、予算の承認権は憲法上議会が持っていたので、この議会を翼賛会でもって占めることで、議会の予算承認権をも奪おうとした、ということです。

最終校正 5/31 2:30

2011年5月26日 (木)

尾崎行雄の「天皇三代目演説」について――戦後の三代目は一体どんな日本を創るのか

健介さんへ

 鴎外の世代論をご紹介いただきましたが、世代論で有名なのは、尾崎行雄の、昭和=「売家と唐様で書く三代目」論です。これを戦後に当てはめると、今二代目で、次いで戦後三代目になるわけですが、あるいは、この時代、戦前の昭和と同じような三代目にならないとも限りません。この尾崎の論を、山本七平が『裕仁天皇の昭和史』の中で紹介していますので、この機会に、その解説も交えて紹介しておきたいと思います。

 この言葉は、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。尾崎は、この時の翼賛選挙とそれに伴う政府の選挙干渉について、昭和時代が『売家と唐様で書く三代目』になっていないのは、明治天皇が明治憲法をお定めになり立憲政治の礎を築いてくれたからであって、翼賛政治は、この明治大帝が定めた立憲政治の大基を揺るがすものではないか、と政府を批判しました。

 政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。これは、尾崎行雄が、「東条首相に与えた公開状」の中で、翼賛会選挙を非立憲的動作といい、これは明治大帝が歴代の首相等を戒飭(かいちょく)した立憲の本義に背戻するのではないかと批判したことに対し、東条首相は、尾崎を危険人物として抹殺すべく、この「三代目」発言に”言いがかり”をつける形で起訴に及んだものだといいます。(下線部訂正6/1)

 明治憲法を「自由主義の憲法」と言い切ったところに、「憲政の神様」と称される尾崎の面目躍如たるものがありますね。

「尾崎行雄の天皇三代目演説」

 「明治天皇が即位の始めに立てられた五箇条の御誓文、御同様に日本人と生まれた以上は何人といえども御誓文は暗記していなければならぬはずであります。これが今日、明治以後の日本が大層よくなった原因であります。明治以前の日本は大層優れた天皇陛下がおっても、よい御政治はその一代だけで、その次に劣った天皇陛下が出れば、ばったり止められる。

 ところが、明治天皇がよかったために、明治天皇がお崩れになって、大正天皇となり、今上天皇となっても、国はますますよくなるばかりである。

 普通の言葉では、これも世界に通じた真理でありますが、『売家と唐様で書く三代目』と申しております。たいそう偉い人が出て、一代で身代を作りましても二代三代となると、もう、せっかく作った身代でも家も売らなければならぬ。しかしながら手習いだけはさすがに金持ちの息子でありますから、手習いだけはしたと見えて、立派な字で『売家と唐様で書く三代目』、実に天下の真理であります。

 たとえばドイツの国があれだけに偉かったのは、ちょうどこの間、廃帝になってお崩(かく)れになった人(ウィルヘルム二世、亡命先のオランダで一九四一年没)のお爺さん(ウィルヘルム一世)の時に、ドイツ帝国というものが出来たのである。三代目にはあのとおり。

 イタリアが今は大層よろしいけれども、今のイタリアの今上陛下(ビットリオ・エマヌエル三世)がやはりこの三代目ぐらいでありまするが、いまだ、皇帝の位にはお坐になって居られますけれども、イタリアに行ってみれば誰も皇帝を知らず、我がムッソリーニを拝んでおります。イタリアにはムッソリーニ一人あるばかりである。

 皇帝の名すら知らない者が大分ある。これが三代目だ。人ばかりではない。国でも三代目というものは、よほど剣呑なもので、悪くなるのが原則であります。

 しかるに日本は、三代目に至ってますますよくなった。何故であります。明治天皇陛下が『万機公論に決すべし』という五箇条の御誓文の第一に基づいた・・・掟をこしらえた。それを今の言葉で憲法と申しております。その憲法によって政治をするのが立憲政治である。立憲政治の大基を作るのが今日やがて行なわれる所の総選挙である……」

 (ところが今日、日本にはヒトラーやムッソリーニを賛美する者がいる。しかし)「(そのやり方を)一番立派にやったのが秦の始皇帝であった。儒者等を皆殺ししてしまったり、書物を焼いてしまった。ヒットラーが大分その真似をしている。反対する者はみな殺した。そして強い兵隊を作って六合(天下)を統一して秦という天下を作りました。ちっとも珍しくない。秦の始皇帝は、よほど立派に今のヒットラーやムッソリーニのやり方をしております」

 「その(始皇帝の)真似をヨーロッパの人がしているのである。本家本元は東洋にある事を知らないで、今の知識階級などといって知ったふりをしている者は、外国の真似をしようとして騒いでいる。驚き入った事である。

 官報をお読みになると分かりまするが、私が前の前の議会に質問書を出して、官報に載っております。天皇陛下がある以上は全体主義という名儀の下に、独裁政治に似通った政治を行なう事が出来ぬものであるぞと質問した。これに対して近衛総理大臣が変な答弁をしておりますけれども、まるで答弁にも何にもなっておりませぬ。

 秦の始皇、日本の天皇陛下が秦の始皇になれば、憲法を廃してああいう政治が出来る。しかしながら、もう日本の天皇陛下は、明治天皇の子孫、朕および朕が子孫はこれ(明治憲法)に永久に服従の義務を負うと明言している(憲法発布勅語のこと)以上は、どうしても、天皇陛下自ら秦の始皇を学ぶ事は出来ぬ。そうすると誰がしなければならぬか、誰が出ても、天皇陛下があり、憲法がある以上は、ヒットラーやムッソリーニの真似は出来ませぬ。このくらいの事は分かる。憲法を読めばすぐ分かります。

 憲法を読まぬで勝手な事を言う人があるのは、実に明治天皇畢生の御事業は、ほとんど天下に御了解せられずにいるように思いまするから、私どもは最後の御奉公として、この大義を明らかにして、日本がこれまで進歩発達したこの道を、ずっと進行せられたい……」

 この演説の中の「三代目発言」が不敬罪に当たるとして、先に述べた通り、尾崎は起訴されたわけですが、まあ、”言いがかり”もいいとこですね。幸い、大審院は健全であったようですが・・・。しかし、この裁判中、尾崎は発言をやめず、痛烈に政府を批判し、『憲政以外の大問題』を公表しました。

 これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、(ロ)当局者が、戦争の収結に関し、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるか如く見える事」にはじまる批判」です。

 「万一独伊が敗れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。

 独伊は敗北の場合をも予想し、これに善処する道を求めているようだが、我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」

 「我国人中には、独・伊・露などの独裁政治を新秩序と称して歓迎し、世論民意を尊重する所の多数政治を旧秩序と呼んで、これを廃棄せんとするが如き言行を為すものが多いようだが、彼らはこの両体制の実行方法と、その利害得失を考慮研究したのであろうか。いやしくも虚心坦懐に考慮すれば、両者の利害得失は、いかなる愚人といえども、分明にこれを判断し得べきはずだ」

 「国家非常の事変に際会して、独・伊・露は、新奇の名義と方法を以て、古来の独裁専制主義を実行し、一時奇効(思いもよらない功績)を奏しているように見ゆるが、この体制は、昔時と違い、文化大いに進歩した今日以後においては、決して平時に永続し得べき性質のものではない。平和回復後は、露国人はともかくも独伊人は多分その非を悟って、自由と権利の復活を図るに相違ない。彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。

 自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には『斬捨御免』『御手打御随意』の世の中であった。独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」

 次は、尾崎行雄が、裁判所に対する上申書の中で述べた「三代目論」についての敷衍的解説です。これがまた、極めておもしろい。

対中国土下座状態の一代目

「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、すでに去って、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。

 全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳(=「売家と唐様で書く三代目」)を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。

(甲)第一代目ころの世態民情
 この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世二元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙に逞(いとま)ないほど多い。今日でも、年号令人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。

 この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」

 「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言ってもよいことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。

 しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。

 また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」

(山本)明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬふりをしていたといわれる。土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎行雄は第二世代に入る。

二代目―卑屈から一転して増長慢

(乙)第二代目ころの世態民情
 明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。

 古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。

 しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑を乞うの外なきに至った。

 僥倖にも露国の内肛(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。

 右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。

 近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公けにしたが、日露戦争にあの結末を得だのは、天佑と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の聯慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。

  右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。

 前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」

浮誇驕慢で大国難を招く三代目

「(丙)第三代目ころの世態民情
 全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動腫を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く『売家と唐様で書』かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を巻き起こさなければ、止みそうもない形勢を現出した。

 予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき方案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。

 しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく『こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十余力国の反対を招くべき筋道の振舞である。日本一ヵ国の力を以て、五十余力国を敵に廻すほど危険な事はない』と。果たせるかな、その後開ける国際会議において、我国に賛成したものは、一ヵ国もなく、ただタイ国が、賛否いずれにも参加せず、棄権しただけであった。

 このころまでは、我国の国際的信用は、すこぶる篤く、われに対して、悪感を抱く国は、支那以外には絶無といってもよいほどの状況であって、名義さえ立てば、わが国を援けたく思っていた国は、多かったように見えたが、何分、国際連盟規約や不戦条約の明文上、日本に賛成するわけにいかなかったらしい。

 連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不加入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考えなおしたらしい。

 予は王政維新後の二代目三代目における世態民情の推移を見て、一方には、国運の隆昌を慶賀すると同時に、他方においては、浮誇驕慢に流れ、ついに大国難を招致するに至らんことを恐れた。故に昭和三年、すなわち維新後三代目の初期において、思想的、政治的、および経済的にわたる三大国難決議案を提出し、衆議院は、満場一致の勢いを以て、これを可決した。

 上述の如く、かねてより国難の到来せんことを憂慮していた予なれば、満州事件の突発とその経過を見ては、須臾(一瞬)も安処するあたわず、煩悶懊悩の末、ついに、天皇陛下に上奏することに決し、一文を草し宮相(内大臣)に密送して、乙夜の覧(天皇の書見)に供せられんことを懇請した。満州事件を視て、大国難の種子蒔と思いなせるがためである。

 ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の憤起を怖れて、躊躇していたようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。

 しかるに、支那事件起こり、英米と開戦するに至りても、世人はなお国家の前途を憂慮せず、局部局部の勝利に酔舞して、結末の付け方をば考えずに、今日に至った。しこうして生活の困難は、日にますます増加するばかりで、前途の見透しは誰にも付かない。どこで、どうして、英米、支を降参させる見込みかと問わるれば、何人もこれに確答することは出来ないのみならず、かえって微音ながら、ところどころに『国難来』の声を聞くようになった。

 全国民の大多数は、国難の種子は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は『売家と唐様で書く』ことの代わりに『国難とドイツ語で書いて』いるようだ……」

 以上、尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法と言い、天皇がこの憲法を発布した故に日本は独裁にはならないと言い、翼賛政治はこの憲法の大基を犯している、つまり憲法違反だと批判したのです。近衛はこの憲法を「天皇親政を建前とする」と解釈しました。この差はどこから来たか。明治人は、「立憲政治を自ら創出した」という自信を持っていた。しかし、昭和の三代目は、明治人が苦労して、江戸時代の君主主権から明治の立憲制に国家体制を創り変えた、この明治人の残した「遺産」の”有り難み”が判らず、これを破壊・蕩尽してしまった。そういうことだと思います。

 こうした過去の経験を顧みる時、自らの力で憲法を創出したという自信を持たない戦後世代の二代目あるいは三代目が、果たしてどういう日本を創って行くのか、いささか不安に思わざるを得ません。ということは、今一度、明治に帰る必要があると言うことではないでしょうか。立憲政治の価値を再認識するためにも・・・。 

2011年5月22日 (日)

田原総一朗氏「なぜ、日本は大東亜戦争を戦ったのか」の行方

私HP「山本七平学のすすめ」談話室より再掲http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/

  田原総一朗氏の標記の本について、ネットでは、”田原総一朗が転向した”というようなう意見が多く見られます。

「あの田原総一朗が「大東亜戦争肯定論」へ転向」http://virya.blog72.fc2.com/blog-entry-21.html

 田原氏は、こうした自説をyoutubeやラジオ番組で語っています。言わずもがなではありますが、この中で、2.26事件で重傷を負った鈴木貫太郎を鈴木貞一などと非常識な言い間違いをしていますし、天皇が決起将校達に対して激怒したのは、昭和天皇の子供の頃の乳母が鈴木夫人だったから、などど”いいかげん”なことをいっています。(そんなの一つのエピソードに過ぎません)

 戦前のアジア主義者が支那の近代化にかけた思いに注目することは大切なことです。また、北一輝が、青年将校たちと違って「純粋素朴な天皇親政」を信じていたわけではないこと。あくまで天皇を”使いよい玉”としていたこと。つまり、北は機関説論者だった、という事を今あえて言いたいのなら、、指摘すべきは、北は、皇道派の青年将校達を”使いやすい玉(この場合は弾?)”として利用しようとしていたのかもしれない、という”残酷物語”についてでしょう。

 『VOICE』の件の論文の末尾の文章は次のようになっています。

「その北一輝がなぜ青年将校達にそのこと(天皇を使いよい玉として利用すること――筆者)を教授しなかったのか。なぜ高天原的存在で満足していたか。あるいは、二・二六事件は、北一輝にとって死に場所探しだったのであろうか。」
 
 北の本音を、彼らに教授できるわけがないでしょう。北一輝の機関説論はむしろ統制派のそれと一致していたわけで、皇道派はそれとは仇敵関係にあったのです。事実、それゆえの二・二六事件であったはずです。

 それにしても斉藤実、鈴木貫太郎、渡辺錠太郞、高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望などか弱き老人を殺し、彼らにとっては仇敵であるはずの統制派の巣窟=参謀本部や陸軍大臣官邸は、占拠して「陸大臣に面接して事態収拾に付、善処方を要望する」という程度の隠微な処置に止めたのはなぜでしょうか。

 まあ、「決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり」の「陸軍大臣告示」に見るように、彼らも畢竟身内だし、決起には賛同してくれるはずだと、甘い瀬踏みをしていたのでしょう。で、もし彼らの賛同が得られたら、過去のことは水に流して仲良くやるつもりだったのでしょうか。となると、彼らのその不満の根源は一体何処?という疑念に駆られます。

 この点、石原完爾も、模様眺めで、うまくいくようであればこれを利用し、軍主導の国家社会主義体制に持って行こうとしていたという疑い濃厚ですからね。このことは、事件後の広田内閣の組閣における彼らのやり口を見れば明白です。反省どころの話じゃないのです。この辺りの駆け引き、皇道派の皆さん一体どこまで読んでいたか。

 おそらく、北一輝もそうした可能性に期待をかけていたのかも知れません。それが挫折してしまった、故の”若殿に兜とられて負け戦”なのです。おそらく、そこまで昭和天皇が断固たる意思表示をするとは北も思っていなかったのでしょう。だって、機関説論者にしてみれば、天皇がそんな断固たる意思表示をするこことは一種のルール違反ですから・・・。

 そんな意外感がこの句に表れていると私は思います。ユーモア(田原氏の言)なんかじゃありません。一種あっけにとられた図なのです。まして、”死に場所探し”なんて西郷じゃあるまいし、「日米戦争は愚の愚」としたリアリスト北一輝ですぞ。もちろん、青年将校達にしてみれば、自分らの信じていたものとは真逆の大御心が示されたのですから、恨む外なかったのですが。

 なお、”転向”云々は、本を見てからにしますが、アジア主義者と、その後の国家社会主義者そして尊皇思想の青年将校達との絡み合いが、うまく捉えられているかどうか。まさか、昭和天皇に対して、”青年将校の声にもっと耳を傾けるべきだった”などと言いたいのではないとは思いますが・・・。もしそうなら近衛と同じで、何を今更!ということになりますね。

2011年5月21日 (土)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(10)

 そろそろ、まとめたいと思います。

 前回は、近衛の時局に対する見方が、満州事変勃発の頃より急速に森恪らの主張に近づいて行き、西園寺を始めとする重臣等との意見に疎隔を生じるようになったことを述べました。こうした近衛の意識の変化は、実は、国民の意識の変化とパラレルの関係にあって、なぜ、あれだけ政党政治や議会政治を擁護した近衛が、満州事変以降、軍を支持するに至ったのかを理解すれば、それは同時に、当時の国民の思想を理解することにもなるのです。

 私は、前回「もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思う」ということを述べました。

 このことは、アメリカの排日移民法の成立を見ても判ることで――これを契機に日本人の反米感情が高まり、ひいてはワシントン体制そのものがアメリカの対日封じ込め政策であるかのように理解されるようになった――こうした「持てる国」=英米の横暴に対抗するという意味からも、資源を「持てる国」ではあるが、近代化に遅れたために「奪われる国」になった中国と連携する必要があったのです。

 いうまでもなく、日本はアジアにおいて唯一の近代化に成功した国です。そのためのノウハウも持っている。当然、中国の近代化を支援することもできたわけですし、もし、両国間に平等・互恵の関係を構築できれば、日本が抱える人口問題や資源問題や商品市場の問題も解決できたはずです。

 おそらく、幣原外交のポイントはここに置かれていたと思います。よく、幣原外交の失敗例として、1025年の支那の特別関税会議で列国の協調を破って支那の関税自主権を承認したこととか、1927年の南京事件や漢口事件に際して、英国等との共同出兵に応じなかったことなどが指摘されます。これは幣原が、対支協調外交の方により傾斜していた事を示すもので、国際協調外交や対支不干渉外交という言葉より、幣原外交の本質を表していると思います。

 特に、後者の事件(昭和2年の南京事件)を始末する際に幣原がとった処置について述べると、英米などが蒋介石に対し、最後通牒を突きつけ軍事行動を起こすべく日本に共同行動を求めたのに対し、幣原は、彼らに対して次のように反論し日本の立場を述べています。

 「これに對してあなた方の本国政府がどういう態度をとるか、私はそれに干渉するわけではありませんが、日本政府に関する限り、その態度をハッキリあなた方に諒解して貰いたいのです。この最後通牒を、蒋介石はどうするか。方法は二つしかない。承諾するか、拒絶するかである。もし最後通牒を鵜呑みにして承諾するとすれば、彼は中国民衆から腰抜けだ国辱的な譲歩をしたといって攻撃される。蒋介石の立場は当時まだ国内で安定していないから、若い連中から一斉に攻撃されるようになると、蒋介石自身の政権が潰れるかも知れない。

 蒋介石の政権が潰れたら、どういう結果になるかといえば、国内は混乱に陥る。それでもあなた方には大したことではあるまい。それは多くの居留民がいるわけじゃないから、逃げれば逃げられるだらう。しかし日本は十数万もの居留民がいるから、これを全部早く安全の場所に移すわけには行かない。直ぐに出兵するとしても多少暇がかかる。そのうちには多くの者が恐らく危害略奪を免れまい。これに反して、蒋介石が列国の最後通帳を断乎拒絶したとしたとしたらどうなるか。あなた方は共同出兵して、砲火によって警罰する外に方法はないであらう。がこれは大いに考えなければならん。

 どこの国でも、人間と同じく、心臓は一つです。ところが中国には心臓は無数にあります。一つの心臓だとその一つを叩き潰せば、それで全国は麻痺状態に陥るものです。・・・しかし支那という国は無数の心臓をもっているから、一つの心臓を叩き潰してもほかの心臓が動いていて、鼓動が停止しない。すべての心臓を一発で叩き潰すことは、とうてい出来ない。だから冒険政策によって、、支那を武力で征服するという手段を取るとすると、いつになったら目的を達するか、予測し得られない。またそういうことは、あなた方の国はそれでいいかも知らんが、支那に大きな利害間係を持つている日本としては、そんな冒険的な事に加はり度くない。

 だから日本は、この最後通牒の連名には加わりません。これは私の最後の決断です。どうかこの趣旨を、あなた方からも夫々本国政府へお伝えを願いたいのであります。」(『外交五十年』)

 なんだか、日中戦争の結末を予言しているかのような言葉ですが、結果的には、日本が参加を拒否したことによって、この最後通牒の話は立ち消えとなりました。しかし、その後、支那側の攻撃が英国に向けられるようになると、欧米各国は漢口、九江、天津などの租界を返還するなど対支融和策に転じました。ところが、こうした列強間の足並みの乱れに支那側が乗じ各個撃破戦術を採るようになると、在支英米人がさかんに幣原外交を列強の対支協調を破壊したものとして非難するようになりました。それが国内にも伝えられて、幣原外交を打倒すべしとの声がにわかに高まることになるのです。

 その急先鋒に立ったのが政友会の森恪であったことはいうまでもありませんが、幣原がこの問題について全く無策であったかというとそうではなく、蒋介石に対して次のような忠告を行ったと彼自身は言っています。

 「私は蒋介石に対して人を介して・・・早く列国と相談して、思い切って損害の賠償すべきものは賠償し、謝罪すべきものは謝罪して紛争の原因を一掃してはいかかであろうかとといわせた。私の趣旨がのみ込めたものと見えて蒋介石はその通りにやった。」(上掲書)

 もちろん、この事件の背後には国民党内部の共産主義分子がいて、漢口のボロジンの指示によって、蒋介石を窮地に陥れるため故意に外国人を襲撃したのでした。幣原はこのことを知っていて、あえて蒋介石に列強の攻撃が向かわないようにしたのです。蒋介石もこうした共産党の意図を察し、上海では先手を打って、一斉蜂起を計画していた共産党を弾圧して上海が共産党の手に落ちることを阻止し、さらに南京の第六軍を粛清して、南京事件等の関係者を死刑に処し、当該国への賠償も行いました。

 その後、蒋介石は、幣原が「無数の心臓を持っている」と形容した中国の混乱した政情を全国統一に持って行くべく「北伐」を開始しました。これに対して、居留民の現地保護を名目に、その統一事業を阻止するかのような行動に出たのが、何度も申しますが、政友会田中内閣における森恪でした。おそらく、それは当初は、倒閣のための党略に過ぎなかったのかもしれません。しかし、その時、彼と連携した青年将校等は、幣原外交に対して、ワシントン会議で軍縮を推し進めた元凶として、激しい敵意を抱いていたのです。

 この両者の、いわば「私的な思惑」が重なり、それが山東出兵という、中国における日本人居留民の保護あるいは権益擁護のための出兵となり、それが済南事件を経て、日本は、そのためには、中国の統一を妨害する事も辞さない国だと見なされるようになったのです。さらに張作霖爆殺事件を経て、日本軍の暴力体質・隠蔽体質が明らかとなり、張学良は易幟を行って国民党に合流、全満州に青天白日旗が翻ることになりました。その結果、、国民党の外交部長王正廷による革命外交が、満州においても推進されるようになったのです。

 こうなると、今度は、こうした国民党による国際法を無視した国権回復運動が、日本のナショナリズムを刺激するようになる。満蒙における日本の特殊権益は、日露戦争における日本軍将兵10万の血の犠牲によって贖われたものだ。にもかかわらず中国は、満蒙における日本の条約上の合法的権益さえ踏みにじって、日本を満蒙から追い出そうとしている。

 そもそも、匪賊の跳梁する地であった満蒙を、今日の如く、3,000万人口が安心して暮らせる土地に変えたのは誰だ。日本人ではないか。その日本は、移民問題や食糧問題、さらには世界恐慌下で進行しつつある欧米各国による経済のブロック化によって、資源の調達や商品の販路を閉ざされようとしている。故に、満蒙は日本にとって「生命線」であり、その権益を放棄するわけにはいかない。

 これは、日本という国が生存していくための当然の権利=国益である。これを、中国の不当な侵害から守るのは当然であり、必要なら武力行使も辞すべきでない、といった考え方です。そして、近衛自身も、こうした考え方をとるようになった。同様に、大多数の国民も近衛と同じような思考経過を経て、満州事変を熱狂的に支持するようになったのです。

 では、こうした考え方はどこで間違ったのか。

 順を追って言えば、まず第一に、南京事件をめぐる政友会の森恪を中心とする幣原外交攻撃のやり方が、全く事実に基づかない政略的プロパガンダであり、そのため、幣原外交に対する国民の信頼が大きく損なわれた、ということ。それと同時に、日本人の支那人に対する警戒心と敵愾心が一気に高まった。

 第二に、山東出兵それに引き続く済南事件(これも意図的な誇大報道によって点火された)によって、支那人の、日本に対するイメージが決定的に悪化した。日本は、その領土的野心を満足させるためには、中国の政治的統一を武力で阻害し、必要とあらば一国の元首を爆殺することも平気でやる国だと。

 第三に、張作霖爆殺事件の処理において、日本政府が事件をもみ消し、その首謀者を軽微な行政処分で済ませたことは、国内政治における法的秩序が決定的に損うことになった。また、こうした処置は、満州の継承者である張学良に消しがたい屈辱感と恨みを残すこととなり、彼をして排日運動へと駆り立てることになった。

 こうして、日本人と中国人の間に、ほとんど修復不可能な、恐るべき認識ギャップが生じることになったのです。これを運命と考えるか、それとも、外交的失敗によってもたらされたものと考えるか。私は、後者の視点を重視しているわけですが、とりわけ、その中でも、日本外交において、対支協調外交を重視した幣原外交が、なぜ当時の日本人に「忌避」されるようになったか、ということに関心を寄せているのです。

 繰り返しになりますが、日本にとっては、昭和初期の国内及び国際社会における困難な経済環境の中で、その生存を確保していくためには、中国との連携協力は不可欠でした。それは、日本についてだけ言えることではなく、中国にとって歓迎すべき事だった。にもかかわらず、なぜ、上述したような、ほとんど回復不能な仇敵関係に陥ってしまったのか、ということです。

 そこで、私が、この問題を解くための一つのモデルと考えたのが、近衛の思想、その「持てる国、持たざる国」論なのです。近衛はこの論理によって、森恪を時代の先覚者として称揚し、満州事変を引き起こした軍の行動を支持し、政党政治の堕落を悲憤慷慨しテロに走った青年将校等に同情を寄せました。そして国民もまた、こうした近衛の考え方を熱狂的に支持しました。

 では、この近衛の「持てる国、持たざる国」論の特徴は何でしょうか。その第一の特徴は、その思想の根底に、国際社会秩序形成における一種の道徳主義的人道主義と平等主義があるということです。第二に、ここから、こうした道徳主義的理念が未成熟の段階にある国際社会においては、「持たざる国」が「持てる国」に挑戦するのは当然、とする考え方が生まれた。第三に、こうした考え方は国内政治にも反映し、動機が純粋であれば何をしても許される、といった法的秩序を軽視する考え方につながった、ということです。

 この近衛の論理は、もともとは、第一次大戦後にできた国際連盟を批判する論理として考案されたものですが、では、この論理は中国に対してどのように適用されたか。中国は確かに資源的には「持てる国」である。しかし、近代化に立ち後れたために、「持てる国」ではあるが「奪われる国」になってしまった。一方、日本は「持たざる国」であるが近代化に成功し「奪う国」となった。それ故に、中国にとっては最も警戒すべき国になった、ということです。

 つまり、ここにおいて、近衛の「持てる国、持たざる国」論は、「持たざる国」であると同時に「奪う国」となった日本が、「持てる国」ではあるが「奪われる国」に止まっている中国から「奪う」ことを、正当化する論理になっているのです。確かにこの論理は、「持てる国」であると同時に「奪う国」である英米に対しては一定の説得力を持ちます。しかし、中国に対しては、それは帝国主義的論理として機能することになる。

 ここに、日本人が日中戦争に対して持ったイメージと、対米英戦争に対して持ったイメージが決定的に異なることになった根本原因があります。もちろん日本国民は、この近衛の思想を日本の伝統思想にそって理解しました。つまり、近衛の思想の根底にあった道徳主義的人道主義・平等主義思想を、日本の伝統思想である家族主義的国家観に基づく一君万民・平等思想として理解したのです。

 というより、こうした近衛の思想こそ、日本の伝統思想を無意識的に反映するものであったと言うべきかも知れません。従って、先に指摘したような近衛の思想の欠陥は、そのまま日本の伝統思想の欠陥であった、ということもできます。何よりもそれは家族主義的国家観に基づくものであり、それを国内政治だけでなく国際社会にも拡大したところに、国内における法秩序の破壊に止まらず、国際社会の法秩序をも破壊することになってしまった、ということです。

 もちろん、近衛は、政党政治や議会政治を否定したわけではなく、また、統帥権を盾に取って独断専行的行動を繰り返す軍を支持したわけでもありません。しかし、軍がそうした行動を取るに至った動機には理解を示していました。つまり、政治がそうした時代の変化を先取りし先手を打たない限り、彼らがそうした行動に出るのはやむを得ないと考えたのです。このため、近衛が首相になってまず第一にしようとしたことは、三月事件以降、二・二六事件に至までの政治犯を恩赦することでした。

 「我が国軍内部におけるかくの如き対立相克と、非合法手段による国家改造の思想とを解消せしむる(ためには)・・・他なし、内乱及び叛乱の罪につき大赦を奏請し、これら犯罪に関する一切の責任を赦免して、彼らをして天恩の真に広大なるに感激せしむるとともに、過去を凡て水に流して恩讐を忘れしめ、以て相克の原因を除去すること是なり。しかして為政者たる者は、一面において彼らの志を汲み、今後益々鋭意して庶政の刷新と国威の宣揚とに向かって邁進するを要す。」

 ここには、法治主義による秩序の回復ではなく、極めて日本的な温情主義的問題解決法が説かれています。実は、近衛の思想は、京大在学中にオスカー・ワイルドの「社会主義の下における人間の魂」を訳したように、社会主義的人道主義・平等主義から出発しています。ところが、こうした彼の人道主義・平等主義は、次第に日本民族の伝統精神に基礎を置くようになりました。このことは、昭和7年に長男の文隆を米国留学させる時、平泉潔を招いて日本精神を講義させたことにも現れています。

 こうして、西洋の社会主義思想から、日本民族の伝統精神である一君万民平等思想に基礎を置くようになった近衛の思想から、満州事変を見るとどうなるか。

 「今や欧米の輿論は、世界平和の名に於て、日本の満蒙に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振り翳し、或は不戦条約を楯として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさえある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは日本に非ずして寧ろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。」

 日本は真の世界平和を希望するが、経済交通の自由と移民の自由の二大原則が、到底近い将来に実現され得ないので、「止むを得ず今日を生きんがための唯一の途として、満蒙への進展を選んだのである。欧米の識者は宜しく反省一番して、日本が生きんがために選んだこの行動を、徒らに非難攻撃するを止め、彼等自身こそ正義人道の立場に立帰って、真の世界平和を実現すべき方策を、速かに講ずべきである」(「世界の現状を改造せよ」昭和8年2月)

 ここでは、先に述べたような、「持たざる国」である日本が、「持てる国」である中国から「奪う」、という行為について、それを、今日の世界では、経済交通の自由と移民の自由という二大原則が損なわれていることを理由に正当化しています。しかし、この二大原則を損なっているのは欧米各国であって、中国の場合は先ほど述べたように、「持てる国」ではあるが「奪われる国」であって、日本としては、その中国の近代化を助けて、「奪われない国」にすべきだった。そうすれば、相互に互助互恵の関係が構築できて、経済交通の自由や移民の自由を確保することもできたはずでした。

 それをできなくした責任は、もちろん、当時の中国の、行き過ぎた革命外交の推進にも一半の責任はあります。しかし、そもそも、そうした革命外交を満州の地に引き入れたのは、幣原外交を虚偽のプロパガンダで放逐し、日支間の外交関係を修復不能な仇敵関係に変えた、政友会田中内閣の対支積極外交の失敗にあったのです。ところが近衛の論理からは、この責任を追及する視点が全く欠けている。これはまたどうしたことでしょうか。

 端的に言えば、ここでは中国は、主権国家として扱われておらず、ただ「奪われる」だけの「持てる国」として扱われているということです。つまり、この近衛の論理は、植民地主義を正当化するための論理になっており、中国の主権国家としての地位を踏みにじるものになっている。それゆえに、田中内閣時代の対支積極外交の失敗ということも、全く問題とされていないのです。

 こうした近衛の論理は、軍にとっては大変都合がよかった。ここでは、田中内閣時代以降の軍の独断行動やテロ行為、さらにはクーデター計画さえ責任を問われることはない。それだけでなく、その後の類似の軍の行動も是認されることになるのですから・・・。といっても、近衛は議会政治や政党政治を否定したわけではなく、先に紹介した恩赦を実施することによって、それまでに蓄積されてきた国内政治や軍内における対立相克を解消できる、それによって政治のリーダーシップを回復できると考えていたのです。

 一説では、こうした近衛の恩赦についての考え方は、二・二六事件を契機に軍内で主導権を握るに至った統制派に対して、皇道派の復活を図ったものだ、ともいわれます。事実、統制派はこのことを警戒してこの恩赦に強硬に反対しました。また、西園寺を始めとする重臣たちは、こうした措置は、国内の法秩序を崩壊させるものだとして、こちらも強硬に反対しました。西園寺は「そんなことをしたら、憲法も要らなければ,国家の秩序も社会の規律も何もなくなってしまう」といっています。

 これに対して近衛は、「社会悪というものがある。資本家の弊悪、権力者の弊害など。それに対して二・二六や五・一五のようなことが起こる。犯人は国家や社会のためを思う純な気持ちなので,社会悪を除こうとの考えからだ。だから、陛下としても大局からご覧になって,公平にその動機を汲んでやるだけの心持がないと、公正が保たれぬ」というようことを言っています。極めて伝統的というか、山本七平が言うところの、日本人特有の「情況倫理」そのものの考え方ですね。

 この「状況倫理」というのは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方です。この考え方の問題点は、そうした社会の「情況の創出には自分もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠落している」ことであり、これは自己の意思の否定であり、従って自己の行為への責任の否定になる、ということです。(『空気の研究』p121)

 といっても、こうした「日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範といえども、その視点に固定倫理がなければ,規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に,情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。・・・そして、それを権威としそれに従うことを,一つの規範とせざるを得ない。」(前掲書p136)

 こうして、象徴的権威を持つ一君を中心とする世界ができあがるのです。しかし、この世界は情況倫理を当然とする社会なので、その批判を避けるためには、この一君のもとに万民が平等に扱われる社会の形成へと向かわざるを得ない。これが社会主義乃至共産主義の社会イメージと親和性を持つのは当然です。ただし、この思想は天皇制とは相容れないから日本では受け入れられず、こうして多くの知識人が、社会主義的平等主義から天皇中心の一君万民平等主義へと転向していったのです。

 実は、近衛も、その転向者の一人だったのですね。ところが、彼は首相になった。他の知識人と同じように評論家の位置に止まっていれば責任を問われることはないが、首相は国政を動かさなければならない。そうなると、どうしてもこの情況倫理の世界では、自分が一君にならない限り安定しない。しかし、日本ではこの一君は天皇である。従って、それを輔弼する形で内閣を組織しているのだが、この天皇に直属する軍が内閣とは別にあって、これが統帥権論争を経て、首相といえどもアンタッチャブルな存在になっている。

 その上、この情況倫理の世界は、動機が純であればテロ行為も上官の命令に反した独断的行為も許されるということになるから、軍の統制も乱れる。近衛が首相になって一月程後に支那事変が勃発したが、政府は不拡大方針を採っているのに戦線は拡大する一方である。

 こうした現実に際会して、近衛はその手記に、「軍に最初から遠大な計画があって、作戦上これを秘密にするのなら,政府としては迷惑な話だがまだしも諒とすべきところがあるけれども、実際には何ら確固たる大計画もあるのでないことは,松井、杉山の問答の通りで、形勢の進展に押されて,段々に伸びていったものに過ぎず、ここに支那事変のやっかいな性格があった」と書いています。

 これでは、到底責任が持てないとして、近衛は辞意を漏らすようになります。しかし、「軍を事実上動かせる分子――それが青年将校であれ、現地軍であれ――が、これによって反省し,事態を収拾する方向に行動せしならんと考え得らるるや。却って傀儡政府を立てて、事態を日本として誤りたる方向に益々導く可能性なかりしや。余はあくまで軍を激成することを避けながら、極力他の凡ゆる手段によりこれを制御することを以て、余の使命なりと感じてその努力をなせり」ということで首相の座に止まることになりました。

 要するに、近衛の「持てる国、持たざる国」思想や「情況倫理」思想では、軍の統制を回復することもできなければ、政府のリーダーシップを確立することもできなかった・・・。というより、むしろそうした思想が、軍の統制の破壊や政府のリーダーシップの不能の原因となった、と見るべきですね。その原因を一言で言えば、国家統治あるいは国際社会の秩序形成における「法の支配」の意味を、近衛は十分理解していなかった、ということになります。

 結局、彼の思想は、日本に伝統的な尊皇思想に基づく「一君万民平等思想」の枠内にあった、ということであって、それ故に、その全体的統制を回復するためには、次のように、天皇に対して統治大権を直接行使する一君としての「天皇親政」を求める事になりました。

 「日本憲法というものは天皇親政の建前で、英国の憲法とは根本において相違があるのである。事に統帥権の問題は、政府には全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただお一人である。

 しかるに、陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には,障碍が起こりうる場合なしとしない。英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないことを、このどの日米交渉(昭和16年)において痛感した」 
 
 これを読まれた天皇は「どうも近衛は自分に都合のよいことだけいっているね」と不興気だったといいます。というのは、そうした憲法解釈は近衛の思想によるのであって、天皇や西園寺を中心とする重臣達は、天皇を憲法下に置かれた制限君主として解釈していたからです。まして、近衛のいう統帥権の問題は、少なくともロンドン会議までは、軍の編成大権も政府の国務の内に含まれるとの解釈が一般的だったのです。それを統帥権という軍の「魔法の杖」に変えたのは、明治憲法によるのではなくて、政友会の党略の結果に過ぎなかったのです。

 以上、近衛の思想について見てきました。一見ハイカラな西洋近代思想を超克するモダンな政治思想に見えたものが、意外なことに、尊皇思想に基づく天皇親政という家族主義的国家観に由来する一君万民平等思想であったことが明らかになりました。そして、このことが判れば、昭和における日本の失敗の原因は何だったかということも、自ずと判ってきます。それは法治主義という近代民主政治を支える基本思想の理解を誤ったということであり、そのために、ようやく日本に根付きつつあった政党政治や議会政治を放擲してしまったのです。

 また、こうした近衛の過ちと同じ過ちを、日本国民もまた犯したのであって、その意味では、昭和の悲劇を一部軍国主義者の責任にするのは間違いなのです。というのは、当時国民は、普通選挙権を持っていたのであって、真に反省すべきは、その軍を民主的にコントロールできなかった自らの思想的非力を自覚するということなのです。

 おわりに、後年の近衛の述懐を紹介しておきます。

 「西園寺公は強い人であった。実に所信に忠実な人であった。そして徹底した自由主義、議会主義であった。自分は思想的に色々遍歴をした。社会主義にも、国粋主義にも、ファッショにも惹かれた。各種の思想、党派の人々とも交友を持った。しかし老公は徹底していた。終始一貫して自由主義、政党主義であった。自分はナチ化はあくまで防いだが、大政翼賛会という訳の判らないものまで作ってしまった。が矢張り老公の政党政治がよかったのである。これ以外によい政治方式はないのかも知れない。識見といい勇気といい矢張り老公は偉い人であった。云々」

5/23 最終校正

2011年5月12日 (木)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(9)

 森恪と近衛文麿の思想の変化を時系列的に見ておきたいと思います。

大正7年末、森恪、中日実業取締役を辞し支那を引き揚げる。この秋政友会に入党する。

大正8年5月、慶應義塾にて「支那解放論」の演題で講演、次はその内容

 「世界に於ける、帝国の立場よりみて、極東の平和を保持することが必要なる以上、支那の領土を保全せざるべからざることは問題として考察するの余地なく、従って支那の領土を保全し、支那を統一されたる形に改善することは、日支両国にとりて共通の利益なり。支那の領土を保全するとは何を意味するや?また如何にして保全し得べきや?

 支那大陸に住し、また住せんとする者、即ち支那を天地とする者にとりて、統治せられ支配されるが如き形に保全することを、領土保全と称す。支那のみの占有する領土として保全するに非ず。又た一国、一民族によりて支配さるゝが如き形にて保全されることを意味せす、門戸解放されたる富源は国籍の如何を問はず、支那人と外人とを問はず、苟(いやしく)も支那大陸を己れの天地とするものに一様に分布されざるべからず。この意味に於て機会均等ならざるべからず。機会均等は啻(ただ)に支那に来らんとする列強人に對してのみ用ひらるべき言にあらずして、支那人自身にも適用せらるべきものなり。

 支那の領土を保全するには、天賦の富源を公開拓発して国利民福を増進せざるべからず。富源の開発利用は現在支那大陸に占住せる支那人のみ依頼し居りては目的を達し得る見込みなく、勢い支那人以上の文明国人の富力と知識を利用するにあらざれば不可能なり。是等文明人の富力と知識を利用せんと欲すれば、支那の門戸を解放せざるべからず。支那人自身の生存の為に必要にして支那を天地とする人類の几てにとりて欠くべからざる方針なり。

 知るべし、領土保全を以て国是とする以上、機会均等、門戸解放は緊要方針なることを、故に曰く、帝国は支那の領土保全を目前の国是とし、この国是を実行する手段として門戸解放、機会均等の二大方針を声明し、支那をしてこれを巌守せしめ、苟もこの二大方針に適応せるものは助け脊馳するものは破る事を以て對支政策とすべし。

 帝国の對支外交の無為無策、多く機会を逸し去るのみならす、徒に失敗を重ぬるが如き観あるは、畢竟到達すべき主義方針の一定せざるが故なり。拠るべき主義と方針決定すれば、問題如何に複雑するも、局面如何に展開するも執るべき道は自ら定まるべし。豈に右顧左眄するの要あらんや。若し支那をとる考へなく如上の方針をとるとすれば、如上問題に先ず先立ちて先決問題あり。曰く、秩序の恢復なり。」(『森恪』p450)

 この時期、森恪は日本の大陸政策は、幣原と同様に、ワシントン条約で主唱された中国の領土保全・門戸開放・機会均等主義でも日本は十分やっていける、むしろ中国の排外主義こそが問題なのだ、と言う認識を示していたわけです。

大正9年5月、森恪、神奈川県より立候補し、初めて衆議院議員に当選

大正10年春、森は近衛文麿(貴族院議員)等と憲法研究会を開く。

 この研究会では貴族院改革が論ぜられていますが、その主旨は、「特権貴族が政治の根幹を握っていて、・・・国民を基礎とする政党内閣が如何に強力でも貴族院の牙城には一指もふれ得ないという政治的バリケードを打ち破らなければ、国民政治の進路はない」というものでした。この時、近衛も、京都帝大を出て間もない理想に燃える青年貴族であって革新的気概が強く、貴族院改革をめぐって森と共鳴し、憲法研究会で貴族院改革のための同士的研究を開始したのです。

 なお、この年の5月には森もワシントン会議に參加しています。そのワシントン会議についての当時の森の考え方は次の通りです。

 「(上略)又我々は国力の実際と国際的立場に対して最も明快なる理解を必要とします。この理解なくして外交を論じ国策を議するは頗る危険であります。世には国力の如何を顧みず、徒らに大言壮語し外交の要決は一つに對外硬にあるが如き言論をなすものがあります。我々は華盛頓会議を以て我現下の国力としては外交上の一つの成功と考ふるに當り、憲政会の諸君は大なる失敗なり、米国の提議を拒絶せざりしは非常の失策なりと喧傅して居ります。

 諸君、成功、非成功を論断する前に、我々は日清戦争後三国干渉を何故に忍んだか、日露戦争後何故に講和を急いだかを回顧する必要があります。皆これ国力足らざる結果であります。仮に憲政会の諸君の唱ふるが如くこの会議が破裂したりとせば、果して如何でありませうか。

 我々は米国を相手として軍備の拡張をなさねはなりません。この競争は日本国民の堪ゆべからざる處であります。我国の農家の産業で最も大切なるは生糸であります。約五億萬圓の生糸額は米国に買われるのであります。米国と国際的に對抗する時はこの生糸か買われなくなる。即ち五億萬圓の貿易が出来なくなります。約四十萬圓の生糸は売る場所がなくなります。

 この結果は我が農村の生活に如何なる影響を与えるでありませうか、又た我国の工業の六割は繊維工業であります。この中三割は所謂棉製品であります。此の棉製品の原料たる棉花の七割は米国より輸入するのでありまして、この原料の供給が不便となる事を覚悟せねばなりません。日本の綿糸紡績が大部分休業するに至ったらば如何なる結果が国民生活に来るでありませうか。国家は必ず困難に陥るに相違なく、実に慄然として肌に粟するの感じが致します。

 幸ひに原敬氏の如き達眼の政治家あり、一部反對者の声を排して断然政界の中心力である政友会の力を率いて能く国論を左右して譲るべきを譲り、守るべきを守りて円満に協調を保ちましたから、由来我々は外に力を注ぐ事少なく、内を整理するの余裕を得たのであります。従って今回の大天災(関東大震災)に遭遇し、国家百敷十億圓の大損害を蒙りたるに係らす、幸に外憂の心配なく国威を損ふ事なく悠々復興に当たる事が出来るのであります。

 是れをしても外政上の大成功といはずして果して何んと云へませう。曾ってポーツマス條約の時、国力の実際に無理解なりし国民は時の全権小村氏を逆賊の如く取り扱ったのであります。而も時定まって国民が当時の国力の実際と国際開係を理解するに及び、この講和條約が能く国家を危急より救ひ得たる事を感ぜざるものはなくなったのであります。即ち理解の有無はその結論にかくの如く大なる変化を齎らすのであります。」(前掲書p458)

 この辺りの森恪の外交についての考え方は立派なものです。これは、ワシントン会議当時の内閣は政友会の原敬内閣であり、森恪は政友会に属していたからだ、と見ることもできます。これに対して、当時野党だった憲政会はこの会議に反対しているわけで、党利党略の弊が出ているわけです。

 なお、同じ頃の、近衛の日本軍の参謀本部のあり方についての考え方は次のようなものでした。

 「日本の立憲制度は、責任内閣以外に別個の政府があって、所謂二重政府を形作るという変態を呈している。これではとうてい議会政治、責任内閣の発達を遂げることは出来ない。故に我国が之を内にしては軍事と外交との統一を図り、之を外にしては軍人外交、軍国主義の非難を免れる為には、是非ともこの参謀本部の制度を改正して、之を責任政治の組織系統内に引入れる事が、何より急務であると信ずる」(大正10年10月「国際連盟の精神について」と題する講演)(『近衛文麿』p104)

 また、近衛は、大正11年10月、近衛は、イタリーでムッソリーニのローマ進軍が行われれ、ファッシズムの台頭が世界の関心を惹くに至った頃、大正12年1月の東京毎夕新聞で「代議制度の本義」を論じ、ファッシズムの流行に対して、次のように反対意見を述べています。

 近年、代議制に対する反対が、保守反動主義の側からも過激な革命主義の側からも、益々強大となりつつある世界情勢にある。しかし、ファッシズムはこの反動主義の表現であり、わが国の貴族院や枢密院や大学教授の一部にもこれに通ずる思想が見られるようになっている。しかし、これらは「眼前に展開する代議制度の弊害のみを知って、専制政治官僚政治の如何に恐るべき制度であったかを忘却した誤れる考え」である。

 そもそも、近時代議制に対する不信が増大した原因はいろいろあって、一は政治の職務が拡大するのに議会の働きがこれに伴わぬことであり、二は国民の文化的向上に比し議員の品位が下落したことであり、三は政党政治の弊害が意外に甚大なことなどである。しかし、結局、他のいかなる制度もそれ以上の弊害があり、政党政治の弊が喧しく言われるのも、弊害の分量が多いというより、ただより多く世間に暴露されるからで、「隠微の間に流弊その極に達した官僚政治に比べれば」、決して憂うるほどのことはない。

 そうであれば、結局は、平凡ながら現在の代議制に伴う欠陥を是正し、実質の改善を企図しつつ進むほかないわけで、そのことについては英国人の「平凡の偉大」「常識の偉大」を学ぶべきだである。それによってのみ立憲政治は有終の美を済し得るので、その意味で、「現代の日本青年が徒らに奇を好み、空理空論に走り、然もこの間に煽動的文字を羅列したる雑誌の跳梁することを、慨嘆せざるをえない」(前掲書p111)

大正13年、森恪、衆議院選挙落選

大正14年3月、森、栃木より衆議院議員当選

 大正14年5月、北一輝が「朴烈事件」(朴烈及びその内縁の妻金子文子にかかる大逆事件)にまつわる怪写真(収監中の二人の馴れ合う姿を写したもの)を政友会の森恪(筆頭幹事)に持ち込み、若槻内閣の倒閣のため、これを政治問題化するよう持ちかけた。森は看守に働きかけるなど裏工作を行い、こうして「朴烈事件」は一大政治問題と化したが、翌年1月、三党首(若槻、田中、床次)間で「新帝新政の初めに当たって政争はやめる」ということで妥協が成立、森恪の党略は不首尾に終わった。

 これは、要するに、大逆罪(冤罪)で収監中の犯人の待遇が過剰だとして、政友会が政権党(若槻内閣)を攻撃したもので、典型的な党略宣伝行為です。これを、森恪はこれを北一輝と結んで行っていたのです。

 大正14年11月、近衛は、彼の主張する貴族院改革論に対する批判に答えるため、「我が国貴族院の採るべき態度」と題して次のように述べています。

 「貴族院は自ら節制して、いかなる政党の勢力をも利用せず、叉これに利用せられず、常に衆議院に対する批判牽制の位置を保つと同時に、一面民衆の世論を指導し是正するの機能を有することに甘んじ、大体に於て衆議院に於ける時の多数党と、よし積極的に強調しないまでも、これに頑強に反対してその志を阻むようなことがあってはならない」

 要するに、貴族院は直接民意を反映しているわけではないから、衆議院の判断を尊重すべきだ、といっているのです。今日の参議院のあり方にも通ずる問題提起ですね。

 昭和元年の2月、森恪は、山本条太郎、松岡洋右等と共に政友会代表として武漢政府視察に行きました。次は、同年4月1日に行った支那視察についての講演内容です(この旅行で陸軍の鈴木貞一と知り合い交流が始まっている)。なお、*部分は筆者の感想というか留意点です。

 「私は多数の支那南北の要人や、今同の事件に重大なる開係ある露国人にも面会致しましたが、その人々のいふ處は皆大同小異で一のテキスト・ブツクの様であります。即ち次の如く申して居ります。

第一
 日本は今や経済上全く行詰り、国を挙げてこれが転回策に没頭し、支那を苦しめんとするも、日本の実力が之を許さん状態にある。その上戦争を開始すれば日本の海外貿易の六割は支那貿易であるから経済上一国の死命を制するに至る故、一部の者が帝国主義に出んとするのは大いなる誤りである。実に日本活殺の鍵は支那が握っているのである。

第二
 満洲問題に就ては、日本が大いに神経過敏である。これ何故かと云へば、日本の経済問題、食糧問題、人口問題に開係あるが為で、我々が若し満洲に於ける日本の要求を容るれば宜しいのである。而して我々は基礎的事業か出来た時、之を始末すれば宜しいのであって、今は余り必要が無いからいゝ加減なことを云ふで居れば宜しい。

第三
 南方支那人は、我々東洋人は被圧迫民族である。その被圧迫に反抗した運動の第一の革命者は日本人で、即ち明治維新の革命運動がそれである。然るに日本は我々の革命運動に一向同情せん。

 大体以上の三つの誤解が非常に強いのであります。 

*誤解と言うより、正直かつ穏当な見方というべきですね。特に、満州についての考え方は興味深い。

 要するに、我々は支那現今の写真を撮りに行ったのでありますが、これに對して我々も一座反駁致しました。第一の経済問題について云ふと、日本は支那が考へたる程貧弱に非ず、支那がその大胆不敵なる態度を改めぬと両国間に大なる不幸が起ると思ふ。日本の支那貿易は僅かに我が貿易総額五十億余円の二割か二割五分に過ぎん、国民党顧問ボロヂシ氏の如きは、我々にこの点を指摘されて大いに狼狽致しました。

*日本は支那に対して、貿易上の依存関係はそれほど大きくはないので、帝国主義に出ることもあるいは可能とでも言いたいのでしょうか?

 第二の満州問題に就ては、支那よりも却って日本に発言権があると思ふ。露国の圧迫に依り、馬山をすら取られんとした支那が、露国の南下政策を十分防がざる間は、日本は断じて満洲を渡さん。日本は支那が完全に露国の南下を防ぐ事が出来れば、明日でも満洲を引渡すのである。斯く我が国に重大なる関係を有する満州問題を、支那が簡単に片附けんとすれば、そこに大なる誤解が出来ると思ひます。

*支那に露国の満州南下を防ぐことができれば、日本は明日にでも満州を中国に引き渡す。つまり、満州は日本の安全保障上重要だ、と言っているわけですが、それなら、支那と喧嘩をしないで連携する道を模索すべきです。また、支那は、当面は経済問題、食糧問題、人口問題では当面日本の要求を容れると言っているのですから、これに、あえて反駁を加える必要はありません。

 第三、我が国維新の革命は開国運動でありましたが、支那の被圧迫運動は反って閉鎖運動であります。先づ以て内を整へずして如何に立派な事を云ふても誰も承知せんと云うてやりました。皆さんは如何思はるゝか知らんが、我々は大体以上の様な弁駁を致しました處、何事に依らず事々に反對したがる支那人も、誰一人として之に對して何とも云ひませんので、我々は相当反響かあったものと考へます。

*昭和維新も、閉鎖運動ではなく開国運動であるべきでしたね。

 尚一つ見逃がすべからざる事は、支那に最近外的関係が加はっている事で、私一個の考より見れば極めて重大であると思ひます。私は支那を支那自身に治めさす時は、今よりは善くも悪くもならんと思ふが、最近の支那には、支那プラスXの力が加はって居ります。即ち露国のインターナショナルと云ふXの力が過去約四ヶ年間加はって大なる支那動乱となったのであります。馮玉祥軍にも露国の力が加はって居ります。

 最近漢ロに於ける動乱にも、その背後には露国の力があります。私が議会に於てボロヂンの事を外務当局に質した處、外務当局は、南方と露人との関係は知って居るが、露国の力を認めんと申しました。私はウーフーが南方に占領されて三日目に其處に参りましたが、市民大会で一番長い演説を致したのは露国人であって、その意味は世界的革命を謳歌したものでありました。

*この頃の中国における動乱の背後に露国があるとの指摘は、幣原も認識していて、ただ彼の場合、外交上軽々な非難は出来ない、と言っているに過ぎません。実際、蒋介石は南京事件の後幣原の忠告を受けて、上海事件等の責任者を処刑し、さらに上海クーデターを起こして、国民党からソ連共産党の影響を排除しています。

 尚二つ申上げておき度い事は、最近二十年来揚子江沿岸に、日本人の扶植せる勢力が根底から滅ぼされつゝあって、在留日本人は今や生活して行くことが出来ないと思ふことであります。之れは労賃の問題ではなく、経済的政治的革命に、ある一部の支那人が計画的に努力して、日本人を亡ぼさんとして居る為であります故に、今日の支那は日本人が進むか退くか、その一を選ばなければならない状態に遭遇し、大なる苦境に陥って居ります。

(中略)

 然るにこの治まらざる支那に投資し、人を遣るのは大なる誤りで、我が当局者の矛盾も実に甚だしいと思ふ。政府は多少の不利は隠忍すべしと云はれますが、現実に苦しんでいる人を、何時までと云はず隠忍しろとは、実に無惨な事で、これ亦深甚に皆さんのお考へを煩はし度いのであります。

*だから、居留民の「現地保護」の為に日本は出兵すべし、と言いたいのでしょうか。先の三国干渉や日露講和における政府の「協調」姿勢は、支那に対しては必要なし、といっているのでしょうか。

 先程申上げた支那プラスXの問題は、日本が之れに對し何時までも傍観的態度を持って居ると、数年の中に支那は秩序を為し、一つの形に統一されます。このXが日本であるとしても支那を統一出来ます。日本と露国と提携したとしても、叉欧洲諸国の中であったとしても、亦支那を統一出来るのであります。支那単独では何んでも無いがXの為めに大いに変化を来たします。兎に角現実に我々の前に投げ出されたる問題に就いて、大いに考えなければならないと思います。」

*要するに支那の統一のためには、他の先進国の支援が必要であり、日本がそのX国になるべきだと言っているのです。この辺りの森の議論には論理的な一貫性に欠けるものがありますが、この段階では、一応、支那の主権は認める姿勢は持っていたようです。

 ところで、この間の昭和元年3月24日、「第二次南京事件」が発生しています。また、同じ頃、片岡蔵相の失言から金融恐慌となり、全国に取り付け騒ぎが発生しました。その主要因は、大戦景気で急膨張した鈴木商店が戦後恐慌で経営悪化し、その破綻を震災手形で繰り延べしていたため、その手形の最大所持銀行であった台湾銀行の経営が悪化し、その救済のため、政府は緊急勅令案と財政上の緊急処分案を枢密院に提出しました。しかし、枢密院は、4月17日、若槻内閣の外交、特に幣原外交が軟弱であり国威を損じたことを論難し政府案を否決しました。このため内閣は総辞職、代わって政友会の田中義一が内閣を組織しました。 

 この時の枢密院に行動は、全く筋違いであって越権行為と言うほかないものでしたが、若槻はあえてこれと戦う事をしませんでした。それは、南京事件の刺激を受けて、政友会の森恪が中心となり幣原外交を「軟弱外交、屈辱外交」と批判するキャンペーンを張り、マスコミも虚実ない交ぜのセンセーショナルな報道を行ったため、幣原外交に対する国民間のごうごうたる非難が巻き起こりました。そのため若槻首相は「人心既に内閣を去った」と感得し、政府案が枢府で否決され日に総辞職を決意したと言います。

 こうして、森恪による幣原外交の精算、支那の革命外交の否認、対支武力解決と在留邦人の現地保護の外交方針が、田中内閣のもとで推進される事になりました。これが、昭和2年5月の第一次山東出兵(北伐が中止されたため9月に撤兵)、7月の東方会議(後の「田中上奏文」という偽書を生む事になった)、昭和3年4月の第二次山東出兵と済南事件(蒋介石の全国統一を日本が妨害するものと受け取られた)、それに引き続く第三次山東出兵、そして6月の張作霖爆殺事件の発生を見ることになったのです。

 この約2年間の田中内閣の対支積極外交――その内実は、森恪が軍と共謀して推進したものだった――の失敗によって、日本外交は政府と軍の間で分裂するようになり、後の中国との間の泥沼の戦争を運命づけられる事になりました。その発端となった南京事件の処理について、当時、政友会が行った幣原外交非難が妥当であったか否かについて、昭和3年5月5日、民政党の永井柳太郎が衆議院で田中首相に対して質問をし、それに田中は次のように答えています。

永井 南京事件に於て、政友会は在野時代頻りに、流言を放ち宣伝を試みていたが、右事件の調査は既に出来ていると思う。今なお流言を信ずるや。

田中 南京事件に就いては段々調査すると、嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があると言う事が判った。一例を挙ぐれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありませぬ。叉帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙を吞んで抵抗しなかったのである。

 当時、森恪がどのような流言を放ち、マスコミや国民がそれにどれ程踊らされたかはあえて述べませんが、その結果、幣原外交が国民に忌避され、これに代わって採用された田中対支積極外交が推進されることになったのです。しかし、これは惨憺たる失敗となり、この結果、中国との外交的信頼関係は全く失われてしまいました。

 それだけでなく、森は、張作霖事件の裏にあった「計画」を温存するため、軍と協力してこの事件の”もみけし”を図りました。続いて、石原完爾等が企図する国家改造計画にも荷担することになります。その端緒となったものが、ロンドン海軍軍縮条約締結時の統帥権干犯問題の政治問題化です。これが浜口雄幸首相に対するテロや三月事件さらには満州事変、十月事件へとつながっていったのです。

 今日でもそうですが、当時も、この満州問題を論じる時の最大の問題点は、昭和2年以降昭和4年までの2年間の、森恪によって主導された「対支積極外交の失敗」という政治プロセスが、完全に抜けていると言うことです。この事実を抜きにして、この時代の中国の革命外交の不当性を一方的に非難したり、日本の満州権益の合法性を主張したりするのは妥当とは言えない、と私は思うのです。そして、近衛もまたこのことに注意を払うことなく、次第に森恪の主張に引きずられていきました。

 「昭和6年5月頃、久しぶりに森とゴルフ場で会うと、彼はこう言った。『世の中は大変なことになりつつある。時代の底流は非常に強い。政党だの貴族院だのと小さいことを考えている時ではない。お互い時代と共に進まなければ、とんだことになる。』それまでの森君は、思想上はともかくとして、有り様は政党主義を基準とする政治家であったので(おそらく貴族院改革の主張を根拠としているのだろう=筆者)、所謂ファッショ的傾向への急転回に驚いた位である。

 しかし、森君からヒントを得て以来、時代の潮流に深い関心を持ち出した。一時は貴族院対政友会の問題などで往来が途切れがちになっていたが(森は近衛を憲政会よりと見て離れていた=筆者)それ以来叉屡々会うようになった。森君は軍人では誰がいいかと訊くと小畑敏四郎・・・鈴木貞一、白鳥敏夫等も連れてきてくれた。その当時から私は、軍部の人々とも会うようになった。そうこうしていると、満州問題の切迫、軍部勢力の台頭、社会不安等、成程世の中の潮流が甚だ急であることが判ってきた。」

 その結果、「昭和6年秋満州事変勃発の頃より、余は西園寺項初め重臣達と、時局に対する考え方につき、相当距離のあることを感ずるようになった。・・・余は西園寺公に随いて巴里に行きし当時より、英米を中心とする国際連盟を謳歌することは出来なかった(「英米本位の平和主義を排す」)。・・・故に余は当時元老重臣を始め、政府当局が動(やや)もすれば英国に追随する傾向ありしに対しては不満であって、時々西園寺公にもお話ししたが、公は長いものには巻かれろという諺を引いて、反駁せられたことを覚えている

 この十年間に於ける日本外交の誠実なる犠牲的国際協調も、支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた。今その事例を一々挙げないが、外交史に明らかである。昭和六年には満州に関する未解決の外交案件だけでも、三百余件を数えるに至った。かくして満州事変は、同年九月十八日ついに柳条溝において勃発したのである。

 満州事変を契機として、我が外交は一大転換をなさざるを得なくなった。・・・(その)実際の推進力は軍部事に少壮軍人であって、これを取り巻く民間右派団体の人々の力も、無視できなくなって来た。反動は恐ろしいもので、これらの人々は過去十年間の平和主義、協調主義(国内では議会制等万能主義)への鬱憤を一時に爆発させて元老重臣は君側の奸なり、政党政治家は国体の破壊者なり、という風に排撃の火の手を挙げ、其結果が五・一五となり二・二六となった。

 かくの如き一大反動の起こるべきことを、最も早くから見通して居たものは、政党政治かの中では恐らく森恪一人であったろう。余は満州事変勃発後から病を得て、静養の身となったが、余の病室には森恪君や鎌倉の友人志賀直方君等の紹介で、少壮軍人や右翼の人々が次第に訪問するようになった。余がこれら人々を近づけたことを、元老重臣諸公が不快の念を持ってみたであろうことは、想像に余りある。

 余はこれらの人々を近づけはしたが、彼らの言説や行動に対しては、元老重臣の人々が疑った如く決して無条件に賛意を表していたのではない。彼らの言説はあまりにも独善粗朴幼穉(ようち)であり、彼らの行動は余りに無軌道激越であって、健全なる常識を以てしては、到底全部を容認し得ないことは言を俟たないことである。・・・(しかし)少壮軍人等の個々の言説を捉えて来れば、我々の容認出来ぬ事は多々あるが、これらの人々が満州事変以来推進し来たった方向は、これは日本人としてたどるべき必然の運命であるということである。

 何を以て必然の運命なりとなすか。思うに満州事変の有無に拘わらず、日本の周辺には列国の経済封鎖の態勢が既に動きつつあったのである。英国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖乃至反封鎖の状態にならんとしていた。・・・これを此儘にして行けば、日本は単に海外市場に対する販路を失うて輸出産業を窒息せしむるのみならず、せっかく育てた産業に対する原料を獲得する道もなくなる。・・これは国家経済の根本が立つか立たぬかの問題である。

 かく列国の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽わんとしつつある時に、此暗雲を貫く稲妻の如く起こったのが満州事変である。仮令満州事変があの時あの形で起こらなくとも、晩かれ早かれ此暗雲を払いのけて、日本の運命の道を切り拓かんとする何らかの企ては、必ず試みられたに違いない。満州事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿っていたのである。

 西園寺公はよくこう言われた。「今日少壮軍人等は熱に浮かされている。此の熱のある間はなるべく彼らを刺激しない様にして、冷えるのを待つに限る。冷静に復したら外交も軌道に乗り、幣原時代の協調主義に戻るだろう」云々・・・

 これに反して余は、軍人の熱の冷えるのを待つと言われるが、政治家にして此国民の運命に対する認識を欠ける以上、軍人の熱は決して冷めない。そして軍人が推進力となって、益々此の運命の方向に突進するに違いない。しかし軍人にリードされることは甚だ危険である。一日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家が此の運命の道を認識し、軍人に先手を打って、此の運命を打開するに必要なる諸種の革新を実行する外はない。此の運命の道を見逃してただ軍部の横暴を抑えることばかり考えて居ても、永遠に政治家の手に政治は戻って来ますまい。」(近衛手記「元老重臣と余」より)

 ここでは、近衛は「日本の必然の運命」について、その原因を「列国の経済封鎖」だけを挙げています。おそらく、ここで近衛の言う「ここ十年間」とは、1922年のワシントン会議以降、満州事変の発生する1931年までの十年間の、所謂幣原外交の時代のことだろうと思います。では、ここで近衛の言う、この間の、日本が「支那を始め殆どあらゆる国から、悪意ある妨害と侮辱とをもって報いられた」というのは、一体、この他にどのようなことを指していたのでしょうか。

 この点については、私は、渡部昇一氏が『日本史から見た日本人・昭和史』で指摘したように、アメリカによる「排日移民法」(1924年)をその第一原因とするのが最も妥当なのではないかと思います。日本人にとってこの法案が、当時の日本人にどれ程差別的かつ侮辱的なものと感じられたか。それまでは日本人はアメリカが大変好きだった。しかし、アメリカが日本民族を嫌悪していることを知って、日本人はアメリカに対して激しい反発と不信感そして警戒心を持つようになった。

 それが米国との協調を基本とする幣原外交への日本国民の信頼を失わせ、その一方で、「アメリカがだめなら満州があるさ」ということで、強硬な大陸政策を求める意見への同調を生むことになった。こうなると、中国に対する内政不干渉・協調外交を押し進めてきた幣原外交に対する世論の風当たりは益々強くなる。その結果、幣原の国際協調外交を推し進めるための、国内における政治的基盤が全く失われることになった、と言うのです。

 しかも、中国では国家統一期のナショナリズムが高まる中で、ソ連の影響を受けた反植民地主義運動・反帝国主義運動が繰り広げられ、それが先述したような南京事件や漢口事件を生み、日本人の対支世論を硬化させた。一方、大戦時好況の反動としての戦後不況の発生、関東大震災、金融恐慌、そして世界恐慌の発生、それに追い打ちをかけた浜口内閣の金解禁不況、東北地方の大凶作、そんな危機的状況の中での世界経済のブロック化、さらに満州における排日運動、国権回復運動の高まり等々・・・。

 これらの、日本を取り巻く国内・国際環境の連鎖的悪化が、次第に米英主導の自由主義・資本主義体制に対する懐疑を生むようになり、代わって、マルクス主義が多くの知識人の共感を生むようになりました。また、自由主義に基礎を置く複数政党による議会主義民主主義に対しても、現実に対応した立法迅速に行うためには問題があると考えられるようになり、こうして日本でも、一国一党制を求める国家改造が唱えられるようになったのです。

 こう見てくると、小林秀雄の大東亜戦争「悲劇論」を思い出さざるを得なくなりますね。これは、小林秀雄の戦後の第一声と言われるもので、当時、知識人間にも多くの冷笑や罵倒を生んだそうですが・・・。

 「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人たちの無知と野心とから起こったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか」

 山本七平は小林秀雄のこの言葉の意味について、もし、人が思索するつもりなら、「一身両頭人間」でなければだめだ。つまり、右の頭は戦時中の常識につかっていて、左の頭は戦後的常識につかっていて、それを時代の変化に合わせて使い分けるような反省ではだめだ。大切なことは、その間、自分が一身であることを忘れないことだ。つまり、戦争中自分はなぜその時代の常識を自らの常識としたかについて、それを安易に後悔などというおめでたい手段でごまかさないこと。そう決心することで、初めて自分という本体に出会うことが出来る、という風に解釈しています。(『小林秀雄の流儀』山本七平p18)

 端的に言えば、戦前昭和の日本の歩みは、まさに運命的=「悲劇的」というしかないものだった、という事でしょう。しかし、それを認めるとしても、私は、もし、あの時期、森恪という政治家が、昭和2年から昭和4年までの間、中国との外交関係の基本的基盤を壊すようなことをしなければ、日本と中国は近代化に向けて協力し合えたはずだし、共産主義に対する共同防衛も出来たはずだし、ひいてはアジアの植民地解放という理念も共有できたはずだと思うのです。そうすれば、世界恐慌の時代を無事に乗り切ることが出来たのではないかと・・・。

 そのことを、当時の政治家は、国民に対して辛抱強く訴えるべきだった。それと、もう一つは、軍縮の時代の軍に対する対応をもう少し考えるべきだった。というのは、この時代の日本が抱えていた問題点は、以上述べたような日本を取り巻く国際環境の厳しさということだけではなくて、日本軍に関する固有の問題が、これとは別にあったということなのです。それは端的に言えば、この時代、日本は軍の処遇を誤ったということ。これは、実は戦後についても言えることなのですが、これについては、次回、論ずることにしたいと思います。

最終校正5/13 14;48

2011年5月 6日 (金)

昭和の悲劇は、近衛文麿の思想への理解を欠いては決して判らない(8)

 前回、森格が、日本の立憲君主制下の政党政治を、軍と連携して一国一党の国家主義体制に作りかえようとしていたことを紹介しました。この点について森恪伝では次のように説明しています。

 「ロンドン条約を繞る森の活動は、その一面では日本の国家主義運動発展の基礎となった。日本の国家主義運動、普通には、一概に、右翼運動といわれるところの運動は、思想的には、欧州戦争後の自由主義、平和思想からマルキシズムの左翼運動に展開していった潮流に対する反動として、また、外交政策としてはワシントン条約以来の屈辱に対する反抗として、更に、国内的には政党政治の余弊に対する反感として、大正十二年の大震火災以来、漸く、成長の段階に入っていた。(前掲書p673)

 それが大陸政策の形で、現実政治の上に姿を現し始めたのは、田中内閣における森の積極政策であり、国内の政治運動として勢力を広げ始めたのはロンドン条約の問題(=統帥権干犯問題)からである。

 森によって、或いは森の政治活動を機縁にして、政治の現実の足取りを取り始めた日本の大陸政策と国家主義的思想の傾向とは、平和主義、自由主義の外交、政治思想と、相克しながら、年一年と発展していった。今日、所謂革新外交とか政治の新体制とかいわれるところの政治理念は、森格に発しているといってもあえて過言ではあるまい。」

 この本が書かれた昭和14年頃は、満州事変以降の日本の大陸政策や、日本思想の国家主義化は当然視されていて、それを基礎付け発展させたのが森挌だといっているのです。そして、その仕上げとなったものが統帥権干犯問題であり、それを政治問題化することで国際協調・平和外交を推し進める民政党からの政権奪還を図ったのが、森恪だと言っているのです。 
                              
 この辺りの事情について『太平洋戦争への道』では次のように説明しています。

 「森格の伝記によれば、森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行ったと記されている。

 (また)岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』と答えていた。」(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家であったということです。そして、その首謀者が、当時政友会幹事長だった森恪であり、政友会総裁だった犬養も、彼が構想した党略に乗ることになったわけです。このことについて、当時の新聞は次のように批判しています。

 「ロンドン軍縮会議について、政友会が軍令部の帷幄上奏の優越を是認し、責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如きは、・・・・いやしくも政党政治と責任内閣を主張すべき立場にある政党としては不可解の態度といわなければならぬ。しかもそれが政党政治確立のために軍閥と戦ってきた過去をもつ犬養老と、政友会の将来を指導すべき鳩山君の口より聞くにいたっては、その奇怪の念を二重にしなければならないのである。」(昭和5年4月26日東京朝日新聞社説)

 ではなぜ、犬養がこのような「二重に奇怪な」政治行動をとることになったか、ということですが、一つは、二大政党がせめぎ合う中での党利党略ということもあったでしょうが、もう一つは、犬養が政友会総裁になれたのは森恪の政治力のおかげだった、ということもあったと思います。しかし、より本質的には、そうした森の党略の背後にある秘密の「計画」を、犬養が見抜けなかった、ということではないかと思います。

 というのは、犬養には、海軍軍縮問題についての彼自身の考え方があり、その本音は「日本のような貧乏世帯でもって、いつまでも、軍艦競争をやられてはたまらない」ということであり、軍縮会議には賛成していたのです。結果的には、統帥権干犯問題は、先述したような森の必死の裏工作の甲斐なく、昭和5年10月1日には、枢密院が次のような統帥権干犯問題についての審査報告を行い、また天皇の批准もなされて、政治問題としては収束しました。(『話せばわかる 犬養毅とその時代』p60)

 「本条約調印の際、内閣の執った回訓決定手続きに関し、海軍部内に紛議、世間に物議を醸したのは遺憾であるが・・・軍令部長にも異議がなかったとの政府答弁、海軍大臣より海相・軍令部長官の意見一致とのこともあり・・・いわゆる統帥権問題は討究する必要がなくなった・・・。是、本官等のすこぶる欣幸とするところである・・・。」

 しかし、それを再び政治問題化したのは、またもや森恪でした。

 これは、昭和6年2月2日の衆議院予算総会において、当時一年生議員だった政友会の中島知久平が、統帥権干犯問題を蒸し返して幣原首相代理・外相に質問したのに対して、幣原が「この前の議会に浜口首相も私も、このロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものではないという意味は申しました。現にロンドン条約はご批准になっております。ご批准になっているということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないことは、明らかであります」と答弁したことに端を発しています。

 このやりとりについて、ほとんどの議員は、”またまた、蒸し返しの論議をしている”という具合にしか受け取らなかったようですが、傍聴に来ていた森恪は、右手を挙げて幣原を指さし、「幣原っ!取り消せ!取り消せ!」と絶叫しました。これで眠りかぶっていた政友会議員はようやく森のことばの意味を理解し、総立ちになって幣原にこの答弁の取り消しを求めました。(『犬養毅と青年将校』p188)

 その理屈は、「天皇が批准したから国防上問題がないという言い方は、陛下に対して輔弼の責任を負うべき内閣の責任を、天皇に負わせるものだ」というものでした。確かに、幣原の言い方も不用意だったわけですが、その言葉の前段では、内閣の判断であると断っており、後段で、すでに天皇の批准も得ていることを付随的に述べたに過ぎません。しかし、森はこれを「天皇に責任を帰し奉るとは何事であるか」「単なる失言ではない」と食い下がり総辞職を迫り、これを重大政治問題化しました。いわゆる「天皇の政治利用」ってやつですね。

 これで衆議院の議事は一切停止してしまい、「恥を知れ!売国奴」といった怒号が飛び交い、果ては乱闘となり、双方に負傷者を出て、警察官も導入されるなど、議会の大乱闘事件に発展しました。この間の森の思惑について、例の森恪伝では次のような説明がなされています。

 この「きっかけを作った者はかねてから、幣原外交の大修正を志し、対支積極政策、満州問題の解決を計画していた森恪であった。」「森はこのチャンスを逃さず一挙に倒閣を敢行しようと腹中に知謀を蓄え、外面には専ら実力派の代表として党内の世論を倒閣一方に導くに努めた。」

 さらに次のようなことも述べています。

 「森の腹にはもう一つの秘密が蔵されていたと推断すべき理由がある。当時既に陸軍の一角には幣原外交に対する満々たる不満が蔵されており、森と志を同じうして満州問題解決を急務とする人々は、ある一種の決意を蔵しておった。議会がこの所謂醜態が長く続く時には、院外の諸勢力が議会を包囲するかも知れぬ。(三月事件が示唆されている)而してその勢いを以て幣原退嬰外交を精算すれば外交の大転換を来たし、政治勢力の一大変革が期待される。」そういう狙いを森は持っていたのではないかというのです。

 それにしても、三月事件というのは、第五十九議会の開催中の3月20日、大川周明がデモ隊を以て議会を包囲する一方、右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃し、軍が治安維持のため出動し、軍代表が議場に入り、内閣に総辞職を強要、元老の西園寺公望に使者を立てて、宇垣一成陸相のもとに大命を降下させ軍部革新政権樹立するというクーデター計画(未遂)でした。こともあろうに、それを、政友会幹事長の森が誘引しようとして、あえて議会を混乱に陥れたのではないか、というのですから、贔屓の引き倒しというべきか、あり得ないことではないだけに、まさに肌に泡する思いがします。

 では、こうした森の計画に対して犬養はどう対応したか。森恪伝には次のように書かれています。

 「犬養政友会総裁は、森ほど深く倒閣の情熱を持っていなかったし、叉、総裁本来の主張から云っても、議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は心中苦々しきことと考えている。政府が頭を地にすりつけて謝罪してくれば許してやってもいいという腹があった。」結局、幣原が「過日中島君の質問に対し答えましたる私の答弁は失言であります。全部これを取り消します」と言うことで、政友会の主張は貫徹されたと見なし、犬養首相がイニシアチブをとって天下り的な妥協がなされた・・・。

 こうして、森恪が策した「計画」は再び不発に終わったわけですが、しかし、この間、森が火をつけた統帥権干犯問題は、自由主義や政党政治に反対し国家主義を唱える軍や右翼を一層勢いづかせることになり、浜口雄幸首相が右翼のテロに遭って重傷を負う(後死亡)という悲劇を生むことになりました。その実行犯である佐郷屋留雄が所持していた斬奸状には、統帥権干犯の元凶として浜口と幣原の名が記されていました。

 そして犬養自身も、犬養内閣を組閣後、関東軍の一部将校が独断専行的に引き起こした満州事変の収拾策を繞って、森恪や軍と対立し、昭和7年5月15日、海軍将校のテロに遭い、こめかみに銃弾を撃ち込まれることになりました。この時の犬養が蔵していた満州事変の解決策とはどのようなものであったか。一つは、当時、若手将校に声望のあった荒木貞夫を陸相に据えることで、陸軍の独断専行を抑止しようとしたこと。もう一つは陸軍の長老の上原勇作に次のような書簡を送り、軍の統制回復に協力を求めたことです。

 「陸軍近来の情勢に関し、憂慮に堪えざるは、上官の、下僚に徹底せず、一例をあげれば満州における行動の如き、左官級の連合勢力が、上官をして、自然に黙従せしめたるが如き有様にて、世間もまた斯く視て、密かに憂慮を抱きおり候。そのいまだ蔓延拡大せざる今日において、軍の長老において、救済の方法を講ぜられんことを冀う一事に他ならず。右の根底より発したる前内閣(若槻内閣)時代の所謂クーデター事件(三月、十月事件)もその一現象に過ぎず。

 ・・・満州事変の終局も近くなれど、現在の趨勢をもって、独占国家の形成(陸軍の目指す満州国独立)を進めば、必ずや九カ国条約との正面衝突を喚起すべく、故に形式は分立たるに止め、事実の上で我が目的を達したく、専ら苦心致し居り候。この機会をもって支那との関係を改善致したき理想に候」(『犬養毅と青年将校』p299)

 また、犬養は、芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らし芳沢に制止されました。また、犬養は満州事変の処理については次のような考え方をしており、政権の座に就くとすぐに萱野長知を使者に立て極秘に交渉を進めました。

 「関東軍を中心にした陸軍は、満州を独立させ、そこに反国民政府(蒋介石政権)的な、日本陸軍の傀儡政権を作る・・・としているが、これであっては日中間は全面的に対立に陥り、恒久的に平和、友好の関係は崩壊する。したがって、満州の政治的主権(宗主権)は国民政府に委ね、経済目的を中心にした日中合弁の政権を満州につくる」

 この犬養構想に対して中国側は、当初は、犬養に軍を抑える力があるかどうか危ぶみましたが、上海事変勃発後、ようやく、この構想をもとに、第一に停戦(上海事変)、第二に日本側の撤兵を取り決め、同時に犬養構想について具体案を作成し協定する、という線で合意しました。萱野は早速この内容を犬養首相宛の書簡で伝え返事を求めました。ところが、これを森(書記官長)が、”これでは陸軍の目指している満州国独立がご破算になる”として、握りつぶしたため犬養には伝わりませんでした。そのため、萱野は待ちぼうけを食わされ、この話は流れてしまいました。

 実際の所、もうこの段階では、犬養が目指したような満州事変の収拾策をとることは、日本側では不可能だったのではないかと思います。しかし、犬養自身の大陸政策は、森恪が「計画」していたものとは異なり、至極常識的なものだったということは判ります。また、五・一五事件でテロに遭った際、逃げようともせず、押し入った海軍将校を落ち着かせて話を聞こうとしたことは、日本における立憲政治の確立を目指して奮闘してきた政党政治家としての面目躍如たるものがあると思います。

 以上、紹介した森恪という政治家――明治維新以来の自由民権運動の積み重ねの中でようやく確立しつつあった日本の立憲政治、政党政治を、軍や右翼と結託して内部から崩壊させ、それを軍主導の一国一党制の全体主義体制へと強引しようとし、この間、日本の立憲政治確立のために尽くしてきた政治家をテロの標的とした、この、まさに日本の近代政治史上最強の疫病神ともいうべき人物――の存在を抜きにして、私は犬養毅を非難する気にはなれません。

 だが、それにしても、なぜこの森恪という人物に、田中義一や犬養毅、さらには本稿の主題である近衛文麿という、キャリアも人格も見識も人並み優れた人物が振り回され、利用され、裏切られ、破滅させられることになったのか。おそらく、この不思議を解明するためには、日本における政治力行使が、どのようになされるのかを見極める必要があると思いますが・・・。

 この点、森恪は、こうした政治力行使のノウハウを、三井物産勤務時代や中日実業時代の対支経済交渉を通じて身につけたのでしょう。金の作り方も知っていたし、目先も利き、交渉力も決断力もあった。しかし最大の問題点は、その主な交渉相手が支那人であったためか、日本の支那通と言われた軍人達と同様、支那を対等な交渉相手と見ることができず、いわば「切り取り勝手次第」の太閤記秀吉流冒険主義に陥ってしまいました。

 そのやり方で、彼は、第一次世界大戦後ようやく確立したワシントン体制をぶちこわし、東亜の国際政治空間を、かっての暴力的植民地主義時代に逆戻りさせてしまったのです。そうした彼の政治手法に、日本の立憲主義政治家は対抗できなかった。一方、軍は、西洋流の近代思想を超克する思想として、日本の一君万民平等主義的家族的国家観をもつ尊皇思想を手に入れた。それはアナクロではあるけれども、伝統文化に基づくものであるだけに、世論の圧倒的な支持を得ることができた・・・。

 それが、戦後の平和主義外交を先取りしたかのような幣原外交を挫折せしめ、一方、人道主義・平等主義的国際秩序建設を訴えた近衛文麿をその罠にはまることになってしまった。では、ここで問われていることは何か。それは、借り物の思想ではだめだということ。それを、自国の伝統文化の延長上にしっかり根付かせることができなければ、本当の力を持ち得ないということではないでしょうか。

 昭和の悲劇とは、その意味で、明治以降に日本が欧米より導入した近代思想と、日本の伝統思想とがミスマッチを起こした結果、もたらされたものと言えるのではないでしょうか。その間隙を突いて、森恪の太閤記秀吉流冒険主義や、北一輝の国家社会主義的改造論、石原完爾の最終戦争論など、まさに魑魅魍魎ともいうべき思想が入り込み、収拾がつかなくなった。その結果、満州問題の処理を誤り、さらに軍縮へと向かう世界の潮流を読み誤った。それが泥沼の日中戦争そして太平洋戦争という悲劇につながっていったのではないでしょうか。

 次回は、論述が後先になりますが、森恪と近衛文麿の思想的な交錯関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。それが、この時代の日本に発生した「転向問題」(一部知識人だけではなく、マスコミや国民を含め一種の社会現象となった)を解明する手がかりを与えてくれることになると思いますので。

最終校正(5/7 12:19)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

twitter

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック