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2011年6月

2011年6月18日 (土)

菅首相は、12日に「1号機の炉心溶融が進んでいる可能性がある」と発表した保安院の中村幸一郎審議官を即座にクビにした?

 福島第一原発の放射能漏れ事故については、本ブログでも「福島原発、危機は回避できるか」(参照)http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/jijimondai/fukusima.html以降、マスコミの情報をもとに、その行方を自分なりに考え、意見も述べてきました。その際、識者の意見の中で最も的確な判断を示していたのが、大前研一氏で、私サイトでも紹介しましたが、アルファーブロガーといわれる方達も、それを紹介したとのことで、そのサイトは短期間に60万以上のアクセスがあったそうです。

 その大前氏が、
大前研一の「産業突然死」時代の人生論「国民より米国を優先する政府・保安院の欺瞞」で大変なことを言っています。

 私も、事故発生後の政府や保安員の説明では、メルトダウンが起こるような深刻な事故では全くないらしいので、外部電源さえ回復すれば冷却装置も使えるようになって、落ち着くのではないかと思っていました。また、枝野官房長官なども実に落ち着いた説明ぶりで、余裕しゃくしゃくといった感じだったので、まさか、「不安の前の”和気あいあい”なんかじゃないでしょうね」と訝ったほどでした。

 ところがあにはからんや、実態は、アメリカ始め諸外国が日本脱出を決めるほどの深刻さだったようで、1号機は、12日明方6時頃に全燃料がメルトダウンしていたといいます。幸い、最悪の事態は避け得たようですが、この間の情報の出し方について、大前氏は次のような疑問を呈しています。

 「政府と保安院は事故発生から2カ月間、「炉心溶融はしていない」という態度で一貫していた。だから保安院の中村幸一郎審議官が3月12日に「1号機の炉心溶融が進んでいる可能性がある」と発表したとき(つまり技術系の彼はテルルのことを知っていた可能性が高い)、菅直人首相は即座に彼をクビにした(代わりにそのポストに就いたのが前出の西山氏である)。

 正しいことを述べた人を“更迭”し、政府の意をくんで「大本営発表」してくれる人を起用する。これは、はっきりいって異常なことだ。生命にかかわるかもしれない重要な情報を国民よりも米国に先に伝えるのは、さらに異常な事態である。原発事故をめぐる政府の対応には様々な批判があるが、この問題はとりわけ強く批判されなくてはならない。私たちは断固とした怒りの声を上げるべきではないか。」

 殊に、この記事の中の、菅首相の振る舞いについてですが、ぜひ、真相を明らかにしてもらいたいものですね。(参照)「国民より米国を優先する政府・保安院の欺瞞」http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110614/273955/?ST=business&P=1

2011年6月17日 (金)

嗚呼!これが日本の政治家、いや首相の姿なのか?

なぜ、この時期に菅首相を下ろさなければならないのかわからない、という人が私の周りにもけっこういます。まあ、ドーナツ現象というやつで、近くにいる人からは蛇蝎のように嫌われるが、周辺の離れたところにいるひとにはやけに人気がある、というやつですね。

 で、菅首相についてですが、私もマスコミを通じてしか氏のことは判らないから、首相になった時は、ブログに「菅首相の正体不明」という記事を書いて、その思想的な危うさについて、私なりの意見を述べました。(参照)http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-00a6.html

 というのも、氏は首相就任時の演説の中で二人の学者、永井陽之助氏と松下圭一氏に言及したからです。私はそれを聞いてびっくりしたわけですが、というのも、前者は、私の大学時代、所属していた研究会で、氏の著作「平和の代償」をテキストとして学んだことことがあり、後者は私のゼミの先生でしたので、あらためて、両者の著作を読み返しながら、私なりに「菅首相の思想」の危うさを述べたのです。

 ところで、人は”どういう言葉遣いをするか”で、その人が判ります。鳩山首相などは、野党時代から、その「ユーモアのかけらもない薄っぺらな言動」が気になり、期待が持てませんでしたが、実際首相になってみると、”案の上”といったところで、首相にさえならなければ、ルーピーなどと言う不名誉な称号をアメリカから贈られることもなかったろうに、と思われたことでした。

 で、菅首相ですが、「イラ菅」という通称は、何ともいただけないなあ、と思っていましたが、首相になってから後の言葉遣いには、全く首をかしげざるを得ませんでした。とりわけ「最小不幸社会の実現」という言葉には驚ろかされました。なんと、この言葉を国連演説の中でも使った(これで世界にその知性の程度が知れたのでは?)。

 おそらくこの言葉は、松下圭一氏の「シビルミニマム」からの連想で、シビルミニマムはまあ市民生活上の物的最低条件整備のことですからいいのですが、これを不幸を最小にする条件整備という意味で「最小不幸社会の実現」と言ったのだと思いますが、人の「幸・不幸」は計れないし、余計なお世話!といった感じだし、政治的スローガンとしては陰鬱だし・・・。

 しかし、それでも首相として権力を握れば、「権力」で仕事ができるわけで、そういうこともあまり問題にならずにやってこれたのでしょう。ところが、3.11以降は、非常事態の連続の中で、次第にその実力の程度や人格のレベルが表に出てきて、冒頭のドーナツ現象が急激に露わになったのだと思います。

 まあ、伝えられる話を聞けば、氏がいかに自己中心的で感情激発型の人間であるか判ります。原子炉が水素爆発を起こした直後、東電が現場放棄して逃げるといったのを、首相が怒鳴りあげて現場に帰した旨の話が政府から発表されました。

 しかし、これは、私の常識に照らせば、作業員は死ぬ危険にさらされていたわけで、現場監督は全員を現場に止められないと考えたに違いない。だが、それは決して職場放棄を意味するものではなかったはず。それを、政府が鬼の首でも取ったかのように職場放棄とマスコミに宣伝し、自分の手柄にしたのですから、ひどすぎます。

 その後も、繰り返し同じようなことが起こったようです。思い出したくもないから繰り返しませんが、昨日のある集会での、菅首相の次の発言を聞いて、さすがに私もげんなりしてしまいました。

 「菅の顔だけは見たくないという人も結構いるんですよ、国会の中には。本当に見たくないのか、本当に見たくないのか、本当に見たくないのか。それなら早いこと、この法案を通した方がいいよと」

 この法案とは、再生可能エネルギーを電力会社に全量買い取りさせるための法案のことですが、彼は、いつ、再生可能エネルギー政策を主導する立場に代わったんですかね。今までのCO2削減25%を原発で達成しようとした民主党の政策に、彼は責任が全くないんですかね。

 この変わり身の早さ、なによりも、この”自虐ネタ”らしき言葉の裏に見える精神の異様さ。この法案は一体何時通すのか知りませんが、どう考えても災害復興関係の法案の方が先でしょう。とすると、これらの震災関連法案が通り、その後、再生エネルギー関連法案が通るまで、見たくもない俺の顔を見続けろ!といっていることになります。

 また、見方によっては、原発政策を推進してきた罪は、総て菅おろしを策動している人たちの罪に転嫁し、自分は、いち早く、再生可能エネルギー政策推進のヒーローとなりおおせ、その先頭に立つと自己アピールすることで、自己の権力の延命を図っているようにも見えます。

 その作戦が、ずに当たった、と言わんばかりの「会心の笑い」。嗚呼!これが日本の政治家、いや首相の姿なのでしょうか。

追伸 

 ついでですが、誰も言わないようなので一言申し添えておきます。

 「菅直人首相と中国の温家宝首相、韓国の李明博大統領は21日午後、東日本大震災に伴う福島第1原発事故の避難所となっている福島市の「あづま総合運動公園」の体育館を訪問し、避難住民を激励した。震災後、外国首脳が福島県を訪れるのは初めて。これに先立ち、温首相は宮城県名取市で記者団に対し、安全確保を条件として日本の農産品輸入規制を緩和する方針を表明した。

中韓首脳は、未曽有の災害に直面した日本を支援する姿勢をアピール。菅首相は両首脳の福島入りで現地の「安全」を訴え、原発事故による国際的な風評被害に歯止めをかけたい考えだ。夜には都内の迎賓館で菅首相主催の夕食会が開かれ、日中韓首脳会談の公式日程が始まった。」

 これは、私も大変「有り難いことだ」と思いました。でも、次のパフォーマンスはいただけません。

 「3首脳は午後3時すぎ、あづま総合運動公園の体育館前で福島県産のキュウリ、ミニトマト、サクランボなどを試食。菅首相は2人に「おいしいですね。食べてもらって本当にありがとうございます」と語りかけた。」

 これは、菅首相個人のパフォーマンスに外国首脳を付き合わせた、ということですが、このパフォーマンスは一種の”毒見”ですからね。日本に対する中国や韓国の友情を示すという意味では前段部分で十分なはずで、そこまで付き合ってもらうためには、事前交渉で担当者はかなりの無理をしたはずです。仮に”ただ”だったとしても、その非常識さにはあきれるというより、日本の恥ですね。

2011年6月16日 (木)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか4――満州問題と十年の臥薪嘗胆

 前回の末尾に私は次のように書きました。

 「それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。」

 なぜ、私がそのように考えるか。これを説明するためには、まず、「ワシントン体制」というものについて理解してもらわなければなりません。というのは、上記のような陸軍の、異常なまでの「満州問題の抜本解決」へのこだわりや、政党政治に対する敵意、クーデターを起こしてまで「国家改造」しようとしたその理由は、このワシントン体制――ワシントン会議で成立した諸条約(海軍の主力艦を制限する五カ国条約、中国に関する九カ国条約、太平洋問題に関する四カ国条約、日英同盟廃棄)によってもたらされたもの――に対する次のような不満に根ざしていたからです。

一、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約は、米英の圧力により屈辱的に調印されたものである。日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが中国の排日侮日態度を強めることになった。

二、二十一箇条要求以来の日華両国間の懸案であった山東問題について、日本が大戦中に獲得した山東のドイツ権益はほとんど大部分が中国に返還された。また、南満州・東部内蒙古における借款引き受けの優先権と二十一箇条要求中の第五号希望条項も放棄された。

三、九カ国条約によって、アメリカから中国の領土保全・門戸開放、機会均等を押しつけられた結果、日本の大陸政策には大きな拘束が加えられることになった。そのため、中国における日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定も破棄された。

 そして、これらは満州事変後、次のように総括されるようになりました。

 「(ワシントン会議では)日本の特殊権益を認めた石井ランシング協定が・・・支那に対するルート四原則で破棄された。支那に対する九カ国条約、日米英仏の四カ国条約等によって日本は手枷足枷をはめられ、山東は還付する結果になり、日英同盟は破棄された。叉、同会議に於ける海軍軍縮協定では米英の間に五・五・三の屈辱的比率が結ばれる等、ワシントン会議は即ち、日本の失権会議の実質を以て終わったのである。」(『森恪』p451)

 そして、このワシントン会議における外交交渉で主導的な役割を果たした幣原外交は、マスコミによって、次のような批判を受けることになりました。

 「思えば拙劣な外交(幣原外交を指す)であった。口に平和を唱えるいわゆる協調外交が、英米の現状維持を保障する以外のなにものでもなかった。その間かえって、英米の軽蔑を招き、さらに支那、満州の排日を激化したのみではなかったか。世界協調、人類平和と、白痴のように、うわごと三昧にふけっているうちに、英米はその世界平和的攻撃のプランを、ちゃくちゃくと発展させていたのである。さきにワシントン会議においては、日本をして満蒙特権を放棄せしめ、ロンドン条約によって日本の武力を無血にて削減し、不戦条約によって世界現状維持を強制した。他方悪辣なる積極攻勢に出でつつ、支那、満州の欧米化につとめた。(『昭和風雲録』満田巌)

 だが、果たしてこれらの批判は、客観的事実に基づく批判だったのでしょうか。まず、米・英・日の主力艦の比率を5・5・3と定めた海軍軍縮条約についてですが、この交渉に全権として当たった加藤友三郎は、この交渉の結果について次のように説明しています。

 「先般の欧州大戦後、主として政治家方面の国防論は世界を通じて同様なるがごとし。即ち国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし・・・故に、一方にては軍備を整うると同時に民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。

 戦後、ロシアとドイツとがかように成りし結果、日本と戦争のなるProbabilityのあるは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦役のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず。しかしてその米国が敵であるとすればこの途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟のなきかぎり戦争はできず。英仏はありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として日米戦争は不可能と。いうことになる。

 この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのどとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。重ねていえば、武備は資力を伴うにあらざればいかんともするあたわず。できうるだけ日米戦争は避け、相当の時機を待つより外に仕方なし。かく考うれば、国防は国力に相応する武力を整うると同時に、国力を涵養し、一方、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 即ち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に到着す。余は米国の提案にたいして主義として賛成せざるべがらずと考えたり。仮に軍備制限問題なく、これまでどおりの製艦競争を継続するときいかん。英国はとうてい大海軍を拡張するの力なかるべきも、相当のことは必ずなすべし。米国の世論は軍備拡張に反対するも、一度その必要を感ずる場合には、なにほどでも遂行する実力あり。

 翻ってわが日本を考うるに、わが八八艦隊は大正十六年度に完成す。しかして米国の三年計画は大正十三年に完成す。英国は別問題とすべし。その大正十三年より十六年に至る三年間に、日本は新艦建造を継続するにもかかわらず、米国がなんら新計画をなさずして、日本の新艦建造を傍観するものにあらざるべく、必ずさらに新計画を立つることなるべし。また日本としては米国がこれをなすものと覚悟せざるべからず。

 もし然りとせば、日本の八八艦隊計画すらこれが遂行に財政上の大困難を感ずる際にあたり、米国がいかに拡張するもこれをいかんともすることあたわず。大正十六年以降において、八八艦隊の補充計画を実行することすらも困難なるべしと思考す。かくなりては、日米間の海軍間の海軍力の差は、ますます増加するも接近することはなし。日本は非常なる脅迫を受くることとなるべし。米国提案のいわゆる10・10・6は不満足なるも But ifこの軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策とすべからずや。」(『太平洋戦争への道』「1満州事変前夜」p28)

 この条約によって、「日本は太平洋における防備制限と引き替えに対英米6割の海軍力を受諾し、こうして英・米・日三国は、それぞれ、北海からインド洋に至る海面、西半球海面及び極東海面での海軍力の優越を相互に承認しあい、建艦競争に伴う緊張が緩和されたばかりでなく,軍事費の節減も実現した」のです。海軍部内でもこのことが了解され、また、「日本の世論は一般にこの条約を是認し、英米両国でも同様であった」といいます。(前掲書p31)

 また、「日本がこの条約で劣勢比率を押しつけられたことが、中国の排日侮日態度を強めることになった」という第一の批判については、むしろ、「対華二十一箇条要求に象徴される日本の威圧政策と中国の内部事情に由来するところが多」かったのです。このことは、先のワシントン体制批判の第二の論点にも関わりますが、日本の対華二十一箇条要求は、当時から「痛恨の外交的失策」とされていたのであって、このために生じた日中関係の亀裂を修復したものこそ、幣原の山東問題の処理や二十一箇条要求中の第五号希望条項の放棄だったのです。

 次に、第三の批判についてですが、これは、九カ国条約によって、日本は満蒙特権まで放棄させられた。そのため、日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった、というものです。しかし、日本の満蒙における条約上の権益が失われたわけではありません(中国の主権尊重及び領土保全等を定めたルート四原則は、現に有効な条約及び協定に容喙するものではないこと、原則の適用地域は中国本部にだけ限ることが言明された)。また、「日本の大陸政策に大きな拘束が加えられることになった」といっても、中国の主権を無視した勝手な行動がとれるわけでもありません。

 このあたりの日本の言い分を最も直截に語っているのが森恪で、彼は、満州事変勃発後昭和7年6月17日に行った演説の中で次のように言っています。

 「欧羅巴戦争を一期として、日本は、世界的に、所謂箍(たが)を嵌(は)められたも同様な状態になっている。・・・華盛頓条約は・・・寧ろ之を破壊しなければならぬ・・・日本に箍を嵌めたあの条約が存在する限り、日本国民は、世界という大きい舞台に立って活動することができない。あの条約が国民を、国内に跼蹐させて居る限り、日本は伸びない。日本の国状は、安定されないのである。・・・

 日本国民の将来生きていく重点はどこにあるか。それは、この、外に内に嵌められている箍を叩き破るということが重点でなければならぬ。これが成功せざる限り、私は、日本の国情は安定せず、国運も向上せず、ひいては、国民個々の生活も安定し得ざるものと確信します。・・・その箍を叩き破る・・・まず不戦条約、九カ国条約、これを精神的に叩き破れ、国際連盟などは日本のために何の利益があるか。」(『森恪』p20~23)

 これはどういうことを言っているのかというと(この文章の前段に書いてあることですが)、”文明人が国をなして生活していくためには、人間の力を資源に働かせて富や国力に変化させなければならない。問題はこの人間の力だが、日本人は精神的、肉体的、歴史的に養成された文化の潜在力を持っている。しかし、日本は不戦条約や九カ国条約によって箍を嵌められ、一室に閉じ込められたような状態になっている。だからこの箍を叩き破って、東洋において日本人が自由に活動できるようにする。これは日本人の生存条の権利である。”という意味です。(上掲書)

 この論理は、近衛文麿の「持たざる国」の論理と似ていますね。つまり、ここで彼が言っていることは、日本は資源を持たざる国であるが、資源を富や国力に変化させるだけの活力・文化的潜在力を持っている国である。一方、支那人はこの力を持っていない。そこで日本人が支那(特に満州)の資源を活用できるようになることで、日本人の活気も横溢するし、日本の人口問題も解決する。また、満蒙の治安を日本が守ることで支那の安全も確保されるし、ひいてはアジア全体の生活安定にも寄与することができる、というものです。

 ではなぜ、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなってしまったのか、というと、森格等は、それは、日本が世界の現状維持(植民地分割の)を狙いとするワシントン体制を押しつけられ、中国や満州における資源の獲得に箍を嵌められたためである(その箍が5・5・3の海軍軍縮条約であり、中国の領土保全・門戸開放・機会均等を定めた九カ国条約だという)。従って、日本がその活力をもって大陸に進出するためには、この箍をたたき壊さなければならない、というのです。

 実は、このように九カ国条約に対する敵意が公然と表明されるようになったのは、あくまで満州事変以降のことであって、それまでは一部右翼団体を除いて九カ国条約に反対するものはいなかったのです。実際、日本政府は満州事変以降も九カ国条約を守る旨対応していましたし、これを正面切って否定する旨の声明を出したのは、日中戦争二年目の1938年(昭和13年)11月18日付けの、有田八郎外相(近衛内閣)の対米回答が最初でした。

 こう見てくると、もともと、この森恪の論理には無理があったわけで、従って、この論理が通らなくなったその原因を、海軍軍縮条約の締結、不戦条約、九カ国条約などに求めるのは筋違いという事になります。つまり、支那や満州において排日運動が高まり、日本人が支那(特に満州)の資源を活用できなくなった、その主たる原因は、ワシントン体制にあったのではなく、その後の日本の大陸政策の失敗にあったのです。

 いうまでもなく、それは、田中内閣時代に森恪主導で推し進められた対支積極政策(三度に渡る山東出兵、その間の東方会議、そして済南事件、さらに張作霖爆殺事件及びその隠蔽工作)の失敗がもたらしたものなのです。これが、その後の日中間の外交的基盤を崩壊させたのです。こんな情況の中で、日中間の外交関係の修復を引き受けたのが、第二次若槻内閣、浜口内閣において外務大臣を引き受けた幣原喜重郎でした。

 この幣原の外交的努力を、軍を政治に巻き込むことで徹底的に妨害したのが、これまた森恪で、統帥権干犯問題がそうでした。また、幣原がこの問題に忙殺される間、中国との関係修復交渉を担当したのが佐分利公使でしたが、彼は、箱根の富士屋ホテルで不審死を遂げました。警察発表では自殺とされましたが、私は、満蒙問題が日中間の外交交渉によって解決されることを嫌った者の犯行ではないかと思っています。今、その関係資料をあたっているところですが・・・。

 ところで、以上のような「支那や満州において排日運動が高まった」その本当の原因について、『森恪』伝を書いた山浦貫一自身は内心自覚していたようで、この伝記には次のような興味深い記述が見えます。

 「ここに、運命的な歴史の不思議を感ずるのは、この第二次出兵によって起こったのが済南事件であり、済南事件は田中内閣の外交を決定的に失敗に導いたところの重大なモメントをなすものであることだ。それは・・・森の対支政策はもともと国共を分離せしめるにある。ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決するという計画であった。

 森は前年、その方針で蒋介石とも交歓したのであるが,その森が、蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ち、従来、国民革命を認めない立場をとり北支は北京を中心として独立した政府を樹立して、その支配におくべしとした人々が,事なかれ主義の一時的方便から出兵に反対し、革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象である。

 而して第二次出兵は,田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路にもなったのである。」(『森恪』p618~619)

 この記述によると、森恪の対支政策の本当の狙いは、

 「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決する」ことだった。しかし、「蒋介石の再北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立」ったため、(やむなく)山東出兵したのである。(この真偽については次回考察します=筆者)

 ところが、この時「革命を武力によって膺懲しようとしたものが却って森の出兵論を支持するに至った逆現象」が生じたために、(その膺懲論者達によって)済南事件が引き起こされてしまった。その結果、その後の「日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放のために協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった」と言うのです。

 語るに落ちる、とはこのことですが、森恪を誰よりもよく知る山浦自身は、日支関係がこうした破滅的状態に陥ったその最大の責任は、ワシントン体制にあったのではなく、第二次山東出兵に伴って発生した済南事件、つまり、それを引き起こした軍の膺懲論者にあったと見ていたのです。もしそれが本当なら、森恪は、自らの失敗を巧妙に隠し、それをワシントン体制及びそれを担った幣原に責任転嫁した、ことになります。

 この森恪の巧妙な隠蔽工作と責任転嫁が許され、済南事件以降、破局に瀕した日中の外交関係の修復をあえて引き受け、森の悪辣な妨害を受けつつも、何とかして局面打開を図ろうと努めた幣原喜重郎が、満州事変を起こした元凶と見なされる・・・そんな評価が、今日でも、あたかも通説の如く通用しているのですから驚くほかありません。

 「(幣原外相は)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には,春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖事件を惹起したのだと酷評したものすらあった。」(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人)

7/17 2:30最終校正

2011年6月 8日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――軍縮が生んだ青年将校の国家改造運動

 昭和の悲劇を理解するためのキーパーソンとして、近衛文麿や森恪そして幣原喜重郎を対比的に論じてきました。

 近衛文麿の場合は、その「持てる国、持たざる国」論が、国内及び国際社会の秩序形成における「法治主義」を軽視したため、社会の全体主義化や軍の暴走を生むことになったこと。森恪は、田中積極外交以降、その政治手法として軍を政治に引き込んだため、ついには政治が軍を制御することが全くできなくなったこと。幣原喜重郎は、あくまで、ワシントン体制下の国際協調主義によって中国問題を処理しようとしたが、田中積極外交によって中国との外交的基盤が破壊され、その後、その修復を図ったが、満州事変で止めを刺され退場を余儀なくされたこと、など。

 これらの政治家のうち、「昭和の悲劇」を招いたものとして、私が最も責任が重いと思っている人物は、いうまでもなく森恪です。それは、もし、昭和の初めに、この男さえいなければ、昭和の悲劇は避けられたのではないか、と思うほどです。ところが、今日の論壇においては、このことを指摘するものはほとんどなく、その代わり、幣原外交の無能――日本国民のナショナリズムに対する無理解、国際共産主義運動に対する無警戒、中国に対する内政不干渉主義など――を根拠に、その理想主義外交を批判する論調が大半です。

 また、近衛については、その軍や世論への迎合体質、公家的あるいは長袖者流と評される権力依存体質、最後まで自分の意思を貫徹できず、途中で投げ出す無責任体質の外、日支事変勃発時の支那膺懲声明、トラウトマン和平工作失敗時の”蒋介石を対手とせず”声明、さらに、三国同盟締結、南部仏印進駐などの数々の外交的失敗が指摘されます。確かにそうした批判は免れないわけですが、しかし、彼自身は、軍の政治介入や独断的軍事行動を抑えようとしたことは間違いなく、また、政党政治や議会政治を維持しようとしたことも事実なのです。

 ただ、問題は、先ほど述べた通り、彼の「持てる国、持たざる国」論が、いわゆる「法治主義」を軽視していたために、日本の伝統的倫理観である「情況倫理」に陥ってしまったこと。そのために、満蒙権益の擁護を大義名分とする満州事変を容認することになりました。といっても、こうした満州事変を契機とする意識の変化は、近衛文麿だけに起こったことではなく、日本人全体に起こったことなのです。つまり、こうした日本人の意識の変化をもたらしたものこそ、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論に象徴される日本人の「情況倫理」的意識構造だったのです。

*情況倫理とは、「人間は一定の情況に対して,同じように行動するもので、従って、人の行動の責任を問う場合には、そうした行動を生み出した情況を問題とすべきであり、その責任追及は、その状況を生み出したものに対してなさるべきである」という考え方のこと。

 だが、その裏側で、大正から昭和にかけた時代の流れを注意深く読み、これをコントロールすることで、自分たちの目的を達成しようとしていたグループがありました。それが、後に説明する二葉会や一夕会に終結したエリート青年将校達でした。

 そこで問題は、彼らの目的は一体何だったかということですが、結論から先に言えば、それは、満蒙問題に国民の関心を引き寄せ、それを「彼ら独自の方法」で解決することによって国民の支持を獲得し、政治のイニシアティブを握り、それによって日本の政党政治を打破して、一国一党の国家社会主義体制を実現する、ということでした。満州事変は、このようなプロセスで国家改造を進めるための手段あるいは前線基地としての意味を持っていたのです。

 では、このように軍が政治に関与することになった、その原因はどこにあったかということですが、これについては、昭和7年11月頃、陸軍省軍事課長だった永田鉄山大佐が次のように語っています。

 「その主なるものは、(一)軍縮問題に伴い軍に対する世間の人気の悪くなり兎もすれば軽ぜらるること、(二)ロンドン会議の際に於ける所謂統帥権の問題、(三)減俸問題、(四)陸軍に於ける人事行政の不手際なりとす。」(『木戸日記(上巻)』p147)

 この四つの原因について皆さんはどう思われますか。これを少し敷衍すると次のようになります。

(一)は、第一次大戦後の世界における軍縮の流れや、大正デモクラシー下の反戦平和思想の流行によって、軍人に対する世間の評価が明治期に比べて著しく低下し、何かにつけて軽んじられる風潮が生じた事に対して、軍人が強烈な不満を抱くようになったということ。

(二)は、統帥権干犯問題を政治問題化することによって、作戦・用兵のみならず、軍の兵備編成権も軍の統帥権に含まれるとし、かつ、軍に対する指揮命令は天皇のみとすることによって、軍に対する内閣の関与を排除することに成功したこと。これによって、逆に、軍が政治を左右する権能――石原莞爾に言わせれば「霊妙なる統帥権」――を持つに至ったこと。

(三)は、第一次大戦後の戦後不況や、大正12年の関東大震災復興費用を捻出するための緊縮財政なもとで、軍人の給与引き下げが行われたこと。これは、今回の東日本大震災に伴い国家公務員の給与を10%減額するという措置がとられたことと同様の措置ですが、当時は、大正後半期に顕著となったインフレも重なって、将校の給与水準は著しく低下したといいます。

(四)は、日清戦争後から大正初年まで(陸士・陸幼合わせて)平均すれば毎年800人もの将校生徒が採用され続けたため、大正末から昭和にかけて、若い陸士出の将校を大量に軍内に抱え込むことになったこと。しかし、軍隊の昇進ポストは上に行くほど数が極端に少なくなるため、昇進ルートの閉塞や昇進の停滞が生じたということ。

 以上永田鉄山の指摘した、軍が政治に関与するに至った四つの原因のうち(一)(三)(四)は、あくまで、国内における軍人の社会的地位や処遇のあり方に関する問題であって、満州問題などの外交問題に直接結びつくものではなかったことが分かります。しかし、軍は、これらの問題は政党政治によってもたらされたものと考え、その結果、軍は、政党政治に対する敵対意識、さらには英米の自由主義・資本主義に対する反発を強めることになったのです。

 その最初の表れが、ワシントン会議に対する軍の反発でした。直接的には、そこで合意された軍縮条約に基づいて、いわゆる山梨軍縮や宇垣軍縮が行われ、大量の兵員等の削減が行われたことによります。では、なぜ、ワシントン会議において軍縮が話し合われたかというと、第一次世界大戦による人的・物的被害が余りに膨大だったからで、そのため、海軍力の軍縮が主要国間で協議され、また、陸軍でも、ロシア革命の影響もあって、極東における軍事的脅威が薄らいだと認識されたのです。

(山梨軍縮)
 「1922年7月「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理とその代償として新規予算約9000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政の基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。

 さらに、1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し新式装備の導入は困難となった。」

(宇垣軍縮)
 さらに、上記二度にわたる山梨軍縮ではまだ不足であるとして、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。」

 「具体的には21個師団のうち、第13師団(高田)、第15師団(豊橋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)、連隊区司令部16ヶ所、陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校を廃止した。この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。」

 特に、宇垣軍縮による四師団の廃止は、「地域にとって少なからず衝撃を与え国民に軍部蔑視の風潮を生み出し、陸軍内での士気の低下が蔓延した。だが、これにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された(軍人の失業対策としての意味合いもあった=筆者)。」(以上WIKI参照)

 以上述べたような軍縮の影響や、大正12年に発生した関東大震災の財政支出に加えて、第一次世界大戦後のインフレの影響もあり、さらに(四)に紹介したような「陸軍に於ける人事行政の不手際」もあって、軍人の処遇問題は一層深刻さを増していきました。

 こうした問題を解決するために、軍は、ポストの新設や官職充当階級の上昇等の措置を図りました。しかし、そうした措置は、財政上の観点から冗員・冗費を節減すべきとの批判を浴びるようになり、その結果、(一)の軍縮を求める政治の圧力も加わって、師団の削減や冗員の整理や馘首が強行されることになったのです。

 また、一般に陸軍将校は、文官や一般の俸給生活者に比べて、退職年齢が早く、そのため陸軍将校の経済生活には不安定さがつきまとっていました。しかも、文官の場合は天下りや再就職の道が開けていたのに対し、将校は再就職が難しく,昇進競争から取り残されたら、四十代半ばで退職し、恩給生活へいることを覚悟しなければなりませんでした。

 また、退職した在郷将校は恩給に頼っていたために、第一次大戦後の物価上昇の直撃を受けることになりました。軍人は終身官とはいいながら「その実、力士に次ぎて最も寿命の短い職業」で、「陸海軍で採用した将校生徒中『少なくもその七八割は四十歳より五十歳までの間に於て、老朽若くは無能の故を以て予備役に押し込まるゝのである。中には三十代でお暇の出るのもあ』って、彼らは『働き盛り稼ぎ盛り』の年齢で世間に放り出されるわけである」と慨嘆されました。

(現役を退いたある歩兵大尉の述懐)
 「私共は、軍国主義王政時代の教育を受けたものでありますから、永年社会とは没交渉にて、胸中に植え付けられたものは、軍人精神と『右向け右』『前へ』の軍隊的挙動のみで、世間のことは、何にも知らぬ。社交は下手である。位階勲等の恩典に対し、車夫、馬丁となることも出来ぬ。世の落伍者であります。軍人の古手が世に用いられず、体操先生にて終わるも、亦已むなき哉で、過去軍隊教育の因果応報、これも前世の約束かなと、禅味を気取っているの外ありませぬ。」(『陸軍将校の教育社会史』p330)

 このような情況の中で、軍人に対する世間の目は次第に冷たくなり、「電車の中で見知らぬ乗客から、なんのかんのと文句を言われ」るようになりました。世間では、こうした軍人を揶揄して、「貧乏少尉のやりくり中尉、やっとこ大尉で百十四円、嫁ももらえん、ああかわいそ」というざれ歌までできる始末。こうした軍人軽視の風潮の中で、いわゆる青年将校と呼ばれた軍人たちの間に、”十年の臥薪嘗胆”という合言葉が生まれました。

 「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。いまはがまんのときである。しかし必ず自分たちの時代が来ると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。」(『昭和の軍閥』高橋正衛P98)

 ところで、こうした「昭和の軍閥」を構成したのは、陸士十六期以降の軍人たちで、それ以前の軍人達が日露戦争の実戦に参加したという意味で戦中派であるとすれば、彼らは戦後派でした。その戦後派の一期に当たる陸士第十六期の代表者が、ドイツのバーデンバーデン会合(大正10年)で有名な、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次でした。彼らはここで、「派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢」につき密約したとされます。

 この密約には、陸軍の派閥(=藩閥)人事に対する不満とともに、第一次世界大戦後の総力戦態勢に備えるための軍政・内政面の改革への決意が込められていました。その背景としては、彼ら以前の陸軍首脳は、そのほとんどが日露戦争において殊勲者となり、軍人の最高栄誉とされた個人感状や金鵄勲章をうけるなど出世・栄達を重ねていたのに対し、彼らはそうした機会を奪われていた。それだけに、総力戦時代に賭ける彼らの復活の思いが強かった、というわけです。

 こうして、これ以降、主に十六期以降の青年将校(河本、板垣、永田、小畑、岡村、東条等)がしばしば会合して横断的に結合するようになりました。昭和2年には二葉会(十五期から十八期までの佐官級約18名で構成)が生まれ、昭和3年になると、軍事課課員鈴木貞一の呼びかけで、二十期から二十五期までの第二集団(石原、村上、鈴木、根本、土橋、武藤等、後「一夕会」と称される)が生まれました。その後、この二つの組織は結合して昭和軍閥の中枢をなすようになります。  

 ところで、この一夕会の第一回会合(昭和3年11月3日)では、(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること。(2)満蒙問題の解決に重点をおく。(3)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す、という三つの事項が決議されました。この決議は、二葉会にも相通ずるものとされますが、決して、非合法の手段に訴えようとするものではなく、況んやクーデターの如き極端な過激行動は強く排斥する、との敷衍もなされていました。(『昭和の軍閥』p100)

 ところが、昭和5年秋に結成された「桜会」(橋本欣五郎、樋口季一郎、根本博、土橋勇逸、長勇、等)の綱領には、目的として、本会は国家改造を以て終極の目的とし之がために要すれば武力を行使するも辞せず。会員は、現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。そしてその準備行動として、(1)一切の手段を尽くして国軍将校に国家改造に必要な意義を注入(2)会員の拡大強化(3)国家改造のための具体案の作為、等と記されていました。(上掲書p108)

 この桜会によって、昭和6年に三月事件、十月事件をというクーデター事件が引き起こされるのです。この三月事件は、省部・統帥部の首脳(小磯軍務局長、永田軍務課長、岡村補任課長、重藤支那課長、金谷参謀長、建川参謀次長、第一部長畑俊六等)の外に、大川周明の動員する右翼等も加わるという大規模なものでした。しかし、計画自体が極めて杜撰であり、首相に担ぐ予定だった宇垣陸軍大臣が、途中で変身した?ために未遂に終わりました。

 十月事件は、9月18日の満州事変に呼応して、建川参謀本部第一部長と橋本欣五郎を中心とする桜会一派が、在京の将校学生や民間右翼と連携して起こそうとしたクーデター事件です。橋本手記には「満州に事変を惹起したるのち、政府において追随せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論ず」と記されていました。しかし、これも関係将校14名が、直前に憲兵隊に検挙され未遂に終わりました。

 こう見てくると、三月事件も十月事件も、先に紹介した二葉会、一夕会に属する青年将校たちだけでなく、省部、統帥部の首脳部も関与したクーデター事件であったことが分かります。そのことは、その後、これらの事件が隠蔽されただけでなく、関係者の処分も極めて軽微だったことで明らかです。しかし、クーデター計画と言うにはあまりに杜撰で、途中で反対に転じたものも多く、当時の青年将校や軍首脳の「満州問題の抜本解決」や「国家改造」にかける思いの強さを示すだけのもの、と見ることもできます。

 それにしても、問題は、なぜそこまで、陸軍が「満州問題の抜本解決」にこだわり、政党政治に敵意を抱き「国家改造」しようとしたかということです。一般的には、満蒙は日本の国防の第一線であるとか、生命線であるとかが、その理由としてあげられます。――私も、それは必ずしも間違いではないと思いますが――しかし、その胸中を支配していた真の動機は、あるいは、先に紹介したような、彼らの「十年の臥薪嘗胆」ではなかったか、私はそう思っています。

(なぜ、そのように考えるかについての、以下の記述は説明が不十分でしたので削除し、次回そのことについて詳述したいと思います。6/10 4:00)

2011年6月 3日 (金)

「金権」「ルーピー」「ペテン師」だった民主党のリーダー

 自民党から民主党に政権が移る時の私の考えは「あれよあれよの政権交代劇――「小泉がつき、麻生がそこねし天下もち、ちぎりまるめて、食うは鳩山(小沢か?)」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/jijimondai/minsyutou.html#2009/9/3
で論じた通りです。次にその冒頭の三パラグラフを示します。

 「まさに地滑り的な民主党の勝利で歴史的な政権交代となりました。55年体制以降初めてといわれますが、二大政党制のもとでの政権交代劇という意味では戦後初めてといってよいと思います。はっきり言って、私は、小沢一郎氏の金権体質は看過されべきでないと思っていました。また、鳩山由紀夫氏のユーモアのかけらもない生真面目な弁論スタイルも好きになれませんでした。また、民主党の、郵政民営化を始めとする小泉構造改革批判、特に格差問題をその帰結と断じる党利党略、子ども手当、高速道路無料化などのバラマキ政策もばかげていると思いました。

 しかし、注意深く見ると、民主党の政策の根幹は、実は小泉構造改革の果実を盗み取り、整形を加えた上で、あたかもそれが民主党オリジナルの政策であるかのように粧ったものではないか、そんな風にも思われました。というのは、その中心的な政策課題は、官僚の天下り廃止や独立行政法人改革を始めとする「行政の無駄をなくす」こと。霞ヶ関官僚支配の政治体制を政治家主導の政治体制に切り替えること。政府の権限と財源を地方に移管し、地方分権を「地方主権」を呼べるレベルにまで高めること、等どこかで聞いたことがあるものばかりだからです。

 つまり、これらはまぎれもなく、小泉元首相が目指した政治・経済の構造改革、行政・特殊法人改革、地方分権改革を継承するものなのです。それどころか、「子ども手当」等バラマキ政策として批判される各種の給付政策や、高速道路無料化のために必要となる財源は、全て行政の無駄をなくす政策によって生み出されると極言されているのです。違うのは、鳩山氏が「新自由主義的な市場万能主義」に対する批判をしていること位ですが、これも、行き過ぎた市場原理主義に「大枠で公正なルールや安全性を確保する」というほどのことでしかないらしい。」

 以下、神保氏の本「民主党が約束する90の政策で日本はどう変わるか」を参考に、民主党に期待できるところと、危うきところについて私見を述べました。結果的には、民主党は、いわゆる「4k」といわれるばかげた「ばらまき政策」に固執しただけで、より根本的な次のような政策理念の転換には全く手がつけられずに終わりました。

 「民主党のマニフェストには、前回、教育行政制度改革についてみたように、自民党のマニフェストには見られない、重要な制度改革提言が、数多く掲げられている・・・。また、そうした制度改革の基本理念として、次のような、”バラマキ”という言葉から受ける印象とは無縁の、市民としての自立を求める力強いメッセージ――他力本願からの脱却、お上意識からの卒業、機会均等・フェアープレーの精神、未来への責任、公正な負担の要求、フリーライド(ただ乗り)の禁止など――が、繰り返し表明されています。」

 なぜこんなことになったか、つまりは、これらの政策理念が”偽札”だったということで、そのことは、この民主党を創り支えてきた三人のリーダーに冠せられた言葉が「金権」「ルーピー」「ペテン師」だったことで明らかだと思います。

 昨日来、菅内閣に対する「内閣不信任決議案」提出をめぐるごたごたが続いていますが、この間、とりわけ私の印象に残ったのは、この決議案に対する反対討論を行った民主党の山井和則氏の演説内容及びその態度でした。

 子供会じゃあるまいし、既に不信任決議案を国会に提出している自民党に対して、頭を壇上にこすりつけて、ひらぐものように懇願する姿を見ると、民主党議員は、国会が言論を弾丸とする戦場である事が判っていない!と罵声の一つも投げつけたくなりました。

反対討論 反対討論「山井和則」
http://www.youtube.com/watch?v=T6XdrO9iWe8&feature=related

 これに比べれば、何となく、そのイメージが水戸黄門の時代劇に出てくる”悪代官”風で、その物言いも時代がかっていて、支持する気になれなかった大島理森氏の「内閣不信任案」提出理由説明演説は、年季の入った堂々たるものでしたね。

内閣不信任決議案 提案 大島理森
http://www.youtube.com/watch?v=qebBLlSmJpc&feature=related

 いずれにしろ、この言論戦の天王山に、山井和則氏のようなアマチュアを送る民主党の気が知れませんが、もう一つ、この決議案採決の直前に取り交わされた、鳩山前首相と菅首相との間の「確認書」の内容にも驚きました。

 一、民主党を壊さないこと
 二、自民党政権に逆戻りさせないこと
 三、東日本大震災の復興並びに被災者の救済に責任を持つこと
 (1)復興基本法案の成立
 (2)11年度第2次補正予算の早期編成のめどをつけること

 ここで、”辞任”の文字がないことが鳩山氏と菅氏の間で水掛け論になっていることなど、ありそうなことで驚きませんが、この冒頭の一、二がいずれも、党利であり、”一度転がり込んだ権力は絶対手放さない”という”私利”の宣言であることは、民主党の思想を知る上で注目すべきだことだと思います。

 先ほど、民主党の政策理念は、「偽札」だった、ということを申しましたが、その本音の思想はこの「公私混同」の域を出ていなかった、ということだと思います。少なくとも、この三人の民主党結党以来のリーダーにおいて、この区別が付いていなかった事は明白です。

 今月号の『正論』に岸田秀氏が「原発と皇軍」という記事を書いています。その中に、日本軍が惨敗した第一の重要な原因は「日本軍が多くのばらばらな自閉的共同体の雑多な集まりであって、一つの確乎とした目標をめざし、全体を視野に収め、統括する統合された団体ではなかったことあった」という指摘がなされています。

 そもそも民主党のいう「政治主導」とは、日本の政治過程において「自閉的共同体の雑多な集まり」が「メンバーの安全と利益」のみを優先し、「共同体外の者がどうなろうと無関心」な政治から、「一つの確乎とした目標をめざし、全体を視野に収め、統括する統合機能をもつ政治」に転換することだったはずです。

 それが、この結果はどうですか。民主党自体がまさに「自閉的共同体の雑多な集まり」であって「メンバーの安全と利益」のみを優先し、「共同体外の者」(この場合は日本国民)がどうなろうと無関心」な政党であった。それどころか、各共同体のリーダーに「実力」と「人望」が欠けていた。

 こうした組織が早晩分裂を余儀なくされることは当然といわなければなりません。皮肉なことに、民主党のこうした末路が、鳩山前首相による菅首相に対する「ペテン師」攻撃で”華を添える”ことになったわけですが、改めて、”世間をごまかす事はできないものだ”と痛感されたことでした。

 参考までに、私論「菅内閣の正体不明」を紹介しておきます。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/jijimondai/kan.html

2011年6月 1日 (水)

人望の研究――菅首相の場合

 原子炉への海水注入をめぐるドタバタ騒ぎで、「いら菅」と評されてきた感情激発型人間菅首相の「人望のなさ」がいよいよ明らかとなり、早晩、辞任を余儀なくされることになるのではないか、と予測されます。

 山本七平の『人望の研究』には、この「人望」とは何か、ということが大変興味深く論じられていて、この人望を身につけるためには、まず、「克・伐・怨・欲」を抑え、「己に克ちて礼に復る」こと。つまり、他人を押しのけ、オレがオレがと自己主張し、それが叶わないと人を恨み、私欲をたくましくする、そんな自己中心的な心を抑えて、礼節をもって人に接する事ができるようになること、これを、その第一条件としています。

 次に、そうした自己中心的な心を抑えたとしても、人間には「感情」がある。つまり、喜・怒(いかり)・哀(悲しみ)・懼(おそれ)・愛(執着)・悪(にくしみ)・欲の「七情」がある。そこで、これらの感情を抑制しないで野放しにすると、自分の本来持っている人間性が損なわれるだけでなく、周囲の者も、その感情に振り回されどうしたらいいのか判らなくなる(そのため、首相の意向を忖度し「海水の注水を止める」といった今回のような行動が生まれる)。従って、この「七情」の激発を抑えることが極めて大切だ、というのです。

 つまり、このような努力を積み重ねることによって、人は少しずつ「人望」を身につけていくわけですが、実は、この「人望」というのは、その人の職業や思想信条、あるいは時代や国の違いを超えて、リーダーに対して共通に求められる普遍的な「能力」となっている。

 さらに、こうした「人望」は、平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力となってきていて、従って、リーダーたるべき人は、学問知識を身につけることと同時に、こうした「人望」を身につける努力=「自己修養」を怠らないようにしなければいけない、というのです。

 では、その「人望」というのは、具体的には、どのような「徳」を身につけることをいうのか、というと、『近思録』では、これを「九徳」と言い、次のような九つの徳目を身につけることを、その具体的な到達目標としている。

(一)寬にして栗(寛大だがしまりがある)
(二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(六)直にして温(正直・率直だが、温和)
(七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(九)彊にして義(強勇だが、義しい)
 
 何となく、判ったような判らないような感じで、まあ、なんと細かな人間観察をしたものか、と感心しますが、いずれにしろ、こうした「九徳」を身につけることが、リーダーたるべき条件であると、儒教は教えてきたわけです。

 現代の日本人は、儒教といえば、封建的な人間道徳を教えるもので、個人の自由を基本とする現代社会には合わないと考える人も多いと思いますが、こうした儒教におけるリーダー条件を見れば、その人間観察が決して半端なものではないことが判ります。

 といっても、これらの徳目には、それぞれ相反する要素が含まれていて、どちらが欠けても不徳になる、全部がそうなれば「九不徳」となり、両方が欠ければ「十八不徳」になる。では、その理想的な状態とはどういう状態を指すのかというと、これらの徳の相反する要素をバランスさせることであり、つまり、これが「中庸を得る」ということなのではないかと思われます。

 そこで、この「九徳」をよりわかりやすくするために、あえて、その逆の「十八不徳」になるとどうなるか書き出してみると、

(一)こせこせうるさいくせに、しまりがない。
(二)とげとげしいくせに、事が処理できない。
(三)不まじめなくせに、尊大で、つっけんどんである。
(四)事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である。
(五)粗暴なくせに、気が弱い。
(六)率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である。
(七)何もかも干渉するくせに、全体がつかめない。
(八)見たところ弱々しくて、内もからっぽ。
(九)気が小さいくせに、こそこそ悪事を働く。

 となります。

 以上、山本七平による「人望」の条件について記して来ましたが、「克・伐・怨・欲」を抑えられず、「七情」をところ構わず発散し、と言ったところで、なんだか”オレは聞いてない!と怒鳴り散らす・・・らしい菅首相の姿が自然と脳裏に浮かんできました。

 さらに、これを前記の「十八不徳」に照らしてみると、不思議にピタッと当てはまる項目が、菅首相の場合にはいくつもあるように思われ、ああ、これでは、この危機的状況の中で、日本のリーダーを務めることはできないだろうな、と思われました。

 なにしろ、リーダーにこうした「人望」を欠いた場合は、旧日本軍においてすら、部下が面従腹背となり、組織が全く動かなくなったと言いますから。

 平等社会になればなるほど、リーダーには、こうした「人望」を身につけることが求められる・・・。日本の政治家の皆さんも、以上の「九徳」を自らを写し出す鏡として、真に「人望」あるリーダーを目指していただきたいと思います。

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