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2011年7月

2011年7月27日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか8――皇道派青年将校が生まれたワケ

*長文のため本文掲載とします。

健介さんへ
>皇道派と統制派という用語は興味深いものがあるが、その後の展開は皇道派の予測どおりに進んだ。

tiku 皇道派が軍で主導権を握っていれば日中戦争もひいては大東亜戦争もなかったという意見がありますね。近衛文麿が皇道派を支持し続けたことはよく知られていますし、これに対して昭和天皇は皇道派の領袖と目される真崎を嫌ったとされます。こうした天皇に対する最後の直諫として提出されたものが「近衛上奏文」で、「満州事変から大東亜戦争までを引き起こした張本人は、軍部内の一味の共産主義と両立する革新運動そのもの」であり、それを担ったのが統制派である、とする見方です。

 ジャーナリストでこうした皇道派擁護の論陣を張ったのは、岩淵辰雄で『敗るゝ日まで』(s21)があります。同様の主張をしているのは山口富永(『昭和史の証言―真崎甚三郎人・その思想』s45や、田崎末松(『評伝真崎甚三郎』s52)があります。また、山口氏にはNHK特集「二・二六事件消された真実」(s63)に対する反論となる『二・二六事件の偽史を撃つ』(h2)があります。私が前回用いた『盗聴二・二六事件』の著者中田整一氏は先のNHK特集番組制作のプロデューサーを務めました。

 まず、このNHK特集番組についてですが、私は丁度この番組をNHKオンデマンドより記録していましたので、それを見てみました。この番組ではその「消された真実」とは、戒厳司令官となった香椎中将少将が「陸軍大臣告示」(26日午後3時下達)より以前に「陸軍大臣告示」(午前10時50分)が近衛師団に下達されていたというものです。これにより、香椎や山下奉文少将さらには荒木大将や真崎大将が反乱軍を幇助した、というよりその首謀者であったらしい事が示唆されて番組は終わります。

 ただし、中田整一氏の著書の末尾には、二・二六事件の反乱軍将校安藤輝三の遺書の次のような一節が紹介されています。

 「吾人を犠牲となし、吾人を虐殺して而も吾人の行える結果を利用して軍部独裁のファッショ的改革を試みんとなしあり。一石二鳥の名案なり、逆賊の汚名の下に虐殺され『精神は生きる』とかなんとかごまかされて断じて死する能わず」

 要するに、私が本エントリーで紹介した通り、この事件は統制派に利用されたわけで、彼らはそのための計画を既に持っていたということです。で、この番組の結論としては、この事件の真相が明らかにされることによって、戒厳司令官でもあった香椎中将までがこの事件に関わっていたことが明らかになると、軍の国民に対する信頼や威信が崩壊する恐れがあったからその真相を封印した、というような説明がなされていました。

 しかし、そのために皇道派の領袖達に対する断罪を避けたのか、ということになると、私は必ずしもそうではなくて、実は、この事件の真相究明が進みすぎると、これら皇道派の領袖の罪だけではなく、安藤輝三が指摘したような石原完爾等統制派の隠された計画まで明らかになる、それを怖れたからだと思います。中田氏の本ではこのことへの言及がなされていますが、NHK特集番組ではそうなっていませんでした。

 で、真崎甚三郎についてですが、私は、事件の計画をあらかじめ知っていた、ということではないと思います。しかし、この事件に至るまでにいわゆる皇道派青年将校が引き起こした数々のクーデター事件の責任が真崎になかったかというと、私はそうとも言えないと思います。にもかかわらず、戦後氏が書いた手記などにはこの点についての言及がない。これが、責任転嫁とか言い訳に終始したとかと批判される所以だと思います。教育者としてはともかく、統制を重んずべき軍隊の大将としては、皇道派青年将校の行動を抑制・教導すべきでした。

 この、真崎の教育者としての側面については、田崎末松『評伝真崎甚三郎』(s52)が次のような解説をしています。少々長いですが、皇道派青年将校がどのような時代背景の下に誕生したか、真崎は彼らに何を教えたか、ということが大変わかりやすくまとめられていますので紹介しておきます。

四 昭和維新の原点
 「昭和維新」ということについては、いろいろの解釈があるはずである。わたくしは、天皇信仰を中心とする国体原理への回帰と、それを軸とする体制内の変革運動であると理解している。
 そして、青年将校運動の萌芽と、教育者真崎甚三郎少将の登場をその原点の一つとしてあげるものである。
 この青年将校運動の結晶体ともいうべき二・二六事件こそ、真崎の運命を一挙に逆転せしめた決定的な事実でもあった。

(1)青年将校運動
 昭和のはじめころの青年将校といえば、たんに若い将校一般という意味ではなく、いわゆる隊付の「一部青年将校」または「要注意将校」といわれ、軍の上級幹部や憲兵隊によってある特別な眼をもって注視されていた「政治化した軍人」とくにある種の「自己-社会変革」を志向する一群を指すものということができる。

 彼らのすべては陸軍幼年学校――陸軍士官学校の卒業生である専門軍人であった。
 しかし、そのほとんどが、高級軍事官僚の養成機関である陸軍大学校に入校することを意識的に拒否し、いわゆる立身出世コースからはずれた。そして隊付将校として、一般国民から徴募された下士官・兵とともに国防の第一線、現場にとどまろうとする志向をもっており、その場から自己ならびに日本の変革を考えた。

 こうした青年将校のリーダーたちのいく人かをあげて見よう。
(氏名)      (生年月日)          (陸士卒業期)
西田税    明治三十四(一九〇一)年 三四期
大岸頼好   明治三十五(一九〇二)年 三五期 
村中孝次  明治三十六(一九〇三)年 三七期
大蔵栄一  明治三十六(一九〇三)年 三七期
菅波三郎  明治三十七(一九〇四)年 三七期 
○磯部浅一 明治三十八(一九〇五)年 三八期 
○安藤輝三 明治三十八(一九〇五)年 三八期
 末松太平 明治三十八(一九〇五)年 三九期
○栗原安秀 明治四十一(一九〇八)年 四一期
  (○印は二・二六事件のリーダー)

 このように、青年将校たちは西田から栗原まで、大正十一(一九二二)年から昭和四(一九二九)年にかけてのほぼ一九二〇年代に少尉に任官し、連隊付将校として兵とともに社会に接していたことがわかる。

 この時代の世相はどのような状態であったかといえば、要約すると次のような時期であった。
 このころの日本は明治維新以来順調にたどってきたコースを登りつめ、ある曲り角にさしかかっていた。
 経済的には、第一次大戦後間もなくから慢性的不況のうちにあり、ついで昭和初期の金融恐慌、銀行の取り付けさわぎに出合い、そして二〇年代末から金解禁恐慌と世界大恐慌の大嵐にまきこまれていた。

 対外関係の面では、民族独立、一切の外国利権の奪還を呼号する隣邦中国における「反帝愛国」運動が次第に無視することのできない要因に成長しつつあった。
 植民地隷属からの脱却をのぞむ中国民衆の声は、いまやようやく高く、日本をふくむ外国の既得権益擁護政策と真正面から衝突するようになってきた。

 こうした時期に、青春時代を生きた青年将校たちにとって、内政面でも世間の風は冷たかった。世は滔々として「デモクラシー」の時代である。思想的にはリベラリズム、のちにはマルキシズムが、政治的には政党政治が、一世を風靡していた。軍の存在はとかく煙たがられ、あるいは軽視、あるいは蔑視される傾向にあった。

 大正十一 (一九二二)年二月、ワシントン会議で海軍軍縮条約決定、同七月陸軍軍縮計画(いわゆる山梨軍縮)発表、翌々大正十四(一九二五)年、いわゆる宇垣軍縮が実施された。青年将校の「先輩格」であり、のちに二・二六事件に連座した山口一太郎(明治三十三年静岡県生まれ、三三期、本庄繁大将の女婿)は、この宇垣軍縮について次のようにいっている。

「懐しい奈良の歩兵第五十三連隊は廃止となり、此の御旗の下で死を誓った軍旗は宮中へ奉遷される。最後の軍旗祭が、さみだれそぼ降る奈良練兵場で行われた。時の連隊長は江藤源九郎氏である。市民悉くが泣いた。こんなに国防力を減らしてどうなるか、列強は第一次大戦後の尨大な陸軍を擁しているのに、目本だけ減らすとは何事か。しかも街には戦争成金がうようよして百円札で鼻をかんでいるではないか・・・青年将校たちの気持はこれで一ぱいだった」(「嵐のあとさき、一丁二六事件の起きるまで」『時論』昭和二四年八月号)

 経済過程の混乱、対外関係の困難という重大な客観的危機の存在、これに有効に対処し得ない″進歩主義的″観念をもつ当局者――こういった図式で問題状況をとらえようとする人達が、第一次大戦時、戦後徐々に、しかし確実に発生し増加してきた。彼らの多くは、こういった問題状況に対し、天皇の下に「維新日本」をつくり「復興アジア」と連帯しようという、国内的かつ国際的の「日本らしい維新」(彼らはしばしば「革命」という言葉をきらった)を構想した。

 このような「維新」の思想こそ、いわゆる革新右翼、あるいは日本ファッシズムの典型的思考様式といってもよかろう。それは、巨視的に見れば、世の「欧化主義」的風潮に反発した「国粋主義」的傾向に棹さすものであると同時に、一面それを乗りこえようとするものであった。
 このような「土壌」の上に青年将校運動の華が開花するのである。

(2)教育者・真崎甚三郎少将の登場

 真崎甚三郎が士官学校教育に奉仕した四ヵ年は、教育者真崎のイメージを定着させた。
 しかし、このことは元来、変革思想の信奉者でもない真崎を、昭和維新の原点のひとりとして位置づけることにもなった。

 そして、青年将校からは、維新変革運動の最大の同調者として過大に評価され、一般からは変革運動=二・二六の元凶として烙印されることによって、致命的な打撃をうけることになる。

 戦争中のマンモス化した軍隊のイメージしか想起することのできない人びとにとって、大正デモクラシーの時代の軍隊は極端に軽蔑されていたといっても、おそらく信じられないことであろう。
 しかし、事実はまったくその通りであった。

 英国の首相であったチャーチルの言葉を借りるまでもなく、少くとも近代国家において真に権力を握っているものは、予算の審議権、議決権、執行権をもつものである。

 明治憲法にどのような欠陥――たとえば統帥権の独立――があったにせよ、予算の審議権と議決権は、一貫して帝国議会が握っていた。したがって議会が予算を通して軍をもほぼ完全に統御しえた時代があったし、またあって当然であった。いうまでもなくそれは、大正時代から昭和初期で、大正元年の閣議の二個師団増設案否決による上原陸相の単独辞職、三年の貴族院による建艦費の大削減、同年の衆議院による二個師団増設費否決にはじまり、「尾張」以下七隻の建艦中止、ワシントン条約の締結、四個師団の廃止等から昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の無条件批准まで、後の″軍の横暴″と対比するとき、全く信じられないぐらいの軍の凋落ぶりであった。

 「当時の私を回顧すると全く煩悶懊悩時代であった。第一次世界戦争の中頃から世界をあげて軍国主義打破、平和主義の横行、デモクラシー謳歌の最も華やかな時代であって、日本国民は英米が軍国独逸の撃滅に提唱した標語を、直ちに我々日本人に志向した。我々軍人の軍服姿にさえ嫌悪の眼をむけ、甚だしきは露骨に電車や道路上で罵倒した。娘たちはもとより親たちさえ、軍人と結婚しよう。又させようとするものはなくなった。物価は騰貴するも軍人の俸給は昔ながらであって、青年将校の東京生活は、どん底であった。

 書店の新刊書や新聞雑誌は、デモクラシー、平和主義、マルクス主義の横溢であった。鋭敏な神経をもつ青年将校で、煩悶せぬ者はどうかしている。多くの青年将校が軍職をやめて労働中尉や何々中尉となった。

 私もその例に洩れず、盛んに思想、経済、文化等の書を読み耽った。いわゆる何々中尉の一歩手前まで進んだ。が私には母が生きていた。私の軍人になったのは母の希望であった。私は母の悲しみを思って立ち止った。」

 この文章は、永田軍務局長暗殺以後の日本を事実上動かす実力者といわれた武藤章(二五期、軍務局長、A級戦犯として処刑される)が、大正九年十二月、陸軍大学校を卒業した当時を追憶した一節である。(沢地久枝『暗い暦』)

 エリート中のエリート軍人とうたわれた武藤にして、この軍籍離脱すれすれの煩悶の時代があったのである。
 他は推して知るべしである。
 まさに軍全体が士気温喪した時代である。

 この風潮は、必然的に陸軍将校の養成機関である士官学校に伝播しないはずはない。
 この自由主義的風潮は、士官教育の総本山として鉄の規律を誇る陸軍士官学校にもおしよせてきた。
 自由主義の嵐にゆらいだ市ヶ谷台は軍紀風紀の弛緩という、創設以来の危機をむかえていた。
 こうした空気のなかにあった大正十二年八月の初旬、この士官学校に新しい本科長が着任した。
 歩兵第一旅団長から転補された、陸軍のホープ、真崎甚三郎少将である。
 そうして、これから、彼が引きつづき学校幹事から校長へと昭和二年八月二十六日、陸軍中将に昇進して第八師団長として弘前に栄転するまでの四年間、いわゆる独特の皇国観にもとづく徹底した士官教育が実施されたのである。

 昭和維新を志向する青年将校のほとんどはこの真崎時代の生徒であり、国家改造の思想的原点を天皇制絶対の皇国観、国体原理に求めたのである。
 この意味で、真崎の士官学校における教育方針が、昭和維新の原点となったということもできよう。

 しかし、ここで明確にしておかなければならないことは、この真崎の皇国観教育というのは、真崎の創意ではなく、沈滞していた天皇信仰、国体原理信仰の興起振作というところに重点があったということであり、昭和維新、国家改造の革新的行動の原点ではなかったということである。

 昭和維新の思想的原点は天皇信仰にあったけれども、その変革原理は真崎らの想定することのできないほどラジカルな行動原理、北一輝的な国家改造方式に傾斜していたのである。

 この青年将校運動が、二・二六の蜂起となって結晶したとき、ひとびとはその革命的行動原理までもふくめて、真崎の皇道教育にあったと非難した。
 このことは、皇国思想即昭和維新と速断するあやまりからくるものである。」(『評伝 真崎甚三郎』p31~35)

 つまり、真崎は大正12年8月に士官学校本科長に就任以来校長となり、昭和2年8月に広前第八師団中となるまでの4年間、士官学校教育に専念し、先に紹介したような「一部青年将校」を育てたのです。といっても、この時真崎が進めた皇国観教育、国体精神教育というのは、大正自由主義が風靡し自我主義が放縦に流れる中で、皇国史観に基づく国民道徳の回復とともに、軍における天皇への忠誠を基本とする兵の統率、部隊の指揮のあり方を説いていたのです。ここから彼の国体明徴論も出ていたのです。

 こうした真崎の、皇国思想と兵士の気持ちを分かってやろうとする教育者的な態度、これに加えて、三月事件や十月事件などのクーデター事件を引き起こして「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を破壊せんとする幕僚将校等に対する真崎の批判の眼。それと、先に紹介したような隊付き将校等の当時の政治・社会情況に対する憤激、その正義感に発し、天皇の「大御心」による一君万民平等社会の実現を目指した、いわゆる「君側の奸」排除のクーデター計画。それを逆利用し彼らを弾圧することで、軍の統制回復と共に、軍主導の国家社会主義的体制を実現しようとする幕僚将校たち・・・。

 こういった三つどもえの構図の中で、真崎の責任が問われているのだと思います。まあ、真崎が、「軍人の政治的中立主義と統帥権の独立」という健軍の本義を守ることが本当に大切だと思っていたのなら、一元的な指揮命令系統の絶対の条件とする軍の組織において、青年将校等が横断的結合を強めて政治的要求を行うことなど絶対に許すべきではなかった。まして、その軍の組織において上官の命令なしに「私兵」を動かし、重臣を暗殺しクーデター事件を引き起こすなど、こんな行為に同情を寄せるなどとんでもない話です。

 ところが、これに同情というか理解を示し、逆に、そうした過激な行為に青年将校等を追い込んだ政治が悪いというようなことで、彼らの暴走を弁護しようとする・・・それが自己矛盾を犯していることに気がつかなかった。そこに皇道派の失敗の原因というか甘さがあったのです。この点、統制派はこの皇道派の矛盾から生まれる破壊的行動を断罪することで軍の統制を回復するとともに、彼らの政治批判の論理を逆利用することで、自らの信じる国家改造計画を推し進めたわけで、まあ、皇道派はうまく利用されたわけです。騙された方が負け、恨んでも仕方ないということですね。

 この点、北一輝はこの理屈がよく判っていたのです。

二・二六事件の裁判で、北を裁いた当時の吉田悳裁判長は、法廷における北の態度を次のように語っています。

 「法廷で尋問すると、北は”そうですか、それじゃあそうしておきましょう、とどんな罪でも裁判官のいわれるとおり、私は認めますから”と、そんな態度でしたよ。私は北の死刑直後に刑場に行ったんですが、執行に立ち会った法務官の話では、銃殺の前に、項目隠しをされてですね、刑架に座らされ、縛られた時、”ああ、いい気持ちじゃ”といったというんです。」

 そのリアリストの北が、なぜ、皇道派青年将校に付き合ったか。”若殿に兜取られて負け戦”、ということで、天皇の断固たる討伐意思を読めなかったことと、その後の統制派の戦略――この事件の基本的性格を、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走したもの」として世に公表し、北等を極刑に処することとしたこと――に兜を脱いだ、ということなのではないでしょうか。そこが純真な青年将校達との違いですね。

 なお、「二・二六事件をきっかけとして、真崎が発言力を失った瞬間から支那事変はおこったのである」という山口富永氏の主張が正しいかどうか、について、私は次のように考えています。私は支那事変のが最大原因は、関東軍が広田と蒋介石の妥協を妨害するために始めた華北分離工作にあると思っています。そこで、真崎や荒木を中心とする皇道派が、そうした関東軍の独断行動を掣肘するための具体的行動をどれだけとったか、ということが問題になります。真崎はその証拠として、熱河討伐作戦で関東軍が長城の線を越えようとしたことを止めたことや、第一次上海事変出の兵力引き揚げに尽くしたことなどを挙げていますが、これは天皇の意向があったからこそできたことです。

 その天皇と心を一つにして、関東軍による華北分離工作に起因する華北への戦争拡大を防ぐためには、まず、軍の統制を回復する必要があった。そのためにも、皇道派青年将校が軍の統帥や統制を無視して横断的に結合し政治的行動に出ることを厳しく諫めるべきだった。事実、彼らは五・一五事件以降いくつものクーデター事件が引き起こしていた。なぜ、彼らを説得し善導しようとしなかったのか。まさか、”真崎は皇道派青年将校の犠牲になった気の毒な将軍”などとはいえないわけで、結局、彼は純真な青年将校を扇動して自らの復権を図った、という風に見られてしまうのです。

 このあたり、近衛の持っていた弱さと同じものを感じますね。それを利用しようとした統制派の思想を凌駕するものを、彼らは持ち得なかったということだと思います。これを日本の宿命といえば確かにその通りですが、立憲政治や政党政治を守ろうとする意見もあったわけですから、やはり、不明というほかないと思います。もちろん、最大の責任が、国民の政治に対する信頼を損ねた当時の政治家にあったことは申すまでもありません。この点、今日の民主党の政治の現状を見れば、戦前の日本国民が軍の言い分の方を信用する気になったのも、無理ないと思いますが。  

2011年7月24日 (日)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか7――皇道派の暴走を利用した統制派

 昭和の歴史を主導した青年将校グループに皇道派と統制派があり、両者が激しい主導権争いを行ったことはよく知られています。その争いの頂点となったのが、皇道派将校相沢三郎による軍務局長永田鉄山斬殺事件でした。この事件は、一青年将校が、軍服軍刀で陸軍省に行き白昼堂々軍務局長を斬殺したもので、軍紀の常識上考えられないことでした。しかし、さらに異常なのは、事件直後、相沢は上司に「これから御前はどうする気か」と尋ねられると、「これから偕行社に寄って買い物をして、直ぐに任地(台湾)に出発します」と答えたことです。

 こんな話を聞くと、多くの人は、この相沢という軍人は精神的に異常だったのではないかと思うでしょう。もしそうであれば、この事件は精神異常者の引き起こした特異な事件として処理されたはずです。ところが実際は違った。陸軍省より「相沢中佐は永田鉄山中将に関する謝れる巷説を盲信したる結果云々」と発表されると、皇道派の軍人は「『誤って巷説を盲信し』とは怪しからぬ、それは真実に基づき信念を持って実行した帝国軍人の行動である」といい、恰も永田が殺されるのは当然である言わんばかりの態度を以て抗議したもの」もいたといいます。

 さらに皇道派は、この相沢の裁判を利用して統制派に打撃を与え、同志相沢の行動をむなしく終わらせないことを誓い合いました。そこで彼らは次々と裁判の証人台に立ち「永田は国軍を毒する蛇であり、その横死は天誅である」と卓をたたいて叫びました。これに対して永田を弁護する統制派も立ち上がり、これに応じて皇道派の御大である真崎甚三郎が証言台に起つことになりました。こうして皇道派は、「公判に世間の視聴を集め、統制派を痛撃する一方に於いて、クーデターを断行する工作を秘密に進め」、真崎大将が出廷した翌日の2月26日、突如二・二六事件を起こしたのです。(『軍閥興亡史Ⅱ』p250)

 この二・二六事件ですが、その基本的な性格は、皇道派対統制派の対立抗争がその頂点に達した段階で起こったクーデター事件である事が示す通り、現体制を掌握している統制派に対して皇道派が権力奪取を図ったものということができます。この時殺された重臣は、内大臣斉藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郞、重傷は侍従長海軍大将鈴木貫太郎、未遂は首相岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、元老西園寺公望でした。この内文官は高橋是清、牧野伸顕、西園寺公望で、彼らは「君側の奸」と目されたために攻撃を受けました。また、その他は軍人出身あるいは現役軍人(渡辺錠太郞)で統制派と目されたためです。

 この襲撃が終わった約1,400名の将兵は、予定通り、首相官邸、警視庁を占領し、麹町区西地区一帯の交通を遮断し、午前五時、大尉香田清貞、村中孝次、磯部浅一の3名は川島陸相に面会し、決起趣意書を朗読した上次のような要望書を突きつけました。

 それは(一)全権の奉還、(二)統制経済の実施、(三)以上を実行し得る協力内閣の出現を上奏する、の三項目を主文とし、これに加えて十二項の付則細目がありました。
一、現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
二、皇軍相撃つことは避けなければならない
三、全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
四、警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
五、南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
六、速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
七、軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
八、林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
九、荒木大将を関東軍司令官に任命すること
十、同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
十一、同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
十二、報道を統制するため山下少将を招致すること
 次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐(wiki「二・二六事件」参照)

 要するに「彼らは、『昭和維新』の詔勅を賜った後、具体的には陸軍大将・真崎甚三郎か、陸軍中将・柳川平助などを担いで維新内閣を樹立し、志の実現を図ろうという思いを抱いていた」のです。(『盗聴・二・二六事件』p64)

 ただし、真崎も荒木も事前にはこれを知らなかったとされます。しかし、これらは一見して皇道派の天下を画策したものであること歴然たるものがあり、彼ら(真崎、荒木、柳川)は皇道派の領袖として、また軍事参議官として、この要望書に沿った事件の処理に努めました。

 具体的には、26日午後2時には全軍事参議官の外、杉山次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官等が出席して軍事参議官会議が開かれ、鎮撫、原隊復帰を第一の収拾策とする立場から、午後3時30分、香椎司令官を経て、次のような陸軍大臣告示が叛乱軍に示されました。

一、決起の趣旨に就いては天聴に達せられあり
二、諸子の行動(原案は「真意」)は国体顕現の至情に基づくものと認む
三、国体の真摯顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼に堪えず
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合わせたり
五、之以外は一つに大御心に俟(ま)つ

 さらに、午後7時20分には東京警備司令部より、歩兵第一連隊長(小藤恵)に対し、反乱軍である歩兵第一、第三、野重砲七の部隊を指揮して、叛乱部隊が占拠している地区を、之と対決している武力(警備司令部)とともに一括して警備せよという驚くべき命令が発せられました。つまり、大臣告示とこれによって、決起部隊は賊軍ではなく官軍となったのです。こうして一日だけの食糧を携行して兵営を出た反乱軍は、原隊からの食料によって食事をするようになりました。

 このため、反乱軍将校の大部分は情勢は全く自分たちに有利と判断し、一挙に維新の断行を推進しようとして、歩一連隊長に対し全面的にはその指揮下には入らず、独自の権限を与えよと要求しました。しかし、こうした軍事参議官等の出した大臣告示以下の措置は、全く天皇の意思に背くものであって、その後、天皇の怒りの激しさを知った彼らは、この上は、皇軍相撃を避けるため、反乱軍をおとなしく原隊に帰すべく、叛乱側を説得しようとしました。しかし、叛乱側は大臣告示等の内容を盾に、こうした説得を受け入れようとしませんでした。

 一方、こうした動きの裏で、また別の動きが始まっていました。それは石原作戦部長を軸とする統帥幕僚らの動きで、26日夜、石原、橋本(欣五郎)、満井(佐吉)らが会談し次のような結論を得たとされます。

 「陛下に石原より直接奏上して、叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して政局を収拾する。」(『二・二六事件』高橋正衛p91)この時石原は、当初「維新大詔渙発」によって、天皇親政を基軸とする皇族内閣を構想していました。しかし後継首班については意見一致せず、山本英輔海軍大将を推すことになりました。

 しかし、天皇の怒りの激しさを知る杉山参謀次長は、石原のこうした進言を拒絶しました。一方、石原は戒厳令の施行を主張していました。戒厳令は、まず閣議決定を必要とし、続いて枢密院の諮詢を経て天皇裁可・布告となります。実は、戒厳令の施行には軍部以外の大臣らは反対で、彼らは、これに乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望を図るのではないかとの警戒心を持っていました。しかし、未曾有の大事件であって、軍部以外の手では鎮圧できない弱みがあるので、やむなく賛成したといわれます。(『盗聴二・二六事件』p72)

 この間の石原の行動については、当初は、「大赦の請願」や「維新大詔渙発」を画策するなど叛乱軍を幇助するかのような姿勢を見せていました。しかし、天皇の叛乱軍に対する怒りが激しく、それが無理だと判ると、戒厳令の施行(27日午前3時50分「緊急勅令」公布)に伴い、戒厳参謀として叛乱軍の鎮圧する側に立ちました。一体、この間の石原の真意はどこにあったのか、ということを巡って様々の意見が戦わされています。が、おそらくその真相は、次のようなものだったのではないでしょうか。(下線部訂正8/4)

*石原は戒厳令の施行は当初から主張していたとも言う。

 「・・・二・二六事件の時の戒厳令は、私が中心になって作った対策要綱が原案になって居るんです。」

 これは、二・二六事件発生当時、軍務局軍務課員であった片倉衷が、戦後、NHKの中田整一に語った言葉です。彼は、二・二六事件が勃発したこの日の早朝、陸相官邸に駆けつけ、その玄関前で反乱軍の磯部浅一に頭部を拳銃で撃たれました(一命はとりとめた)。片倉は石原や武藤章等とともに、打倒すべき重要幕僚の一人として、かねてより皇道派の青年将校に狙われていたのです。

 その彼が中心となって、この事件が発生する2年前に作っていたものが、この「対策要綱」、すなわち「政治的非常時塩勃発に処する対策要綱」でした。これは、予測される皇道派による「軍事クーデター勃発に際し、その鎮圧過程を逆手にとり、自分たちの側が依り強力な政治権力を確立するための好機として利用しようという、いわば”カウンター・クーデター”の構想」をまとめたものでした。

 その序文は次のようなものです。

 「帝国内外の情勢に鑑み・・・国内諸般の動向は政治的非常事変勃発の虞(おそれ)少なしとせず。事変勃発せんか、究極軍部は革新の原動力となりて時局収拾の重責を負うに至るべきは必然の帰趨にして、此場合政府並国民を指導鞭撻し禍を転じて福となすは緊契(ママ)の事たるのみならず、革新の結果は克く国力を充実し国策遂行を容易ならしめ来るべき対外危機を克服し得るに至るものとす。即ち爰に軍人関与の政治的非常事変勃発に対する対策要綱を考究し、万一に処するの準備に遺憾なからしむる」(片倉衷『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』)」

 つまり、この「要綱」は、「国内において軍人による事変が勃発することを予見しつつ、併せて、国力充実のため、国家体制の革新が求められているとの基本認識」に立って、こうした事変勃発を逆に利用して「軍部自らは直接手を汚すことなく、しかも結果的に『革新の原動力』たらんとする意思」を明確に打ち出したものです。「それは、皇道派青年将校らの国家改造案とは異なり、緻密な計画性と戦略をもった、統制派の省部幕僚たちによる反クーデター計画案であった。」(上掲書p77~78)

 この「対策要綱」の実施案は次のようになっていました。

(一)事変勃発するや直ちに左の処置を講ず
イ、後継内閣組閣に必要なる空気の醸成
口、事変と共に革新断行要望の輿論惹起並尽忠の志より資本逃避防止に関する輿論作成
ハ、軍隊の事変に関係なき旨の声明
但社会の腐敗老朽が事変勃発に至らしめたるを明にし一部軍人の関与せるを遺憾とす
(二)戒厳宣告(治安用兵)の場合には軍部は所要の布告を発す
(三)後継内閣組閣せらるるや左の処置を講ず
イ、新聞、ラジオを通じ政府の施政要綱並総理論告等の普及
ロ、企業家労働者の自制を促し恐慌防止、産業の停頓防遏、交通保全等に資する言論等に指導
ハ、必要なる弾圧
(検閲、新聞電報通信取締、流言輩語防止其他保安に関する事項)
(四)内閣直属の情報機関を設定し輿論指導取締りを適切ならしむ

 つまり、「統制派幕僚たちは、いつクーデターが起こっても素早く対応できるよう、既に万全の体制を整えていた」のです。そして、二・二六事件の勃発についても、それは第一師団の満州移駐が決定的な引き金になるだろうと予測し、2月22,23日には、憲兵より事件勃発の警告を得ていました(片倉談)。つまり、先に紹介した石原の奏上案も、また、一転して布くことになった戒厳令も、全て、統制派幕僚である石原や片倉等の構想した、カウンター・クーデターへの道筋に沿うものだったのです。(上掲書p79~80)

 結局、28日午前5時には、蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、反乱部隊の下士官兵は29日午後2時までに原隊に帰りました。残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えました。また、同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕されました。こうして、2月29日付で反乱軍の20名の将校が免官となり、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入されました。

 また、侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となりました。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となりました。さらに、皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は、歩兵第40旅団長に転出させられました。

 この事件の裏には、上に見た通り、皇道派の大将クラスの関与が疑われたわけですが、事件の基本的性格としては「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表されました。そのため、民間人を対象とする裁判を担当した吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべき」と主張したにもかかわらず、寺内陸相は、極刑の判決を示唆した、とされます。

 この事件は、武藤章らの主張に基づき厳罰主義で速やかに処断するため、緊急勅令による特設軍法会議で裁かれることになりました。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷なものでした。また、判決は、陸軍刑法第25条の「反乱罪」が適用され、元歩兵大尉 村中孝次、元一等主計 磯部浅一を含む将校16名が死刑という過酷なものとなりました。

 以上、二・二六事件で極点を迎えた皇道派vs統制派という昭和の青年将校グループの対立を見てきました。だが、この皇道派と統制派という二つの青年将校グループは、一体何を巡って、ここまで対立を深めたのでしょうか。実は、本稿でも指摘している青年将校運動の出発点となった「満州問題の武力解決」という点では違いはなかったのです。そこに対立が生じたのは、満州事件に呼応する形で計画された10月事件の処理を巡って皇道派の青年将校側に次のような不満が生じたためでした。

 ここで皇道派というのは、いわゆる「隊付き」将校を中心とする青年将校グループのことです。一方、統制派というのは、陸大出の――いわゆる天保銭組といわれ、陸軍省や参謀本部など軍の要職を占有した――いわゆる幕僚将校とよばれた青年将校グループのことです。この両者に、満州事変以降対立が生じたのです。なぜか、幕僚将校等のクーデター計画段階での美技を侍らし酒色に耽る態度が、隊付き将校等の眼には私利私欲に見えたこと。また、クーデタ成功後、彼らが自らを大臣とする閣僚名簿を作成したことが、天皇大権を私議するものに見えたのです。

 つまり、皇道派というのは、満州事変以前の幕僚将校主導の青年将校運動に、隊付き将校を中心とする青年将校グループが反発し、独自の国家改造運動を始めたことで生まれたものなのです。これに対して、幕僚将校たちは、満州事変の成功で軍主導の革命拠点を作成したことでもあるし、クーデターという非常手段に訴えなくても、軍の統帥権を盾に政権を合法的に掌握することが可能だと考えるようになった。そして、そのことは同時に、隊付き青年将校等が北一輝等民間の革命家と結んで計画するクーデターを、軍の統制や軍紀を乱すものとして厳しく弾圧するようになった。

 といっても、両者が日本を国家改造することで達成しようとしていた新しい国家体制イメージにどれだけの違いがあったかというと、いずれも、政党政治には反対で、天皇中心の一国一党制、軍部主導の国家社会主義的政治体制を作ろうとしていた点では同じだったのです。あえてその違いをいえば、前者が一君万民・忠孝一致の家族主義的国家イメージ、後者がナチス的国家社会主義的国家イメージだったということ。前者は実際権力から阻害されていた分だけ、非現実的な忠誠無私の大御心信仰となり、後者は先に紹介した石原や片倉のように、こうした皇道派の暴発を、自らの国家改造目的達成のために逆利用するというしたたかさを持っていたのです。

 この統制派のしたたかさを如実に示すものとなったのが、二・二六事件後、組閣することとなった広田弘毅内閣における組閣人事への軍のあからさまな干渉でした。その閣僚名簿に、外交官の吉田茂、朝日新聞社社長下村宏、前司法大臣小原直、中島飛行機の中島知久、平民政党幹事長川崎卓吉らの名前があることについて、時局認識の不足を露呈するものだとして排撃したのです。その理由、吉田は軍人嫌いで、かつ、二・二六事件で襲撃された牧野伸憲の女婿である。下村は自由主義者だ。小原は国体明徴問題で法相として優柔不断だった。中島は新興財閥で財閥否定の時勢に反するというものでした。

 従来は、軍が内閣の人事に干渉することがあっても、それは軍事費を繞る防衛戦闘のためであって、内閣の構造自体に嘴を入れることはなかったのですが、今度は、閣僚を狙い撃ちして、軍の思想及び国策上の要求を貫こうとする攻撃戦闘だったのです。この談判に出かけたのが寺内寿一で、その後4回にわたり組閣本部を訪れ、その間、軍は28センチ砲を発射して、間接射撃の轟音に政界を震撼させたといいます。その結果、川崎が罪一等を減じて伴食ポストに座った外の四人はオミットされました。(『軍閥興亡史Ⅱ』p296)

 さらにその後、二・二六事件で反乱軍将校を幇助したとして予備役に回された皇道派の陸軍上層部が、陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになりました。こうして、「原敬が苦闘幾年にして漸く一本打ち樹てた『軍部横暴制止』の官札」は取り払われることになりました。こうなると陸軍の気にくわない内閣には軍は陸相を出さない。故に内閣は潰れる。こうして、内閣の運命は軍部の掌中に帰するという、軍権横行時代を現出することになったのです。(上掲書p303)

 次回は、こうして皇道派や北一輝の思想を打倒することで勝利を手にし、その後の日本の政治を掌中に収めることになった統制派の思想について、その問題点をもう少し詳しく見てみたいと思います。というのも、この思想は、その後の日本を、泥沼の日中戦争へと引きずり込んだだけでなく、常識では考えられない対米英戦争へと突入させることになったからです。勝った思った思想が実は負けていた?いや、負けた思想はそれ以上に脆弱だった?この辺りの思想的な課題について、大正デモクラシーの時代に遡って再点検してみたいと思います。

2011年7月16日 (土)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか6――満州問題が国家改造に発展した

 これまでの考察で、昭和の青年将校の暴走は「満州問題」の処理をめぐって始まったことが明らかになったと思います。まず森恪によって、その武力解決に向けた政治的道筋が開かれ、それが結果的に張作霖爆殺事件を引き起こすことになった。そして、それが反省されるどころか、一夕会に集う青年将校等によって引き継がれ、周到にその計画が練り直され、理論化され、世論工作がなされて、満州事変となった。この時、満州における日本の権益擁護という問題は、満州を前進基地とする日本国の国家改造の問題へと転化した・・・。これが,その後の日本外交を狂わせた根本的な原因となった、ということです。

 ではなぜ、彼らはそれほどまでして日本の国家改造にこだわったのか、ということですが、その理由は、当時の民政党若槻内閣における幣原外交が、中国の主権尊重を基本とするものだったからで、彼らの主張する満州問題の武力解決を容認しない、と考えられたからです。それは、九カ国条約や不戦条約のもとでは当然のことでしたが、問題は、当時の国民党や張学良政権が、そうした幣原の基本姿勢にも拘わらず、満州における日本の条約上の権益を無視した過激な排日運動を繰り広げたということです。これ は、田中内閣における対支積極(強硬)外交の帰結でもあったわけですが、いささか度が過ぎた。そのため、その責めが総て「幣原外交」に帰され退場を余儀なくされたのです。

 この当たりの事情については、当時、中国に勤務したアメリカの外交官ジョン・マクマリー(中国関係条約州を編集し、ワシントン会議にも参加して、1920年代のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた)が、そのメモランダム(1935年)に次のように記しています。

 「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。

 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない”けち野郎″と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。

 中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。

 そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだった。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。

 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。

 (日本の幣原外交による=筆者)協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」(『平和はいかに失われたか』p180~182)

 マクマリーはここで、日本がこのように東アジアにおいて孤立するようになったのは、当時アメリカが「アメリカ以外の国々に頑固に楯突くよう中国人を鼓舞し、彼らにへつらっただけの無意味で偽善的な」行動をとったためである、と言っています。そうした「協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求」しようとしたアメリカの態度が、武力ではなく外交による国際秩序形成をめざしたワシントン体制を崩壊させ、日本をして、その「正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至」らしめたと言うのです。

 おそらく、これが、第二次若槻内閣のもとでの幣原の対支外交を行き詰まらせ、満州事変を必然ならしめた当時の国際政治要因だったのではないかと思います。また、マクマリーは、張作霖時代における彼と日本との関係や、その後に起こった張作霖爆殺事件、そして張学良について、次のように述べています。

 「張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢しさをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。

 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業側も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。そのあと馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、一九二六年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。

 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。

 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状での頼りにならない不安定要因が彼であった。日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん耐えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。

 上述の状況が、日本の政情の変化の底にあった。そしてワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策″を唱えていた陸軍閥が優位に立った。それが一九三一年(昭和六年)九月十八日の満州事変の背景であり、これがきっかけとなって、満州および他の中国領への日本の侵略が続いていった。そして、日本国民の間に思想の変化が芽生えはじめる。それは中国ならびに極東全般における日本の好機、使命および運命についての考え方の変化である。この考え方は陸軍の指導者や、特定の狂信的な国家主義者知識層にとっては別段目新しくはないが、勤勉で重税に苦しむ大多数の零細農民達の思考とは全くかけ離れたものであった。」(上掲書p177~180)

 ここで注目すべきは、マクマリーが張作霖爆殺事件について「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ―― 一九二八年(昭和三年)に張作霖を爆殺したかということである。」と疑問を呈していることです。一体、この事件がいかなる事情の元に発生したのか、ということについては前回詳しく述べましたが、ここには明らかに、日本人の思想の変化というより思想的劣化が見て取れると思います。おそらく、こうした彼らの「理解しがたい」行動の根底には、例の「十年の臥薪嘗胆」の思いが伏在していたのではないかと思いますが・・・。

 というのも、この時の首相は、彼ら帝国陸軍軍人の大先輩である元大将田中義一であり、その田中が、ようやく張作霖を説得して満州に帰順させ、新たな日満の共同関係を築こうとしたその矢先、関東軍の一将校が、張作霖を列車ごと爆破し死亡させたからです。それだけでなく、彼の同僚である青年将校等はその犯人を英雄視し、政府に圧力をかけて事件の真相をもみ消し、単なる警備不行き届きの行政処分に止めさせただけでなく、その彼を、その後も軍の諜報組織の中で重用し続けた・・・。

 つまり、彼らは、日本国に国家改造を求める以前の、自らの政権とも言うべき田中内閣下において、これだけの独善的・背信的行動を行っていたのです。これを、政府も軍首脳も厳正に処罰することができなかった。こうして、軍内に、軍紀を無視した下克上的行動を蔓延させることになったのです。こうして、昭和6年には軍首脳をも巻き込んだ三月事件というクーデター事件、次いで満州事変、そして、それに連動した再度のクーデター事件である十月事件が引き起こされることになりました。では、これらの連続するクーデター事件の目標は何であったか、それは「日本国の国家改造」ということだったのです。

 で、この「国家改造」という言葉ですが、これはおそらく、北一輝の『日本改造法案大綱』からとられたものではないかと思います。ということは、こうした考え方は、この時代、軍人だけに通用した言葉ではなく、一般に通用した言葉だったということです。では、こうした北一輝の言葉=思想は、これらの事件にどのような影響を及ぼしていたのでしょうか。また、これらの事件に関わったとされるもう一人の右翼イデオローグ大川周明の思想についてはどうだったのでしょうか。次回はこの問題について考えてみたいと思います。これによって、この国家改造という言葉の意味するところが分かりますし、その妥当性を検証することができるからです。

 結果的には、こうした言葉=思想を生み出した大川や北は、前者は五・一五事件で投獄(15年)、後者は二・二六事件で処刑されてしまいました。つまり、彼らは最初は軍に利用され、そして最後はスケープゴートとされたのです。とはいえ、彼らを単なる右翼イデオローグと決めつけ無視することはできません。特に、北の思想には極めて独創的な見解や、戦後民主主義にも通じる優れたアイデアが数多く含まれています。それを正当に評価した上で、では、なぜそれが「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」とか「在郷軍人団を以て改造内閣に直属したる機関」とするなどの、立憲政治や政党政治を否定する「国家改造」法案へとつながったか。

 ここに、昭和の悲劇を理解するための、もう一つの鍵が隠されていると思います。

最終校正7/17 1:30 

2011年7月 7日 (木)

阿比留瑠比氏「今こそ読み返したい『空気の研究』」について

 阿比留瑠比さんが、ブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」に「今こそ読み返したい『空気の研究』」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2345347/)という記事を書いています。

 その書き出しですが、
 「目には見えないながらも日本社会に強く広く根を張り、さまざまな場面でその存在をはっきりと意識させられてきた「空気」について、であります。私は「KY」(空気を読めない)という言葉が大嫌いで、従って「空気」という言葉もあまり記事その他では使用したくないのですが、とはいっても「空気」としか言い表しようのないその場を支配する何かがあるのは事実で、抵抗を覚えつつも何度か使ってきました。

 そして、特に東日本大震災の発生とそれに伴う原発事故以来、この「空気」が顕在化してきたというか、非常に物理的圧迫感を持って体感できる気がするのです。私はこれまでの記者生活を通じ、慰安婦問題、沖縄集団自決問題、在日外国人問題…などを取材・執筆する過程で、常にこの「空気」の問題を実感してきましたし、政権交代時にも、抗い難い、逆らってもムダな「空気」の圧倒的な大波を体験もしました。」

 では、このような日本社会における「空気支配」をどのように克服するか。かって山本七平は名著『空気の研究』で次のような警告を発した、ということで、いくつかの言葉を引用しています。その中心的部分は、《われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きている》《もし将来日本を破壊するものがあるとしたら、それは、三十年前の破滅同様に、おそらく「空気」なのである》ということではないかと思います。

 この記事には、読者から様々なコメントが寄せられていますが、山本七平のいう「空気支配」の意味を、全体的に捉えることは決して容易なことではないような気がします。というのは、この空気支配というのは、必ずしも日本だけのことではなく、どこの国にも見られることですし、それを日本の集団主義や家族共同体思想と関連づけて考えれば、欠点と見えるものも裏から見れば長所に見える。では、その長所を生かし欠点を是正する方法はあるのか、ということになると、どうもよく判らない。

 どうもそんなところに止まっていて、山本七平の提言を十分生かし切れない、というのが実情ではないかと思います。そこで、以下、私なりに、この問題、つまり、日本における空気支配の問題について考えてみたいと思います。 

 山本七平のいう日本における「空気支配」とは、日本が「追いつき、追い越せ」の到達すべきモデル(既にその正しさが証明されたモデル)を持っている場合は、大変効果を発揮する。しかし、このモデルがなくなって、新たに進むべき道を選択せざるを得ない場合、ある「特定の観念」(未だその正しさが証明されていないもの)に感情移入し偶像化してしまうため、他の意見を一切受け付けなくなる。その結果、間違った選択をしてしまうことを言っています。

 戦前について、その「特定の観念」を列挙すれば、①満州問題の解決について、満蒙を日本の生命線とし、武力に訴えてでもそれを守るべきとしたこと。②蒋介石の存在を、その生命線を守る上での障碍と決めつけ排除しようとしたこと。③西洋文明を覇道文明、東洋文明を王道文明とし、後者が前者を支配することが世界平和をもたらすとしたこと。④日中戦争が終わらないのは、英米が蒋介石を支援しアジアの植民地を維持しようとしているからで、従って、英米との戦争はアジアの植民地解放戦争であるとしたこと、などです。

 これらは、そのいずれも、当時その正しさが証明されたわけではなく、①は、陸軍が自らの行動を正当化するために、全国遊説を行い、また既成事実化することで作り出した空気。②は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップを軽視ししたためにできた空気。③は当時の右翼イデオローグや石原莞爾等によって唱えられ、当時の知識人等の大量転向をもたらした最強の空気。④は、大東亜戦争の勃発に際して、日中戦争に植民地解放という新たな意義を与えることでできあがった空気です。

 残念ながら、①は意図的な宣伝の結果できた「恣意的空気」。②は、陸軍が中国のナショナリズムと蒋介石のリーダーシップの評価を誤ったためできた「誤認的空気」。③は、日本の尊皇思想に基づく忠孝一致の伝統思想と、英米の自由主義思想に基づく政治思想(政党政治や議会政治)との葛藤が生み出した「攘夷的空気」(これは今でも未解決)。④は、日本人の日中戦争に対する負い目、それに起因する心理的負担を、資本主義超大国である英米に挑戦することで聖戦に転化した「幻想的空気」です。

 これらは、そのいずれも、日本が明治の文明開化、富国強兵、殖産興業によって、一応、西欧をモデルとする近代化に成功したため、日本がモデル喪失状態に陥り、あるいは西欧の妨害を意識するようになったことで生まれた空気です。つまり、追求すべきモデルがなくなり、大正デモクラシー下の思想的混乱に耐えらなくなった結果、最も伝統的で抵抗の少ない尊皇攘夷思想を掘り起こしてしまった。そのため、明治維新以来、欧米に学び育ててきた政党政治や議会政治を否定する空気が生まれたのです。

 この「空気支配」の問題を、今日の日本の政治状況において考えてみると、国内的には、少子高齢化の問題、社会保障費の増大などに起因する財政状況の悪化の問題、低成長経済の長期化等の国内問題等があります。また、地球温暖化問題やエネルギー問題等、特に原子力発電などは、世界的に見ても、未だその解決法が見つかっていない問題です。従って、日本がこうした問題の解決に取り組む場合、先に戦前の空気支配について述べたような、非合理的な空気支配に陥らないようにすることが極めて大切です。

 その場合に心すべきこと。その第一は、議論の際に自分は「絶対正しい」とか「全き善人」だなどと思わないこと。つまり、自分の意見はあくまで「仮説」であって、他者と意見を戦わすことによって、はじめて、より真実に近い結論が得られると考えること。つまり、自分は「不完全なる善・悪人」にすぎないと見定めることです。その上で、科学的な議論の対象となるものについては、価値判断抜きに客観的論証により結論を得るよう努めること。価値的な議論で社会的な選択を必要とするものについては、論争を通じて選択可能な選択肢を提示し、その中から一つを選択することです。

 当たり前のことで、そんなことなら分かっている、と言われそうですが、こうしたことができるようになるためには、まず、自分自身が、日常生活の中で無意識的に依拠している思想は何なのかということを、他の思想との比較などを通して、その客観的把握に努める必要があります。このことは易しいようで実際はなかなか難しい。

 冒頭に紹介した阿比留瑠比さんの記事には、読者より多くのコメントが寄せられています。その中に、かって朝日新聞記者だった稲垣武さんの著書『朝日新聞血風録』からの引用文も紹介されています。

 「とかくするうち、私はいままで朝日新聞社内で受けてきた言論弾圧に等しい仕打ちがなぜ起こったのか、その本質を反芻して考えるようになった。それは単に社内に親中国派、親ソ派がはびこり、また心情左翼が多いということだけでは解明できないだろう。

 親中国派、親ソ派といえども、骨の髄からそういう心情に凝り固まっているのは少なく、社長や編集担当専務などお偉方がそうだから、保身と出世のために阿諛追従しているのが殆どではないか。また心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない。

 考えてみれば、戦前に軍部に迎合し、戦争に積極的に協力したころの朝日新聞社内の状況もこれと同じだったのではないか。当時でもリベラルな思想を持っていた人たちは決して少なくはなかったはずなのに、一旦、社内の空気が軍国主義礼讃に傾き出すと、いちはやくその路線のバスに飛び乗ろうとする手合いが続出して、たちまち一種の雪崩現象が起こり、そういう風潮に乗るのを潔しとしない不器用なリベラル派は陰に陽に弾圧を受け、ついには左遷など不利益処分を覚悟しなければ声を出せないような状態に急速になってしまったのではないか。」

 日本人が、なぜ空気支配に陥りやすいか。このことは、重ねて申しますが、日本人以外の民族が空気支配に陥らないということではありません。問題は、日本人には、それに対する抵抗力というか歯止めの知恵が弱いということ(「水をかける」もその一つだか)。では、その知恵を強化するためにはどうしたらいいか。その第一の関門は、まず、自分自身の依拠している思想的基盤を明確に把握すること。それを言葉で他者に説明できるようになること。それによってはじめて、自分と違う意見を持つ他者との論争が可能となり、より良い結論を得る事ができるようになるのです。

 この点、日本人は、稲垣氏も指摘しているように、「心情左翼といっても、確固としたイデオロギーを持っている連中は少なく、何となく社内の「空気」が左がかっているから、左翼のふりをしているほうが何かと居心地がいいからに過ぎない」という例が極めて多いのです。というのも、彼らの本当の思想は「空気を読みそれに従う」ことで、左翼思想は看板に過ぎないのです。だから、その時代に流行の看板思想に身を寄せたがる。その方が安全だから・・・その結果、事実から益々遠ざかっていく。

 山本七平は、『存亡の条件』(この本は、昭和50年出版ですから、もう半世紀近く前のこと)の末尾でで次のように言っています。

 「今の日本人ぐらい,自分が全然知らない思想を軽侮して無視している民族は珍しい。インド思想も、へブル思想も、儒教も、総てあるいは封建的あるいは迷信の形で、明治と戦後に徹底的に排除され、ただただ馬車馬のように、”進歩的啓蒙”の関門目がけて走り続けたという状態を呈してきた。その結果、『では、どうしろと言うのか』という言葉しか口にできない人間になってしまったわけである。その結果、諸外国を見回って(といって、見回ったぐらいで外国文化がわかったら大変なことなのだが)、あちらはああやっているから、ああしようといえば、すぐまねをし、また、こうしたらいいという暗示にかかれば、すぐその通りにするといった状態は、実に、つい最近まで――否、恐らく今も続いている状態なのである。

 そのため、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということ、いわば最も「リアル」な事が逆にわからなくなり、自分が、世界の文化圏の中のどこの位置にいて、どのような状態にあり、どのような伝統の延線上にあるかさえわからなくなってきた。従って、まずこれを,他との対比の上に再確認再把握しないと、自分が生きているその基準さえつかめない状態になってしまったのである。そして、これがつかめない限り、人間には、前述のように進歩ということはあり得ない。」

 「なるほど、では、どうしろというのか」。またこの質問が出るであろう。他人がどうしたらよいか、そんなことは私は知らないし、誰も知らない。」(前掲書p179~181)

 民主党のばらまき政策の多くが、諸外国を見回って、あちらはああやっている、といってすぐまねをし、また、こうしたら良いという暗示ににかかれば、すぐその通りにする。その場合、彼らの思想的基盤がしっかり把握されていればまだいいのですが、その思想自体も借り物が多い。で、その本音の思想は、むき出しの金権、夢想的な人間性善説、なりふり構わぬ権力至上主義であったりするのです。この看板思想と実際の思想との恐るべき乖離、これが醜悪なまでに露呈しているのが、今日の民主党政治なのではないでしょうか。

最終校正(7/7 12:41)

2011年7月 4日 (月)

民主党のリーダーには、金権、ルーピー、ペテン師の外にヤクザもいた!

 先日(6月22日)の、フジテレビのプライムニュース「どうなる国会会期延長、首相退陣条件再表明(後編)
  http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html
 を見ていてびっくりしたことがあります。ゲストの一人に民主党副代表の石井一氏がいて、菅首相の退陣時期について、次のように主張していました。

 「自民党の首相は1年で放り出したが、菅首相は粘っている。首相は二次補正、特例公債、再生法案の道筋が付けばやめるといっている。その見極めが付かないからやっているのだから、そこまで見守ってあげるべきだ。問題は菅の後は誰が良いか、誰もいないから困っているわけで、今の時期は選挙も出来ないし、従って、菅がやめればいいとも言えない。しかし、以上の三点の法案処理をしてもらえれば菅はやめるし、やめさせる。その後、新しい顔が決まったら、自民党にも”仁義切りますから!”」

 確かに、自民党の二世首相等の”だらしなさ”はご指摘の通りだと思いました。それに比べれば”菅は確かに粘っている”わけで、その点は評価すべきと思いました。つまり、首相になった以上、マスコミが流す世論調査などには惑わされず、4年の任期は必ず全うするつもりで首相の任を果たしてもらいたい。また、その覚悟をもって首相になるべきであり、また、それに耐えるだけの首相を国会議員は選んでいただきたい、ということです。

 それはよろしいのですが、しかし残念ながら、菅氏などの場合は、もともと首相になるべき人材ではなくて、こういう場合は、村山氏のように潔く身を引く謙虚さを持つべきだと思います。それにしても、石井氏の、「仁義を切る」という言葉はいただけませんね。これは、「やくざ言葉」であって、今日の政界でも当たり前のように使われているのでしょうが、私も、ヤクザにからまれた経験があって、そのすさまじさを知っているだけに、こうした言葉使いは、選良たる政治家の世界からはぜひ追放して欲しいと思いました。

 ところが、それどころの話じゃないことを、YOUTUBEの「松本復興相、宮城県知事を叱責 記者恫喝」http://dougakensaku.info/detail/TpvGCRA4228の動画で目撃しました。

 これは、この度の政府の役員人事で復興大臣となった松本龍氏が宮城県庁を訪れた時、村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、「(村井知事が)先にいるのが筋だよな」といいつつソファーに座り、「数分後、笑顔で現れた村井知事が握手を求めようとしますが、これを拒否」し、村井知事に次のように語ったシーンです。

 松本氏
「(水産特区)は県でコンセンサス得ろよ。そうしないと我々何もしないぞ。ちゃんとやれ」
(知事に対して)「いまあとから入ってきたけど、お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。いいか? 長幼の序がわかっている自衛隊ならやるぞ。わかった?しっかりやれよ。今の最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。絶対書いたらその社は終わりだから」

 ”オフレコなのに報じてしまった東北放送は、松本氏によって終わってしまうのか?”などとコメントが書かれていますが、これ、オフレコ扱いされるべき発言でしょうか。

 今までも、何度か”オフレコ”と断ったはずの言葉をマスコミに流されて、辞任を余儀なくされた大臣がいました。そのオフレコの定義ですが、「日本新聞協会編集委員会はオフレコについて、ニュースソース(取材源)側と取材記者側が相互に確認し、納得したうえで、外部に漏らさないことなど、一定の条件のもとに情報の提供を受ける取材方法で、取材源を相手の承諾なしに明らかにしない「取材源の秘匿」、取材上知り得た秘密を保持する「記者の証言拒絶権」と同次元のものであり、その約束には破られてはならない道義的責任がある。」と解説しています。(wiki「オフレコ」参照)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%B3

 そこで、先の松本大臣の発言ですが、これ「オフレコ」となるのでしょうか。「今の最後の言葉はオフレコです」という、その最後の言葉とは「長幼の序がわかっている自衛隊ならやるぞ。わかった?しっかりやれよ。」だろうと思いますが、これは「取材源を秘匿することによって得られる政治家の本音の言葉」などと言えるものではなく、単なる暴言に過ぎないのではないでしょうか。

 このヤクザまがいの、ほとんど恫喝に近い”言葉遣い”。これは政府の震災復興担当大臣が、被災地である宮城県の知事を公式訪問し、知事室において知事に対してなした発言であって、およそ公職にあるものが公の席で使うべき言葉遣いではないと思います。要するに、知事の出迎えがないのに腹を立て”カッ”となって暴言を吐いたということなのでしょうが・・・。

 菅首相についても言えることですが、こうした感情むき出しの恫喝的発言・・・政治権力者がその政治権力を維持するための手段は、ガルブレイズによれば、「威嚇・報償・条件付け」だそうで、そこで松本大臣は出迎えをしなかった知事に対して、「長幼の序がわかっているか」と「威嚇」し、復興資金という「報償」を見せびらかし、バッタのように唯々諾々と自分に従うよう彼らを「条件付け」ようとしたのでしょう。

 しかし、世の中の平等主義が強くなればなるほど、その社会において求められるリーダーシップの型は、「人望主義」にならざるを得ないといいます。では、この「人望」とは何か。まず、「克伐怨欲」を抑え「礼」に復ること、つまり、他人を押し倒し、オレがオレがと自己主張し、それがかなわないと怨み、私欲を逞しくする。そういった感情を「自己抑制」し、「礼儀にかなった振る舞い」を身につけることです。

 で、この松本大臣のYOUTUBEで見られる態度についてですが、まずこの言葉遣い、その恫喝的口調・態度・・・私はかっての自民党政権時代においても、このような風景は見たことがありません。その露骨な威張り方は、およそ政治家・・・まして国務大臣としての品性を疑わせるに十分で、一体こうしたヤクザまがいの大臣が出てくる民主党政権なるもの、まるで”お化け屋敷”のようで、首相の任命責任どころの話じゃありませんね。

 そして、松本大臣のホントの最後の言葉、”今の最後の言葉はオフレコです。いいですか? 皆さん。絶対書いたらその社は終わりだから”の、”その社は終わりだから”ですが、マスコミはこの言葉をスルーするのでしょうか(この発言をそのまま伝えず、言い換えた社がほとんどですが)。まさか、戦前のようにテロの襲撃を懼れているわけでもあるまいと思いますが・・・。いや、テロに遭う危険があっても守り通さなければならないものもあるはずです。

 なお、これだけ民主党政権が”お化け屋敷”であることが明らかとなっても、自民党の支持率は上がらない、その原因ですが、私は、その主張が明快さを欠いているからだと思います。民主党程ではないにしても、自民党も思想的に混沌としており、また、谷垣首相も”一緒にやろうぜ”では求心力になりません。従って、今後は、政党解体、政界再編しか道はないと思いますが、しばらくはこうした訳の判らない状態が続くのではないでしょうか。

 私は長年、山本七平の言葉を聞いていますが、一種通奏低音のように私の耳朶に響いている言葉があります。それは、日本が大東亜戦争に破れ、日本軍将兵が南方の捕虜収容所に入れられた時のこと。軍の階級が剥奪され、その後、収容所の中で自然発生的に生まれた秩序が、なんと暴力団支配だった・・・そして、それがほとんどの収容所において例外なく起こったと、いうことです。

 私は、上記の松本大臣の言葉遣いに、かって経験した暴力団の恫喝的論理そっくりのものを感じ、実にいやな思いを致しました。断じて日本のマスコミはこれを看過すべきでない。日本の政治の論理は決して暴力団のそれであってはならないはずだ。マスコミには是非その理非を、国民の前に明らかにしていただきたいと思います。どうせ、政治家にはお茶濁しのようなことしか出来ないでしょうから。

昭和の青年将校はなぜ暴走したか5――青年将校にとって満州は生命線だった

 まず、前回提示した疑問についての私の考えを述べておきます。『森恪』の著者山浦貫一は、森恪の対支政策の「本当の狙い」について次のように述べています。

 それは「もともと国共を分離せしめ・・・ソ連と断絶した後の国民革命はこれを認めこれを助けて支那の統一を完成せしめる。そして、多年の懸案である満州問題を解決することだった。しかし、北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立ったため、(やむなく)山東出兵したのである」。

  この間の事情について、『軍閥興亡史』の伊藤正徳は次のように記しています。 

 「これより先田中内閣の初期、蒋介石は革命運動に躓いて日本に逃避し、日本の援助を瀬踏みに来たことがある。その時、田中は箱根に於て蒋介石と密会し、蔣が南支を平定することに対し間接に後援するが、満洲の方は日本と北方軍閥(張作霖)の交渉に一任して干渉をしない約束をとり付けていた。だから半年後の蒋介石の北伐に対しても、田中は好意的でこそあれ、之を阻止する考えはなかった。

 にも拘らず、二回に亙って山東方面に出兵したのは、一に政友会内閣の方針が、山東方面の居留民(総数約三万五千名)に対しては一弾をも投じさせてはならぬという強硬主義に動かされたわけである。即ちこの出兵は選挙政策であり、軍部の主張に依ったのでもなく、また田中の発意に基いたのでもない。そうして却って済南事件(邦人十数名殺害)などを起こし、且つ支那国民の対日反感を増大させるような失敗に終ったのは、田中にとっては気の毒という外はなかった。」

 これを見ると、山浦の言う「北伐に際し,政友会伝統の積極政策主張の建前から出兵せざるを得ない立場に立った」というのは、政友会の選挙政策上やむを得ずそうした措置をとったということです。ということは、こうした政友会の政策(南京事件の処理に当たって幣原外交を軟弱外交と非難し居留民の現地保護を主張した)を主導したのは森恪だったのですから、これは田中の言い分とはなっても、森恪の言い分とはならない。これは、森恪による幣原外交攻撃が、政友会の党利党略に過ぎなかったことを物語るだけのものです。

 なお、田中内閣における外務大臣は田中義一首相自身が兼摂し、外務次官には森恪を充てました。このことは、田中内閣における実質的な外務大臣は森恪だったということを意味します。次に述べる東方会議は、この森恪が、陸軍の鈴木貞一や吉田茂(奉天総領事)らと図って、田中内閣の対支積極(=強硬)政策を、政府、政党、在外各関係者及び陸海軍の一致した国策に格上げしようとしたものです。

 しかし、その「東方会議も掛け声だけに終り、その後の張作霖との交渉も順当に進まず、結局は、陸軍方面の要望する武力による解決の外はないか、と田中は段々と転向を余儀なくされて行った。ただ、一点彼の大局観を弁護する材料は、帝国陸軍を表面の主動者とすることを飽くまで回避する方針であったことだ。

 そもそも田中の対支外交の一大原則は「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」というにあった。言は壮なるに似たれども、満蒙は支那の主権下にある地域だから、日本がそれを安住の地たらしめる権能も責任もなく、その意味で外交標語としては粗笨(そほん)の非難を免れなかった。単に万難を排しても同地方の既得損益を擁護すると言えば、内外斉しくそれを非難する者はなかった筈だ。(幣原はそれをやろうとした=筆者)ところが「安住の地たらしめる」の一語の中に、何となく支配者の意慾が疑われる点があり、貴族院に於ける質問演説で幣原前外相から酷く油を絞られたようなこともあった。」

 この「満蒙をして内外人安住の地たらしめる」という言葉を対支外交の一大原則とするところに、田中首相の危うさが現れています。まして、蒋介石による中国の全国統一事業(北伐)が行われている最中に、わざわざ山東に出兵することや、そうした対支積極政策を日本の国策とするため、鳴り物入りで「東方会議」を開催するなどということが支那側を刺激しないはずがありません。当然、外交交渉による満蒙問題の解決は困難となる。その結果どういうことになったか。

 次の記述は、引き続き『軍閥興亡史』からのものですが、おそらく、東方会議以降第二次山東出兵に至るまでの軍の内情を記したものではないかと思われます。

 「満州問題の解決は外交交渉では片附かないとなれば、最早や武力の行使しかない。が、陸軍を表面に出してはならない。軍が満洲へ出て行く場合は、既得権を擁護する上に万己むを得なかったということを、内外ともに承認するような形に於て行われるのでなければ不可(まず)い。」

 つまり、当初は、冒頭に紹介したような方法で満蒙問題を解決しようとしていた田中でしたが、そのための外交交渉が進展しないとなれば、従来より武力行使による問題解決を主張してきた青年将校らの意見に耳を貸さざるを得なくなる。その時、そうした武力行使のプラニングをしたのも森恪ではないか、というのです。

 「世上、それは参謀長森恪の画策に依るとも言われているが、要は満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決する方式であった。

 田中は密かに親交のあった大新聞の実権者を招いて内容を打ち明け、その場合には、言論の支持を得られるか否かを質した。それに対し、そのI博士は襟を正して、「表面は誰が事件を起すにしても、世間は陸軍がそれを起したことを信じて疑わないであろう。俗に謂う、頭隠して尻隠さずで、軍の信用が失墜するだけである――」と率直に苦言を呈した。暫く問答した後、田中は沈痛に「そうかノウ、では暫時中止するか」と言って別れたという。

 後で調べると、時余にして田中は陸軍次官畑英太郎を招致し、「あの計画は暫く止めておくから至急手配せよ」と命じている。即ち知る、その計画なるものは、軍が中心となるか、少なくとも某有力パートナーとして画策していたことが明白である。

 既にして政友会院外団の一味や、満洲事業家の乾分達は満洲に入り込んで内乱作製の手筈を進めていたのだ。満蒙の地に内乱が起こっては日本は見物をしている訳には行かない、大至急陸軍を動員して之を平定するという筋書が出来上がっていたのである。軍の若い一部将校達は、そこまで策謀しなければ内部的にも治まらない所まで激昂していたのだ。穏健な大・中佐級の一部を評して、「一身のみを守る不忠の輩」と罵るような乱暴な青年将校が、五人や十人ではきかなかったのだ。上級将官が断乎として之を処罰しない限り、そのままでは軍紀軍律を紊る陸軍の一大不詳事を惹起することは必定であった。

 ところが、大・中将は既に弱かったばかりでなく、彼らの満州擾乱、出兵平定の筋書きには本心賛成なのであるから、それを抑えるよりは寧ろ心で歓迎し、何時しか「軍の内面指導」の下に計画を進め、一方に外務省は森次官が連絡係として奔走し、今は単に時日を待つばかりに熟していたのだった。そこへ、突如田中から暫時中止の命令が下ったのだ。驚きは忽ち憤りと変わった。以来、田中に対する軍部の信頼と支持とは急角度を以て消散して行った。それは実に、張作霖爆殺事件の発生する僅か一ヶ月前のことであった。」(以上引用、上掲書p134~136)

 張作霖爆殺事件は昭和3年6月4日ですから、その一ヶ月前といえば5月4日、丁度済南市街で北伐軍と日本軍第6師団間に軍事衝突が起こっていた頃です。それが拡大して5月8日より日本軍の済南城攻撃・占領となり、北伐軍に多大な死傷者を出すに至りました。このため北伐(国民革命)軍は済南を迂回して北上し北京に向かいました。日本はさらに出兵兵力を増加(第三次山東出兵)し、5月18日には満州治安維持宣言を出し、同時に関東軍を奉天に出動させました。

 このねらいは、もし北伐軍と北京の張作霖軍の間に戦闘が始まれば、関東軍が長城線近くの錦州――山海関まで出動して両軍を武装解除し、この機に張作霖を下野せしめて、満州の軍事的支配権を握ろうというものでした。ところが、ここでも田中は、アメリカ政府が抗議めいた動きを見せたこともあって、10日間迷ったあげく「オラはやめた。張作霖は無事に帰してやれ」と初心に逆戻りしてしまいました。

 おさまらぬのは、刀の鞘を払って振りかぶっていた関東軍である。温厚な斉藤参謀長すら日記に『現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし』と書いたぐらいで、肚に据えかねた関東軍村岡軍司令官は、密かに部下の竹下義晴少佐を呼んで、北京で刺客を調達し、張作霖を殺せと指示する。それを察知した河本が『張抹殺は私が全責任を負ってやります。』と申し出て、列車ぐるみの爆破プランへ合流させたのであった。(『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦p32~33)

 この間の事情について『森恪』では次のように記述しています。

 「田中男をして、首鼠両端的態度に出でしめたものは、田中男周囲の古い伝統であり、さらにそれを動かした動力は華府会議以来の米国の日本に対する圧力であった。
 我が大陸政策の遂行上千載の好機を逸したというのは、それがやがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相剋抗争を続けていることを指す。若し、田中内閣の時代に、森の政策を驀進的に遂行していたなら満州事変も支那事変も、仮に起こらざるを得ない必然的な運命を帯びたものであったにしても、その姿はよほど趣を異にしていたであろう。」(上掲書p643)

 こう見てくると、張作霖爆殺事件のような暴虐無比の事件も、それは決して河本大作の個人的憤激により惹起されたものではなく、田中内閣外務次官森恪が、軍の青年将校等と図って引き起こそうとしていた「第一次満州事変」――満洲の某地点に一つの紛擾事件を起こし(民間人の手に依って)、日本軍が出動しなければ平和を回復し得ない状態を造り上げ、そこで出兵して一挙に懸案を解決しようとした――の一つの暴発的形態だったということが判ります。つまり、満蒙問題とは、この時代の軍の中堅以下壮青年将校達にとっては、こうした謀略的手段に訴えてでも解決すべき死活的な問題だったのです。

 「満蒙を何とかせねばならぬ」というのが田中の国策第一条であった。これより先き「満蒙を制圧せねばならぬ」というのが軍部の念願、特に中堅以下の壮青年将校の燃えるような願望であった。これによってのみ、多年軍縮下に抑えられた不満を晴らすことが出来、戦闘によって軍人は蘇生し、軍旗は原隊に還るであろう。この利己的注釈が全部では無論ない。満州の野は二十万同胞の霊の眠るところ、日本発展の運命の地域。それを領有しないまでも、確実に我が勢力下に安定させることは、民族の発展を願う者、国を愛する者の当然の信条でなければならぬ。人心廃れ、政党腐り、恬としてこれを顧みないならば、吾等こそこの天地に廓清の血の雨を降らしても目的に邁進するであろう――と彼らは自ら注釈した。(軍閥興亡史Ⅱp135)

(以下、論旨を明確にするため書き換えました。7/16)

 そして、こうした彼ら「自らの注釈」に、国家改造へと進む政治的道筋をつけたのが、田中内閣において実質的な外務大臣を務めた森恪でした。これが、結果的に張作霖爆殺事件という暴虐とも愚劣とも言いようのない事件を引き起こすことになったのです。問題は、これが反省されるどころか、一夕会に結集する青年将校等によって継承され、より周到に計画され再び実行に移されたということです。こうして引き起こされた満州事変は、単に満州における日本の権益擁護という意味だけでなく、日本国の国家改造を牽引する前進基地づくりとしての意味を持つようになっていました。

 つまり、満州における既得権益擁護の問題が、日本国の国家改造を求める革命運動へと転化したのです。おそらくこれが既得権擁護の問題に止まっていれば、満州問題はもっと合理的な解決ができたでしょう。しかし、満州事変以降軍によって推し進められた国家改造の動きは、明治・大正を通じてようやく根付きはじめた日本の政党政治、立憲政治を圧殺することになりました。代わって、一国一党の国家社会主義が追求されました。そして、その思想の日本的読み替えが尊皇思想に基づく忠孝一致の天皇親政だったのです。

 この辺りの思想的絡み合いは、アジア主義者や支那通軍人の「アジア諸国連帯論や西洋列強からの解放論」、近衛の「持てる国、持たざる国論」、森恪の「『浮城物語』的冒険主義」、右翼イデオローグの巨頭北一輝や大川周明等によって唱えられた国家社会主義や日本主義、石原完爾の「最終戦争論」などが入り交じって、一体、どこにその中心があるのか容易には分かりません。もちろん、その中心的な担い手が昭和の青年将校等であったことは間違いなく、ではなぜ、彼らがその中心的な担い手となったか。この問いに答えることが、本稿の主題「昭和の青年将校はなぜ暴走したか」に答えることになります。

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