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2011年8月

2011年8月29日 (月)

吉本隆明「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない」発言について

「一知半解」ブログ

補給低能の『日本列島改造論』的作戦要綱&「長沼判決式民衆蜂起・竹槍戦術」的発想が日本によみがえる

への私コメントの再掲です。

一知半解さんへ

 日本はエネルギー源である石油を東南アジアに確保しようとして大東亜戦争をはじめました。原発の問題は、今後、日本が生存していくためにはこれをどう確保するかという視点で考える必要があります。

 そこでおもしろいのが次の吉本隆明氏の言葉です。

――事故によって原発廃絶論が出ているが。

「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。

 だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です」

 これに対して、吉本は”耄碌した”という意見が大半です。「原発は危険な技術だからやめるべきだ。従って、”原発をやめるという選択は考えられない”と言う吉本の言は”耄碌じじいのたわごとだ”と言うのです。

 しかし、原発が危険なことは福島以前にも分かっていたことであって、だから安全確保のための万全の防御装置が施されてきたのであり、今回の事故は、その当然採用されるべき防御策が採られていなかったために起こったことなのです。

 つまり、吉本氏の言は、その当然採らるべき防御策を採っていなかったという設置者の不注意と、事故後の、放射能物質のスポット拡散の危険性を住民に知らせなかった(speediの情報隠蔽)政府の対応を、論外だと非難しているのです。

 この指摘は何処も間違っていません。ではなぜ、これが「耄碌じじいのたわごと」になるのか。おそらくこれは”発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人間をやめろ、と言うのと同じ”という冷厳なる事実を事実と認識できないためです。

 日本人は、自分達が原発をやめさえすれば、それで問題が解決すると思っている。ところが、核技術は危険を伴うが魅力的な先端技術です。だから日本がやめても誰かが使う。そのことは、核爆弾のような大量破壊を目的としたものでも容易に廃棄できない事を見れば判ります。だから、その管理が必要になるのです。核抑止力もその管理法の一つです。

 では原発の場合はどうか。日本がやめても誰かが使う。お隣の中国は絶対にやめない(だろう)。それは大変危険である。だからその管理法をIAEAに監視してもらう。また、その管理技術を日本が提供する。福島の経験を生かす。それが日本の国際社会に対する責任です。

 おそらく、日本の原子力発電は、今後、旧式の廃炉、新式原子炉のさらなる安全性の確保などに努めつつ、その技術を国際社会に提供し、さらにco2削減やコスト面の配慮をしながら代替エネルギーや自然エネルギーの技術開発・導入を進めていくことになると思います。

 その間、新しいより安全な核技術の研究開発を進め、化石燃料が枯渇する未来に備える。また、軽水炉型原発は、万一の事故の際も最小限の被害でくい止め得るよう、小型化、地下埋め込み式などの技術開発を進める(日下公人)。さらには放射能廃棄物の処理技術の開発を進める。(高速増殖炉による核燃料サイクルは破綻しているという河野太郎さんの主張については、現在疑問点を問い合わせ中です)*下線部「既存」を訂正。()内は追記9/6

 結局、そういったところに落ち着くのではないでしょうか。核技術は原発を含め今後も使われるし発展を続ける。それは有用ではあるが危険も伴う。だから人間がそれを管理する必要があるのです。それができなければ人間は滅びる。それは知恵の実を食べた人間の宿命なのです。

 吉本氏はこの冷厳な事実を指摘しているに過ぎません。とりわけ核技術はそうした人間の宿命を象徴しているのです。そのことは今日の国際社会における核の管理法を見てみれば直ぐに分かります。核抑止力もその一環だしIAEAもその一つです。

 おそらく戦後の日本人は、そうした国際社会における安全管理の責任をアメリカに負わしてきたために、「水と安全はタダ」という鎖国時代の意識に先祖返りしてしまったのですね。でも鎖国時代には戻れない。不思議なことに、この情報公開の時代に、この単純な事実さえ認識できない。

 そんな、人間(=自分)の宿命を見抜くことが出来ない、そのための知恵も勇気も持たない、それどころかその事実を指摘した人間を”耄碌じじい”呼ばわりする国民の面倒を、一体世界の誰が見てくれるでしょうか。

2011年8月27日 (土)

”アレ”呼ばわりされた戦後民主主義の人望なきリーダー

izaブログで阿比留瑠比さんが、氏が菅首相を「アレ」よばわりしたことについて「メディアと報道の限界と個人的徒労感と」というエントリーで次のように抗弁しています。

 このところ、菅首相を人間扱いすることに強い抵抗を覚えたので「アレ」と書いてきたことにも、たくさんの批判や抗議を受けました。ここのコメント欄だけでなく、産経に届いたはがきその他でも、新聞記者の品位を落とすとか、記事の劣化が甚だしいであるとか、いろいろ言われました。

 でも、所詮は瓦版屋の末裔、「羽織ゴロ」ごときの品性を問題にするそういう人たちに限って、どうしてもっと大事で本質的な菅首相の品性は問題には目をつむるのか、納得はいきません。それは紙面では、一応の体裁も品性も必要でしょうが、本音を語るブログでまで自己規制させてどうしたいのか。常識や良識の範疇では語れない異様な存在を、常識的で良識的な言葉でどう表現しろというのでしょうか。

 政治評論ブログランキングでトップを行くブロガーに賛否硬軟・玉石混淆の意見が寄せられるのは当然だと思いますが、それにしても自国の首相を「アレ」よばわりした心境・・・貴方はどう思いますかと問われれば、私も同じ気持ちになりました、と答えます。

 このことは、昨日の菅首相の辞任の弁を聞いて再認識された方も多かったのではないかと思いますが、要するに”自分のことばっかり”で、自分の「怨・欲」だけが見えて、他人(政治家の場合は国民)はひたすら「克・伐」の対象でしかない、という異様です。

 おそらく、戦後民主主義が生んだ奇形的人格の一つでしょうが、では、何が氏をしてそのような”異様”を感じさせるのかと言えば、私は、「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラ」ざるべきリーダーとしての人望が欠如していることにあると思います。

 このことについては、私は本年の6月1日に、「人望の研究――菅首相の場合」という記事をエントリーしました。今回の菅首相の辞任の弁を聞いて、ますますこの感を深くしましたので、あえて本記事を再掲させていただきます。

 政治家の皆様方には、是非、以下のような山本七平氏の指摘を肝に銘じていただきたい。民主主義社会で平等意識が強まれば強まるほど、政治的リーダーには人望が求められる。

 菅首相はなぜ”アレ”となったか。「人望を得てはじめて人は人となる」のであって、これがなければ「人とは見なされない」と言うことです。まして、政治家においてをや、首相においてをや・・・。 

(以下「人望の研究――菅首相の場合」再掲)

 原子炉への海水注入をめぐるドタバタ騒ぎで、「いら菅」と評されてきた感情激発型人間菅首相の「人望のなさ」がいよいよ明らかとなり、早晩、辞任を余儀なくされることになるのではないか、と予測されます。

 山本七平の『人望の研究』には、この「人望」とは何か、ということが大変興味深く論じられていて、この人望を身につけるためには、まず、「克・伐・怨・欲」を抑え、「己に克ちて礼に復る」こと。つまり、他人を押しのけ、オレがオレがと自己主張し、それが叶わないと人を恨み、私欲をたくましくする、そんな自己中心的な心を抑えて、礼節をもって人に接する事ができるようになること、これを、その第一条件としています。

 次に、そうした自己中心的な心を抑えたとしても、人間には「感情」がある。つまり、喜・怒(いかり)・哀(悲しみ)・懼(おそれ)・愛(執着)・悪(にくしみ)・欲の「七情」がある。そこで、これらの感情を抑制しないで野放しにすると、自分の本来持っている人間性が損なわれるだけでなく、周囲の者も、その感情に振り回されどうしたらいいのか判らなくなる(そのため、首相の意向を忖度し「海水の注水を止める」といった今回のような行動が生まれる)。従って、この「七情」の激発を抑えることが極めて大切だ、というのです。

 つまり、このような努力を積み重ねることによって、人は少しずつ「人望」を身につけていくわけですが、実は、この「人望」というのは、その人の職業や思想信条、あるいは時代や国の違いを超えて、リーダーに対して共通に求められる普遍的な「能力」となっている。

 さらに、こうした「人望」は、平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力となってきていて、従って、リーダーたるべき人は、学問知識を身につけることと同時に、こうした「人望」を身につける努力=「自己修養」を怠らないようにしなければいけない、というのです。

 では、その「人望」というのは、具体的には、どのような「徳」を身につけることをいうのか、というと、『近思録』では、これを「九徳」と言い、次のような九つの徳目を身につけることを、その具体的な到達目標としている。

(一)寬にして栗(寛大だがしまりがある)
(二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(六)直にして温(正直・率直だが、温和)
(七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(九)彊にして義(強勇だが、義しい)
 
 何となく、判ったような判らないような感じで、まあ、なんと細かな人間観察をしたものか、と感心しますが、いずれにしろ、こうした「九徳」を身につけることが、リーダーたるべき条件であると、儒教は教えてきたわけです。

 現代の日本人は、儒教といえば、封建的な人間道徳を教えるもので、個人の自由を基本とする現代社会には合わないと考える人も多いと思いますが、こうした儒教におけるリーダー条件を見れば、その人間観察が決して半端なものではないことが判ると思います。

 といっても、これらの徳目には、それぞれ相反する要素が含まれていて、どちらが欠けても不徳になる、全部がそうなれば「九不徳」となり、両方が欠ければ「十八不徳」になる。では、その理想的な状態とはどういう状態を指すのかというと、これらの徳の相反する要素をバランスさせることであり、つまり、これが「中庸を得る」ということなのではないかと思われます。

 そこで、この「九徳」をよりわかりやすくするために、あえて、その逆の「十八不徳」になるとどうなるか書き出してみると、

(一)こせこせうるさいくせに、しまりがない。
(二)とげとげしいくせに、事が処理できない。
(三)不まじめなくせに、尊大で、つっけんどんである。
(四)事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である。
(五)粗暴なくせに、気が弱い。
(六)率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である。
(七)何もかも干渉するくせに、全体がつかめない。
(八)見たところ弱々しくて、内もからっぽ。
(九)気が小さいくせに、こそこそ悪事を働く。

 となります。

 以上、山本七平による「人望」の条件について記して来ましたが、「克・伐・怨・欲」を抑えられず、「七情」をところ構わず発散し、と言ったところで、なんだか”オレは聞いてない!と怒鳴り散らす・・・らしい菅首相の姿が自然と脳裏に浮かんできました。

 さらに、これを前記の「十八不徳」に照らしてみると、不思議にピタッと当てはまる項目が、菅首相の場合にはいくつもあるように思われ、ああ、これでは、この危機的状況の中で、日本のリーダーを務めることはできないだろうな、と思われました。

 なにしろ、リーダーにこうした「人望」を欠いた場合は、旧日本軍においてすら、部下が面従腹背となり、組織が全く動かなくなったと言いますから。

 平等社会になればなるほど、リーダーには、こうした「人望」を身につけることが求められる・・・。日本の政治家の皆さんも、以上の「九徳」を自らを写し出す鏡として、真に「人望」あるリーダーを目指していただきたいと思います。

2011年8月26日 (金)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか12――北一輝から見た皇道派と統制派の違い

 まず、本エントリー№9で紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」を再掲します。

 「・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。

 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。

 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。

 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。

 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。

 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。

 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。

 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。

 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。

 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。

 以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。
昭和十一年三月二十一日」

 これを見ると、北一輝という人物は、右翼イデオローグとしての一般的なイメージとは随分違って、その対支、対米関係調整の視点は、当時の省部の幕僚軍人と比べてもはるかに冷静かつ妥当なものであったことが判ります。また、広田外相や重光次官等外交官を始め、中野正剛、永井柳之介等政治家との連絡の他、中国国民党外交部長張群との盟友関係もあるなど、外交的にも幅広い人脈を有していたことになります。

 その彼が、どうして皇道派青年将校と関係したのか。なにしろ、彼の天皇観は、彼等が主張した万世一系の天皇観とはまるで違っていて、それは、彼らが執拗に排撃した「天皇機関説」そのものでした。このことは、北一輝の著作『国体論及び純正社会主義』を見れば明らかで、彼はその中で「万世一系の一語を一切演繹の基礎となす穂積八束の論」を、哀れむべき「白痴の論」といい、彼らのいう「『国体論』中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非ず」と痛烈に批判しています。

 その上で、次のような彼流の維新革命論が展開されます。(次は『北一輝著作集第一巻』神島二郎による解説文からの引用です。長大かつ難解な『国体論』の本文をわかりやすくまとめていますので)

 維新革命、この「万機公論の国是を掲げて民主主義に踏みきられたこの法律的革命は、当初、国民の法律的信念と天皇の政治道徳とによって維持され、23年の議会開設に至って完成した。幕末志士の国体論は、古典と儒教という被布をかぶった革命論(天皇への中によって封建貴族への忠を否認!)であり、その裏には、外国との接触によって触発された国家意識と国内に盛り上がってきた平等感の拡充とによる社会民主主義の要求があった。

 彼によれば、社会主義は、主権が国家にある(国体)となすものであり、民主主義は、政権が広義の国民にある(政体)となすものである。これが彼の言う公民国家である。そこでは、国家は国民の特権ある一部分たる天皇と平等な権利を持つ他の部分とから成り、天皇は議会と共に国家の機関として活動し、国民は、天皇の利益のためにではなく、国家目的にのみ奉仕する。その意味で、彼は、国家法人説、天皇機関説を主張し、天皇主権説を否定する。

 彼によれば、君民一家、忠孝一致、天皇主権説は、已に述べた国家体制の進化を逆進的に理解する「復古的革命主義〈反革命思想の意味〉であり、こうした「朝権紊乱」「国体破壊」の思想に対して現国体を断固擁護しようとするのがまさに彼の社会民主主義だと彼は揚言する。」ただし、「維新革命は、法律革命によって政治的に公民国家を実現したが、経済的には貴族階級国家に逆倒してこれを空文化している」ので、「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新が必要」。

 ただし、以上のような主張をなした『国体論及び純正社会主義』は、北一輝23歳の時に書かれたもので、明治39年(1906)5月に自費出版されたものです。北一輝はこれによって社会主義者と見なされるようになりました。その後彼は、片山潜、幸徳秋水等社会主義者や宮崎滔天、萱野長知等国体論者との接触を通じて中国革命に関心を持つようになり、1911年には中国に渡り、その後十年間、宋教仁等と共に中国の革命運動に挺身することになりました。

 この間、大正4年から5年にかけて中国で書かれたものが『支那革命外史』で、北一輝はこの中で、日本のいわゆるアジア主義者に伝統的な「支那軽侮論」に対して、次のような痛烈な批判を浴びせています。「笑うべき支那崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ)」と。(『北一輝著作集』p87)

 つまり、中国革命の起動因となったものは、日本の国家民族主義的な思想であり、その結果、中国人に国家民族的な覚醒が生じたのであって、そこに日本の中国に対する本質的な援助がある。つまり、そうした中国人の「国家的覚醒による愛国心こそ、まさに親日排日の両面」を持つのであって、中国の排日運動を見て、忘恩民族とそしるのは無理解も甚だしい。

 「日本人の支那革命に対して受くべき栄光は当面の物質的助力又は妓楼に置酒して功を争う者の個人的交友に非ず。実に日本の興隆と思想とが与えたる国家民族主義に存するなり。」「不肖は何が故に日本人が佔らざるの恩を誣ひて忘恩民族呼ばわりをなし、却て四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇嚇たる教鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。」(上掲書p42)

 つまり、北一輝にとって革命とは、有機体としての社会において、その部分である個人が、自らの自由の拡大を求めてより高次の統一社会に到達せんとして起こるもので、歴史的には君主国から貴族国を経て民主国へと進化していくものである。つまり、その変革のエネルギーはその社会自身の中にある。それ故に、その社会=国家の利益は即ち権利であり正義である。だから、そのような中国の内在的発展として中国革命を捉えよ、と言うのです。

 北一輝は、中国革命をこのような歴史の進化過程において捉え、それが成功するためには、中国は、まず封建的代官制度を廃して国家統一し、自らの国家的利益を外邦に対して主張出来るようにならなければならない。そして、そのための方策は「対露一戦」であり、これによって「代官階級の一掃も、財政革命も、軍制改革も、郡県的統一も、省部的軍国的精神の樹立」も可能となる。そのためには中国は東洋的共和制下の大統領制を布く必要がある。

 これと共に、「日本の革命的対外策も立案される。日本は露支戦争に乗じて、一方では日英同盟を破棄して英国を「南支那」から駆逐し、他方ではロシアを退けて満州に進出する。「支那は先づ存立せんが為に、日本は小日本より大日本に転ぜんが為に」露支戦争は戦われねばならない。かくしてこれを基にして「日支同盟」が成立するであろう。」これが、北がこの本で提示した「革命的対外策」でした。(『北一輝著作集第二巻』野村浩一解説p419)

 というのも、「満州は日露戦争の当時已に日本が獲得すべかりしもの」であって、これは「支那のためにも絶対的保全の城郭を築くもの」だというのです。おもしろいのは、この時北が主張した対米政策です。それは、米国における排日熱は支那の排日熱のようなものであり、これを解消するためには、支那の鉄道建設への米国資本の導入に日本が協力すればよい。そうすれば、米国の世論を「頼もしき親日論」に一変させることが出来るというのです。

 「由来米国と日本とは何の宿怨あり、何の利害衝突あって今日の如く相警むるや」「何者の計ぞ日米戦争の如き悪魔の声を挙げて日本の朝野を混迷せしめ、支那に事あれば先づ米に備ふるの用意を艦隊司令官に命ずる如き狂的政策を奔らしむるや」・・・米国の対支投資は日本の保障がなければ元利一切不安になるのであって、日本は、米国の投資によって支那が開発されない限り日本の富強は達成されない。」(『支那革命外史』p193)

 こうした提言は、大正5年5月22日稿了とされた本書に記されたものですが、冒頭に紹介した、二・二六事件裁判における検事の聴取書「第五回」に述べられた北の対支・対米政策は、基本的には、このような北の対支・対米認識に支えられたものであったことが判ります。

 その後、北は、大正8年8月、36歳の時、「故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の大怒濤」を眼前に見る上海の客舎で、『国家改造法案原理大綱』(後に『日本改造法案大綱』)を書きました。ここでは、『国体論及び純正社会主義』の末尾において彼が主張した「維新革命の理想を実現するため、私有財産制を廃棄して共産制度に変える第二の維新(=国家改造)」を、明治憲法下の議会政治によってではなく、天皇大権の発動による3年間の憲法停止、全国に戒厳令を布く中で、一気に行うとするものでした。

 この戒厳令下の国家改造において秩序維持や改造の執行機関となるのは、改造内閣に直属する在郷軍人団とされました。ここで「在郷軍人」というのは、検閲を顧慮して用いたもので、実は、現役軍人をさすのだという説もあります。ではなぜ北が、このように国家改造の主体を軍人に求めたかというと、彼が経験した中国革命の進行過程において、その推進力となったものが、「武漢の新軍に見られるように、腐敗した将官ではなくて、まさに『軍隊の下層階級』」であったためとも言われます。

 実際、北が『日本改造法案大綱』書いた大正9年は、ロシア革命、ウイルソンの民族自決主義に刺激された中国の五四運動、韓国の三一万歳事件等の勃発、日本の米騒動など混迷する時代状況の中にありました。また、北一輝が大川周明等の招きに応じて日本に帰った大正9年末以降の日本では、ワシントン条約に基づく軍縮の実施や国際協調主義の流れの中で、軍人に対する世間の目は冷たく、特に青年将校等に不満が嵩じていました。昭和になると、それに経済不況が重なることになります。

 そんな中で、彼らを国家改造へと目覚めさせたものが、北一輝の『日本改造法案大綱』でした。その国家改造における主体とされたものが軍人であって、これが天皇の号令の基に行われる。その政治目標は、軍閥・吏閥・財閥・党閥など特権機関を排除して、平等社会を実現すること。具体的には、私有財産や私有地に限度を設けること。大資本を国家統一することの他、労働者の権利や国民の生活・教育の権利、国家の権利としては、自己防衛や不義を行う国に対する戦争、大領土を独占する国に対して開戦する権利などが規定されました。

 では、この「改造計画」は皇道派青年将校等にどのような思想的影響を与えたかと言うことですが、昭和11年3月号の「日本評論」には、「青年将校運動とは何か」という対談記事が掲載され、その中で青年将校はその運動において何を望んでいるかと問われ、次のように答えています。

 「簡単にいえば、一君万民、君民一体の境地である。大君と共に喜び大君と共に悲しみ日本国民が本当に天皇の下に一体となり、建国以来の理想実現に向かって前進するということである。」「日本国内の情勢は明瞭に改造を要するものがある。国民の大部分というものが、経済的に疲弊し経済上の権力は、天皇に対して、まさに一部の支配階級が独占している。時として彼等は政治機構と結託して一切の独占を弄している。それらの支配階級が非常に腐敗している状態だから承知できないのだ。」

 これは、北一輝が『国体論・・・』で否定した、君民一家、忠孝一致、天皇主権説に基づく「復古的革命主義」そのものです。しかし、国家改造を必要とする時代状況認識や具体的な改造計画は同じであり、というより「改造計画」の影響を受けたものです。しかし、そこから変革のエネルギーも生まれている訳ですから、それをあえて訂正するようなことはしなかったのだと思います。そこには、隊付き青年将校等が幕僚将校に対して持った不満に対する同情もあったのではないかと思います。

 一方、統制派といわれた幕僚等の国家改造計画は、満州問題の抜本的解決のための対外的膨張政策の推進がその中核にあり、それに反対する政党政治の否認であり、資本主義の是正による国民生活の安定でした。そのために、三月事件や十月事件などの暴力革命による軍事政権の樹立が図られたのです。しかし、満州事変が成功したこともあり、こうした暴力革命主義は次第に統制派による合法的漸進的国家改造へと代わっていきました。

 こうした統制派の漸進的国家改造の進め方を明瞭に示したものが、昭和9年に陸軍が公表した「国防の本義とその強化の提唱」でした。ここでは、国防は国家生々発展の基本的活力の作用であるとし、”国民の必勝信念と国家主義精神との培養のためには、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の救済は最も重要な政策である、と説かれていました。このように国防と内政は切っても切れない関係にあるとして、軍のこの方面の発言を強化しようとしたのです。

 いずれにしても、その具体的な政策は、自由経済に代えるに、統制経済を狙いとすること、統制経済は資本主義そのものを否定しないが、思想的には個人主義、自由主義より全体主義への移行を示していること。具体的には、議会は停止しないが、但し、ヒトラーの授権法に倣い、広範な権限を政府に授権する仕組みとすること。政党は否定しないが多数党が政権を取るといういわゆる憲政常道は認めない。あくまで哲人政治を主張する、等がその目標とされました。(『昭和憲兵史』大谷敬二郎p225)

 ではこれら統制派の主張と北一輝の思想とはどのように関係していたのでしょうか。いうまでもなく統制派は、軍が組織を動かして軍の一糸乱れぬ統率の下に上記のような国家改造を行おうとしていました。そこで、青年将校等が軍の統制を無視して横断的に結束し政治活動をすることを止めさせようとしていました。従って、それを外部からコントロールしていると見なされた北一輝等が警戒されたのも当然です。ただし、両者の求める国家像には大きな違いはなく、違いは、その対支・対米政策にありました。

 よく、支那事件を拡大に導いたのは統制派で、皇道派はこれに反対したというようなことが言われます。しかし実際は、冒頭に紹介したように、北一輝は皇道派青年将校等の動きとは別に、日支同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置くべく外交工作を展開していました。従って、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校等は、北をそれに巻き込むことでその努力を挫折せしめ、一方、統制派は、軍の無統制の責任を北に転嫁する形で、この事件を処理したのです。

 北の「国体論」は天皇機関説を当然とし、「万世一系」を論拠に「天皇主権」を唱える「国体論」の愚を指摘しました。また、日本人の「支那軽侮論」が「支那崇拝論」の裏返しであることを喝破する一方、日支同盟の必要性を説き、米国の投資を支那に呼び込むことで日米親和が図れるとしました。その達識とリアリズムは、アジア主義者や青年将校等の思想をはるかに凌駕していたわけですが、『日本改造法案大綱』はそれを単なるクーデター扇動文書に矮小化してしまいました。

 この原因は、北の国家論において、国家と社会の区別がついていなかったとか、国家有機体説をとったたため、個人の人権が国家主権に吸収されてしまい、それが彼を超国家主義へと導くことになったとかが指摘されます。おそらくそれは、日本が一民族一国家であることの反映だと思いますが、根本的には、この文書は、彼の10年間に及ぶ中国革命運動の挫折が生み出したものと見るべきではないでしょうか。それは日本においては、一部皇道派青年将校に「一君万民平等思想」と誤読されることでしか機能しなかった。

 思想家がその読者を迷わしたことの責任を問われることはよくあることですが、通常、それは読者の責任とされます。この点、北一輝は二・二六事件を起こした皇道派青年将校等に対して自らの責任をとったわけですが、それは彼等に対する情宜の故であったか、それとも自らの言葉に対する責任の故であったか・・・、おそらく、西田税に『大綱』の版権を譲ったことが彼の失敗の始まりで、北はそのことの責任をとったのではないか、私はそのように推測します。

2011年8月23日 (火)

次期リーダが小沢詣でをする民主党には民主政党としての資格はない

 民主党が自民党に代わって政権を担当した時、日本にも漸く政権交代できる政党が出来たと喜んだ人は多かったと思います。というより、その程度には日本の民主政治は発展したのだと思いたかった、というより、それに賭けようとした日本人が多かったということだと思います。私もその一人でした。

 しかし、そうして自民党政治を凌駕することが期待された民主党のリーダー達・・・、鳩山氏にしても菅氏にしても、自民党以下どころか一般国民の常識あるいは良識以下のルーピー又はペテン師だったことが明らかとなりました。なお、今、民主党の次期リーダーといわれる人たちが小沢詣でをしていますが、これなど、未だに彼らは、自民党政治の習作時代にあるということで、自民党政治脱却どころの話じゃありませんね。

 民主党を支持した、というより政権交代を支持した自分としては、民主党が長く苦しい野党時代の勉強や経験を通じて、自民党政治を凌駕するだけの思想的鍛錬を、あるいは経ているのではないかと淡い期待を抱いたわけですが、次期リーダーとして名乗りを上げている連中の思想的レベルがこの程度だということは、この政党には政権担当の資格というより能力がないと言わざるを得ませんね。

 ここしばらくは、そのバカさ加減を眺めさせられることになると思いますが、民主政治においては政治家の思想レベルは国民の思想レベルを超えられないわけで、戦後60年を経て未だにこの”ざま”だということは、戦後民主政治がいかに欺瞞に満ちたものだったかということになります。今後、政党間の合従連衡も始まることと思いますが、この欺瞞から脱却しない限り、同じことを繰り返すことになると思います。

 こうした観点から見ると、大阪の橋本知事などは、自分の思想をはっきり言葉に出してそれを政策化し、かつ、それを民主的手続きを経て実現する思想的・政治的手腕を持っているようです。ただ、私は、氏の教育基本法理解は間違っていると思いますし、氏の教育委員会制度改革論も間違っていると思います。これは知事の権限を強化する方向ではなく、市教委の学校経営体としての自律と責任を明確にする方向で進めるべきです。

 しかし、氏はこうした改革を公開の言論を通じて市民に訴え支持を獲得することに成功しており、それが激越なものであるだけに、これに対する言論を誘発することにもなり、それがガチンコ勝負になれば政治に参加する市民としては大変おもしろいですから、日本の民主政治の発展のためには大変良いことだと思います。今後の活躍を期待したいと思います。対抗する有力な言論への期待も含めて・・・。

 なお、氏は、小沢氏とも会談をしたことがあり、その威力に恐れ入った風な報道がなされたことがありますが、この2年間の民主党政治の結末を見て、その根底に、小沢氏の”言葉のうそ”をあったことを、民主政治家としてどのように見ているでしょうか。これが、氏の政治思想が本物であるかどうかを占う試金石になると私は思っています。だって、民主政治に”言葉のうそ”は許されませんから。これは民主政治の基本的ルールです。

2011年8月12日 (金)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか11――日本人の「法意識」について

健介さんへ

 おっしゃる通り、問題は日本人の「法意識」にあります。つまり、日本人の「法意識」においては、「法」よりも「実情」を優先する傾向があるのです。そのために、個々人から自制心が失われた場合には、無秩序状態に陥りやすい。戦前の陸軍では、五・一五事件以降、この「実情」主義が軍内に蔓延するようになりました。この流れを作ったのが皇道派で、これに対して、軍の統制がとれなくなると危機感を抱いたのが、いわゆる統制派で、ここに皇道派と統制派の対立が生まれたのです。

 この両者の関係を象徴的に表しているのが、「陸軍パンフレット」(国防の本義と其の強化の提唱)と国体明徴運動の関係です。つまり、 「陸軍パンフレット」は、統制派の国防国家建設の青写真であり、そのために軍の統制力の回復が必要であることを訴えたもので、一面、皇道派に対する批判の書でもあったのです。これに対して、皇道派が統制派に対して猛烈な巻き返しを図るために起こした運動が「国体明徴運動」でした。

 ではなぜ、「国体明徴運動」が、皇道派の統制派に対す対抗措置となり得たか。要するに、統制派のやり方は皇道派から見た場合、自らの権力欲・権勢欲を動機としている。また、彼らが理想と考える天皇親政の「一君万民平等」の統治理念にも反している。彼らのやっていることは江戸時代の「幕府」と同じで、これは、天皇の統治大権を簒奪するものである、とする理屈です。その根拠として、三月事件や十月事件が持ち出されたのです。

 結局、この対立は、二・二六事件の時、統制派が皇道派をカウンタークーデターで押さえ込んだことで解消し、軍内の横断的な青年将校運動もなくなり、軍の統制力も回復しました。しかし、満州事変の後遺症もあり、軍の中央組織と関東軍など出先軍との下克上的関係は依然として残ったままでした。そのため、その後も出先軍が暴走し、これを中央組織が抑えられず、結果的にそれを追認してしまうという、昭和の日本軍の宿痾ともいうべき悪弊がその後の軍を悩ますことになったのです。

 また、統制派は、このように皇道派を弾圧することに成功したのですが、国民の統制強化の方策としては、皇道派による国体明徴運動を利用することになりました。というのは、この運動は「天皇機関説排撃」に連動して提起されたものである事から判るように、これは明治憲法に規定された立憲君主制を否定し、教育勅語的な国体観を全面に押し出そうとするものでしたので、これと統帥権を結びつければ、統制派の考える一国一党の国防国家建設を正当化できると考えたのです。

 こうして、軍主導による一国一党の国防国家体制が完成したのですね。そして、それを支えた国体思想は、明治憲法に定められた立憲君主制を否定するものだったために、まず、政党政治が否定され、次いで政党の自主解党となり、最後は翼賛議会となって実質的に議会は予算審議権を失うに至りました。また、国民思想的には、大正自由主義下で芽吹いた個人主義や自由主義が徹底的に排撃されることになりました。

 ところで、冒頭に述べた日本人の「法意識」は、こうした個人主義や自由主義の考え方を受け入れることは出来ないのでしょうか。実はこの点が最も注意を要するところなのですが、日本人の「法意識」の根底には、仏性→本性→本心と言い替えられてきた、日本独自の自然法意識に支えられた性善説的観念があります。そのため、「法」の運用においては、実情主義が重んじられ、法に訴えるより、当事者間の示談による和解が最良とされます。つまり、「法」の裁きより、相互に自制心を働かせることで和解することが求められるのです。

 ところが、近代資本主義社会は、人間の利己心を当然としていて、利己心をお互いにぶつかけ合うことで、予定調和的に社会正義が実現されると考えます。これがうまくいく場合は、例えば、日本でも明治のように個人の立身出世欲と国家目標とが一致しているような場合には問題は起こらない。しかし、大正時代のように、この予定調和が破綻して社会的混乱が起こり、社会的正義が損なわれたと考えられるようになると問題が生じる。

 つまり、この混乱の原因は、利己心を野放しにする資本主義体制にあるのだと考えられるようになるのです。従って、この混乱から脱却するためには、資本主義的を否定しなければならない。丁度、ロシア革命が成功して社会主義思想に基づく平等主義が日本でも風靡するようになった。しかし、この思想は王政を否定するので日本の天皇制と矛盾する。そこで、これに代わるものとして、日本の伝統思想である尊皇思想の一君万民平等思想及び天皇親政の国体観念が、呼び覚まされることになったのです。

 さらに、この国体観念は、日本を盟主とする八紘一宇の世界観や、忠君愛国、滅私奉公の道徳観念を伴っていました。そのため、大正時代の国際協調主義や、個人主義・自由主義的道徳観念が否定されることになりました。また、その自己絶対性から、物事を相対的・客観的・合理的に見る事ができなくなりました。その結果、何のためか判らない意味不明の日中戦争から抜け出すことができず、その果ては、英米中ソという世界の大国を敵に回した無謀な戦争に突入することになったのです。

 こう見てくると、戦前の昭和における日本の問題点は、この時代に支配的となった日本思想に問題があったことが判ります。確かにこの思想は、理念としては植民地主義や人種差別に反対していました。しかし、それは「陸軍パンフ」に見るように、多分に建前上のものに過ぎず、本音では優勝劣敗を肯定していました。また、皇道派の主張した天皇親政下の「一君万民平等思想」は、八紘一宇という世界家族観念を世界に拡大しようとするもので、日本人の思想の独善性を病膏肓とするものでした。

 では、日本人の思想は、以上述べたような問題点を克服することができるか。これが、戦後の日本人にとって最も重要な問であったはずです。私は先に、日本人の「仏性→本性→本心」と言い替えられてきた日本人の性善説的観念について言及しました。私はこれはこれで大変貴重なものだと思っています。しかし、これを社会組織に適用するときは注意を要する。つまり、この場合は、家族主義的なものではなく、能力主義を基本とした合理的・流動的・契約的なものに転換しなければならないと考えています。

 こうしたことは、今日の企業経営においては当たり前になっていると思いますが、戦前の軍組織においては、能力主義に反する薩長の藩閥支配に対する反発から、過度の学歴主義に基づく陸大卒業者による学閥支配に陥ってしまいました。これが隊付き将校等皇道派青年将校の反発を生んだのです。結果的には、統制派が皇道派を押さえ込んだのですが、彼らが作り上げた軍主導の一国一党制の国防国家体制を思想的に支えたものは、皇道派の主張した国体観念に基づく忠君愛国、滅私奉公、八紘一宇の世界観だったのです。

 こうした世界観の下で、日本がその盟主として主導権を発揮し、大東亜の新秩序を形成し大東亜共栄圏を完成させる。これが、日中戦争及び大東亜戦争を理由づける軍の考え方というか後付けの理屈でした。しかし、それが日本の伝統的な国体思想と結びついたことで、それから脱却することは極めて困難になりました。また、多くの国民もこの国体思想に巻き込まれることになり、軍が実際にやっていることや世界の現実を、相対的かつ客観的に見ることがほとんどできなくなってしまったのです。

 これが、戦前の昭和に悲劇をもたらした思想的現実でした。では、再度の問いになりますが、この思想的現実をどのように克服するか。これが戦後日本人の第一の課題だったはずです。しかし、GHQの巧妙な占領政策もあって、日本人はこれを一部の軍国主義者の責任にしてしまいました。そのため、国民は、これら一部の軍国主義者の引き起こした戦争の犠牲者だとする見方や、さらにそれが嵩じて、日本人を残虐民族と見なす「自虐史観」が蔓延することになったのです。

 しかし、それでは問題は解決しない。確かに、満州事変から華北分離工作までの政治的責任は、私は、当時の軍指導者が負うべきだと思います。しかし問題はその後です。なぜ、日本は、何のためにやっているのか判らない意味不明な日中戦争を止められなかったのか。なぜ、それが大東亜戦争へと発展したか。この疑問を解くためには、当時の軍人及び多くの国民を熱狂させ、戦争へと導いたこの思想の問題点について、それを自らが信じた思想の問題点として、初心に返って総点検する必要があるのです。

 この思想の問題点を一言でいえば、私は、それは日本人の「法意識」の問題ではないかと思います。といっても、日本は明治以降この西洋的法概念を学び、それによって政治制度を運営し多大な成果を上げて来たのです。だから、この知恵を日本文化の発展に生かせぬ筈はない。では、昭和はなぜこれに失敗したか。まず、大正時代の軍縮期における軍の処遇を誤った。次いで森恪がその軍人の不満を政治的に利用し軍を政治に引き込んだ。その結果、張作霖爆殺事件が引き起こされ、日本政府はそれを厳正に処罰できなかった。

 ここから、日本軍の、何よりも厳正であるべき軍法下の「法意識」が根底から毀損されることになったのです。さらに、こうした傾向が、昭和初期の政治的・経済的混乱の中で、国民の政治に対する信頼――つまり立法措置によってこれらの問題の解決を図る政治への信頼の喪失となり、それに代わって、軍部による拡張主義的な国策遂行が支持を集めるようになったのです。次いで、そうした軍の行動が、前述の国体思想によって正当化され、国民もそれを信じ込むようになったのです。

 しかし、戦前の昭和の歴史をトータルに見た場合、その最大の責任は誰にあるかというと、先ほど申し上げた通り、私は、満州事変から華北分離工作までの軍の責任は否定すべくもないと思います。しかし、立憲政治体制下における政治責任は、あくまで政治家が負うべきであって、私は、その戦犯第一号は森恪だと思っています。彼は、第二次南京事件では軍縮に不満を持つ軍人をあおり、これを政治的に利用して政権を獲得し、さらに軍人を政治に引き込むことで自らの大陸政策の実現を図ろうとした。

 これが、日本の政治に軍人を介入させることになり、さらに統帥権干犯問題(この時は犬養毅や鳩山一郎の責任も大きい)を契機に政治は軍を制御できなくなり、出先軍の暴走を生んで満州事変となり、さらに関東軍の華北分離工作となり、ついに蒋介石をして抗日戦を決断させることになったのです。以後、日本国は戦時体制に突入し、さらに総力戦の観点から軍主導の一国一党の国防国家建設となり、政党政治、議会政治が否定され、ついに明治憲法に定められた立憲政治までもがなし崩し的に否定されるに至ったのです。

 こうした流れの道先案内をしたのは、紛れもなく政党政治家でした。従って、昭和の悲劇をもたらしたその第一の責任は、まず、この時代の政治家が負うべきなのです。彼らは、決して軍の被害者ではない。この事実をはっきりと自覚することが、日本に民主政治を確立するための第一の関門であると、私は思っています。

2011年8月11日 (木)

原爆と原発を一緒くたにしない――「自然の力」は科学で解明する。人間がそれをどう使うかが問題

 8月9日の「長崎原爆の日」平和記念式典における田上長崎市長の長崎平和宣言を聞いてびっくりしました。ここで田上長崎市長は、宣言の冒頭、東日本大震災に伴って発生した東京電力福島第一原子力発電所事故に言及し、次のように述べました。

 「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。
 自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか・・・、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
 たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。」

 あれ、この日は「長崎原爆の日」の平和記念式典であって、世界に向けて核兵器廃絶を訴えるべきであるのに、なぜ、原爆と原子力発電事故を一緒くたにするのだろう。それでは、原爆保有と原子力発電を同列に論じることになり、原爆の非人間性・非人道性を訴える効果が減殺されてしまうではないか・・・と思ったのです。 

 このことについては、長崎では、この平和宣言文をめぐって、市長と起草委員会との間で、次のようなやりとりが交わされたと報道されています。

 「田上富久市長は9日、平和宣言で『原子力に代わる再生可能なエネルギー開発の必要性』を訴えるが、宣言文に『脱原発』の文言を盛り込むべきだとする起草委員との間で激しい綱引きがあった。田上市長は会見で『個人的な思いは、行き着く先は原発のない社会』とまで述べながら、脱原発の文言を避けた。」

 その結果、冒頭のような宣言文になったわけですが、「脱原発という文言」こそありませんが、この宣言文では、日本の今後のエネルギー政策と、原爆の廃絶という被爆国としての課題とが混同されてしまっている。そのため、原爆廃絶を訴えるべき「平和宣言」の意味が曖昧になってしまった。まるで原爆は人間の意思の問題ではなく、原子力という「自然力」に還元されてしまったかのようです。

 このことについて、「被爆地・長崎の市長を4期務めた本島さんは『我々は核兵器を止めることができても、科学の進歩を止めることはできない。原発はいらないと言うのは簡単だが、市長が学問の自由を奪うことにもなりかねない。そう簡単に脱原発とは発言できない』と田上市長を擁護」したそうです。

 当然ですね。だって、原爆は人間の意思で廃絶すべきことだが、原子力エネルギーの平和利用の問題は、あくまで科学技術の可能性の問題だからです。現在のところ、その平和利用は、原子力発電が主流となっているわけですが、福島の事故で、その可能性が科学的に完全に否定されたわけではない。

 また、核燃料サイクルが破綻している、との議論についても、はたして、それは科学的に証明されたことなのか。立花隆氏は『宇宙の核融合・地上の核融合』と言う本で、「宇宙、銀河、太陽、地球そして生命、ヒトも。この世界はすべて核融合から生まれた。そして今、核融合は人類のサバイバル技術に!!核融合に日本の国運がかかっている」と述べています。

 もちろん、こうした核技術の研究開発と、再生可能エネルギーの開発とは矛盾するものではなく、同時並行的に研究開発を進めて行くべきものです。太陽光発電にしても風力発電にしても、地熱発電にしても、かなりの可能性があるとのことですし、私などは、関門海峡や鳴門海峡の潮力は使えないか、などと思ったりします。

 ただし、核技術の研究開発は、日本が原子力発電を完全に放棄してしまえば不可能になるわけで、従って、それを避けるためには、今回の福島の事故から目をそらすべきではない。今回の事故の原因としては、自然的な側面と人為的な側面があるので、これら双方から得られる教訓を、今後の原発の安全性向上のために生かすべきである。

 それと同時に、こうした教訓から得られる新たな技術やノウハウを、世界の原発の安全性向上のために役立てなければならない。それが、今回このような事故を起こした日本の義務ではないかと思います。今後、小規模の原子力発電にすべきとか、可搬性の小型原子炉の有用性など、いろいろな可能性が探究されることになると思いますが、ぜひとも、信頼に値する新たな原子力の平和利用技術の開発に努めていただきたいと思います。

 こんなことは、特別の専門的知識がなくても判ることだと思うのですが、菅首相にはこんな常識的なことにも考えが及ばないようです。このことについて、広島県の湯崎英彦知事は、9日の定例記者会見で、菅首相が6日の平和記念式典のあいさつで「原発に依存しない社会」を目指す考えを改めて表明したことについて、次のように批判しています。

 「式典は被爆者や核兵器廃絶について考える場。注目を集める場での発言は、支持率上昇につなげるためと疑われても仕方がなく、適切ではない。」さらに「平和祈念よりも脱原発が注目されるのは、いかがなものか」とし、「発言が政治的利用と言われても仕方ない。」

 どうやら、非常識なのは菅首相など一部の人々のようで安心しましたが、それにしても、菅首相の定見のなさ、変わり身の早さにはあきれますね。今回の退陣三条件にしても、特に再生可能エネルギーの買い取り法案など、今直ぐに決着を迫られている問題ではなく、当面は、放射能漏れ対策や被災地救済・復旧に全力を挙げるべきです。

 また、原発によるエネルギー50%調達やCO225%削減は、民主党の主要政策だったわけで、それが福島の原発事故で破綻したのなら、まず、その誤りを認め謝罪すべきです。その上で、その誤りよって引き起こされた被害の救済に全力を挙げるべきで、今後のエネルギー政策のあり方は次期政権に委ねる。それが政治家としての正しい責任の取り方ではないでしょうか。

 私は、日本の戦前の昭和史を勉強していて、日本人が克服すべき課題として、次の二点が最も重要だと考えています。まず第一に「空気支配」に陥らないこと(合理的思考法を身につけること)。第二に、言論による議会政治を完成させること。そのためには、政治家は自分の言葉=政策について国民に対して責任を持つこと。そして政権を取ったら、その結果について責任を負うこと。

 簡単なようですが、鳩山前首相や菅首相などは、あれだけ長く野党をやっていて、自民党の失敗から多くを学んだはずなのに、これら日本政治の克服すべき課題が何も判っていないようです。おそらく、その言葉が「空体語」だったために、日本の思想の問題点にまるで気づかなかったのでしょう。その結果、”名を残す”をいう私欲だけが露呈してしまった。

 また、小沢氏については、今も首相候補としてノミネートされていますが、これは、先のお二人の「空体語」政治の反動と見るべきであって、氏の「実体語」政治の「辣腕」に甘い期待が寄せられているのです。しかし、氏はあのお二人が消えれば同時に消える。なにしろ、民主党が政権奪取した際の「大嘘」(「実体語」のみの男が「空体語」を使うとこうなる)の最大責任は小沢氏にあるのですから。

 で、まもなく菅首相が辞任するそうで、民主党政治も終わりに近づいているようですから、最後に、民主党政治から学ぶべき点をいくつか指摘しておきたいと思います。

 まず、一、マニフェストによって政策の責任を明確にするのはよし。二、政治主導は自民党時代の官僚内閣制から内閣官僚制へと転換することであり、首相独裁ではない。まず、小泉内閣における経済財政諮問会議に学ぶべき。三、首相は4年の任期を全うできる人物を選びたい。そのためには首相公選制の導入を検討すべき、等々です。

 最後の提案について、これを現行法で可能にするためには、内閣総辞職後または解散総選挙後多数を得た政党が、候補者を複数ノミネートし、その候補者について、公開政策討論を国民の前で行い、その後、首相候補者を国民が選挙する。そして、その首相候補者を議会で選出し天皇がこれを任命する。

 8月10日の読売新聞ではこのようなやり方が提案されていますが、なんとかして、私たちも、信頼に値する首相を選べるようになりたいものですね。そのためには、私は、その選挙を行う前に、数ヶ月間の候補者どうしのガチンコの政策討論を義務づけるべきべきだと思います。しかし、それを可能とするためには、首相を任期制にする必要があり、となると憲法を改正する必要が出てきますが・・・。

2011年8月 7日 (日)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか10――立憲政治を守れなかった戦前の日本人

「昭和の青年将校はなぜ暴走したか9」の私の健介さんに対するコメントですが、大切な論点を含んでいますので、本文掲載とさせていただきます。

健介さんへ

>(二・二六事件で北から安藤への”○○はあるか”という電話について)偽電話の可能性があるのですか。

tiku 前エントリーで紹介しましたように、中田氏の推理通り偽電話だと思いますね。北がこの事件の進行に関して心配していたことは金のことではなくて、彼らがその程度上部工作をしていたか、だったと思いますから。

 しかし、北は、事件発生後それがほとんどなされていないことを知りました。そこで、27日午前10時頃、彼らに真崎に一任するよう勧め、彼らはそれに従いました。27日午後2時頃、彼らは真崎(山下、小藤、鈴木、山口立ち会い)と会い、事態の収拾を依頼しました。しかし、真崎は奉勅命令が出される見込みであるとして「維新部隊」の原隊復帰を迫りました。

 一方、石原は27日夜、磯部と村中を呼び、”真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる”と伝えたといいます。

 28日午前5時、奉勅命令が戒厳司令官に下達されましたが、戒厳司令部の香椎戒厳司令官が叛乱軍支持だったため、この実施は保留されました。皇軍相撃を避けるための説得を継続するという理由で・・・。

 その後、石原は香椎に対して、臨時総理をして維新断行、建国精神の明徴、国防充実、国民生活安定について上奏するよう意見具申しました。しかし、杉山次長はこれを受けた香椎の進言を拒否して武力鎮圧を命令し、その結果、香椎も、決心変更・討伐断行となりました。

 一方、反乱将校らは帰順か抵抗かで迷っていましたが、ついに自刃し罪を天皇に謝し、下士以下は原隊に復帰させることで意見一致しました。そこで、自らの死に名誉を添えるため、侍従武官の御差遣を天皇に奏請しましたが、天皇はこれを拒否しました。

 一方、青年将校等の自刃の話を聞いた北は、村中を通じて、極力自刃を阻止すると共に初志貫徹のためあくまで上部工作を継続するよう伝えた、といいます。

 28日午後5、6時頃、北、憲兵に逮捕される。

 で、お尋ねの北から安藤への電話ですが、これは、28日午後11時50分頃であると、東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受綴」に記されています。また、その発信元は憲兵司令部となっている(交換手にはそう告げた)ことなどから、これが、安藤隊の兵力を聞き出すための偽電話だった可能性が高い、ということになるわけです。

 しかし、以上のやりとりで問題は、石原が皇道派青年将校の蹶起を利用してカウンタークーデターを実現しようとしていたことは明白だとしても、では、北自身は青年将校等の行動に何を期待していたのか、ということです。その主張する「上部工作」が”真崎止まり”であれば、それは見込み違いだったことになりますが、北のことですから、あるいは石原等に対する工作まで含んでいたのかも知れません。

 そうした構想をぶちこわしたのが天皇の断固たる討伐意思だったわけで、このことは上記の経過説明を見ればよく判ると思います。

 ただ、ここで私が疑問に思うのは、皇道派と統制派の国家改造イメージに果たしてどれだけの違いがあったか、ということです。

 『評伝 真崎甚三郎』の著者である田崎末松氏などは、二:・二六事件で天皇が皇道派を弾圧して統制派を助けるようなことをしなければ、日中戦争も大東亜戦争も起こらなかったなどと、その罪を昭和天皇お一人に帰すようなことを言っていますが、仮に、天皇がこうした意思を示されなかったとしても、事態の収拾は、結局、石原を中心とする統制派が行うことになったと思います。

 その場合、反乱軍将校の処罰は5・15事件と同じようなことになり、将校等は軽い刑で済まされ、北や西田などの民間人には重刑が科されることになったでしょう。だが、「動機さえ純粋であれば重臣や上官を殺すことも許される」という下克上的雰囲気は、軍隊内に一層蔓延することになる。そこで石原は、軍の統制回復のため、青年将校等に名誉の自決を迫ったかもしれませんね。いずれにしろ、その行き着く先は、ナチスをモデルとする一国一党、軍主導の高度国防国家建設だったろうと思います。

 また、皇道派青年将校等が、本当に3月事件や10月事件における統制派の大権私議を怒りそれを告発したかったのなら、なぜ、彼らは「私兵」を動かし重臣らを殺害し軍首脳に国家改造を迫るというようなクーデターまがいの大権私議を犯したのでしょうか。なぜ、満州事変という破天荒な大権私議を犯した石原完爾を攻撃目標としなかったのか、あるいは彼に期待するものがあったのではないか・・・。また、彼らが本当に中国との和平を願っていたのなら、なぜ、関東軍の華北分離工作に反対しなかったのか。なぜ、満州への転属を絶望視して、その前に「昭和維新」と称するクーデター事件を起こしたのか等々。

 これらの疑問を解く鍵はどこにあるか。それは、こうした矛盾に満ちた彼らの行動について、彼ら自身がそれをまるで矛盾と感じなかった、その思想にこそ問題があったのではないか。実際、そうした青年将校の行動に同情と共感を寄せる空気が当時の世間にはあった。その空気が、青年将校をして彼らの矛盾を矛盾と感じさせなかったのではないか。つまり、この事件の真犯人は、その「空気」であり、この空気が生んだ事件を巧みに利用して、自らの国家改造に利用しようとしたのが、統制派だった、ということではないでしょうか。

 これに関して、昭和26年2月『文藝春秋』に掲載された”対決二・二六事件の謎を解く”と言う座談会記事があります。メンバーは二・二六事件で襲撃された生き延びた岡田啓介元首相、首相秘書官であった迫水久常、生き残り青年将校大蔵栄一、皇道派理論家古賀斌、戒厳司令官参謀長安井藤治です。この中での岡田の発言は次の通りです。

 「青年将校の気持ちはよくわかるが、要するに三月事件、十月事件の経験で幕僚達は信用できないというので、今度は自分たちだけで事を起こす、起こしてしまえば軍の上層部が自分たちの信念を理解して、これを生かして何とか始末をつけてくれるという確信の下にやったことだね。そうすると、事件そのものの中心人物は誰だったかと言うことは寧ろ小さい問題で、若い連中に今言ったような確信を持たせたのは誰だと言うことが重要なことになるわけだ。さあ、それは誰かな、君たちに言わせればこれは空気だと言う事になるのだろう。」(『評伝 真崎甚三郎』p251)

 この本の著者田崎氏は、要するに岡田は真崎が教唆扇動したと言いたいのだろう、と言っていますが、私は岡田はそんな”当てつけ”を言ったのではなく、文字通り、この時代の空気が彼らに以上のような確信を持たせたのではないか、ということを言ったのではないかと思います。

 さて、事件後、皇道派青年将校等は、統制派のカウンタークーデターの陰謀に引っかかったと怨嗟の声を上げました。思っていた以上にひどい奴らだったと・・・。この時彼らはどれだけ自らの不明や、無意識の内に石原らに期待を寄せた自分らの甘さを自覚したのでしょうか。磯部などは、その責任を天皇に求め呪詛しました。なぜ貴方は、我々の心情を理解し、我らの味方をし、統制派を懲らしめなかったのかと。

 だが、昭和天皇は自らを立憲君主と自己規定していたのです。従って、天皇にとっては、青年将校等の行動はそれを破壊する以外の何物でもなかった。彼らの行動は、張作霖爆殺事件以来の軍の天皇の統帥権をも無視した独断的行動の延長、というよりその極致に見えたのだと思います。それも、天皇の名(大御心)によってなされたのです。だからこそ、それは「真綿で朕の首を絞める」ような行為に見えたのだと思います。

 つまり、この事件のポイントは、共に立憲政治を否定する、陸軍内部の皇道派と統制派の派閥争いの決着を、立憲政治を守ろうとする天皇に求めたところにあるのです。それも、天皇の統治大権を輔弼あるいは輔翼によって支えている重臣等を、「君側の奸」を除くという理屈で殺害した上で、天皇に、自らの組織の派閥争いの決着を求めたわけですから、天皇にしてみればむちゃくちゃな話で、天皇が激怒したのも無理はないと私は思います。

 では、再び問いますが、陸軍内部で派閥争いをしていた皇道派と統制派の対立点は一体何だったのか。

 皇道派の村中孝次の主張は、「陸海を提携一体とせる軍部を主体とする挙国内閣の現出を願望し、大権発動の下に軍民一致の第国民運動により国家改造の目的を達成せんとする」ものでした。また、「小官等の維新的挙軍一体に対し、彼らは中央部万能主義なり、小官等は、軍部を動かし国民を覚醒せしめ、澎湃たる国民運動の一大潮流たらしめんとするに対し、彼ら(=統制派)は、機械的正確を以て或いは動員日課予定表式進行によって・・・中央部本意の策謀により国家改造を行わんと欲したり」と言っています。

 これに対して統制派は、「軍首脳部が国家革新の熱意を持ち自ら青年将校に代わって・・・軍全体の組織を動員して」これを実行しなければならない。従って、軍内の一部のものが蠢動して横断的結合を図ることはよくない。青年将校の政治活動は軍人勅諭に反しているし、荒木、真崎を担ごうとすることは軍を私物化するものだ。また、北一輝の改造法案は徒らに扇動的であり飛躍、独善的であって害はあって益はない」というものでした。(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p93)

 つまり、両者の理想とする国家改造イメージは実はほぼ同じで、違いは、それを軍中央の指揮下に組織的に行うのか、「維新的挙軍一体」つまり、隊付き将校達も含めた一大国民運動として行うのかという、いわば実施主体の比重の置き方の差に過ぎなかったのです。卑近な言い方をすれば、これは隊付き将校等の陸大出の幕僚将校等に対する不満から出たもので、旧軍における旧軍における極端な学歴主義がもたらした弊害の一側面とも言えます。

 つまり、皇道派対統制派の争いは、田崎末松氏がいうような国策上の争いではなく、派閥次元の争いと見るべきです。で、氏は、昭和天皇が皇道派の言い分を聞かず統制派を応援したと言って、それが泥沼の日中戦争や大東亜戦争をもたらしたと批判していますが、両者の派閥争いで統制派が勝つのは組織論からいって当然であり、また、この時昭和天皇が守ろうとしたものは、立憲政体であって、従って、張作霖爆発事件以来軍が繰り返してきた独断行動に対しては、昭和天皇は派閥の如何を問わず反対だったのです。

 その立憲政治を戦前の日本人は思想的に守りきらなかった、この思想的問題点を明らかにすることが、私たちの務めなのではないか、私はそう考えています。
(8/7 21:20最終校正)

2011年8月 1日 (月)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか9――真崎甚三郎と北一輝の違い

健介さんへ

 興味深いコメントありがとうございます。大事な部分について私見を申し述べさせていただきます。
 
>2.26事件はわが国の華だと思っていますが、彼等の思想(?)において世界をどうするということに関しての具体的な知識がまったく無いように思います。

tiku このことは、皇道派といわれる青年将校達がどのようにして生まれたかを考えればおおよその見当がつきます。彼らは隊付きの尉官級将校で、天保銭組といわれた陸大出の将校等が独占する省・部の幕僚となる道が閉ざされていました。中には、あえてそうした出世の道を拒否して隊付きとなった者もいたそうですが、それだけに、その一君万民平等をめざす尊皇思想は純粋主義・精神主義的となり、他からは国体原理主義とも呼ばれるようになったのです。

 その出発点は十月事件で、このクーデター事件を計画した幕僚将校等の指導原理を覇道主義と批判したことから、彼ら幕僚将校と親交のあった大川派と対立していた、北、西田派と一派をなすようになったのです。こうして北の日本国家改造法案が彼らのバイブルとなったのですが、ご存じの通り、北の根本思想は「社会民主主義」で、その天皇論も天皇主権的なものではなく、国民主権的な位置づけ(一種の象徴天皇制)であり、天皇機関説により親和的なものだったのです。

 このあたり、皇道派の青年将校の間でも、彼を教祖として信奉する者がいる一方、それに疑問を呈する者もいました。つまり、北の思想が彼らに正確に理解されていたわけではなかったのですが、おそらく、北の「霊告者」的カリスマ性が、彼らの純粋思想の非現実制を埋め合わる役目を果たしていたのではないかと思われます。彼ら自身の身の処し方としては、いわゆる「捨て石主義」をとることで、覇道との差異を主張していたわけですが・・・。

 しかし、このような考え方をしていたために、クーデター後の政権構想をあらかじめ準備するということができまず、その後は全て「大御心」を信じることとしたのです。もちろん「縦横の奇策」を用いればあるいは成功したかも知れない。

 例えば、「山下奉文が杉山参謀次長野後藤文夫臨時首相代理を説得して『青年将校の動機・目的はこうこうである。これをぜひ、あなたは陛下に奏上して、陛下から彼らの希望する人(真人物)に大命降下するように、ではなく、することに決定したと奏上して下さい』ともっていく」。そうすれば、「公的手続きを踏んだ決定には、天皇個人の私意は絶対におよぼしてはならないという、天皇機関説による天皇の機能を十二分に生かすことになる」(『二・二六事件』高橋正衛p171)

 しかし、これは彼らが否定する天皇機関説の考え方であり、また、彼らの信じる尊皇思想から言っても、大権私議となる。従って、彼らの論理が貫徹されるための究極の希望は、彼らの思いと天皇の「大御心」が一致すること。しかし、立憲制下の政治機構を国是とする天皇にしてみれば、股肱と頼む重臣等が殺されることは、その政治機構を破壊することと同義ですから、こうした青年将校等の行為を認めるわけにはいかない。

 つまり、ここにおける対立構造は、立憲政治を守るか、あるいはそれを打ち倒して天皇親政に復るかという、明治以来の政治思想の二重構造の矛盾に端を発するものだったのです。この対立関係が調整不能となり暴発したのが二:二六事件であったわけですが、皮肉なことに、首相が暗殺(未遂)されたことで、「天皇親政」が一時的に復活した形となって、「断固討伐」を主張する天皇の意思が貫徹されることになったのです。

>北一輝についてですが、彼の予言は色々当たりました。結果として彼が予言したようになりました。

tiku 北の予言と言うことについてですが、このことを論ずるためには、北の思想とそれに基づく日本の将来に関する具体的提言を知らなくてはなりません。そこで、これを二・二六事件裁判における検事の聴取書の中に見てみたいと思います。そこには、注目すべき北の次のような言葉が綴られています。

 私は、第一次世界大戦後ウイルソンの似非自由主義に基づく平和主義が高唱される中で、帝国主義が忘れられていることを指摘し、早晩第二次世界大戦が来ると警告してきた。近年、その機運が次第に醸成されているが、日本はそうした対外戦争を決行する前に、合理的な国内改造を行い金権政治を一掃し支配階級の腐敗堕落を根絶する必要がある。それと共に、農民の疲弊困窮、中産以下の生活困難などの問題に有効に対処することによって内部崩壊を防ぐ必要がある。

 また、対外政策については、陸軍がロシアと結んで北支に殺到するような政策をとろうとしているが、これは日本の国策を根本から覆すものである。従って私は、こうした陸軍の方針を変更させるため、昨年七月「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書を提出するなどして微力を尽くしたつもりである。「自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的とした」のである、など。

 以下、その部分を抜粋しておきます。(『現代史資料5』「国家主義運動」p731~)

  第 三 回

 ・・・最近暗殺其他部隊的の不穏な行動が発生しましたが、其時は即ち金権政治に依る支配階級が其の腐敗堕落の一端を暴露し、初めて幾多の大官巨頭等に関する犯罪事件が続出して殆んど両者併行して現れて居る事を御覧下されば御判りになります。一方日本の対外的立場を見ますとき又欧洲等に於ける世界第二大戦の気運が醸成されて居るのを見ますとき、日本は遠からざる内に対外戦争を免かれざるものと覚悟しなければなりません。此時戦争中又は戦争末期に於いて、ロシヤ帝国、独逸帝国の如く国内の内部崩壊を来たす様な事がありましては、三千年光栄ある独立も一空に帰する事となります。此の点は四五年来漸く世の先覚者の方々が紹識して深く憂慮して居る処であります。

 其処で私は最近深く考へまするには、日本の対外戦争を決行する以前に於いて先づ合理的に国内の改造を仕遂げて置き度いと云ふ事であります。国内の改造方針としては金権政治を一掃すること即ち御三家初め三百諸侯の所有して居る富を国家に所有を移して国家経営となし、其の利益を国家に帰属せしむることを第一と致します。右は極めて簡単な事で、之等諸侯財閥の富は地上何人も見得る所に存在して居りますので、単に夫れ等の所有を国家の所有に名儀変更をなすだけで済みます。

 又其の従業員即ち重役から労働者に至るまで直ちに国家の役人として任命することに依りて極めて簡単に片付きます。私は私有財産制度の欠く可がらざる必要を主張して居ります。即ち共産主義とは全然思想の根本を異にして、私有財産に限度を設け、限度内の私有財産は国家の保護助長するところのものとして法律の保護を受くべきものと考へて居ります。

 ・・・私は十八年前(大正八年)日本改造法案を執筆致しました。其時は五ヶ年間の世界大戦が平和になりまして、日本の上下も戦争景気で唯ロシヤ風の革命論等を騒ぎ廻り又ウィルソンが世界の人気男であった為めに、涙の所謂似而非なる自由主義等を伝唱し殆んど帝国の存在を忘れて居る様な状態でありました。従って何人も称へざる世界第二大戦の来る事を私が其の書物の中に力説しても又日本が其の第二大戦に直面したるとき独逸帝国及びロシヤ帝国の如く国内の内部崩壊を来たす憂なきや如何・・・等を力説しても、多く世の注意を引きませんでした。然るに四五年前から漸く世界第二大戦を捲き起すのではないかと云ふ形勢が何人の眼にもはっきりと映って参りましたし、一方国内は支配階級の腐敗堕落と農民の疲弊困窮、中産以下の生活等が又現実の問題として何時内部崩壊の国難を起すかも知れないと云ふ事が又識者の間に憂慮せられ参りました。

 私は私の乏しい著述が此の四五年来社会の注意を引く問題の時に其の一部分を材料とせらるるのを見て、是は時勢の進歩なりと考へ又国内が大転換期に迫りつつあることを感ずるのであります。従って国防の任に直接当って居る青年将校又は上層の或る類者が、外戦と内部崩壊との観点から私の改造意見を重要な参考とするのだとも考へらるるのであります。又私は当然其の実現のために輔弼の重責に当る者が大体に於いて此の意見又は此の意見に近きものを理想として所有して居る人物を希望し、其の人物への大命降下を以って国家改造の第一歩としたいと考へて居たのであります。

 勿論世の中の大きな動きでありますから他の当面の重大な問題、例へば統帥権問題の如き又は大官巨頭等の疑獄事件の如き派生して、或は血生臭い事件等が捲き起ったり等して、現実の行程はなかなか人間の知見を以ては予め予測する事は出来ません。従って予測すべがらざる事から吾々が犠牲になったり、対立者側が犠牲になったり、総べて運命の致す所と考へるより外何等具体的に私としては計画を持ってば居りません。

 唯私は日本は結極、改造法案の根本原則を実現するに到るものである事を確信して、如何なる失望落胆の時も此の確信を以て今日迄生き来て居りました。即ち私と同意見の人々が追々増加して参りまして一つの大なる力となり、之を阻害する勢力が相対立しまして改造の道程を塞いで如何とも致し難いときは、改造的新勢力が障害的勢力を打破して目的を遂行することは又当然私の希望し期待する処であります。但し今日迄私自身は無力にしての未だ斯る場面に直面しなかったのであります。私の社会認識及国内改造方針等は以上の通りであります。尚今回の事件に関する私の前後の気持は後で詳しく申述べたいと思ひます。

三月十九日

第五回

・・・終りに私の心境は、私は如何なる国内の改造計画でも国際間を静穏の状態に置く事を基本と考へて居りますので、陸軍の対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到する如き事は国策を根本から覆すものと考へ、寧ろ支那と手を握ってロシヤに当るべきものと考へ即ち陸軍の後半期の方針変更には聊か微力を尽した積りであります。

 昨年七日「対支投資に於ける日米財団の提唱」と云ふ建白書は自分としては日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的としたもので、一面支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居たのであります。

 実川時次郎、中野正剛君が支那に行きました機会に単なる紹介以上に突き進んだ話合をして来る様取計ひましたのも其為めでありますし、昨年秋重光外務次官と私とも長時間協議致しましたし又広田外相と永井柳太郎君との間にも私の渡支の時機に就いて相談もありました位であります。

 年来年始となり、次いで総選挙となりましたので此の三月と云ふ事を予定して居りました。私は戦敗から起る革命と云ふ様な事はロシヤ、独逸の如き前例を見て居りますので、何よりも前に日米間、日支間を調整して置く事が最急務と考へまして、西田や青年将校等に何等関係なく私独自の行動を執って居った次第であります。

 幸か不幸か二月二十日頃から青年将校が蹶起することを西田から聞きまして、私の内心持って居る先づ国際間の調整より始むべしと云ふ方針と全然相違して居りますし、且つ何人が見ても時機でないことが判りますし、私一人心中で意外の変事に遭遇したと云ふ様な感を持って居ました。

 然し満洲派遣と云ふ特殊の事情から突発するものである以上私の微力は勿論、何人も人力を以てして押え得る勢でないと考へ、西田の報告に対して承認を与へましたのは私の重大な責任と存じて居ります。殊に五・一五事件以前から其の後も何回となく勃発しようとするやうな揚合のとき常に私が中止勧告をして来たのに拘らず、今回に至って人力致し方なしとして承認を与へましたのは愈々責任の重大なる事を感ずる次第であります。従って私は此の事によって改造法案の実現が直に可能のものであると云ふが如き安価な楽観を持って居ません事は勿論でした。

 唯行動する青年将校等の攻撃目標丈けが不成功に終らなければ幸であると云ふ点丈けを考へて居りました。之は理窟ではなく私の人情当然の事であります。即ち二十七日になりまして私が直接青年将校に電話して真崎に一任せよと云ふ事を勧告しましたのも、唯事局の拡大を防止したいと云ふ意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で真崎内閣ならば青年将校をむざむざと犠牲にする様な事もあるまいと考へたからであります。

 此点は山口、亀川、西田等が真崎内閣説を考へたと云ふのと動機も目的も全然違って居ると存じます。私は真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと其の内閣に依って国家改造案の根本原則が実現されるであろうと等の夢想をしては居りません。之は其等人々の軍人としての価値は尊敬して居りますが、改造意見に於いて私同様又は夫れに近い経綸を持って居ると云ふ事を聞いた事もありません。

 又一昨年秋の有名な「パンフレット」「(昭和九年陸軍省新聞班発行のもの――広義国防の強化と其の提唱――財閥と妥協せる国家社会主義的色彩濃厚なり)を見ましても、私の改造意見の〔二字不明〕きものであるか如何が一向察知出来ませんので、私としては其様な架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊の青年将校の一部に改造法案の信奉者がありましたとしても、〔二字不明〕の事件の発生原因は相沢公判及満洲派遣と云ふ特殊な事情がありまして急速に国内改造即ち昭和維新断行と云ふ事になったのであります。

 [三字不明〕日私としては事件の最初が突然の事で〔三字不明〕二月二十八自以後憲兵隊に拘束され〔三字不明〕たので、唯希望として待つ処はこう云〔四字不明〕騒ぎの原因の一部を為して居ふと云【四字不明】家改造案が更に真面目に社会各方面〔四字不明〕され、其の実現の可能性及び容易性が〔四字不明〕ますならば不幸中の至幸であると存ま〔四字不明〕千如何なる建築に心人柱なる事に「四字不明〕帝国の建設を見ることが近き将来に迫〔三字不明〕ではないか等と独り色々考へて居ります。

  以上何回か申上げた事によって私の関係事及び心持は全部申上げたと思ひます。昭和十一年三月二十一日

>確か2.26事件における盗聴において、決起将校の安藤輝三に電話をしていますがそのとき北が<マルはあるか>とたずねています。それに対して安藤はその意味がすぐには分からず、少ししてその意味が分かる、やり取りがあります。北が一番に心配したのは<マル>つまり金で、これは初めてテレビを見た時強く印象に残っています。北一輝は2.26事件が目指したものは心底、思っていたわけではないのではという印象を持ちました。

tiku その<マルはいらんかね>ですが、中田整一の『盗聴 二・二六事件』では次のような指摘がなされています。

 この会話の傍受記録がある録音盤には「2/29北→安藤」というラベル記述があるが、実は、北は28日の午後8時に憲兵隊に逮捕されている。この件について北は東京憲兵隊の福本亀治特高課長の尋問を受けている。

問 其方は、二月二十七日午後、安藤大尉を電話に呼び出して『給与はよいか』『○はあるか』と尋ねたことはあるか。
答 私は、安藤大尉とは、四、五年会いませぬ。又安藤大尉が何処にいるかも知りません。かつ其の電話の内容の如きことは考えても居りませず、もちろん問うことがありません。

 誰かが、北の名を騙って安藤に電話をかけたとも考えられるが、中田は、この裁判を担当した東京陸軍軍法会議の勾坂主席検察官の「電話傍受録」を含む裁判資料の中から、次のような傍受メモを見つけ出した。

28ヒ ゴ11・50分頃 北より→憲兵司令部だと称し 安藤に給与は如何にと問フ 安 順調(細部録音セリ)
北 ソレハ結構 兵力(幸楽ノ)
安 500
北 金ハアルカ マル マル
安 アル
北 ダイジョウブ

 これは、ある男が憲兵司令部からだといって交換手に安藤に取り次ぎを依頼し、安藤が出たら、キタだと名乗って行った会話の記録です。この傍受メモの会話の日時は2月28日午後11時50分であり、「2/29北→安藤」というラベル記述とは大きく矛盾していない。おそらくこの勾坂の記述は、彼が各種情報を総合的に検証した結果の記述で、検察調書の二月二十七日は、北逮捕後に安藤に電話がかけているという矛盾を回避するため改ざんしたのではないか。また、勾坂のメモには安藤大尉に兵力を尋ねている箇所があり、傍受録音では雑音で聞き取れなくなっているが、おそらく、この北を騙った男は、安藤大尉の兵力を聞き出そうとしたのではないか。

 中田氏は、この偽電話を、他の証拠資料とも併せて戒厳司令部通信主任であった濱田萬大尉ではないか、と推論しています。しかし、そのことを確かめに行った1987年には、濱田大尉はすでにその2年前になくなっていました。

 実際のところ、北には右翼団体との仲介を図り財閥から謝礼金を受け取ると言った後ろ暗い一面があり、青年将校との関係で金を渡して背後から扇動していたのではないか、という疑いをもたれても仕方ない部分がありました。しかし、その後、統制派が、北や西田をこの事件の首魁に祭り上げ、処刑したその意図を考えて見ると、この北を駆った会話に出てくる「マルはいらんかね」という会話は、そうした統制派の思惑によって挿入されたものではないかと見ることもできます。

 いずれにしても、先に紹介したような北の陳述によって、北が二・二六事件を引き起こした青年将校等の行動に困惑しつつも、彼らへの情宜を捨てられず同意を与えてしまったこと。そのことの責任をとろうとしていること。事件の収拾策としては、真崎に一任させれば「青年将校をむざむざと犠牲にする様な事」はあるまいと考えたこと。しかし、真崎内閣であろうと柳川内閣であろうと、彼ら軍人の国家改造案は「国家社会主義的色彩濃厚なもの」であって、自分の改造意見とは全く異なっており、それに期待したことはない、と述べていることなど、北独自の卓越した考え方を知ることができます。

 また、北は「対露方針が昨年の前期のに如くロシヤと結んで北支に殺到」しようとする陸軍の方針を変更させるため、「日支の同盟の提唱に米国の財力を加へて日支及日米間を絶対平和に置く事を目的」とする具体的活動をしていました。つまり、「支那に於いては私の永年来の盟友張群氏の如きが外交部長の地位に就いたので、自分は此の三月には久し振りに支那に渡ろうと準備をして居た」というのです。このあたり、石原完爾の「最終戦争論」にもとづく「華北分離中止論」などより、はるかに現実的かつ外交戦略としても優れていたのではないかと思います。

 こういった点を真崎と比較してみても、真崎は教育総監更迭問題以来、皇道派の青年将校達との対応を誤まり、その結果、永田鉄山惨殺事件や二・二六事件という青年将校の暴走を許してしまいました。また、北が日支衝突を回避するための具体的行動をとったことにおいても、また、青年将校の行動に同意を与えたことについて、その責任をとろうとしたことにおいても、私は、真崎と北を同断に論ずることはきない、私はそう思います。

 もちろん、そのことを踏まえた上で、なぜ北が三年間憲法停止した上での国家改造を提案するに至ったかを考える必要があります。

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