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2011年9月

2011年9月26日 (月)

平家物語の「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」という「恩の哲学」について

前エントリーに対する物語研究所「夢前案内人」さんのTBへの私の応答です。「夢前案内人」さんのblogコメントに加筆しました。

狂人と賢者を分ける線

夢前案内人さん、専門的TBありがとうございます。
 以下、私の感想を述べさせていただきます。

〈「自己義認(自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神、」を設定し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくり〉

 統合失調症を上記のようなものと解釈するなら、

「統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い」と言い得ると思います。

 また、「社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか?」とも言えると思います。その社会の未来イメージが明快でメンバー間に共有されている場合は大変能率的ということですね。

 問題は、その未来イメージが不明な場合、どういう手順でそれを創り上げ実行に移していくか、ということですが、お説の統合失調症では対応が難しいのではないかと思われます。(私がおっしゃっていることをよく理解していないのかも知れませんが)

 ただ、イノベーションの意味を「企業者が行う生産諸要素の新結合」とするなら、まあ「何を作るか」は分かっているわけで、その品質や、生産方法、販路、原材料調達、組織づくりなどにおいて革新的改善を加える、ということですから、確かにそれは先に述べたように能率的に行えると思います。で、ここに異常な結果を生み出すことになる閾値があるとすれば・・・という問いですが、生産活動ではなく政治活動を対象とするなら、前エントリーで述べたような閾値?は存在するとは思いますが・・・?

 なお、「夢前案内人」さんの前エントリー「“個” の思想は欧米礼賛なのか」も読まさせていただきました。お説については私も同意見です。ただ、「プロテスタント病」の定義についてですが、本来、プロテスタンティズムとは「信仰義認」であって「自己義認」ではない、つまり、「義人なし」が基本で「人が義とされるのは信仰のみ」ということです。といっても、現実には「この主張により自己義認の連鎖が打ち破れるのは、カトリックとの緊張関係がある場合に限られる」とのことで、そういった緊張関係を失いやすい環境に置かれた場合は、「プロテスタント病」といわれるような症状が出ることになるのです。

 まして、それが近代化と共に東アジアの儒教圏にきた場合、特に日本の場合は「生まれながらにして本性=人間性が備わっている」と考える、つまり「義人のみ」の世界ですから、「プロテスタント病」に対する免疫がない。それ故に、伝統的に「去私」が自己修養の目標とされてきたわけで、大正デモクラシー期のように西洋思想が一般大衆に強い影響力を持った時代には、「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」が社会の主導権を握るようになるのです。これに対する反動が、昭和なのですね。

 で、「そうならない社会を目指すためには、真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付ける」必要があるのですが、「義人のみ」の世界ではたしてこれが可能か、ということになると、難しいということになる。しかし、ここで参考までに申し上げますと、山本七平によれば、平家物語における倫理規定は「施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない」という「施恩・受恩の倫理」だったらしく、おそらくこれは、現代においても、日本人の倫理感を無意識的に支えているものではないかと思われます。(『日本教徒』参照)

 といっても、キリスト教も結局、「律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きる」(ガラ5:14)  のですから、日本人が「人間性を信じる」のは決して悪くない。むしろ有利と言えるかも知れません。実際、上記の「恩の哲学」は「汝の隣人を愛せよ」に昇華する機縁を持つような気もします。といっても、これは共同体における個人倫理であって、利益社会における秩序原理は、契約(=法)と、その下における権利・義務関係であり、日本の組織に求められているのは、身内の談合よりコンプライアンスを重視する、ということだと思います。これは、少しずつ身についているようですね。 

 最後に、「“個” の思想」を身につけるためにはどうしたらいいか、ということで、「C・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセス」が大切、ということですが、私もその通りだろうと思います。しかし、その場合、何を意識化するか、が問題になると思いますが、おそらくそれは、「自分を無意識に支配しているものの「意識化」だと思いますが、案外それは、先の「施恩・受恩の倫理」かもしれませんね。

 また、「”個”の思想」がなんらかの「権利の主張」を意味するものであるとすれば、一見、この世界には「権利はなく義務だけが存在する」ように見えます。しかし、もう一歩進んで考えると、「受恩の義務を拒否しない」は「受恩の義務を果たす」ことだから、これは、「受恩の義務を行使する権利」とも考えられます。とすると、この「恩」を対人関係から「天」との関係において捉えることができるようになれば、なんだか”すっきり”してくるような気もしますね。(これが即ち明治の「敬天愛人」か)

 といっても、それが「神人一体」ではなく、対立関係を基本とする神との「契約関係」(その契約書が”聖書の言葉”、だからその契約書をもとに神と議論することも権利として許される)になるかというと、それは難しいと思いますが・・・と言いつつ、日本人は神に一方的に要求ばかりというか”おねだり”ばかりしていますから、神としても、その内最低限の「契約書」は作りたくなるかも知れませんね。

 まあ、江戸時代においては、その「契約書」の内容が「勤勉」とされたことによって、「日本資本主義の精神」が準備されることになったわけですが・・・。(『勤勉の哲学』山本七平 参照)

2011年9月22日 (木)

かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?

 池田信夫氏が、「脱原発という『空気』」で重要な指摘をしています。http://agora-web.jp/archives/1382641.html

 「最近の原発をめぐる異常な空気は、昔どこかで見たことがあるなと思って、山本七平の『「空気」の研究』を読みなおして驚きました。この本の主題は日本軍の空気ではなく、この本の出た1970年代の日本の空気、特に公害問題をめぐる政治的な空気なのです。

 当時、学生だった私にとっては、文春や産経にしか出ない山本は、マイナーな「右派知識人」でした。彼の日本軍についての詳細な分析には感心しましたが、軍を憎む彼が平和を唱える左翼を批判するのには違和感を覚えました。しかしよく考えると、かつての日本軍の体質を戦後に継承していたのは、「革新陣営」だったのです。」

 山本七平は、あれだけ峻烈な日本軍隊論を書いているのに、なぜ、同じように日本軍を批判し、その反省の上に立って戦後の平和論を説いている左翼を批判するのか、といった疑問。案外こういった感想を持った方も多かったのではないでしょうか。しかし、逆の見方をすれば、左翼は山本七平の日本軍隊論から多くを学び取ることができるはずなのに、なぜ、彼を執拗に攻撃するのか、といった疑問にもなります。当時の私の印象としては、後者の方が強かったですが...。

 いずれにしても、当時山本七平が語っていたことは、戦後的な意味での「左翼・右翼」の枠組みで捉えられるものではありませんでした。その思想的立場は、先に紹介した氏の「『是・非』論と『可能・不可能』論」の中でも、次のように表明されていました。
 
 「確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。」

 日本の敗因を考える場合、今日でも、「東京裁判史観」の影響や、中国や韓国による歴史観の強要、あるいは迎合といった問題があります。しかし、山本はそういったものからは全く自由で、一下級将校としてのフィリピンでの戦争体験をもとに、氏独自の視点で、日本の敗戦の原因を考え続けたのです。

 彼が、そのことを世間に問うこととなったのは、これは本人の弁によれば全くの偶然の産物で、岡本公三のテルアビブ空港銃乱射事件や、横井さんや小野田さん(「小野田少尉に日章旗と白旗を」)がジャングルから出てきたことがあって、文春に記事を求められ、断り切れずに書いた。(「山本七平の不思議2」)その最初の記事が「なぜ投降しなかったのか」(「テルアビブの孝行息子たち」としていましたが間違いでした。)で、昭和47年、氏が51歳の時でした。

 ということは、戦後27年間沈黙していたわけで、その間、何をしていたのかというと、「現人神の創作者」を探索していた」といっています。その成果が『現人神の創作者たち』(「あとがき」参照)で、そうした探索の過程で、日本の敗戦の原因についても、数々の発見をすることになったのです。どなたかの”歴史に名を残す”生き方とは無縁ですね。

 では、次に、池田氏が指摘しておられる「戦後革新陣営が継承したと思われる日本軍の体質」について、山本七平はどのように考えていたか紹介しておきたいと思います。先に指摘した「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないというのは、日本人の一般的傾向ですが、氏が指摘していたかっての日本軍特有の考え方とは、次のようなものでした。(以下、山本七平著『存亡の条件』参照)

一、「自分たちは被害者」という自己規定

 〈″軍は加害者″は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。しかし私が入隊した昭和十七年、いわば”勝った勝った”の絶頂期ですら、彼らは被害者意識の固まりであった。まず、前に述べた軍縮による四個師団廃止である。彼らはこれを外圧と受けとっていた。・・・

 現実問題としては、軍縮は軍人への”首切り”、師団駐留地の”基地経済の崩壊”を意味するから、現在における「国鉄の人員整理」よりはるかに難問であったろう。幕末以来、こういう問題はすべて外圧として処理され、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」という「内心の解決」にその最終的解決を求めたのは、伝統的に今も通用する当然の処置といわなければならない。

 だがこれは(昭和になると)「堕落政治家と軟弱外交のため、戦わずして四個師団が殲滅された。」そのため軍は不当な犠牲を常に強いられてきた、という強烈な被害者意識となり、昭和十七年当時ですら、いわば一種の「軍隊内常識」であった。従って彼らは、すべての責任をこの点に転嫁し、日華事変でもノモンハン事件でも、その失態はすべて「政治家が悪い」のであって、軍の責任ではない、という自己正当化に生きてきた。

 同時にこれは国軍を統率する天皇が”股肱”を失ったことであり、従って、天皇こそ最大の被害者と規定された。彼らは自らを被害者とし、かつ被害者=天皇の側に立ったわけである。〉  

二、殉教者自己同定と”見えざる牢獄論”、その獄卒=加害者の責任追及

 〈次に・・・まず維新の志士を殉教者に見立て、これと自己を同定化するとともに「皇室=見えざる牢獄論」いわば「天皇囚人論」をとり、同時に全日本人か”見えざる牢獄”にあると規定した。この間の彼らの考え方が最も的確に表れているのが、二・二六事件の将校の言動である。(張作霖爆殺事件の河本大作や永田鉄山斬殺事件の相沢三郎さえ”殉教者”扱いされていた=筆者)〉

 〈確かに維新以前には、朱子学的思想からすれば、天皇は京都の「見えざる牢獄」におり、これを”解放”して政権の座にすえることが彼らの目的であったろう。だが、昭和の時点では、天皇は立憲君主制の統治者であり、牢獄にいるわけではない。否、それだけでなく、彼らの指揮官である。しかしそう規定したのでは、彼らは喜劇役者になり、殉教者自己同定は成り立たない。したがって、お定まりの通り昭和の天皇も同様に牢獄にあり、そのため、全日本人が牢獄にあると規定せざるを得ない。〉

三、自己無謬性の主張と無謬性の寄託現象

 このような彼らの「殉教者自己同定」の基礎にある考え方は、”自分は正しい”という自己無謬性の確信であり、従って、彼らはますます、「自分は正しい、社会は悪い」と感じ、そう主張せざるを得なくなる。この悪循環は、最終的には、無謬性の寄託現象で切り抜けるより方法がなくなるのである。

 こうして〈一定のグループが、自己の無謬性を、ある団体もしくはその代表者乃至は象徴に寄託して、その象徴と同じ言葉を口にし、その象徴に従うことで結合する。こう結合すると、その集団は無謬で、他はすべて誤っていることになる。いわば、「私は正しい」から、「われわれの集団は正しい、われわれ以外の社会は間違っている」という形になるのである。

 戦前はこれが、仝国家的規模によって行われた。いわゆる大正自由主義時代のプロテスタント病的傾向(各人が”自分は正しい”と主張することで、社会全体の秩序が乱れること=筆者)を、「自由主義」排撃の名のもとに、天皇への無謬性寄託という形で排除しようとした。この中心となったのが軍部〉であった。

 〈そして、これが極限まで進むと、「日本は正しい、世界は悪い」という形になり、その表徴である天皇は無謬ということになるのである。これは、図式として記せば、自己の無謬性を天皇に寄託し、その寄託した天皇の「聖旨を体して」行動することによって、自己が無謬となるわけである。〉

 ところが、「天皇は無謬であり、その大御心があまねく民に降り注げば、彼らが理想とする平等社会が実現するはず」なのに、現実の社会はそうなっていない。これは、天皇周辺の奸臣がそれを邪魔しているからで、従って、それを排除しなければならない、というふうに考え、天皇周辺の重臣へと攻撃が向けられた。

 もう一つのやり方は、無謬性を寄託したのだから、それと自己の無謬性との誤差は、内心の問題として処理してしまう方法である。ただ、このやり方は、その解決そのものが一種の自己義認となるので、その新しい自己義認は、古い無謬性寄託集団を解体さすか、変容さすかして、新しい無謬集団の形成へと進む。

 ここで過去とは完全に断絶するが、その断絶期間は、原初の形すなわち「私は正しい、社会は悪い」にもどる。そしてそれが自己義認の新しい寄託先を求めて、新しい社会的統合へと進み出すのである。(左翼の場合は、戦後、スターリン、毛沢東と、その寄託先を求め次々と”裏切られ”ていったことは周知の通りです。=筆者)*下線部修正9/24

四、自己無謬性の時間的・空間的〈現在〉への偏執

 以上のようなやり方は、〈六〇年安保のみでなく、戦後一貫して行われてきた、否、戦前からずっとつづいている一つの循環である。われわれは、プロテスタント文化に接触して以来、ほぼこの形態をとりつづけてきた。そしてそれは外部から見れば、考えられぬほど、徹底的な転換を行う社会と見えた。従って、日本人が何を考えているかわからないという批評が出ても不思議ではない。

 一億玉砕から、一気に無条件降伏、平和国家へと転換し、また最近では、高度成長から一気にまた逆転した。この転換を外紙が「本能的」と呼んだのは、それ以外に批評の方法がなかったからであろう。いわば、どう見てもそれは理論的とは見えないが、この方法によれば、実に的確に過去を切断して切り捨てられるのである。

 この無謬性主張は、空間的な自己集団の無謬性主張だけでなく、時間的な区切りによる「現在の無謬性主張」という形もとる。戦時中の人間にとっては、現在の自分は無謬であり、その体制になる前の大正期から昭和初期の自分は誤っていた如くに、戦後の人間にとって、現在の自分は無謬であり、戦争中の自分は誤っているのである。

 従って、反省とか批判とかいった場合、「現在の自分は正しい、その正しい自分から見ると、過去は正しくなかった」という形になり、その反省、批判はすべて、現時点の自己義認の形をとる。そしてその形をとるために、過去を再構成して、現在の自分の無謬性主張の裏付けをすることはあっても、過去と現在を双方共に可謬性のあるものとして、これを対比することはしない。

 これは、現在の自己および自己所属集団と他を、共に可謬性あるものとして対比できないのと同じである。もちろん、可謬性を認めれば、自己義認はできないから、これは当然の結果であろう。〉

 つまり、以上のような、「自分たちは被害者」という自己規定から出発して、「殉教者」と自分を重ね合わせ、社会全体が”見えざる牢獄”に置かれていると見て、その獄卒=加害者の責任追及を行う。当然、その責任追及を行う自分は「無謬」で、さらにその「無謬」者間の矛盾を解消するため、ある絶対者に「無謬性の寄託」を行う。それによって現在の自己を無謬とし、過去の無謬は切り捨てる、といったやり方。

 こうした、かっての日本軍、とりわけエリート青年将校たちに見られた体質を、戦後最もよく継承しているのが「革新陣営」だった、ということは、私も確かにいえると思います。スターリンや毛沢東、金日成と次々と無謬性の寄託対象を変え、それができなくなってからは、人権、環境、原発と無謬性の寄託対象を次々に変えてきた。もちろんそれぞれ重要な課題ではあるわけですが、それを物神化し冷静な科学的議論を封じてきたそのやり方は、かっての軍人のやり方と変わらない、ということです。

 では、こうした状態から脱却するためにはどうしたらいいか。

一、対象を対立概念で把握すること。そのためには、まず、人は「善人」でも「悪人」でもなく、「善・悪人」であると知ること。

 〈この(「善・悪人」という)考え方は、基本的には、人間を対立概念で把握するということであり・・・人間は、善悪という対立概念で一人の人を把握しているとき、その人はその人間を把握している。だがこのことは、人を、善人・悪人と分けることではない。もし人を、善人・悪人に分類してしまえば、それは、その各々を対立概念で把握できなくなってしまう。〉

 さらに、一人格を善悪という対立概念で把握すると共に、それと社会との関係も、いわば法王と皇帝の関係に見るように、精神的秩序と政治的秩序の対立概念で捉える必要がある。つまり、この両者が「全くの相互不干渉で、車の両輪の如くなっている世界である」。日本の場合は、この「対立した諸相を無意識のうちに捨象して、たとえ虚構でも、対立なき『一枚岩的対象』と見たがる」傾向がある。

 しかし、日本の歴史をよく調べてみると、特に鎌倉時代以降江戸時代までは、この精神的秩序=文化的秩序と政治的秩序を分立している。これを天皇中心の一元的国家体制に作りかえることで明治維新は成功したが、明治新政府が採用した政治システムは立憲君主制であり、これは、精神的秩序を象徴する天皇と、それを輔弼する形で実質的に政治権力行使する政府との二権分立構造となっていた。この辺りを指摘したのが『日本人とユダヤ人』でしたね。

 ところが、この精神的秩序を宣明した教育勅語が想定していた政治体制は、朱子学導入以降の日本儒教の到達点である「天皇を宗主とする家族的国家観に基づく天皇親政」を前提としていました。そのため、立憲君主制下の機関説的天皇制と矛盾することとなり、ついに、昭和に至って、教育勅語の想定する天皇親政が、明治憲法下の立憲君主制、そこにおける政党政治や議会政治を排撃することになったのです。

 ただ、国家目標が、西欧の近代国家をモデルとする”追いつき追い越せ”の時代には、この矛盾は露呈しませんでした。しかし、軍が、政治に対して不満を持つようになると、上述したように機関説天皇を”見えざる牢獄”と見なすようになり、その獄卒である「君側の奸」を排除することで、天皇を”解放”し、それによって、一君万民平等社会を実現しようと考えるようになったのです。

 もちろん、こうした考え方は皇道派青年将校に特徴的に見られたもので、結果的には、彼らの部隊横断的「脱藩」行動が、軍の統制を乱すものと見なされ、統制派の弾圧を受けるようになりました。といっても、統制派青年将校たちが別の思想を持っていたというわけではなく、天皇機関説を排撃し、天皇と自分たちを統帥権で結ぶことで、天皇中心の高度国防国家を建設しようとしていた点では同じでした。

 ところで、先ほど紹介した、日本のより伝統的な二権分立的象徴天皇制と、教育勅語に規定された家族国家観に基づく「現人神」天皇制とは、どういう関係にあったのでしょうか。

 この問題を解明したのが、先ほど紹介した山本七平の『現人神の創作者たち』です。その元々の起源は、明末に日本の亡命してきた朱舜水らが持ち込んだ朱子学的正統論にあります。それが、山城の国の一領主に押し込められていた天皇を、倒幕の象徴へと祭り上げていく、その壮大なドラマ・・・なにしろ、この尊皇イデオロギーによって明治維新が成ったのですから・・・。

 で、問題は、この明治維新を成功に導いた尊皇イデオロギーと、明治新政府が導入した立憲君主制との思想的な矛盾対立がなぜ精算されなかったか、ということですが、先に述べたように、西欧をモデルとしていた間は、むしろこれが和魂洋才という形でプラスに働いたということですね。

 つまり、前者の儒教的「自己抑制」倫理観と、能力主義的かつ合理的な近代国家建設の歩みとがうまくかみ合って、急速な近代化を達成することに成功したということです。だから、この矛盾の持つ問題点が修正されなかったのです。しかし、一応近代化に成功し、今までモデルとしてきた西欧諸国との利害対立が生まれてくると、独自の道を模索せざるを得なくなる。

 折しも共産主義思想や国家社会主義思想が世界的な流行を見るようになり、中国では反帝・反日運動が活発化し、日本の中国における権益は危殆に瀕するようになった。一方国内では、大正デモクラシーのもと「プロテスタント病」の様相を呈してきた。また、第一次大戦後の戦後不況に関東大震災、金融恐慌が重なり、国の財政状況は一層厳しくなり、先ほど述べた大がかりな軍縮も行われ、軍人の不満は高まり、「十年の臥薪嘗胆」という言葉も生まれるようになった。

 一方、世界の軍事状況は第一時代戦後総力戦の時代に入っており、政治と軍事を一体的に運営しなければならない時代になっている。ところが、こうした危機的状況を前に、政府は国際協調主義を掲げて有効な対策がとれない。また政党政治は腐敗し、資本家は富を独占し格差は拡大している。国内では金解禁の失敗もあって不況は一段と深刻化し、農村不況も身売りをするまでになっている。また、世界恐慌で資本主義経済は破綻し、先進国は次々とブロック経済に走り、このままでは日本の生存さえ危ういく・・・。

 まあ、歴史の解説はこれ位にして本題に戻りますが、このような危機的状況下で日本的一君万民平等主義を説く尊皇イデオロギーが復活し、それがさらに強化されて「現人神」天皇制イデオロギー――左翼の人たちが理解している「天皇制」はこれで、それが生まれた思想史的系譜を知らないために、これを天皇制の本体だと思っている――として、軍主導の高度国防国家を支えることになったのです。

 この思想は、忠孝一致の家族的国家観に基づく「天皇親政」を理想としていましたが、昭和の軍人は、その頂点に立つ天皇を偶像化=神格化し、その天皇と自分とを結びつけることで、絶対的権力を行使しようとしたのです。戦後は、この天皇をスターリンや毛沢東に置き換え、それと自分を結びつけることで、社会に対する絶対的発言権を行使しようとした人々が沢山いましたね。

 しかし、このような最高権力者の偶像化=神格化を行うと、これに対する批判は一切許されなくなる。この点、旧約聖書を見れば判りますが、そこに書かれた指導者像は、モーセにしてもダビデにしても、実に見事にその神格化が排除されていて、彼らは「善」だけでなく「悪」も備えた不完全な人間であったことが、そのまま記録されています。

 そうすることではじめて、その歴史的な一人物を歴史的背景のもとに捉えることができる。それと自己とを相対させることで、現在の自己を歴史的に把握することができる。それによって、進むべき新たな道を模索する手がかりを得ることができる。だから、その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」というのです。

 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

 確かに、こうした生き方は、先進国をモデルとして、それに”追いつき、追い越せ”でやってこれた時代には、大変効率的な生き方だったといえるかも知れません。しかし、そうしたモデルを喪失した時代では、まず、「仮定のモデル=前提」を立てることから始めなければならない。そしてその「仮定のモデル=前提」をより正確に把握するためには、それを偶像化してはダメで、それは対立概念によって把握するよう努めなければならない。

 このようにして把握された「仮定のモデル=前提」を、これも「仮定の方法論」によってつなぎ、試行錯誤を繰り返しながら新しい道を探し、そして誤るのを当然と考え、誤った場合は、それを記録し、それとの対比の上で次の新しい「仮定のモデル=前提」を立てる。これを繰り返すことで、一歩一歩、未来を切り拓いていく。日本が生き延びるためには、こうしたことができるようにならなければいけない、と山本七平はいうのです。

 福島原発の事故も、こうした先進国のモデルなき歩みのなかで犯した、「起こりうる過ち」の一つと考え、その克服の道を模索しなければならないのではないでしょうか。後進国は、それをモデルとすることで、同じ過ちを犯さないで済むわけですから。

2011年9月14日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか(最終回)――自己評価と社会評価のギャップが生んだ悲劇

 戦前の昭和史を引きずり、まさに破滅的な敗戦へと国を導いたのは、紛れもなく「昭和の青年将校」たちでした。ではなぜ彼等は、「世論に惑はす政治に拘(かかは)らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山岳よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」という軍人勅諭の掟を破り、政治に介入し、「忠節」を放擲して勝手に軍事行動を起こし、ついには明治憲法の規定を無視して、日本の政治を壟断するに至ったのでしょうか。

 そこには多方面にわたる複合的な要因があって、それらを列挙していけば、それは日本にとって”運命だった”と言うしかないほど、当時の日本が置かれた状況は厳しかったといえます。だが、いくら状況が厳しかったからといって、それで政治の責任が免れるわけではありません。では、一体どこで判断を間違えたか。誰がその責任を負うべきか。この問いにしっかり答えることが、同じ悲劇を繰り返さないためにも必要なことだと思います。

 今、政治主導と言うことがさかんにいわれます。まるで、官僚に任せていては国が滅ぶといった口調で、その既得権擁護の保守的体質が攻撃されています。しかし、官僚組織が保守的なのは行政組織として当然であって、政治家がそれをうまく使えばいいのです。なのに、政治家にそれだけの能力がないのか、あるいは、長い野党暮らしの中で被害者意識が身についていて、あえて彼等を敵に回すことでしか自らの存在をアピールできないのか、そんなふうにも考えられます。

 こんなことをいうのも、こうした政治家と官僚との関係を戦前の昭和史に見た場合、大正末から昭和初期の段階で比較的正しい政治判断をしていたのは、官僚(主として外務)であって、それをぶち壊し、日本を破滅へと導いたのは、政治家(特に森恪を中心とする政友会)だったことが明白だからです。つまり、時の政治家が、軍人という「世論に惑はず政治に拘わらず」とされた専門家集団を、党利党略で政治に引き込んだ結果、「庇を貸して母屋を取られた」格好になったのです。

 それは山東出兵に始まり、東方会議で軍人が政治に関与する糸口を作り、済南事件で日本軍が北伐軍を攻撃し蒋介石を敵に回し、さらに張作霖爆殺事件で満州の張学良を敵に回した。それが、中国人のナショナリズムの炎に油をそそぐことになり、中国の国権回復運動から満州における日本の特殊権益の侵害、さらには旅大回収運動へと発展していった・・・。

 注目すべきは、石原完爾などは、そうした満州における状況の悪化を、日本が満州を武力占領するための口実にできると機をうかがっていたということです。ほんとは、石原は中村大尉事件で出兵したかったのですが、それが許されず、そこで、政府が関東軍の暴走を怖れて止めに入ったことに機先を制する形で、かねて計画していた満州占領計画を、政府や軍中央はおろか天皇の意思も無視して実行したのです。

 そして、この計画を政友会幹事長であったの森恪は知っていて、満州事変が引き起こされる直前の昭和6年9月9日の講演で、次のように語っています。「(支那満州について)要するにどうしても現在のままでおくことはできない。・・・然らばこれを如何に展開するか。我々は一つの手段方法を有って居る。けれども角力は、この取り組みはこう云う手で敵を倒すというようなことを発表したならば、角力は取れぬ。」(「名古屋市公会堂における講演」)

 問題は、この日本軍による満州占領にどれだけの正当性があったかということですが、少なくとも日本国民は、済南事件の真相(三百人の邦人が虐殺されたといううその報道がなされた。実際に殺されたのは麻薬売人など不良邦人十数人だった)も、張作霖爆殺事件の真相(河本大作が主犯)も、また、満州事変が謀略――七十センチほど線路が破壊されたに過ぎず、直後の列車は脱線しないで通過した)で開始されたということも知らされていませんでした。

 そして、ただただ、日本が日露戦争で十万の兵士を犠牲にして、ロシアの侵略から守った満州、そこにおける日本の条約上の特殊権益が、不当にも中国に侵害されたと信じ込んだ結果、日本人は、満州事変及びそれ以降の軍の行動を支持するようになったのです。また、そうした判断の背後には、中国人に対する蔑視があり、軍は、中国人は満州に治安も繁栄をもたらすことができない、むしろ日本人が満州を統治した方が中国人にとっても幸せだと国民に説明していました。

 確かに、近代的な国家の統治能力という点では、日本が中国より優れていたことは事実だと思います。しかし、より本音に近いところでは、軍は満州の領有は日本の発展のために不可欠だと考えていました。孫文から満州を買収しようとした桂太郎などは、日本の人口問題を解決するためと言っています。また、石原完爾は「世界最終戦争」を勝ち抜くため満州に領土と資源を求めました。しかし、多くの青年将校らにとって満州は、これらとはまた別の意味がありました。このことを理解することが昭和史の不思議を解明する上で極めて重要なポイントとなります。

 というのは、ワシントン会議までは、軍の統制は比較的保たれていて、加藤友三郎らこの会議に出席した軍首脳の判断は正しく、もちろん、原敬ら政治家の判断も、交渉に当たった幣原喜重郎の判断も正しかった。政友会の森恪すらも、この会議には賛同していましたし、その結果も受け入れるべき論じていました。そうした流れが変わるのは、1922年、1923年と続いた山梨軍縮、1925年の宇垣軍縮あたりからで、ここで蓄積された青年将校らの不満が、満州問題の武力解決へと結びついていったのです。

 こうした見方は、伊藤正徳の『軍閥興亡史』などにも指摘されていて、当時の事情をよく知るものにはごく一般的な見方だったようですが、戦後の歴史家には、あまりこの点は重視されていないようです。これは、マルクス主義の影響で、こうした心理的な解釈より下部構造論的な解釈の方が、研究者の関心を集めたからなのではないでしょうか。秦郁彦氏の『軍ファシズム運動史』でも、次のような記述に止まっています。

 「大戦後の滔々たる軍縮の風潮は、さきにワシントン条約による海軍兵力の削減と、陸軍の山梨、宇垣軍縮を経て昭和五年のロンドン海軍軍縮条約においてその頂点に達し、政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえないとする海軍統帥部及び大多数の海軍中堅青年士官の見解は、陸軍内部にも多くの共鳴者を得た。しかも政・財界の腐敗は慢性化し、あいつぐ汚職の報道はますます国民の政党政治に対する信頼感を失わせた。」(前掲書p19)

 ここでは、軍が軍縮に反対したのは、「政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえない」という国防上の見地から、とだけ記されていますが、それは多分に建前に過ぎませんでした。というのは、この「兵力量不足」という問題については、海軍側も、それに対しては政府が航空隊の充実など何らか補充策を講じることで、このロンドン軍縮会議における日米妥協案を承認していたからです。

 この、すでに決着したはずの「兵力量不足」の問題を、「統帥権干犯問題」に発展させ政治問題化したのは政友会の森恪でした。

 森格の伝記には「森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行った」と記されています。

 (また)「岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』」と答えています。(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家だったのです。では、なぜ森恪は、「責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如き」統帥権干犯問題を引き起こしたのでしょうか。言うまでもなく森は、第二次南京事件以来、軍縮に不満を持つ軍人らを政治的に巻き込み、その実力で以て自らの大陸政策を推進しようとしており、この時も、「兵力問題」を「統帥権問題」として政治問題化することで、民政党からの政権奪還を図ろうとしていたのです。

 まさに、政党政治家としては自殺行為であったわけですが、もし他の政治家が、こうした森恪の政治手法に与せず、軍人を政治に巻き込むようなことをしなかったならば、また、軍縮に不満を持つエリート青年将校達をコントロールできていたならば、あるいは、満州問題も、当時の厳しい国際環境の中にあっても、日本の特殊権益を保持・発展させる方向で処理できたと思います。ところが、それまで政党政治確立のために軍閥と戦ってきた犬養や鳩山までもが、森格に引きずられて政府の統帥権干犯を攻撃したのですから、話しになりません。

 では、当時の軍人らは軍縮に対してどのような不満を持っていたのでしょうか。このことについては、本エントリー4「満州事変と十年の臥薪嘗胆」でも詳しく紹介しましたが、ここでは、山本七平の指摘した「自己評価と社会評価のギャップが生んだ悲劇」という見方を紹介したいと思います。おそらく、当時のエリート青年将校たちが、ここに述べられたような強烈な被害者意識に陥っていなければ、彼等はあれほどの暴走を繰り返すことはなかったと思います。

 もちろん、そうした心理要因があったとしても、それを思想的に正当化するものがなかったならば、具体的な行動にまでは発展しないわけで、その点、大川周明や北一輝が一定の役割を果たしたことは事実だと思います。しかし、彼等も、一時的に軍に利用されただけで、結局は捨てられています。また、石原完爾の思想も、満州事変の成功には役立ちましたが、日中戦争に至って破綻し、自らは協和思想や宗教世界に没入することで、かろうじて自己破綻を免れています。

 つまり、張作霖爆殺事件から二・二六事件までの、その後の日本の「運命」を決定づけた青年将校らの行動の根底にあったものは、実は、必ずしも大川周明や北一輝あるいは石原完爾の思想ではなかったのです。それは、第一次大戦以降の軍縮の流れの中でエリート青年将校らを狂わせることとなった「自己評価と社会的評価の恐るべきギャップ」、そこから生まれた強烈な被害者意識、それが、当時の社会や政治に対する彼等の否定の感情へと結びついていたのです。

 「将校の社会手地位の低下は、何も昭和に入ってから始まったことではなかった。ただその加速度が異常に早くなったにすぎず、この落下ぶりは、戦後の大学と大学生の低下ぶりによく似ている。しかし、そうなる以前の低下ぶりも相当ひどいものだったかも知れない。いわゆる「学資様なら娘をやろか」の時代には、陸軍少尉も学士なみであった。しかし、学士様の方は勃興する資本主義の波に乗っていけたが、少尉様はそうはいかない。『おはなはん』や『坂の上の雲』の時代には、佐官は社会の上流階級に位置していた。それが極端な言い方をすれば、昭和の初期には乞食同然といいたいような地位にまで下落し、学士様とは決定的な差がついてしまったのである。

 というと非常に大げさに聞こえるかも知れないが、これは決して誇張ではない。というのは軍人のうち将官になれる人は例外であり、ほとんど全部が佐官で退役になって恩給生活に入る。恩給で生活ができれば悠々自適だが、インフレに一番弱いのが恩給生活者であることは昔も今も変わりはない。現役の尉官即ち青年将校を苦しめたインフレは、さらに激しく退役の佐官を苦しめた。といっても、彼らには生活の知恵もなければ軍隊以外の社会に適応していく能力もない。何しろ幼年学校出身の将校なら、中学二年でいわば「軍隊生活に入ってしまい、生涯の大半を軍隊という隔絶された社会でおくり、それ以外の社会は全く知らないのである。」

 「誇り高い青年将校にとって・・・現実と夢はあまりに違いすぎた。而も彼らは当時の社会のエリートであり、士官学校は今の東大をはるかに超える魅力と威力をもっており、みな郷土の秀才、郷土の誉れとして入学し、一般社会から完全に隔絶した全寮制の中で、国家の柱石として徹底的なエリート教育を受けてきたのである。その彼らにとって、これが光輝ある「帝国陸軍」の現実の姿であっては、「世の中はマチガットル」と考えても不思議ではない。むしろそれが普通で、そう考えなければ不思議である。」

 「二・二六事件については、農村の貧困が彼らを蹶起させた一因だというのが定説のようだが、私はそう考えていない。もっともっと明白な貧困が彼ら自身にあり、また彼らの目前にあった。確かに退役佐官の保険外交員も憂鬱な存在であったろうが、しかし候補生として軍隊に来たとたん、おそらく、衝撃を受けるほど彼らを驚かせたものは「残飯指令」や「残飯出勤」(夕食時に家族を連れて部隊に来て「食事伝票」なしに食事をしたり、日曜に不意に出勤して昼食をとること)、また「ボロかつぎ」(馬の糞を拾って売り歩くこと)「増飼将校」(食事の量を増やすこと)等の存在ではなかったろうか。」*()内は筆者

 「もちろんこういった人々は例外であったろうし、退役佐官の保険外交員も例外かも知れぬ。また以上のことも汚職というほどのこともない――しかしこういうことはすぐ兵隊の目にも社会の目にも入る。そしてその行為は、平生の言動とあまりにギャップが大きすぎるから、かえって軽侮をかう。彼らとて兵士の軽侮の目を感ぜざるを得ない。特に、まじめで敏感でプライドの高い将校ほど、一部の同僚への兵士の目が気になる。そして「こんなことで国軍は一体どうなる、兵の信服を失って、どうして戦場で彼らを指揮できようか」と真剣に悩む。私自身もその悩みを打ち明けられたことがあるが、その口調は本当に真剣そのものであった。」

 だが「こんな安月給で忠節なんぞつくせるか」とは絶対にいえない。それを口にすれば「軍人」そのものの否定になってしまう。従って、二・二六の将校などに「問題は月給でしょ。あなた方の本当の不満は自分たちの地位と責任に対する社会の報酬があまりに低いことでしょ」などといえば、そう解釈する人間を逆に軽蔑し、今でも軽蔑するであろう。しかし結局はそうだったのだが、それが「自分たちをこんな状態にしておく社会が悪い、陛下の股肱、国家の柱石に残飯をあさらせるような社会はマチガットル、そんな社会は絶対に改造せにゃ軍は崩壊する、日本は滅びる」という考え方になっていくのである。

 これは自己を基準にして社会を否定することだから、社会への絶対的な否定へとエスカレートし、ついには自分たち以外のものは「何もかもイカン」となる。自由主義はイカン、共産主義は許せん、はもちろんのこと、政府もイカン、警察もイカン、大学もイカン、娯楽もイカン、英語もイカン、装身具もイカン、パーマネントもイカン、贅沢は敵だとなり、さらには海軍はイカン――贅沢だ、敬礼が厳正でない、にまで至り、ついには、国民は全部盲目なのだ、俺たちが指導し、覚醒させなきゃダメだという考え方になっていく。いわゆる昭和維新の歌の「めしいたる民、世におどる」という言葉は、彼らの感情を実によく表している。」(『私の中の日本軍』p46~56)

 ”とんでもない、そんな解釈をしたら純粋に当時の農村の貧困や社会的不正を憂えていた青年将校らがかわいそうではないか”という意見もあると思います。だが、この問題を考える場合、同じ青年将校(二十期から三十期代が中心)といっても、陸軍大学を出て省部の要職を占めることとなった、いわゆる幕僚青年将校と、陸軍士官学校を出て隊付き将校となった青年将校とは分けて考える必要があります。

 両者は、上に紹介したような軍縮時代の軍人の惨めな生活実態や社会的評価の低下などに強い不満を持ち、満州問題を武力解決することで、そうした窮状を打開しようとしました。このうち前者は、満州事変によって満州の内面指導権を得るとともに、本国政府に対する牽制力を持ったことで、その不満が一定程度解消されました。しかし後者は、軍中央や関東軍の要職から閉め出され、進行するインフレの中で、隊付き将校として、先に紹介したような悲哀をかこつこととなり、その不満は一層激しく内向し、外部に向けて爆発するエネルギーをためていったのです。

 これが、三月事件や十月事件とは異なる、五・一五事件や二・二六事件の特殊な性格を決定づけているのです。つまり、この二つのクーデター未遂事件の、その主たる目的は一体何だったかということで、分かりやすく言えば、前者は、農村の貧困や社会的不正、政治の腐敗を、隊付き将校の立場から訴えることで、自らの社会的認知を求めたものであり、後者は、そうした隊付き将校らの横断的結合に対して弾圧を加えている、いわゆる統制派幕僚将校を打倒することを目的としたクーデターでした。

 ところが、特に後者は、統制派の排除を目的として行ったものであるにも拘わらず、軍首脳や統制派幕僚将校らに対する計画的襲撃は渡辺錠太郞以外行っておらず、襲ったのは、海軍出身の重臣である岡田啓介、斉藤実、鈴木貫太郎や、文官の高橋是清や牧野伸顕などといった老人だけでした。うがった見方をすれば、こうした「君側の奸」の殺害を手土産に、軍主導の政治体制の確立=昭和維新の断行を図った自分らの行動を、軍首脳に認知してもらおうという、軍中央に対する甘えが見られるのです。

 つまり、これら昭和の青年将校を支配していたホントの思想は、実はこうした自己認知の要求であり、決して一貫した思想に基づくものではなかったのです。そして、こうした思想的一貫性のなさが、日中戦争を惹起し泥沼化させた原因となったのです。そこで、こうした失敗を覆い隠すために「東亜新秩序」を持ち出したわけですが、「付け焼き刃」の上に「独りよがり」の思想であったために説得力を持たなかった。そのため、米英との緊張を引き起こし、それでもなんとかしてアメリカの理解を得ようと努めたわけですが、南部仏印進駐でさらにアメリカの不信を買い、石油を止められ、中国からの撤兵を求められた結果、ついに真珠湾奇襲攻撃という乾坤一擲の勝負に出ることになったのです。

 ついでにいえば、二・二六事件以降、特に太平洋戦争における南方での絶望的な戦いにおいて、青年将校らに最も強い影響を与えた思想は、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校らが信奉した尊皇思想、それをさらに純化した平泉潔の皇国史観でした。ここに説かれた死生観は昭和16年に戦陣訓となって、日本人の死生観を決定することになりました。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」」 (本訓其の二第八「名を惜しむ」)。ここから、その後の玉砕戦法や特攻攻撃が生み出されることになったのです。

 ただし、こうした「戦陣訓」に説かれた死生観は、中支の戦場において辛酸と出血を重ねていた兵隊から見ると、実に、羞恥に堪えない、ばかげたものに見えたと、伊藤桂一は次のように語っています。

 「(一読したあと)腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(おほ)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」(『兵隊たちの陸軍史』 伊藤桂一)

 中支の戦場で「それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊」たちの目から見れば、「戦陣訓」の死生観は、兵隊への理解も同情もない愚かな督戦文書にしか見えなかったというのです。山本七平は、日本軍におけるこうした死生観を「死の哲学」と呼んでいます。しかし、ここで伊藤氏の語っている死生観はそのようなものではなくて、むしろ「生の哲学」に根ざしているように思われます。(日本軍は、武士道精神を「生の哲学」として生かした戦い方をすべきだった・・・。)

 ではなぜ、昭和の戦争において、この時代に支配的となった思想が「死の哲学」を持つに至ったか・・・。あるいは、ここには、この時代の日本を強引した青年将校らの、先に見たような被害者意識に根ざす「社会否定の精神」が、無意識のうちに反映していたのかも知れません。

 では、どうしたらいいか。山本七平は「最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである」といっています。そして、このように青年将校らを扱った時代が、大正末期の軍縮の時代から昭和にかけて現出していたのです。山本は「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう、ともいっています。また、戦後の自衛隊が、社会からあれだけの差別を受けながら、安定を保ったのは、個人の評価と集団としての自衛隊の評価がバランスしたためだろう、ともいっています。

 こうした視点から、昭和史の不思議を考えて見るのも有益なのではないでしょうか。

 

2011年9月12日 (月)

東電はほんとに福島第一原発から全面撤退しようとしたのか2

健介さんへ

 東電本部に設置した統合対策本部の件ですが、本来なら、首相は原子力安全委員会に任せて、専門家チームを作るべきだったと、元安全委員会委員長代理の住田氏は言っていました。http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid977.html

住田 原子力安全委員会ですけどね、安全委員会っていうのはね、これは確かに総理に任命された最高機関ですけどね、たった5人の委員がいるだけで、ま、議員職が何人かおりましたけど、今、でも100人ぐらいですね。それからエネ庁(エネルギー庁)の横に、保安院ですね、これはもう、100人いないはずです。それは要するにテーブルの上にあるものを見てるだけでありましてね、そういって計算をして何かやるという実行部隊っていうのはね、これだけの問題に対して見通しを与えるとなったら、数百人の人間がもう働かなきゃいけないですね」

山本浩之
「そうすると今回、この保安院と、それから、ま、当然、もちろん会見なり表に出てきてますけど、それ以外はどうなってるんですか」

住田健二
「いや、たとえば国で言いますとね、我々JAEA(ジャイア)という言葉で呼んでますけど、原子力研究開発機構とかね、たくさんあるんですよ。原子力研究開発機構っていうのは2000人近い大きな組織体ですね。それからエネ庁の下にある外郭団体みたいなものをね、数百人のとこがいくつかあるわけですね。で、それぞれ原子力の専門家がいて、今言ったようなことがやれる所なんですけど、それちょっとあんまり動いてるような様子がないんですね」

山本浩之
「どうして動いてないんですか」

住田健二
「知りませんね。知らんて言い方は…」

山本浩之
「動いてないのか動けてないのか、どちらでしょう」

住田健二
「命令が出なきゃ動けないでしょうね、それだけの大きな組織体は」

山本浩之
「命令がないと動けないってことは、命令がないということですか」

住田健二
「そういうことですね」

(中略)

青山繁晴
「すみません、一言だけ付け加えればね、先生は、やり方あるよってことをおっしゃってると思うんです。で、今回だったらね、たとえば内閣総理大臣の菅直人が、責任は全部俺が持つから、とりまとめ、原子力委員会の近藤委員長、あなたやって下さいと、それも責任は全部取るから、そのかわり全権限をあなたに与えるからというね、そういう非常のことをやらなきゃいけないんですよ。辻元さんはボランティア担当とかそんなことやってる暇があったら、原子力委員会の近藤委員長、これ総理呼んだんですよ。呼んだんですが、激しく叱責しただけなんですよ、何やってんだ!と言ってるだけで。そうじゃなくて、そんなのあとから叱ればいいんで、そうじゃなくて、あなたに全権限を与えるから、責任は私が取ります、それすぐやって下さい。近藤委員長は僕は受ける用意があると思います」

山本浩之
「ちょっと時間押してますけども、青山さん、それ以外に問題点を…」

住田健二
「すみません、ちょっと一言だけ言わせて下さい。今の場合はね、その責任は近藤先生でなくてね、原子力安全委員会の方にあるんですよ。それをやらなきゃいけない責任は。近藤先生は確かにね、言われて叱られてもね、反論されたと思いますけどね、近藤先生が責任を取れることじゃなくて、もし責任取るとすれば、こっちの私のいた所(原子力安全委員会)ですね」

山本浩之
「ここに関わってらっしゃる方々、大勢、ま、専門家いらっしゃって、その誰に責任があるかという話ではなくて、その人たち全員の力を結集して、どうこの事故から私たちのこの危険を防ぐかということですよね」

青山繁晴
「でも、そこは確かに先生おっしゃったとおり、原子力安全委員長の方が適任かもしれないですね。でも、とにかく指名する事が大事ですから」

住田健二
「総理がね、安全委員長を呼んで叱るんじゃなくてね、総理がね、あなた、私があとの始末は全部やるからというね」

青山繁晴
「そのとおりです」

山本浩之
「それが今回機能してないということは…」

住田健二
「思うとおりやりなさいということ。で、東海村の事故の時にはね、その役割は、そのやった人が、科学技術庁の当時の局長クラスの人がね、すでにそのレベルでもう判断をしてね、とにかくやりなさい、やってくれと、あとは何とかするからってことを言ってね、だから私が行った時にはもう全部準備ができてたわけですね」

 要するに、菅首相自ら東電に乗り込んでいって統合対策本部を作り、素人の政治家を集めて事故処理を指揮するというのが間違っていたのではないでしょうか。

 そうしたのは、東電が全面撤退するといったからだと、先日枝野氏も言いましたが、これは、そうした泥縄の組織を作ったことへの言い訳なのかもしれませんね。

 それにしても、東電はなぜ政府がこれほどはっきりと全面撤退と言っているのに、反論しないのでしょうか。今政府と喧嘩するのは”得策でない”と思っているのでしょうか。

 また、マスコミがこのことについての事実関係をほとんど追求しようとしないのはなぜなのでしょうか。不思議です。

2011年9月 8日 (木)

東電はほんとに福島第一原発から全面撤退しようとしたのか

 9月8日の読売新聞は、福島第一原子力発電所の事故に関して、次のような驚愕すべき事実関係を報じています。

 〈枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話したという。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。〉

 この末尾の吉田氏の発言については、6月5日NHKスペシャル「事故はなぜ深刻化したのか」では、次のような説明がなされていました。

 〈15日になり、東電の清水社長から官邸に、5回ほど、現場から撤退したいと電話があった。そこで、菅首相が東電に乗り込み、「撤退したら東電はなくなる!」と叱咤激励し、東電と政府との総合対策本部を立ち上げた。寺田学議員はインタビューで、清水社長の電話には「撤退」と語句があったと語った。

 しかし、東電の古森常務は、「撤退」するとは言っていないと答え、番組では、現場にいた人間がインタビューに、床で寝込んでいた作業員のところに、吉田所長が来て、”頑張ってきたが限界だ!”として、300名ぐらい残っていた作業員に向い、”去りたい者は去っても(責任は)問わない”といい、70名が残った。〉

 私は、菅首相が東電に乗り込み、「撤退などあり得ない。覚悟を決めてほしい。撤退したときには東電は100%つぶれる」と怒鳴り散らしたとの報道を聞いた時、”東電が完全撤退するなんて言うはずがない。事故が深刻化したので、作業員の被爆を最小限に止めるため、必ずしも現場にいなくてもよい者は待避させる。事故対応は必要最小限の作業員で交替制でやる”と言ったはずだ。それを撤退と決めつけて怒鳴り散らすとは何事だ!と思いました。

 しかし、清水社長は菅前首相に首相官邸に呼ばれた時、今後の対応をどうするか首相に尋ねられて「明言しなかった」そうですから、それが事実なら、政府に「完全撤退」と受け取られても仕方ない。おそらく、東電本社は、事故対応に見通しを立てることができず、そこで、作業員の安全を図るため政府に撤退を申し出たのかも・・・。あとは、「自衛隊と米軍にその後の対応を委ねる構えだった」との報道もなされていましたので。(毎日新聞 3月18日(金)2時33分配信 )

 このため、菅首相は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない・・・」と幹部らに迫った。つまり、これが、東電本社に、東電と政府との総合対策本部を立ち上げることになった理由だというのです。

 この点に関して枝野氏は、こうした菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」と評価したとのことです。(2011年9月8日09時14分 読売新聞)

 幸いなことに、現場責任者である吉田所長の判断は、先のNHKスペシャルで説明されたように”去りたい者は去っても(責任は)問わない”で、その結果、70名が残った”のでした。当時、アメリカの報道でも、この残された約50名の作業員の英雄的な行為を称讃する声が報じられ、同時に、この50名がダウンした後を心配する報道もなされていたように記憶します。

 ということは、東電本社は、現場作業員を犠牲にすることを怖れて政府に撤退を打診したが、現場作業にあたった吉田所長以下作業員は、撤退するつもりはなかった。ただ、吉田所長としては、これは一種の「特攻」作戦ですから、その志願者を募ったというわけです。これは、現場指揮官としては当然の判断だったと思います。

 では、ここから何が見えてくるか?部下を殺すことに責任を取りたくなかった東電本社。現場を放棄することなく「特攻」志願者を募った現場指揮官・・・こんな図式が見えてくるのではないでしょうか。また、こうした東電本社の無責任な態度に、菅首相が「撤退などあり得ない」と幹部に厳命したことは、首相としては当然のことだったと思います。

 この間の事実関係を解明し、一連の事故の責任が何処にあったかを、国民の前に明らかにしていただきたいと思います。その結果、菅前首相の行為が評価されることになれば、日本国の最高リーダーとしての基本的資質は証明されたことになりますから、私も大変うれしく、菅前首相には感謝申し上げたいと思います。

 いずれにしても、福島第一原発の事故はこれほどひどいものであり、当然、政府もそれを把握していたわけですが、それにしては政府の発表もマスコミの報道も、こうした事実からは随分かけ離れていたように思います。パニックを避ける為とはいえ、こんな報道の仕方で良かったのでしょうか。そのために被害を拡大した部分があったのではないでしょうか。この面の事実関係もしっかり調査してもらいたいと思います。

*この記事で総合対策本部となっているのは「統合対策本部」が正しい。

2011年9月 7日 (水)

「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考について

 池田信夫氏が「朝日新聞の主張する『東條英機の論理』で次のような興味深い指摘を行っています。

 「きょうは8月15日である。この日に、いつも日本人が自問するのは『日本はなぜあんな勝てない戦争に突っ込んだのだろうか』という問いだろう。これにはいろいろな答があるが、一つは東條英機を初めとする陸軍が日本の戦力を過大評価したことである。陸海軍の総力戦研究所が『補給能力は2年程度しかもたない』と報告したのに対して、東條陸相は『日露戦争は勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからん』とこれを一蹴した。

こういう客観情勢を無視して「大和魂」さえあれば何とかなると考える主観主義は、日本の伝統らしい。朝日新聞の大野博人氏(オピニオン編集長)は8月7日の記事でこう書いている

 脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。

 (1)原発をやめるべきかどうか。
 (2)原発をやめることができるかどうか。

 多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。原発をやめる場合、再生可能エネルギーには取って代わる力があるか。コストは抑えられるか。 [・・・]これらの問いへの答えが「否」であれば、「やめることはできないから、やめるべきではない」と論を運ぶ。

 できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

 私はこの記事を読んだとき、東條を思い出した。ここで「脱原発」を「日米開戦」に置き換えれば、こうなる。

 日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。

 (1)戦争をやるべきかどうか。
 (2)戦争に勝つことができるかどうか。

 多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。戦争をする場合、米国に勝てる戦力・補給力があるか・・・これらの問いへの答えが「否」であれば、「勝つことはできないから、戦争はやるべきではない」と論を運ぶ。

 できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし戦争について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで鬼畜米英を放置すべきだということではないか。まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。大東亜戦争は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

 朝日新聞は、おそらくこれと似たような社説を70年前の12月8日の前にも書いたのだろう。それがどういう結果になったかは、いうまでもない。河野太郎氏も、私の「再生可能エネルギー100%というのは技術的に無理ですよ」という質問に対して「できるかどうかだけ考えていたら何もできない。まず目標を掲げれば、不可能も可能になるんです」と語っていた。

 この「東條の論理」には、二つの欠陥がある。まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始めるということだ。これは当然、どこかで「やっぱりだめだ」という判断と撤退を必要とする。その判断ができないと、かつての戦争のような取り返しのつかないことになるが、撤退は誰が判断するのか。また失敗による損害に朝日新聞は責任を負うのか。

 もう一つの欠陥は、実現可能なオプションを考えないということだ。最初からできるかどうか考えないで「悪い」原発を征伐するという発想だから、その代案は「正しい」再生可能エネルギーという二者択一しかなく、天然ガスのほうが現実的ではないかといった選択肢は眼中にない。

 朝日新聞は、かつて対米開戦の「空気」を作り出した「A級戦犯」ともいうべきメディアである。「軍部の検閲で自由な言論が抑圧された」などというのは嘘で、勇ましいことを書かないと新聞が売れないから戦争をあおったのだ。今回も世論に迎合し、脱原発ができるかどうか考えないで勇ましい旗を振るその姿は、日本のジャーナリズムが70年たっても何も進歩していないことを物語っている。」

 これは、「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないという日本的思考の弱点を、朝日新聞は未だに克服していないことを、みごとに証明した文章だと思います。もっとも、この記者は、「多くの場合、議論はまず(2)原発をやめることができるかどうか、に答えることから始まる」と言っていますから、他の多くの人は、この思考法を克服していることになりますが。

 ということは、この記者は、他の多くの人が克服しているこの日本的思考を、あえて逆戻りさせようとしているわけで、その罪は一層重いという事になります。といっても、この記者は”自分だけ分かっている”と言いたいだけで、実際は、最近の原発に関する一般的論調としては、この「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができなない論のほうがはるかに多いのです。
 
 この問題は、日本人にとっては実に深刻な問題で、山本七平氏は、「日本は、なぜあんな勝てない戦争に突入したんだろう」という疑問を解くそのカギは、実に、この「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができない日本的思考にあったということを、自らの体験に基づいて次のように指摘しています。

 「・・・比島、いわゆる「太平洋戦争の旅順」で生き残った者―長い間、多くの国民に、餓死直前同様の耐えうる限度ギリギリの負担をかけて、陸海それぞれ七割・七百万という軍備をととのえ、それを用いて、人間の能力を極限まで使いつくすような死闘をして、そして「無条件降伏」という判決を得た現実、しかもあまりに惨憺たる現実を否応なしに見せつけられた者には、二つの感慨があった。

 これだけやってダメなことは、おそらくもうだれがやっても、どのようにやっても、ダメであって、あらゆる面での全力はほぼ出し切っているから、「もし、あそこでああしていたら・・・」とか「ここで、こうしていたら・・・」とかいう仮定論が入りこむ余地がないということ。

 そしてあの農民のことを思い出せば、あの人たちは本当に誠心誠意であり、一心同体的に当然のことのように犠牲に耐えていたこと。そしてもう一つは、どこでどう方向を誤ってここへ来たのであろうか、ということ。

 そしてその誤りは、絶対に一時的な戦術的な誤り、いわば「もしもあの時ああしなければ……」とか「あそこで、ああすれば……」とかいったような問題ではなく、もっと根本的な問題であろうということであった。

 確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。

 しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。もちろん収容所時代には、マック制樹立の基とするための「太平洋戦争史」などは全然耳に入って来ず、私の目の前にあるのは、過ぎて来た時日と、それを思い返す約一年半の時間だけであった。

 そしてこの期間は、ジュネーブ条約とやらのおかげで、われわれは労働を強制されず、またいわゆる生活問題もなく、といって娯楽は皆無に近く、ただ「時間」だけは全く持て余すほどあったという、生涯二度とありそうもない奇妙な期間であった。これは非常に珍しい戦後体験かもしれない。

 そして、私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、「日本人の思考の型」にあるのではないかと考えたのである。

 面白いもので、人間、日常生活の煩雑さから解放され、同時に、あらゆる組織がなくなって、組織の一員という重圧感はもちろんのこと、集団内の自己という感覚まで喪失し、さらにあるいは処刑されるかもしれないとなると、本当に一個人になってしまい、そうなると、すべては、「思考」が基本だというごく当然のことを、改めてはっきりと思いなおさざるを得なくなるのである。

 そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった。金大中事件や中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている。

 また再軍備という問題なら、「是か・非か」の前に「可能か・不可能か」が現実の問題としてまず検討されねばならず、不可能ならば、不可能なことの是非など論ずるのは、時間の空費だという考え方が全くない、ということである。

 そしてそんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされ、いつしか「是か・非か」論にざれてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。」(『山本七平ライブラリー ある異常体験者の偏見』p173~174)

 池田氏は、同様に質問を河野太郎氏にも投げかけ、この朝日の記者と同様の返答を受けた、と言っています。河野氏の主張は、この原発問題以外は大変チャレンジングで魅力的なのですが、この点に関してはいまいちはっきりしません。要は、エネルギー源としての核技術を放棄できるかどうかなのですが・・・。願わくば、この問題を「可能・不可能」論の観点からしっかり見極めていただきたいと思います。

2011年9月 1日 (木)

民主党代表選挙各候補の演説を聞いて思ったこと、日本を滅ぼすものは「和」

 民主党には辟易していますので、代表選挙の演説も全く聴く気がしませんでした。でも、野田候補の”どじょう演説”にはいささかびっくりしましたし、なんかしらん、それがうけたらしく、本命とされた海江田候補を破って、氏が新首相に選出されました。そこで、私も、ネットでその演説を聞いてみることにしました。ついでに、他の候補の演説も聴いてみました。

 率直な感想を申し上げると、野田氏の”どじょう演説”は「どじょう」ではなく「同情」だと思いました。地盤も看板もカバンもなく、駅前で何十年も辻立ちして庶民の「同情」をかって政治家になったんだなーという印象、そんなにしなければ庶民は政治家になれないのかという「同情」、それでは、政策の勉強する時間はなかっただろうという「同情」・・・です。

 マスコミ評では、氏は演説が上手だとかで、例えば、アサガオのお話・・・アサガオが早朝に可憐な花を咲かせるには何が必要か・・・それは陽の光ではない、夜の闇と冷たさです・・・。なるほど、駅前に辻立ちして演説する日々、夜明け前の闇は深く冷たかったろう。そう思うと、”どじょうが金魚のまねをしてもしょうがねえじゃん”という言葉の感じもつかめます。

 まあ、政治家の手慣れた演説におけるレトリックですから、目くじら立てることもないわけですが、問題は、氏が、同じ演説の中で、始めて政治家の仕事を意識した時のこととして、浅沼稲次郎が演説の途中、壇上で右翼の青年に刺殺されたことに言及したことです。氏がそれを繰り返しテレビで見ていた時、氏のお母さんは”政治家って、命がけ・・・なのよ”と言ったとか。

 確かに政治は”命がけ”でした。特に戦前はそうでした。それが怖くて多くの政治家は軍に迎合し口をつぐみましたが・・・。また、戦後も一時期まではそうでした、そして、今、”命がけ”という政治家の言葉は、”口先だけ”の言葉になっています。殊に今の民主党の政治家を見ていると、彼等が”命がけ”になっているのは、「ことば」ではなくて「権力」なのではないかと・・・。

 このことが、野田氏の先の演説にも現れているのです。つまり、氏が紹介した二種類のエピソードは、互いに遊離していて接点がない。つまり、”どじょうが金魚のまねをしてもしょうがねえじゃん”という言葉は、”金魚になってあぶない目に会うようなことはしない”。つまり、政治家が自らの「ことば」に固執して”命を賭ける”ようなことはしないという意味になってしまいます。

 それから、ついでに他の候補者の演説についても、私の印象を記しておきます。

 前原氏は、その演説を、外国人から政治献金を受けていたことの言い訳から始めましたが、長すぎて、まさに”言い訳”になりました。代表(=首相)候補の演説を”言い訳”から始めるなんて変ですね。なお、後半の言葉からは、民主党が国民に約束したマニフェストが破綻したことが明らかになったために、政権交代時の民主党の政策理念までが消滅しつつあることについての危機感が感じられました。

 実は、民主党の政権交代時の約束=マニフェストには搾術がありました。それは、民主党が掲げた政治主導、公務員制度改革、地方分権、事業仕分けなどは、実は、小泉構造改革の理念を継承するものだったのですが、それを認めてしまうと政権交替できない。そこで、その負の部分を「格差拡大」と攻撃することにしたのです。さらに「ばらまき4K」で国民を利益誘導しようとしました。

 このトリックをちゃんと自覚しているのが小沢氏で、だから、これはインチキではない本物だ!と言い張らなければならないのです。また、この事実を認識してはいるが、このインチキのおかげで首相になれたのだから、この戦術を編み出した小沢氏への恩を忘れてはいけない、というのが鳩山氏です。一方、やっぱりまずかったなあ、と反省しているのが、前原氏でしょう。

 だから、なんとかして、4K以前の、民主党が自民党を打倒して政権交代を果たした、その原点となった理念を回復したいと思っている。しかしそうすると、民主党のそれは小泉構造改革の理念を継承するものだったということが暴露されてしまう。つまり、政権交代時のトリックいやインチキが国民にばれてしまうのです。そんなジレンマを、氏の演説からは感じとることができました。

 それにしても、この4Kはひどい。それが大衆受けを狙った擬似餌だったこともさることながら、この政策はことごとく、彼等の宣伝文句とは裏腹に「格差拡大」になっているからです。子ども手当はちゃんとした所得制限さえ入れれば、月3万の給付も可能です。そもそも児童手当の所得制限さえ高すぎた。また、高校授業料無償化も高速道路無料化も農家の個別保障制度についても同様です。

 ではなぜ民主党はこんなでたらめな、うそで固めた政策に固執するのか、なぜこれに対して一定の支持があるのか。いうまでもなく、これは民主党票の買収費用だからです。”こどもは社会が育てる”なんて、よその国のまねごとを言っていますが、本気でそれを信じているなら、なぜ、ちゃんと所得制限を入れて、年収数百万以下の世帯の子育てを支援しないのか。

 また、馬淵候補の演説ですが、氏は、小学校卒で土建業から身を起こして首相になった今(昔?)太閤田中元首相を尊敬しているらしく、列島改造論に入れ込んでいる様子がよく分かりました。日本列島改造を田中元首相がやったように、自分も、思い通りに、法律をバンバン作って日本を作り変える・・・そんな政治家像を民主党の代表選挙で堂々と披露するなんて、アナクロな話です。

 なお、そうした言葉の後で、氏は、野党時代に経験した自民党の政官業癒着の裁量行政や官僚の不作為を批判し、さらには、氏が国交大臣になった時に、いわゆる道路問題に切り込んだことなどについても言及しました。しかし、これらの問題は、田中元首相の政治手法によって生み出されたものであるとの反省は、氏の言葉からはついに聞くことができませんでした。

 なお、氏の道路行政に対する考え方については、猪瀬氏が「馬淵氏のあきれた脳天気発言、高速道路無料化で」で厳しく批判しています。田中前首相の政治スタイルを理想としているために、猪瀬氏等が苦心して実現した改革(案)には賛成できないということなのでしょうか。また、”しがらみを断ち切る”という言葉を、当選3回の私を支持するために・・・と言う意味にも使っていました。

 次に海江田氏の演説ですが、氏があえて総裁選に立候補したその主たる動機、それは菅首相の仕打ちに対する怨みだということがミエミエでした。オレが首相になって菅に仕返しする。私しか知らないこと、できないことがある。そのためには、小沢氏の党員資格停止処分の取消し、三党合意の撤回、TPPの撤回など何でもやる!そして小沢の支持を取り付けて首相になる。その演説の締めくくりの言葉は、首相になったら、”ドアは開けて(オープン)おきます”でしたが、已に首相になったつもりだったのでしょう。

 最後に鹿野氏の演説ですが、今、政治がやらなければならないことは、大震災からの復興、原発の早期収束だと言っていました。その通りですね。ほんとは菅首相もそうしなければならなかったのですが、菅氏は、自然エネルギー買取法案など、後の人がやればいいようなことを、自分の名を歴史に残すために、あえてそれを自分の退陣条件にまで入れて、これを拙速に成立させました。

 その他に、円高デフレ対策について、ドル安ユーロ安について欧米と協調体制をとること、社会保障と税の一体改革、財政再建の必要性、内向きになっている外交を立て直して日米同盟を強化すること、違憲状態となっている参議院の選挙制度を早急に改革すること、地震、北朝鮮、テロに備える危機管理などについて、網羅的に今後の政策課題について言及しました。

 そして、演説の最後の締めくくりとして、2年間の民主党政治の反省を踏まえて、政権交代時の原点に返ること、そのためには民主党内の融合と和が必要なこと、そのことを、聖徳太子の「和を以て貴しとなす」を引用して力説しました。また、「知行合一」のことも?。で、この時、私は、日本を滅ぼすものは「和」である、といった塩野七生氏の次のような言葉を思い出しました。

 (山本七平の言)「『貞観政要』の中にはさまざまの学ぶべき点があるが、何やら日本の欠点を指摘されているような気持になるのがこの部分である。前に塩野七生氏と対談した時、その国を興隆に導いた要因が裏目に出ると、それがそのまま国を滅ぼす要因となる、と私が言うと、氏は即座に賛成され、間髪入れず、日本の場合はそれが「和」であろうと指摘された」(『帝王学』山本七平)

 げに、危機において日本を滅ぼすものは「和」であって、民主党の次世代を担うべき若きリーダーたちは、この日本の抱える恐るべき問題の意味を少しも分かっていないようです。ということは、民主党の破滅は近いと言うこと。もちろん野田内閣は何も決められず、最後の断末魔の修羅場を演ずることになるでしょう。それが民主党の破滅なら一向にかまわないわけですが・・・。

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