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2011年9月14日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか(最終回)――自己評価と社会評価のギャップが生んだ悲劇

 戦前の昭和史を引きずり、まさに破滅的な敗戦へと国を導いたのは、紛れもなく「昭和の青年将校」たちでした。ではなぜ彼等は、「世論に惑はす政治に拘(かかは)らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山岳よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」という軍人勅諭の掟を破り、政治に介入し、「忠節」を放擲して勝手に軍事行動を起こし、ついには明治憲法の規定を無視して、日本の政治を壟断するに至ったのでしょうか。

 そこには多方面にわたる複合的な要因があって、それらを列挙していけば、それは日本にとって”運命だった”と言うしかないほど、当時の日本が置かれた状況は厳しかったといえます。だが、いくら状況が厳しかったからといって、それで政治の責任が免れるわけではありません。では、一体どこで判断を間違えたか。誰がその責任を負うべきか。この問いにしっかり答えることが、同じ悲劇を繰り返さないためにも必要なことだと思います。

 今、政治主導と言うことがさかんにいわれます。まるで、官僚に任せていては国が滅ぶといった口調で、その既得権擁護の保守的体質が攻撃されています。しかし、官僚組織が保守的なのは行政組織として当然であって、政治家がそれをうまく使えばいいのです。なのに、政治家にそれだけの能力がないのか、あるいは、長い野党暮らしの中で被害者意識が身についていて、あえて彼等を敵に回すことでしか自らの存在をアピールできないのか、そんなふうにも考えられます。

 こんなことをいうのも、こうした政治家と官僚との関係を戦前の昭和史に見た場合、大正末から昭和初期の段階で比較的正しい政治判断をしていたのは、官僚(主として外務)であって、それをぶち壊し、日本を破滅へと導いたのは、政治家(特に森恪を中心とする政友会)だったことが明白だからです。つまり、時の政治家が、軍人という「世論に惑はず政治に拘わらず」とされた専門家集団を、党利党略で政治に引き込んだ結果、「庇を貸して母屋を取られた」格好になったのです。

 それは山東出兵に始まり、東方会議で軍人が政治に関与する糸口を作り、済南事件で日本軍が北伐軍を攻撃し蒋介石を敵に回し、さらに張作霖爆殺事件で満州の張学良を敵に回した。それが、中国人のナショナリズムの炎に油をそそぐことになり、中国の国権回復運動から満州における日本の特殊権益の侵害、さらには旅大回収運動へと発展していった・・・。

 注目すべきは、石原完爾などは、そうした満州における状況の悪化を、日本が満州を武力占領するための口実にできると機をうかがっていたということです。ほんとは、石原は中村大尉事件で出兵したかったのですが、それが許されず、そこで、政府が関東軍の暴走を怖れて止めに入ったことに機先を制する形で、かねて計画していた満州占領計画を、政府や軍中央はおろか天皇の意思も無視して実行したのです。

 そして、この計画を政友会幹事長であったの森恪は知っていて、満州事変が引き起こされる直前の昭和6年9月9日の講演で、次のように語っています。「(支那満州について)要するにどうしても現在のままでおくことはできない。・・・然らばこれを如何に展開するか。我々は一つの手段方法を有って居る。けれども角力は、この取り組みはこう云う手で敵を倒すというようなことを発表したならば、角力は取れぬ。」(「名古屋市公会堂における講演」)

 問題は、この日本軍による満州占領にどれだけの正当性があったかということですが、少なくとも日本国民は、済南事件の真相(三百人の邦人が虐殺されたといううその報道がなされた。実際に殺されたのは麻薬売人など不良邦人十数人だった)も、張作霖爆殺事件の真相(河本大作が主犯)も、また、満州事変が謀略――七十センチほど線路が破壊されたに過ぎず、直後の列車は脱線しないで通過した)で開始されたということも知らされていませんでした。

 そして、ただただ、日本が日露戦争で十万の兵士を犠牲にして、ロシアの侵略から守った満州、そこにおける日本の条約上の特殊権益が、不当にも中国に侵害されたと信じ込んだ結果、日本人は、満州事変及びそれ以降の軍の行動を支持するようになったのです。また、そうした判断の背後には、中国人に対する蔑視があり、軍は、中国人は満州に治安も繁栄をもたらすことができない、むしろ日本人が満州を統治した方が中国人にとっても幸せだと国民に説明していました。

 確かに、近代的な国家の統治能力という点では、日本が中国より優れていたことは事実だと思います。しかし、より本音に近いところでは、軍は満州の領有は日本の発展のために不可欠だと考えていました。孫文から満州を買収しようとした桂太郎などは、日本の人口問題を解決するためと言っています。また、石原完爾は「世界最終戦争」を勝ち抜くため満州に領土と資源を求めました。しかし、多くの青年将校らにとって満州は、これらとはまた別の意味がありました。このことを理解することが昭和史の不思議を解明する上で極めて重要なポイントとなります。

 というのは、ワシントン会議までは、軍の統制は比較的保たれていて、加藤友三郎らこの会議に出席した軍首脳の判断は正しく、もちろん、原敬ら政治家の判断も、交渉に当たった幣原喜重郎の判断も正しかった。政友会の森恪すらも、この会議には賛同していましたし、その結果も受け入れるべき論じていました。そうした流れが変わるのは、1922年、1923年と続いた山梨軍縮、1925年の宇垣軍縮あたりからで、ここで蓄積された青年将校らの不満が、満州問題の武力解決へと結びついていったのです。

 こうした見方は、伊藤正徳の『軍閥興亡史』などにも指摘されていて、当時の事情をよく知るものにはごく一般的な見方だったようですが、戦後の歴史家には、あまりこの点は重視されていないようです。これは、マルクス主義の影響で、こうした心理的な解釈より下部構造論的な解釈の方が、研究者の関心を集めたからなのではないでしょうか。秦郁彦氏の『軍ファシズム運動史』でも、次のような記述に止まっています。

 「大戦後の滔々たる軍縮の風潮は、さきにワシントン条約による海軍兵力の削減と、陸軍の山梨、宇垣軍縮を経て昭和五年のロンドン海軍軍縮条約においてその頂点に達し、政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえないとする海軍統帥部及び大多数の海軍中堅青年士官の見解は、陸軍内部にも多くの共鳴者を得た。しかも政・財界の腐敗は慢性化し、あいつぐ汚職の報道はますます国民の政党政治に対する信頼感を失わせた。」(前掲書p19)

 ここでは、軍が軍縮に反対したのは、「政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえない」という国防上の見地から、とだけ記されていますが、それは多分に建前に過ぎませんでした。というのは、この「兵力量不足」という問題については、海軍側も、それに対しては政府が航空隊の充実など何らか補充策を講じることで、このロンドン軍縮会議における日米妥協案を承認していたからです。

 この、すでに決着したはずの「兵力量不足」の問題を、「統帥権干犯問題」に発展させ政治問題化したのは政友会の森恪でした。

 森格の伝記には「森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行った」と記されています。

 (また)「岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』」と答えています。(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家だったのです。では、なぜ森恪は、「責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如き」統帥権干犯問題を引き起こしたのでしょうか。言うまでもなく森は、第二次南京事件以来、軍縮に不満を持つ軍人らを政治的に巻き込み、その実力で以て自らの大陸政策を推進しようとしており、この時も、「兵力問題」を「統帥権問題」として政治問題化することで、民政党からの政権奪還を図ろうとしていたのです。

 まさに、政党政治家としては自殺行為であったわけですが、もし他の政治家が、こうした森恪の政治手法に与せず、軍人を政治に巻き込むようなことをしなかったならば、また、軍縮に不満を持つエリート青年将校達をコントロールできていたならば、あるいは、満州問題も、当時の厳しい国際環境の中にあっても、日本の特殊権益を保持・発展させる方向で処理できたと思います。ところが、それまで政党政治確立のために軍閥と戦ってきた犬養や鳩山までもが、森格に引きずられて政府の統帥権干犯を攻撃したのですから、話しになりません。

 では、当時の軍人らは軍縮に対してどのような不満を持っていたのでしょうか。このことについては、本エントリー4「満州事変と十年の臥薪嘗胆」でも詳しく紹介しましたが、ここでは、山本七平の指摘した「自己評価と社会評価のギャップが生んだ悲劇」という見方を紹介したいと思います。おそらく、当時のエリート青年将校たちが、ここに述べられたような強烈な被害者意識に陥っていなければ、彼等はあれほどの暴走を繰り返すことはなかったと思います。

 もちろん、そうした心理要因があったとしても、それを思想的に正当化するものがなかったならば、具体的な行動にまでは発展しないわけで、その点、大川周明や北一輝が一定の役割を果たしたことは事実だと思います。しかし、彼等も、一時的に軍に利用されただけで、結局は捨てられています。また、石原完爾の思想も、満州事変の成功には役立ちましたが、日中戦争に至って破綻し、自らは協和思想や宗教世界に没入することで、かろうじて自己破綻を免れています。

 つまり、張作霖爆殺事件から二・二六事件までの、その後の日本の「運命」を決定づけた青年将校らの行動の根底にあったものは、実は、必ずしも大川周明や北一輝あるいは石原完爾の思想ではなかったのです。それは、第一次大戦以降の軍縮の流れの中でエリート青年将校らを狂わせることとなった「自己評価と社会的評価の恐るべきギャップ」、そこから生まれた強烈な被害者意識、それが、当時の社会や政治に対する彼等の否定の感情へと結びついていたのです。

 「将校の社会手地位の低下は、何も昭和に入ってから始まったことではなかった。ただその加速度が異常に早くなったにすぎず、この落下ぶりは、戦後の大学と大学生の低下ぶりによく似ている。しかし、そうなる以前の低下ぶりも相当ひどいものだったかも知れない。いわゆる「学資様なら娘をやろか」の時代には、陸軍少尉も学士なみであった。しかし、学士様の方は勃興する資本主義の波に乗っていけたが、少尉様はそうはいかない。『おはなはん』や『坂の上の雲』の時代には、佐官は社会の上流階級に位置していた。それが極端な言い方をすれば、昭和の初期には乞食同然といいたいような地位にまで下落し、学士様とは決定的な差がついてしまったのである。

 というと非常に大げさに聞こえるかも知れないが、これは決して誇張ではない。というのは軍人のうち将官になれる人は例外であり、ほとんど全部が佐官で退役になって恩給生活に入る。恩給で生活ができれば悠々自適だが、インフレに一番弱いのが恩給生活者であることは昔も今も変わりはない。現役の尉官即ち青年将校を苦しめたインフレは、さらに激しく退役の佐官を苦しめた。といっても、彼らには生活の知恵もなければ軍隊以外の社会に適応していく能力もない。何しろ幼年学校出身の将校なら、中学二年でいわば「軍隊生活に入ってしまい、生涯の大半を軍隊という隔絶された社会でおくり、それ以外の社会は全く知らないのである。」

 「誇り高い青年将校にとって・・・現実と夢はあまりに違いすぎた。而も彼らは当時の社会のエリートであり、士官学校は今の東大をはるかに超える魅力と威力をもっており、みな郷土の秀才、郷土の誉れとして入学し、一般社会から完全に隔絶した全寮制の中で、国家の柱石として徹底的なエリート教育を受けてきたのである。その彼らにとって、これが光輝ある「帝国陸軍」の現実の姿であっては、「世の中はマチガットル」と考えても不思議ではない。むしろそれが普通で、そう考えなければ不思議である。」

 「二・二六事件については、農村の貧困が彼らを蹶起させた一因だというのが定説のようだが、私はそう考えていない。もっともっと明白な貧困が彼ら自身にあり、また彼らの目前にあった。確かに退役佐官の保険外交員も憂鬱な存在であったろうが、しかし候補生として軍隊に来たとたん、おそらく、衝撃を受けるほど彼らを驚かせたものは「残飯指令」や「残飯出勤」(夕食時に家族を連れて部隊に来て「食事伝票」なしに食事をしたり、日曜に不意に出勤して昼食をとること)、また「ボロかつぎ」(馬の糞を拾って売り歩くこと)「増飼将校」(食事の量を増やすこと)等の存在ではなかったろうか。」*()内は筆者

 「もちろんこういった人々は例外であったろうし、退役佐官の保険外交員も例外かも知れぬ。また以上のことも汚職というほどのこともない――しかしこういうことはすぐ兵隊の目にも社会の目にも入る。そしてその行為は、平生の言動とあまりにギャップが大きすぎるから、かえって軽侮をかう。彼らとて兵士の軽侮の目を感ぜざるを得ない。特に、まじめで敏感でプライドの高い将校ほど、一部の同僚への兵士の目が気になる。そして「こんなことで国軍は一体どうなる、兵の信服を失って、どうして戦場で彼らを指揮できようか」と真剣に悩む。私自身もその悩みを打ち明けられたことがあるが、その口調は本当に真剣そのものであった。」

 だが「こんな安月給で忠節なんぞつくせるか」とは絶対にいえない。それを口にすれば「軍人」そのものの否定になってしまう。従って、二・二六の将校などに「問題は月給でしょ。あなた方の本当の不満は自分たちの地位と責任に対する社会の報酬があまりに低いことでしょ」などといえば、そう解釈する人間を逆に軽蔑し、今でも軽蔑するであろう。しかし結局はそうだったのだが、それが「自分たちをこんな状態にしておく社会が悪い、陛下の股肱、国家の柱石に残飯をあさらせるような社会はマチガットル、そんな社会は絶対に改造せにゃ軍は崩壊する、日本は滅びる」という考え方になっていくのである。

 これは自己を基準にして社会を否定することだから、社会への絶対的な否定へとエスカレートし、ついには自分たち以外のものは「何もかもイカン」となる。自由主義はイカン、共産主義は許せん、はもちろんのこと、政府もイカン、警察もイカン、大学もイカン、娯楽もイカン、英語もイカン、装身具もイカン、パーマネントもイカン、贅沢は敵だとなり、さらには海軍はイカン――贅沢だ、敬礼が厳正でない、にまで至り、ついには、国民は全部盲目なのだ、俺たちが指導し、覚醒させなきゃダメだという考え方になっていく。いわゆる昭和維新の歌の「めしいたる民、世におどる」という言葉は、彼らの感情を実によく表している。」(『私の中の日本軍』p46~56)

 ”とんでもない、そんな解釈をしたら純粋に当時の農村の貧困や社会的不正を憂えていた青年将校らがかわいそうではないか”という意見もあると思います。だが、この問題を考える場合、同じ青年将校(二十期から三十期代が中心)といっても、陸軍大学を出て省部の要職を占めることとなった、いわゆる幕僚青年将校と、陸軍士官学校を出て隊付き将校となった青年将校とは分けて考える必要があります。

 両者は、上に紹介したような軍縮時代の軍人の惨めな生活実態や社会的評価の低下などに強い不満を持ち、満州問題を武力解決することで、そうした窮状を打開しようとしました。このうち前者は、満州事変によって満州の内面指導権を得るとともに、本国政府に対する牽制力を持ったことで、その不満が一定程度解消されました。しかし後者は、軍中央や関東軍の要職から閉め出され、進行するインフレの中で、隊付き将校として、先に紹介したような悲哀をかこつこととなり、その不満は一層激しく内向し、外部に向けて爆発するエネルギーをためていったのです。

 これが、三月事件や十月事件とは異なる、五・一五事件や二・二六事件の特殊な性格を決定づけているのです。つまり、この二つのクーデター未遂事件の、その主たる目的は一体何だったかということで、分かりやすく言えば、前者は、農村の貧困や社会的不正、政治の腐敗を、隊付き将校の立場から訴えることで、自らの社会的認知を求めたものであり、後者は、そうした隊付き将校らの横断的結合に対して弾圧を加えている、いわゆる統制派幕僚将校を打倒することを目的としたクーデターでした。

 ところが、特に後者は、統制派の排除を目的として行ったものであるにも拘わらず、軍首脳や統制派幕僚将校らに対する計画的襲撃は渡辺錠太郞以外行っておらず、襲ったのは、海軍出身の重臣である岡田啓介、斉藤実、鈴木貫太郎や、文官の高橋是清や牧野伸顕などといった老人だけでした。うがった見方をすれば、こうした「君側の奸」の殺害を手土産に、軍主導の政治体制の確立=昭和維新の断行を図った自分らの行動を、軍首脳に認知してもらおうという、軍中央に対する甘えが見られるのです。

 つまり、これら昭和の青年将校を支配していたホントの思想は、実はこうした自己認知の要求であり、決して一貫した思想に基づくものではなかったのです。そして、こうした思想的一貫性のなさが、日中戦争を惹起し泥沼化させた原因となったのです。そこで、こうした失敗を覆い隠すために「東亜新秩序」を持ち出したわけですが、「付け焼き刃」の上に「独りよがり」の思想であったために説得力を持たなかった。そのため、米英との緊張を引き起こし、それでもなんとかしてアメリカの理解を得ようと努めたわけですが、南部仏印進駐でさらにアメリカの不信を買い、石油を止められ、中国からの撤兵を求められた結果、ついに真珠湾奇襲攻撃という乾坤一擲の勝負に出ることになったのです。

 ついでにいえば、二・二六事件以降、特に太平洋戦争における南方での絶望的な戦いにおいて、青年将校らに最も強い影響を与えた思想は、二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校らが信奉した尊皇思想、それをさらに純化した平泉潔の皇国史観でした。ここに説かれた死生観は昭和16年に戦陣訓となって、日本人の死生観を決定することになりました。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」」 (本訓其の二第八「名を惜しむ」)。ここから、その後の玉砕戦法や特攻攻撃が生み出されることになったのです。

 ただし、こうした「戦陣訓」に説かれた死生観は、中支の戦場において辛酸と出血を重ねていた兵隊から見ると、実に、羞恥に堪えない、ばかげたものに見えたと、伊藤桂一は次のように語っています。

 「(一読したあと)腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(おほ)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」(『兵隊たちの陸軍史』 伊藤桂一)

 中支の戦場で「それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊」たちの目から見れば、「戦陣訓」の死生観は、兵隊への理解も同情もない愚かな督戦文書にしか見えなかったというのです。山本七平は、日本軍におけるこうした死生観を「死の哲学」と呼んでいます。しかし、ここで伊藤氏の語っている死生観はそのようなものではなくて、むしろ「生の哲学」に根ざしているように思われます。(日本軍は、武士道精神を「生の哲学」として生かした戦い方をすべきだった・・・。)

 ではなぜ、昭和の戦争において、この時代に支配的となった思想が「死の哲学」を持つに至ったか・・・。あるいは、ここには、この時代の日本を強引した青年将校らの、先に見たような被害者意識に根ざす「社会否定の精神」が、無意識のうちに反映していたのかも知れません。

 では、どうしたらいいか。山本七平は「最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである」といっています。そして、このように青年将校らを扱った時代が、大正末期の軍縮の時代から昭和にかけて現出していたのです。山本は「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう、ともいっています。また、戦後の自衛隊が、社会からあれだけの差別を受けながら、安定を保ったのは、個人の評価と集団としての自衛隊の評価がバランスしたためだろう、ともいっています。

 こうした視点から、昭和史の不思議を考えて見るのも有益なのではないでしょうか。

 

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コメント

統帥権干犯事件について

今大阪府が教職員の免職を法令で決めようとしていますが、それに対して大阪弁護士会が統帥権干犯としていいがかりをつけたときと同じような理屈で、それに反対しています。
  教職員を解雇できないように弁護士会がくっついていますがそこには社会(おきて、または法律)冠する感覚がなく、弁護士の飯の種がなくなる心配のみしています。
 統帥権干犯は日常的に起きる現象で、それは朝鮮人がやるやり方とよく似ていますが形は異なります。そこがアジアということで、対朝鮮対史那において同じような現象が起きます。
 朝鮮の戦後賠償のやり方や理屈は統帥権干犯の時と同じです。
 勿論史那の戦時賠償のやり方も同じです。
やり方が同じだから、それに反論が日本側はできないでしょう。同じ穴の狢ですから。
 法律とは何か。日本人にとって「法律とは何かでしょう。
 朝鮮の戦時に対する要求の背後にはそれにたかる弁護士ども(軍人)が本来の仕事を捨てて、銭をめがけて、動いています。それが日本の現象でしょう。
 難しいことではありません。

背後に国の銭を当てにしていることは同じです。

医療裁判もおなじです。B型肝炎訴訟も同じです。
裁判での(戦争)での決着では負けるので和解を政府と組んでしました。政府側にも仲間がいるということです。政府側といっても議員です。
 どれだけ国民財産を食い物のするつもりか?
依然として我々日本人は統帥権問題の解決の方法を持っていません。

軍人勅諭は法律ではない、。勅諭と法律の関係はどのようなものか?
 これは教育法と教育勅語の関係はどのようなものか?
 これに尽きる。
法律に規定されているにも拘らず、それを無視している。
 生活保護規定を見れば外国人には必要ないが、在日朝鮮人で永住権を持つ人に与えている。
 そもそも永住権という概念はわが国には無いものだが、終戦後できた。これがわが国を破壊する入り口となっているが日本はそれを解決しようとしていない。
 役所にいって生活保護は生活保護法には外国人は適用できないが、実際にはしている。その法理を説明せよというと誠に奇妙な答えをする。世俗的には<仕方が無い>と同じである。統帥権干犯は似た構造でしょう。
 わが国において勅諭とは何か、法律とは何かを考えることでしょう。現在は勅諭はお言葉となって残っている。問題は勅諭の内容ではなくその聞き方である。

 統帥権を利用した森等のやり方は民主党のやり方と基本的には同じでしょう。
 マニフェストを見れば十分でしょう。
民主党こそ戦前ンの軍部を引き継いだ人々でしょうね。
 特別在留k許可申請とその運用を見れば、統帥権干犯と同じ構造がそこにある。
本来の特別在留許可とは違う運用がされている。それが外国人政策を破壊して、わが国を悪くしている。
 ちょうど統帥権が本来の機能とは別な役割を持ったように。

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