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2011年10月

2011年10月29日 (土)

市川昭午著『愛国心―国家・国民・教育をめぐって』――日本人の民族的アイデンティティ回復の刻印

 「愛国心の研究は筆者にとって長年の懸案であった」と、著者はこの本の「あとがき」に書いています。おそらくこうした問題意識は、氏が、陸軍幼年学校(大阪)出であり、本土決戦が予想された昭和20年5月に15歳で軍籍に編入され、死を覚悟したという「戦争体験」に根ざしているように思われます。

 その後、氏は、旧制高校(松本)を経て新制の東京大学一期生として教養学科に進学し、同大学院人文学研究科で教育行政学を専攻して後、教育行財政学者としての道を歩まれました。

 私が、はじめて氏の著書に接したのは昭和50年で、書名は『教育行政の理論と構造』でした。当時の教育界は、反体制教育運動が猖獗を極めていて、この書は、そうした運動を主導していた宗像(誠也)理論を、「現状から見ての利害得失の、情勢論ないしは時務論」として厳しく批判していました。

 当時、氏は、国立教育研究所第二研究部主任研究官であったことから、文部省や政府の教育政策に反対する「カウンター教育行政学」が主流をなす教育界において、「民研派」に対する「国研派」と見なされ、孤軍奮闘している観がありました。

 そのためか、この頃の氏の論調は大変刺激的かつポレミック(論争的)で、読んでいて胸のすくような痛快さを覚えたものです。次に、今に通用するその「痛快語録」を三つほど紹介しておきます。

 「学問上の真理は賛否に数によって決まるものではないから、政治的効果を狙うのでなければ多数説か少数説かを気にする必要はない・・・奇をてらうつもりはないが、独自の説をとる少数派であるところに研究者としての自己の存在理由があるとさえ思っている。むしろ多数説に追随し、たいこを叩いてまわるだけなら、運動員としては評価できても、研究者としての価値はないのではあるまいか。」

 「『正しい理論』と『まちがった理論』という具合に、最初から正邪、黒白が決まっているものとは考えない・・・・神ならぬ人間の見解に絶対無謬ということはありえないから、・・・それを批判する側にも誤りや欠陥は指摘できるはずであって、要は摂るべきものは摂り、捨てるべきものは捨てるという態度が肝心である。」

 「学説を批判することはその論者を道徳的に非難することにはつながらない。真理か否かは認識上の問題であり、正義か否かは価値判断の問題だから、両者は違ったカテゴリーの属する。科学的見地からすれば、客観的な正義の存在は立証できないから、善・悪のレッテルを貼ったり、特定の目的に奉仕する度合いによって理論を評価したりするのは間違っている。」(以上『教育行政の理論と構造』より)

 氏は、その後も、上記のような研究者としての基本姿勢を一貫して保持し、教育行財政に関する基礎的研究を丹念に積み上げながつつ、その後の日本の教育政策の立案に、多くの貴重な提言を行ってきました。

 しかし、その後の日本の教育界は、上述したような反体制教育運動こそ下火になりましたが、高度経済成長が終わり低成長の時代となり国家目標が見失われるようになると、今度は「個性主義教育」が唱えられる一方、「愛国心教育」の必要が主張されるなど、混沌とした状況が生まれました。

 そうした中で、氏のなした言論は、これまた大変ユニークなもので、あるいはそれは、かって「カウンター教育行政論」と闘った時以上に、教育政治の世界において、「孤立的」・・・いや私にいわせれば「屹立的」なものでありました。

 その最初の現れが、臨教審以来、わが国の教育改革の潮流となった、学校教育の「個性主義化」の動きに対する批判でした。それは、今後の学校教育改革の基本的方向として、「個性主義への転換は誤り」であり、「学校教育は個性教育には向かない」とするものでした。

 つまり、学校教育は国民国家と表裏一体のものであり、国民国家が存続し続ける以上、「ある程度均質的な集団を対象に定型的な教育を行うのは当然」であり、それに個性主義を期待するのは「木に登って魚を求めるようなもの」だ、というのです。

 こうした見解に立って、氏は、「個性主義教育は崩壊する」とその見通しを述べられました。それが正しかったことは、「新しい学力観」「生きる力」「ゆとり教育」等といった言葉や、「総合的学習」のその後のなりゆきを見れば明らかです。

 では、なぜこうした間違った教育政策が採用されたのか。それは、根本的には、学校教育の急速な大衆化・普遍化に対応するためであり、当局としては、学校の種別化、教育課程の類型化、能力別学級編成など、学校教育の多様化政策をとる必要があった。

 しかし、それを前面に出すと「平等主義」に反するとの批判を受けるので、「平等主義を貫きつつ、しかも画一主義といわれる非難を回避する」ため、それを「個性化」と称した、というのです。(『未来形の教育』「学校教育の基本動向」参照)一種の”ごまかし”だったのですね。

 次に問題となったのは、平成15年に中教審より答申された教育基本法改正問題でした。

 氏は、この見直しにあたって中教審のメンバーとなり、「新しい時代を生きる日本人の育成」「伝統、文化など次代に継承すべきものの尊重、発展」「教育振興基本計画の策定など擬態的方策の規定」の三つの観点からする、「新しい時代にふさわしい教育基本法の改正」に向けた審議に参加しました。

 その審議がどのようになされたかについては、氏の著書『教育基本法を考える――心を法律で律すべきか』に詳しく紹介されています。

 要するに、それは「自由放談会」に近いもので、部会長が「議論の大勢」を判断しそれを事務局がまとめる。都合の悪い意見は無視する。また、委員は「現行法」の制定過程もその構成原理も理解しないまま、つまり、教育基本法改正に関する本格的な議論は殆どなされなかったというのです。

 そんな中で中間報告が発表され、「教育基本法の見直しを行うべきである」という結論が示されました。その後、関係団体代表による意見陳述や、有識者の参考意見、公聴会などを経て、平成15年3月20日中教審総会において、会長より文相に対する答申がなされました。

 その時、市川氏は、特に、「教育基本法に徳目や道徳律を理念として追加すべきだとしていること」について、不賛成である旨の意見を述べられました。

 その理由は、「法律は道徳律や宗教上の戒律とは違い、あくまでも人びとの行為を律するものであって、人びとの心を律するものではないこと。従って、自由民主主義国家において、教育一般の目的や方針、徳目などを法律で規定するのは適当でない」とするものでした。(「教育一般の目的や方針」は、「教育行政の目的や方針」とすべき、という意見)

 実は、こうした観点は、終戦直後、旧教育基本法が制定された時には自覚されていて、当時の田中文部大臣は次のようにいっていました。

 「いかに教育思想が混乱し不明確であるにしろ、道徳の徳目や教育の理念に関する綱領の如きものを公権的に決定公表することは、国家の任務の逸脱であり、パターナリズムかまたはファッシズム的態度といわなければならない。」

 また、明治23年に制定された教育勅語の起草においても、当時、法制局長官であった井上毅は、時の総理大臣山県有朋に対して次のような七箇条の諌言をなしました。

一、君主は臣民の良心の自由に干渉しないこと。
二、天を敬い、神を尊ぶといった言葉は宗旨上の争いを起こすので使わないこと。
三、反対論を引き起こすので哲学や思想上の理論に巻き込まれないこと。
四、政事上の臭みを疑われないようにすること。
五、漢文の口吻と洋風の気習を吐露しないこと。
六、愚を貶めたり、悪を戒めたりしないこと。
七、特定の宗派を喜ばしたり、他の宗派を起こらせたりしないこと。

 その結果、教育勅語には「内閣大臣の副書がなく、政治上の勅語・勅令とは区別され・・・したがって、法制上の取り扱いからいえば、それは天皇個人の国民全体に対する教育理念の表明であって、政府当局の教育方針を規定したものではない」とされたのです。といっても、その後、そうした立憲君主の統治行為の「限定的配慮」は次第に消え失せていきましたが・・・。

 この間の事情を少し述べると、実は、教育勅語に述べられた道徳律は、もともとは中国の儒教の五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の教えに基づくもので、日本のオリジナルの伝統思想ではなかったのです。つまり、江戸時代以降敗戦に至るまでの日本人の道徳教育は、中国の普遍思想である儒教に基づいて行われたのです。

 では、なぜ天皇が、国民に直接教育理念を宣明するようになったのか。それは、江戸時代に朱子学が導入されて後、中国を過度に理想化する風潮が生まれ、それに対する反動として「日本こそ中国だ」とする主張がなされた。それと、記紀を重視する国学思想とが結びついて、万世一系の天皇を中心とする「忠孝一本」の家族的国体観(=尊皇思想)が生まれた、ということです。

 そのため、その尊皇思想が、もともとは中国の儒教思想に由来するものであるにおかかわらず、それが、あたかも日本神話に淵源し、万世一系の皇統によって受け継がれてきた、日本古来の伝統思想であるかのように「誤解」されるようになったのです。

 そうした儒教思想の日本的変容があって、政治的秩序を定める法と、道徳規準を定める思想とが、別の原理に基づくこと理解が失われた。確かに、日本に立憲君主制を導入した井上毅らには、その辺の事情は分かっていました。しかし、日露戦争後、日本の固有思想が論じられるようになると、教育勅語に宣明された忠孝一致の国体思想が、日本発の万邦無比の普遍思想と観念されるようになったのです。

 このように、日本を一大家族・宗族国家と見て、政治と道徳を一体のものと見る皇国史観に基づく思想が、明治維新期から呼び覚まされたことによって、戦後、教育勅語が廃止されて後も、そうした「治教一致」の統治観念が、私たちの心に潜在的に残ることになったのです。これが、教育理念や徳目を法律に規定して怪しまない、日本人の心的態度を育てました。

 市川氏は、中教審の教育基本法改正論議において、こうした観点から、教育基本法に「教育の理念や目的、道徳規範」を規定することの誤りを指摘したのです。しかし、この意見に賛同するものはほとんどいませんでした。ということは、中教審の審議に参加した委員、官僚、政治家は、明治人以下の教養しか持ち合わせていなかった、ということになりますね。

 さて、前置きが長くなりましたが、以上のように市川氏の主張を理解すると、氏がなぜ、「愛国心の研究を長年の懸案」として来たかが判ります。それは、この著書の副題にあるように、氏の長年の関心は「国家と国民の関係、その国民を育てる教育」に置かれていた、ということなのです。

 こう見てくると、かっての「カウンター教育行政論」に対する氏の批判は、それが「国家」否定の考え方に立っていたこと。「個性主義教育」論に対する批判は、それが国民を育てるという学校教育の基本的役割を無視していたこと。そして、中教審の教育基本法改革論議に対する批判は、それが国民教育としての学校教育と、国民国家を民主的に運営していくための主体性を育てるための「教育」とを区別しないことに対する批判だったことが判ります。

 結果的には、教育基本法改正については、市川氏の意見が容れられず、教育理念や目的、道徳規範が法定されることになりました。しかし、これも、市川氏が予見した通り、それによって日本の道徳教育の効果が特に上がったとも思われず、かえって「逆効果」になることさえ危惧されます。

 というのは、「本当の意味で民主的な公共の担い手、国家・社会の主体的な形成者」を育てるためには、「既存の法律を評価し、それを訂正する能力を身につけ」なければならないからです。なのに、それを法律で規定して国民に強制するようなことになれば、かえって国民から、そうした国家運営の主体的能力を奪ってしまうことになりかねないからです。

 つまり、こうした問題――「国家と国民の関係、その国民を育てる教育のあり方」を問うということは、実は、日本人にとって「愛国心」とは何か、それはどのように教えられるか、はたしてそれは可能か、を問うことと同じなのです。

 市川氏のこの本における結論は、「愛国心について論じることは、民主主義国家に生きる市民として政治的義務」とするものでした。この結論は、一見、肩すかしのようにも見えますが、実は、ここに、私たち日本人に課された超重要な思想的課題が隠されていると思います。

 それは、一体なぜ我々は、殊更に「愛国心」を論じなければならないのか、ということで、このことは、戦後の日本人が、国家を無視して、国民の安全や福祉や自立や教育のあり方を考えてきた、ということに通底しているのです。

 また、この国家を、今後民主的に運営していくためには、「愛国心」を持つと同時に、それを時代の進展に合わせて不断に作りかえていく、そうした”法を超えた”民族的主体性が求められる、ということなのです。

 そのためには、そうした日本人の主体性を支えるべき民族的アイデンティティの回復が必要である・・・。この著書の「書かれざる最後の一ページ」には、そうした市川氏のひそかなる願いが、刻印されているように、私には思われました。

2011年10月21日 (金)

石川代議士の、検察官の任意聴取における「隠し録り」反訳を読んで思ったこと

 2011年10月14日、民主党の小沢元代表の第2回公判が行われ、元事務担当者の衆院議員石川知裕被告が、昨年5月東京地検特捜部の任意聴取を受けた際にひそかに録音した内容の一部が検察役指定弁護人側の証拠として再生されました。

 これは、石川議員が、検察官に録音機の所持を尋ねられたがこれを否定した上で「隠し録り」したもので、弁護人はこれを請求証拠として裁判所に提出していました。東京地裁はこれによって、石川議員の調書の一部に「威迫ともいうべき心理的圧迫と利益誘導を織り交ぜながら巧妙に誘導」があったと認め、その証拠採用を却下しました(7月12日)。

 その「隠し録り」音声の一部が、10月14日の小沢代表の第2回公判において、今度は、検察役指定弁護人から証拠として再生されたのです。「音声の中には、石川議員にとって不利益となる部分もあり、指定弁護士側は、こうした発言をピックアップすることで、弁護側が主張する検察側の「威圧」「誘導」を打ち消したい考え」だったとされます。

 私も、それを読みたいと思ってネットで探しましたが、今のところ、先に石川代議士の弁護人が裁判所に提出した弁護人請求証拠「反訳書の取調べ方法について」~要旨の告知部分~(http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/the_journal110127.pdf)と、先に紹介した第2回公判での「音声」記録http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111014/trl11101411420005-n1.htmを見ることができました。

 以下、これを読んだ私なりの疑問を6項目程記しておきます。「裁判の結果」と「事実」は違うとはいいながら、今回のような事件の場合には、徹底した「事実」の解明が求められます。また、今回のような「隠し録り」が許されるということになれば、必然的に、そこにおける言葉の信憑性が問われることになるからです。

疑問1 石川氏は佐藤優氏のアドバイスを受けて、カバンにレコーダーを入れていたというが、なぜ、検察は、録音機を所持していないことを石川氏に口頭で確認しただけで、このような任意聴取を行ったのか。

 被疑者が録音機を持つこと自体は違法ではないらしい。しかし、一般的に弁護士はそれを勧めてはいないようです。推測するに、刑事裁判の場合は犯罪事実の立証義務は全て検察官に負わされているし、一方、被疑者は自分に不利益なことは喋らなくてもいいし、黙秘権も認められています。だから、原則的には「事実でないことを認めなければいい」ということなのではないでしょうか。

 しかし、検察官は、警察の捜査資料の他、独自の捜査を積み重ねることで事実関係を明らかにしようとします。そこで被疑者の聴取を行い事実関係を聞き出そうとするわけですが、ここで検察官は、あらかじめ想定した事件の構図に合う証言を得ようとして、「脅迫あるいは利益誘導」に走る恐れがあります。しかし、その証言が「脅迫あるいは利益誘導」によるものであることが立証されれば、その証言は無効とされます。しかし、その証言が被疑者の意志的な偽証である場合は、その立証が極めて難しい。

 こうした問題は、日本の裁判では頻繁に起こっていて、これを日本人の「鸚鵡的供述」つまり迎合的偽証の問題として最初に指摘したのが、イザヤ・ベンダサンでした。つまり、ユダヤ・キリスト教文化圏では、「自白(=事実の証言)は侵すことのできない人間の基本的権利」という考え方がある。だから「自白を買う『免罪符』も存在しうる」というのです。

 また、旧約聖書の十戒には「あなたは隣人について、偽証してはならない」とあり、偽証をきびしく禁じています。ところが日本には、そのように偽証を罪と考える伝統がなく、自分の「主人」「恩人」あるいは「身内」を守るためには、自ら進んで偽証をする。むしろそれが世間的には義とされる、そういう忠誠の表し方、あるいは身内のかばい合いの伝統があるのです。

 従って、このような世界における裁判で偽証を防ぐためにはどうしたらいいか、ということが問題になります。もちろん、ここでは「脅迫或いは利益誘導」による偽証もあるわけですが、むしろ自ら選んで「主人」「恩人」「身内」のために偽証をすることが、特にヤクザと国会議員の世界には多いということなのです。

 もちろん、裁判における証言が「脅迫或いは利益誘導」によるものではなく、意志的な偽証であることが証明された場合は、刑法第百六十九条「法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する」で罰せられます。しかし、実際には、そうした主観的意図を証明することは困難で、従って、罰せられることは殆どありません。

 そこで、石川氏が検察の任意聴取を「隠し録り」したことについてですが、やり方によっては、本人が先にとられた調書の任意性を否定するよう検察官を誘導し、それを「無効」とすることもできます。しかし、逆に、そこに録音された本人の言葉が「自白」と見なされ証拠とされる危険性もあります。つまり、被疑者にとってこうした「隠し録り」は「両刃の刃」となるということです。

 つまり、今回の「隠し録り」で、弁護側が、石川氏が以前取られた調書を無効とすることに成功しても、その逆に、それが石川氏が「収支報告書の虚偽記載」を認めた一種の「自白証拠」と見なされることにもあるわけです。さらに、石川氏のここでの発言が、裁判に証拠として提出されれば一人歩きを始めます。そして、そこに偽証がある事が判れば、石川氏の政治家としての生命は絶たれてしまいます。

疑問2 この「隠し録り」からは、この任意聴取にあたった検察官と石川氏との間に、検察審査会の審理にいかに対処するかという観点における、一種の「利害の一致」が見られる。

 つまり、この聴取を担当した検察官は、石川氏に、「小沢は起訴しない」という検察の意思を伝えた上で、検察審査会による裁判に対処するためには、石川氏が過去の取り調べで作成した調書での証言(収支報告書の虚偽記載を小沢に報告し了承を得たという内容)を維持すべきだと、次のようにアドバイスしているのです。

 「検察官:別に小沢先生と一緒に何かしたとかさ,そういうことじゃなくて,別に石川さん側の事情を言ってるだけで,あとそれを認めるか否認するかは小沢先生の側の問題なんだから,石川さんは石川さんで従前通りの供述を維持するのが賢明だって事位は分かっているでしょとかいう人もいるし。 うん。」

 おそらく、この検察官は、石川氏が「隠し録り」していることを知らなかったのでしょう。迂闊といえば迂闊な話ですが、ここには、検察審査会に対する検察の対抗意識のようなものが見えます。また、石川に対する同情のようなものも見えます。そこで、石川氏に対して、一種の「司法取引」のようなことを持ちかけているようにも見えます。さらに、検察内部における意見対立のようなものも見えます。

 いずれにしても、この検察官は、そうした検察内部の事情を石川氏に伝えて、石川氏に「収支報告書の虚偽記載」という微罪を認めさせ、執行猶予3年以下の罪に止めることで、石川氏の政治生命を守ろうとしているかに見えます。もちろんその前提として「小沢を起訴しない」という検察判断が伝えられているわけで、市民の側から言えば、不当な「司法取引」のようにも見えます。

疑問3 石川氏に関わる贈賄事件が、石川氏の証言を引き出すための「隠し球」にされているらしいこと。

 その辺りをうかがわせる会話は次の通りです。

(おそらく石川氏自身の違法政治資金の話?)
検察官:「でも調書取ったときはさ,」「議員辞職しますっていうさ(笑)」
(石川:「だけど,あれは,あの証拠開示で出てないですよね。?」)

検察官:「そりやだって,吉田正喜のあれ,隠し玉なんじやないの。」
「あの,まあ,政治活動に関してお金をもらってましたからそれは賄賂と認識してますっていう,で,こういったもののお金を受け取った以上,その,しかるべき時期に、議員辞職しますみたいな、内容の調書があったじゃない。

(00:28:52頃から)
検察官:「ま,要するにあの調書は,」「それを賄賂だと認識してました,ってなってるからね。うん。そりゃ,もうそんなの出したら大騒ぎだよね。また。」
「ま,それは,あのー,現状でいく限りね,そりゃそんなものは世に出そうなんていう気はないと思うけれど,うーん。これが,また変な方向へね。」
「対鈴木宗男みたいにさ,徹底抗戦みたいになっちゃうとさ,じゃあ,やれるものはやれと。」
「ま,そうならないようにさ,ずっと逮捕されてきてからやってきたし,だけど,ま,なかなか,吉田正喜もなかなか執念深いし(笑)。」

(01:46:24頃から)
石川:「いや,いつもね,本当に,また逮捕されるのではないかとおびえながら生きてますよ。」

検察官:「なんかねー,ま,ほんとに,そうならないようにしたいと思っているし,そんな具体的な動きがあるわけではないからね,それほど,別に,普通にやっておけばね,あのー,そんなことにはならないと思うんだけど。」
「そこんところがやっぱり気持悪いのは分かるよ,本当に,気持ち悪いのはね,分かるけどね。じゃなんか本気でやる気になってね,じゃ,検察が石川議員再逮捕しようとして本気になったときに、全くできない話かっていうとそうでもないわけじゃない。実際のところ。それは気持ち悪いよね,すごくね。」

疑問4 石川氏自身は、収支報告書の虚偽記載をしたことを、小沢の4億円を隠すための「偽装」であったことをこの「隠し録り」で認めている。このことは疑問1でも指摘したが、石川氏はこの虚偽記載について、裁判の証言では次のような主張をしている。

裁判官:そもそも、なぜ、わざわざ定期預金を担保にして融資を受けたのですか。
石 川:資金を溶かさないようにしました。
裁判官:りそな銀行の陸山会口座に、4億円を確保しておきたかったということですか。
石 川:現金で支払いすると、すぐにお金がなくなってしまうので、預金担保を思いつきました。
裁判官:毎年、450万円もの金利負担は、大きな負担ではないですか。
石 川:少なくないとおもいますが、資金を溶かさないためには大きな支出ではないと思いました。
裁判長:(割って入り)あなたが溶かさないと言っている意味は、運転資金を確保するということですね。でも、債務を返済しない限り定期預金は使えないのだから、銀行に預けた4億円は運転資金になりませんね。それなら、小沢氏から借りた4億円を直接使って土地を購入しても同じことじゃないですか。
石 川:小沢氏からの4億円を明確にする必要がありました。小沢氏から借りた4億円と政治団体の金がゴッチャにならないようにするためでした。
裁判長:(ゴッチャにならないようにするなら)小沢氏と借用書のやり取りがあればいいでしょう。
石 川:(またしても沈黙したあと)うやむやにしたくなかったので。
裁判長:うやむやという意味が分からない。小沢氏に借用書を書いてもらえば済む話でしょう。

石 川:(沈黙のあと、うめくように)うまく説明できないのですが・・・。すべてを合理的に説明できませんが、過去にも小沢氏から借りた金で預金担保を組んだことがあるので・・・。

裁判長:過去にあったからというだけではなく、どういうメリットがあるのか説明して下さい。

石 川:小沢先生に返さないといけないので・・・。その都度金を下ろせば無駄遣いになりませんから。
──『WiLL』11月超特大号掲載/長谷川学氏論文

 この件については、石川氏は「隠し録り」ではつぎのように言っています。

(検察官の「石川さんは従前通りの供述を維持するのが賢明だ」というアドバイスに対する返答として)

石川: 「だから,あのーだから今日,もしね,あのー変えるとしたらね,やっぱり4億円を隠すってう意図が一番先にきていたわけではないっていう,それぐらいですよね。」
検察官: 「そこはさ,だからどういう風に言うの。その, 4億円を隠すつもりは毛頭ありませんでした,というとまた変になっちゃうからね。」
石川:「4億円を隠したい,あのー4億円を隠すために,あの一時期をずらした,ということではないっていうことですよね。」
検察官: 「それ,でも、根幹にかかわるとこなんじやないの。根幹にかかわるっていうかさー,そこを否定すると,なかなか難しいんじやないの。」
石川: 「で,現にそのやっぱり、 4億円については,そういう偽装と思われるようなね,ことを一方でやっているわけだから。こっちは関係なかったんですっていうのは変だよね。

(03:35:14)
検察官 :「うんうん。でも,そこは具体的な話してないから,あのー,1 2月だろうが3月だろうが変わんねーからさ,また変わると,なんでじやあ変わったのってなっちゃうからさー。めんどくせーからさ。うん。」
石川:「・・・分かりました。なんか, 忸怩たる思いが…まあまあ,仕方ないです。」

(03:05:55頃から)
検察官: 「だから,細かい報告・了承,報告・了承があったんですかって聞かれたことに対して,細かいことは言っていませんって答えてるから,だから,かみ合ってないんでしょ。うん。」
石川: 「そうなんですよね。細かいこと,概要は説明したけど,  細かいことについては説明してないっていうことですよね。」
検察官: 「それでいいんじやないですか。でも,あれをもって報告・了承というかどうかも分かんないしね。」
 「だからさー。まー,なんだろうなー。 どこが一番,現状を踏まえて一番そのー,なんだろうね、軟着陸なのかねー。まーそら,検察審査会で不起訴不当っていう議決が出るのはあれだよね。」
石川: 「まあ,そうですね。望む着陸点ですけど…。」

 この部分、裁判では、裁判官に「わざわざ定期預金を担保にして融資を受けたのですか。」と尋ねられて、「資金を溶かさないようにしました。」と答えています。しかし、もしそれが本当なら、なぜ、任意聴取の時にそのように話さなかったのでしょうか。ここでの石川氏の狙いは、以前にとられた調書で「小沢氏に報告し了解を得た」と証言したのを、「無効」にすることだったはずで、確かに検察官をその方向で「誘導」することには成功していますが、結果的には収支報告書の虚偽記載が「偽装」であったことを認めています。

疑問5 この「隠し録り」で最も注目すべきは、この聴取にあたった検察官は、例の水谷建設の1億円の違法政治献金について、「誰も気にしていない」と言っていること。

石川: 「威勢のいいことって言ったって,水谷建設からもらってないもん,当たり前じやないですか,そんなもん。」
検察官:「そりやいいんだけどさ,そこは誰も気にしてないのよ。」

(02:31:56頃から)
検察官: 「うんうんうん。だから,それはいいじゃない。水谷のところにすごく興味が奪われているんだけど,そんなところは,なんていうかなー、別に4億の不記載に関係ないんだよね。ただ,  4億が記載されていない,不記載にされていることがもう起訴もされてんだし,もうしょうがないでしよ。そういうところで,不記載にした理由はじゃあなんなのってなった時に,その,みんな水谷のことばっかり,水谷だから書けなかったに違いないって思い込んでいるわけよ。だからそこはさー,石川さんがさ,そうじゃなくて,漠然とね,先生のそういう蓄えてきたね,なんだかわかんないんだけど,簿外の金で,表に出せないお金だと思ったから,自分は書かなかったんですっていえば・・」

(03:07:03頃から)
検察官: 「汚い金だっていうのは,検察が勝手に言ってるだけで,言ってるだけでね,そんなのは別に水掛け諭になるから,相手にしなくていいのよ。証拠ないんだから。別に。」

(04:22:02頃から)
石川: 「まだ検察の中には,私か5000万を受け取っていると思っていらっしやる方がいるんだろうから,それはちょっと残念ですよね。」

検察官 :「いいんだよ。それはもう,そっちの方がむしろ多いくらいで。やっぱりね,やっぱりさあ、なんて言うのかなあ、そこのところは、ちゃんと理解しているのは、俺と吉田正樹しかいないと思うんだよ。」

検察官 :「あはは,吉田正喜もずるいから,そういうところは絶対公には言わないんだけど。あの事実はありませんね,とかは言わないんだけど。はっはっは。」

 石川氏の狙いとしては、この「隠し録り」の目的の第一は、水谷からの献金を完全否定することだったと思います。そういう観点からこの会話を見ると、この検察官は、石川氏に以前にとった調書の証言内容を維持させたいばっかりに、自分とその上司である吉田正樹は水谷の献金問題については「気にしていない」「理解している」と言わされていることになります。あるいは、水谷の献金問題は「無理すじ」と見ているのかもしれません。

疑問6 検察は、小沢の自己資金4億について、「先生のそういう蓄えてきたね,なんだかわかんないんだけど,簿外の金で,表に出せないお金だと思ったから,自分は書かなかったんですっていえば」とアドバイスしている。証拠ないんだからと。

 このことは、もし、石川が単なる虚偽記載で有罪になったとしても、3年の執行猶予がつけば次期選挙に立候補できるわけだから、それを認めたほうがいいとアドバイスしているわけです。この検察官はなぜそこを落としどころにしようとしたのか。石川を救おうとしたのか、小沢の起訴は断念したということなのか、単に石川に調書での証言を維持させるための誘導だったということなのか。

 弁護人は、「被告人が,逮捕されてから,公民権停止期間と直結する執行猶予期間が短くなるよう期待して,真意ではない供述調書に署名してきたこと等である」と言っています。しかし、いやしくも国民の選良たる国会議員が、自らの利益のために事実に反する「虚偽」の証言を行い、調書にサインするというようなことが、果たして許されるのでしょうか。

 この点、少なくとも国会議員については、裁判での証言における偽証罪はきびしく適用されるべきだと、私は思います。もちろん、日本には「脅迫或いは誘導」によらない自主的な「迎合的偽証」があるわけですから、それを防ぐためのルール作りも必要だと思います。そのための一つの方法として「政治資金規正法」が改正され「収支報告書」の提出が義務づけられたわけです。なお、今回の石川氏の「隠し録り」によって明らかになったように、警察や検察による取り調べの可視化は、偽証を防ぐ上では一定の効果を発揮するのではないでしょうか。以上論じたように、「両刃の刃」であることを双方覚悟しなければならないわけですから・・・。

2011年10月15日 (土)

山本七平の天皇制理解について2――丸山真男の「天皇制無責任体制」論がもたらした自虐史観

 前回紹介しましたが、本多勝一氏の天皇制理解は次のようなものでした。

 「(天皇制)、世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろう・・・」

 このような、戦前の昭和における日本の失敗を、全て「天皇制」のせいにして、それを「世界で最も遅れた野蛮な風習」として断罪する論法は、おそらく、その多くは丸山真男の戦後の著作「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」「軍国支配者の精神形態」などに依拠していたのではないかと思われます。

 丸山真男は、これらの著作によって日本の天皇制を次のように論じていました。

 幕末に日本に来た外国人は殆ど一様に、この国が精神的君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)殿二重統治の下に立っていると指摘しているが、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し集中化することに於いて成立した。・・・宗教や道徳をも内にふくみ、さらには芸出や学問さえも、いや、ひょっとすると自然まで内にふくんでなりたつ、巨大な共同世界であった。

 この、明治以降の日本の一元的天皇制の下においては、日本国民は自由なる市民としての主体的意識を持たなかった。つまり、「行動の制約を自らの良心のうちに持たず、その権威を上級の者に依存した結果、上級から下級への抑圧委譲の体系ができあがった。」この価値体系の中心に位置したのが天皇で、この結果、近代国家のナショナリズムをより露骨に主張する「超国家主義」国家体制が誕生した。

 さらに、この中心に位置する天皇は、「無よりの価値の創造者」ではなく、あくまで、万世一系の皇統を承け、皇祖皇宗の遺訓によって統治する。この天皇を中心にそれを万民が翼賛する体制を同心円で表現するならば、その中心は点ではなく、これを垂直に貫く一つの縦軸である。こうして、この中心からの価値の無限の流出が、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保される。

 ここにおいて天皇は「主体的自由の所有者」ではないし、秩序の「作為者」でもない。それは「人間や人格ではないものとして、いうならば一つの場、あるいは一つの空間・時間体としてとらえるべきだ。いいかえれば、天皇は、人間的存在ないし人格的存在ではなく、構造的存在なのだ。日本ファシズムはそういう天皇を必要」とした。つまり、そうした構造的存在としての「天皇制」が問題なのである。

 丸山は、これらの「超国家主義」論文によって、「頂点の天皇までをも支配する日本社会の病理」を、天皇制の構造的問題と捉えたのです。そして、そこでは政治的秩序形成における「作為の契機」が働かないこと。天皇自身はもちろん、この天皇の権威を背景に実質的に政治権力を行使する文武官僚も、下僚の下剋上に引き回されてロボット化し、結果的に、「匿名の無責任な非合理的爆発」に支配された。

 では、なぜこのようなことになったのか、というと、上述したような「抑圧委譲原理が行われている世界ではヒエラルヒーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に外に向けられる。・・・日常の生活的な不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分の中に注ぎ込まれる。かくして支配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、かえって危機的段階において、そうした無責任な『世論』に屈従して政策決定の自主性を失ってしまうのである」。つまり、「下剋上は抑圧委譲の盾の半面であり、抑圧委譲の病理現象」だというのです。(「軍国支配者の精神形態」)

 丸山は、こうした「天皇制無責任体制」から脱却し、日本に民主的な政治体制を確立するためには、各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要だと考えました。これを近代的政治意識の確立という観点からいえば、まず、公的=政治的領域からの私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立、ということになります。

 こうした丸山の、天皇制を一種の社会的病理現象を生み出す構造体とみる見方は、多分に彼が経験した軍隊生活に基づいており、その「抑圧委譲の病理現象」というような認識の仕方は、ここにおける屈辱的体験から生まれていたようです。

 氏は「東京帝国大学法学部助教授でありながら、陸軍二等兵として教育召集を受けた。大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたが、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られた。その後、脚気のため除隊になり、東京に戻った。4ヶ月後の1945年3月に再召集を受け、広島市宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。1945年8月15日に終戦を迎え、9月に復員した。」(wiki「丸山真男」)

 この間、丸山が経験した兵営生活は次のようなものでした。

 「中学にも進んでいない一等兵が、大学出の二等兵に劣等感を抱きながら、それ故に執拗にいじめ抜く。丸山は「おーい、大学生」と呼ばれていた。・・・下士官や上等兵からも始終殴られ、例えば点呼のさい、「朝鮮軍司令官板垣征四郎閣下」とよどみなく叫べるか否かまで、きびしく咎められる。・・・しかも場所は帝国日本の植民地、朝鮮である。「最も意地の悪い」仕打ちを加えてきたのは、陸軍兵志願者訓練所で徹底した「皇民化」教育を受けて入営した、朝鮮兵の一等兵だった」(『丸山真男―リベラリストの肖像p108』)

 確かに、近代社会における民主的政治体制を確立するためには、「公的=政治的領域から私的領域の分離。前者は法規範、後者は道徳規範による。さらに法規範の作為性の認識。そして、権力の民主的コントロール=民主的政治体制の確立」というプロセスを経ることが必要でしょう。また、そのためには「各人が「純粋な内面的な倫理」を確立し、「自由なる主体的意識」をもつことが必要」だといえます。ただし、そうした政治の近代化・民主化と天皇制とが構造的に相容れないとする見方が正しいかどうかは、大いに疑問です。

 こうした丸山の見方に対して最初に異議を表明したのは、津田左右吉でした。氏は、次のように、明治維新後の天皇制を、昭和の「現人神天皇制」と同一視する見方を次のように厳しく批判しました。

 「近年に至って生じたいわゆる超国家主義者の言説に現れているような思想が、明治時代から世を支配していたものであるが如く思い、それによって維新の性質を推測しようとしたものもあるようであるが、さらにそれを上代以来の過去の歴史の全体に及ぼし、わが国の国家及び政治の本質がそこにあるように考える考え方さえもあるらしく解せられる。」

 この前段は、以上紹介したような丸山真男の天皇制の理解の仕方、つまり、いわゆる超国家主義者の唱えたような「現人神」天皇思想が、明治維新以来支配的であったかのように見る見方に対する批判です。後段は、それを明治維新以後どころか、上代以来の歴史に遡って、日本の歴史全体を支配した思想であったかのように見る見方に対する批判です。これが本多勝一氏の天皇制理解にも通じているわけですね。

 「近年のことで維新を推測し、上代を推測することは、今、言論界にはたらいている人たちが、その年齢の上から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなったのであろう。なおそれを助ける事情としては、ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように、考えること、ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しようとすること、などもあるようである。」

 この前段は、丸山の天皇制理解が「その年齢から、超国家主義の宣伝せられ、または政策の上にそれが実現せられていた時代の、体験のみをもっているために、おのずからこうなった」こと。また、後段は、それが「ヨーロッパで行われた色々の改革や革命と同じ性質のことがわが国にもあったように、或はなければならなかったように」考え、また、「ヨーロッパの政治や宗教に関する知識にあてはめてわが国ものこと解しよう」としたため生じた誤解であることを指摘するものです。

 「政治上または社会上の特殊な主張をもっているために過去の歴史がゆがんだ形で目に映ずるということも、少なくないらしい。新しい思想により新しい観点から、たえず歴史に新解釈を加えていくことは、もとより必要であるが、そういう解釈は、何処までも事実にもとづかねばならぬ。事実に背き事実を無視することは許されない。何が事実であるは見るものの眼によってちがう、ということは、もとより考えられるが動かすべからざる事実を求めねばならぬこと、また如何なる眼から見ても事実をしなければならぬもののあることも、明らかである。それが無ければ史学というものの成りたちようが無い。」(『世界』第22号昭和22年10月号)

 ここで津田がいう日本の天皇制に関する「動かすべからざる事実」とは、津田にとっては次のようなものでした。

 「また昨年に天皇みづからその神性を否定せられるまでは日本人に信仰の自由の地盤が無く、従って国家を超越した道徳の基礎が無かったようにもいわれているが、天皇に神性があるという上代の知識人がもっていた思想は、もともと現代人の考えるような宗教的意義のことでは無く、また明治時代になってからは、そういうようなことは、公式に宣言せられたことはもとよりなく、また一般の常識あるものの思想に存在したのでもない。

 のみならず、中世以後にはそういう考えは全体になくなっていた。儒教思想の行われるようになってからは、天皇は堯舜の如き聖人とせられたのである。ただ、皇祖を神と称することがあるために、天皇は神の子孫であられるということのいわれている場合はあるが、それは神を人とみてのことである。だから陛下が今さら神ではないと仰せられるには及ばなかったと、私は考えている。

 ただ近年になって、いわゆる超国家主義者軍国主義者が、天皇を神秘化しようとして様々の荒唐無稽な言説を立てたために、そこから天皇の神性ということがいわれるようになったかと思われるが、それは一般に承認せられたことではなく、また明治時代からのことでもない。神性についてのみならず、天皇を絶対価値の体現とするものの如く解せられるような言説があったとすれば、それもまたこれと同じである。」

 もちろん、丸山真男には、先に紹介した「超国家主義者の論理と心理」など、天皇制ファシズムへと向かう日本の近代化を全面的に否定した現代政治論とは別に、儒教(朱子学)の日本的受容に「作為の契機」を探った『日本政治思想史研究』、福沢の独立自尊の精神と「多事争論」を評価した『文明論の概略を読む』、中世武士団の独立精神と個人主義を探った『忠誠と反逆』などがあります。

 これらを通読すれば、丸山なりの日本政治思想史研究における「動かすべからざる事実の探求」を見て取ることができます。しかし、一般の読者にとっては、氏が「超国家主義の論理と心理」で見せた、天皇制に対する上述したような強烈な否定の論理が、圧倒的な影響力をもったことは間違いいと思います。本多勝一氏の天皇観などはその典型ではないかと思われます。

 そこで次回は、なぜ天皇制は、昭和において「超国家主義・現人神天皇制」となったかについて、山本七平の天皇制研究の成果を、丸山真男の日本政治思想史研究とも対比しつつ、できるだけ分かりやすく紹介したいと思います。

2011年10月 8日 (土)

小沢氏会見について――戦前の政党政治を破壊した第一の責任は、政治家にあった

 10月6日の「小沢氏会見」を見聞して、その威圧的な態度に恐れをなした人も多かったのではないかと思います。だが、日本は、小沢氏もいう通り「民主主義国家・法治国家」であって、暴力ではなく言論によって政治が行われるべきですので、氏の今回の主張のおかしな部分について、私なりの意見を申し述べておきたいと思います。

 第一の問題点は、小沢氏の「三権分立」の考え方でしょう。氏は記者の「公判がスタートしたとはいえ、司法の場とは別に国会で説明責任を果たす考えはあるか」という問いに対して次のように答えています

 「三権分立を君はどう考えているの? だから、ちゃんとよく勉強して筋道立った質問してください。司法で裁判所っちゅうのは、最高の、最終の法に基づき、根拠に、証拠に基づいて判断をする場所でしょ? それが、いろいろな力や感情によって結果が左右されるようなことになってはいけないから、司法は司法で独立しているわけでしょ。うん。もうちょっと勉強してから、また質問をしてください。」

 ここでは、三権分立の原則に基づき、司法、立法、行政はそれぞれ独立した権限をもっているから、司法権を行使する裁判所が裁判を始めたら、他の二権はこの問題を扱えない(「それに干渉できない」を訂正10/9)といっています。でもこれはおかしい。立法権を有する議会が裁判に干渉すれば問題ですが、裁判とは別の観点で、例えば「政治家としての」国民に対する説明責任を求めることはできます。

 確かに、政治家も「法によってのみ裁かれる」わけですが、「法に違反していなければ何をしてもいい」ということにはならない。政治家はあくまで「選良」であって、最低限の国民的モラルや人格を求められる。ただ、国会での証言には偽証罪が適用されるから、被告の裁判上の黙秘権が侵害されることになる、との意見もあるようですが、「実質的犯罪はまったく行っていない」と小沢氏がいうのなら、国会での証言を怖れる必要はありません。なのに、それを三権分立を盾に拒否するということは、「偽証罪」を怖れているのだな、と解釈せざるを得ません。
                   
 第二の問題点は、「それ以上に本件で特に許せないのは主権者たる国民から何も負託されていない検察、法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜(ぼうとく)侵害したことであります」といっていることです。

 戦前には「検察ファッショ」といわれた事例があり、また戦後も、「国策捜査」と批判されるような事例があることも事実です。「国策捜査」は、「起訴する権限を独占している官僚たる検察官の集団で民主的基盤を欠く検察が、何らかの政治的意図や世論の風向きによって捜査をおこなう」ような場合のことで、それでは検察がポピュリズムの荷担することになりますので、「権力の濫用」になります。

 しかし、小沢氏の政治資金の集め方に対する国民一般の厳しい評価は、決して「ポピュリズム」で片付けられるものではありません。私の印象としては、「法に違反しなければ何をしてもかまわない」、というより、その法は氏が作ったようなものですから、「あらかじめ法の抜け道を作っておき、それを熟知した上で”脱法的行為”を繰り返した」ように見えます。西松建設からうけた政治資金の問題。数十億に上るとされる政党助成金の氏の政治資金団体への「寄付」の問題。仮にその「法的責任」を免れるとしても、政治家としてのモラルを問わざるを得ません。

 従って、こうした問題について、特捜検察が「政治家汚職、大型脱税、経済事件を独自に捜査・立件する権限」を持ち権力腐敗を防止しようとするのは当然のことです。それ故に、検察の地位は「三権のうち、行政権に属する官庁であるが、国民の権利保持の観点から俗に準司法機関とも呼ばれ」ているのです。

 「もっとも、時代に応じた取り締まりの必要性を判断するのは、本来は検察でなく立法機関たる国会の役割である。佐藤優は、政治家という「フォワード」がだらしないので、検察官という「ゴールキーパー」がどこででも手を使おうとする状況がある」(wiki「検察官」参照)といっています。確かに特捜もチェックされるべきですが、問題の焦点は、”政治家という「フォワード」がだらしない”ことにあるわけで、この”だらしなさ”を小沢氏は象徴しているように私には思われます。(10/8 21:22訂正)

 その意味で、今回の場合は、「土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜(ぼうとく)侵害」しているのはむしろ小沢氏の方ではないかという気がしました。小沢氏がそれを記者会見まで開いて、国民にあのような訴え方をしたのは、私には、いささか”盗っ人猛々しい”ことのように思われました。

 また、このことに関わって、小沢氏は、日本の戦前の歴史の失敗を例に出して、検察やマスコミなどを次のように批判しています。

 「日本は戦前、行政官僚、軍人官僚、検察警察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで国家権力を濫用し、政党政治を破壊しました。その結果は無謀な戦争への突入と、悲惨な敗戦という悲劇でありました。教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません」

 日本の戦前の政党政治を破壊したのは「行政官僚、軍人官僚、検察警察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで国家権力を濫用」したためだ、というわけですが、では、政治家の責任はなかったのか、と私は問いたいと思います。

 私は、本稿のタイトルにも示したように、戦前の日本の政党政治を破壊したのは、「官僚、軍人、検察、財界、マスコミ」というより、むしろ政治家だった、と考えています。

 よく、昭和の無謀な戦争をもたらした元凶として、「軍の統帥権」が問題とされます。しかし、この「統帥権」を軍にたきつけ、それを政治問題化することによって当時の「民政党」からの政権奪取を図ろうとしたのは「政友会」の政治家たち(犬養毅、鳩山一郎など)であって、特に幹事長森恪がその首謀者であったことは、はっきりと認識しておく必要があります。

 <森格の伝記には「森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行った」と記されています。

 (また)「岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』」と答えています。(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家だったのです。では、なぜ森恪は、「責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如き」統帥権干犯問題を引き起こしたのでしょうか。言うまでもなく森は、第二次南京事件以来、軍縮に不満を持つ軍人らを政治的に巻き込み、その実力で以て自らの大陸政策を推進しようとしており、この時も、「兵力問題」を「統帥権問題」に転化し政治問題化することで、民政党からの政権奪還を図ろうとしていました。>

 つまり、<大正末から昭和初期の段階で比較的正しい政治判断をしていたのは、むしろ官僚(主として外務)であって、それをぶち壊し、日本を破滅へと導いたのは、政治家(特に森恪を中心とする政友会)だった>のです。要するに、<時の政治家が、軍人という「世論に惑はず政治に拘わらず」とされた専門家集団を、党利党略で政治に引き込んだ結果、「庇を貸して母屋を取られた」格好になった>のです。

 <それは山東出兵に始まり、東方会議で軍人が政治に関与する糸口を作り(「田中メモランダム」は偽書とされますが、この文書は東方会議なしには作られなかった)、済南事件で日本軍が北伐軍を攻撃し蒋介石を敵に回し、さらに張作霖爆殺事件で満州の張学良を敵に回した。それが、中国人のナショナリズムの炎に油をそそぐことになり、中国の国権回復運動から満州における日本の特殊権益の侵害、さらには旅大回収運動へと発展していった・・・。

 注目すべきは、石原完爾などは、そうした満州における状況の悪化を、日本が満州を武力占領するための口実にできると機をうかがっていたということです。ほんとは、石原は中村大尉事件で出兵したかったのですが、それが許されず、そこで、政府が関東軍の暴走を怖れて止めに入ったことに機先を制する形で、かねて計画していた満州占領計画を、政府や軍中央はおろか天皇の意思も無視して実行したのです。

 そして、この計画を政友会幹事長であったの森恪は知っていて、満州事変が引き起こされる直前の昭和6年9月9日の講演で、次のように語っています。「(支那満州について)要するにどうしても現在のままでおくことはできない。・・・然らばこれを如何に展開するか。我々は一つの手段方法を有って居る。けれども角力は、この取り組みはこう云う手で敵を倒すというようなことを発表したならば、角力は取れぬ。」(「名古屋市公会堂における講演」)>(以上、エントリー「昭和の青年将校はなぜ暴走したか(最終回)――自己評価と社会評価のギャップが生んだ悲劇」参照)

 このように、日本の政党政治を、政権奪取のための党利党略から「軍を政治に巻き込み」破壊したのは、誰あろう政治家自身だったのです。小沢氏は、「本件で特に許せないのは主権者たる国民から何も負託されていない検察、法務官僚が土足で議会制民主主義を踏みにじり、それを破壊し、公然と国民の主権を冒涜(ぼうとく)侵害した」といっていますが、これはいいかえれば「国民から負託された政治家が最高権力者だ」ということです。

 確かに、民主主義社会では政治権力の正統性は「国民の負託を受けている」ことにあり、国家の最高権力は政治家が行使すべきでしょう。しかし、それだからこそ、政治家は「法に反しなければ何をしてもいい」ということにはならない。先ほど、「国民のもつ最低限のモラル」ということを申しましたが、法以前に、政治家として自らを律すべき最低限のモラルが要請される。

 その第一が、政治家の「出処進退」ということでしょう。その権力至上主義、指導者(=武士)の風上にも置けない”いさぎ(潔)の悪さ”。秘書らに責任を転嫁して平然たる無情。4億円?ものタンス預金。巨額の政党助成金による蓄財?。それに、今回の記者会見に限らない恫喝まがいの一方的論理、口吻等々・・・。およそ現代民主政治家としての基本的資質を欠いているように私には思われます。

 政治主導・・・?民主政治においてはそれは当然です。だからこそ権力乱用に陥らない、自らを厳しく律する規範意識が政治家に求められる。だが、その自浄作用だけで済むわけはない。当然、その最高権力は、権力分立による相互牽制が図られるべきであり、マスコミも恫喝に屈せず、事実の報道に努めなければならない。(この点今回のフリー記者の質問はまさに”ヨイショ”でしたね。)そして、政治家を選んだ責任は最終的には国民が負わなければならない。

 戦前昭和における無謀な戦争の責任は、第一に政治家にあった。この事実を、「政治主導」が叫ばれる今日、肝に銘じる必要があると思います。

 なお、以上のような私の判断は、小沢氏の著書『日本改造計画』以来の氏の言動の変化を踏まえた、氏一流の「党利党略」に対する疑問がそのベースになっています。自民党はそれに騙され、民主党はそれによって政権の座につき、日教組の輿石氏は小沢氏のそうした能力を高く評価しているわけです。だが嘘は必ず相応の代償を伴う。その代償を支払わされるのは果たして誰でしょうか。戦前の歴史に学ぶべき点はここにあると思います。(山本七平学のすすめ「小沢一郎の権力意思と歴史認識」参照)(下線部追記10/9 11:39)

最終校正10/8 21:54

2011年10月 6日 (木)

山本七平の天皇制理解について1――「朝幕・併存=二権分立」の後期天皇制こそ、日本の伝統的天皇制

*タイトル名を「山本七平の日本思想史」から「山本七平の天皇制理解について」に変更します。

 山本七平が、いわゆる「自虐史観」の元祖と目される本多勝一氏などから執拗な攻撃を受けるようになったのは、氏の天皇制の理解の仕方が、「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と見なされたからでした。これは、イザヤ・ベンダサンが昭和47年1月号の『諸君』に「朝日新聞のゴメンナサイ」を書き、いわゆる「百人切り競争」をフィクションと断定したことをめぐって、本多勝一氏との間で論争になったことが契機となっています。(『日本教について』イザヤ・ベンダサン著、所収)

 その時、明らかにされた本多勝一氏の天皇制についての理解の仕方は次のようなものでした。

 「天皇制などと言うものは、シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろものだと言うことは、ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いするであろうことも知っている。・・・世界に稀有なこの大迷信によって、戦争中の私たちは、あんなにもだまされ、あんなにもひどいめにあった。・・・この世界で最もおくれた野蛮な風習を平気で支持している日本人。侵略の口実とした天皇をそのまま「あがめたてまつって」いる日本人。・・・こんな民族は、世界一恥ずべき最低民族なのであろうが、私もまたその一人なのだ。」

 こうした本多勝一氏の天皇制の理解の仕方に対して、ベンダサンは、『日本人とユダヤ人』において、次のような評価を下していました。

 「朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷が持つのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権ともいうべきものであろう。統治には、宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。無宗教の共産圏でも、たとえば、レーニンの屍体をミイラにして一種のピラミッドに安置し、その屋上に指導者が並んで人民の行進を閲するのは、まさにファラオの時代を思わせる祭儀である。・・・このような祭儀行為とこの祭儀を主催する権限とは、常に最高の統治権者が把持してきた、非常に重要な権限」である。

 「だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない処で、形式的に三権を分立させても無意味である。・・・西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。・・・だがダンテの夢は夢で終わった。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨望の余り、ため息をついたであろう。」

 ここで、イザヤ・ベンダサンと山本七平の関係についての私の考えを述べておきます。山本七平は、後に、イザヤ・ベンダサンという著者名は、自分と二人のユダヤ人(ジョン・ジョセフ・ロウラー、ミンシャ・ホーレンスキー)との合作につけたペンネームだと説明していました。といっても、それらの著作の執筆・編集において山本が中心的役割を担ったことは間違いなく、山本が他の二人のユダヤ人の意見を参考にしつつ(それがどの程度のもだったかはよくわからない)、イザヤ・ベンダサンという別人格をもって書いた、というのが真相なのではないかと思います。

 この「別人格をもって書いた」というのが、日本人である私たちにはよくわからないわけですが、山本自身の説明によると、ペンネームを使用するということの本来の意味は、作者とその作品の人格を区別するためだそうです。そうしないと、作者がその作品によって規定されてしまい、自由な創作活動ができなくなるからといいます。だから、そうした事態を避けるためにペンネームを使う・・・要するに、その作品を「作品」として読めば良いわけで、作者の素性を詮索する必要はないということです。

 では、山本は、イザヤ・ベンダサンというペンネームで何を語ろうとしたのか。『日本人とユダヤ人』では、日本におけるキリスト教理解の根本的問題点を指摘すること。『日本教について』では、「日本教」そのものの問題点を明らかにすること。『日本教徒』では「日本教」の倫理基準のルーツを平家物語の「恩の哲学」に見ること。『日本の商人』では江戸時代の商人の「商道徳」を紹介すること。『日本人と中国人』では、日中戦争の不思議を解明すること。『イザヤ・ベンダサンの日本歴史』では、武士の作った後期天皇制の意義を明らかにすること、だったのではないかと私は思っています。

 これらは、そのいずれも「在野の人物」による全く独創的な仕事でしたので、それだけに、イザヤ・ベンダサンという別人格に語らせることで、その真価を世に問う気持ちもあったのではないかと思います。また、予測不可能な危険から身を守る意味もあったと思います。特に後者については、冒頭に紹介した本多勝一氏とのその後の論争経過や、キリスト教左派に属するという浅見定雄氏による、およそキリスト者によるものとは思われない”悪意に満ちた”攻撃を見ても判ります。なお、松岡正剛氏によると、こうした山本の仕事は、今日もなお、アカデミズムの世界から無視され続けているとのことです。

 話をもとに戻しますが、冒頭に紹介した、本多勝一氏とイザヤ・ベンダサンの天皇制についての論争において、ベンダサンは「本多勝一様への返書」で次のように反論しています。

 「私は『日本人とユダヤ人』で、例えレーニンの屍体をミイラにしても、そのことは野蛮とは関係がないと書きました。「シャーマニズムから来ているから野蛮だ」とはいえませんし、従って「野蛮だからきえてなくならねばならぬもの」とはいえません。・・・私の考えでは、自分の考え方を最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを「消えてなくなれねばならぬ」と一方的に断定する本多ナチズムこそ野蛮です。ナチズムはシャーマニズムよりはるかに新しいものですから、「新しい・古い」は野蛮の基準にはなりません。」

 これに対して本多氏は、「私は天皇制を「未開野蛮なしろもの」「世界で最も遅れた野蛮な風習」とはかきましたが「古い」とは、ひとこともいっておりません。・・・天皇制軍国主義がなぜ野蛮か。・・・侵略の口実とした天皇。迷信だろうがオマジナイだろうが、私たちが何千万人もの単位で殺される力につながらないのであれば、何も問題はない。・・・結局あなたは、・・・なにをされたのでしょうか。もはや読者にはあきらかなように、自称ユダヤ人が結果的に天皇制を、「天皇陛下万歳」と、必死で、擁護して下さったのであります。」(「雑音でいじめられる側の目」上掲書所収)

 ここで問題となるのは、「天皇制」という言葉の定義が、本多勝一氏とベンダサンで違っているということです。ベンダサンは、鎌倉時代以降の「朝廷・幕府の併存という一種の二権分立」を評価しているように、天皇制をいくつかの歴史段階に区分して理解しています。南北朝時代を併存期間として、それ以前を「前期天皇制」、それ以後を「後期天皇制」と呼んでいます。そして後者を「武家が武家のために作った天皇制」ではあるが、武家はあくまでこれを「即天皇去私」の基本姿勢で、それを一種の文化的象徴的権威として維持しようとした、といっています。(『山本七平の 日本の歴史』参照)

 この後期天皇制の後に来るものが、尊皇思想に基づくいわゆる「皇国史観天皇制」で、神代に続く天皇の万世一系をその正統性の根拠とし、忠孝一致の家族的国家観に基づく天皇親政を理想としました。実は、この「皇国史観天皇制」イデオロギーが、尊皇攘夷運動から尊皇倒幕へと発展した結果、明治維新につながったのです。こうして、天皇を中心とする一元的国家体制が樹立されたわけですが、明治新政府は、攘夷ではなく一転して開国政策をとり、富国強兵、殖産興業を合い言葉に近代化国家建設へと突き進むことになりました。

 だが、このことは、「明治維新によって徳川時代から続いてきた尊皇思想に基づく理想主義が実行に移されたはず」と期待していた岩倉具視らにとっては、こうした新政府の欧化政策は、「朝廷の罪なり」であり、「大衆を欺くものである」と言わざるを得ないものでした。また、「維新を機に実質的に一つの体制をつくろうとした隆盛のような人にとっては、これはまたとんでもない方向違いであり、「死んだ人には誠に相済まぬ」ということになりました。

 実際、西郷隆盛は、維新以降、尊皇思想に基づく理想主義をある程度実行しようとしました。その「最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行いますが、この改革が非常に面白い。かつて島津というのは非常に複雑な機構になっていたのですが、その全部に統一的に地頭を置き、この地頭が軍事、警察、司法、行政の一切を行う。また、村の役場は軍務方といい、すべてを戦時状態に置きます。一切が軍隊のようになるわけですが、その下に共同体的な一種の体制を樹立しようと試みたのではないか、と思われる点が彼にはあります。

 論理的に、つまり徳川時代からの延長で考えますと、天皇親政で、その下に一種の班田制のようなものをつくるというのは、一番正直なやり方です。・・・彼にとって維新というのは、あくまでも全国で行うことだったはずですが、それは実行されなかった。『西郷南洲遺訓』を読みますと、自分はそれを非常に後悔しているという言葉が出てまいりまして、彼は、「そのために死んだ人に対して面目がない。こんな欧化主義の政府をつくるというようなことは、自分は全然考えてなかった」と言っております。(「日本の正統と理想主義」『現人神の創作者たち』山本七平ライブラリー所収)

 このような、西郷が理想とした尊皇思想に基づく国家のあり方は、徳川時代を通じて成長してきた朱子学の正統論に基づく理想主義と、日本の国学思想が生んだ日本独特の万世一系の国体観念とが重なったものでした。これが、明治維新の成功と同時に消えてしまい、今度は中国ではなく、ヨーロッパを理想とする近代化の道を歩むことになったのです。問題は、この時、明治維新をもたらした尊皇思想を、思想史的に清算しなかった・・・このことが、昭和になって大きな問題を引き起こすことになるのです。

 「つまり、(昭和になって)天皇機関説というのが、なぜあれほど非難されたのかということですが、(尊皇思想を生んだ)朱子学から見れば、これはもってのほかなんです。ただ、非難している人間がはたしてこれを「朱子学から見れば・・・」というふうに意識していたかどうか、それはわかりません。(だが)ヨーロッパの発想からすれば、天皇機関説は当然であるわけです」が、この問題を、誰も日本の思想史上の問題として論じることができなかった。そのため、その有効な解決策を国民に提示することが出来なかったのです。(上掲書参照)

 そうなれば、借り物の西欧の政治思想より、伝統的な日本の政治思想の方が強いのは当たり前です。まして、この日本の伝統思想である尊皇思想は、明治維新という偉業を達成した思想ですから、これを否定することはできない。また、この「皇国史観天皇制」は、日本の歴史を神代から貫く万世一系の天皇制を正統とすることによって、先に紹介した「朝廷・幕府併存」の後期天皇制を「誤り」とし、この後期天皇制を創出した足利尊氏を「逆臣」と規定していました。

 ということは、天皇制を「シャーマニズムから来ている未開野蛮なしろもの」であり、かつ「ニューギニア高知人だって、こんな未開な制度を見たら大笑いする」とした本多勝一氏は、この「皇国史観天皇制」を「万世一貫」の天皇制と理解していたことになります。それは、いわば「裏返し皇国史観」とでもいうべきものです。もちろん、これは間違いで、そうした間違った理解を根拠に、自分の意見と合わない意見を「天皇制を擁護し侵略軍の論理を擁護する反動」と決めつけたわけで、これではベンダサンに「ナチスの論理」と批判されても仕方ありませんね。

 そこで次回は、その皇国史観に基づく万世一系の天皇制が、どのような歴史的・思想的系譜を経て生まれてきたかということについて、山本七平の独創的な見解を紹介したいと思います。

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