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2011年12月

2011年12月29日 (木)

福田恆存の『乃木将軍と旅順攻略戦』――結果論で善悪黒白を断定する歴史観に陥らないこと

半藤一利氏の『あの戦争と日本人』に次のような記述があります。

 「乃木さんが十一月二十七日に二〇三高地砲撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。いや旅順要塞攻撃自体が無効だったというわけなんですね。二十八センチ砲で目的を達していた。では二万にも及ぶ兵士は何のために死んだのか。」

 この二十八センチ砲で目的を達していたというのは、「九月二十八日から十月十八日にかけて、密かに日本から二十八センチ砲というでっかい大砲が運ばれてきていて、山越しに旅順港を狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を撃ち込んだ」ことで、旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んだ。弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた。その事実を、日本軍は二〇三高地を占領するまで知らなかった、というのです。

 私はこの話を聞いて、二十八センチ砲による旅順艦隊砲撃の効果がはっきりしなかったというのもよく判らないが、それ以上に、ただその砲撃の観測点として必要とされた二○三高地を奪取するのに、二万人に及ぶ戦死者を出すような攻撃を繰り返したというのも、おかしな話ではないか。二〇三高地を含めた旅順要塞攻撃には、何か別の目的もあったのではないか、と疑問に思いました。

 これについては、福田恆存が昭和45年12月に「乃木将軍と旅順攻略戦」という一文を書いていて、乃木が司令官を務めた第三軍の目的は次の三つであった、と言っています。(以下の引用はこの本による)

第一、初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった。それは、旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れる海軍の要請で、旅順艦隊を撃滅するため旅順要塞を落として貰いたい、ということから生じた。なぜなら、旅順要塞の砲塔は北面の陸に向かって作られていると同時に、南の海面に向かって味方艦艇の援護射撃もできるように造られていたから、それを潰して欲しいということだった。

第二、日本軍は、満州総軍作戦根拠地としての大連を確保せねばならず、そのためにはどうしても旅順の敵を安泰にしておくわけにはいかなかった。少なくとも北進する第二軍の後方を安全にする必要があった。

第三、この第一、第二の目的を達成することを任された第三軍は、旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に参加しなければならなかった。

 つまり、第三軍は、海軍の要請に応じて旅順艦隊を撃滅するためにも、また、大連を確保し北進する大二軍の後方の安全を図るためにも、さらに、沙河、遼陽の会戦に一日も早く参加するためにも、旅順要塞全体を落とす必要があった。そのために、松樹山堡塁から東鶏冠山北堡塁にわたる東北正面と共に、二〇三高地を中心とする西方面の要塞群を攻め落とす必要があり、第三軍は、まず、東北正面を奪取することが旅順艦隊のみならず要塞の死命そのものを制することになると考えた、というのです。

 つまり、旅順艦隊の撃滅だけが旅順要塞攻撃の目的ではなかったということですが、それにしても、もし、二十八センチ砲による砲撃で旅順艦隊が撃滅されたことが判っていれば、必ずしも旅順要塞を強襲して多くの犠牲者を出すような攻撃方法をとらなくてもよかったのではないか。第二、第三の目的を達成するためには、旅順港及び旅順要塞に籠もるロシア軍が出てくるのを迎え撃った方が、より少ない犠牲でその進出を阻止できたのではないか、ということです。

 あるいはそれが、「初めのうちは大本営も総司令部も旅順攻略の必要を考えていなかった」ということなのかもしれません。しかし、海軍は旅順艦隊とバルチック艦隊との合流を恐れていて、陸軍に一日も早く旅順艦隊を撃滅するため、旅順要塞を落としてくれるよう要請していました。それによって、日本から朝鮮への軍需物資の輸送路も確保できるし、バルチック艦隊との決戦に備えて、黄海会戦等で傷ついた聯合艦隊を修理する時間を確保することもできる。

 そこで、陸軍による旅順要塞攻撃が開始されました。第一次攻撃(8.19~24)、第二次攻撃前哨戦(9.19~22)、9月28日から10月18日までは9月20日に落とした南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃、第二次総攻撃(10月26~30)がなされました。しかし、東北正面要塞は落ちない。11月9日には、大本営の山縣参謀総長が満州軍総司令官大山元帥に、「速やかに旅順艦隊を撃破し、我が海軍をして一日も早くその艦艇修理に着手せしめ、第二の海戦準備を整ふるの時日を得せしむること頗る必要なり。これが為めに第三軍はまづ敵艦撃破の目的を達すること急がざる可らず。(二○三高地攻撃勧奨=筆者)」(「機密戦争日誌」)と電報を打っています。

 これに対して大山総参謀長は、次のように返電して大本営の要望をはねつけています。

一、旅順陥落を成るべく速かに、一方にはわが海軍をして新なる作戦をなすの自由を得せしめ、他の一方に於ては優勢なる兵力を北方の野戦に増加し、以て決戦の期を速かにせんと欲するは、貴電に接する迄も無くその必要を感ずる所なり。況んやバルチック艦隊の東航を事実上に目撃するに於てをや。

二、九月十九日を以て開始せられたる(第二回)攻撃に當り、予は(兒玉)総参謀長を特派し、親しくその攻撃の実況を目撃せしめたり。その当時、総参謀長より閣下に意見を呈したる如く、一気呵成の成功を望むためには新鋭の兵力を加へて元気よく、攻撃するの必要ありき。(註・第八師団を旅順に送れとの請求を云うなり)後略

三、さて更にこの攻撃を有効ならしむるためには、その間種々の思付もあるべくなれども、(東北正面)の松樹山、二龍山に對する攻撃作業既に窖室(こうしつ)に迄達し居る今日なれば、最早この攻撃計画を一変して他に攻撃点を選定する等の余地を存せず。唯計画せられたる攻撃を鋭意遂行するあらんのみ。而して、これ最終の目的を達するため、最近の進路たるべし。

四、二〇三局地を攻撃するを得策とする考案もあるが、二十八サンチ砲の如き大威力の砲を有せざる以前に於ては、此高地を占領して旅順の港内を瞰制する必要を感ぜしなり。然るに此高地自らは旅順の死命を制するものに非ず。且つ二十八サンチ砲を有する今日に於ては、港内を射撃するの観測鮎に利用せらるるに過ぎず。

 港内軍艦に對する二十八サンチ砲の威力は、平時に於て予期したる如くならず。又、従って敵艦が如何の程度にまで損害を受くるやを識別することは、二〇三高地よりするも決して正確なる能はざるべし。故にこの高地を占領したる後も、猶今日の如くなるを疑はざるを得ず。寧ろ速かに旅順の死命を制するの手段を捷径となすに如かざるなり。然れどもこの高地に對する顧慮を拠棄せざるは勿論にして、第二項の攻撃を遂行するに當り、助攻撃をこの高地に向くるならん。

六、以上の理由に基き、第三軍をして現在の計画に従ひ、その攻撃を鋭意果敢に実行せしむるを最捷径とす。鋭意果敢の攻撃は、新鋭なる兵力の増加により初めて事実となるを得べく。新鋭なる兵力の増加は、第七師団の派遣に依らざるべからず。(後略)

 つまり、二十八センチ砲が届く以前の砲による旅順港砲撃には二〇三高地を観測点とする必要があったが、二十八センチ砲を得たことで南山坡山を観測点とする旅順艦隊砲撃が可能となった。そこで、二〇三高地を落としてそこを観測点にしたとしても、その砲撃の効果を正確に識別することはできず現状と余り変わらない。といっても、二〇三高地を落とすことを放棄するわけではないが、まずは、東北正面の要塞攻撃を継続することで旅順の死命を制する事が先である、と言っているのです。

 なお、この意見に児玉も同調していることは、児玉がその後の第三軍による旅順港内の艦隊への砲撃を「二兎を追うべからず。二十八サンチは本攻に用ゆべし。無駄弾丸を送るべからず」と中止を命令している事でも明らかです。

 しかし、第三次総攻撃(11月26日)における白襷隊は失敗しました。そこで白襷隊がダメとなれば二〇三高地を攻めるべきでは、という第三軍の要請によって、11月27日から二〇三高地への攻撃が開始されました。30日には一時高地を占領するもまもなく奪還されました。そこで12月1日には児玉が第三軍に来て指揮を執り、同士打ち覚悟の援護砲撃を繰り返すことで、12月5日に二〇三高地を陥落させることができました。

 その時、この二〇三高地から旅順港を見たら、9月30日以来の二十八センチ砲による砲撃で、「旅順の残存艦隊は全て炎上、沈んでいた」(おそらく目視できたのはここまででしょう。ただし、自沈だという説もあります)。また、「弾薬や火薬や大砲は全て陸揚げされ無力となっていた」というのは占領後に確認されたことだと思います。下線部は12/30挿入

 この二十八センチ砲による旅順港への砲撃は9月30日(半藤氏は28日)から10月18日までです。次いで10月26日にはじまる第二回総攻撃から、この二十八センチ砲を使った東北正面の要塞攻撃が開始されました。これにより二竜山堡塁は兵舎が破壊され東鶏冠山堡塁では火薬庫が爆発するなどの大損害を蒙り、日本軍はp堡塁を占領することができました。

 ここで留意しておくべきことは、日本軍は第一次攻撃の段階では要塞戦の戦い方を知らなかったということで、従って、その攻撃法が歩兵の突撃による強襲法となり多大の犠牲を生むことになったのです。しかし、第二次攻撃からは、第一次攻撃の反省を踏まえて急遽攻城戦法を学び、塹壕を掘って進む正攻法に切り替えました。それによって犠牲者の数もずっと少なくなりました。

 問題は、先ほども申しましたが、この二十八センチ砲による旅順艦隊攻撃で、旅順艦隊が無力化されていることがもし判っていたとしたら、東北正面要塞への第二次総攻撃及び二〇三高地への第三次総攻撃は、じっくり時間をかけてより犠牲の少ない攻撃法がとれたのではないか、ということです。これが半藤氏の冒頭の問いにもなっているのではないかと思われます。しかし、第三軍には「旅順を一日も早く攻め落とし、沙河、遼陽における会戦に第三軍も参加しなければならない」という第三の目的もあったわけで、この方面のロシア軍の撃滅が求められていたことは間違いないと思います。それなしでは陸戦での勝利もなかったでしょうから。

 以上、福田恆存の「乃木将軍と旅順後略戦」に引用されている資料を参考に、半藤氏の発した問いについて考えて見ました。この福田氏の論は、繰り返しになりますが、昭和45年12月に発表されたもので、本人も戦史には全くの素人と断った上でのものです。使用された資料も当時のものだけで、特別の資料が使われているわけではありません。にもかかわらず、その論述は、前回紹介したwikiの「旅順攻囲戦」の解説ポイントを押さえたものとなっています。改めて、氏の批評眼の確かさを再認識した次第です。

 で、福田氏のこの論はその締めくくりとして、次のような、私たちが歴史を論じる際に心がけておかなければならないことを説いています。大変重要だと思いましたので、自戒を込めて紹介しておきたいと思います。

 「近頃、小説の形を借りた歴史讃物が流行し、それが俗受けしている様だが、それらはすべて今日の目から見た結果論であるばかりでなく、善悪黒白を一方的に断定しているものが多い。が、これほど危険な事は無い。歴史家が最も自戒せねばならぬ事は過去に對する現在の優位である。

 吾々は二つの道を同時に辿る事は出来ない。とすれば、現在に集中する一本の道を現在から見遙かし、ああすれば良かった、かうすれば良かったと論じる位、愚かな事は無い。殊に戦史ともなれば、人々はとかくさういう誘惑に駆られる。事実、何人かの人間には容易な勝利の道が見えていたかも知れぬ。

 が、それも結果の目から見ての事である。日本海大海戦におけるT字戦法も失敗すれば東郷元帥、秋山参謀愚将論になるであらう。が、当事者はすべて博打をうっていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の「見える目」で裁いてはならぬ。歴史家は当事者と同じ「見えぬ目」を先ず持たねばならない。

 そればかりではない、なるほど歴史には因果開係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は遂に出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び付ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互いに孤立し矛盾して相容れぬものとなるであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はずしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。」

2011年12月23日 (金)

『坂の上の雲』の旅順攻防戦の描写について、やはり、史実を押さえておいた方が良いのでは?

健介さんへ

 改めて『坂の上の雲』の該当部分を読んで見ましたが、司馬遼太郎がこの歴史小説を書いた時点での資料の出所が偏っていたために、史実とはかなりかけ離れた描写になっているようですね。なお、半藤氏が紹介していた資料は、参謀本部編『手稿本 日露戦史』という全51巻の大著で、福島県立図書館にあるそうです。また、『極秘明治三十七八年開戦史』百巻以上のものが、宮中より防衛研究所戦史室にお下げ渡しになっているそうです。

 そういう資料に基づいているのでしょうか、wikiの「旅順攻囲戦」では、『坂の上の雲』の乃木・伊地知無能論に立った旅順攻防戦の様子とは随分違った記述内容になっていますね。折角の機会ですから、以下それを分かりやすくまとめて見ました。NHKのドラマでは『坂の上の雲』の無残なまでの乃木等に対する批判は抑えられていますが、この本を読んだ人はその筋書きで見ますから、お二人の名誉挽回にはならないなあ、と少し気の毒に思いました。

 以下、『坂の上の雲』で旅順攻防戦における乃木批判部分について、wiki「旅順攻囲戦」の記述内容を対比的に書き抜きました。

(旅順攻略戦の意義について)
 旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。 開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。

 開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになった事は、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦のなんたるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。

(旅順艦隊攻撃について)
 第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。

 二八センチ榴弾砲は、9月30日旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した南山披山を観測点として湾内の艦船にあらかた命中弾を与えた。しかし黄海海戦で能力を喪失した艦隊への砲撃はロシア将兵へそれ程の衝撃とはならなかった。それでも良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。

(旅順攻防戦おける28センチ砲の使用について)
*28センチ瑠弾砲を旅順要塞攻撃に用いる事は、第3軍編成以前の5月10日に陸軍省技術審査部が砲兵課長に具申し陸軍大臣以下もこれを認め参謀本部に申し入れていたが、参謀本部は中小口径砲の砲撃に次ぐ強襲をもってすれば旅順要塞を陥落することができると判断してこの提案を取り入れなかった。

 その後8月21日の総攻撃失敗ののち、寺内正毅陸軍大臣はかねてより要塞攻撃に28センチ瑠弾砲を使用すべきと主張していた有坂成章技術審査部長を招いて25ー26日と意見を聞いたのち採用することを決断し、参謀本部の山縣参謀総長と協議して既に鎮海湾に移設のため移設工事を開始していた28センチ砲六門を旅順に送ることを決定したというのが実際の動きである。

 しかし長岡談話によれば、参謀本部側の長岡参謀次長が、総攻撃失敗ののちに28瑠弾砲の旅順要塞攻撃に用いるべきという有坂少将の意見を聞いて同意し、陸軍大臣を説得したと、まったく逆のことになっている。

(203高地占領の時期と意義について)
 第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかし仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。

仮に高地の占領を維持できたとしてもこの時点で第三軍が所持する重砲は15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門、これに海軍陸戦重砲隊の12センチカノン砲6門だけであり装甲で覆われた戦艦を撃沈出来る威力は無い。最大の15センチ砲にしてもこれは海軍では戦艦や装甲巡洋艦の副砲程度の大きさでしかないし艦載砲より砲身が短いので初速、貫通力は劣る[48]。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させられなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。

 艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。

次は、『坂の上の雲』に記された乃木無能論の主な根拠と、最近の研究成果を踏まえたそれに対する反論です。

1 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。

*要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた。

*第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。

*児玉(源太郎)次長の後を任された長岡はのちに「長岡外史回顧録」を纏め、その中で旅順攻略戦について・・・「第一回総攻撃と同様殆ど我になんらの収穫なし」と批判している。しかし、例えば9月の攻撃は、主防御線より外側の前進陣地を攻略対象としたものであり、龍眼北方保塁や水師営周辺保塁また203高地周辺の拠点の占領に成功している。

*また(長岡は)10月の旅順攻撃が失敗に終わったことについては「また全く前回のと同一の悲惨事を繰り返して死傷三千八百余名を得たのみであった。それもそのはずで、一、二、三回とも殆ど同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と述べており、主防御線への攻撃と前進陣地への攻撃の区別もなされず、また強襲法から正攻法へと戦法を変更したことについても触れていない。

2 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。

*日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である。

3 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。

*乃木や伊地知が毎月26日に総攻撃日に選んだことについて、「縁起がいい」とか「偶数で割り切れる、つまり要塞を割ることが出来る」などを理由とした(『坂の上の雲』4巻P381)などを踏まえたものだろうが、真偽不明(筆者)

4 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。

*陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も無視できない。

 また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。

 なお、海軍の要請を受けて、旅順攻撃を主目標としつつも、陥落させることが不可能な場合は港内を俯瞰できる位置を確保して、艦船、造兵廠に攻撃を加えるという方針で煙台総司令部(大山司令官)と大本営間の調整が付いたのは、御前会議を経て11月半ばになってからのことであった。

*司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。その為には港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。

*満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。

 しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みが無くなると決心を変更し203高地攻略を決意する。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。

5 初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。

*203高地については「9月中旬までは山腹に僅かの散兵壕があるのみにて、敵はここになんらの設備をも設けなかった」と述べ、これを根拠として「ゆえに9月22日の第一師団の攻撃において今ひと息奮発すれば完全に占領し得る筈であった」との見解を述べている。この長岡の見解は多くの著作に引用されているが、これは現在の研究によれば否定される。

6 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。

(児玉が第3軍司令部参謀を叱責した件)
*児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ましているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀だし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)

(児玉が28インチ砲の陣地変更を命じた件)
 また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も児玉は実質的には何もしていない。 既に28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更する事は当時の技術では不可能である。実際のところは予備の12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。

(児玉が味方撃ち覚悟の砲撃を命じた件)
 味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら敵味方か確認せずに発砲していた」と証言しており、児玉では無く第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していた事が分る。

(児玉の指揮介入の件)
 攻撃部隊の陣地変更なども為されておらず、上記の様に従来言われる児玉の指揮介入も大きなものでは無かった事から見て、203高地は殆ど従来の作戦計画通りに攻撃が再開され第三軍の作戦で1日で陥落した事になる。

7 戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。

*第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方が出来る。

*白襷隊の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。

 以上、wikiの記述内容を整理してみましたが、歴史の解釈というのは使用する資料次第でこんなにも違ってくるものですね。まあ、『坂の上の雲』は歴史小説ではありますが・・・。

2011年12月20日 (火)

最近のツイートと補足コメント――Nスぺ「メルトダウン」から「金正日死去」まで

 私の場合、ツイートをどう利用するかまだ定まっていません。根拠示さないで意見を述べるのは無責任だと思いますが、簡潔に意見を述べるには便利です。とりあえず、最近私が興味を持ったことをツイートして見ましたので紹介しておきます。(追加コメント)は今回新たに付したものです。

(以下12月19日分)
(金正日死去について)
金正日の死去に対する各国の報道を見ていると、まともな国と異様な国、まともな国民と異様な国民の違いが分かります。立花隆氏が『天皇と東大』で戦前の日本を現在の北朝鮮と比べて、”あれ以上に異様だった。北朝鮮は首領様だが日本は神だった”と言っていますが、これは明らかに言い過ぎですね。

(半藤一利・加藤陽子著『昭和史裁判』について)
半藤一利氏と加藤陽子氏の『昭和史裁判』ざっと目を通したが、両氏とも日中戦争の開始原因を読み間違っていると思った。これは華北分離を強行する日本軍に対する防衛戦で、日本側にとっては日中連携のための親日政権作りだったが中国にとっては侵略であり抗戦する外なかった、ということ。

(両氏は)トラウトマン工作で、蒋介石は日本の和平条件を本気で検討していたが、病気で期限までには対応できなかった。参謀本部の多田らが延長を主張したが広田や近衛が打ち切った、と(する)通説を補強する意見を述べているが、私は、蒋介石は日本軍を信用しておらず、抗戦意志を維持していたと見ている。(参照「トラウトマン和平工作」

確かに日中戦争の根本原因は日本の大陸政策にあるが、日本は(中国と)戦争するつもりはなかった。しかし王道文明vs覇権文明という図式の中で華北分離まで突き進んだことが中国に抗日戦争を決意させた。そして戦争になれば応戦するほかない。昭和天皇の戦争意志はここから生まれた。ではいつ戦争をやめるか。

(結果的にはやめられなかった)ではなぜ日中戦争をやめられなかったか。その根本原因はそれが始まりであった如く「王道文明vs覇権文明」という図式を脱却できなかったから。つまり、中国を主権を持った独立国と認識できなかった。蒋介石は日本のそうした誤りを昭和10年に中央公論「敵か友か」論文で示した。(参照「蒋介石の「敵か友か」中日関係の検討」)が、それでも分からなかった。

(追)この点は昭和史を理解する上で極めて大事なポイントですので、別稿であらためて論じたいと思います。両氏はこの戦争原因を統制派である「一撃派」にあるとし、王道派とも言うべき石原派(多田や堀場など)による華北分離の責任を軽く見ています。

 トラウトマン工作でこの石原派が交渉延期を主張しますが、マッチポンプの論であって一度火のついた戦争は容易なことでは止まらない。蒋介石は上海戦ですでに持久戦争を決意している。12月14日にはすでに王克敏の華北傀儡政権が出来ている。従って、少々交渉を延ばしたところでこの段階で講和が成立したとは思われません。

 何より軍内部が分裂して統制がとれなくなっていたではないか。統帥部も意見が一致していたわけではない。この事実を等閑視して広田や近衛の責任を追求してもはじまらない。もちろん近衛の「対手とせず」は失敗で弁護の余地はありませんが、すでに世論は手を付けられなくなっていた。そんな大火事を引き起こしたのは石原派であって、彼等がそれに小便をかけたからといって免罪されるわけはない、と私は思います。

 また、これに関連してお二人は昭和天皇を「一撃派」と同類視するなど、この紙上裁判において昭和天皇の大元帥としての責任を問い「有罪」と判決しています。しかし、昭和天皇はあくまで明治憲法に従い立憲君主として行動されたのでは。大元帥という立場でも補翼責任者がいたのでは。補弼・補翼者の間で意見対立したら天皇が決裁する責任を負うというのは、天皇親政の考え方ではないか。

 明治憲法の解釈にそうした曖昧な点があった事は事実だが、昭和天皇ご自身は機関説天皇で良いと思っており、その範囲で行動していた。そもそも、天皇親政という言葉を持ち出した軍部は、統帥事項の判断を天皇の裁断に委ねようとしたのではなく、あくまでもそれを自らの統帥権さらには政治支配権を確立するために利用しただけだった。

 挙げ句の果てに自らの内部統制も保持できず軍としての最終案をまとめることができなくなると、その最終決定の責任を、首相また天皇に負わせることで自らの責任を逃れようとした。それが軍が実際にやったことではないか。こんな無責任な軍部の態度を支持できるわけもなく、まして、その責任を昭和天皇に負わすなんてあまりにも公正を失している。

 そもそも、いったん戦争になれば、勝つほかないわけで、君主たる者がそれを願わないわけがありません。その際の片言隻句を取り上げて、その判断の是非を問うなどということは、それこそ君主に”哲人あるいは神”たることを求めていることになるわけで、まあ、なんと過酷なかつ非情な歴史裁判官である事よと思いました。

 この点について山本七平は天皇が「閣議決定」の上奏に拒否権を行使した例は皆無であると言っています。ただし、「内奏」は別で天皇が各大臣に意見を述べたり、重臣を呼んで意見を徴したり、それに対して天皇がご自身の状況判断やご意見を述べられることもあれば、時には叱責されることもある。

 「もちろん天皇の状況判断やご意見が常に正しかったことはあり得ないと私は思っているし、天皇もそう自覚されていたのであろう。というのは、それなるが故に、「憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策を立て、これを規定に遵って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれ外に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する」わけである。

ただ、この「内奏」とそれへの天皇の「応答」は、正確には分からない。というのは、これについて、天皇が何も言われないのは、マッカーサー元帥との場合と同じである。ただ侍従長、侍従武官長が立ち会ったり、またメモを読んだりする場合、また天皇が何かの感想を述べられたりして、それが彼等が「日記」に記している場合にだけ残る。いわば、これはあくまでも「天皇のフリートーキング」であり、正規の機関からの憲法上の手続きを経た「上奏・裁可」ではない。」(『裕仁天皇の昭和史』p336~337)*上3パラグラフ挿入12/21

 もちろん、お二人による先のような有罪判決は、それぞれ資料に基づいた判断でしょうから、読者としてはそれを有り難く利用させていただきますが、私にはその批評の視点は、昭和史という歴史的現実から遊離した大変お気楽で無責任なもののように思われました。

 半藤氏の『あの戦争と日本人』はご本人の体験と史論とがうまくかみ合っていて興味深く読むことができましたが、『昭和史裁判』では半藤氏は加藤陽子氏に付き合いすぎたためか、バランスを失いひっくり返されたような印象ですね。昭和天皇が金属の拠出等をしたことを福沢の帝室論を引用して”細かくて情けない”などと慨嘆していますが、福沢の帝室論における「天皇の万機を統ぶる」行為はあくまで「政治社外のものなり」が前提ですよ。

 私自身は、常識ある日本人は天皇親政なんか信じていなかったと思いますし、政治責任は臣下が負うべきものと考えていたと思います。それを戦後の平和を無償で享受できる人間が、戦中における天皇の「内奏に対する応答」(いわばフリートーキング)について親政責任を問うというのですから、一体どうなっちゃったの?というのが私の率直な感想でした。*下線部12/21挿入

(『謎解き 張作霖爆殺事件』について)
山本七平賞奨励賞に『謎解き 張作霖爆殺事件』が選ばれた。一読してそれに値しないと思った。肝心な部分がノンフィクションではなくほとんど”小説まがい”だから。何処に爆薬がしかけられていたかは探求の余地(「必要」を訂正)はあるが、仮に客車天井裏の爆薬がしかけられていたとしても満鉄線橋脚の爆薬とシンクロ

したと説明しなければならない。これを、本筋はコミンテルンが仕掛け国民党内のルートを通じて張学良が行った”父殺し”で、これに河本が共謀したため実行犯にさせられた。つまり、この事件はコミンテルンのトラップだというわけですが、騙されるにも「程(ほど)がある」話で、日本の弁護にはなりませんね。

(追)この件で、まず調査すべきは、爆弾が車内にしかけられていたかどうかですね。全てはその後だと思います。

(半藤一利著『あの戦争と日本人』について)
「坂の上の雲」がNHKで放映されていますが、203高地の戦いについて、12月5日高地を占領し旅順港を見下ろした所、敵艦隊はすでに壊滅していた!なんと9月28日から10月18日までの28インチ砲による山越の砲撃で・・・。この事実は隠蔽されてきたが、ドラマでは従来の説のままでした。

また、日本海海戦において、ロシア艦隊が対馬海峡に来るかそれとも津軽海峡かで、東郷は対馬海峡とし微動だにしなかったことで名将とされる。が、事実は5月25日開封の密封命令で津軽に向かうとした。しかし第二艦隊参謀長藤井らに説得され開封を24時間延期。ドラマではそのように修正されていた。

(ところで)203高地の戦いについて、12月5日高地を占領し旅順港を見下ろした所、敵艦隊はすでに壊滅していた!という話、半藤氏の『あの戦争と日本人』にあった。つまり二万に及ぶ兵士の死は無駄だったというわけだが、にわかには信じられない。なぜ、艦隊壊滅が分からなかったか、不思議な話です。

(追)ドラマでは、203高地を占領した兵士が”旅順港は丸見えです”と叫ぶシーンがありました。こちらは小説のままで訂正されていないわけですが、やはりこの説は無理があると判断されたのでしょうか。

 というのは、28インチ砲の射程は分かっていたはずで、それによる旅順港砲撃の結果も分からないはずがない。となると、旅順要塞及び203高地占領の目的は別にあった、ということになりますが、ではなぜ、あんな犠牲の多い戦法を採用したのか分からなくなります。

(李明博大統領と慰安婦問題について)
@ikedanob 慰安婦問題についての事実論を再度公開ガチンコ論争の形でやっておく必要があるのではないでしょうか。

(追)事実論をしっかり押さえておくことがいかに大切か、ということですね。韓国は日本に儒教的「義」への応答を、”そういう事実があった”ということを前提に、日本国政府に求めているわけです。従って、再度、その事実の確定作業を、まず国内でやる必要があると思います。日本的な「相互懺悔・相互告解方式」は国外では通用しないのですから。

(Nスぺ「メルトダウン」での「イソコン」について)
@inosenaoki 当時の報道で全電源喪失後も機能するはずのイソコン(非常時緊急冷却装置)の存在について確認なりアドバイスなりをした専門家はいましたかね。

(追)東電の責任のみならず、専門家や、政府の対応のまずさも次第に明らかになってくるでしょうね。それにしても本来機能集団であるべきものが共同体化し自分たちを守るための生活集団と化すという日本組織の宿弊は、今回の事故を教訓として徹底的に改める必要がありますね。大阪の橋下氏がやろうとしていることもそれだと思いますが、そのポイントは組織目的の明示とその不断の検証と共有ということだと思います。

 つまり、日本もリーダーを必要としているということですね。日本の課題は、そうしたリーダーを今後どのように創っていくのか、ということだと思います。その点、「科挙」的身分制ではない、任免自由な上級公務員制度を作る必要がありますね。それにしても、いわゆる現状維持派の情けないこと。橋下氏の話では、”やめる”といってやめたひとは府知事時代一人もいなかったとのこと。”武士に二言はない”というのは一体何処の国の言葉だったのでしょうか。

2011年12月14日 (水)

山本七平の天皇制理解について8――「近代の超克」をめざした尊皇思想はなぜ独善的・排他的になったか

 前回は、「日本人を大量『転向』させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか?」ということを、昭和12年に文部省が出した『国体の本義』に見てみました。これは次の三つの主張から構成されていました。第一の「大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳について。第二の「国史に於ける国体の顕現」は、この思想がどのように生まれてきたか、また、そのあるべき政治・経済・軍事のあり方について。第三の「結語」は、そうした日本の「国体」を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化する大切さに言及したものでした。

 この三つの主張の内、第一、第二は、いわゆる尊皇思想を江戸時代に形成された皇国史観に基づいて述べたものです。これは、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容していく過程で生まれたものです。しかし皮肉なことに、それが逆に、幕府を倒して天皇中心の中央集権国家を作る明治維新の革命のエトスに転化しました。また、こうして明治維新が成功し新政府が樹立されると、この思想が掲げていた攘夷は実行されず、さらに、それが理想としていた天皇親政は採用されず、実質的に明治憲法下の立憲君主制として運用されることになりました。

 また、三番目の「結語」では、こうして西欧の個人主義・自由主義が日本に流入することとなり、資本主義経済や政党政治が導入されたこと。そのため、個人の価値が偏重され、伝統的な奉仕の精神や和の精神が損なわれて利己主義が蔓延し、貧富の差が拡大し、党派や階級間の争いが常態化するようになったこと。そして、これらの弊害を除去するためには、かっての尊皇思想が主張し結果的に挫折した天皇親政が回復されなければならないことが述べられています。といっても、それがいたずらに排外主義的になることを戒めてはいますが・・・。

 ここで注意すべき事は、そうした西欧化の弊害を除去する方策として、天皇親政の回復が主張されてはいますが、それは多分に、統帥権の独立を主張する軍の思惑を反映するものだったということです。といっても、明治以降の近代化の流れの中で、日本人の自己抑制的な規範意識が低下した事は事実です。また、第一次世界大戦後の戦後不況やそれに引き続く世界恐慌、さらに冷害による農村疲弊等が重なって発生した難問に、普通選挙(昭和3年に第一回選挙が行われた)実施後の日本の政党政治が、適切に対応できなかったことも事実です。

 これが、満州事変以降、日本国民が政治家よりも軍人を支持するようになった理由ですが、国体明徴運動以降、こうした難問を思想的に解決するとして復活したのが、この尊皇思想だったわけです。というのは、この思想は、万世一系の天皇を宗主とし一君万民平等を基本理念とする家族主義的国家観を持っていて、この伝統思想こそが、先に述べたような日本の近代化に伴う難問を解消する上で有効であると考えられたのです。この思想は、昭和7年以降、平泉澄を通して次第に軍部に浸透し、盧溝橋事変以降日本が戦時体制に突入する中で、次第に国民の間に浸透していきました。

 以上述べたように、尊皇思想は、国家社会を家族関係に同定し、君臣関係を親子関係になぞらえることで、いわゆる「忠孝一致」を説いていました。また、こうした日本「国体」の有り様は、日本神話における神々の「国生み」以来、万世一系の皇統によって支えられてきたもので、万邦無比であるとされ、ついには、これを世界的に拡張して天皇を中心とする「八紘一宇」の家族的世界観を唱えるに至りました。その結果、国民には「忠孝一致」から「殉忠報国」さらには「滅私奉公」が求められるようになったのです。

 また、そうした家族的国家観に基づく統治観念は、天皇親政という言葉に象徴されるように、天皇の「大御心」による一君万民平等の直接統治を理想としていました。そのため、幕府政治はその正統から逸脱した「変態」であるとされました。そこで、天皇親政の復活を企図した建武の中興の後醍醐天皇が理想化され、その後醍醐天皇を助けた河内の土豪楠木正成が忠臣とされ、後に、後後醍醐天皇の親政に反対して反旗を翻し、南朝に対する北朝を樹立した足利尊氏が「大逆無道」の逆臣とされたのです。

 もちろん、こうした歴史観は、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容する過程で生まれたもので、日本の歴史を正しく反映するものではありません。いうまでもなく日本の歴史の独自性は、武家が樹立した幕府政治によって形造られたもので、天皇制のあり方もそれに伴って変容したものです。それは、建武の中興が失敗して以降、幕府権力から分立して非政治的・文化的象徴天皇制へと変化しました。それが先に述べたような事情で、徳川幕府政権下、天皇による直接統治が正統とされるようになったのです。

 しかし、こうした天皇による直接統治の正統性の主張は、当初は朱子学の正統論によっていましたが、これに対する反発が生じるようになると、その正統性の根拠を、記紀神話に由来する万世一系の天皇制に求めるようになりました。これを文献学的に裏付けたものが国学でした。といっても、国学は、天皇による祭政一致の政治を称揚しつつも、幕府を天皇の征夷大将軍任命下に位置づけることで認めました。一方、朱子学の正統論を引き継ぐ崎門学からは、天皇への絶対忠誠をエトス化する思想が生み出されました。

 その結果、国学の天皇を中心とする祭政一致の政治観と、崎門学系統の浅見絅斎らによる天皇への絶対忠誠を求める思想とが結びつくことで、朱子学の正統論から出発した水戸学が後期水戸学へと変容していったのです。この後期水戸学が生んだ国家観が、先に述べた万世一系の天皇を宗主とする家族的国家観だったのです。それが、幕末の攘夷思想と結びついて尊王攘夷論となり、さらに幕府が開国策をとったことを契機として、水戸学の範疇を超えた尊皇倒幕論へと発展していったのです。

 つまり、以上のような歴史的経緯を経て生まれた日本の「国体」観と、そこにおける天皇による直接統治の正統性を歴史的に証明しようとしたのが、先に述べたような尊皇思想の歴史観だったのです。こうした歴史観はまず水戸学で説かれ、それが後期水戸学において家族的国家論となり、さらに平田篤胤の「復古神道」によって、国学の「祖先神」的神概念が「絶対神」化された結果、「天皇は絶対神の直系、従って日本は絶対」という超国家主義への危険性を孕むことになりました。

 「元来神道には、体系的・普遍的要素がなく、従って外来の宗教混交思想の受容が可能であったわけだが、これが絶対神という概念と結合して絶対化すると、普遍主義的思想ではないため、極端な拝外思想になって不思議ではない。そのためこれ以降の『日本神国論』は、この平田神学の発想を基に、廃仏・廃儒・廃キリスト教・廃西欧、日本絶対という形に進んでも不思議ではないのである。」(『受容と排除の軌跡』P167)いわば日本の伝統思想が状況倫理に陥りやすいことが、一方で、全体主義的への傾斜を強めることにもなっているわけですね。昭和の「現人神天皇制」もその現れです。

 その点、『国体の本義』では、この「現人神」の定義について、それは西欧の絶対神という意味ではないとして、次のような注釈を施しています。

 「かくて天皇は皇祖皇宗の御心のまにまにわが国を統治し給う現御神(あきつかみ)」であらせられる。この現御神(明神)あるいは現人神と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか全知全能とかいうが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」

 また、この尊皇思想がいたずらに排外主義的な性格を持つことを警戒して、『国体の本義』の「総括」では、

 「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。」

 「現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。」「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」
 と、述べられています。

 この「総括」を見ると、この時期の日本が、なんとかして明治以来の「西洋崇拝」の弊害を克服し、独自の思想的・文化的基盤を確立しようともがいていたことが分かります。そして、これを達成するための思想的・文化的淵源となるものとして支持されるようになったものが、平田篤胤流の復古神道(神道と基督教を習合させたような日本神話の創造神的解釈)をベースとする、絶対的・排外主義的尊皇思想であったわけです。

 そのため、こうした「総括」の抑制的書きぶりにも拘わらず、第一の「大日本国体」や第二の「国史に於ける国体の顕現」で説かれた国体思想は、次第に排他的・独善的性格を強めることになりました。さらに、その統治主体とされた天皇は神格化され、その「国体」は万邦無比となり、世界はこの天皇の下に「八紘一宇」の世界家族共同体を形成すべき、とされるようになったのです。

 また、こうして神格化された天皇や万邦無比の「国体」に対して、国民の忠君愛国・滅私奉公・生死一如の忠誠が求められるようになりました。また、政治制度としては天皇親政が当然とされるようになり、明治憲法に基づく立憲君主制下の政党政治が否定され、全政党が自主的に解散することになりました。さらに、三権分立の権力の相互牽制機関である議会や裁判所も、天皇親政を補翼する機関とされるようになりました。

 あるいは、こうした全体主義的な政治体制の編成は、総力戦下の国家総動員体制の有り様としては有効に機能した部分もあったかも知れません。しかし、以上のような「独善的・排外主義的」尊皇思想に基づくこうした政治体制の編成は、結局、意味不明な日中戦争を防止することも、また中止することもできず、それどころか、加えて英米との全面戦争に突入するという無謀を、あえて選択したのです。

 ここでは明らかに、日本の国益をリアル・ポリティクスに基づいて冷静に追求すべき政治家の責任が閑却されていました。それは、「支那事変は自己の利害を超越したる道義戦」などといった空疎な言葉によって”粉飾”され、その実態を見る事ができなくなっていたのです。この事実を指摘したのが衆議院議員斉藤隆夫で、彼が大東亜戦争開始直前に書いた『日本はどうなるか』には、次のようなことが記されています。

 「望むところは領土や償金や資金にはあらずして、東亜の新秩序である。而してその新秩序の内容は何んであるかと思えば、共同防共と善隣友好と経済提携と、この三原則の外には出でないというのである。ここに於て国民の頭に浮び出づる最初の疑は、それならば何も戦争をやらなくとも、戦争以外の方法に依りて彼我共に此の目的を達する手段があるではないか。」(『評伝 斉藤隆夫』松本健一p354)

 これは政治家として当然の指摘です。こうした見方は、もし当時の政治家が軍におもねるようなことがなければ、当然にできたはずなのですが・・・。斉藤は続けて次のように言っています。
 
 「仮に、支那事変なくして今回ヨーロッパ戦争(第二次大戦)が始まったとするならば、我が国は如何なる立場に在るであろうか。

 国力を内に貯え、倣然として世界に臨めば、英と言わず米と言わずソ連と言わず其の他世界各国は、競って我が国の脚下に膝まづきて我が国の歓心を求むべく、我が国に於ける富の増進は第一次ヨーロッパ戦争(第一次大戦)に比して十倍に上るは無論のこと、之に依りて国力の強化は言うに及ばず、世界の指導権を獲得して東亜新秩序の建設や共栄圏確立の如きは労せずして手に握ることを得るは、鏡の懸けて見るが如きものである。

 然るに、誤って支那事変を惹起しえに向って国力を傾倒せねばならぬのみならず、事変の前途は暗浩として全く見透しが付かない。其の上、是が原因となりて我が国の周囲に敵性国家が現われ、経済封鎖を断行し、対日包囲陣を形成して、じりヽと我が国を圧迫せんとするのが、今日の現状である。」(上掲書p355)

 これも上記の指摘と同様、政治家としては当然の指摘です。ところが、こうした斉藤の、観念論を排してリアル・ポリティクスに徹すべしとするの主張は、当時もそうでしたが、今日においても、一般的にはなかなか理解されないのが実情です。

 そのため、斉藤が二・二六事件直後の2月28日になした「粛軍演説」については、これを高く評価するものは多いのですが、昭和15年2月2日に行った米内光政内閣に対する「支那事変処理に関する質問演説」については、この中で斉藤が、国家間の競争を「道理の競争でも正邪曲直の競争」ではなく、あくまでも「優勝劣敗、適者生存」であると主張したことについて、この事実を無視するものが多いとのことです。
 
 しかし、私は、こうした「リアル・ポリティクスを徹底すべし」とする斉藤の主張は、昭和12年の「粛軍演説」とセットで理解すべきものであり、それはあくまで、国家競争が戦争に発展した段階における理論として理解すべきものであると思います。こう考えれば、「昭和の悲劇」をもたらしたその最大要因は、斉藤が指摘した通り、国家競争及び戦争の論理をリアルに認識できず、これを道義的・空想的言辞で説明した尊皇思想のリアリズムの欠如にあった、ということがいえると思います。

 この点、昭和における超国家主義イデオローグの巨頭とされた北一輝や大川周明の場合は、こうしたリアリズムの欠如した尊皇思想には全く囚われておらず、それぞれ独自のよりリアルな日本歴史認識をもっていて、「総括」に述べられたような難問の解決にあたっていました。それ故に、両者共、日中間の戦争はもちろん対米英戦争を(北一輝は理論上、大川周明は外交上)なんとしてでも阻止しようとしたのです。なお石原完爾の場合は、彼が信じた田中智学の「神道・日蓮宗」習合的な国体観が、平田篤胤の「神道・基督教」習合的な国体観と極めて似ていたために、自ずとその外交政策は、独善的・排他的(排欧的)なものになりました。

 従って、このような彼等の日本歴史観を点検するのも大切になってくるのですが、それは後日を期すこととして、次は、このように軍人だけでなく全日本人を巻き込むことになった尊皇思想がどのような思想史的系譜の中で生まれてきたのかを、より詳しく見てみたいと思います。その目的は、現代の私たちをも無意識的に呪縛しているように見える「尊皇思想」から自由になること。そして、歴史的事実に根ざしたよりリアルな後期天皇制についての理解を、より一層深めるためです。

2011年12月 9日 (金)

山本七平の天皇制理解について7――日本人を大量「転向」させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか?

 まず、なぜ戦前昭和期において「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったか、について考えてみたいと思います。もしこれが、軍人のみに都合の良い考え方であって、戦時体制下、国民精神を総動員するための方便に過ぎないものであったのなら、国民は強制されたか”騙された”ということで済みます。しかし、実際はそうではなくて、多くの国民が「現人神天皇制」下の天皇親政イメージや、そこで説かれた国民精神の有り様を支持したことは間違いないのです。

 そこで、「現人神天皇制」下の天皇親政イメージ(所謂国体観念)とは具体的にどのようなものであったかということですが、前回申しましたように、こうした思想が一般国民の間に浸透するようになったのは、天皇機関説排撃に引き続く体明徴運動以降のことです。もちろん、それ以前に不敬罪(1880)や大逆罪(1882)の制定もあります。また、教育勅語制定(1890)以降の教育の場における御真影の奉拝(1891)という問題もあります。しかし、これらはまだ刑法や教育の問題に止まっていました。

 これが、政治上の問題となってくるのは、明治44年の南北朝正閏問題(1911)以降のことで、直接的には、共産主義に対する警戒心から、日本人の思想及び「国体観念」のあり方が問われるようになったのです。大正14年(1925)には治安維持法が制定され、昭和3年には共産党の大量検挙者を出した三・一五事件が起こりました。さらに、これが大学教授の学説に及ぶようになったのが昭和8年の滝川事件で、昭和9年には右翼蓑田胸喜らが美濃部達吉の著書『憲法撮要』を国体破壊にあたるとして不敬罪で告発しました。

 しかし、当時の学界や官界では美濃部の学説が定説とされていてこれは不起訴となりました。そこで蓑田は貴族院の菊池武夫に美濃部の天皇機関説を攻撃させ、これを政治問題化しようとしました。結果は、国会論戦で美濃部が菊池を圧倒しましたが、政治的には「機関説」という言葉が天皇の「神聖性」を犯すとして忌避され、貴族院と衆議院で機関説排撃「国体明徴」決議案が可決(s10.3)、続いて政府による二度にわたる「国体明徴」声明、翌年5月には、文部省より『国体の本義』が刊行されるに至りました。

 つまり、この天皇機関説排撃を契機に、それまで三十年来唱導され、学界、官界、政界に定着していた明治憲法における天皇の国家法人説に基づく機関説的理解が、あくまで心情の問題として根底から覆えされるに至ったのです。その結果、それまでの日本の思想・政治・教育・宗教などのあり方が、皇国史観に基づく尊皇思想の観点から根本的に見直されることになりました。その後、肇国の精神、万邦無比の国体、祭政一致、現人神、天皇親政などの意味不明の言葉が国民の間に徘徊するようになりました。

 一体、この時日本人の思想に何が起こったのかということですが、不思議なことに、一種の国民的「転向(=「回心)」が起こったのです。では、その時の思想はどのようなものだったか、ということが問題になりますが、実はこれがよく判らない。その唯一の解説が、文部省が出した『国体の本義』ではないかと思われますので、次に、それを紹介します。本文はかなりの長文ですので、そのエッセンスを書き抜きます。( )内の小見出しは筆者です。(参照「国体の本義」)

「第一 大日本国体
一、肇国
(肇国の精神)
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

二、聖徳
(皇祖の御徳)
 伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固成は、その大御心を承け給うた天照大神の神勅によつて肇国となり、更に神武天皇の御創業となり、歴代天皇の大御業となつて栄えゆくのである。・・・天照大神の御徳を日本書紀には「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」と申し上げてゐる。天皇はこの六合の内を普く照り徹らせ給ふ皇祖の御徳を具現し、皇祖皇宗の御遺訓を継承せられて、無窮に我が国を統治し給ふ。而して臣民は、天皇の大御心を奉体して惟神の天業を翼賛し奉る。こゝに皇国の確立とその限りなき隆昌とがある。

三、臣節
(臣民の道)
 我等は既に宏大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

(忠孝一致)
 我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。

四、和と「まこと」
(和の精神)
 我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。和の精神は、万物融合の上に域り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあつて和は生じない。個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。

(家族の和)
 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

(社会生活の和)
 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

(国の和)
 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

第二 国史に於ける国体の顕現
一、国史を一貫する精神
(万邦無比の国体)
 ・・・我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、
 大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。
と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。

(政治の変態)
 源頼朝が、平家討減後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。それ故、明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜へる勅諭に於て、幕府政治について「且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と仰せられ、更に「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり」と御誡めになつてゐる。

(北条氏の不遜)
 源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。

(建武の中興)
 併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた。当時皇室に於かせられて、延喜・天暦の聖代に倣つて世を古に復さんと志し給うたことは、種々の文献に於てうかゞふことが出来る。実に建武の中興は、遡つては大化の改新と相応じ、降つては明治維新を喚び起すところの聖業であつて、これには天皇を始め奉り諸親王の御尽瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。

(忠臣)
 即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等があつて、回天の偉業が成就せられた。わけても楠木正戌の功業は、永く後人の亀鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠戦にありと感じ仰せられければ」、正成畏まつて「是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣争か尺寸の謀を以て強敵の囲を出づべく候乎」と奉答したと見えてゐる。

(足利氏の大逆無道)
 以上の如き建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。

(朱子学の採用)
 徳川幕府は朱子学を採用し、この学統より大日本史の編纂を中心として水戸学が生じ、又それが神道思想、愛国の赤心と結んでは、山崎闇斎の所謂崎門学派を生じたのである。闇斎の門人浅見絅斎の靖献遺言、山鹿素行の中朝事実等は、いづれも尊皇の大義を強調したものであつて、太平記、頼山陽の日本外史、会沢正志斎の新論、藤田東湖の弘道館記述義、その他国学者の論著等と共に、幕末の勤皇の志士に多大の影響を与へた書である。

(国学の成立)
 儒学方面に於ける大義名分論と並んで重視すべきものは、国学の成立とその発展とである。国学は、文献による古史古文の研究に出発し、復古主義に立つて古道・惟神の大道を力説して、国民精神の作興に寄与するところ大であつた。本居宣長の古事記伝の如きはその第一に挙ぐべきものであるが、平田篤胤等も惟神の大道を説き、国学に於ける研究の成果を実践に移してゐる。徳川末期に於ては、神道家・儒学者・国学者等の学銃は志士の間に交錯し、尊皇思想は攘夷の説と相結んで勤皇の志士を奮起せしめた。実に国学は、我が国体を明徴にし、これを宣揚することに努め、明治維新の原動力となつたのである。

二、国土と国民生活
(国土愛)
 我が国土は、語事によれば伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の生み給うたものであつて、我等と同胞の関係にある。我等が国土・草木を愛するのは、かゝる同胞的親和の念からである。即ち我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである。

三、国民性
(わが国の風土)
 我が国の風土は、温和なる気候、秀麗なる山川に恵まれ、春花秋葉、四季折々の景色は変化に富み、大八洲国は当初より日本人にとつて快い生活地帯であり、「浦安の国」と呼ばれてゐた。併しながら時々起る自然の災禍は、国民生活を脅すが如き猛威をふるふこともあるが、それによつて国民が自然を恐れ、自然の前に威圧せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛錬する機会となり、更生の力を喚起し、一層国土との親しみを増し、それと一体の念を弥々強くする。

(没我・無私の精神)
 わが国民性には、この没我・無私の精神と共に、包容・同化の精神とその働とが力強く現れてゐる。大陸文化の輸入に当つても、己を空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神がこれを統一し同化してゐる。この異質の文化を輸入しながら、よく我が国特殊のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。

四、祭祀と道徳
(現人神天皇)
 我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である。天皇は、神をまつり給ふことによつて天ッ神と御一体となり、弥々現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。

(武士道の精神)
 我が国民道徳の上に顕著なる特色を示すものとして、武士道を挙げることが出来る。武士の社会には、古の氏族に於ける我が国特有の全体的な組織及び精神がよく継承せられてゐた。故に主として儒教や仏教に学びながら、遂によくそれを超えるに至つた。即ち主従の間は恩義を出て結ばれながら、それが恩義を超えた没我の精神となり、死を視ること帰するが如きに至つた。

(生死一如)
 そこでは死を軽んじたといふよりは、深く死に徹して真の意味に於てこれを重んじた。即ち死によつて真の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。然るに生死を対立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。

五、国民文化
(革命思想)
 我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取醇化して来た。支那の明時代に著された五難爼に、経書のうち孟子を携へて日本へ往く者があれば、その船は必ず覆溺するといふ伝説を掲げてゐる如きは、凡そ革命思想が我が国体と根本的に相容れないことを物語るものであり、我が不動の精神とこれに基づく厳正な批判との存することを意味してゐる。

(知行合一)
 教育は知識と実行とを一にするものでなければならぬ。知識のみの偏重に陥り、国民としての実践に欠くる教育は、我が国教育の本旨に悖る。即ち知行合一してよく肇国の道を行ずるところに、我が国教育の本旨の存することを知るべきである。諸々の知識の体系は実践によつて初めて具体的のものとなり、その処を得るのであつて、理論的知識の根柢には、常に国体に連なる深い信念とこれによる実践とがなければならぬ。

六、政治・経済・軍事
(祭政一致)
 我が国は万世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。・・・即ち祭祀の精神は挙国以来政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも厳粛に執り行はせられる。これ皇祖肇国の御精神を体し、神ながら御世しろしめし給ふ大御心より出づるものと拝察し奉るのである。実に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である。

(天皇親政)
 尚、帝国憲法・・・その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

(臣民の権利義務)
 帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹述に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫慈養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大和心より打出づるのである。

(三権分立)
政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。

(議会)
議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。

結語

(西欧の個人主義批判)
 個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。

 今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。

(支那思想批判)
 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。

 
(インド仏教批判)
 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。

(わが国の国体)
 「我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。

(西欧の政治経済思想)
 西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。

 かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。(また)個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。

(西欧の政治経済思想が日本に及ぼした影響)
 西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。

 この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。

 利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。

(個人主義の功績と欠陥)
 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。

 併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

(個人主義の是正)                                  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。

(我が国民の使命)                                 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

(国体明徴)                                       現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

(世界文化への貢献)                                 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。」

 以上、引用が長くなりましたが、「第一 大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳、「第二 国史に於ける国体の顕現」は、それらの精神がどういう歴史的変遷を経て生まれてきたかを皇国史観に基づいて説明しています。その上で、あるべき政治・経済・軍事のあり方を示しています。そして「結語」では、そうした「国体」精神の有り様を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化することの大切さを説いています。

 言うまでもなく、こうした日本人の思想的大量転向は、当時日本が直面していた政治、経済、外交問題をより適切に処理するためのものであったはずです。ところが実際には、親善・友好・互恵の関係を結ぶべき中国との泥沼の持久戦争に突入することになり、挙げ句の果ては英米との戦争を余儀なくされるに至りました。ということはこうした思想改造自体に問題があった、ということになりますが、次回はそのあたりを、もう少し詳しく見てみたいと思います。

 

2011年12月 3日 (土)

田中聡沖縄防衛局長の不適切発言について――二次会でのオフレコ?発言をマスコミはどう扱うべきか

 このことについて、国会が大騒ぎをしていますが、私の印象としては、そもそも、酒席での、それも二次会でかなり酔っ払った状態での当局者の発言を、マスコミはどう扱うべきなのか。「オフレコ」条件で内情を話した、ということになっていますが、素面で内情を語ったのとは違って、いわば、二次会での「酔狂」であって、それをまじめに取り上げ大騒ぎする必要が一体何処にあるのか、というものでした。

*一次会という報道もある。12/3

 結論を先に言えば、事の真相は次のようなものだったのではないでしょうか。

 「田中氏は、日本のマスコミとどう付き合うべきか、十分な教育訓練を受けておらず、また外交的経験もなく、たまたまそういうポストに就いたため舞い上がり、はしゃぎ過ぎて誤解を招きやすい不用意な発言をした。それを、「米軍普天間飛行場移設に関する環境影響評価書」の提出を阻止することでこの移設計画の進行を阻止したい地元マスコミに、沖縄の少女暴行事件とを結びつけられ、あたかも日本政府が沖縄をレイプしようとしているかのような話に仕立て上げられた・・・。」

 というのは、私が最初に、次の読売の記事を読んだ時、一体、田中氏はこの時何を言おうとしたのかと疑問に思ったからです。

2011年11月29日(火)13時11分配信 読売新聞
問題発言した田中局長(8月26日)

 「沖縄防衛局の田中聡局長(50)は28日夜、沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた環境影響評価書の県への提出時期を一川防衛相が明言していないことについて、女性を乱暴することに例え、「犯す前に『やらせろ』とは言わない」と発言した。

 ただ、「許可なしにやれば犯罪となる」とも語り、提出時期は沖縄の理解を得ながら判断する必要があるとの考えを示したものだが、女性の人権を侵害するとも受けとれる発言に、沖縄から反発の声が強まりそうだ。」

 ここでは、「沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた環境影響評価書の県への提出時期」が問題になっているわけですが、では、なぜ記者が、田中氏にこの提出時期を尋ねたかというと、記者は、政府がそれを本年度中に沖縄県に提出しようとしているのを阻止したいと思っており、そこで、この問いを田中氏に投げかけたわけですが、田中氏はこれに対して、沖縄の「許可なしにやれば犯罪になる」というような意味のことを男女関係に例えた言い方で、この記者の問いに迎合的に答えた・・・。

 そう考えないと、前段の「犯すまえに『やらせろ』とは言わない」という言葉の意味が理解できなくなるからです。というのは、そもそも、田中氏としては、なんとかして政府の日本の安全保障上の立場を沖縄に理解してもらいたいと思っているわけで、政府の沖縄に対する誠意をうまく説明したいという気持ちはあっても、政府と沖縄の関係を、男性が女性を犯す話に例えて、それをぶち壊そうなどと考えるはずがないからです。

 そのあたりについて、本人は、次のように弁明しています。

2011年11月29日(火)21時30分配信 読売新聞
 田中聡沖縄防衛局長の不適切発言を巡る、防衛省の聴取結果は以下の通り。

 「居酒屋での記者との懇談において、評価書の準備状況、提出時期等が話題になり、私から、「『やる』前に『やる』とか、いつ頃『やる』とかということは言えない」「いきなり『やる』というのは乱暴だし、丁寧にやっていく必要がある。乱暴にすれば、男女関係で言えば、犯罪になりますから」といった趣旨の発言をした記憶がある。

 自分としては、ここで言った「やる」とは評価書を提出することを言ったつもりであり、少なくとも、「犯す」というような言葉を使った記憶はない。

 しかしながら、今にして思えば、そのように解釈されかねない状況・雰囲気だったと思う。

 私としては、女性を冒とくする考えは全く持ち合わせていないが、今回の件で女性や沖縄の方を傷つけ、不愉快な思いをさせたことを誠に申し訳なく思い、おわび申し上げたい。」

 つまり、 「犯す」というような言葉を使った記憶はないが、評価書の提出時期について、「やる前に、いつ頃やる」というような「すでにそれが決まっている」かのような言い方はできないといった。それは乱暴なやり方だから、丁寧にやっていく必要がある。そのことについて、政府が、沖縄の了解を得ないままに一方的に調査書を送りつけるようなことは、「男性が女性に乱暴するようなことで犯罪に相当する」というような趣旨の発言をした、と言っているのです

 そうは言っても、誤解を招きやすい乱暴な言い方をしたことは事実だし、それが誤解を招いていることは事実だから、そうした表現をして、「女性や沖縄の方を傷つけ、不愉快な思いをさせたことは誠に申し訳なく思い、お詫び申し上げたい」と言っているのです。

 では、なぜ、こんな誤解を招きやすい不適切な表現になったかというと、週間フライデーの記事(http://blogos.com/article/25946/)によると、その前段の会話に、「1995年の少女暴行事件については、当時米側関係者が、馬鹿な事をしたものだ、タクシーに乗って逃げる金があったら女を 買えたのに、という発言をして問題になった」ことが話題になっていたということです。あるいは、そうした会話の流れの中で、そうした不適切な表現になったのかも知れませんね。

 また、田中氏は同じ席で、「政治家は分からないが(防衛省の)審議官級の間では、来年夏までに普天間の移設問題で具体的な進展がなければ(普天間の代替となる)辺野古移設はやめる話になっている。普天間は何もなかったかのようにそのまま残る」とも述べています。【防衛局長不適切発言】田中氏を更迭 女性や沖縄を侮辱(2011.11.29)

 つまり、田中氏は、「来年夏までに普天間の移設問題で具体的な進展がなければ(普天間の代替となる)辺野古移設はやめる話になっている」という防衛省審議官の間での話を記者達に伝えることで、なんとか、そんなことにならないよう、来年の夏までにはこの問題を決着したい。そのためには、政府の「沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設に向けた環境影響評価書」を沖縄には受け取ってもらいたい、ということを言っているのです。

 これは、私が先に述べた「田中氏としては、なんとかして政府の安全保障上の立場を沖縄に理解してもらいたいと思っているわけだから、政府の沖縄に対する誠意を訴える気持ちはあっても、政府と沖縄の関係を、男性が女性を犯す話に例えるはずがありません」という解釈の妥当性を裏書きするものだと思います。

 まあ、以上が、「常識的な解釈」ではないかと私は思いますが、それを「犯す前に『やらせろ』とは言わない」とだけ報道すると、田中氏は、評価書の提出時期はいつになるかと記者に聞かれたその答えとして、「実は政府は沖縄を(女性を犯すように)犯そうと思っているが、今から沖縄を犯そうと思っている政府が、いつ貴方を犯しますよ、などとというはずがない」と言ったことになってしまいます。(ほとんどの人がこう解釈しているようですが、それは田中氏が酒乱か異常人格でない限りあり得ないことです。)

 私は、仮にそういった発言があったとしたら、それは「犯すつもりなら黙ってやるでしょう。しかしそのつもりはないから十分話し合ってやります(=調査書を提出する)という意味の、逆説的表現だったのではないでしょうか。それが、今回のような報道になったのは、端的に言えば「その新聞記者がそのように解釈したかった」ということではないでしょうか。しかし、それは、田中氏の発言の全体構造から常識的に判断される解釈とはおよそかけ離れたものになっていると思います。その悪意に満ちた解釈・・・私にはこれはほとんど「捏造」に近いように思われますが・・・。

 また、こうした指摘をするマスコミや政治家にほとんどお目にかかれないのは、いかに日本のマスコミや政治家が、こうした見え透いた言論操作に弱いか、というより、意図的にそうした操作をやることが常習化している、というべきかもしれません。

 おそらく、田中氏は、冒頭に述べたように、日本のマスコミのこのような体質に対してあまりに無警戒であったために、不用意に、記者の思惑に迎合してしまい、このような誤解を招きやすい表現をしたのではないかと思います。それにしても、宴会の二次会で”オフレコ”談話をするなど不見識という他ありませんし、こんな無防備なことで日本の防衛ができるのか疑問に思わざるを得ませんが。

 なお、今回の問題については、記者の「オフレコ」破りの報道姿勢を批判する田原総一郎氏のような意見もあります。(「劣化するマスコミ、「失言」報道はナンセンスだ」)
当然のことだと思いますが、現在の「犯すまえに『やらせろ』とは言わない」という田中発言解釈に異議をはさむことを圧殺するような「空気」支配に陥っては、「人間の思考の自由」を放棄することになりますので、こうした「オフレコ」破り報道が、結果的にどういう事態をもたらすのか、次の山本七平の文章を紹介しておきたいと思います。

 なお、今回の「オフレコ」破り報道を正当化する理屈としては、「オフレコであっても人権に関わるような不適切発言があった場合は報道してもかまわない」というのがあります。しかし、もし、オフレコでの発言でそういう発言があった場合は、記者は「オフレコ」会談に加わった者の責任として、その発言の真意を糺すべきで、そうすれば今回の場合はそれが誤解であることはすぐに判明したはずです。

 でも、それでは折角「不適切」発言を誘発させたのに、それを政治的に利用できなくなる。だから、その時は黙っていて、抜き打ちで新聞の一面にでかでかと載せることでまず世間の空気を誘発し、それによって本人がいくら弁明しても一切無視されるような空気を醸成する。それで一気に、自分たちに有利な政治状況を創出する・・・もしこれがあたっているとすれば、おそろしいことです。

山本七平「自由ということ、自由に考えると言うこと」(この表題は筆者が付けました)

 「先日あるアメリカ人の記者と話し合った。
私(=山本)は、キッシンジャーが、日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し、これは、言論の自由に反することではないか、ときいた。

 これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。

 人間とは自由自在に考える動物である。いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。自分の妻の死を願わなかった男性はいない、などともいわれるし、時には「あの課長ブチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか、考えることもあるであろう。しかし、絶えずこう考えつづけることは、それ自体に何の社会的責任も生じない。

 事実、もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまのことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら、社会は崩壊してしまうであろう。また、ある瞬間の発想、たとえば「あの課長ブチ殺してやりたい」という発想を、何かの方法で頭脳の中から写しとられたら、それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。

 というのはそれは一瞬の妄想であって、次の瞬間、彼自身がそれを否定しているからである。もしこれをとめたらどうなるか、それはもう人間とはいえない存在になってしまう。「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから、以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってよいかもしれぬ。

 いまもし、数人が集まって、自分のこの自由思考(フリー・シンキング)をそれぞれ全く「無責任」に出しあって、それをそのままの状態で会話にしてみようではないか、という場合、簡単にいえば、各自の頭脳を一つにして、そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか、言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり、これが、それを行なう際の基本的な考え方なのである。

 従って、その過程のある一部、たとえば「課長をブチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に、それを記録し、それを証拠に、「あの男は課長をブチ殺そうとしている」と公表されたら、自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。とすると、人間の発想は、限られた個人の自由思考(フリー・シンキング)に限定されてしまう。

 それでは、どんなに自由に思考を進められる人がいても、その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず、そういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。」(『日本はなぜ敗れるのか』P309~310)

 これは、あるアメリカ人記者の話として山本が紹介しているものですが、山本がここで問題にしていることは、日本人は無意識のうちに、ある力(=空気)に拘束されて、自分がほんとに考えていることを「口にしない」のを当然とし、あえて自分の考えは隠して周りの空気に迎合することで、人間関係の摩擦を回避しようとする傾向がある、ということです。

 そのため、自分が信じてもいない建前の考えを口にするようになり、それをみんながやるから、建前だけの「虚構」の世界ができあがり、誰もそれを「虚構」だと指摘できなくなり、ついにはそれが「現実」となって猛威を振るうようになる。しかし、本当の「人間の自由」とは、自分の見たまま、聞いたまま、感じたままに、難の力にも拘束されず、何の力も顧慮せずに自由に発言することである。

 このように、人間の「自由な思考」を守ることこそが実は「報道の自由」を守るということであり、それによってはじめて事実に即した問題解決が可能となるのである。ところが、戦前のマスコミは、軍(時の勝者と目される者)の宣撫班のような役割を担い、戦意高揚のための記事を垂れ流し、それに逆らうものは非国民扱いして、人々の「自由な思考」を圧殺し国を滅ぼした。それと同じことを、戦後も繰り返しているのではないか、というのです。

 このことは、今回の「オフレコ」破りの報道によって、およそ常識では考えられないような田中氏の言葉の解釈が、あたかも事実であるかのように日本のマスコミ界に通用し、田中氏の弁明を圧殺している現実を見るだけでも明らかだと思います。

*下線部挿入12/7

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